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2019年1月

2019年1月31日 (木)

岩戸を舞い終える――佐藤両々「カグラ舞う!」

ヤングキングアワーズ3月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回で岩戸(練習)を舞い終える。Youtubeで石見神楽の岩戸と芸北神楽の岩戸を見比べてみたが、ルーツは同じでも結構違うのである。芸北神楽では鈿女命がイナバウアーというかのけ反ったりする所作があるが、石見神楽にはない。案外、イナバウアーが元ネタだったりして。芸北神楽では天照大神が幕をちらっと開けて顔を見せたりもする。

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2019年1月26日 (土)

定義が今一つピンとこない――フォークロリズムとフェイクロアについて

国会図書館に行く。今日は富士山盛り蕎麦でなくネギトロ丼を食す。いつもは閲覧請求をして約30分かかるので、その間に食事を済ませるのだけど、今回、カートに入れたまま請求をし忘れていて、30分余計に時間がかかった。今回も無意味にトイレが近くて困る。

フォークロリズムとフェイクロアというキーワードに惹かれて日本民俗学236号を読んでみるが、肝心のフォークロリズムの定義がよく分からず(フォークロアの商品化?違う)、想像していたのとは違って面白くなかった。

八木康幸「フェイクロアとフォークロリズムについての覚え書き―アメリカ民俗学における議論を中心にして―」「日本民俗学」236号(日本民俗学会, 2003)pp.20-48 を読んだのだが、フォークロリズムとフェイクロアに関する定義づけが曖昧で具体例を欠き、初学者には理解不能なものであった。これはフォークロリズムの知識のある人向けにまとめられたものと言えそうだ。

門田岳久『ドイツ民俗学の転機とフォークロリスムス―バウジンガー著「科学技術世界のなかの民俗文化」を読んで―』「日本民俗学」232号(日本民俗学会, 2002)pp.139-145 に比較的分かりやすい解説が載っていた。

論文ではドイツのフォークロリスムスを疑似民俗文化、アメリカ民俗学のフェイクロアを商業主義的民俗文化と要約している。

直訳すると、フォークロリスムス(フォークロリズム)とは「フォークロアみたいなもの」であった。

民俗芸能が本来の文脈(例えば神楽で言えば奉納神楽)を離れたところでイベント化され転用、再生される過程(神楽で言えばステージで舞う観光神楽)を言うようである。また、消滅していた民俗文化が復活させられたりするといった事例も挙げられている。いずれも本来の意味とは別の新しい第二義的な意味が付与されるのである。

フォークロリズムを端的に指す言葉として、セカンドハンドという言葉が挙げられる。セカンドハンドとはセコハン、直訳すると中古だ。

そういう意味では例えば石見神楽・芸北神楽の共演大会、競演大会やイベントでの上演といった上演形態が奉納神楽という本来の文脈から離れたところでのそれ(ステージでの上演)となること等が事例として挙げられるだろう。

フォークロリスムスは「純粋な民俗学」と「応用民俗学」との二項対立となったが、その後、構築主義的観点から「純粋な」「真正の」といった見方には修正が加えられていると思われる。
対して、フェイクロアでは「本物」と「まがいもの」という二項対立の構図が鮮明となる。フォークロア風の創作物などを指すようである。

フォークロリズムは観光とも絡んで論じられるようになっている。しかし、純粋なものほど価値が高いなら、なぜ人々はより価値の低いフォークロリズム(セカンドハンド)に惹かれるのか。観光の持つ利便性からか。顧客の望むものを提供しているからか。それは観光学の答えだろう。民俗学の答えではない。それにしても客だって価値の高低くらいは見抜くだろう。

言ってしまえば、学術的価値と集客力の間に関係はないという単純なことかもしれない。でも、それがなぜなのか上手く説明できないのだ。ノスタルジーが満たされさえすれば本物もまがいものも関係ないのかもしれない。

例えば神楽におけるフォークロリズム、ステージ上で舞われる神楽であるが、これはお祭りの当日しか見ることのできない神楽をいつでも鑑賞できるようにする点で神楽の敷居を下げ、裾野の拡大を図れるといった効能があると考えられる。

橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」という観光人類学の本では観光を「異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして売買すること」と定義する。そして「一時的な楽しみ」を「本来の文脈から切り離され、集められて、新たな『観光文化』を形成するもの」と定義する。観光を巡礼から切り離して狭い範囲で定義したものだが、これによると、よく知られていさえすれば本物か偽物かは問われないことになる。
なお、河野眞「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方―フォークロリズムの理解のために(1)―」「文明21」19号(愛知大学国際コミュニケーション学会/編, 2007)pp.37-53 で河野氏はフォークロリズムは価値判断の術語でないと弁明している。

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2019年1月17日 (木)

山陰道はいつ全線つながるのか

「細切れ開通」山陰道はいつ全線つながるのか

11月の記事であるが、最近読んだ。西日本豪雨で中国道、山陽道、国道2号線が寸断され、国道9号線と山陰道が大渋滞を引き起こしたとのこと。山陰道は総延長380kmあるが、45%しか供用されておらず、その供用区間も細切れであるとの指摘。まあ、米子~出雲間を除くと各市のバイパス道+αみたいなのが現状ではある。

山陽道と中国道が同時に通行止めとなったのは政府の誤算だろう。日本海側の道路網が見直されたのは東日本大震災からだろう。いざというときのバックアップ機能が山陰には欠けていることになる。

記事では山陰道全通後は(いつになるか全く不明だが、島根県内は江津の現道活用区間以外は事業化されているので10年以内くらいだろうか)高速バスがJRの特急と競合するようになるとの予測も述べている。また都市部とつながることでのストロー現象も指摘されている。

安倍首相が山陰地方の道路事情はミッシング・リンクであると言ったとのことで、もう少し重点的に整備されればいいのだが。

なお、宍道湖・中海圏に関しては西は松江道、東は米子道という二本立てで山陽の都市部へのアクセスが格段によくなっている。島根県でいうと細切れなのは石見地方である。確かに全通してくれると出雲・松江方面に行きやすくなるので早めにお願いしたいところである。

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2019年1月14日 (月)

おまつり法と本質主義――保存と活用の間で

「地域伝統芸能等を活用した行事の実施による観光及び特定地域商工業の振興に関する法律」通称「おまつり法」という法律がある。施行は平成四年のことなので、制定から大分経ったことになる。

現在、島根県西部の各市町では毎週末に夜神楽の定期公演が催されている。神楽シーズンだけでなく一年を通じて神楽が短い時間ながら鑑賞できる背景には、このおまつり法があると思われるが、このおまつり法、制定当時は民俗学者たちの猛反対を受けたのである。

『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』「民俗芸能研究」17(民俗芸能学会編集委員会/編, 民俗芸能学会, 1993)という論文がある。通称おまつり法案に関して民俗学者たちが集って意見交換したものである。

法律ができた目的が列挙されていて
・国民及び外国人観光客の観光の魅力の増進に資する
・特定地域商工業の活性化に資する
・個性豊かな地域社会の実現
・国際相互理解の増進に寄与する
とある。運輸省、通産省、農水省、自治省、文部省・文化庁の五省が関与してこの法律が制定されたとのこと。

文化財保護法が文化財の「保護」に重点を置いたものであるのに対し、お祭り法案では地域の民俗芸能の「活用」を狙ったものである。

要するに民俗芸能の観光資源化を眼目としているのだけど、民俗学者たちが問題にしたのは、おまつり法の対象が当の芸能の演者・伝承者たちではなく、観光業者とそれにまつわる商工業者たちであるということである。

観光を目的とした民俗芸能のイベント化、そしてそれをプロデュースするサイド(観光業者、商工業者、旅行業者)とそれを実際に演じる演者という風に分かれてしまうのである。

シンポジウムでは司会者の他に数名のパネラーがいるのだけれども、最も反対したのが民俗音楽学者である小島美子である。ただ、シンポジウム開催時は既に法案が可決・施行された後だったので、それ自体はやむを得ないとしている。

小島はシンポジウム以前に「民俗芸能が観光の材料にされる!!」「芸能」34(3)397(芸能学会/編, 1992) という時評でおまつり法案に反対の意見を表明している。
 ところがこの法律によると、民俗芸能は観光の材料として観光客のために演じられる。おそらく出演料が出されて、民俗芸能は収入のために演じられるようになる。その結果として、民俗芸能としては、たとえば信仰上どんなに必要なものでも、観光客にとってつまらないものは除外されるなど、演出法はどんどん変えられるだろう。民俗芸能や民謡や民踊が、観光の材料にされて、村人の生活と切り離されて、神楽ショー・民謡ショーなどの形になったとき、民俗芸能はほとんど墜落してしまう。私たちはそういう例をたくさん見てきた。研究上の必要から舞台で演じていただいた場合でさえ、悪い影響を残してしまった例を、私たちは深い反省とともに体験してきた。さらに指定を受けた芸能と受けない芸能の間にも、いろいろな問題が起こりそうである。
「民俗芸能が観光の材料にされる!!」62P
と舌鋒鋭い。シンポジウムでは、おまつり法に好意的なパネラーに対し、
小島 そういうことではなくて私の伺っているのは、先生のところでは例えば一時間やらないとその演目が成り立たないというような演目の時に、そんな一時間もやられたら観光には役立たない、十分間でやれとか、十五分でやれとか、それならば補助金を出してやるとかいうのでもいいんですか?
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』90P
観光神楽で演目が短縮バージョンで演じられることはよくあることだ。十分は極端だが、一時間かかるところをおよそ三十分でといった短縮なら珍しくないだろう。広島県で盛んな神楽の競演大会では35分が目安のようである。
神楽に関して言えば、神楽は本来であれば神社に奉納するものだけれど、その文脈を離れてステージで演じられるようになったら、それは神楽の見世物化、ショー化だと小島は言っている。いわば神楽の本質が失われてしまうということである。

ここで、御薗生翁甫「防長神楽の研究」に記された百姓神楽の起源についてみてみる。
1. 悪疫の流行によって死亡者が続出することを避けようとするもの。
2. 天候不順で五穀がみのらず、百姓の多くが餓死することのないように、稲作の無事息災や風雨順時を祈願したもの。
3. 雨乞。
4. 非業の最後をとげた者の怨霊、すなわちミサキを鎮め、また非常の災害にあった人民が餓死した折に、これを鬼神のたたりとしてミサキ鎮めをおこなうもの。
5. 同族が親和団結をはかるために神を祭って神楽を奉納する、いわゆる祖先崇拝にその端を発するもの。
6. 住民とはなんの関係ない神人等がやってきて伝授したもの。(59-60P)
6は除外するとして、神楽奉納の目的としては以上のような理由が挙げられるだろう。神楽をステージに移して演じるということは、これらの目的から切り離されて、観光のために資するためということになる。

これに対して司会の高橋秀雄は、
また特に問題なのは変容と変質という問題を小島さんは気にしておられる。芸能は必ず変容というものがあるわけですが、それはいい変容もあるし、悪い変容もある。しかし、一番怖いのは変質ということである。ですから、この法律によって民俗芸能やお祭りが変質する危険性を非常に感じるからその内容について我々はよく気をつけなければならない、という主旨であったと思います。
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』85P
変質と変容の違いが分かったようで分からないのであるが、文化の本質となる核そのものが変わってしまうことが変質だろうか。

ここで中国地方の神楽に詳しい山路興造が発言する。
だからむこう(※備中神楽)としてはどんどん観光化していってああいうものにしています。そういう点は芸能ですから、生きているものですから動いてく。それはあたりまえなんです。でも国としてもし指定するんだったら、県として指定するんだったら、これはどことどこが大切でどこを変えちゃいけないから文化財として指定するんですよ、ということを伝承者にきちんとわからせて、何が大切で何が変えていいのかということ、そのようなことをきちっと踏まえた上でやっていく。そうすると、ここに書いてあるあまりいじっちゃいけませんよ、ということも何をいじっていいのか何をいじっちゃいけないのかということは、さっぱりこちらにはわからないですね。そのようなことを我々学会としてはきちっと位置付し、また文化庁の指定というものが、またその保存というものが、一体何をどのように保存していけばいいのか、という理念をきちんと持ってやっていく、そこに我々の仕事があるのだと思います。(94P)
一方、大石泰夫「民俗芸能と民俗芸能研究」「日本民俗学」213(日本民俗学会, 1998) では90年代の学会の動向を論じて、
しかし、ここで大きな疑問を感じるのは、はたして研究者が民俗芸能を「文化財」と認知した時点で民俗芸能は伝承者の手を放れ、これを「もの」として扱う態度になっていないかということである(この点については、シンポジウムの場でも小林正佳から指摘された。ここでの「もの」は、観光資源と文化財との違いはあるにせよ、伝承者の手を放れて、研究者が勝手に設定する次元のものになっているとは言えまいか。無形文化財を扱うことは難しい。なぜならば、民俗芸能を演じるのは現代に生きる人々なのであって、考古学の遺跡とは違うのである。(85-86P)
例えば、シンポジウムの発題の中にも散見する「変容」「変質」といった言葉で表されたものを、一体どのようにして評価したらよいのだろうか。実際、山路の言説にもみることができるように、研究者は芸能を人が演じる動態として認知していることは改めて述べるまでもない。しかし、研究者にはある民俗芸能に対して研究的価値を見い出した時、「変えてはならない」部分を意識して、これを固定的なものとして「保護したい」という誘惑を禁じ得ないという宿命が立ちはだかることになるのである。それでは「変えてはならないもの」をどのように考えるのか。そもそも研究者の価値認識にしても、その個人の方法論によって大きく異なる。例えば芸能史研究、民俗学的研究、美学的研究にそれぞれ主たる関心がある者は、それぞれに「変えてはならないもの」に対する認識が異なるはずである。(86P)
また、才津祐美子「そして民俗芸能は文化財になった」「たいころじい」15号では、文化財保護法について、
ところが、文化財に選ばれている民俗芸能を見に行くと、次のような話がまま聞かれる。民俗芸能は、現在辿れる範囲でも、様々な変遷を経て現在に至っているが、中でも大きな変化を引き起こした契機の一つは文化財に選ばれたことだったというのである。(26P)
要するに、指定制度導入については、研究者の間でも賛否両論ありはしたが、どちらにしても、植木の見解とは違って、「固定した民俗」を前提としたものだったのである。そのため一九五四年度改正段階では「自然に発生し、消滅していく」という流動的な「性質」を持つとされていた無形の民俗資料が、一九七五年度改正時になると「正しい信仰の古い姿」「古風なまま」「本来の芸態」「旧来の姿」といった言葉で表されるような、まるで古代から不変のまま連綿と受け継がれてきた、固定したもののように語られるようになるのである。したがって、植木の指摘するような議論の不在というよりも、この見解の転換が、「不可能」であったはずの無形の民俗資料の保存を可能ならしめた一要因であると考えられる。(31P)
ここで想起されるのは、文化には不変の本質があるとの立場をとる本質主義である。本質主義はその絶対なる本質を歴史的文脈に沿って相対化する構築主義と対比される。変えてもいい部分と変えてはならない部分を分けて、その本質と思われるものを死守するというのは本質主義に他ならないだろう。特に言及されないのは、それは民俗芸能学会にとって自明のことだからだろう。基本的には全てのパネラーが、そして司会者にしても本質主義に沿ってお祭り法を論じていると見受けられる。

それでは構築主義的要素はないのかというと、同じく山路の発言の中にある。
それから民俗芸能の研究の歴史を振り返りますと実は戦前は結局、土俗だとか風俗だとか風景だとかそういうものをいかに観光として活用させるか、という戦前の運輸省及び鉄道省、そういうところが一生懸命になったのが実は民俗芸能研究の始まりなんです。『旅と伝説』等の研究史も全部そういう地方の資源をどう観光的に使っていくかというところから実は民俗芸能の研究は始まっているんです。
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』(94P)
という箇所である。歴史的文脈に沿ってみると、これは橋本裕之も書いていることであるが、まず民俗芸能に目を向けたのは戦前の旅行雑誌だったという事実である。「旅と伝説」といった雑誌が旅行を扱いつつ、徐々に民俗に目を向けていくようになったことを橋本は「民俗芸能研究という神話」という本で論じている。やがて民俗学者の方が旅行雑誌を低くみる態度になっていったことも記されている。

明治時代に郵便、鉄道が整備されたことで地方の情報が中央に集まってくることになる。それで民俗芸能の研究は進展するのだけど、歴史をひも解くと、観光と民俗芸能の間には深い関わりがあったことが伺える。

論文を読むに、民俗芸能学は基本的に本質主義に立脚している、そして構築主義的研究を等閑視してきたといえるが、しかし、例えばそれでは芸北神楽が広島カープよりも動員力が大きいという事実を説明できないのではないか。本質主義的価値観では芸北神楽の新舞は学問的価値の薄い偽物(芸北神楽の人が比婆荒神神楽を指してあちらは本物の神楽と言ったという。本物の反対は偽物なのか分からないが)という扱いになるだろう。しかし、ステージに特化した、まさに神楽ショーである新舞が観客には受けている、観光資源となっているのである。観客の受けは学問には関係ないかもしれない。しかし、なぜ価値の低い言わばジャンクフード的(であるはず)のものが観客に受けているのか分析できないのも学問として問題ではなかろうか。

ちなみに、神楽外になるが、伝統はないが新たな地域おこしの核として期待されているのが創作和太鼓とのこと。全国で数千もの創作和太鼓の団体があるという。

おまつり法とは直接関係ない文章だが、中国地方の神楽に詳しい岩田勝は下記のように書き残している。
そこには民俗芸能研究などという、客観的で冷静な態度などはありようがない。あえて学問としてというならば、おそらくこれから本格的に取り組まれるべきなのは、祭りの場から離れた民俗芸能の社会学(あるいは経営学)であり、祭祀組織の基盤を失ってもなお一人歩きさせるための民俗芸能保護行政学であるであろう。
岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号
「民俗芸能研究などという、客観的で冷静な態度」これ自体が問われているのではなかろうか。

◆参考文献
・『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』「民俗芸能研究」17(民俗芸能学会編集委員会/編, 民俗芸能学会, 1993)pp.78-97
・小島美子「民俗芸能が観光の材料にされる!!」「芸能」34(3)397(芸能学会/編, 1992)p.62
・大石泰夫「民俗芸能と民俗芸能研究」「日本民俗学」213(日本民俗学会, 1998)pp.82-97
・「防長神楽の研究」(御薗生翁甫, 未来社, 1972)
・「民俗芸能研究という神話」(橋本裕之, 森話社, 2006)
・橋本裕之「神と鎮魂の民俗学を遠く離れて―俗なる人々の芸能と出会うために―」「たいころじい」15号(十月社, 1997)pp.33-40
・迫俊道「伝統芸能の継承についての一考察―広島市における神楽の事例からー」「大阪商業大学」第5巻第1号(通号151・152号合併号)谷岡学園創立八十周年大坂商業大学開学六十周年記念号(大阪商業大学商経学会, 2009)pp.609-621
・迫俊道「芸北神楽におけるフロー」「フロー理論の展開」(今村浩明, 浅川希洋志/編, 世界思想社, 2003)
・才津祐美子「そして民俗芸能は文化財になった」「たいころじい」15号(十月社, 1997)oo.26-32
・橋本裕之「民俗芸能の再創造と再想像―民俗芸能に係る行政の多様化を通して―」「講座 日本の民俗学10 民俗研究の課題」(香月洋一郎, 赤田光男/編, 雄山閣出版, 2000)
・茂木栄「伝統芸能のイベント活用法案について」「民俗芸能学会会報」第22号(民俗芸能学会, 1992)pp.2-3
・岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号(民俗芸能学会, 1991)pp.2-3
・八木康幸「町おこしと民俗学―民俗再帰的状況とフォークロリズムー」「民俗の歴史的世界 御影史学研究会創立25周年記念論集」(御影史学研究会, 岩田書院, 1994)
・岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号(民俗芸能学会, 1991)pp.2-3
・俵木悟「民俗芸能の実践と文化財保護政策―備中神楽の事例から―」「民俗芸能研究」25(民俗芸能学会編集委員会/編. 民俗芸能学会, 1997)pp.42-63
・太田好信「文化の客体化―観光をとおした文化とアイデンティティの創造」「民族学研究」57-4(日本民族学会, 1993)pp.383-410

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成人の日に思う

今日は成人の日。当時の僕は横浜で夕方まで寝て過ごして成人式には参加しなかった。帰省して地元で成人式を迎えるという発想もなかった。式は昔の通過儀礼の名残りみたいなものである。区切りという意味もある。なので、参加しなかった僕は今一つ大人になり切れていないのかもしれない。

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2019年1月13日 (日)

どんど焼きに参加 2019.01

今年もどんど焼きに参加。一年の無病息災を祈る。会場では豚汁や甘酒などがふるまわれた。

どんど焼きの炎

どんど焼き・餅を焼く

どんど焼き・餅を焼く

パナソニックGX7mk2+12-35mmf2.8で撮影

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神楽における本質主義と構築主義

川野祐一朗「民俗芸能を取り巻く視線ー広島県の観光神楽をいかに理解すべきなのか」「森羅万象のささやき 民俗宗教研究の諸相」(鈴木正崇/編, 風響社, 2015)を読む。
 また芸北神楽に対し研究者から、しばしば「見世物化した神楽」という否定的評価を耳にする。この「見世物化」という評価は、芸北神楽に見られる優勝を競い合う競演大会への出場や、今日盛んな観光神楽の文脈においてしばしば耳にする。しかし神楽の演者はこの「見世物化」に対し何を考えているのかを議論せず、ただその観光に利用されているという諸相から一方的に「見世物化」と評する事には、いささか不公平な印象を受ける。(712P)
 しかし、まだ検討すべき課題が残されている。それは民俗芸能の関係者の話に見られた、世代を越えて伝えていこうとする「伝えていかなければならない核」といった言葉の理解である。この言葉を安易に本質主義的発言として理解する事はできないし、あるいは関係者の戦略的な語りとしての構築主義的に理解することも、その言葉に含まれている世代間を越えての伝承という心意をくみ取れていない。つまり民俗芸能を関係者の心意と共に、民俗芸能の行われている場そのものに乗っ取って議論するための枠組みが求められている。(725P)
他、何本かの論文を読んで、本質主義の対立概念は構築主義ということが分かる。しかし、構築主義を調べてもよく分からない。僕自身の理解力の低さもあるけれども、学者さん自身がこれぞという風に要約できていないのではなかろうか。

本質主義というのはアレである。神楽がステージで演じられるようになったら、神社で奉納するという本来の文脈から切り離されてしまう。それは神楽の観光資源化、見世物(ショー)化だと批判されるのだけど、時代に応じて変化する性質が伝統芸能にはある。その中で変えていい部分と変えてはならない部分とがあると民俗学者は言う。その変わらない部分に不変の本質的なものを見出すのが本質主義と言える。

対して、構築主義は……というと上手く説明できないのである。ネットで調べてもよく分からない。

E・ホブズボウム「創られた伝統」という本のOPACに登録された情報を見てみると、
「伝統」という言葉は当然のように、「遠い昔から受け継がれてきたもの」と思われている。だが、「伝統」とされているものの多くは、実はごく最近、それも人工的に創り出されたのだと本書は言う。本書は、おもに英国におけるそうした実例をとりあげ、近代になってから「伝統」が創り出された様子を追う。
とある。
こちらのサイトによる解説が分かりやすいのだが、
消滅の語り:「文化」や「伝統」を昔から伝えられてきた実体として捉え、西洋化、近代化、産業化されることによってそれが消滅していくという視点

生成の語り:「文化」や「伝統」というものは常に創造されていくものであり、新たな部分を吸収していくものであるとする視点

本質主義(Essentialism):本質主義とは、「~らしさ、~性」という概念にひとつの変わらぬ性質を求めていく考え方。

構築主義(Constructionalism):「~らしさ」というのは常に変化せずに存在する(本質的なもの)ではなく、その時代の、政治経済的関係、思想的背景などとの関係によって形成されていくとするものの見方を構築主義と言う。

文化をめぐって、本質主義と構築主義という二つの見方がある。
とある。本質主義/構築主義は文化の静態/動態と例えられるだろうか。本質主義では「不変」と考えられていた本質を構築主義では歴史的文脈において相対化すると言えるだろう。政治的文脈という部分にマルクス主義の臭いを感じないでもない。これらを神楽に当てはめてみると、

神楽でいえば、現在僕らが見ている里神楽は明治政府の神楽統制下において、神を冒涜する所作を禁止する、卑猥な所作を禁止する、神がかりを禁止する、試験制度によって古代史、神道知識を問うなどの統制が加えられたことによって現在見る形になったとされている。そういった意味では明治という近代化に大きく踏み出した時代の影響を色濃く受けているのである。

島根県石見地方の石見神楽について見ても、構築主義と相性がよいと言えるだろう。石見神楽でも明治時代に入り、神職が神楽を舞うことを禁止されたため、担い手が氏子に移った(神職が氏子を指導することもあったようだ)。また、当時の国学者が台本の詞章を俗なものから古風に改定する。また、八調子と呼ばれるテンポの速い囃子が導入された。つまり、こういった神楽改正を経た八調子石見神楽は言わば近代の産物なのである。石見人が明治という時代に応じて再構成した神楽だと言えるだろう。

また、芸北神楽の新舞も構築主義と関わるかもしれない。終戦後、GHQの統制を回避するために生まれたのが娯楽性の強い新舞だが、既に70年以上が経過している。その時点で新たな伝統の創造とも言える。また、ステージに特化することでスーパーカグラの誕生を見ている。要するに今ある(観客に支持されている)ものとして田舎のエンタメとして割り切ってしまうというところだろうか。ただ、鬼退治偏重、バトル偏重となって神事性が薄れたきらいはある。スーパーカグラでは演出の邪魔になるという理由で天蓋を外しているとのこと。

芸北神楽にも多面性があって、たとえステージで舞う場合であっても、氏神社の奉納と同じ心構えで舞わねばならないという伝承者からの日頃の教えがある。また、芸北神楽についてアンケートを取ったところ、現在の舞は崩れているので、昔の阿須那手を思い出して欲しいといったニュアンスの回答が寄せられたとのことである。これは芸北神楽の中にも本質主義的な核が含まれていることに他ならない。

国会図書館では雑誌の論文は全文コピーできるのだけど、書籍の個別論文はそれにも著作権が認められるということで、全体の半分しかコピーできない。で、非常に困るのだけど(手入力する分には問題ない)、それはともかく、川野論文では芸北神楽の「伝えていかなければならない核」を本質主義的には捉えておらず、また戦略的な構築主義とも捉えていない。戦略的な構築主義というのがまた分からないのだけど(戦略的本質主義という用語はあるが、戦略的構築主義という用語は見当たらない)、本質主義/構築主義の二項対立的な理解から脱却しようとする意図が伺える。しかし、一足飛びに二項対立を超えるのでなく、まず神楽における構築主義とは何なのか明確にさせるべきではないか。それとも考えるまでもないことなのだろうか。芸北神楽や石見神楽はその典型的事例となるだろう。「伝えていかなければならない核」僕自身にはレベルの違いがあるけれども、それは本質主義に他ならないのではないかと思われる。それに芸北神楽の実際のスタンスは時には「広島神楽、ひろしま神楽」の名を借りて、時には漫画という媒体を利用して戦略的に動いている。

しかし、構築主義というのは突き詰めると、伝統文化に本物も偽物もないということになり、つまり何でもありで、それは単なる現状追認でしかないような気がする。

◆参考文献
・川野祐一朗「民俗芸能を取り巻く視線ー広島県の観光神楽をいかに理解すべきなのか」「森羅万象のささやき 民俗宗教研究の諸相」(鈴木正崇/編, 風響社, 2015)pp.711-728
・『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』「民俗芸能研究」17(民俗芸能学会編集委員会/編, 民俗芸能学会, 1993)pp.78-97
・小島美子「民俗芸能が観光の材料にされる!!」「芸能」34(3)397(芸能学会/編, 1992)p.62
・大石泰夫「民俗芸能と民俗芸能研究」「日本民俗学」213(日本民俗学会, 1998)pp.82-97
・橋本裕之「神と鎮魂の民俗学を遠く離れて―俗なる人々の芸能と出会うために―」「たいころじい」15号(十月社, 1997)pp.33-40
・迫俊道「伝統芸能の継承についての一考察―広島市における神楽の事例からー」「大阪商業大学」第5巻第1号(通号151・152号合併号)谷岡学園創立八十周年大坂商業大学開学六十周年記念号(大阪商業大学商経学会, 2009)pp.609-621

 

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2019年1月 6日 (日)

吹奏楽の聖地、普門館が取り壊される

朝日新聞のニュース、吹奏楽の聖地、普門館が取り壊されるという記事が目に留まる。歴代の金賞の記録が残されているのだけど、出雲一中と出雲二中が異様に強いのである。両校で全国同時入賞を果たした年がある。島根の公立中学だから集って来るのは特に選ばれた存在という訳ではないはずである。優れた指導者がいたということだろう。僕自身は楽譜が読めない単に聴くだけの趣味だけど、ずば抜けた成績だと思う。石見地方の高校では川本高校が金賞を受賞していた。


https://www.asahi.com/special/fumonkan/

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2019年1月 3日 (木)

声と音による壮大な文化論――川田順造「口頭伝承論」

川田順造「口頭伝承論」(平凡社)上下巻を読む。上下巻合わせて830ページ以上ある大著。口頭伝承とあるが、文化人類学の棚に置かれていた。表題の「口頭伝承論」は西アフリカの無文字社会、ブルキナファソに暮らすモシ族のフィールドワークを行ったもので、題材はソアスガと呼ばれる夜に座を組んで語られる昔話や、語りと太鼓によって継承される王族の系譜(伝説的)であるが、記述が抽象的で、人類学や言語学の素養のない僕にとっては難しかった。範列という用語が用いられるが、辞書で調べたら余計に分からなくなった。

『発話における反復と差異――「かたり」の生理学のための覚え書き』は西アフリカのモシ族の昔話や伝説、日本の古典落語などを具体的に分析したもので、これは比較的分かりやすかった。

下巻はまず古典落語の分析からはじまり、続いて西アフリカのモシ王国(ブルキナファソ)とベニン王国(ナイジェリア)の比較分析がなされる。モシ王国が音声と言葉のみによって歴史を伝えるのに対し、ベニン王国では図像によって歴史を伝えている。ただし、ベニン王国の場合、イギリスの侵略によって王宮が破壊され、多数の図像が海外にバラバラに持ち出されたため、体系的な研究が困難らしい。

理論的な部分としては声による言述(ディスクール)の三層分類が挙げられる。
・情報伝達性
 例えばニュース。情報の真偽や新しさ/古さが問題となる。
・行為遂行性
 語る者の資格が問われる。例えば葬儀に際しての僧侶の読経。僧侶自身はともかく聴衆はお経の意味を理解していない。が、葬儀という場で読誦されることで意味を持つ。
・演技性
 落語が典型的であるが、語り手の巧みさが何より重視される。情報の真偽は問題とならない。

モシ族のソアスガと呼ばれる夜の昔話では話者に対して聴き手が相槌を打ち、時には言いよどんだり間違えたりした話者に言葉を添えて続きを促す役割を果たしている。

一方、モシ族の王族の系譜は専従の読誦者/奏者がいて、言葉が太鼓によるリズムに支えられている。口頭で王族の系譜を尋ねても、太鼓がないから答えられないという風に語りが音と密着しているのである。太鼓ことば(太鼓音で言語音の音調やリズムをなぞって言語メッセージを伝えるシステム 302P)とも呼ばれている。

暗黒大陸とも呼ばれたアフリカの無文字社会の歴史性に光を投げかける実に壮大な構想による文化論であり、日本、フランス、西アフリカを起点とした三角測量とも呼ばれている。

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日本標準「広島の伝説」を読む

日本標準「広島の伝説」を読む。夏の帰省中に浜田市立中央図書館で読んだものだけど、今まで記事にするのを忘れていた。

「塞(さい)の峠(たお)のお地蔵さま」(竹原市)という話がある。高崎村の人が村のお守りとしてお祭りしたものだが、不思議なことに、そのお地蔵さまは、いつも下市村の方を向いてしまうというお話。

「お剣さん」(福山市)は今津の浜辺に漂着した新羅の王と王子とおつきの者三人を長者がもてなす。やがて王が死んだが、夢枕に自分は昔、スサノオノミコトだったが出雲でヤマタノオロチを退治した報いで新羅の国の王として生まれ変わることになったと言った。そして自分が日頃大事にしていた剣を祭ってもらいたいと言った。年月が経ち、王子もおつきの者も亡くなってしまったが、ある日、剣の形をした珍しい石が沖の小島で見つかった。それで王と王子の言葉を思い出した長者は沖の小島に剣大明神、王子祠、武祠の三つを建てて祭ったという。

「三国一の花嫁」(広島市)は戦国時代、高松城の城主である熊谷信直の下の娘は疱瘡を煩いあばた顔となっていたが、心根は優しかった。郡山城に毛利元就の次男である吉川元春がいた。元就が誰か嫁にとりたい娘があれば言ってみよと言ったとき、元春は熊谷信直の下の姫をもらいたい。心映えは美しいので姫の心をもらいたいと答えたという。

「いつきしま姫」(安芸郡倉橋町)は昔、いつきしま姫の命とい美しい姫が自分の住む所を求めて瀬戸内の景色の良さそうな所を探していた。船に二歳になる子を乗せ、おつきの者を従えて今の長谷の沖にやってきた。姫の一行は今のはた小島に船をつけた。景色が大変よいので、ここにお宮を建てて住むことにしようと言って船を下りたところ、水が濁っていてとても住めそうになかった。姫は西方さいしょう国の第三王女に生まれた。美しく、噂を聞いた天竺とうしょう国のせんさい王がいやがる姫を騙して自分の国に連れて帰ってしまった。ところが、王は姫に夢中で、他の后たちが憎むようになった。そして姫が病気だと偽って、ぎまん国から薬をとって来るように口裏を合わせた。王が何年もかかって薬を手に入れ、戻ってきたときには姫は殺されていた。そして姫の骨を拾って、かびら国のふろう上人に頼んで姫を生き返らせた。ところが王は心変わりして姫を遠ざけるようになってしまった。姫はとうしょ国を逃げ出した。それからというもの、心安らかにひっそり暮らせる土地はないかと探し求めた。それで瀬戸内の長谷までやって来たのである。そして、いつきしま姫が二歳になる子供を連れてあちこちさまよったことから、宮島さんのお祭りに二歳になる子供を連れてお参りすると迷子になるという言い伝えとなった。いつきしま姫は今の厳島神社に祭られている。

「岩屋権現」(福山市)はスサノオノミコトがヤマタノオロチから奪った霊剣を洞窟にまつったという。この中には弘法大師が修行をした衣掛け岩がある。

「犬塚大明神」(芦品郡新市町)では昔、毎年のように娘をさらう化け物がいた。ある夜、たくさんのタヌキが「出雲の権吾呂太夫(ごんごろだゆう)に知られないようにと言っているのを坂田金時が聞き、化け物の正体がタヌキだと分かり、権の守(ごんのかみ)という二匹の犬を使って退治したが、犬も死んだので、犬塚大明神としてまつった。

「満米上人(まんべいしょうにん)」(三原市)鉢が峰に一人の上人がいた。えんま大王からもらった米鉢を持っていた。米が無くなると、鉢が空を飛び、米を一杯にして帰ってくる。それで満米上人と呼ばれるようになった。

「清盛の瀬戸切り」(呉市)平清盛は市杵島姫が好きになってしまった。姫に気に入られようと音戸の瀬戸を一日で開いてしまうと約束してしまった。工事が始まってあとちょっとで出来上がるというときに日が西の山に沈みかけた。清盛は日の丸の扇で太陽を呼び戻して遂に一日で工事を終わらせることができた。「ちきり池」市杵島姫は九州から小瀬川にそって坂道を登ってきた。機織りの道具と二つの子を背負っていたため、とても苦しく、機織り道具のちきりを池に投げ捨てた。それからちきり池と呼ばれ、池が埋め立てられた後にはちきり池神社が建てられた。

「牛鬼」(佐伯郡大野町)四十八坂は大竹町につながる道で、夜中に通ると大きな石が転げ落ちる。この石を動かすのが牛鬼で、厳島合戦に負けた武将の魂が無念のあまり牛鬼にかわったと言う。

白米城の伝説は無いが、「可児才蔵のみそ合戦」(広島市)では、福島正則の家来に可児才蔵というやりの名人がいたが、洪水で城の囲いを流されてしまう。修理したが、幕府に無届けだったという理由で正則は安芸を追われることとなった。城の明け渡しの日、才蔵ほか約六十人の武士たちは広島城から少し離れた矢賀の小さな城に立てこもる。新しい城主が来て攻めに来た。一日で攻め落とせとの命で、数百人の兵たちが矢賀の城を取り囲む。ところが可児才蔵が、煮えたぎっている味噌汁を上から掛けた。兵も馬も酷い火傷を負って逃げ帰った。味噌汁は普通の湯と比べて冷えるのが遅いからである。新しい城主はそれで兵糧攻めにした。困った才蔵たちは相談して、山の中程にある地蔵に笹の葉っぱに味噌や米を備えて祈ると、どんな願い事も聞き届けられると村中に言いふらすことにした。噂が噂を読んで国中に知られることとなった。こうして可児才蔵は始めは味噌汁、後は地蔵さまで槍を使わずに勝った。その後、可児才蔵がどうなったのかは分からない。
◆参考文献
・「広島の伝説」(広島県小学校図書館協議会, 日本標準, 1978)

 

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2019年1月 2日 (水)

初夢

初夢は二度寝してしまい何か分からなくなった。記憶にあるのは二日の夢じゃないけど後藤又兵衛の禿げ……かなあ。年末に岩見重太郎の講談本を読んだからだろう。禿げは僕自身の後頭部が禿げているから。自分じゃ見えないから対策してないけど、内心気にしているということだろう。

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2019年1月 1日 (火)

鷲宮神社の神楽を見学 2019.01

元旦、埼玉県久喜市の鷲宮神社にお参りする。11時ごろ着いたのだけど、参道は参拝客で一杯で、一時間くらいロスした。で、午前中の神楽は見られなかった。一つは祓除清浄杓大麻之段。おみくじは中吉。午後の神楽を観たのだけれど、身体が冷えて最後らへんは寒かった。今回、どれも見たことのある演目だった。鷲宮神社では元旦は午前0時~3時、午前11時~午後3時と二回に分けて神楽を行っている。深夜の神楽の方に僕が見た事のない演目があったのかもしれない。しかし、午前0時はともかく午前3時に終わりというスケジュールだと、始発は5時くらいか、二時間以上寒空の下で何もできない状況となる。なので避けた。

・(不明)
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・五穀最上国家経営之段
・端神楽
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・磐戸照開諸神大喜之段
・鎮悪神発弓靱負之段

元旦の鷲宮神社・参道・大混雑
参道
五穀最上国家経営之段
五穀最上国家経営之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
端神楽
端神楽
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
鎮悪神発弓靱負之段・右大臣と左大臣
鎮悪神発弓靱負之段・右大臣と左大臣
鎮悪神発弓靱負之段
鎮悪神発弓靱負之段

一番年上の巫女さん(祓除清浄杓大麻之段と磐戸照開諸神大喜之段とで度々登場する美人)が年下の巫女さん(小学生)と触れ合っていたのを見かける。良きお姉さんだった。

オリンパスE-520++40-150mmF3.5-4.5で撮影。今回は座席がなく神楽殿の横から撮影した。舞台を時計回りに巡るのだけど、舞台の右側から撮影したので、背中を写す形になってしまった。

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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。去年は将軍や荒平で年が明けましたが、今年もしばらく神楽の記事が続くと思います。

去年の夏、三瓶の浮布池のほとりを歩いていたら、突然、猪の親子と遭遇しました。で、結局それ以上先に進めなかったということがありました。リアルで遭遇すると野生動物は怖いです。

 

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