舞いたいから舞う――文化構成主義の主体性バージョンについて
足立重和「伝統文化の管理人 郡上おどりの保存をめぐる郷土史家の言説実践」「社会構築主義のスペクトラム―パースペクティブの現在と可能性―」(中河伸俊, 北澤毅, 土井隆義/編, ナカニシヤ出版, 2001)と足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」(片岡新自/編, 新曜社, 2000)を読む。
全国各地で地域おこしを図るのに際して、その地域「独自の」伝統文化に注目が集まっている。他地域との差別化を図るためである。一方で、そういった伝統文化を扱う研究者たちの間では近年、文化構成主義(構築主義)が流行っている。
文化構成主義は伝統文化が超時代的に脈々と受け継がれた「真正な実体」ではなく、実はその時々の政治的経済的な文脈において再構成・再創造されたものと見る観点を提供している。これはその伝統文化に「真正な実体」を見い出している地元の人々にとって実は「虚構」であると皮肉る観点でもある。
そのため、その「虚構」であるという視点を緩和する意味で、その伝統文化の再構成・再創造に地元の人々の「主体性」「創造性」を見い出すことが提唱されている。これを論文では文化構成主義の主体性バージョンと呼んでいる。
しかし、その「伝統文化の独自性」とは実は観光という現代的文脈の中で意識的につくられた「虚構」に過ぎない。しかしながら地元の人々は「伝統文化の独自性」に自らのアイデンティティを求める。その伝統文化が昔のままで保存されていると考えるのだ。
ならば、ある伝統文化に対し人々が「独自性」を付与することによって、その文化は独自なものに「なる」という安定的なモデルが考えられる。しかし、その「伝統文化の独自性」は一回きりの構成過程で安定するものではなく、常に説明が求められる不安定なものではないだろうか……というのが著者の問いかけである。
疑問は近年各地で盛んで地域おこしにも期待されている創作和太鼓にも及ぶ。どこがヴァナキュラーな(土着の)音なのだと。
この後、岐阜県郡上八幡の郡上おどりの歴史を郷土史家へのインタビューを通じ、果たして郡上おどりはその謳い文句同様400年の歴史があるのかと検証していく。実は時代が古くなるにつれて踊りの根拠が曖昧になっていく。そこで、源流となる「ばしょ踊り」「かけ踊り」に共通性を持つ「本質」を見い出す。そして「本質」を見い出したそこに「独自性」を認めるのだ。しかし、その「本質」と「独自性」の間で概念の混乱が起きていないか……というのがこの二つの論文の主な論点である。
文芸評論家の柄谷行人風に表現すれば転倒が起こっているとも言える。
論文は学者側の一方的な視点ではあるが、正直、郷土史家の側に分からないものは分からないと認められない問題があるのがこの論文の結末と思われる。郡上おどりは国指定重要無形民俗文化財に登録されている。一度「400周年」を標榜してしまったら容易に撤回できない事情もあるだろう。
データベースで例えるとデータを一意に識別するためにキー項目が設けられる。キー項目は単数の場合もあれば複数の場合もある。郡上おどりの場合、ばしょ踊りとかけ踊りの互いの要素にキー項目を見い出す訳である。それらのキー項目は郡上おどりにも引き継がれていると。それでは郡上おどりを一意に識別するためにはもう一つ別のキー項目が必要となる。しかし、地元の郷土史家はこの鍵となるキー項目の発生について歴史上裏付けとなる資料を何一つ示していないことになる。ただ、キーとなる項目が400年前にあっただろうと推測するのみである。
その地域の「独自性」というが、それは他所の伝統文化と比べて本当に独自性があるのか、むしろ近年に観光的要請によって創造された「虚構」ではないか……というところに話は集約する。創作和太鼓に関してはよく馴染む議論でもある。文化構成主義(構築主義)が極端に振れるととこういう結論になる……という見本である。
(9)本章でいう「実践的推論」とは、ものごとを<今・ここ>において理解可能・報告可能にする人々(素人であれ専門家であれ)の説明のしかた・実践のことである。本章の事例に引きつけるならば、「郡上おどり」を見たり・聞いたりするや否や、即「この文化は昔のまま保存されている」と人々が理解・報告できるのは、「保存」というリアリティを維持しようとする<今・ここ>での関心(=実践的)にもとづいたなんらかの説明(=推論)がはたらいているからであり、むしろ、この説明実践こそが「保存」というリアリティを所与で・自然なものとして人々にうけとらせているのだ。このような問題関心は、Pollner, M., Mundane Reason, Cambridge University Press, 1987や山田富秋・好井裕明編「エスノメソドロジーの想像力」せりか書房、一九九八年、の関心と軌を一にする。
足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」152-153P
そのように考えると、文化構成主義者が「伝統の再創造」論を唱えるためには、「唯一の歴史」という時間軸を用いながら、複数の文化形態を比較・整序可能にさせる「なんらかの同一の“質”がある」という通俗的な実践的推論を暗黙のうちに引き受けなければならない。にもかかわらず、彼らは、自らの議論のなかにはたらく通俗的な推論に気づかぬまま、「つくられた」とか「変化した」部分を強調したにすぎない。
足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」150-151P
著者は本業が環境社会学者であり、民俗芸能も手掛けるといった副次的なポジションである。なのでか民俗芸能学会には所属していないようだ。そのため、この問いかけに当たるアンサーは示されていないと思われる。
言ってしまえば、全てが観光上の要請から来た虚構とは限らないのである。舞いたいから舞う。踊りたいから踊るのである。札幌のYOSAKOIソーランの様な人集めの企画から始まった事例もあるが、それは極端な事例であって、通称おまつり法案のように元々ある郷土芸能を観光資源として活用するという流れなのだ。一部の不幸な事例を以て『「伝統文化の独自性」とは、実は観光という現代的文脈のなかで意識的につくられた「虚構」である』(「伝統文化の管理人」178P)とする点で転倒を起こしていると考えられる。
例えば僕の身近な事例であると石見神楽が適当な題材である。石見神楽は言ってしまえば、大元神楽の亜流とも考えられるけれど、その後の変遷で八調子石見神楽として別物となっている。それはともかく神楽の共演大会が開かれたとして、それは神社に奉納する本来の文脈から離れているから見世物、ショーだという批判があるが、観光に資するようになったのは後の時代になってのことなのである(競演大会は戦後。共演大会は不明)。ただ、それらの大会では儀式舞軽視で能舞偏重となっているのは事実である。
石見神楽は明治時代に入り神職が神楽を舞うことを禁止されたため、担い手が氏子に移り、また国学者による詞章改定や八調子神楽の導入といった歴史がはっきりとしている。つまり現在我々が見るテンポの速い八調子石見神楽は近代の産物なのだ。石見人が時代に応じて主体的に再構成した神楽であると言える。また、江戸時代には既に神道流の詞章の改定が行われていたと思われる(その詞章改定前の口上台本が残されていないため、それ以上遡及することが困難である)。
テンポのゆったりとした六調子石見神楽には膝をつく所作があるらしいが、八調子石見神楽ではそれは失われている。逆に言えばそれ以外では概ね受け継がれているとも考えられるだろう。一方で、現代では観客の受けがよかった所作を他所の社中が真似するといったことも起きている。塵輪(ジンリン)の高速旋回は多分その事例だろう。六調子石見神楽や大元神楽と比較すれば、井野神楽社中や有福神楽社中などの一部の社中を除いて「この文化は昔のまま保存されている」か否か(多分否だが)推論は働くであろう。別に昔のままの所作だから人気がある訳でもないのである。
その意味では、共時的に存在する大元神楽、六調子石見神楽、八調子石見神楽を順に歴史の一線上に通時的に並べて変化の系譜を並べることは可能であろう。その意味では「実践的推論」は働く。これは共通性のある「本質」を見つけてそこから「独自性」を見い出す転倒した推論ではなく、分からないものは分からないとしても可能な推論である。全てが「あいまいさ」の中に実践的推論を働かせている訳ではないのである。
石見地方の沿岸部を中心に広がった八調子石見神楽は「ショーだ」という批判もありながら、人々に受け入れられている。見たいから見ているのである。秋は神楽シーズンでもあり、地元の安定したアイデンティティであるとも言えるだろう。神楽の場に赤ん坊を連れてくる人も珍しくない。幼い頃から馴らしているのである。例えば高校の総文(郷土芸能部門)で優勝を果たすといった全国的な実績もある。そういう意味では文化構成主義の主体性バージョンのよい見本となっている。ここでは文化構成主義の主体性バージョンに忠実に描いたが、その独自性に疑問符がつくということも無い。
それに、別に観光的な要請といった「虚構」ではないのである。そもそもの始まりは、氏子たちは舞いたいから舞ったのだ。浜田藩の時代に氏子が舞うのを禁止した事例がある。つまり、江戸時代末期には氏子が実際に見様見真似で舞っていた事例もある。石見神楽に関する主なサイトを閲覧すれば、明治以降の近代的産物という歴史は記載されている。
その後も変化が訪れている。二十世紀初頭に開発された蛇胴は演目「大蛇(オロチ)」の舞を一変させた。それは従来からある舞を破壊したものであるが、神楽における創造的破壊と言える。そして1970年に大阪万博で八頭だての大蛇で演じられた「大蛇」は「オロチに喰われた」と他所の郷土芸能の伝承者たちが述懐する程のインパクトを残した。万博以降の「大蛇」は観光に資する様に性格を変えた。次第に大蛇の数が増えてスペクタクル化した。そして「大蛇」は観光神楽で主要な演目へと地位を向上させた。共演大会ではトリの演目として舞われている。
学問上は石見神楽に分類されるが芸北神楽も事例の一つとして挙げられるだろう。新舞と呼ばれる創作神楽は戦後、GHQの思想統制を免れるために生み出されたものであるが、それが一世を風靡、定着して七十年以上が経過している。ただ、鬼退治、バトルに偏重して神祇と関係のない題材となってしまった。そういう意味では、江戸時代以降に演劇化された神楽としても神話劇という要素から離れてしまったと言える。
また、芸北神楽は同じ安芸地方の十二神祇神楽と競合している。少なくとも江戸時代にまで遡る安芸十二神祇だが、演劇化されていないため勢力争いで芸北神楽に押されているのだ。古い昔のままの芸能の方が学術的価値が高いからといって必ずしも観客に受けるとは限らない事例である。
ここで見出さなければならないものはなんだろうか。それが分かれば苦労しない。子供の頃から「石見神楽はショーである」という批判を耳にしつつ漠然と考えていたが、神楽について(書物だけだが)学びはじめて約3年でようやく核心に至ったという印象である。文化の真正な実体(不変の本質)という観念はプラトンのイデア論にも通じるだろう。また、古くは実在論と唯名論まで遡ることになる。まともに取り組めば、そういった哲学方面の知識も必要となってくる。それは手に余るが、核心部分に辿り着いたと思ったら、そこから無限に広がっている。回り道しつつ気長に取り組んでいきたい。
<追記>
岩本通弥「フォークロリズムと文化ナショナリズム―現代日本の文化政策と連続性の希求―」「日本民俗学」236で足立論文への言及があった。
観光人類学や文化の客体化論以降、近年、民俗学でも観光化の問題が盛んに論じられるようになった。受け入れざるを得ない観光化に対し、外部との相互作用の中で創られた伝統文化を巧みに操りながら、現地の人々が主体性を獲得したり、あるいは観光文化と日常生活を使い分ける実践などが論及されたが、足立重和は構築主義の立場から、その「主体性」や「創造過程」を見出す議論が、従前の文化本質主義を代替する、予定調和的で現状肯定的な文化構成主義であると批判した[足立 二〇〇一]。
岩本通弥「フォークロリズムと文化ナショナリズム―現代日本の文化政策と連続性の希求―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.182
住民は一枚岩ではない。特にフォークロリズムは関係見通しを放棄させ、地域内部の対立や緊張を隠蔽する機能を発するが[バウジンガー 二〇〇一 八三~八六]、主体性論は住民の複数性に対して有効でないばかりか、観光化を推進する一部住民の主張を補完し、権威づけ、嫌がる住民に対して集団的圧力の強制力を生じさせかねない。地域内部に対しても誰が活用する主体なのか、金銭の流れも含めて見極めていく必要がある。
岩本通弥「フォークロリズムと文化ナショナリズム―現代日本の文化政策と連続性の希求―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.183
文化構成主義の主体性バージョンに対する批判である。
◆参考文献
・足立重和「伝統文化の説明―郡上おどりの保存をめぐって」「歴史的環境の社会学 シリーズ環境社会学3」(片岡新自/編, 新曜社, 2000)pp.132-154
・足立重和「伝統文化の管理人 郡上おどりの保存をめぐる郷土史家の言説実践」「社会構築主義のスペクトラム―パースペクティブの現在と可能性―」(中河伸俊, 北澤毅, 土井隆義/編, ナカニシヤ出版, 2001)pp.175-195
・八木康幸「郷土芸能としての和太鼓」「たいころじい」15号(十月社, 1997)pp.17-25
・俵木悟『八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽「大蛇」の大阪万博出演とその影響―』「石見神楽の創造性に関する研究」(島根県古代文化センター, 2013)
・川村清志『民俗文化の「保存」と「活用」の動態 祭りを民俗芸能を事例として』「国立歴史民俗博物館研究報告」193号(国立歴史民俗博物館/編, 2015)pp.113-151
・太田好信「文化の客体化―観光をとおした文化とアイデンティティの創造」「民族学研究」57-4(日本民族学会, 1993)pp.383-410
・岩本通弥「フォークロリズムと文化ナショナリズム―現代日本の文化政策と連続性の希求―」「日本民俗学」236(日本民俗学会, 2003)pp.172-188
| 固定リンク
「神楽」カテゴリの記事
- 追記するべきか(2023.09.08)
- 神社でやるから良かったのに――浜田の石見の夜神楽定期公演(2023.09.05)
- 約一年触ってなかった(2023.09.04)
- 第12回高校生の神楽甲子園 一日目 演目に異変が ver2.0(2023.07.26)
- 第12回高校生の神楽甲子園 二日目(2023.07.23)
「本質主義/構築主義」カテゴリの記事
- 地元民が読んだらどう感じるか――足立重和「郡上八幡 伝統を生きる 地域社会の語りとリアリティ」(2020.10.24)
- 平易な入門書――ケネス・J・ガーゲン「あなたへの社会構成主義」(2020.10.19)
- 紙数が足りない――足立重和、他「構築主義の可能性」(2020.10.15)
- ステージ上の芸能――橋本裕之「舞台の上の文化 まつり・民俗芸能・博物館」(2020.10.06)
- 当時は気づかずにスルーしていた(2020.08.29)