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2019年3月

2019年3月31日 (日)

(番外編)待つのはつらい――松を植えない調神社

◆調神社

 埼玉県さいたま市浦和にある調(つきのみや)神社に伝えられている話。昔、出雲の国から月読姫命、素戔嗚命、稲田姫命の三柱の神様が足立にやってきた。調神社に祀られている月読姫命は素戔嗚命と将来はかならず夫婦になろうと約束し合っていた。ところが素戔嗚命は大宮にいる稲田姫命のところに行ったまま帰ってこなかった。月読姫命は「待つほどつらいものはない」といいながら素戔嗚命が迎えにくるのを辛抱強く待っていた。しかし、いくら待っても素戔嗚命は迎えに来なかった。それもそのはず、素戔嗚命は稲田姫命と結ばれていた。そして月読姫命が素戔嗚命を待ちながら「待つ(マツ)ほど、つらいものはない」と言ったことから、それ以来調神社の境内には松の木を植えなくなった。

 日本標準「埼玉の伝説」を参照した。(188P)

調神社・表参道・鳥居が無い
調神社・表参道・鳥居が無い。

調神社・拝殿
調神社・拝殿。

 Wikipediaによると月読姫命が天照大神となったバージョンのものが記載されている。また、姉神が待っているときに境内の松(松葉か)で目をついたからともいう。

 月読姫命は三貴神の一柱である月読命と関係があるのだろうが、月読命の妹か妻、あるいは性別の記載のない月読命自身をそう呼んだものか。大宮の素戔嗚命とは氷川神社のことらしい。

 調神社の祭神は天照大神、豊宇気姫命、素戔嗚命とされているが、江戸時代には月読命も祭神であったと文献にあるとのこと。「つきのみや」から来た連想かも知れない。

調神社・ご由緒

調神社の文化財

 現実の調神社は租庸調の調を置く保管庫の役割を果たしていた。そのため、表参道には鳥居が無い。また、月にちなんで狛犬ではなく狛兎がいることが特徴として挙げられる。狛兎では神社の守り神としては弱弱しいのではないかという気がしないでもないが、実際にその姿を見ると可愛らしいのである。

調神社・狛兎

調神社・狛兎

調神社・狛兎

調神社・狛兎

調神社・狛兎

◆余談

 調神社はJR浦和駅を出て中山道沿いに進むと、約10分程で着く。

◆参考文献

・「埼玉の伝説」(「埼玉の伝説」刊行会, 埼玉県国語教育研究会, 日本標準, 1979)p.188

記事を転載→「広小路

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毎年4月第三日曜日に催される太々神楽

4月21日(日)に東京の品川神社で太々神楽が催されます。14:00から。
毎年4月第三日曜日に催されるそうです。

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2019年3月30日 (土)

介護施設で岩戸上演――佐藤両々「カグラ舞う!」

月刊ヤングキングアワーズ5月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回は老人介護施設で岩戸の上演の回。天照役の神楽のパートは終わりで後半は次回に持ち越しか。

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2019年3月28日 (木)

無事舞い終えると吉

東京は永田町で石見神楽「十羅」を観た。十羅は激しい舞で無事舞い終わると吉である……といった記述を読んだ記憶があるのだが、出典が分からなくなってしまった。益田市立図書館の郷土資料コーナーの蔵書のはずだけど、探しても見当たらなかったことを記憶している。

僕が見た回では彦羽の神登場時に後ろの幕が倒れるというハプニングがあった。なので、今回の舞は吉とはいかないだろう。

くるりと回転する十羅刹女
くるりと回転する十羅刹女

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2019年3月26日 (火)

神楽の常設会場

江津市の道の駅サンピコごうつに併設される舞乃市に神楽専用劇場「石見小屋」が建てられたとのこと。収容人数120人。スケジュールは従来通りだとすると、毎月第1・第3日曜日/毎月第2・第4金曜日の実施だろう。年間入場客数2,900人を見込んでいるとのこと。動画を見たところ、照明が凝っている。常設会場でないと出来ない工夫だろう。

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2019年3月23日 (土)

「益田市社中_東京公演」を鑑賞 201903

国会図書館に行く。その後、永田町のNagatacho GRiD 6F Atticで催された「益田市社中_東京公演」を鑑賞する。

まずイベントを開催したTABICAというサイトを運営するガイアックスという会社と益田市の提携の調印式が行われた。益田市は「ひとづくり」をテーマに挙げている。その後トークセッションに入った。僕の席は益田市長の後ろ。シェアリングエコノミーと観光というテーマだったのだけど、観光でシェアリングというと民泊などが挙げられるだろうか。全日空の研究員さんとオンパク(温泊)の理事の方が登壇する。

TABICAが提供している商材の内容から察するに益田市で小規模の体験型ツアーの企画をということらしい。ホスト役の人にも楽しんでもらう狙いがあるそうだ。ちなみに、全日空の研究員さんによると益田は魚が美味しい(田吾作という店があるらしい)とのこと。インバウンド、一回目は首都東京を訪問するのだけど、二回目以降は行ったことのない地方をという狙いがあるとのこと。

その後、久城社中と久々茂保存会の代表の方と益田市長が登壇して「益田市の着地型観光の鍵“石見神楽”」がテーマのトークセッションに入る。石見神楽はマシな方だと思うが、後継者難について語られる。益田には二十社中あるとのこと。石見地方全体では二百団体。久城社中は既に体験型ツアーの実績があるとのこと。神楽教室があって最後は焼肉パーティで締めたらしい。

それから神楽の実演に入る。演目は「十羅」「塵輪」「大蛇」の三演目。十羅は益田でないと中々見られない演目なので今回鑑賞できてよかった。「十羅」は途中、後ろの幕が倒れるアクシデントがあったけれど、滞りなく続けられた。櫂をこぐ所作は見られなかった。「塵輪」は生で見るのは40年ぶりくらいだろうか。身体を斜めにしてくるりと一回転する独特の高速旋回の所作は無かった。「大蛇」は四頭だて。白がラスボスかと思ったら、最初に退場した。紫がラスボスだった。
「十羅」、十羅刹女、登場
十羅刹女、登場
十羅刹女と彦羽の神
十羅刹女と彦羽の神
十羅刹女と彦羽の神、立ち合い
十羅刹女と彦羽の神、立ち合い
十羅刹女、勝利
十羅刹女、勝利
「塵輪」、仲哀天皇と高麻呂
「塵輪」、仲哀天皇と高麻呂
塵輪、二頭の鬼
塵輪、二頭の鬼
神と鬼の立ち合い
神と鬼の立ち合い
「大蛇」、須佐之男命、登場
「大蛇」、須佐之男命、登場
オロチのフォーメーション
オロチのフォーメーション
オロチ、児童に接近
オロチ、児童に接近
オロチの首を刈る
オロチの首を刈る
ちなみに益田市長は滋賀県出身で結婚を機に益田に移住されたとのこと。
ステージ・囃子方
Panasonic GX7mk2+12-35mmF2.8で撮影。一眼レフのシャッター音は太鼓の音でかき消されるのだけど、基本的にはミラーレスで無音撮影した方が周囲の迷惑にはならないだろう。反省として、石見神楽は動きが速いので速いシャッタースピードで撮った方が良かった。また、秒2コマで連射していたのだが、高速旋回を捉え切れていなかった。撮影枚数が無駄に増えるのもどうかなと思ったけれど、石見神楽だと秒5コマで連射した方が良さそうだ。
益田市で体験型ツアーというと、乙子狭姫の伝説の所縁の地を訪ねる等はできないのだろうか。佐毘売山神社に行く道は細く、駐車場も2~3台くらいしか停めるスペースがないが。天道山のある赤雁の里交流館では体験型農業を実施している。唐音にいって高島を眺めるのもいいだろう。鎌手大浜も亀島も眺めの良い土地である。益田市には独自の魅力的な伝説があること、そして伝説の舞台を訪ねるという楽しみ方があることを知って欲しいのだ。

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2019年3月22日 (金)

GHQの謎――広島と岡山の対応の差

神楽の歴史を見ると、戦後が一つの画期となっている。これは戦争で神楽を舞える人材が奪われたということであり、また逆に戦後日本が復興して高度経済成長したことで農村部から都市部に住民が流出したことや、農業が機械化されて、それまであった民俗が失われたこと等である。
その中で特徴的なのがGHQの存在である。石見神楽では聞いたことがないが、広島では今でも語り草になっているようだ。

戦後、広島ではGHQの思想統制で神楽も統制を受けたという。下記に引用する通りである。
 第二次大戦後、芸北神楽は国家神道につながるものとして、外国の掣肘を受けた歴史がある。神楽を奉納する際には、連合国軍総司令部(GHQ)に許可を求め、台本を検閲にかけなければならなかった。なんとか神楽を続けたいと考えた人々は、検閲局のあった九州・福岡まで上演許可願いを提出に行った。また「神楽」という名称を「舞楽」と改称して許可を得るなど、神楽を続けていくための必死の努力が行われた。「塵輪」という演目は、異国から来た鬼を神が退治するという内容で、彫りの深い面は欧米人をイメージさせる、欧米人を敵と見なして退治しようという思想につながる、また飛行自在の鬼はB29爆撃機を連想させるなどと指摘されることもあったそうである。これらの事情によって、旧舞は改編を余儀なくされ、新作の神楽が生まれた。これが新舞発祥の契機である。
迫俊道「芸北神楽におけるフロー」「フロー理論の展開」243ー244P
という風にかなり厳しい制約を課している。一方で備中神楽に対しては以下の態度である。
 戦後最初に神楽の復興・伝承のために活動したのも、やはり山木であった。山木らは昭和22年に「神楽筋書並詞解説」を編集し、連合軍園芸本部に提出し、神楽執行の許可を願い出たという。これに対し連合軍側は「神楽は神社の社頭で神に奉納すべきもので、一般映画演劇のごとき検閲はいたしません。しかし、その施行にあたっては軍国主義、超国家主義乃至連合軍の占領目的に反するごとき言葉、行動を挿入して問題を発生せぬように格別ご注意下さい」と指示し、神楽の復興を認めたという。
俵木悟「備中神楽の現代史」「千葉大学社会文化科学研究」第3号 104P
広島と岡山で随分な差がついている。この差は何に由来するのだろう。担当者が違ったというところだろうか。

GHQによる思想統制は何も神楽に限った話ではなく、映画や演劇にも及んだ。例えば時代劇の映画を作ることも制約されたし、復讐がテーマの忠臣蔵も上演を禁じられている。

広島では思想統制を受けたことで結果的に芸北神楽の新舞が誕生することになった。新舞は一世を風靡し、定着、現在に至っている。

神楽の思想と言われてみると何であろうか。普通は五穀豊穣を神に感謝する捧げものというところではないだろうか。もっと理論的にみると、鎮魂や御霊鎮めといったところだろうか。上記記事で例に挙げられた塵輪は新羅の国から攻めて来た悪鬼を仲哀天皇が退治するという粗筋のもので、異敵防御というモチーフが見出せる。古代の新羅は航海術が未熟で日本に攻めてくることなどできなかったそうであるが、神楽では攻めてきたことになっている。これは後の元寇が下敷きになっているのかもしれない。また、平安時代の新羅の入寇とも関連するかもしれない。そういう意味ではアメリカも異敵であり、異敵防御のモチーフが目についたのかもしれない。たまたま塵輪が翼のある悪鬼だから、B29を連想させるといった強引な解釈が成り立ったものだろう。言いがかりにしか思えないが、当時の力関係では仕方なかったのだろう。

◆参考文献
・迫俊道「芸北神楽におけるフロー」「フロー理論の展開」(今村浩明, 浅川希洋志/編, 世界思想社, 2003)pp.241-278
・俵木悟「備中神楽の現代史」「千葉大学社会文化科学研究」第3号(千葉大学大学院社会文化科学研究科, 1999)pp.97-119

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2019年3月21日 (木)

案外、近代の産物――ホブズボウム「創られた伝統」

ホブズボウム「創られた伝統」を読み終える。多くの人に読まれてきたと見えて、本が大分痛んでいる。伝統とは案外近代になって創られたものであると発想の転換を迫る本。ホブズボウムの序論は抽象的で難解だった。それ以降の各論は高校で世界史を履修した程度の知識しかない自分にとっても比較的読み易かった。とはいえ、馴染みのない固有名詞も多かった。世界史履修といっても真面目に勉強したのは中国の清朝までで、西欧の近代はさっぱりだったので、あまり役に立っていないのは事実である。

スコットランドのキルトは近代になって創られたもので、それ以前はマント状の衣服をベルトで留めているという簡素な衣装だったらしい。それが現在ではキルトはスコットランドの象徴的衣服となっている。

ウェールズでは一部の人間が偽の独自の歴史をでっちあげ、幅広い支持を得た。文献学の発達によってそれらは偽物と看破されたのであるが。
儀礼も近代になって誕生した国民国家の国民をまとめ上げるための象徴として創られたものが意外と多い。英国だとヴィクトリア女王の時代以前は低調だったとしている。そして過去の儀礼の詳細が容易に分からないとしている。儀礼が儀礼としての荘重さをまとうようになった、そして国民の支持を得るようになったのはヴィクトリア女王の時代に入ってからだとしている。

インドでは大英帝国のインドとして臣民をまとめあげるため、それまでのムガル朝時代の儀礼が排され、新たに創造された儀礼や皇帝の新たな称号が導入されたとしている。

アフリカの部族社会もそうである。元から部族社会であったのではなく、植民地化した西欧人がそう見なしたからそうなったというのである。もっとも、これは訳者による解説がついているので、現在でも通じる議論かどうかは分かりかねる。

スポーツもそうである。十九世紀になって誕生したスポーツの多くは誕生してまもなく世界大会が催されるようになった。国民をまとめ上げる手段としても活用されていたことになる。また、当時は貴族・ブルジョワ階級のアマチュアリズムと労働者階級のプロフェッショナリズム(サッカー等)とが対立していたとのこと。

「創られた伝統」は構築主義の嚆矢となった本である。訳者の解説によるとマルクス主義の影響が多少伺えるとしているが、単純な下部構造決定論を取っている訳ではない。上部構造に当たる儀礼や衣装といった伝統文化が国民をまとめ上げる作用を果たすのであるから。

<追記>
ちなみに、岩竹美加子「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」によると(26P)ホブズボウム「創られた伝統」は構築主義に大きな影響を与えた本だが、その前段としてイギリスのマルクス主義学者ウィリアムスの歴史や伝統の意味を問い直す研究があり、そこから「創られた伝統」等の著作につながったとされる。東西冷戦が終わり、唯物史観は力を失ったと考えていたが、思わぬところで猛威を振るっていた。

◆参考文献
・「創られた伝統」(エリック・ホブズボウム, テレンス・レンジャー/編, 前川啓治, 梶原景昭 他/訳, 紀伊国屋書店, 1992)
・「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996) 26P

<追記>
ChatGPTにホブズボウムについて質問してみる。以下のような回答だった。

>ホブズボウムは、英国王室の儀式が近代になって創られたものであると主張していましたが、これについては諸説あります。一方で、英国王室の儀式は、歴史的に重要な起源を持ち、中世やルネサンス期の王宮文化にも影響を受けています。

>たとえば、英国王室の戴冠式における王冠の使用は、紀元前の古代エジプト文明にまで遡ります。また、戴冠式の儀式や誓いの言葉は、中世ヨーロッパの王宮での儀式から発展したものであるとされています。

>さらに、王室の儀式や所作には、国家的威信や権威を表現するための象徴的意味が込められていることもあります。そのため、英国王室の儀式が近代になって変化したとしても、そこには先行する時代の文化や慣習の影響が残っていることが考えられます。

>総じて、英国王室の儀式や所作には、中世やルネサンス期の王宮文化からの影響があり、それらが近代に継承されていると考えることができます。

……としている。ChatGPTのネタ元はネットに転がっている知識も含まれるだろう。ホブズボウムの言説に懐疑的な見方もあるようだ。

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3/23(土) 益田市社中_東京公演

3月23日(土)に永田町のNagatacho GRiD 6F Atticで開催されます。要予約。2000円。
演目は「十羅」「塵輪」「大蛇」

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2019年3月17日 (日)

江戸里神楽を観る会を鑑賞 2019.03

大井町のきゅりあん小ホールで間宮社中主催の第19回江戸里神楽を観る会に行く。
・八幡山黒尉
・矢天狐の舞(品川神社太太神楽)
・日高見蜘蛛
反閇のような特殊なステップは踏まなかったが、足で地面を踏みしめる所作が多かった。毒蜘蛛はクモを使った演出がある。基本、黙劇であるが、一部口上もあった。

八幡山黒尉・神功皇后
神功皇后
八幡山黒尉・墨之江大神と神功皇后
墨之江大神と神功皇后
八幡山黒尉・産気づいた神功皇后
産気づいた神功皇后

八幡山黒尉は三韓征伐に出陣しようとした神功皇后と武内宿祢とが釣りをして戦況を占う。鮎が釣れる。出陣しようとすると、海の神である墨之江大神が登場する。その後、産気づいた神功皇后は石を腹に当てて出発する……という内容。

矢天狐の舞・天狐
天狐

矢天狐の舞は天狐が五本の矢を放ち、四方と天の邪を祓う内容。

日高見蜘蛛・国常立宮の巫女
国常立宮の巫女
日高見蜘蛛・吉備武彦と神官
吉備武彦と神官
日高見蜘蛛・毒蜘蛛に襲われる日本武尊
毒蜘蛛に襲われる日本武尊
日高見蜘蛛・天狐に救われた日本武尊
天狐に救われた日本武尊
日高見蜘蛛・天狐より神鏡を賜る日本武尊
天狐より神鏡を賜る日本武尊
日高見蜘蛛・毒蜘蛛
毒蜘蛛
日高見蜘蛛・蜘蛛の糸に絡めとられる吉備武彦
蜘蛛の糸に絡めとられる吉備武彦
日高見蜘蛛・日本武尊と日高見蜘蛛
日本武尊と日高見蜘蛛
日高見蜘蛛・蜘蛛の糸で日本武尊を攻める日高見蜘蛛
蜘蛛の糸で日本武尊を攻める日高見蜘蛛
日高見蜘蛛・日高見蜘蛛にトドメを刺す日本武尊
日高見蜘蛛にトドメを刺す日本武尊

日高見蜘蛛、第一場「国常立宮」では日本武尊がお供の吉備武彦とともに国常立宮で武運長久を祈念する。第二場「陸奥の国」では日本武尊が毒蜘蛛の牙にかかり危機一髪となるが国常立尊の化身である野狐が現れ危機を救う。野狐は神鏡を日本武尊に与える。第三場「日高見蜘蛛」では吉備武彦が毒蜘蛛と戦うが気絶してしまう。日本武尊が日高見蜘蛛を退治する……という内容。

日高見蜘蛛はバトルのある内容だったが、ゆったりしたテンポ。石見神楽のように高速旋回の応酬ではなかった。なんでも日高見蜘蛛は昭和10年頃の創作演目だとか。

GX7mk2+35-100mmF2.8で撮影。小型軽量で無音撮影もできるのでホールでの撮影では助かる。一眼レフのシャッター音は目立っていた。

 

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2019年3月14日 (木)

文芸批評色が濃い――高橋雄一郎「身体化される知―パフォーマンス研究」

高橋雄一郎「身体化される知―パフォーマンス研究」を読み終える。アメリカのパフォーマンス理論の本。ただ、パフォーマンス理論といってもパフォーマンス自体の定義が幅広く体系的な学問ではないようで雑食性の強い印象だ。大学で演劇を専攻した著者の専門とも絡むが、パフォーマンス理論について解説した序論を除くと、演劇批評、文芸批評色が濃い。ポストコロニアル社会など現代の世界の状況と呼応していて、力(パワー)のある/ないの関係については敏感だ。そういう意味では反体制的な色が濃く、日本では受け入れられないのかもしれない。

従来、ギリシア古典悲劇やシェークスピアなど正典(カノン)の教授を専らとしてきた大学の演劇学科がやがて演劇という枠組みに収まらなくなってきて、パフォーマンスへと思考領域を広げたというところだろうか。その過程で文化人類学との接触も起きている。

神楽などの伝統芸能に関して知りたかったのだが、当てが外れた。伝統芸能を英訳すると、トラディショナル・パフォーミング・アーツとなるので、まさにパフォーマンス理論の対象なのだけど、下記に引用した程度にしか触れられていなかった。
舞台に範を求めるなら、能や歌舞伎などの古典演劇や、民俗芸能、あるいは祭事の伝承が格好の例となる。これらのジャンルでは、古典的な型を、いかに忠実に引き継ぎ、後代に伝えていくかに、細心の注意が払われる。過去のしきたりを変更する、つまりパフォーマンスに編集を加えることは、一般的にはタブーと考えられている。しかし、古典的な型が、全くそのままの形で伝承されることはない。たとえば劇場構造や照明の革新が演技に変化を持たらす。異端というレッテルを恐れずに、敢えてタブーに挑み、新しい型を生みだそうとするアーティストが出現することもある。さらに、いかなる芸術、芸能、祭事であっても、時代とともに変化する社会と隔絶して、真空状態の中で生き延びることはできない。
「身体化される知―パフォーマンス研究」(高橋雄一郎, せりか書房, 2005)p.46
神楽で例えると、広島の芸北神楽の新舞が上記文章に該当するか。変化することを厭わない。スーパーカグラなるものも生み出して、広島市内の大ホールを埋めた。批判もあるが、現に観客が支持している。ただ、それだと単に現状追認となってしまう点が疑問だ。

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直前になって知る

3月17日日曜日に大井町駅前のきゅりあん小ホールで第19回江戸里神楽を観る会が催されます。
前回、住所を書いたら案内をくれるとのことだったのだけど、来なかった。悪筆で読めなかったか。

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2019年3月12日 (火)

ツイッターでたまたま知る

6月16日日曜日に桜木町の横浜賑わい坐芸能ホールで「第2回かながわのお神楽」が催される。

チケットの予約等、詳しいことは上記サイトへどうぞ。

 

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土着の音?

YouTubeで江津の敬川太鼓を視聴する。石見らしく笛がいるのが特徴か。昭和61年結成とあるので30年以上の歴史があることになる。当初は石見神楽の神祇太鼓を習得したとのこと。なので、神祇太鼓に関しては土着(ヴァナキュラー)な音と言えるだろう。

創作和太鼓は創作とある通り歴史は浅いのだが、地元の囃子を取り入れて創作しているという話も多々あり、そういう意味では半土着の音なのかもしれない。

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2019年3月11日 (月)

NHK「あさイチ」で石見神楽が紹介される

NHK「あさイチ」で石見神楽が実演された。録画したのを見たのだけど、場所は浜田市の三宮神社。石見の夜神楽定期公演が催されている神社である(※温泉津の龍御前神社もそうである)。ということで全国的にも珍しい神社として紹介された。実演された演目は「大蛇(オロチ)」。大蛇が火を噴く。蛇頭の中身が写されて、ニクロム線の配線とスイッチが見える。スイッチを入れるとニクロム線が熱をもって火薬に点火する。

石見神楽面の技術が紹介される。粘土で創られた型に和紙を張り付けて、最後に土の型を壊して面が出来るという流れを紹介。型は一度しか使えないことが分かった(石膏で型をとるのだそうである)。レポーターが実際に面を着けて大蛇の首を獲った……という内容。

浜田の夜神楽定期公演は神社で舞われるイベントで、時間は短いけれど奉納神楽の雰囲気が味わえる。
今日は東日本大震災の日であった。

 

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2019年3月10日 (日)

(番外編)あぜかけ姫――盲僧琵琶の語り物

◆あらすじ

 九州の盲僧の語り物の一つに「あぜかけ姫」がある。錦や綾を織るのが得意なサヨテル姫が結婚して河内の長者の家に入るが、その腕を妬んだ姑が丑の刻参りを行い、その所為で姫は綾を織る四十八手のうち最後の一手を忘れてしまう。姑、小姑、夫から恥ずかしめを受けた姫は出家してしまう……という内容。

◆内容

 駿河の国の長者の末娘サヨテル姫は七夕御前の申し子で、五つの歳から筆をとり始め、六つで法華経を読み通し、七つでおおをうみそろえ、八つでころばたを織った。九つで金襴緞子を織り、十歳で綾も錦も織りそろえ、一切経まで読み通し、十三歳で河内の国のあさむら長者のアサワカ丸と縁を結び、吉日を選んで河内の国から迎えの駕籠が参ったので、サヨテル姫の母親は姫をひと間に招いて、のういかにサヨテルよ、母の教えを忘れるな。そうたい(総体か)女と申すものは一度、縁づきしたならば、死して我が家に帰るとも、生きて再び我が家には帰るなよ。向こう三軒両隣、これを大事に守れ。近い中には垣をせよとの例えあり、堪忍という二字を忘れるな。なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するがまことの武士の妻。よいか承知かサヨテルよ。母の教えを忘れるな。仰せを受けてサヨテルは仏間の中に入られてご先祖様に別れを告げて、母上の前に両手をつかえ、長くお世話になりました。これから河内の国に参ります。さらばでござる母上さま。おさらばでござる、サヨテルと互いに暇をなされては、河内の国の迎えの駕籠に身を乗せて駿河の国を後にして河内の国へと旅だたれ、つつじ椿は野山を照らす。サヨテル姫は籠照らす。夜ごとの道中ははや過ぎて、もはや河内の国に着いた。

 河内の国になったので、高砂や、三々九度の盃もめでたく相済んで月日の経つのは早いもの、ある日のこと、サヨテルは夫アサワカ様に綾で裃を織って差し上げようと五色の糸を取り出し、績(う)んだり継いだりなさった。それを聞いて姑母親は、我が子小菊があぜ(綜:機はたの経糸を上下に分け、緯糸を通す隙間を作る用具。綜絖:広辞苑)のかけ様を知らずに、嫁が知って済むものか、何の咎もないあの嫁に恥を一恥与えようと、木の葉も眠る丑三つどきに二反続きの白木綿を二重にとっては吹き流し、口にはあばら串を咥え、額にはロウソクを照らし、正八幡に願参り。裏門から静かに立ち出で、はや御社になったので、鰐口半鐘打ち鳴らし、南無や申さん正八幡大菩薩さま、この度、私の嫁のサヨテルが四十八手の綾のあぜをかけて綾を織る様子、娘小菊が知らずに嫁が知って済むものか。なに咎なしのあの嫁に恥を一恥与えて給われや、御願成就となれば、御願ほどきに致すには、姿見鏡が七面、真澄の鏡が十三み、金の灯籠が千灯籠。かなたの庭に水池掘らせ、池の中には浦島太郎の舟を浮かし、金魚銀魚も泳がせてにり立て切り立て上げまする。再び御社を後にして我が家を指してたち帰り、素知らぬ振りでいた。哀れと言うも中々に申すばかりではなかった。裏門指して入られる。何食わぬ顔で姑母親はひと間の内に入った。

 話変わってサヨテルは五色の糸を取り出し、績んだり継いだりなさる。早く縦をも継ぎそろえ、しからばあぜ(綜)をかけ始め、一手一場のはじめあぜ、二手は二場の並びあぜ、三手は見事に飾るあぜ、四手は夜深き空のあぜ、五手は出雲の忍ぶあぜ、六手は昔の例えあぜ、七手は難儀のはじめあぜ、八手は屋敷に座るあぜ、九手ここで分別のあぜ、十手と欲の忘れあぜとは申すけれど、四十八手の綾のあぜ、四十七手は掛けたけれど、残る一手をつゆ忘れ、立てば憶える座れば忘れ、サヨテル姫はわっとばかりに泣き出し、しばしのことにサヨテルは国を出るとき母上があれほどまでも厳しき仰せあり、知らないことや忘れたものは姑母さまに尋ねよとの仰せなので、しからば母上さまに尋ねようと泣く泣く綾を抱き上げ、涙は道の友として、姑の一間に急がれた。

 姑の一間になったので、傍らに綾を下ろして、遥か下に両手をつかえ、恥ずかしながら母上さま、私は四十八手の綾のあぜ、四十七手は掛けられるけれど、残る一手をつゆ忘れ、立てば憶える座れば忘れ、掛け替え掛け替えいたしたけれども、決してその甲斐なかったのです。ご存じ遊ばせば教えて給われ母上さまと申し上げれば、母上はのう、いかにサヨテル殿、あなたは四十八手の綾のあぜを知らずして、西や東の財産が取られようか、長者の家が継がれようかと教えはせずに恥ずかしめられ、恥ずかしめられてサヨテルは、我が身は何となるべきかと天に声を上げ地に伏して、しばし涙にくれた。

 漸うのことにサヨテルはしからば小姑さまに尋ねようと泣く泣く綾を抱き上げ、姑の一間を後にして、小姑の一間に急いだ。小姑の一間になったので、綾を下ろしてサヨテルは遥か下に両手をつかえ、恥ずかしながら小菊さま、私は四十八手の綾のあぜ、四十七手は掛けたけれど、残る一手をつゆ忘れ、立てば憶え座れば忘れ、掛け替え掛け替えいたしたけれども、決してその甲斐がなかったのです。姑母上様に尋ねたところ、教えはせずに恥ずかしらめられ、あなたがご存じ遊ばせば、教えてくだされと涙とともに物語れば、小姑小菊さまが申すには、あたしは四月頃ではないけれども、新茶新茶で古茶は知らない。教えはせずに恥ずかしめられ、恥ずかしめられてサヨテルは、我が身は何となるべきかと天に声を上げ地に伏せて、しばし涙にくれた。

 もうこの上はわが夫に尋ねようと、泣く泣く綾を抱き上げ、小姑一間を後にして、涙は道の友として。夫アサワカ様の部屋に参り、持った綾を横に置き、両手をついて頭(こうべ)を下げ、申し上げます、我がつま様。自らは四十八手の綾のあぜ、四十七手は掛けたけれど、残る一手をつゆ忘れ、立てば憶える座れば忘れ、掛け替え掛け替え致せども、決してその甲斐がないだろう。姑母上様に尋ねれば、教えはせずに恥ずかしめられ、小姑様に尋ねれば、小姑様も教えはせずに恥ずかしめられ、もしやあなたがご存じあそばせば、教えて下され我がつま様と申し上げたところ、夫アサワカは腹を立て、そりゃ何と申すサヨテルよ。武芸・剣術・槍なぎなたのことならば夫が教えることもあるけれど、女の身の上で夫にあぜの掛けようを尋ねるとは何事と。持ったあぜ竹を引き抜いて二打ち三打ち打擲なさる。打ち据えられてサヨテルはまたもや我が身は何となるべきと天に声上げ地に伏して、しばし涙に暮れた。

 漸うのことにサヨテルは泣く泣く綾を抱き上げ、涙は道の友として我が身の部屋に立ち帰り、国を出るとき母さまが、そうたい(総体か)女と申するは一度縁づき致すなら、死して我が家に帰るとも、生きて再び我が家には帰るなとの仰せなので、家に帰るに帰られず。この屋におるにおられぬ身となったので、この上は尼となって日本六十余州の神々に札打ち納め、父上さまや母上さまの菩提のため、我が身のために尼となって世を暮らそうと。

 もんじしろおの剃刀を出し四方浄土に髪を剃りこぼす。一剃り剃っては父親のため、二剃り剃っては母親のため、三剃り剃っては我が身のためと四方浄土に髪をとりこぼし、墨の衣に墨の袈裟、持ったあぜ竹を杖につき、我が身の部屋を立ちあがり夫の部屋と急ぐ。

 アサワカ様の部屋に参り、両手をついて頭(こうべ)を下げ、申し上げます我がつま様、自らは長のお暇を給わりますようにと申し上げたところ、夫アサワカ君はそりゃ何と申すサヨテルよ。そなたは予が先ほど当てた杖の腹立ちか、先ほど当てられた杖と申すのは、先ず一番に当てたその杖は母上様に当てた杖だぞ。二番に当てたその杖は妹小菊に当てた杖だぞ。三番に当てたその杖は私とそなたの相の合われぬ杖だぞ。そのことを思い直せと叱った。

 サヨテル姫は物語り、申し上げます我がつま様、この屋の姑母さまと小姑様を物によくよく例えれば、姑母さまは雲の上の雷さま。小姑小菊さまは雲の下の稲妻さま。互いに親子が鳴り光るときは、いかなる嫁も務まらない。長のお暇給われと申し上げればアサワカ君は、そうならばお前の良いように致せとおっしゃったので、これにこの屋の別れかと、涙とともにサヨテルはアサムラ長者を後にして、諸国行脚の旅に出た。

 夫アサワカさまは最早女房もいない身となったので、我もこの屋にいて最早この世に用は無い。そうならば我が身も六十六部となり果てて諸国行脚の旅に出ようと。

 紫檀黒檀唐木を寄せて、辺りほとりの大工を招いて、六尺三寸の笈口(背に負う箱)刻む。中にあるのは弘法大師、両の脇立ちに両親を刻み、最早笈口も成就となったので、白装束に身をやつし、笈口を背負ってアサワカ様も諸国行脚の旅に出られた。

 後に残った姑母親と小菊さまは、神に御願をかけておいて、御願ほどきを致さないため、天より天火が天下り、万の長者の家蔵も、天は霞と焼き払った。跡に残った母親と小姑さまは物乞いとなり果てて姑母親さまが八十八歳まで世にながらえた。小姑小菊さまが八十三まで世にながらえた。善は栄えて末永く、悪は滅びる種とかか、サヨテル姫の物語はこれにて止める次第である。

 サヨテル姫とアサワカが出家した後、二人が道で行き合い、二人は互いにそれと見知るも、尼と行者の身の上ゆえ、二人は言葉を交わさずに行き過ぎる、という後日譚もあるとのこと。

◆語りの生成

 九州なので座頭のテリトリーではなく盲僧のテリトリーだと思われるが、語り物の伝承者達は物語を丸暗記するのではなく、節をつけて憶え、決まり文句、定型句によってそれを想起するとのこと。そのため、語りの内容は一字一句同じという訳ではなく、その日の聴衆の反応によって話を省略したり、引き延ばしたりするとのこと。

◆余談

 この物語が収録されていた「課題としての民俗芸能研究」という本は橋本裕之という気鋭の若手(当時)が主催した第一民俗芸能学会の二年間の活動の成果である。それまで本質主義的立場が有力であった民俗芸能学会に構築主義的な視点を取り入れていった意欲的な活動である。

◆参考文献

・兵藤裕己「語りの場と生成するテクスト―九州の座頭(盲僧)琵琶を中心に―」「課題としての民俗芸能研究」(民俗芸能研究の会/第一民俗芸能学会/編, ひつじ書房, 1993)pp.327-368

記事を転載→「広小路

 

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2019年3月 9日 (土)

民俗学に特化していないが

国会図書館に行く。富士山盛りそばが売り切れなのでダブル盛りそばとおにぎりを食す。今回、フォークロリズム(フォークロアまがい)についてはまあまあ分かったというか神楽とも相性がよいだろう。石見の夜神楽定期公演などまさにその好例である。パフォーマンス理論については概説の論文2本だけでは何ともしがたいが、参考文献欄によると、パフォーマンス理論についての本があるようなので、それを横浜市立図書館で借りてみるべし。

リールという民俗学者は十九世紀にドイツのオーバーアマガウ村で催されたキリストの受難劇(一大観光地化している)を見てこう評している。
一口に言えば、そこには見たいものがすべてある。ただ、原初性や調和や充実だけはかけらもない。率直に言おう。このあいまいなごった煮こそ、食傷気味の観衆にはこの上ない魅力なのである。
河野眞「フォークロリズムの生成風景―概念の原産地への探訪から―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.12-13
観客は、村人の伝承、すなわち(自然)に接することをもとめてやって来ますが、何故<自然>が吸引力になるのかという中味になると、もはやフォークロリズムでは解けないのです。それはまた一般化することができ、それゆえユビキータスなのですが、しかしまたこうした構成部分が必然的である所以やメカニズムの深部にまでは、フォークロリズムは立ち入らないのです。
河野眞「フォークロリズムの生成風景―概念の原産地への探訪から―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.17
自然とはここでは本物、真正の民俗のことだが、本物がなぜ吸引力を持つかより、なぜフォークロアまがいが吸引力を持つかの方が謎である。表面的には利便性で顧客の望むものを提供しているからであるが、本物ではない、まがいものであるということは見抜かれるはずなのである。

また、フォークロリズムの遍在性、ユビキタス性が指摘される。ユビキタスはIT用語としても用いられているが、現代社会に遍くあるといったあり方も注目に値する。

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2019年3月 4日 (月)

嫁を差し出した?

弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明

という記事が目に留まる。鳥取県の青谷上寺地遺跡の話だけど、母系が渡来系ということは、新参者の渡来系が嫁を差し出したという解釈でいいだろうか。

まあ、僕自身、弥生系の特徴(酒に弱い)と縄文系の特徴(耳垢が湿っている)と両方あるから混血しているのは間違いないだろう。

 

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2019年3月 3日 (日)

疎外体験から――太田好信「トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」

「(増補版)トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」(太田好信, 世界思想社, 2010)を読み終える。最初、観光人類学の本と勘違いしていて(第2章が著者の論文をベースとしていて、それを先に読んでいた)、観光人類学は随分と楽観的なんだなと思っていたら、ポストモダン、ポスト植民地主義、ネオ植民地主義といった概念を背景に「文化」を考察する書物だった。

文化人類学は帝国主義、植民地主義の時代に確立した西欧中心の学問だ。そのため、観察する者と観察される者の間に力(パワー)関係が内包されている。文化相対主義にもその力関係が内包されていると批判する。文化人類学の政治性を問い直す本である。

日本の文化人類学は西欧からは離れた周縁に位置するが、戦前は海外に領土を持っていたこともあり、全くの無縁ではない。現在でも沖縄、アイヌといった領域がある。とはいえ、日本が近代化を施した国はうまく近代化を果たしたから、西欧とは事情が若干異なるだろうが。

基本的には構築主義の立場をとっている。一方で、民族誌の成果を先住民族が自らの文化を「真正である」として本質主義的に利用して主権回復運動に使ったりする(戦略的本質主義)といった事象が現れているとのこと。不変の本質はなく、不断に新しい解釈が付与されて再創造されるのだといった構築主義の立場からは戦略的本質主義に対して、それは間違っていると伝えることになり、ジレンマを生じているとのこと。

他、非西欧出身の研究者は出身国のインフォーマント(情報提供者)として期待されていて、理論構築からは疎外されているという現状があるそうだ。

著者はアメリカ留学体験があり、そのときの疎外感が文化人類学を学ぶモチベーションとなっているとのこと。

◆批判

青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243 に太田説に対する批判があったので引用する。

 前節で取り上げた問題のうち、経済学の文化概念については次節で検討することとし、ここでは文化の創出を肯定的に捉えることの問題点について考察する。
 その代表的な論者である太田は、まず文化の真正性をめぐる語りについて、「語りの対象を、創造力が欠如した客体とみなす罪を、その客体が過去の文化を継承するとして評価することにより隠蔽し、原初的な社会行為のイメージに見合わない変化をノイズとして退ける。その結果できあがる民族(俗)誌のなかに残っているのは、サイードがオリエンタリズムの特徴としてあげた知識と権力の癒着以外の何ものでもない」と批判し[太田 一九九八 四六]、「現在必要なのは、対象社会の人々の実践を文化の創造過程としてとらえ、その主体性を否定しない語り口なのである」と主張している[同 六六]
 しかし、現実問題として、地域住民の主体性を観光政策や企業の経営戦略、観光客のまなざしから明確に切り離すことは困難である。太田は主体性の枠組みをどのように設定しているのだろうか。政府からの補助金や企業の資本提供を受けて外部から管理されている事業でも、地域住民が積極的に参加していれば、主体性があると認めるのか。あるいは、観光客の期待に応えようとして田舎らしさを演出している観光地において、その文化を創出している主体は誰か。対象社会の主体性を否定しない語り口は、主体を地域住民として単純化して捉えるために、彼らを取り巻く複雑な社会関係を軽視し、結果的にあらゆる観光開発に対して迎合的な態度をとることになりかねない。その結果、この立場をとる論者は、恣意的な手段により地域住民を周辺の社会関係から切り離さなければ、観光開発に多大な影響を与えている政治や経済を批判することができない。しかし、それは主体性のあり方を歪めることになるので現実的でない。(7-8P)

 文化の創造において当該住民の主体性を積極的に評価するというスタンスは足立重和が言うところの文化構成主義の主体性バージョンということになるのだろう。構成主義(構築主義)の欠点はそれを推し進めると、結果的に現状追認となってしまうことだ。そういう意味ではまだ問題は解決されていないのだと思う。

<追記>
文化の客体化論は、支配する側は植民地支配は歴史的に覆せないのだからとエクスキューズし、一方で支配される側に対しては限定的ながらも主体性を発揮しているのだからとエクスキューズする点で二面性があり、虫のいい理論という気がする。これは支配する側の、一見物分かりの良さそうな論理である。平たく言うと「お前らの努力は認めてやるよ、植民地支配の過去は覆せないけどな」とも読めるのだ。これは白人の論理である。日本人が採用すべきものではないだろう。

◆参考文献

・「(増補版)トランスポジションの思想―文化人類学の再想像―」(太田好信, 世界思想社, 2010)
・太田好信「文化の客体化―観光をとおした文化とアイデンティティの創造」「民族学研究」57-4(日本民族学会, 1993)pp.383-410
・青木隆浩「観光地における文化と自然の有用性―グリーン・ツーリズムを事例に―」「日本民俗学」243(日本民俗学会, 2005)pp.1-32
・足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」(片岡新自/編, 新曜社, 2000)pp.132-154
・足立重和「伝統文化の管理人 郡上おどりの保存をめぐる郷土史家の言説実践」「社会構築主義のスペクトラム―パースペクティブの現在と可能性―」(中河伸俊, 北澤毅, 土井隆義/編, ナカニシヤ出版, 2001)pp.175-195

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2019年3月 1日 (金)

中野七頭舞を視聴する

YouTubeで岩手県の中野七頭舞を視聴する。足を大きく上げるので舞というより踊りなのではないかという気がする。僕が見たのは岩手県の高校の郷土芸能部が舞っているもの。囃子方は笛二名、太鼓二名、鉦一名だった。テンポは速く、石見神楽だと八調子に相当するのではないか。いつの時代からテンポが速くなったのか興味深い。モダナイズされた舞という印象。ちなみに鉦二名にすると響きがよくなる。

従来の伝統芸能がひたすら「見て真似る」という方法論なのに対し、中野七頭舞では「手を何度上げる」といった近代的な練習方法が取り入れられているそうである。

神楽研究者の岩田勝は七頭舞を見て「少女歌劇」と酷評した。確かに舞っているのは女の子たちだった。酷評した理由は定かではないが、テンポの速い舞が石見神楽と重なって、近代化に毒された芸能という風に映ったのかもしれない。

そこでは神楽研究によって権威と化した岩田勝を見ることができる。

◆参考文献

岩田勝「シンポジウム雑感」「民俗芸能研究」18号(民俗芸能学会編集委員会/編, 1993)pp.76-78

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「築地魚河岸三代目」とどんちっちアジ

もう連載の終わった作品だが「築地魚河岸三代目」(はしもとみつお/画、九和かずと/作)という漫画の42巻(最終巻)を読んでいたら、浜田のどんちっちアジが取り上げられていた。脂ののったアジを干物にして築地で売って浜田を支援するべし、みたいな話。どんちっちアジのブランド化は主に値崩れを防ぐためとのこと。島根はカレイの干物のシェアが全国一とか。

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雑誌の末尾に移動――佐藤両々「カグラ舞う!」

ヤンギキングアワーズ最新号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」を読む。岩戸を舞い終えて、その後クラスにて……という回。今回、雑誌の末尾に掲載されている。これが人気順なのかどうか分からないが(アンケート用のハガキは無い)、気になるポジションではある。

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