« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »

2018年12月

2018年12月29日 (土)

神楽が舞う――カグラ舞う!

月刊ヤングキングアワーズ2009年2月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」練習であるが、今回初めて神楽が舞う。しかし、「岩戸」での天照大神役の出番は最初と最後だけで、舞の経験という点ではまだまだといっていいかもしれない。なお、奏楽は神楽団の人が行っているという設定で、神楽部の部員の人数は最小限に抑えられている。これは登場人物を増やさないという外的な理由と、神楽団に所属している少年少女は部活の神楽とは異なる点もあって対応が難しいという内面的な理由から理由づけされている。

それでは、よいお年を。

|

2018年12月28日 (金)

定番ドキュメント・スキャナがモデルチェンジ

富士通PFUのドキュメントスキャナーSCANSNAPがモデルチェンジした。が、取り込めるのはA4用紙までのようだ。B4用紙が取り込めたらいいのだけど。

山陰民俗がB4サイズでそのままでは取り込めない。縮小コピーしようか。

|

2018年12月24日 (月)

広島神楽、ひろしま神楽に異議

YouTubeで神楽を見る。「芸北神楽」で検索したのだけど、検索トップはタイトルが「広島神楽 ○○神楽団 XXX」とあった。

広島神楽、ひろしま神楽と表記したりしているが、一見オール広島体勢を強調しているようでいて、その実、売込みたいのは芸北神楽の新舞だろう。広島県の神楽定期公演でも上演されるのはほとんどが芸北神楽である。広島県というくくりでいうと芸北神楽の旧舞や安芸十二神祇、比婆荒神神楽、備後神楽、芸予諸島の神楽など歴史ある芸能が継承されている。で、戦後に誕生した神事性の薄い芸北神楽の新舞がそれらの権威を借りようとしているだけなのではないかという穿った見方をしてしまう。

石見神楽がしまね神楽として売り出すことはない。

芸北神楽の新舞の傾向を要約すると、神祇からの逸脱だろうか。鬼退治に特化した故に人気があるとも言える。元は能や歌舞伎や御伽草子なので出自が悪い訳ではない。しかし、関東の神楽と見比べると、神楽=バトルという固定観念に染まってしまっているように見受けられる。

<追記>
中国経済産業局セミナー「伝統文化・神楽を担う組織の長期的な経営を考える~今だからこそ,将来を見据えた運営を~」という講演をリモート聴講した。

その中でもひろしま神楽という言葉が用いられたが、ひろしま神楽≒芸北神楽なのである。あたかも芸北神楽が広島の神楽を代表しているという体である。他所の神楽をやっている人達は文句を言ったりしないのだろうか。

|

剣の巻で混乱する

横浜市立中央図書館に行く。宇治の橋姫と戻り橋は平家物語・剣の巻に収録されていた。剣の巻を収録していないものが多く、索引を引いても全く出てこないので諦めかけていた(司書さんに相談しようかと思っていた)ら、ちょうど剣の巻を収録した本を手にした次第。

|

益田市鎌手大浜の10年間

いつ撮ったのかはっきり覚えていないが、約10年前に撮った益田市鎌手大浜の雄島と雌島。

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

以下は今年の夏に撮った雄島と雌島である。

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

益田市鎌手大浜の雄島と雌島

10年前に撮ったときは200万画素のコンデジで撮っていて、今年撮ったのは1600万画素のミラーレス。画質は新しい方がいいのだけれども、雄島と雌島の間にテトラポッドが埋設されている。これがこの10年での大きな変化。雄島と雌島は光の加減でいい具合に撮れ、写真の被写体としていいと思っていたのだけど、テトラポッドという余計な夾雑物が写り込むことになった。安全性確保のために仕方ないのだろうけれど、写真を撮るという一点では残念である。

雄島と雌島は櫛代賀姫命と櫛色天蘿箇彦命が逢引きするという伝説の舞台でもある。

|

2018年12月20日 (木)

たまには理系ネタを

週刊ダイヤモンド 2018/12/8号、「日本人はもうノーベル賞を獲れない」という扇情的なタイトルだったので、思わず手にとる。受賞ラッシュに沸く日本だが足元を見ると、独立行政法人化して以降の大学は運営費交付金の低減に悩み競争的な予算配分となって、将来芽が出るか海のものとも山のものともつかない基礎研究の基盤が揺らいでいる。企業の中央研究所も解体が進んでいる。また、中国の科学技術予算の急激な伸びがクローズアップされている。既に論文数では中国が上回っている。今のペースだと、数十年後には中国が量産することになるが、ことはそう単純に運ぶだろうか?
その中でSSH(スーパーサイエンスハイスクール)というページが目にとまる。理系教育に特化した課程を持つ高校らしい。山陰で指定されているのは米子東高、出雲高、益田高が図に載っている(※調べたところ、松江東高、鳥取東高は指定終了校となっている)。ただ、全国に名だたる進学校で指定を受けている高校は少なく、公立の二番手、三番手の高校が指定される傾向にあるとしている。ちなみに名門進学校からのノーベル賞受賞者は案外いないとのこと。皆、官僚を目指すのかもしれない。
理系に関しては語るべきものが何もないので、頑張ってとしか言いようがない(自動車やパソコン、デジカメは好きだけどね)。高校の数学Ⅲを理解できるのは全体の三割くらいとも聞いたことがあるし、一応、選ばれた人材候補というところであろうか。

 

|

2018年12月18日 (火)

アイドルにリーチ

「ヒマワリ」5巻と6巻を読む。アイドルとしてデビューが決まるもののメンバーの間で温度差が生じて……というところで次巻に続くとなっている。もう神楽は関係ない。

|

2018年12月16日 (日)

兄妹のカップルから生まれる英雄

NHK-FMでワーグナーの楽劇「ワルキューレ」を聴く。ワルキューレの騎行で有名な作品。各幕の前にあらすじの解説はあって、おおさっぱには分かるのだけど、ラジオなので情景が浮かばないのが残念。ニーベルングの指環はいつかDVDで見たいと思っていて、未だにかなわずにいる。

ジークムントとジークリンデは兄妹で、そのカップルから生まれるのが英雄ジークフリートなのだ。近親相姦で生まれる英雄というモチーフは純血思想に繋がるのだとか(で、ナチスに利用される)。ワルキューレ(戦乙女)であるブリュンヒルデはジークフリートを身ごもったジークリンデを逃して、父ヴォータンの怒りに触れ、炎の山で永い眠りにつく。その眠りを覚ます英雄がジークフリートなのである。

|

2018年12月15日 (土)

酒呑童子より前か後か――土蜘蛛(葛城山)

◆芸北神楽の新舞

 芸北神楽の新舞に「葛城山(土蜘蛛)」という演目がある。土蜘蛛というと、朝廷にまつろわぬ輩を土蜘蛛と呼んでいるが、ここでは蜘蛛の精魂という解釈である。

「葛城山(土蜘蛛)」あらすじ
 源頼光は重い病を得て伏せていた。そこに土蜘蛛の精魂が変化した胡蝶がこの機会に頼光をとり喰らおうとする。胡蝶は毒薬を薬と偽って頼光に飲ませる。苦しみはじめた頼光に胡蝶は土蜘蛛の正体を現し襲いかかる。が、頼光は膝丸の太刀を抜いて土蜘蛛に浴びせかかる。深手を受けた土蜘蛛は葛城山に逃れる。膝丸は蜘蛛切丸と名前を改める。
 頼光は配下の四天王である卜部季武(うらべのすえたけ)と坂田金時に命じて葛城山の土蜘蛛退治を命じる。二人は葛城山の土蜘蛛が籠もっている古塚に攻めいって土蜘蛛を退治した。

◆動画

 YouTubeで横田神楽団の「葛城山」を視聴。桜江町とあるので江津市桜江町だろう。大元神楽のおひざ元で芸北神楽の新舞を演じているのは興味深い。登場人物は卜部季武と碓氷貞光に差し替えられている。途中、鬼の面を一瞬で着け、拍手が起きる。葛城山に限った話ではないが、鬼が片足をあげ、もう片方の足をずらして横に移動、身体能力の高さをアピールする。真似してみたが全くできなかった。

◆謡曲「土蜘蛛」

 謡曲「土蜘蛛」を直訳調であるが訳してみた。

前シテ:僧
ツレ:源頼光
同 :胡蝶
後シテ:蜘蛛
トモ:従者
ワキ:頼光の郎等
処は:前京都
  :後大和
季は:七月

土蜘蛛の精魂来りて病中の頼光を悩まさんとせしかば頼光、膝丸の剣を以て、これを切払ひ、郎等その血痕を、たどりて葛城山の巣崛に到り、遂に土蜘蛛を退治せし事を作れり。

ワキ次第「浮きたつ雲の行方を、浮きたつ雲の行方を、風の心地を尋ねん」
サシ「これは頼光の邸内に仕える小蝶と申す女でございます」
詞「さてさて頼光殿は病気でお悩みのため、典薬の頭(かみ)よりお薬を持ち、ただいま頼光殿の居所へ参りました。どうです、誰か入った者はいませんか」
トモ「誰ですか?」
シテ「典薬の頭からお薬を持って、小蝶が来た次第を申してください」
トモ「心得ました。ご機嫌を伺って申しあげましょう」
頼光サシ「こゝに消えかしこに結ぶ水の泡の、うき世にめぐる身にこそありけれ。本当にまあ人知れぬ、心は重い夜具の、恨む方もない袖を、独り寝のわびしい思いかな」
トモ「いかが申し上げましょう。典薬の頭よりお薬をもって、小蝶が来ました」
頼光「こちらへ来いと申しなさい」
トモ「かしこまって候。こちらへ来なさい」
ツレ「いかが申し上げましょう。典薬の頭からお薬を持って来ました。気分はどうでしょう」
頼光「昨日より心も弱り身も苦しんで、今は死期を待つばかりだ」
ツレ「いえいえ、それは差支えないでしょう。病は苦しいのが世の決まりですが、治療によって治る事の例(ためし)は世の中に多いものです」
頼光「思いも捨てず様々に」
地「手段を尽くして夜昼の、手段を尽くして夜昼の、境も知らぬ有様で、時の移るのをも、感じぬ程の心かな。まこと心を転じず、そのままで思い沈む身の、胸を苦しめる心となるのが悲しい」
シテ一声「月が清らかな夜半とも見えず雲と霧がかかれば曇る心だなあ」
詞「どうです、頼光殿、気分はどうでしょう」
頼光「不思議かな、誰とも知れぬ僧形が夜更けに及んで我を訪ねた。その名はどうにも覚束ない」
シテ「愚かな仰せでございますぞ。お悩みになるのもあなたが来るべき細蟹(ささがに:蜘蛛)の」
頼光「蜘蛛の振る舞いかねてから知らぬのになお近づく。姿は蜘蛛の如くなるが」
シテ「千筋の糸すじに隠れるか」
頼光「五体を短くして」
シテ「身を苦しめます」
地「化け物と見るよりも、枕にあった膝丸を、抜き開き、ちょうと切れば、背中を向けた所を続けざまに、足もためず薙ぎ伏せつつ、やったぞ、おうと騒がしい声で、形は消えて失せてしまった、失せてしまった」
ワキ詞「お声が高く聞こえましたので馳せ参じました。何という事でしょう」
頼光「追いつくにしても早く来た者だなあ。近く来たまえ。語って聞かせよう。そもそも夜半ばかりの頃、誰とも知らぬ僧形の者が来て私の気分を問うた。何物かと尋ねたところ、我が背子(せこ)が来べき宵なり細蟹(さゝがに:蜘蛛)の、蜘蛛のふるまいかねてしるしもという古歌を連ね、ただちに七尺ばかりの蜘蛛となって私に千筋の糸を繰りかけたのを、枕にあった膝丸で切りふせたが、化け物でかき消す様に失せたのである。これと言うのも偏に剣の威徳と思ったので、今日より膝丸を蜘蛛切と名づけよう。いかに奇特な事ではないか」
ワキ「言語道断。今に始まったことではありません君のご威光剣の威徳、いずれにしても目出度い事です。また御太刀で切りつけた跡を見たところ、甚だしく血が流れています。この血を探って化け物を退治しましょう」
頼光「急いで来たまえ」
ワキ「かしこまって候」
ワキ一声「土も木も我が大君の国ですので、どこに鬼が宿りましょうか。その時一人武者進み出て、彼の塚にむかい大きな音をたてて言いますには、これは音にも聞えたでしょう。頼光に従う武士でその名を得た一人武者。いかなる天魔鬼神であっても、命魂を断とうこの塚を、崩せや崩せ人々と、大声で叫ぶその声に力を得たばかりです」
地「下知(命令)に従う武士の、下知に従う武士の、塚を崩し石を返せば、塚の内から火炎を放ち、水を出すといえども、大勢崩すや古塚の、あやしい岩間の陰からも、鬼神の形は現れた」
後シテ「お前は知らぬか、我は昔、葛城山で年を経た土蜘蛛の精魂である。なお君が世に障害をなそうと頼光に近づいたところ、却って命を断とうとや」
ワキ「その時一人武者進み出て」
地「その時一人武者進み出でて、お前は天皇の治める土地に住みながら、君を悩ませるその天罰の、剣に当たって悩むだけか、命魂を断とうと、手に手を取って組みかかったので、蜘蛛の精霊が千筋の糸を繰りためて、投げかけ投げかけ白糸が手足にまとわり五体を縮めて、斃れ伏したと見えた」
ワキ「とはいえ」
地「とはいえ、神の国王地(天皇の治める土地)の恵みを頼み、彼の土蜘蛛を中に取り込め、大勢乱れかかったので、剣の光に少し恐れる様子を便りに、切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の、首を打ち落とし悦び勇み、都へと帰った」

 ……胡蝶が登場するので、謡曲「土蜘蛛」が芸北神楽の新舞の出典のようだ。謡曲では名前が出ていなく単に武者とだけ記されているが、神楽では源頼光の四天王である卜部季武と坂田金時が登場する配役となっている。胡蝶は小蝶と表記されている。

◆平家物語剣巻
 平家物語剣の巻にも土蜘蛛伝説が収録されている。口語訳してみると、

 同年の夏の頃、頼光は瘧病(ぎゃへい)つまり、おこりの病を得た。ついている病の気を落とそうとしても落ちず、加持祈祷したけれども叶わず、後には病が起こった。起こったので頭が痛く、身体が火照り、天にも付かず地にも付かず中に浮かれてお悩みになった。その後は熱気も覚め、頭痛も直った。このようにして起こった事は三十余の日であった。あるとき大事に起こって二時ばかり有ったときに、病が減気に向かったので(快方したので)四天王どもが看病するのも捨てて、閑静な所に入って休んだ。頼光は熱気は醒めたけれども、未だによく立ち直らなかった。夜が更けての事なので、燈火を守って、世間の事どもを案じ連ねて臥したところに、燈火の影から長(たけ)七尺ばかりの法師がするすると歩み出でて、繩をさばいて頼光に付けようとした。頼光は是に驚いてがばっと起きて「何物であらば頼光に繩をば付けようとするのか」と「憎き奴かな」と言って、枕に立て置いた膝丸を取って、ふっと切ったところ、手応えがあったので「うまくやったぞ、おう」とおっしゃった時に四天王どもが聞きつけて、我も我もと走り来て「これは何事ですか」と申したので、しかじかだと言った。「さては不思議であります」。やがて燈台の下を見たところ、誠に血がこぼれていた。手々に火を灯して見たところ、妻戸から出て、簀子へ降りたか、簀子にも血がこぼれていた。やがて門へ行ったが、長い道に血のしたたった跡を引いて北野の方へ血がこぼれていた。跡に目を付けて尋ね行くと、北野の中に大きな塚穴があり、その塚穴の内に入った。ただちに塚穴を打ち崩して見たところ、四尺の繩で搦めたのに足らぬ程の大蜘蛛であった。搦めて返ったので。「心外だ。頼光程の者が是程の奴に誑かされて三十余日悩んだことこそ不思議だ。彼らの仲間の今後の見せしめの為に」と言って、鉄(くろがね)の串に刺させて川原に立てて晒された。さて膝丸をば蛛切(くもきり)と名づける。

◆土蜘蛛草紙

 角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された土蜘蛛草紙も読んでみたが、芸北神楽の新舞との直接の関連はなさそうである。源頼光が病を得ているという描写はないようだし、胡蝶と名のる女性も出てこない。蜘蛛を退治する点では同様の内容で、謡曲「土蜘蛛」に先行するもの、本説かもしれない。

◆大江山の酒呑童子退治より先か後か

 土蜘蛛は酒呑童子の精魂であるという解釈もある。
 やはり寛文三年の正本であるが、『しゆ天どうじ』(東洋文庫蔵)の最終段、六段目「どうじさいご幷くびそらへまいあがる事」の結びの部分にも土蜘蛛退治の結合を見る。
(中略)
 ここでは土蜘蛛が「童子が執心」の変化だと解されている。仮名草子『お伽物語』(全五巻、延宝六年刊)四ノ三「百物語して蛛(くも)の足をきる事」のなかに、「何とてか我が背子が来べきよい事には引かれずして、童子が霊となりては頼光にも近づきしぞや。いまはたちまちに殺されても、わらはべなどの一昨日来(おとゝひこ)よと呼ぶも、その性(しやう)、執心の深ければこそ」と述べられてある一文も、土蜘蛛を「童子が執心」の変化と伝えた俗説の存在を裏づけるもの、元禄四年刊『多田満仲五代記』(全十巻十冊)巻六「頼光朝臣瘧病付討捕山蜘蛛事」の章で、「是ホドノ虫類ニ侵サレヌルコソ奇怪ナレ、如何サマ大江山ノ童子ガ化生ト覚ヘタリ」と言った頼光のことばも同じ俗伝の記録である。
「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)85-86P
 金平本の浄瑠璃において特に注目を要することは、大江山酒呑童子退治と土蜘蛛退治との間に、さらにもう一つ、童子の怨霊が江州伊吹山に再び悪鬼の姿を現じたという事件を挿入した作品のあることである。
(中略)
 本書は延宝頃の刊と推測されているが、内題にこの鬼を「しゆてんどうじ二代目」と記してあるところがおもしろい。この二代目が、伊吹山で頼光に切られながらも、首は「虚空に舞いあがり、雲のうちに声あって、いかに頼光、かさねて本望とぐべしと、口より火炎を吹き出し、黒雲にまぎれ、行き方知らず失せ」去り(二段目)、五段目で、今度は「蜘蛛の鬼」と化して頼光を狙い、挙句の果に退治されてしまうのだ。
「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)86-88P
 ……この解釈によれば葛城山の事件は大江山の酒呑童子退治より後のエピソードという解釈となる。一方、前とする解釈もあるようだ。個人的には酒呑童子退治で頂点を極めた頼光がやがて年を経て病に倒れ伏すといった解釈の方が馴染みやすいのではないかと感じる。

◆精読:土蜘蛛草紙
 「土蜘蛛草紙」(仮題)を精読した。

 神無月二十日頃に北山の辺りに行くと、蓮台野に至った。郎党に綱という男がいて、余人に勝る賢い兵だった。相慕い、頼光が三尺の剣を引っ提げ、綱は腹巻を付けた。こうして佇(たたず)んでいると、一つのどくろが空を飛ぶのを見て、風に従って雲に入った。綱と言い合ってどくろの行方を尋ね行くと、神楽岡という所に至った。とにかく佇んでいると、古い家があり、とても広い庭に分け入った。古い上達部(かんだちべ:公卿)の住処だろう。西に紅錦の山がある。南に碧瑠璃(へきるり)の水がある。庭は蘭菊(らんぎく)の野となり、門は禽獣(きんじゅう)の住処となっていた。

 さて、中門の内に至った。綱を留め置いて頼光は左右を顧みた。台所の障子の一面に、老女の息づかいが騒がしく聞こえる。やり戸を打ちたたいて開けた。

 頼光は汝(なんじ)は何者か、事情が分からないと問うと、老女が答えて、自分はこの所の年配の者です。二百九十歳になり、九代の主君に仕えましたと言った。

 髪は白く、同じ物(髪)を集めていた。抉(ぐじ)りという物を持って、左右の目を開けて上のまぶたを頭(かしら)に被せているので帽子の様であった。

 また、笄(こうがい)(女の髷(まげ)に挿して飾りとする器具)の様な物で口を差し開けて、うなじに結っていた。左右の乳を延ばして膝に引きかけているのに似ていた。

 若いのはそうだと言えますけれども、老いて自ら残ります恨めしさかな。宮の鶯(うぐいす)を住まわせています。梁(うつはり:横木)の燕(つばめ)が戸を下がることを嘆きます。

 君を見申し上げるのは長安昌家の娘、元和(げんな)の白楽天に逢う心地がします。人と所が異なると言えますけれども、彼処(かしこ)には江の上に浮かぶ月を見ます毎に、枕の上に積もる涙を悲しみます。

 願わくは私を殺してください。十念(念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天・念休息・念安般・念身・念死)が成就して三尊の来迎に預かりましょう。これに過ぎたことが何事より御恩です。殺すべしと言う。

 頼光はこの様者にあって、問答無用と思い、そこを出た。綱が台所に行って暮らし向きを伺(うかが)い見た。

 夕闇で空の景色がただならなくなった。夕暮れに紛う木の葉も大層降った。風が夥(おびただ)しく吹く。稲妻がしきりに鳴る。なお生きた心地もしない。

 綱が思ったのは、此処(ここ)に留まることは、もし群がっているいる化け物がいれば一つ処に寄るべきでない。また、逃げるべきでもない。

 忠臣は二人の主君に仕えないと言う。どうして命に背いて、更に恩を忘れるべきかと思って、雨に濡れ、風に縮こまっていた。

 頼光は心を静めて聞くと、鼓を打つような足音がして、言い知れぬ、入る火、異形の物どもが幾らと数も知れず歩み来た。柱を中に隔てて、各々去(い)ぬる姿はまちまちだった。

 頼光が通し火の方を見やると、その眼は白毫(びゃくごう)(仏の眉の間にある光を放つ白い毛)の様で、皆一度にどっと笑って、障子を引き立てて去っていった。

 また、一人の尼が来た。道州民の様であった。その丈は三尺ほどだった。面は二尺、丈一尺であろう。下(しも)の短さが思いやられて怪しかった。

 灯台の許に寄って火を蹴落とす、頼光に睨まれて尼公はにこにこと笑う。

 眉は太々と作って、紅は赤く、向脛(むかはぎ:むこうずね)に金を付けて、正しく紫の帽子で紅の袴を長めに着ている。身には艶々(つやつや)と掛かる物は無かった。

 手は細く糸筋の様だった。色は白く雪の様だ。朽ち満ちて、雲霞が消える様に失せた。

 鶏が暁を唱えて、忠臣(綱)は朝を待つ時分になったので、今は何事があろうかと思ったところ、怪しい足音で、向かった障子を五寸ばかり細めて、しばしば端が隠れた。その様は春の柳の風に乱れるよりも細やかだった。

 つくづくと立って、引き開けるのを見たところ、ようやく歩み来て、とても近くではなく、畳に居こぼれたのは待つ情けがあった。雪をうち払う気色だった。

 楊貴妃、李夫人と争う程の姿形なので、家主などが喜んで、燈火を睨む眼、透漆(すきうるし)を差したのに似ている。火の光で輝いていた。

 目も綾な心地がすると、この女は袴の裾を蹴り上げたところ、鞠(まり)の程の白雲を十ばかり、頼光に掛けつつ、目も見えなくなったところ、やがて二三間ばかり招き寄せて取り合えないところ。

 太刀を抜いて強かに斬ったところ、かき消す様に失せた。板敷きをうち落として、石据(石版)の石をそのままうち避けた。

 化物が帰ったところ、綱が来た。御敵は強かに召されました。ただ太刀の先が折れていますと言った。

 板敷きから抜き出して見たところ、まこと折れていた。そこを見ると、白い血が夥しく溜まって全く流れなかった。太刀にも白い血が付いていた。

 さて、綱と一緒に行方を尋ねたところ、昨日の老女の局(部屋)に至った。ここにも白い血ばかりがあって、主(ぬし)は見えず。

 はや一口に喰われたかと思い、尋ね行くと、西の山の方、遙かに分け入った洞窟の中に尋ね行くと、白い血が流れて、細い谷川の様だった。

 綱が言うには、御剣の折れようを見るに、楚国の眉間尺(みけんじゃく)が雄剣の先を折ったのと違いません。願わくは、藤を切り、葛(くず)を断って、人形を作って烏帽子、直垂(ひたたれ)を脱ぎ着せて、前に立てて行きますと申した。

 頼光は一緒に用意した。今は四五町も来たと思ったところ、穴の端に至った。ねぐらと思しき古屋が一つあった。瓦に松を植え、垣に苔むして、人の足跡は絶えていた。

 見ると、長さ二十丈ばかりの頭(かしら)で錦を着た様であった。頭の方に寄って、足は幾らとも知れず、眼(まなこ)は日月の様に輝いた。

 曰く、あら責めるな。これは何事、身に板付きのいるのも心苦しいと言い果てたところ、案に違わず、白雲の中に威光を放ったものが一つ来て、人形に立てば、人形は倒れた。

 化物は音もしなくなった。やがて近づいて両人は力を合わせて掴んだ。

 この物は力が強く、却って害をなそうとした。大盤石を動かす様だった。

 天照大神と正八幡宮に祈念する。我が国は神国である。神は国を守り給う。国はまた帝の芳心(親切)で治める。自分は臣下として、しかも王孫である。

 自分は十全の余慶(先祖の善行で得た子孫の幸福)の家に生まれ、今、この物を見ると畜生である。畜類は極悪無限、破戒無残のため、この道(六道)に生を受けた。しかも国に患いを成す。人の仇となる。

 我は即ち帝を守る兵である。国を治める片手である。お前は従わないだろうと言って、

 両人へ糸を引くと、始め仇なる心があると言えども、早く従って、退け様に倒れた。

 頼光は剣を抜いて、首を刎(は)ねた。綱が腹を開けようとすると、口の半ばに深く切れた傷があった。頼光が板敷きまで斬り通したところの傷である。

 そもそも何者かと見たところ、山蜘蛛という物だった。剣の切れ目から死人の首が千九百九十出た。

 すぐさま片腹を探すと七八の子供勢の小蜘蛛が幾らとも知れず走り騒いだ。

 腹を探すと、非常に長い頭(こうべ)が二十ばかりあった。一つの穴を掘って首を埋めた。かの所に火を掛けて焼き払った。

 天皇はお聞きになって、感じ入った。頼光を摂津守にした。正下の四位に至った。綱は丹波国を賜って、正下の五位にされた。

※以下、「土蜘蛛草紙」に漢字を当てた。

みなもとの頼光□□□□□□□□□□□□□□帝の御末ときこ□□□たけくつも□□□たり。

神無月廿日あまりの此、北山の辺□□行しけるに、蓮台野に至りぬ。

郎党に、綱と言ふ男(おのこ)有。是も余の人に勝れり。賢き□(兵)なりければ、あひした□□□□□□(けり)、頼光、三尺の□□(剣)引っ提げ(ひさけ)、綱は、腹巻(を)□□□□□□□□をたと□□帰り、とかく、佇む程に、

一のどくろ、空を□□(飛ぶ)是を見るに、風に従ひて、雲に入りぬ。綱、云合て、この行方を尋ね行(ゆ)くに、神楽岡と云ところに至りぬ。どくろ見えず成ぬ。

その所に、古き家あり、いと広き庭の面に□□□□□分け入る、袖も絞るはか□□□□□(門を)見やる□、葎(むくら)□□(とち)て、自ずから絶たり。

古き上達部の住処なるべし、西に(紅錦)□□□の山あり、南に碧瑠璃の水有、庭には(マゝ)蘭菊の野となり、門は禽獣の住処となれり。

さて、中門(もむ)の内に至りぬ。綱をば留めておきて、頼光は左右を顧みる。

台所の障子の一面なるに、老女の息差(いきさし)騒がしき、音な聞こゆ。やり戸を、打ち叩くに、開けたり。

頼光、問ひて曰く、汝は何者ぞ、事の心湧き難しとの給へ□、

答えて云、我はこの所の年頃の者也。二百九十に罷り(な)□る。主君九代に仕えたりと言ふを見れば、

髪白くして、同じ物を集めたり。抉り(くじり)と言ふ物を持ちて、左右の目を開け□(て)、上のまぶたを頭(かしら)の(に)うちかづきたれば、□(帽)子の如し。

また、笄(かうかい)の様(やう)なる物にて、口を差し開けて、肩をひ□□□□して、うなじに結へり。左右のち(乳か)を延べて、膝に引きかけ□しを着たるゝに、似たり。

云う様(やう)、春住、秋来れども、思はあ□□(らた)まらず。歳去歳来りて、恨のみ切なり。此ところには、魔□□□して、人跡絶たり。

若きは然ると言へども、老て自ら残る、□(う)らめしきかな。宮の鶯住ますなり、梁(うつはり)の燕(つはくらめ)、□(と)を□□(さか)る事を嘆く。

君を見奉るは、長安昌家のむ□□(すめ)、元和の□□(白楽)天に逢へる心地す。人と所異なりと言へども、□□□□□□□(きしはこれおなし)、彼処(かしこ)には、江の上に浮かぶ月を見る毎に、枕の上に積もる涙を悲しむ。

願はくば、我を殺し給へ。十念成就して、□□(三尊)来迎に預らむ。何事か、これに過ぎたる御恩、候べきと言ふ。

頼光、斯くの如きの者に会ひて、問答無益(むやく)と思ひ、そこを出でて有。綱、台所に行(ゆ)きて、世間を伺ひ見けり。

夕闇の程、空の景色、たゞならずなりぬ。□□くれに、紛ふ木の葉も、いたく降り勝り。風夥しく吹て神なり。稲妻、繁し。更に生けるべき心地もせず。

綱が思ひけるは、此処に留まりつる事は、もし群がれいる、化け物あらば、両人の中に取り籠めて十方より、斬り破るべし。

□□ら中に、取り籠められなば、更に叶ふべからず。また、さりとて、一処に寄るべきにあらず。又にくへきにあらず。

忠臣は両君に仕えず、かうちよ(公序か)は主に□ず、と言ふことあり。いかでか命を背き、さらに恩を忘るべきと思ひて、雨に濡れ、風に萎れて居たり。

頼光は心を静めて聞くに、皷を打つが如く、足音して、言ひ知らぬ、入る火、異形(いきやう)の物ども、幾らと言ふ数を知らず歩み来たれり。□□□□(はしらを)中に隔てて、各々去(ゐ)ぬ姿、まちまちなり。

頼光、通し火の方を見やるに、その眼、白毫の如し。□□(みな)一度にどうと笑ひて、障子を引き立てて去り行(ゆ)きぬ。

また、一人の尼来たれり、道州民の如し。その丈三尺ばかりなり。面二尺、丈一尺なるべし、下(しも)の短さ思やられて、怪(け)しからず。

灯台の許に居寄りて火を蹴落とす。頼光に睨まれて、尼公、にこにこと咲へり。

眉太々と作りて、紅赤く、むかは二(向脛[むかはぎ]か)に、金(かね)付けて、正しく紫の□(帽)子□□(にて)、紅の袴、長やかに着たり。身には艶々かゝる物なし。

手細くして、糸筋の如し。色白くして雪の如し。□□けむに朽ち満てり。雲かすみの消ゆるが如くして、失せ□□(けり)。

鶏人、暁を唱へて、忠臣、朝(あした)を待程になりぬれば、今は何事か有べきと思ふに、怪しき足音にて、向かひたる障子□□□□□五寸ばかり細めて、しばしば、端隠れたり。その様、春の柳の風に乱れたるよりも細やかなり。

つくづくと立ちて、引き開くるを見る程に、やうやう歩み来たりて、いたく、け近くはあらで、畳にゐこぼれたる程、待つ情けあり、いはゆる、あ□□□□□□□雪をうち払える気色也。

楊貴妃、李夫人□□争ふ程の形なれば、家主などの喜び思ひて、来たれるかとまで、思い続けて見るに、風、冷やゝかに吹きて、暇白みゆけば、この女、つと立ちて帰ると見ゆる。

□□□□□□□□□(たけころに)なり、髪を前へかい取りて、燈を睨まへたる眼、透漆(すきうるし)を差せるに似たり。火の光に輝き合ひたり。

目も綾なる心地するに、此女、袴の裾を蹴上げたれば、鞠の程なる白雲を十ばかり、頼光に□□かけつゝ、目も見えずなるに、やがて二三間ばかり、□き寄せて□取りあへぬに。

太刀を抜きて、強(したゝ)かに斬るに、掻き消つ様(やう)□、失せぬ。板敷をうち落として、石据への石を乍らばかり、うち避けり。

化人帰りつれば、綱来たり。御敵は強かに召され候□、只の(マゝ)御太刀の先や、折れぬらんと言ふ。

板敷より抜き出でて見れば、げにも折れたり。そこを見るに、白き血、夥しく溜まり、全て流れず。太刀にも白き血付きたり。

さて、綱諸共に、行方を尋ぬる程に、昨日の老女の局に至りぬ。ここにも白き血ばかりありて、主(ぬし)は見えず。

はや一口に喰われて□□□(けるな)と思ひ、尋ね行に、西の山の方、遥かに分け入りたる洞の中に尋ね行(ゆ)くに白血流れ出でて、細谷河の如し。

綱が言う様(やう)、御剣の先の折れ様を見るに、楚国のみけむさく(眉間尺)、しかう(伺候か)を思て、雄剣の先を□□つるに違はず。願はくば、藤を切り、葛を断ち□(て)、人形を作りて、烏帽子、直垂を脱ぎ着せて、前に立て行と申。

頼光諸共に、用意しけり。今は四五町も来ぬらむと思ふに、穴の端に至りぬ。むねくら(ねぐら?)と思しき古屋、一つ有。瓦に松を□、垣に苔むして、人跡絶えたり。

見るに、長さ二十丈ばかりなる、頭(かしら)、錦を着たるが如し、頭の方に寄りて、足幾らとも知らず思し、眼(まなこ)は日月の光の如く輝けり。

多きに□めきて曰く、あな責むなや、こは何事、□(身)に、板付きのいるも苦しと言ひ果てぬに、案違わず、白雲の中に威光を放ちたるもの、一つ来たりて、人形に立てば、人形(にむきやう)、倒(たふ)れぬ。

取りて□□□(見るに)、わが剣の先なり。此男(おのこ)の言葉に違はず、只者にあらずとぞ思ひける。

化人、音もせずなりぬ。やがて、近づきて、両人、力を合わせて掴み致す。

この物、力強くして、却りて害をなさんとす。大磐石を動かさむが如し。

天照大神、正八幡宮に祈念す、我朝は神国なり。神は国を守(まほ)り給。国はまた帝の芳心をもて治む。我はまた臣として、しかも□(王)孫なり。

我、十全の余慶の家に生(む)まれ、今、この物を見るに畜生なり。畜類は極悪無限(むけむ)、破戒無残(むさむ)の故に、この道に生を受く。しかも、国に患いを成す。人の仇となる。

我即ち、帝を守(まほ)る兵なり。国を治むる片手なり。汝従はざらんと言ひて。

両人、ゑ糸引くに、初めあ□□(たし)心ありと、云へども、早く従いて、退け様に倒(たう)れぬ。

頼光、剣を抜きて、首を刎ぬ。綱、腹をあけて(む)とするに□の半ばの程に深く切れたる疵有。頼光、板敷まで斬り通す処の疵也。

抑(そも)、何物ぞと見るに、山蜘蛛と言ふ物なり。剣(けむ)の切り目より死人の首、千九百九十ぞ出でたる。

やがて片腹を探すに七八の子供の勢なる小蛛幾らという事を知らず、走り騒ぐ。

腹を探すに、無下に少なきちやう(長か)頭(かうへ)二十ばかり有、一つの穴を掘りて首を埋みぬ。彼の所に火を掛けて焼き払いつ。

公(おほやけ)、聞し召して御感あり。頼光をば津の守(かみ)に成す。正下の四位に至る。綱は丹波国を給はりて、正下の五位になされにけり。

◆参考文献

・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「土蜘蛛」pp.610-614
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「土蜘蛛草紙」pp.436-441
・「平家物語剣巻」「完訳 日本の古典 第四十五巻 平家物語(四)」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1989) pp.417-419
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・山本陽子「東京国立博物館本『土蜘蛛草紙』絵巻と人形芝居―特異な筋立てと絵画表現の理由について―」「明星大学研究紀要 人文学部・日本文化学科」第23号(明星大学人文学部・日本文化学科, 2015)pp.285-299
・須藤真紀『「土蜘蛛草紙」成立の背景をめぐって」「説話文学研究」第37号(説話文学会/編, 2002)pp.62-80
・白渓「『土蜘蛛草紙』における漢文学の受容」「京都大学国文学論叢」第37号(京都大学大学院文学研究科国語学国文学研究室, 2017)pp.1-14
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.246-253, 255
・「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)

記事を転載→「広小路

|

2018年12月12日 (水)

神祇ではない――ぬえと頼政

◆ぬえ退治の伝説

 石見神楽に「頼政」という演目がある。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎であるぬえという怪物を源頼政が退治したという伝説を神楽化したものである。現在は舞殿に手下の猿を多数登場させ、暴れまわらせるという舞手と観客が交流する要素の強い演目となっている。

◆平家物語

 出典である「平家物語」の「鵼(ぬえ)」の段を直訳調ではあるが訳してみた。

 そもそも源三位入道と申す人は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政の子である。保元の合戦の時、味方で先陣をかけたけれども、大した賞にも預からず、また平治の逆乱にも親類を捨てて参じたけれども、恩賞は劣っていた。大内(大内裏)守護で年久しくあったけれども、昇殿を許されず、年かさ齢傾いて後、述懐の和歌一首を詠んで昇殿を許された。

 人知れず大内山のやまもりは木(こ)がくれてのみ月をみるかな
この歌によって昇殿を許され、正下四位でしばらくあったが、三位を心にかけつつ

 のぼるべきたよりなき身は木(こ)のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな

しゐと四位をかけている。思った通り三位はうまくいった。やがて出家して源三位入道といって、今年は七十五歳になられた。

 この人の生涯の功名と思えることは、近衛院ご在位の時、仁平(にんぺい)の頃、帝が夜な夜な怯えたまげる事があった。有験(祈祷の効果のある)の高僧貴僧に仰せになって大法(密教の修法のうち最も重んぜられるもの)秘法を修せられたけれども、その効果がなかった。ご病気はおおよそ丑の刻であったところ、東三条の森の方から黒雲が一村(むら)たち来たって御殿の上を覆ったので、必ず怯えなさった。これで公卿の評議が行われた。さる寛治の頃、堀河天皇ご在位のとき同じように帝が夜な夜な怯えたことがあった。その時の将軍源義家朝臣は南殿(紫宸殿)の大床に控えていたが、ご病気の時に及んで、弓の弦を三度鳴らしてそののち、高い声で「前(さきの)陸奥守源義家」と名のったところ、人々はみな身の毛もよだって、ご病気が直った。

 それゆえただちに先例に任せて、武士に仰せて警護あるべしといって、源平両家の兵(つわもの)どもの中をお選びなったところ、頼政を選びだされたと聞こえる。その時はまだ兵庫頭と言っていた。頼政が申すことには「昔から皇室に武士をおく事は、謀反の者を退け、勅命に違う者をほろぼす為である。目に見えぬ変化のものだけれども、仰せ下さること、未だ謹んで受けるには及ばない」と言いながら、勅命なので呼び出しに応じて参内する。頼政はどこまでも頼みにしている郎党、遠江の国の住人、井早太(ゐのはやた)にほろ羽の中の風切という羽で矧(は)いた(竹に羽をつけて矢を作る)矢を負わせて、ただ一人従えた。自分の身は二重の狩衣に山鳥の尾ではいた先の尖った矢を二筋、滋籐(しげどう:下地を黒塗りにして、その上を点々と白の引籐で巻いた弓)の弓にとり添えて、南殿の大床に謹んで奉仕した。頼政は矢を二つ手の下に挟んで持った事は雅頼(まさより)卿、その時はまだ左少弁でいらしたが、「変化の物を(退治)する者は頼政ぞ」と選び申されたから、一の矢に変化の物を射損じる物ならば、二の矢には雅頼という弁官のそいつの骨を射ようとなった。

 日頃、人々の言うことに違わず、ご病気の頃に及んで、東三条の森の方から、黒雲がひとむらたち来たって御殿の上にたなびいた。頼政がきっと見上げたところ、雲の中に怪しい物の姿があった。これを射損じるものならば、この世にいられまいと思った。そうでありながらも矢を取ってつがえ、「南無八幡大菩薩」と心の内で祈念して弓を十分に引き絞ってひょうと射た。手ごたえがしてはたと当たる。「うまくやったぞ、おう」と矢さけび(矢の当たったときに射手があげる歓声)をした。井の早太がつっと寄り、落ちたところを捕って押さえて続けざまに九つの刀で刺した。その時上下手々に火を灯してこれをご覧になったところ、頭は猿、体は狸、尾は蛇(くちなわ)、手足は虎の姿だった。鳴く声が鵼(ぬえ)に似ていた。恐ろしいと言っても言い尽くせない。帝は感じ入るあまりに、獅子王という御刀を下された。宇治の左大臣殿(藤原頼長)がこれを取り次いで、頼政にお与えになろうとして御前の階段をおよそ半分ほど降りたところに、頃は卯月(陰暦四月)十日あまりの事なので、雲のうえに郭公(カッコウ)が二声三声声をたてて通った。その時左大臣殿は、

 ほととぎす名をも雲井にあぐるかな

 とおっしゃったので、頼政は右の膝をついて、左の袖を広げ、月を少し横目で見ながら

 弓はり月のいるにまかせて

と詠んで、御剣を賜って、退出した。「弓矢をとって並びなきのみならず、歌道も優れている」と君も臣もお感じになった。さて、かの変化の物をうつほ舟(中を空洞にした丸木舟)に入れて流されたと聞こえた。

 さる応保の頃、二条院ご在位の時、鵼(ぬえ)という怪鳥が宮中に鳴いて、しばしば天皇のお心を悩ますことがあった。先例をもって、頼政を召された。頃は五月(さつき)二十日あまりのまだ日が暮れてから間もない時のことで、鵼はただ一声で訪れて二声とも鳴かなかった。狙おうにもどこにいるのか分からない闇ではあり、姿形も見えないので、矢の狙いどころをどことも定め難かった。頼政は仮に先ず大きな鏑の矢をとってつがえ、鵼の声のした内裏の上へと射上げた。鵼は鏑の音に驚いて、虚空にしばらくヒヒと声をたてて鳴いた。二の矢に鏑の小さな矢をとってつがえ、ひいふっと射きって、鵼と鏑を並べて前に落とした。宮中はざわざわと音を立て合い、感じ入ることは一通りでなく、御衣を被せてお与えになったところ、その時は大炊御門(おほひのみかど)(藤原公能)の右大臣公能(きんよし)公がこれを取り次いで頼政に被せたといって「昔の養由(養由基:射術の名人)は雲の外の雁を射た。今の頼政は雨の中で鵼を射た」と感じ入った。

 五月(さつき)闇名をあらはせるこよひかな

とおっしゃったので、頼政は

 たそかれ時も過ぎぬと思ふに

と返歌して、御衣を肩にかけて退出した。その後、伊豆の国を賜り、子息の仲綱を受領(国司)にして我が身は三位に上がって、丹波の五ケ庄(五ケ荘)、若狭の東宮河(とうみやがは)を治め、そうしているべきだった人の、由無い謀反を行って、(高倉)宮をも失って、我が身も滅んだことはどうしようもない人だ。
 ……頼政の伝説が記されている段である。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物を退治したエピソードと、鵼という怪鳥を退治したことが語られている。また、武人というだけでなく歌人としても優れていたことが返歌に表されている。冒頭の記述にあるように実際の頼政は中々出世できず昇殿できない日々を送っていたようだ。保元の乱で先陣を切っても、また、平治の乱でも平家方についたのにさしたる恩賞がなかったことが記されている。七十歳を過ぎて平家に反抗、自刃したことも記されている。小学館・少年少女世界の名作文学に平家物語も収録されているのだけど、鵺退治で活躍した頼政が年老いてから平家に反抗したことを記憶している。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎というぬえの画が描かれた図鑑も持っていた。

◆神祇ではない

 校訂石見神楽台本の「頼政」の注に
 原據は平家物語、あるひは源平盛衰記で、源三位頼政のぬえ退治の伝説であるが、これは神祇とは直接関係のない神楽である。この点に異色がある。頼政が弓の名人であつたから、その背景に弓八幡の信仰が宿つてゐる、といへばいへよう。詞章も十分整ったものでなく、素人くさい感じであり、未だ成長途上にあるものゝごとくである。(141P)
とある。神祇ではないということは言わば神話でも縁起でもないというところだろうか。神楽といえば神話劇なのであるが、頼政ではそれを離れて怪物退治を鑑賞する演目となっている。頼政は校訂石見神楽台本に記されているから明治以前からあった演目と思われるが、やがて神話でも縁起でもない娯楽性の強い鬼退治の演目が増えてくる。特に源頼光にまつわる伝説群がそうである。広島県の芸北神楽の新舞は戦後の創作神楽であるが、GHQの統制を逃れるためもあって、なお一層その傾向が強いのである。

◆動画

 YouTubeで亀山社中の「頼政」を観る。頼政と猪早太が退場すると、ぬえの手下の猿たちがぞろぞろと登場する。チャリと思しき農夫が登場して猿たちと絡む。猿たちは観客席に乱入して大騒ぎする。子供たちに大うけしている。それから再び頼政と猪早太が登場して猿が退場、ぬえが登場する。ぬえが退治されて頼政は宝剣を賜り喜びの舞で締めくくりとなる。猿たちの乱入は校訂石見神楽台本には記されていないから、後に付け加えられた演出だろうか。

◆太平記
 太平記に鵼退治後の頼政のエピソードが記されている。鵺退治の褒賞として女官を賜わるのである。頼政は藤壺のあやめという女官に長年懸想していたが、顔を知らなかったので、美しい女官を十二人並べて、その中で藤壺のあやめを選べと言われた。頼政が迷っていると、女官が「早く選ばないと紛れてしまいますよ」と言ったので、返歌を詠んだところ、皆感じ入って、太政大臣があやめの手を引いて「これがお前の妻だ」と賜った……というエピソードである。

「近衛院の御代に、紫宸殿の上で鵼という怪鳥が鳴いて、あやしさを告げた時に、源三位(さんみ)頼政が勅命を承って射て落としたので、帝は限りなく感じ入り、紅の御衣を当座のご褒美にかけられた『この上は官位も国守の欠けた国(国司補任)もなお満たすには足らない(十分でない)。まことだろうか。この頼政は藤壺(ふじつぼ)のあやめに懸想して、相手を見る前から恋に思い悩んでいる。今夜の褒美でこれを頼政に下すべし。ただし、この女を噂に聞くだけで、頼政は未だ見ていないので、同じ様な女を揃えて選ぶのに煩うならば菖蒲(あやめ)も知らない恋をするものだと笑うべし(笑ってやろう)』と仰せになって、後宮の三千の侍女のその中に花が妬み月が嫉む程の女房たちを十二人まで選ばれたところ、この女房(藤壺のあやめ)も同じ装いで衣装を着けて、おぼろげな金糸模様の単衣(ひとえ)の帷子(かたびら)の中にかすかな薄明かりの中に並べ据えて、頼政卿を召された。源三位頼政は清涼殿の孫廂(まごびさし:寝殿造りで母屋のひさしの外に更に出し添えたひさし)で畏まり侍っていたところ、更衣(の女官)を勅使にして『今夜の褒美を飽き足らずに思ったので、浅香沼のあやめを下そう。その手を疲れてだるくとも、自ら引いて我が家の妻となせ』と仰せになった。頼政は勅命なので辞退申すには恐れ多かった。その上、長年思い悩んでいた程の事なので、限りなくうれしく思い、大床(おほゆか)に手を打ち掛け、あやめを引いて取ろうと見たところ、いずれも十六七歳の女房が可愛らしく、姿は妖艶で、黄金と翡翠の飾りを装い、雪の様な白い顔で、我こそよく見えようと繕った紅花緑葉(紅色の花と緑色の葉)の袖の香り香りは蘭の花と麝香(じゃこう)に触れる心地がして、目に見えない(かぐわしい)風にも心惹かれ、辺りほとりも輝き渡って、この世には二つとあらぬ類の嵐山、(吉野山の)千本桜が花盛りで、桜の花と雲が見分けがつかなく、目移りして心迷って誰があやめかと定かには(手を)引くべき心地も無かった。更衣は笑って『なにゆえ早く引いてお取りにならないのです。水が増したら、(浅い)浅香沼へも紛れてしまう事もあるでしょう』と申したので、頼政はとりあえず、

 五月雨に沢辺のまこも水こゑて何(いづ)れあやめと引きぞわずらふ

と、この様に申したので、時の近衛関白太政大臣は余りに感じ入ったので耐えかねて、自ら摂関の詰所をお立ちになって、あやめの袖を引いて「これこそお前の家の妻だ」と頼政に下された(賜った)。頼政は鵼を射て落とし、弓矢の名を上げるのみならず、ただ今詠んだ歌に感じ入ることで、長年久しく恋していたあやめの前を賜った帝直々の恩賞で面目をほどこしたのであった」

◆参考文献

・「完訳 日本の古典 43 平家物語 二」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1984)pp.79-85, 258-261
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.139-141
・「太平記3 新編日本古典文学全集56」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1997)pp.42-44
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.297-303

記事を転載 →「広小路

 

|

2018年12月 8日 (土)

鷲宮神社の神楽を見学.2018.12

初酉の日(12月7日)、鷲宮神社で催された神楽を見物に行く。大酉茶屋が開いていたので立ち寄っておけばよかった。

・天照国照太祝詞神詠之段
・天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
・天神地祇感応納受之段
・五穀最上国家経営之段
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・磐戸照開諸神大喜之段
・浦安四方之国固之段

天照国照太祝詞神詠之段
天照国照太祝詞神詠之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天神地祇感応納受之段
天神地祇感応納受之段
五穀最上国家経営之段
五穀最上国家経営之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
浦安四方之国固之段
浦安四方之国固之段
大酉茶屋
大酉茶屋

巫女さんは全員で9人いて、出番を割り振るのが大変だそうである。そういう意味で「祓除清浄杓大麻之段」と「磐戸照開諸神大喜之段」は毎回上演されている。

昭和30年代に後継者がいなくなって、保存運動が始まったとのこと。戦争で人手が軍隊に奪われたのと、高度経済成長が始まって農村部から都市部に人が流れてしまったのが大きな要因だろう。

他、平成19年にスウェーデン国王王妃夫妻と天皇皇后両陛下が川口行幸の際、土師一流催馬楽神楽を披露したことなどを話された。

なお、鷲宮神社の神楽にストーリー性はなく、「神のしぐさ」を表したものだそうである。

|

2018年12月 7日 (金)

万博と大蛇

少し前の話だが、2025年の大阪万博が正式に決定した。前の大阪万博のとき、僕はまだ赤ん坊で、母が兄姉四人を連れて万博を観にいった。僕は父と家で留守番だったが、「びぃびぃやんに行く!」と父を困らせたらしい。近所の魚屋さんに母がいると思ったのだろう。

俵木悟『八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽「大蛇」の大阪万博出演とその影響―』という論文が「石見神楽の創造性に関する研究」に収録されている。大阪万博で地方の郷土芸能が紹介されて、島根県からは石見神楽が出展したのだが(元々はホーランエンヤを予定だったが諸事情で変更になったらしい)、そこで舞われた八頭の大蛇が登場する「大蛇」が非常にインパクトを残したらしい。他所の伝統芸能で「オロチに喰われた」と述懐する人もいたとのことである。大阪万博をきっかけにして大蛇の上演機会は増え、何頭もの大蛇が舞うスペクタクル化していったらしい。

 

|

2018年12月 5日 (水)

二年連続「大蛇」

「斉藤裕子でごじゃるよ~」という広島県の神楽を取り上げたブログがある。広島でこの人を知らない人はモグリだと言われるのだそうだ(知らなかった)。ちなみに浜田出身とのこと。三中だそうである。その記事を読んでいて、2017年に加計高校芸北分校・神楽部が高校総文(全国高等学校総合文化祭)で「大蛇」を舞って文化庁長官賞を受賞したという記事があった。これを読んで思ったのは、確か今年の総文で浜田商業高校が「大蛇」で挑んだという知らせをFacebookで読んだのだった。さすがに同じ演目で二年連続受賞は厳しいかもしれない。石見神楽と芸北神楽は親戚のようなものだから痛しかゆしというところだろう。

http://yuuko.xii.jp/blognplus/index.php?e=2138

|

学生のうちに読んでおくべきだった――祖父江孝男「文化人類学入門」

祖父江孝男「文化人類学入門」(中公新書)を読み終える。これも学生のうちに読んでおけばよかったという印象。交差イトコ婚で父系と母系の違いが今一つしっくりこない。自分で図を描いてみる等しなければ駄目だろうか。他、言語学の分野が難しく思えた。わずかなページ数で記述するからというのもあるだろうけれど。

|

2018年12月 2日 (日)

編集部の方針次第だが――カグラ舞う!

月刊ヤングキングアワーズ最新号を買う。「カグラ舞う!」のキャラ紹介、神楽の次が住吉君になっている。住吉君は神楽のことが好きなのだろう。今後、昴と住吉君のどちらを選ぶかの展開もあるかもしれない。今回、岩戸の衣装を実際につける場面となっている。作者の健康問題もあるらしく、ゆったりしたペースで作品は進んでいる。「鬼踊れ!!」みたいに適当なところで打ち切りとならなければいいのだけど。実際にそういう事例を目の当たりにしたばかりなので心配になってくる。雑誌での掲載順はまん中ほどで、人気順ではないかもしれないけれど、ほどほどのポジションにはいるのだろう。

|

大江山と伊吹山――酒呑童子

◆かつての創作演目

 「大江山」は他サイトの表現を借りると、オールスターキャストで人気の演目であるが、古い神楽台本には見当たらないらしい。校訂石見神楽台本にも「大江山」は収録されていない。佐々木順三「かぐら台本集」によると、
「大江山」
「この一曲は、一応藩政期と明治期に時代区分をしたとき、藩政時代に脚本ができて、舞われていたものか、明治期にはいってかっらのものかはっきりしていない。古典石見神楽台本中にも見当らない。おそらく明治期になってからできたものと思われる。美土里町内に明治五年に購入した記録のある酒呑童子面が本郷地区河内にあったことから、当時大江山の一曲がこの地方で舞われていたことはたしかであると思う。してみると、この曲は明治期の初期につくられた、当時の新作曲目であって、今日では中古典の曲目ということができると思う。」(中略)「また語法も他の曲目とちがって、きわめて通俗的で、とうてい国学者や神道学者によって書かれた台本とはいいがたいものがある。おそらく、宮かぐらが神職管理から開放された後に、地方の物好きな通俗文士によって作られたものであろう。」
佐々木順三「かぐら台本集」(56P)
とある。牛尾三千夫「神楽と神がかり」では、
大江山という曲目は、明治初年に石州矢上村の諏訪神社視祠官静靭夫の創作したもので、石州から安芸山県郡地方へと伝授されて、次第に山県郡地方から佐伯郡地方へ波及し、更に小瀬川を渡って釜ヶ原地方へ伝来したものと思われる。
牛尾三千夫「神楽と神がかり」489P
とある。

 芸北神楽の旧舞の「大江山」は、
 伊勢の国、天照皇大神宮の参誓託(さんぜがたく)という神が源頼光らが現れるのを待っている。
 源頼光は丹波国大江山に鬼人が多数住んで民を悩ますので、これを退治せよとの勅命を被った。四天王が出てくるまでしばし休息をとる。
 渡辺綱と坂田金時が登場する。参誓託が現れ、鎧、兜、剣、銚子を授ける。銚子は左口からつぐときは向こうの力が千人減り、右口からつぐときは、こちらの力が千人増すというものである。
 栗木又次郎(くりきのまたじろう)が現れ、頼光たちに大江山の案内をする。 都から囚われの身となった紅葉姫は洗濯している際に頼光たちに会い、鬼の岩屋まで案内する。
 酒の肴として案内された頼光たちだったが、自ら山伏修験者であると名乗り、酒呑童子たちに酒をつぐ。
 酒呑童子は越後の国の生まれで、山寺にこもったが、才を妬まれて額に鬼という文字を書かれた。その無念さで鬼人となった。高野山に登り、住処としようとしたが、弘法大師によって追い出された。そこで京都は比叡山に登り、住処としようとしたが、伝教大師によって追い出された。その後、京都の羅生門に立てこもったが、渡辺綱が茨木童子の左腕を切り落としたので、綱の乳母の姿となって左腕を取り戻した。その後、大江山にとび移って住処となしたと述べる。
 正体を現した頼光たちは童子たちと対決する。たばかられたと知った童子たちだったが、茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。頼光と四天王を相手にした酒呑童子だったが、遂に討ち取られる。

という粗筋となっている。

◆芸北神楽の新舞

 佐々木順三「かぐら台本集」によると芸北神楽の新舞でも大江山の演目はあり、羅生門~戻り橋~大江山をコンパクトにまとめた形となっている。
「大江山三段がえし」
[第一段]
 源頼光に仕える四天王の一人、渡辺綱は近頃羅生門に夜な夜な怪物が現れ、庶民を悩ましているため、これを退治すべく羅生門にやって来た。茨木童子(いばらぎどうじ)と対決した綱は童子の左腕を切り落とす。
 酒呑童子が現れ、渡辺綱の乳母に化けて、茨木童子の左腕を取り戻す。
[第二段]
 橘中納言忠家に仕える下僕喜藤太(しもべきとうだ)は忠家の娘である紅葉姫について清水観音に詣でていた。そこに茨木童子が現れて、姫をさらってしまう。気絶していた喜藤太は忠家にことの次第を報告する。
[第三段]
 第十六代清和天皇三世の孫、満仲の嫡男である源頼光は渡辺綱、坂田金時を連れて丹波国大江山に向かった。山伏修験者に変装した頼光らは石清水弓矢八幡に詣でる。
 石清水の神霊が現れ、神変鬼毒酒(しんぺんきどくのさけ)を頼光らに授ける。この酒は善人がこれを飲むときは千人力となり、悪人がこれを飲むときは、たちどころにその魔力を失うものである。
 囚われの紅葉姫は谷の小川で洗濯をしていた。そこに頼光らが現れる。紅葉姫は鬼の岩屋に頼光らを案内する。
 山伏が一夜の宿を求めていると紅葉姫が酒呑童子たちの前に連れていく。酒呑童子は頼光らが刀を帯びていることを訝しく思ったが、神変鬼毒酒を飲む。茨木童子、唐熊童子(からくまどうじ)もこれを飲む。酒を飲んだことを見届けた頼光は名を名乗り、たばかられたと知った童子たちと戦いになる。茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。酒呑童子は頼光、綱、金時の三人を相手に立ち回るが、討ち取られる。

 茨木童子の腕を取り返すのが酒呑童子であることが特徴だろうか。

◆御伽草子「酒呑童子」

 御伽草子「酒呑童子」をつたないながら訳してみた。

 昔、わが国のことであるが、天地が開けて以来、神の国といいながら、また仏法が盛んで、人代の天皇陛下の始め(神武天皇)から延喜の帝(醍醐天皇)に至るまで王たるものの道が備わり、政治は滞りなく、民をも憐れむこと中国の堯舜(ぎょうしゅん)の御代でも、これにはどうして勝るだろう。しかし、世の中に不思議なことが出て来た。丹波の国の大江山には鬼神が住んで、日が暮れれば近国や他国の者まで、数知れず取っていく。都の内で取る人は、見目うるわしい十七、八歳の女房を頭として、これをも沢山取っていく。いずれももっとも哀れだったのは、院にお仕えする池田の中納言くにたかといって、院の覚えがめでたく、宝は内に満ち満ちて富貴の家であるが、姫が一人いる。仏教でいう三十ニ相の容貌を授かり、美人の姫君を見聞きする人で恩愛をかけない者はいない。二人の親の寵愛することは一通りではなく、これ程に優しい姫君を、ある日の暮れのことであるが、行方を知らず消えうせた。父くにたかをはじめとして奥方の嘆くこと、乳母やお守り役や女房たち、その他居合わせた人までの上を下へと騒ぎとなった。中納言はあまりの悲しさに左近衛府の者を召して、「どんなにか、左近よ、謹んで聞け、この程、都に隠れない村岡のまさときという評判の高い博士がいると聞く。連れて参れ」とおっしゃった。「承知しました」と答えて博士を連れて居所へ参った。気の毒だ、父くにたかも奥方も、恥も人目もはばからず、博士に対面しつつ、「どんなにか、まさときよ謹んで聞け。それは人の世の常で、五人十人ある子でさえいずれもおろそかにせぬ世の常で、自分はただ一人の姫を昨夜の暮れに行方知らずとなり見失った。今年十三歳の寅年で、生まれてからこの方は縁から下へ降りるのさえ乳母やお守り役が付き添って、荒い風も避けていたのを、人を迷わせる変化の仕業ならば自分をも共に、どうして連れて行かなかったのか」と袂を顔に押し当てて「占い給え、博士」といって代価として銭一万疋を博士の前に積ませながら、「姫の行方を知るならば、多数の宝を与えよう。よくよく占うべし」。もとから博士は名人であって、一つの巻物を取り出し、例の体(てい)を見渡し、両手をはたと打ち、「姫君の行方は丹波の国大江山の鬼神の仕業でしょう。お命には別状ありません。なお、自分の得てきた手段で延命をお祈りしましょう。この占いの結果現れたかたちをよく見ますと、観音に誓って、姫が誕生したその願がいまだ成就しないお咎めと見えています。よく誓ってくだされば姫君はすぐに都に帰りましょう」と見通すように占って、博士は自分の家に帰った。

 中納言も奥方もお聞きになって、これは夢か現(うつつ)かと嘆く有様は何に譬えようもない。中納言殿は涙が落ちる隙(ひま)よりも急いで内裏へ奏上したところ、帝がご覧になって、公卿と大臣が集まっていろいろ評議したが意見がまちまちだった。その中で関白殿が進み出て「嵯峨天皇の御代の時、これに似た事があって、弘法大師が封じ込め、国土を去って差しさわりありません。そうでありながら、今ここに源頼光を召されて鬼神を討てとおっしゃれば、貞光(さだみつ)、季武(すえたけ)、綱(つな)、公時(きんとき)、保昌(ほうしょう)を始めとして、この人々には鬼神も恐れおののいて、怖れをなすと聴いております。この者たちに仰せつけられませ」と答えた。帝はなるほどとお思いになり、頼光を召された。頼光は勅命を承って、急ぎ参内したところ、帝がご覧になって「どうだ頼光、謹んで聞け。丹波の国の大江山には鬼神が住んで害をなす。自分の国だから、国の果てまでも、どこに鬼神が住むことができようか。ましてや都に間近で民を悩ます理由はない。平らげよ」との命令であった。頼光は勅命を謹んで受け、あっぱれ、重大なご命令だな。鬼神は化物なので、討手が向かうと知ったなら、塵や木の葉と身を変じて、我ら凡夫の眼で見つけることは難しいだろう。そうだけれども、勅命にどうして背くことができようか。急いで我が家へ帰りつつ、我らの力では叶わないだろう、仏神に祈りをかけ、神の力を頼むべし。もっとも適当であると言って、頼光と保昌は石清水八幡宮に参詣し、綱と公時は住吉神社へ、貞光と李武は熊野三社に参って籠り、様々なことを神に祈願した。もとから仏法のさかんな神国で、神も聞き入れて、いずれもあらたかなご利益があり、喜びはこれに勝ることはあるまいと言って、皆、我が家へ帰りつつ、一つ所に集まって、いろいろ評議したが、皆の意見はまちまちだった。

 頼光がおっしゃることには「この度は、人が多くては叶うまい。以上六人が山伏に姿を変えて、山路に迷った様子で、丹波の国の鬼が城へ尋ねて行き、住家だけでも知れたならば、どうにかして軍略を巡らして討つことは容易いであろう。おのおの笈(修験者が背負う箱)を拵えて、具足や甲(かぶと)を入れよ。お前たち、どうだ?」とおっしゃったので、「謹んで受け入れます」と答えたと申して、各々が笈を拵えた。先ず頼光の笈にはらんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧、同じ緋色の毛の五枚甲に、獅子王という兜を、ちすいという二尺一寸の剣を笈の中に入れなさった。保昌は紫縅(むらさきおどし)の腹巻に、同じ毛の甲を添えて岩切といって二尺ある小長刀(こなぎなた)、二重に金を延べ金にして、三束あまりにねじ切って笈の中に入れる。綱は、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻に同じ色の甲を添え、鬼切という太刀を笈の中に入れる。貞光と李武、公時も、思い思いの腹巻に同じ色の毛の甲を添え、いずれも劣らぬ剣を笈の中に入れる。竹筒(ささえ)と名づけて酒を持ち、火打ち石、竹製の付木、雨除けに使う油紙を笈の上に取り付けて、思い思いの打太刀、頭巾(ときん:小さいずきん)、法螺貝、金剛杖をつき連れて、日本国の神仏に深く誓いを立てつつ、都を出て、丹波の国へ急ぎなさる。この人々の様子はいかなる天魔波旬(てんまはじゅん:第六天の魔王)も怖れをなすだろうと思わせる。

 急いだので程なく丹波の国の広く知られた大江山に着いた。柴を刈る人に行き会って、頼光がおっしゃることには「どうだ、山人、この国の千丈嶽はどこか。鬼の岩屋を詳細に教え給え」と仰せになった。山人はこの由を謹んで聞き、「この峰をかなたへ超えつつ、また谷と峰のかなたこそ鬼の住家と言いまして、人間が決して行くことはありません」と語った。頼光はお聞きになって「ならば、この峰を超えよ」といって谷よ峰よと分け上り、とある岩穴を見たところ、柴でできた庵(いおり)のその中に三人の翁がいるのを頼光がご覧になって「どのような方ですか。気がかりだ」とおっしゃった。翁が答えておっしゃる。「我々は人を迷わす化物ではない。一人は津の国の闕郡(かけのこおり)の者であり、一人は紀伊国の音無の里の者である。もう一人は京に近い山城の者であり、この山のかなたにある酒呑童子という鬼に妻子を取られ、無念さに、その仇を討たんため、この頃ここに来た。客僧たちをよく見ると、普通の人ではなく、勅命を受けて酒呑童子を滅ぼせとのお使いと見える。この三人の翁こそ、妻子を取られたので、ぜひ案内者となろう。笈を降ろし、ほっとして、疲れを休むべし。客僧たち」と言った。頼光はこの由をお聞きになって、「おっしゃる通り、我々は山道に踏み込んで迷い、くたびれていますので、ならば、疲れを休めましょう」と笈を降ろして置いて、竹筒(ささえ)の酒を取り出して、三人の人々に「お酒を召し上がれ」といって進上した。翁がおっしゃるには、「何としても、忍び入るべし。あの鬼は常に酒を飲む。その名をなぞらえて酒呑童子と名づけた。酒を盛って酔って臥した者なので、前後を知らない。この三人の翁こそ、ここに不思議な酒を盛っている。その名を神便鬼毒酒(じんぺんきどくしゅ)といい、神の手段、鬼の毒酒と読む字なのだ。この酒を鬼が飲むならば自在に飛ぶ神通力も失せ、切っても突いても分かるまい。あなたたちがこの酒を飲めば、却って薬となる。そうしてこそ、後の世まで神便鬼毒酒と申すのだろう。どうしても不思議な徴(しるし)を見せるだろう」と言って星甲(ほしかぶと)を取り出し、「あなたはこれを着て鬼神の首をお切りなされ。何の差支えもないだろう」と件の酒を合い添えて、頼光に下された。六人の人々は、この由をご覧になって、さては三社の神々がここまでご出現なさるかと深く感じて涙を流し、肝に銘じつつ、ありがたいとも中々言葉にいい難い。その時、翁は岩屋を立ち出て、「なおその上、道案内しよう」と千丈嶽を登りつつ、暗い岩穴を十丈ばかりくぐり抜けて小さい谷川に出た。翁がおっしゃるには「この川上を登ってご覧なされ。十七八歳の上臈がいるだろう。会って詳しく問いなされ。鬼神を討つべきそのときは、なおその上、我らも助けよう。住吉、八幡、熊野の神がここまで現じて来る」といってかき消す様に失せた。

 六人の人々はこの次第を見て、三社の神のお帰りになった跡を伏し拝みつつ、教えに任せて川上を上って見ると、教えの様に、十七八歳の上臈が、血の付いたのを洗って、涙と共に居たが、頼光はこの次第をご覧になって、「どのような人か」とお問いになったところ、姫君はこの次第をお聞きになって「さようでございます。自分は都の者ですが、ある夜、鬼神につかまれて、ここまでやって来ましたが、恋しい二人の父母や乳母やお守り役に会いもせず、このように情けない姿をば、哀れにお思いになってください」と言ってさめざめとお泣きになった。涙の落ちる隙(ひま)よりも(涙を流しながら)「あら、みじめかな、ここは鬼の岩屋といって人間が来ることは決してありません。客僧たちはどうしてここまで来なさったのでしょうか。何としても、自分を都へ帰してください」とおっしゃるのも耐えられず、たださめざめとお泣きになる。頼光がこの由をお聞きになって「あなたは都の誰の子か」とお問いになったところ、「左様でございます。自分は花園の中納言の一人娘でしたが、自分だけに限らず、十数人います。この度、池田の中納言くにたかの姫君も取られてここにいますが、かわいがってその後は身体から血を絞って酒と名づけて血を呑み、肴と名づけて肉体を削いで食べられる悲しみを側で見るのも哀れです。堀河の中納言の姫君も今朝血を絞られました。その帷子(かたびら)を自分が洗うのは悲しいことです。実に気のすすまないことです」といってさめざめとお泣きになったので、鬼にひけを取らない人々も実に道理であるといって、ともにむせび泣いた。頼光が「鬼を易々と平らげ、あなたたちをことごとく都へ帰すために、ここまで尋ね参ったのです。鬼の住家を詳しく語り給え」とおっしゃったので、姫君はこの次第をお聞きになって「これは夢か現か。それなら語りましょう」と、「この川上を上ってご覧なさい。鉄の築地(土塀)を築き、鉄の門を建て、門口には鬼が集まって番をしているでしょう。何としても門から内へ忍び入ってご覧なさい。瑠璃の宮殿が玉を垂れ瓦を並べています。四つの時期を学びつつ、鉄の御所と名づけて、鉄で屋形を建て、夜になれば、その内で自分たちを集めて可愛がって、足や手をさすらせて寝起きしていますが、牢屋の入口には従者たちに、ほしくま童子、くま童子、とらくま童子、かね童子、四天王と名づけて番をさせて置いています。彼ら四人の力の程は、どれほどと例えることもできないと聞きます。酒呑童子のその姿は、色は薄赤く、背は高く、髪を結わないで乱れたままで、昼の間は人ですけれども、夜にもなれば恐ろしく、その丈は一丈あまりで、喩えようもありません。あの鬼は常に酒を飲んでいます。酔って臥していれば、我が身の失せる(殺される)のも分からないでしょう。何としても忍び入って、酒呑童子に酒を盛り、酔って臥したら、思いのままに討ち給え。鬼神は天命が尽き果てて、遂には討たれるでしょう。どうにか工夫なさいませ、客僧たち」とおっしゃる。

 さて、六人の人々は姫君の教えのままに川上を上ったところ、すぐに鉄の門に着いた。番の鬼どもはこれを見て、「これは何者か、珍しい。この頃人を喰っていないので、喰いたいと思っていたちょうどその時に愚か者は飛んで火に入る夏の虫。今こそ思い知った。さあ、引き裂いて食おう」といって我も我もと勇んだ。その中で、鬼の一人が言うには「慌てて事を仕損ずるな。このように珍しい肴を私にするのは叶うまい。主君へ断り、御意次第で引き裂いて食おう」と言った。実に尤もといって、それよりも奥を指して参り、この次第をこのように言ったので、酒呑童子はこの次第を聞くとすぐ「これは不思議な次第かな。何にせよ対面すべし。こちらへ招け」と言ったので、六人の人々を縁側の上に招いた。その後で、生臭い風が吹いて、雷と稲妻がしきりに起きて、前後を忘れるその中に、色薄赤く、髪は結わずに乱れたままで、大格子(おおごうし)の織物に紅色の袴を着て、鉄杖を突き、辺りを睨んで立ったその姿は身の毛もよだつばかりである。童子がいうには「自分が住む山は普通と違い岩石が峨々(がが)としてそびえ立ち、谷が深く道もない。天をかける翼、地を走る獣まで道が無いので来ることもない。ましてや各々がたは人として天を駈けて来たのか。語れ、聞こうではないか」。頼光はお聞きになって「我らの修行の習慣で、役の行者(えんのぎょうじゃ)という人は、道なき道を踏み分けて、五鬼(後鬼)、前鬼、悪鬼といって鬼神がいるのに行き会って呪文を授け餌食を与えて、今に絶えないよう年々に餌食を与えて憐れんでいました。この客僧も流れを汲みます。生まれた本国は出羽の羽黒の者ですが、大峰山に大晦日の夜から元日の朝まで籠り、しだいに春にもなりましたので、都見物のために、昨夜、夜になって出立しましたが、山陰道より道に迷い、道があるように心得てここまで来たのです。童子のお目にかかること、ひとえに役の行者のお引き合わせ、何よりも嬉しくございます。一本の木の陰に宿り、同じ川の水を汲むことも、皆これ他生の縁と聞きます。お宿を少し貸してください。お酒を持たせているので、恐れながら童子へもお酒を一献差し上げましょう。我らもここでお酒をいただき、夜通し酒盛りしましょう」とおっしゃった。

 童子はこの次第を聞くとすぐに、それでは差し支えない人かと、縁側より上へ呼び上げて、尚も本心を知るために、童子が「持参のお酒があると聞く。我らもまた、客僧たちにお酒を一献差し上げよう。それそれ」とおっしゃったので、「謹んで受けましょう」と申して、酒と名づけて血を絞り、銚子に入れて盃を添え、童子の前に置いた。童子は盃を取り上げて頼光に差し出した。頼光は盃を取り上げて、これをさらりと飲み干した。酒呑童子がこれを見て「その盃を次へ」と言う。「謹んで受けましょう」と綱に差す。綱も盃を一つ受け、さらりと飲み干した。童子が「肴は無いか」と言ったので、「承ります」と申して、今切ったと思しい腕(かいな)と股(もも)を板に据え、童子が台に置いた。童子はこの次第を見るとすぐ「それを料理せよ」といい、手下が「承知しました」とて立つところを頼光はご覧になって「自分が料理しましょう」と腰の脇差をするりと抜き、肉のかたまりを四、五寸押し切って、舌鼓を打った。綱はこの次第を見るとすぐに「お志の有難さを自分もいただきましょう」と、これも四、五寸押し切って、うまそうに食われる。童子はこの次第を見るとすぐに「客僧たちは、いかなる山に住み慣れて、このように珍しい酒肴をいただくのは不思議だ」。頼光はお聞きになって「ご不信はもっともです。我らが修行の習慣で、慈悲で給わるものがあれば、たとえ心で望まなくても、嫌ということは決してありません。殊にこのような酒肴を喰う(空)心に浮かべた謂われがあります。討つも討たれるも夢のようなはかない世の中。この身が即ち仏でなる故に、喰うに二つの味はありません。我らもともに成仏するのです。あら、ありがたいことです」と礼をしたので、鬼神は正道に外れたことをしないとかいうが、童子も却って頼光に礼拝するのがうれしいことである。童子が「意にそまない酒肴を差し上げるのは悲しいことだ。他の客僧へは無益なり」とおっしゃって、安心したと見えた。その時、頼光は座席を立ち、件の酒を取り出し、「これはまた都からの持参の酒なので、恐れながら童子へも一献差し上げましょう。お試しのために」と言って、頼光は一献さらりと飲み干し、酒呑童子に差し上げる。童子は盃を受け取り、これもさらりと飲み干した。実に神の方便は有難いことだ。不思議の酒なので、その味は甘露の様で、心も言葉も言いようが無い。童子は一通りではなく喜んで「わが最愛の女がいる。呼び出して飲ませよう」と言って、くにたかの姫君と花園の姫君を呼び出して座敷に置く。頼光はこの次第をご覧になって、「これはまた、都からの上臈たちにも差し上げましょう」とお酌に立った。

 童子はあまりの嬉しさに酔ってうっとりして「自分の過去を語って聞かせよう。生国は越後の者で、山寺育ちの稚児だったが、法師に妬みがあったため、数多くの法師を刺し殺し、その夜に比叡山に着き、自分が住む山だと思ったところ、伝教という法師が、仏たちを語って『自分の入り立つ杣(そま)山だ』と言って追い出す。力及ばず山を出て、また、この峰(比叡山)に住んだところ、弘法大師という馬鹿者が法力で閉じ込めて追い出したので、力の及ばないところで(暮らしていたが)、今はそのような法師もいない。弘法大師は高野山で亡くなった。今またここに立ち帰り、何の差支えもない。都からも我が欲しい上臈たちを呼びよせて、思いのままに召し使っている。座敷の様子をご覧になれ。瑠璃の宮殿は玉を垂れ、瓦を並べて置き、様々な木や草の前に、春かと思えば夏もあり、秋かと思えば冬もある。このような座敷のその内に女房たちを集めて置き、足や手をさすられて起きたり臥したりしているが、いかなる諸天王の身であろうとも、これにはどうして勝ろうか。そうでありながら、気に掛けるのは、都に隠れもない頼光といって荒々しい強者である。力は日本で並ぶものがない。また、頼光の家来に、貞光、李武、公時、綱、保昌、いずれも学問と武芸に秀でた強者である。これら六人の者どもこそ、気にかかるのだ。それをどうしてと言うと、自分が召し使う茨木童子という鬼を、都へ使いに上らせたとき、七条の堀河で、あの綱と斬り合った。茨木童子はすぐに用心して女の姿に形を変え、綱の辺りに立ち寄って髻(もとどり)をむんずと取って、掴んで来ようとしたところを、綱はこの次第を見るとすぐ三尺五寸するりと抜き、茨木が片腕をあざやかに打ち落とした。やっと軍略を巡らせて腕を取返し、今は差し支えない。あいつらが面倒なので、自分は都へ行くこともない」と言った。

 その後、酒呑童子は頼光のお姿を目も放さず眺めて「なんとまあ、不思議な人々だ。そなたの眼をよく見ると頼光である。さて、その次は、茨木の腕(かいな)を切った綱である。残る四人の人々は、貞光、李武、公時や保昌と思う。自分が見る目は違えないだろう。いとわしい。立ちなさい。ここに居合わせた鬼どもよ、心を許して怪我をするな。我らも退出するぞと」と顔色を変えて騒ぎ立てた。頼光はこの次第をご覧になって、ここでいい訳仕損ずるならば重大事とお思いになり、元から文武二道の人なので、少しも騒がぬ態度で、からからと笑い「なんとまあ、嬉しいことをおっしゃるかな。日本一の強者に山伏どもが似ているとは。その頼光も李武も名前を聞くのも初めてで、まして見た事もありません。ただ今仰せをよく聞きますと悪逆で道理に外れた人と聞きます。ああ、もっての他です。意外です。そのような人には似るのも嫌です。我らの修行の習慣として、ものの命を助けるため、山路を家とすることも、飢えた虎や狼に身を与え、全ての生物(情、心のあるもの)、情、心のないものを救うためです。古の釈迦牟尼如来の時代はしうふうと名づけて諸国を修行に出なさいました。ある時、山路を通ったところ、深い谷の底から、何者かは知りませんけれど、「諸行無情」と唱えたところ、谷に下りてご覧になったところ、九足八面(くそくはちめん)の鬼神といって頭は八つ足九本のさも恐ろしいは鬼神がいました。しうふうは、彼に近づいて「ただ今唱えた半偈(はんげ)の呪文の残りを自分に授けよ」と言いました。鬼神が答えて言うには「授けることは容易いけれど、飢えて力がない。人の身だけでも食するならば唱えよう」と言いました。しうふうは、この次第をお聞きになって「それこそ容易いことである。残りの呪文を唱えるならば、お前の餌食に自分がなろう」とおっしゃったので、鬼神は一通りでなく喜んで残った呪文を唱えました。「是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅己(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)と唱えたところ、しうふうは、これを授かって、あら有難いと礼をしつつ鬼神の口に入りましたところ、ただちに菩薩となってあらわれ、鬼神は即ち毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、しうふうは釈迦仏(しゃかぶつ)です。またある時は、なんとまあ、鳩の秤に身を掛けましたのも、みなこれ生けるものを助けるため、ここに居合わせた山伏も同じ修行をしていますので、呪文を一つ授けて、早く命を召し上がるべきです。露や塵ほども惜しくありません」と、さもありそうにおっしゃったので、童子はこれに謀られ、顔色を直しつつ(機嫌を直して)「おっしゃることを聞けば有難い、あやつらがここまでよもや来るまいとは思うけれども、常に心にかかる故、酔っても本性を忘れぬ」と言って「ご持参の酒に酔い、ただの繰り言と思え。赤いのは酒の所為だぞ。鬼と思うな。自分もそなたのお姿ちょっと見には恐ろしいけれど、慣れてしまえば可愛い山伏だ」と歌い奏でて、心も打ち解け、差し受け差し受け飲む程に、これぞ神便鬼毒の酒なので、五臓六腑に染みわたり、心も姿も内乱れ、「どうだ、居合わせた鬼どもよ、このように珍しいお酒を一献、お前たちに下して、客僧たちを慰めろ。ひとさし舞え」とおっしゃった。「謹んで聞きました」と立ったところ、頼光がこの次第をご覧になって、「まずお酒を一献さしあげましょう」と言って、並びいた鬼どもに件の酒を盛ったので、五臓六腑に染みわたり前後も全く弁えない。そうではあるけれども、その中で、いくしま童子はさっと立ち上がって舞った。「都よりどのような人が迷い来て、酒や肴の飾り物となる、面白いことだ」と繰り返して二、三遍は楽曲を奏でた。この心をよく聞けば、ここにいた山伏どもを酒や肴になすべき歌の心と思えた。やがて、頼光はお酌にお立ちになった。童子が受けた盃を、綱はこの次第をみるとすぐ、さっと立って舞った。「年を経て鬼の岩屋に春が木て、風を誘って花を散らそう、面白いことだ」と、これもまた繰り返し、二、三遍舞った。この歌の気持ちは、ここに居合わせた鬼たちを嵐に花の散るごとくになすべしとの歌の心を、鬼は少しも聞き知らず。あら、面白いかなと感じつつ、次第次第に酔って放心した。童子は「どうだ、居合わせた鬼どもよ、客僧たちをよきにお慰めするべし。自分の代理には二人の姫を残しておく。そこでしばらくお休みあれ。明日また対面するべし」といって童子は奥に入った。残る鬼どもは童子が帰ったのを見て、ここあそこと臥した様子はさながら死人のようであった。

 頼光はこの次第をご覧になって、二人の姫君を近づけて「あなたたちは都では誰の姫にていらっしゃるか」「左様でございます。自分は池田の中納言くにたかの一人娘ですが、近頃取られて、恋しい二人の父母や乳母やお守り役にも会えずにいて、このようにみじめで情けない姿を哀れとお思いになってください」と言ってさめざめと泣く。「もう一人の姫君は」と問うと、「左様でございます。自分は吉田の宰相の末娘ですが、却って命が消えないで恨めしいことです」とくどくどしく述べ、二人の姫は諸共に声も惜しまず消え入るように泣きなさる。頼光は、この次第をお聞きになって「もっともなことである。そうではあるけれど、鬼を今夜退治して、そなたたちを都へお供しつつ、恋しい二人の父母にお目にかけるべし。鬼の寝床まで我々を導き給え」と言ったので、姫君たちはお聞きになって「これは夢か現か」と「そういう訳ならば、鬼の寝床を我々が手落ちなく案内いたしましょう。ご用意を」と言ったので、頼光は一通りでなくお思いになり、「そういう訳なので、各々がた、具足をつけよ」といって、まず傍らに隠れる。頼光の出で立ちは、らんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧を着け、三社の神の賜った星甲(かぶと)に、同じ毛の獅子王の甲を押し重ねて着用しつつ、ちすいという剣を持ち、南無八幡大菩薩と心の内に祈念しつつ進み出た。残る五人の人々も思い思いの鎧を着て、いずれも劣らぬ剣を持ち、女房たちを先に立て、心静かに忍び行く。広い座敷を過ぎて、石橋を打って渡り、内の様子を見たところ、みな酒に酔い臥して、誰かと咎める鬼もいない。乗り越え乗り越えて見たところ、広い座敷のその中に鉄で屋根を建て、同じ扉に鉄の太い閂(かんぬき)を差立てて、凡夫の力では却って内へ入れる様子はない。牢屋の隙間から見たところ、四方にともし火を高く立て、鉄の杖と逆鉾を立てて並べ、童子の姿を見たところ、宵の姿と変わり果てて、その丈は二丈あまりで、髪は赤く逆立ち、髪の間から角が生えて、髭も眉毛も生い茂り、足と手は熊の様で、四方へ足と手を投げて、臥した姿を見たときは、身の毛もよだつばかりである。有難いことに、三社の神が現れ、六人の者たちに「よくここまで来た。そうだけれども、心は安らかに思うべし。鬼の足と手を我々が鎖で繋ぎながら、四方の柱に結びつけて、動く様子はあるまいぞ。頼光は首を斬れ。残る五人の者どもは、後や先に立ち回ってずたずたに斬り捨てよ。差支えはあるまい」とおっしゃって、門の扉を開き、かき消すように失せた。また三社の神たちがここまで現れたかと感じ入って涙を流し肝に銘じつつ、教えに任せて、頼光は頭の方に立ち回って、ちすいをするりと抜いて「南無三社の神々、力を合わせ給え」と三度礼をして切ったところ、鬼神は眼を見開いて「情けないことよ。客僧たち、偽りは無いと聞いたのに、鬼に道に外れた行ないは無いものを」と起き上がろうとしたが、足と手は鎖につながれて、起き上がる様子がないので、おおという声を上げて叫ぶ声は雷電、雷(いかづち)か、天地も響くばかりであった。

 元から強者どもは、刀は鋭利にずんずん切ったので、首は天に舞い上がる。頼光を目にかけて、ただ一噛みでと狙ったが、星甲(かぶと)に恐れをなし、その身体に差支えはなかった。足と手、胴まで切り、大庭を指して出る。多くの鬼のその中に茨木童子と名乗って「主を討つ奴らに腕前の程を見せよう」といってわき目もふらないで襲い掛かる。綱は、この次第を見るとすぐさま、「腕前の程は知っている。目にもの見せてくれよう」と激しく追いまくり、しばし戦ったけれど、決して勝負は見えなかった。並んでむずと組打ちし、上を下へと乱れる。綱の力は三百人力、茨木童子は力は強かったのだろう、綱を取って押し伏せる。頼光、この次第をご覧になって、走りかかって茨木童子の細い首を宙に打ち落とせば、いくしま童子、かね童子、その他門を固めた十人あまりの鬼どもがこの次第を見るとすぐさま、今は酒呑童子もいらっしゃらず、どこを住家となすべきか、鬼の岩屋も崩れよと大声でわめきながら掛かってくる。六人の人々は、この次第を見て「神妙な奴らだ。腕前の程を見せよう」と言って習った武術を披露して、あちらこちらへと追い詰めて、数多くの鬼どもを悉く打ち負かし、しばらく息をついだ。頼光がおっしゃるには「どうした女房たち、早く出てき給え。今は差支えもあるまい」とおっしゃったので、この声を聞くとすぐさま、取られた女房たちは、牢屋の内から転んで落ち、頼光を目にして「これは夢か現か。自分も助けてください」と我も我もと手を合わせて嘆き悲しむ様子を、ものに譬えれば、罪深い罪人が獄卒の手に渡り、無限地獄に落とされたのを地蔵菩薩の錫杖で「をんかあかみせんさいそわか」と救われたのもかくやと思い知らされた。

 その時、六人の人々は姫君を先に立て、奥の様子を見たところ、宮殿楼閣玉を垂れ、四方の四季を学びつつ、瓦を並べ立てたのは心も言葉にも及ばない(表せない)。また側を見たところ、死んだ骨や白骨、まだ死んでいない生身の人、あるいは人を鮨にして目も当てられないその中に十七八歳の上臈の片腕を落とされ股を削がれてはいるが、未だに命は消えやらず、泣き悲しんでいらっしゃるのを、頼光がこの次第をご覧になって「あの姫君は都では誰の娘でいらっしゃるか」と言った。姫君たちはお聞きになって「左様でございます。あれこそは堀河の中納言の姫君でいらっしゃいます」といって、急いで側に走り寄って「どうしました、姫君、いたわしいことです。自分たちは、客僧たちが鬼をことごとく打ち負かして、都へ連れ帰りますが、あなた一人を残しておき帰るべきでしょうか。悲しいかな、こうも恐ろしい地獄にも、そなたに気持ちがひかれて、後に心に残りましょう」と髪をかき撫でて「何事であっても、お心にお思いになさることがあれば、我々に語ってください。都へ上ったならば、父母によいように届けて参りましょう。姫君いかがです?」と言ったので、この次第をお聞きになり、「うらやましい人々かな、このように情けない露と消える身で、早くも先に消えもせず、このような姿を人々にお見せした恥ずかしさよ。都に上ってそれから父母にこの事を知らせてくださいませば、我が身のことを却って嘆かん悲しさよ。形見を残しますのは、物思いの種となりますが、姫の形見とおっしゃって、私の黒髪を切ってください。また、この小袖は自分が最期の時まで着ていた小袖とおっしゃって、その黒髪を押し包み、母上様へ参らせて後世の菩提と弔ってくださいと、手落ちなく届けてください。どうしました、あそこの客僧たち、帰るその前に自分にとどめを刺してください」といって消え入るように泣きなさる。頼光はこの次第をお聞きになり、「実に尤もです。そうではありますけれど、都に上ったら、父母にこのことをよく案内しつつ、明日になれば迎えの人を下しましょう。お暇申して、さらば」といって、物憂い洞を立ち出て、谷峰を過ぎて急がせたところ、程なく大江山の麓にあるしもむらの鄕村につく。頼光がおっしゃるには「どうだ、この所の者ども、急いで伝馬を広く告げて女房たちを都へ送るべし。どうだどうだ」とおっしゃったので「謹んで聞きました」と申した時、その頃、丹波の国司を大宮の大臣殿というが、この次第をお聞きになって、なんとまあ目出度い次第だと言って、急いで酒や食べ物でもてなした。その間に、馬や乗り物で人々を都へ送った。

 都では、このことを聞くとすぐ、頼光の上洛を見物しようとして一面にざわざわと騒ぎながら控えていた。その中に姫を取られた池田の中納言夫婦がおいでになって、いつまでも会えるところまでと迎えに出したが、頼光を見つけながら、「それ、ここへ」とおっしゃったので、すぐに姫君もご覧になって「母上様」と泣きなさる。母上、この次第をご覧になって、するすると走り寄って、姫君に取りついて、これは夢か現かと消え入る様に泣いたので、中納言もお聞きになって、一度別れたわが姫に再び会ったのがうれしいと急いで屋敷にお帰りになった。頼光は参内し、帝がご覧になって感じ入ることは言いようもなくご褒美は限りなかった。それよりも国土安全長久に治まる御代となった。あの頼光のお手柄、先例の少ない武士だと言って天皇から下は万民に至るまで、心に感じない者はいなかったのである。

 ……読み終わって思ったのは、可哀想なのは堀河の中納言の姫君である。片腕を落とされ、股の肉をそがれてしまっている。先の場面で頼光たちが食べた人肉はもしかしたら堀河の中納言の姫君のものではないだろうか。本記事で参照した小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」では堀河の中納言の姫君の生死は曖昧になっているが、別のバージョンでは死んでしまうとのこと。

 御伽草子では藤原保昌が頼光の四天王プラスアルファ的な扱いである。実際には頼光と保昌のツートップだが、いずれにせよ保昌の扱いは良くない。

「戻り橋」では決着のつかなかった渡辺綱と茨木童子であるが、「酒呑童子」では組打ち、綱が形勢不利になったところを頼光によって首を飛ばされている。
 神便鬼毒酒は神には助けとなり、鬼には毒になる両義性のある酒だけれども、別の版ではただの毒酒としているものもあるとのこと。

 本記事では小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」を参照した。佐竹昭広「酒呑童子異聞」では渋川版と呼んでいるけれども、評価が低い。何でも、肝心な箇所を端折っているらしいのだ。

 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」では酒呑童子の伝説を中国の小説「補江総白猿伝(略称白猿伝)や「陳巡検梅海嶺失妻記」の影響が見られるとしている。

◆伊吹童子

 「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」に収録された「伊吹童子」をつたないながらも訳してみた。ここでは酒呑童子の父として弥三郎という人物が登場するのが特筆される。
 昔、近江の国に伊吹の弥三郎という由々しい(忌まわしい)人がいた。その父は弥太郎殿といって古くより代々この伊吹山の主であった。また、同じ国に大野木殿といって名高い人がいた。その人には最愛の姫君がいた。見目かたちが美しかったので、そこでこの姫君を迎えて弥三郎の妻と定めて比翼連理のごとき仲睦まじい語らいをなした。

 この弥三郎と申す人は見目かたちは清らかで力量や人品はいかついが、幼い時から酒を好んで多量に飲んでいた。歳をとるにつれて次第に多量に飲んでは、常に酒に酔い浸って心は狂乱して、むやみなことばかり言い散らして、また、恐ろしいことをする。ああ、自分の腹に飽きる程酒を飲みたいなあと幾たびも願い事をされるが、近い辺りは北陸道へ上り下りする道路なので、商人の持って通う酒を何としてでも奪い取って飲んでいた。

 また、日ごろの肴には、猪や鹿、猿、兎、狸などの類をそのままに引き裂き引き裂いては食べていたので、毎日三つ四つの獣が殺されていたので、後に山林を狩り求めても鳥も獣もいなくなった。こんな有様なので民の家々で養って飼う馬、牛を奪い取っては食べていた。恐ろしい有様である。

 昔、出雲の国の簸川上(ひのかわかみ)という所に八岐大蛇という大蛇がいたが、この大蛇は毎日生贄として生きた人を喰っていた。また、酒を飲む事もおびただしい。何度も繰り返して醸した八塩折(やしおり)の酒を八つの酒槽(さかぶね:木製の容器)で飲んだところ、飲み酔って素戔嗚尊に殺された。その大蛇が変じてまた神となる。今の伊吹大明神がこれである。なので、この弥三郎は伊吹大明神の御山を司る(祭祀を行う)人なので、酒を好み、生き物を好むのかと多くの人が怖れをなして旅人も道を行き通わず、村里も荒れ果てた。

 そうしている間に大野木殿はこの次第をお聞きになり、大いに驚き、きっと人間ではないだろう、鬼の類であろう、彼がもし年を経たら神通力が出て来て人間を滅ぼし世の災いをなすだろう、どのようにしても弥三郎を殺そうとお思いになって、弥三郎を呼んだところ、世の日常的な有様でないことを恥じて参らなかった。ならばと大野木殿は饗応のための色々な酒や食事をこしらえて、伊吹殿へ立ち言った。弥三郎はすぐさま出会い対面して色々なめずらしいものを用意して様々にもてなした。

 そのとき、大野木殿が持参した酒を出した。弥三郎は大いに喜んで、日ごろ所望するものなので、差し受けて多量に飲んだところ、大野木殿の用意された酒は馬七頭に負わせた大量のものだったのを悉く飲みつくしたと聞こえた。

 そうも大上戸だったが、ともかくおびただしい事なので正気を失うほど飲んで酔い、足許か枕許かの判断もつかず、そのまま座敷に倒れ臥した。運のつきはひどく痛わしいことで、大野木殿は謀りおおせたと勇み喜びつつ、すぐさま弥三郎の臥した枕に立ち寄り、脇の下に刀を突きたてて、あちらへ通れと突き刺して、自分の館に帰った。

 姫君は親子の仲だけれども、このような事はゆめゆめ知らなかったので、弥三郎殿はいつも酒に酔って臥していると思って、衣を被せておいた。

 三日が過ぎたが、酒の酔いが醒めつつ起き上がって脇の下に刀の突きたててあったのを探って大いに驚き、「さては大野木にたばかられたか、悔しい」とって踊り上がっては躍り上がったが、急所を突かれたために心も消えぎえとなって、遂に亡くなってしまった。弥三郎殿が死んだ次第が聞こえたので、田舎の人々は安堵して在々所々も繁昌した。

 そういうことで姫君は弥三郎殿と分かれて嘆くことは限りない。これはひとえに大野木殿の仕業だろう、情けのない事だと恨んだけれども、やるかたがなく過ごす間に、そのうち懐妊の月日が満ちて、安らかにお産の紐を解いた(出産した)。ことに美しく気高い男子だったので、父の忘れ形見に見るべしと言って、喜んで大事に世話をして育てている間に、いつしか弥三郎によく似ていると人々が言い合った。

 大野木殿はこの次第をお聞きになって、「父の形見といって世話をするのは道理ではあるが、弥三郎によく似ているならばきっと悪行をなすだろう。大人になる前にどのようにでも殺してしまえ」と申して命じたので、姫君はこの次第をお聞きになって、「大野木殿は自分の父ではあるけれども、思いやりがなくてむごい人でいらっしゃる。弥三郎殿を謀ったことさえ情けなく恨めしく、忘れる暇もなかったところに、昨日今日生まれ出て偶々親子で喜んで、日ごろの悲しさをも慰めようと思えば、重ねて憂き目を見せようとしてこのようにおっしゃるのか」と耐え難いこととして恨み嘆いたところ、「親子夫婦の間の愛情は誰でもそうであろう」と哀れにお思いになりつつ、その後はまた命じる事もなかった。

 かくてこの稚児は月日が重なるままにいつしか成人した。父によく似て酒をよく飲んだので、皆、酒呑童子と申した。

 常に酒に酔って心を乱し、魂は猛々しく罪もない人にむごく当たり、野山を走り歩いて馬や牛をうち叩くなど、幼い身にかなわぬ悪行ばかり事としたので、辺りの者はこれを見て、「思った通り弥三郎殿の分身よ。今度こそ世の人間は絶えてしまうだろう」といった。

 大野木殿はこの次第をお聞きになり、姫君の方へ使いを立てて「なぜ申したことを用いない。すぐさま世の災いを引き出すだろう」と大いに責め諫めたので、「父のおっしゃることも無視できない。その上、辺りの者たちも怖れ悲しむので、わが手元に抱えておくことはよくないであろう」といって日吉(ひえ)の山の北の谷に捨てられた。その時童子は七歳であった。

 このように親しむべき人々にも憎まれ、付き従える民百姓にも疎まれて、どことも知れぬ深い谷に住んだので、虎や狼、狐に害されて露の命たちどころに消えるだろうと思ったところ、一向に衰える気色もなく悲しむ有様もない。日にちを経て月を渡ってたくましくなってゆくほどに日ごろの形とは変わって恐ろしく凄まじい体(てい)である。普段は木の実などを採って食するが、後には鳥類、獣を食すると聞こえた。

 その後、小比叡(をびえ)の峰に移ってしばらく住んだ。ここには二宮権現(比叡山の地主神)が天下っていて、悪鬼邪神をこらしめるので、またその峰をも逃げ出た。ことに二宮権現と申される神はこの日本国の地主神でいらっしゃる。昔、天照大神が天の岩戸を押し開き、天の瓊矛(とぼこ)をもって青海原をかき探ったとき、鉾に当たった物があるのを「何か」とお問いになったところ、「我はこれ日本の地主なり」と答えた国常立の尊でいらっしゃる。本地を言えば、東方浄瑠璃世界の主、薬師如来である。第九滅劫人寿(にんじゅ)二万歳の始めからここの主である」と釈尊に語らせた。

 比叡(ひえ)の山の東に続いて峨々(がが)として険しい峰がある。この所、よい住処であるといって岩屋などを作って住んでいた。神妙不可思議な力などをも得たと見えて、どこから召してきたのか、様々に恐ろしい眷属などを使っていた。さて、ここは金石(こんせき:八王子社の傍らの金大巌)といって清くけがれのない霊地なので天照大神の御子たちが天下って垂迹した。「魍魎(もうりょう)、鬼神は汚らわしい、出ていけ」と責めるために、その所を逃げ去った。八王子という所がこれである。

 酒呑童子はそれから大比叡(おほびえ)に移った。ここは昔、拘留孫仏(くるそんぶつ:過去七仏の第四仏)の時代、広々とした大海の上に、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじゃうしつうぶっしゃう)、如来常住無有変易(にょらいじゃうじゅうむうへんやく)と唱える波の声があり、釈尊、この波のとどまる行く末を見たところ一葉(いちえふ)の葦の葉に凝り固まって島となる。波止土農(はしどの)という所がこれである。釈尊が「この所に仏法を広め結界の地(修行の妨げとなるものの出入りを禁じた地)となすべし」とおっしゃったところ、薬師如来は「我はこの山の王となって、後(ご)五百歳(仏滅後の五期のうち、第五の五百年)の仏法を守るべし」と契約して、東西へ分かれた。薬師如来は早く二宮権現と顕れて小比叡(をびゑ)の岳に天下ったところ、釈尊はまた大宮権現と顕れて、大和の国磯城郡(しきのこほり)に天下ったが、それからすぐに老翁の姿となって、この大比叡(びえ)に移った。

 酒呑童子は怖れをなし、すぐに大比叡を逃げ出て西坂(雲母坂)に移った。ここは要害の地である。深い谷を切り回して大木を並べ、大盤石をえぐり取って数百丈の岩屋を作り、居所を占めて数多の眷属を従え、四方を駈け歩いて民の財宝を奪い取り、山の様に積み上げ、野山を飛び回って鳥、獣を獲り蓄えて朝夕の食い物とした。恐ろしいとも言うは際限ない。

 ここにまた、近江の国滋賀郡(しがのこほり)の住人に三津(みつ)の百枝(ももえ:最澄の父)という人に男子が一人いた。利発で賢い童だったが、十二歳で出家してその名を最澄法師と号した。数年来学問修行したが、なおも奥深い微妙(みめう)の玉を磨こうとお思いになり、遂に唐に入唐して顕教と密教の両宗、奥深いところを極め、奥義を伝えて帰朝した。伝教大師と申すのはこれである。

 その頃、柏原(かしはばら)の帝、奈良の都を山城の国愛宕郡(をたぎのこほり)に移した。今の京、平安城、四方の神に相応じた吉兆の地がこれである。ときに大師、奏上しておっしゃることには、「帝都の鬼門(東北の方角)にあたって仏法の力によって国家の鎮定と守護を祈る道場を建立して国土を守り皇位を祈りましょう」と。帝は感嘆なさって、すぐさま大師と心を一つにして「伽藍を起こすべし」となった。大師はすぐに日吉(ひえ)の山によじ登り、どこが清浄の霊地かと見巡ったところ、山中に法華経を読む声が聞こえたので、そこに尋ねて行き見たところ、大地の底にこの経の声はあった。この地だろう、伽藍建立の地であるべしとお思いになって定めた。しかるに酒呑童子はこの次第を見て「ここに伽藍が出て結界を張った地となれば、我らはこの山に住む事は叶うまい。なので何としてでも妨害しよう」といって、元から通力を得ていたので、一夜の程に数十囲(ゐ)の杉の木となって、あの所に生え蔓延れた。数多の木こりどもがこれを切り倒そうとしたけれども、遂にその功はならなかった。ときに大師、十方を礼しておっしゃるには「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たちよ、自分が立つ杣に神仏の加護あれ」と詠じたので、この杉の木は朝日に霜の解ける様に消えぎえとなって失せてしまった。

 そうしてこそその地に伽藍を建てて根本中堂(一乗止観院)と号し、医王善逝(いわうぜんぜ:薬師如来の別号)の尊像を据えて崇め、天台の教法を移した。比叡山延暦寺は戒定恵(かいぢゃうゑ:身口所作を慎み、心を澄まし真理を悟る三種の修行)の三学を表して三塔(止観院、宝幢院、楞巌院)を建て、人はまた一念の中に三千の法界を観ずる儀を表して三千もの僧を置いた。その後、伝教大師、小比叡の岳に閑居して「波母(はも)山や小比叡の杉のひとり居(ゐ)は嵐も寒しとふ人もなし」と詠じたところ、虚空に日月星の三つの光が現れ、或いは釈迦、薬師、弥陀(みだ)の尊像と変じ、或いは一体となり、種々の奇瑞(めでたさの前兆である不思議な現象)を示したので、大師はこの有様をつくづく観て、もとより非一非三(天台所説の三諦[真理]がそれぞれの意味実体を持ちながら同時に円融相即して一体でもあるとされること)、中道実相(万有の実相は有でもなく空でもない、その中道であるということ)の妙躰(すぐれた姿)であるといって、この山の神を山王(日吉山王社の神)と崇めた。帝は大師と心を比べた故に比叡山と申す。寺をは延暦寺と号し、天台大乗(天台宗がすべての衆生を救済しようとする大乗の教えであること)の法流を末世に栄えさせ、天皇の位が長く久しいことをとこしえに祈った。まことに目出度い事である。

 ところで、酒呑童子は三世(過去・現在・未来)の諸仏に嫌われ、日吉山王の七社の権現に憎まれたので、遂にこの岩屋にも住む事が叶わず、それから丹波の国に逃げ行き、大江山という所に一つの岩窟を求め得た。その様子はことに厳めしく物凄い。山岳が峨々(がが)とそびえ立つので鳥も飛ぶことができない。谷深く巡り巡りて通うべき道もない難所であるので、巌をうがち石を畳んで石壁を成し石門を建てて、眷属の鬼どもを日夜警護に据え置いた。その奥に広々と岩屋を作って酒呑童子は相住んだ。諸方に飛び巡ってあらゆる珍しい宝を請い取り、美人貴女をたぶらかし来て夫人官女のように召し従え、栄華を誇り、快楽を極める装いは前代未聞の不思議である。世にこれを鬼が城ということである。

 ……酒呑童子伝説は大きく分けて大江山系統と滋賀の伊吹山系統に分かれるとのことであるが、伊吹童子は酒呑童子が伊吹山で生まれて大江山に移り住むまでの橋渡し的な作品となっている。また、伊吹大明神を八岐大蛇の転生とし、その大明神を斎祭る者を酒呑童子の父・弥三郎としているところが目につく。弥三郎に関しては、
 よく知られているように、同話は歴とした史実を背景にしている。すなわち、鎌倉初め、醍醐寺領近江国坂田郡柏原荘の地頭柏原弥三郎が、かずかずの非法を働いたため、近江守護佐々木定綱に宣旨(せんじ)を下し、討伐を命じた。弥三郎はいずこともなく姿をくらまし、半年後の建仁元年(一二〇一)五月になって、ようやく定綱の四男信綱に誅罰された(『明月記』正治二年一一月二六日条、『吾妻鏡』正治二年一一月一日、一二月二七日、建仁元年五月一七日条)。
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」196P
とのことである。

◆謡曲「大江山」

 「謡曲大観」第1巻に収録された「大江山」を読んだが、謡曲に登場する酒呑童子はあまり悪く思えないのである。川に血が流れている描写はあるし、「鬼神に横道なきものを」というセリフに対し「あら空言や」と嘘を言うなと返してはあるのだが。

◆謡曲「大江山」現代語訳

シテ:酒呑童子
ワキ:源頼光
ツレ:同行山伏
狂言:童子侍女
處は:丹波

源頼光の一行山伏となつて酒呑童子のすみかにあざむき入り、遂に之を退治する物語を作れり。

大江山

山伏一声「秋風の音に類(たぐ)えて(そわせて)西川や。雲も行くなり大江山」
ワキサシ「そも是は源の頼光(よりみつ)とは私の事である。扨(さ)ても(ところで)この度丹波の国、大江山の鬼神の事、占方(占いをする人)の言葉に任せつつ、頼光保昌(やすまさ)に仰せ付けられた」
ツレ山伏「頼光保昌が申すに、たとえ大勢であったとしても、人倫(人間)でない変化の者、どこを境にして攻めるべきか」
ワキ「思う子細がありますと言って、山伏の姿に出で立って」
ツレ「兜にかわる兜巾(ときん:修験者の被る小さい頭巾)を着て」
ワキ「鎧でない篠懸(すゞかけ:修験者が着る直垂と同じ形の麻の衣)や」
ツレ「兵具(ひやうぐ:武器)に対する笈(おひ:修験者などが背に負う箱)を負い」
ワキ「その主々は頼光保昌」
ツレ「貞光季武綱公時」
ヒトリ「また名を得た一人武者」
ツレ「かれこれ(おおよそ)以上五十余人」
ワキ「また夜の内に有明の」
地「月の都を立ち出でて、月の都を立ち出でて、行く末を問えば西川や、波風たてて白木綿(しらゆふ:白色のゆう:楮の皮を剥ぎ、その繊維を蒸し、水にひたして裂いて糸としたもの)、御祓(みそぎ)も頼もしい。鬼神(おにかみ)であろうと大君の恵みに漏れる方はあるまい。ただ分けて行け足引(葦とかけている)の、大江の山に着いたことだ。着いたことだ」
狂言「如何に(もしもし)童子はいらっしゃるか」
シテ詞「童子と呼ぶのかどのような者か」
狂言「山伏達が入ってきましたが。一夜の宿をと仰せです」
シテ「何と山伏達が一夜の宿を求めておるか。恨めしい、桓武天皇に御請(返答)申し、自分が比叡山を出てから出家には手を差すまいと固く誓約した。中門の脇の廊にとめよ」
シテ詞「いかに客僧達。どこからどこへ通れば、この隠れ家へ出てきたのか」
ワキ詞「左様でございます。自分は筑紫彦山(ひこさん)の客僧ですが、麓の山陰道から道に踏み迷い、前後を忘れ佇んだ所で、今宵のお宿何より祝着(満足に思うこと)申します。扨(さ)ても(ところで)酒呑童子と申すのは、どうした謂れですか」
シテ「我が名を酒呑童子と云うのは、明け暮れ酒を好むによって、眷族どもに酒呑童子と呼ばれている。なのでこれを見てあれを聞くにつけても、酒ほど面白いものはない。客僧達も聞きなされ」
ワキ「仰せなので、一つ下され。またこの山にいつのころからお住まいとしていらっしゃいますのか」
シテ「我は比叡の山を先祖伝来の住処として、年月を送っていたところ、大師坊という似非人(えせびと:つまらない者)が、嶺に根本中堂を建て、麓に七社の霊神を祝った無念さに、一夜にして三十余丈の楠木となって奇瑞(めでたいことの前兆として現れた不思議な現象)を見せたところに、大師坊は一首の歌に阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏たち、自分が立つ杣(そま)に冥加(知らず知らずの内に神仏の加護を得ること)をあらせ給えと言ったので、仏たちも大師坊に語らわされ、出でよ出でよと責めたので、力なくして先祖伝来の比叡のお山を出たのである」
ワキ「扨(さ)ても(ところで)叡山を出て、そのままここに座したのですか」
シテ「いや、どことも定めなき、霞に紛れ雲に乗り」
ワキ「身は久方の天ざかる(空遠く離れている)鄙の長い道のりや、遠田舎」
シテ「そなたの故郷と承った筑紫をも見ているぞ」
ワキ「扨(さ)ては(そうして)残るまい天の下、天ざかる日の経緯(たてぬき:縦横)に」
シテ「飛行の道に行脚して」
ワキ「あるいは彦山(ひこさん)」
シテ「伯耆の大山」
ワキ「白山(しらやま)立山(たてやま)富士の御嶽(みだけ)」
シテ「上の空にある月に行き」
ワキ「雲の通路(かよひじ:つうろ)を帰って来て」
シテ「なおも輪廻(流転)に心ひく」
ワキ「都の辺りに程近い」
シテ「この大江の山に籠っていて」
ワキ「忍び忍びのお住まい」
シテ「隠れすましていた所に、今客僧たちが見え顕れ、通力を失うばかりである」
ワキ「お心安くお思いになりませ、人に顕す事はありますまい」
シテ「嬉し嬉し一筋に頼み申すぞ一樹の陰」
ワキ「一河の流れを汲んで知る、心はもとより慈悲の行(ぎやう)」
シテ「人を助けるお姿」
ワキ「私はもとより出家の形」
シテ「童子もさすが山育ち」
ワキ「さも(そのように)童形のあなたなので」
シテ「哀れみ給え」
ワキ「神でさえ」
地「一兒(ちご:稚児)二山王と建てたのは、神を避ける次第なのだ。そなたは客僧。我は童形の身なので、なぜか哀れまないだろう。構えて(用心して)余所で物語させるな」
地「陸奥(みちのく)の安達が原の塚にこそ、塚にこそ、鬼が籠れると聞いた物を。まことなりまことなり。ここは名を得た大江山、生野の道はなお遠い。天の橋立与謝の海、大山(おほやま)の天狗も我と親しい、友だとお知りになれよ。いざいざ酒を飲もうよ、飲もうよ。扨(さ)ても(ところで)肴は何だ。頃しも(折しも)秋の山草、桔梗刈萱(かるかや)我もこう、紫苑(しをん)と云うのは何であろう。鬼の醜草(しこくさ:きたない草)とは誰が付けた名か」
シテ「実にまこと」
地「実にまこと、丹後丹波の境にある、鬼が城も程近い。頼もしい、頼もしい。飲む酒は数添ひぬ(数が増えた)。面も色づくか。赤いのは酒の咎だ。鬼と思うな。恐れないで我に慣れ慣れよ。興がる(面白がる)友とお思いになれ。私もそなたのお姿、打ち見(一見)では、打ち見では、恐ろし気だけれど、馴れてつぼい(心安い)のは山伏だ。猶々巡る盃が、たび重なれば有明の天も花に酔ったか。足本(あしもと)はよろよろと、漂うかいざようか(進むように見えて進まない)、雲が折り敷いてそのまま、目に見えない鬼の間に入り、荒海の障子を押し明けて、夜の伏處(ふしど)に入ったことだ、入ったことだ」
ワキ「すでに今夜も更け、空がなお闇(くら)い鬼が城、鉄(くろがね)の戸びらを押し開き、見れば不思議かな今までは人の形と見えたが」
地「その丈二丈ばかりの、二丈ばかりの、鬼神が装い眠るのすら勢いの辺りを払う気色(顔色)かな。かねて期した事だけど、とても(何としても)命は君のため、又は神国氏社、南無や八幡山王権現。我らに力を添え給えと、頼光保昌綱公時、貞光季武一人武者、心を一つにして、まどろみ伏した鬼の上に剣を飛ばす光の陰、稲妻震動夥しい」
シテ「情けないことだ客僧達。偽りあるまいと云ったのに、鬼神には横道(わうだう:邪道)ないものを」
ヒトリ詞「何鬼神に横道ないと」
シテ「中々の事」
ヒトリ「あら空言(うそ)か、などならば、王地(王の治める土地)に住んで人を取り、世の妨げとはなったぞ。自分を音にも聞いたろう、保昌が舘に一人武者。鬼神であるとも逃すまじ。まして是は勅命なので、土も木も我が大君の国なので、どこが鬼神の宿となるだろう」
地「余すな洩らすな。攻めよ攻めよ人々といって、切っ先を揃えて切って掛かる」
地「山河草木震動して、震動して、光が満ちてくる鬼の眼、ただ日月(じつげつ)の天の星、照り輝いてさながらに(そのまま)面を向くべき様子はない」
ワキ「頼光保昌はもとよりも、もとよりも」
地「鬼神(おにがみ)だとしてもさすが頼光が、手並み(腕前)でどうして洩らそうかと、走りかかってはったと打つ手にむんずと組んで、えいやえいやと組むと見えたが、頼光が下に組み伏せられて、鬼が一口で食おうとするのを頼光は下から刀を抜いて、二刀(ふたかたな)三刀(みかたな)刺し通し、刺し通し、刀を力にえいやと返し、さも(実に)勢おう(勇み立つ)鬼神を押しつけ、怒った首を打ち落とし、大江の山をまた踏み分けて、都へと帰ったことだ」

◆動画

 YouTubeで後野神楽社中の大江山を観る。最後、首を飛ばされた酒呑童子が、天蓋の要領で首だけ宙に回す演出があった。これは現代的な演出だろうか。中川戸神楽団の「板蓋宮」が初出らしい。同じような演出で大きな蜘蛛も登場していたが、これは「土蜘蛛」への伏線だろうか。本当に山伏か酒呑童子に疑われた頼光が呪文を唱え、鬼たちが苦しみはじめ、それで確かに山伏だという展開となっている。これは元の御伽草子より良いアイデアかもしれない。

◆余談

 「伊吹童子」は茨木童子と勘違いしてコピーしたのだけれど、酒呑童子の生い立ちを語るストーリーだったので結果的には良かった。

 伊吹山には実際に登ったことがある。山腹に駐車場があって車で上れて、そこからは歩くのだけど、途中に花畑があって綺麗だった(立ち入り禁止)。

◆参考文献

・「御伽草子集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)PP.444-474
・「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」(市古貞次, 秋谷治, 沢井耐三, 田嶋一夫, 徳田和夫/校注, 岩波書店, 1989)pp.185-213
・「謡曲大観 第1巻」(佐成謙太郎, 明治書院, 1963)pp.553-571
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.171-188
・「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」(高橋昌明, 中央公論新社, 2005)
・「酒呑童子異聞」(佐竹昭広, 岩波書店, 1992)
・「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)pp.103-163
・「お伽草子」(福永武彦, 永井龍男, 円地文子, 谷崎潤一郎/訳, 筑摩書房, 1991)※「酒呑童子」pp.176-202
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「大江山」pp.331-336
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.225-245, 253-255

記事を転載 →「広小路

|

2018年12月 1日 (土)

鎮守の森と神社

連休中は滋賀県にいた。湖東平野は広く、鎮守の森が点在している。その多くに神社の鳥居が見えるのである。実際に綿向神社というところに連れて行ってもらった。記憶の限りでは平野部の少ない島根県石見地方には鎮守の森らしきところはなかったと記憶している。鎮守の森は民俗学的にも、また環境保全的にも重要な役割を果たしているので、実際に行けたことはよい経験になった。

滋賀県蒲生郡日野町の馬見岡綿向神社

|

« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »