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2019年1月 3日 (木)

日本標準「広島の伝説」を読む

日本標準「広島の伝説」を読む。夏の帰省中に浜田市立中央図書館で読んだものだけど、今まで記事にするのを忘れていた。

「塞(さい)の峠(たお)のお地蔵さま」(竹原市)という話がある。高崎村の人が村のお守りとしてお祭りしたものだが、不思議なことに、そのお地蔵さまは、いつも下市村の方を向いてしまうというお話。

「お剣さん」(福山市)は今津の浜辺に漂着した新羅の王と王子とおつきの者三人を長者がもてなす。やがて王が死んだが、夢枕に自分は昔、スサノオノミコトだったが出雲でヤマタノオロチを退治した報いで新羅の国の王として生まれ変わることになったと言った。そして自分が日頃大事にしていた剣を祭ってもらいたいと言った。年月が経ち、王子もおつきの者も亡くなってしまったが、ある日、剣の形をした珍しい石が沖の小島で見つかった。それで王と王子の言葉を思い出した長者は沖の小島に剣大明神、王子祠、武祠の三つを建てて祭ったという。

「三国一の花嫁」(広島市)は戦国時代、高松城の城主である熊谷信直の下の娘は疱瘡を煩いあばた顔となっていたが、心根は優しかった。郡山城に毛利元就の次男である吉川元春がいた。元就が誰か嫁にとりたい娘があれば言ってみよと言ったとき、元春は熊谷信直の下の姫をもらいたい。心映えは美しいので姫の心をもらいたいと答えたという。

「いつきしま姫」(安芸郡倉橋町)は昔、いつきしま姫の命とい美しい姫が自分の住む所を求めて瀬戸内の景色の良さそうな所を探していた。船に二歳になる子を乗せ、おつきの者を従えて今の長谷の沖にやってきた。姫の一行は今のはた小島に船をつけた。景色が大変よいので、ここにお宮を建てて住むことにしようと言って船を下りたところ、水が濁っていてとても住めそうになかった。姫は西方さいしょう国の第三王女に生まれた。美しく、噂を聞いた天竺とうしょう国のせんさい王がいやがる姫を騙して自分の国に連れて帰ってしまった。ところが、王は姫に夢中で、他の后たちが憎むようになった。そして姫が病気だと偽って、ぎまん国から薬をとって来るように口裏を合わせた。王が何年もかかって薬を手に入れ、戻ってきたときには姫は殺されていた。そして姫の骨を拾って、かびら国のふろう上人に頼んで姫を生き返らせた。ところが王は心変わりして姫を遠ざけるようになってしまった。姫はとうしょ国を逃げ出した。それからというもの、心安らかにひっそり暮らせる土地はないかと探し求めた。それで瀬戸内の長谷までやって来たのである。そして、いつきしま姫が二歳になる子供を連れてあちこちさまよったことから、宮島さんのお祭りに二歳になる子供を連れてお参りすると迷子になるという言い伝えとなった。いつきしま姫は今の厳島神社に祭られている。

「岩屋権現」(福山市)はスサノオノミコトがヤマタノオロチから奪った霊剣を洞窟にまつったという。この中には弘法大師が修行をした衣掛け岩がある。

「犬塚大明神」(芦品郡新市町)では昔、毎年のように娘をさらう化け物がいた。ある夜、たくさんのタヌキが「出雲の権吾呂太夫(ごんごろだゆう)に知られないようにと言っているのを坂田金時が聞き、化け物の正体がタヌキだと分かり、権の守(ごんのかみ)という二匹の犬を使って退治したが、犬も死んだので、犬塚大明神としてまつった。

「満米上人(まんべいしょうにん)」(三原市)鉢が峰に一人の上人がいた。えんま大王からもらった米鉢を持っていた。米が無くなると、鉢が空を飛び、米を一杯にして帰ってくる。それで満米上人と呼ばれるようになった。

「清盛の瀬戸切り」(呉市)平清盛は市杵島姫が好きになってしまった。姫に気に入られようと音戸の瀬戸を一日で開いてしまうと約束してしまった。工事が始まってあとちょっとで出来上がるというときに日が西の山に沈みかけた。清盛は日の丸の扇で太陽を呼び戻して遂に一日で工事を終わらせることができた。「ちきり池」市杵島姫は九州から小瀬川にそって坂道を登ってきた。機織りの道具と二つの子を背負っていたため、とても苦しく、機織り道具のちきりを池に投げ捨てた。それからちきり池と呼ばれ、池が埋め立てられた後にはちきり池神社が建てられた。

「牛鬼」(佐伯郡大野町)四十八坂は大竹町につながる道で、夜中に通ると大きな石が転げ落ちる。この石を動かすのが牛鬼で、厳島合戦に負けた武将の魂が無念のあまり牛鬼にかわったと言う。

白米城の伝説は無いが、「可児才蔵のみそ合戦」(広島市)では、福島正則の家来に可児才蔵というやりの名人がいたが、洪水で城の囲いを流されてしまう。修理したが、幕府に無届けだったという理由で正則は安芸を追われることとなった。城の明け渡しの日、才蔵ほか約六十人の武士たちは広島城から少し離れた矢賀の小さな城に立てこもる。新しい城主が来て攻めに来た。一日で攻め落とせとの命で、数百人の兵たちが矢賀の城を取り囲む。ところが可児才蔵が、煮えたぎっている味噌汁を上から掛けた。兵も馬も酷い火傷を負って逃げ帰った。味噌汁は普通の湯と比べて冷えるのが遅いからである。新しい城主はそれで兵糧攻めにした。困った才蔵たちは相談して、山の中程にある地蔵に笹の葉っぱに味噌や米を備えて祈ると、どんな願い事も聞き届けられると村中に言いふらすことにした。噂が噂を読んで国中に知られることとなった。こうして可児才蔵は始めは味噌汁、後は地蔵さまで槍を使わずに勝った。その後、可児才蔵がどうなったのかは分からない。
◆参考文献
・「広島の伝説」(広島県小学校図書館協議会, 日本標準, 1978)

 

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