岩戸を舞い終える――佐藤両々「カグラ舞う!」
ヤングキングアワーズ3月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回で岩戸(練習)を舞い終える。Youtubeで石見神楽の岩戸と芸北神楽の岩戸を見比べてみたが、ルーツは同じでも結構違うのである。芸北神楽では鈿女命がイナバウアーというかのけ反ったりする所作があるが、石見神楽にはない。案外、イナバウアーが元ネタだったりして。芸北神楽では天照大神が幕をちらっと開けて顔を見せたりもする。
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ヤングキングアワーズ3月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」今回で岩戸(練習)を舞い終える。Youtubeで石見神楽の岩戸と芸北神楽の岩戸を見比べてみたが、ルーツは同じでも結構違うのである。芸北神楽では鈿女命がイナバウアーというかのけ反ったりする所作があるが、石見神楽にはない。案外、イナバウアーが元ネタだったりして。芸北神楽では天照大神が幕をちらっと開けて顔を見せたりもする。
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国会図書館に行く。今日は富士山盛り蕎麦でなくネギトロ丼を食す。いつもは閲覧請求をして約30分かかるので、その間に食事を済ませるのだけど、今回、カートに入れたまま請求をし忘れていて、30分余計に時間がかかった。今回も無意味にトイレが近くて困る。
フォークロリズムとフェイクロアというキーワードに惹かれて日本民俗学236号を読んでみるが、肝心のフォークロリズムの定義がよく分からず(フォークロアの商品化?違う)、想像していたのとは違って面白くなかった。
八木康幸「フェイクロアとフォークロリズムについての覚え書き―アメリカ民俗学における議論を中心にして―」「日本民俗学」236号(日本民俗学会, 2003)pp.20-48 を読んだのだが、フォークロリズムとフェイクロアに関する定義づけが曖昧で具体例を欠き、初学者には理解不能なものであった。これはフォークロリズムの知識のある人向けにまとめられたものと言えそうだ。
門田岳久『ドイツ民俗学の転機とフォークロリスムス―バウジンガー著「科学技術世界のなかの民俗文化」を読んで―』「日本民俗学」232号(日本民俗学会, 2002)pp.139-145 に比較的分かりやすい解説が載っていた。
論文ではドイツのフォークロリスムスを疑似民俗文化、アメリカ民俗学のフェイクロアを商業主義的民俗文化と要約している。
直訳すると、フォークロリスムス(フォークロリズム)とは「フォークロアみたいなもの」であった。
民俗芸能が本来の文脈(例えば神楽で言えば奉納神楽)を離れたところでイベント化され転用、再生される過程(神楽で言えばステージで舞う観光神楽)を言うようである。また、消滅していた民俗文化が復活させられたりするといった事例も挙げられている。いずれも本来の意味とは別の新しい第二義的な意味が付与されるのである。
フォークロリズムを端的に指す言葉として、セカンドハンドという言葉が挙げられる。セカンドハンドとはセコハン、直訳すると中古だ。
そういう意味では例えば石見神楽・芸北神楽の共演大会、競演大会やイベントでの上演といった上演形態が奉納神楽という本来の文脈から離れたところでのそれ(ステージでの上演)となること等が事例として挙げられるだろう。
フォークロリスムスは「純粋な民俗学」と「応用民俗学」との二項対立となったが、その後、構築主義的観点から「純粋な」「真正の」といった見方には修正が加えられていると思われる。
対して、フェイクロアでは「本物」と「まがいもの」という二項対立の構図が鮮明となる。フォークロア風の創作物などを指すようである。
フォークロリズムは観光とも絡んで論じられるようになっている。しかし、純粋なものほど価値が高いなら、なぜ人々はより価値の低いフォークロリズム(セカンドハンド)に惹かれるのか。観光の持つ利便性からか。顧客の望むものを提供しているからか。それは観光学の答えだろう。民俗学の答えではない。それにしても客だって価値の高低くらいは見抜くだろう。
言ってしまえば、学術的価値と集客力の間に関係はないという単純なことかもしれない。でも、それがなぜなのか上手く説明できないのだ。ノスタルジーが満たされさえすれば本物もまがいものも関係ないのかもしれない。
例えば神楽におけるフォークロリズム、ステージ上で舞われる神楽であるが、これはお祭りの当日しか見ることのできない神楽をいつでも鑑賞できるようにする点で神楽の敷居を下げ、裾野の拡大を図れるといった効能があると考えられる。
橋本和也「観光人類学の戦略 文化の売り方・売られ方」という観光人類学の本では観光を「異境において、よく知られているものを、ほんの少し、一時的な楽しみとして売買すること」と定義する。そして「一時的な楽しみ」を「本来の文脈から切り離され、集められて、新たな『観光文化』を形成するもの」と定義する。観光を巡礼から切り離して狭い範囲で定義したものだが、これによると、よく知られていさえすれば本物か偽物かは問われないことになる。
なお、河野眞「ナトゥラリズムとシニシズムの彼方―フォークロリズムの理解のために(1)―」「文明21」19号(愛知大学国際コミュニケーション学会/編, 2007)pp.37-53 で河野氏はフォークロリズムは価値判断の術語でないと弁明している。
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ところがこの法律によると、民俗芸能は観光の材料として観光客のために演じられる。おそらく出演料が出されて、民俗芸能は収入のために演じられるようになる。その結果として、民俗芸能としては、たとえば信仰上どんなに必要なものでも、観光客にとってつまらないものは除外されるなど、演出法はどんどん変えられるだろう。民俗芸能や民謡や民踊が、観光の材料にされて、村人の生活と切り離されて、神楽ショー・民謡ショーなどの形になったとき、民俗芸能はほとんど墜落してしまう。私たちはそういう例をたくさん見てきた。研究上の必要から舞台で演じていただいた場合でさえ、悪い影響を残してしまった例を、私たちは深い反省とともに体験してきた。さらに指定を受けた芸能と受けない芸能の間にも、いろいろな問題が起こりそうである。
「民俗芸能が観光の材料にされる!!」62P
小島 そういうことではなくて私の伺っているのは、先生のところでは例えば一時間やらないとその演目が成り立たないというような演目の時に、そんな一時間もやられたら観光には役立たない、十分間でやれとか、十五分でやれとか、それならば補助金を出してやるとかいうのでもいいんですか?
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』90P
1. 悪疫の流行によって死亡者が続出することを避けようとするもの。
2. 天候不順で五穀がみのらず、百姓の多くが餓死することのないように、稲作の無事息災や風雨順時を祈願したもの。
3. 雨乞。
4. 非業の最後をとげた者の怨霊、すなわちミサキを鎮め、また非常の災害にあった人民が餓死した折に、これを鬼神のたたりとしてミサキ鎮めをおこなうもの。
5. 同族が親和団結をはかるために神を祭って神楽を奉納する、いわゆる祖先崇拝にその端を発するもの。
6. 住民とはなんの関係ない神人等がやってきて伝授したもの。(59-60P)
また特に問題なのは変容と変質という問題を小島さんは気にしておられる。芸能は必ず変容というものがあるわけですが、それはいい変容もあるし、悪い変容もある。しかし、一番怖いのは変質ということである。ですから、この法律によって民俗芸能やお祭りが変質する危険性を非常に感じるからその内容について我々はよく気をつけなければならない、という主旨であったと思います。
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』85P
だからむこう(※備中神楽)としてはどんどん観光化していってああいうものにしています。そういう点は芸能ですから、生きているものですから動いてく。それはあたりまえなんです。でも国としてもし指定するんだったら、県として指定するんだったら、これはどことどこが大切でどこを変えちゃいけないから文化財として指定するんですよ、ということを伝承者にきちんとわからせて、何が大切で何が変えていいのかということ、そのようなことをきちっと踏まえた上でやっていく。そうすると、ここに書いてあるあまりいじっちゃいけませんよ、ということも何をいじっていいのか何をいじっちゃいけないのかということは、さっぱりこちらにはわからないですね。そのようなことを我々学会としてはきちっと位置付し、また文化庁の指定というものが、またその保存というものが、一体何をどのように保存していけばいいのか、という理念をきちんと持ってやっていく、そこに我々の仕事があるのだと思います。(94P)
しかし、ここで大きな疑問を感じるのは、はたして研究者が民俗芸能を「文化財」と認知した時点で民俗芸能は伝承者の手を放れ、これを「もの」として扱う態度になっていないかということである(この点については、シンポジウムの場でも小林正佳から指摘された。ここでの「もの」は、観光資源と文化財との違いはあるにせよ、伝承者の手を放れて、研究者が勝手に設定する次元のものになっているとは言えまいか。無形文化財を扱うことは難しい。なぜならば、民俗芸能を演じるのは現代に生きる人々なのであって、考古学の遺跡とは違うのである。(85-86P)
例えば、シンポジウムの発題の中にも散見する「変容」「変質」といった言葉で表されたものを、一体どのようにして評価したらよいのだろうか。実際、山路の言説にもみることができるように、研究者は芸能を人が演じる動態として認知していることは改めて述べるまでもない。しかし、研究者にはある民俗芸能に対して研究的価値を見い出した時、「変えてはならない」部分を意識して、これを固定的なものとして「保護したい」という誘惑を禁じ得ないという宿命が立ちはだかることになるのである。それでは「変えてはならないもの」をどのように考えるのか。そもそも研究者の価値認識にしても、その個人の方法論によって大きく異なる。例えば芸能史研究、民俗学的研究、美学的研究にそれぞれ主たる関心がある者は、それぞれに「変えてはならないもの」に対する認識が異なるはずである。(86P)
ところが、文化財に選ばれている民俗芸能を見に行くと、次のような話がまま聞かれる。民俗芸能は、現在辿れる範囲でも、様々な変遷を経て現在に至っているが、中でも大きな変化を引き起こした契機の一つは文化財に選ばれたことだったというのである。(26P)
要するに、指定制度導入については、研究者の間でも賛否両論ありはしたが、どちらにしても、植木の見解とは違って、「固定した民俗」を前提としたものだったのである。そのため一九五四年度改正段階では「自然に発生し、消滅していく」という流動的な「性質」を持つとされていた無形の民俗資料が、一九七五年度改正時になると「正しい信仰の古い姿」「古風なまま」「本来の芸態」「旧来の姿」といった言葉で表されるような、まるで古代から不変のまま連綿と受け継がれてきた、固定したもののように語られるようになるのである。したがって、植木の指摘するような議論の不在というよりも、この見解の転換が、「不可能」であったはずの無形の民俗資料の保存を可能ならしめた一要因であると考えられる。(31P)
それから民俗芸能の研究の歴史を振り返りますと実は戦前は結局、土俗だとか風俗だとか風景だとかそういうものをいかに観光として活用させるか、という戦前の運輸省及び鉄道省、そういうところが一生懸命になったのが実は民俗芸能研究の始まりなんです。『旅と伝説』等の研究史も全部そういう地方の資源をどう観光的に使っていくかというところから実は民俗芸能の研究は始まっているんです。
『シンポジウム「民俗芸能とおまつり法」』(94P)
そこには民俗芸能研究などという、客観的で冷静な態度などはありようがない。あえて学問としてというならば、おそらくこれから本格的に取り組まれるべきなのは、祭りの場から離れた民俗芸能の社会学(あるいは経営学)であり、祭祀組織の基盤を失ってもなお一人歩きさせるための民俗芸能保護行政学であるであろう。
岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号
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今日は成人の日。当時の僕は横浜で夕方まで寝て過ごして成人式には参加しなかった。帰省して地元で成人式を迎えるという発想もなかった。式は昔の通過儀礼の名残りみたいなものである。区切りという意味もある。なので、参加しなかった僕は今一つ大人になり切れていないのかもしれない。
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また芸北神楽に対し研究者から、しばしば「見世物化した神楽」という否定的評価を耳にする。この「見世物化」という評価は、芸北神楽に見られる優勝を競い合う競演大会への出場や、今日盛んな観光神楽の文脈においてしばしば耳にする。しかし神楽の演者はこの「見世物化」に対し何を考えているのかを議論せず、ただその観光に利用されているという諸相から一方的に「見世物化」と評する事には、いささか不公平な印象を受ける。(712P)
しかし、まだ検討すべき課題が残されている。それは民俗芸能の関係者の話に見られた、世代を越えて伝えていこうとする「伝えていかなければならない核」といった言葉の理解である。この言葉を安易に本質主義的発言として理解する事はできないし、あるいは関係者の戦略的な語りとしての構築主義的に理解することも、その言葉に含まれている世代間を越えての伝承という心意をくみ取れていない。つまり民俗芸能を関係者の心意と共に、民俗芸能の行われている場そのものに乗っ取って議論するための枠組みが求められている。(725P)
「伝統」という言葉は当然のように、「遠い昔から受け継がれてきたもの」と思われている。だが、「伝統」とされているものの多くは、実はごく最近、それも人工的に創り出されたのだと本書は言う。本書は、おもに英国におけるそうした実例をとりあげ、近代になってから「伝統」が創り出された様子を追う。
消滅の語り:「文化」や「伝統」を昔から伝えられてきた実体として捉え、西洋化、近代化、産業化されることによってそれが消滅していくという視点
生成の語り:「文化」や「伝統」というものは常に創造されていくものであり、新たな部分を吸収していくものであるとする視点
本質主義(Essentialism):本質主義とは、「~らしさ、~性」という概念にひとつの変わらぬ性質を求めていく考え方。
構築主義(Constructionalism):「~らしさ」というのは常に変化せずに存在する(本質的なもの)ではなく、その時代の、政治経済的関係、思想的背景などとの関係によって形成されていくとするものの見方を構築主義と言う。
文化をめぐって、本質主義と構築主義という二つの見方がある。
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朝日新聞のニュース、吹奏楽の聖地、普門館が取り壊されるという記事が目に留まる。歴代の金賞の記録が残されているのだけど、出雲一中と出雲二中が異様に強いのである。両校で全国同時入賞を果たした年がある。島根の公立中学だから集って来るのは特に選ばれた存在という訳ではないはずである。優れた指導者がいたということだろう。僕自身は楽譜が読めない単に聴くだけの趣味だけど、ずば抜けた成績だと思う。石見地方の高校では川本高校が金賞を受賞していた。
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初夢は二度寝してしまい何か分からなくなった。記憶にあるのは二日の夢じゃないけど後藤又兵衛の禿げ……かなあ。年末に岩見重太郎の講談本を読んだからだろう。禿げは僕自身の後頭部が禿げているから。自分じゃ見えないから対策してないけど、内心気にしているということだろう。
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あけましておめでとうございます。去年は将軍や荒平で年が明けましたが、今年もしばらく神楽の記事が続くと思います。
去年の夏、三瓶の浮布池のほとりを歩いていたら、突然、猪の親子と遭遇しました。で、結局それ以上先に進めなかったということがありました。リアルで遭遇すると野生動物は怖いです。
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