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2019年2月28日 (木)

so what?  「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」(岩竹美加子/訳)

「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996)を読み終える。翻訳ものとしてはこなれた文章だった。複数の著者の手になる論文集で、明言はされていないが、構築主義的なスタンスで一貫していた。なお、ホブズボウム「創られた伝統」以前にイギリスのマルクス主義学者ウィリアムスの歴史や伝統の意味を問い直す研究があり、そこから「創られた伝統」等の著作につながったとしている。構築主義はマルクス主義系でもあるというところだろうか。現在においては効力を失っていると思っていたのだが、意外なところで猛威を振るっていた。
 伝統というイデオロギーが持つ矛盾の一つは、文化を保存しようとする試みが、必然的にその固定されようとしている伝統を変容させ、構成し直し、作り変えてしまうことである。伝統は、本物でもないし、偽物でもない。というのは、もし、本物の伝統というものが、基層にある過去の不変の遺産を指すのであるなら、すべての本物の伝統は偽物だからである。
 しかし、我々が論じてきたように、もし伝統は常に現在において定義されるのであるなら、すべての偽物の伝統は本物である。本物と偽物という言葉は、意味のない世界から客観的な現実を区別するために用いられてきたが、それを社会現象にあてはめようとすることは不適当である。社会現象は、決して我々がそれを解釈する行為と切り離されては存在しないからである。
リチャード・ハンドラー, ジョスリン・リネキン「本物の伝統、偽物の伝統」「民俗学の政治性―アメリカ民俗学100年目の省察から ニュー・フォークロア双書27」(岩竹美加子/訳, 未来社, 1996)p.152
イデオロギーとするところがマルクス主義的だ。しかし、それはともかく民俗に本物も偽物もない。そこまで言い切ると、それは違うんじゃないかという気もしないでもない。本物も偽物も無いというなら、それは民俗学や文化人類学が単に現状を追認するだけの学問に成り下がるのではないかという気がする。価値相対主義の悪い面が出ている。

元々読んだ動機はアメリカ民俗学のパフォーマンス理論について触れられているとのことだったので興味を覚えたのだけど、概要は分かっても、それをどう具体的に適用していけばよいのか分からない、というのが現状だ。例えば、昔話を語るのは第二の型のパフォーマンス、神楽は第三の型のパフォーマンスというところまでは分かるのだけど(第一の型がよく分からないけど民俗一般を指すのか)、そこから何をどう読み取っていけばよいのか見えてこないのだ。

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