快童丸と金太郎――坂田金時と嫗山姥
◆芸北神楽
「山姥」
◆嫗山姥
(第一段)
(第二段)
(第三段)
(第四段)
頼光一行は信濃路で道に迷う。末竹が柴を刈る女に道案内せよと言う。女はここは難所で泊っていきなされと答える。頼光は山姥の住家ではないかと思う。だが、奥の一間は覗くなと言いおいて山に入っていく。主従が奥の一間を覗き見たところ、五、六歳の童児がいて、身体の色は赤く、産毛は四方に乱れ、鹿や狼や猪を喰らっていた。これは知らずに羅刹の国に来たかと身の毛がよだつ。頼光は膝丸を抜いて打ったが、女はひらりと外した。女は鬼女の姿を現した。鬼女は身元を明かす。元は遊女の身で坂田の何某と契を結んだが、夫の父を物部という者に討たれ、仇を討つために別れた。夫は妹に先を越され、親の仇を討たずとなった。また、そのために源氏の大将が漂泊の身となった。この鬱憤は晴れない。腹をかき切ってその魂魄が鬼女の胎内に宿り、日本無双の大力一騎当千の男子と生まれた。鬼女は人里離れた山奥に住む内に角が生え、山姥となったと語る。どうか、父時行の一生の本懐を遂げさせ、頼光の配下として欲しいと願う。そこへ綱と定光がおし分けてきたので、頼光は経緯を詳しく語り、末武に引き合わせ、快童丸と主従の契約を結ぶ。快童丸は愛嬌があって凄まじい。山姥は快童丸の強力を頼光一行に披露する。快童丸は坂田金時の名を賜った。
(第五段)
◆第四段
一心に思いつめて生まれかわった鬼女というのか、人は陸奥の信夫(しのぶ)の山に有るかとすれば今日甲斐嶺(かひがね)木曽の山。昨日は浅間伊吹山。比良(ひら)や横川(よかわ)の花ぐもり。雪を担って木こりの通う花の陰。休む重荷に肩を貸し(自分も担いでやり)、月を伴う山路には、雪月花を弄ぶ。自分の風雅な心は卑しい人間には分からず目に見えぬ鬼と人が言うのだろう。そう言うなら言うがよい。かまいはしない。よし足ひきの山姥が山巡りするのが苦しい。暮れるのも早い山陰に頼光たちは行き暮れて、道なき方向に行き誤り、里はどこかと誰にも問うことができずお立ちになる。お供の末竹が辺りを見回し、あれに柴を刈る女が休んでいますから人里は最早遠くありません。都合のよい案内者です、これ女、この山は何と言う。麓の里へ下る者を導けと言ったところ、是は信州上路(あげろ)の山の頂上。ご覧のごとく道もなく麓の道とて、東北は五十余里、秋田の地、幾重の谷峰、縄を渡して橋となし、恐ろしや唐土(もろこし)の蜀川(しょくせん)天竺の流砂。葱嶺(そうれい:パミール高原)とやらの難所にも勝るとか。北は越後越中の境川。是も谷二つ超え、十里に余れば今日中には思いもよらず、我らの家に泊めたくございますが、いずれも若き殿たちこの柴を刈る住家はお嫌でしょうという風情。つたない山人の薪に花とはこれだろう。頼光うち笑み(イヤ)それは逆である。あらあらしい若者共、そなたこそ大して爽やかにならないだろう。行き暮れた山道芝刈りはおろか山姥の住家でも心配ないとおっしゃれば、はっと驚く。さては自分が山姥と見えましたか。山姥とは山に住む鬼女。鬼であろうとも人であろうとも山に住む女であればよいのです。私を山姥とご覧になるのも道理です。そもそも山姥は生地も知らず宿もありません。ただ雲と水を頼りにして山の奥に至り、人間ならずとも恐れると。ある時は山柴(やまがつ)を担いだ山路の疲れる肩を助け、里まで送る折もありまして、またある時は織姫の多くの機を立てる窓の梅の枝の鶯が糸を繰るように枝を飛び回り、糸を引き出して巻き付けたり、綿花のさねを取り去ったり、つむいで糸を取る宿に身を置き人に雇われ手間仕事。櫛さえ取らない乱れ髪。女の鬼と言われるのはもっともでして、世を言い起こし、世を憂く思うその蝉の抜け殻のごとき美しい着物。千声万声の砧の声にしっていしってい、しっていからころ槌の音。木魂に響く山彦も皆山姥の業(わざ)でありますと、思いますも見ますのも人の心。煩悩があれば菩提があり、仏があれば衆生あり。衆生あれば山姥もそう。どうして無いことがありましょうか。都に帰って夜話になさいませ。夜通し語り参らせましょうと庵に入る。小高い所を調え頼光をお招き申し上げたので、いやいや左様になさる者ではない。一夜の程は軒下にでも明かしましょう。と見て言ったところ、一人住みの女性、こちらへお構いなく。渡世の営みしなさいませと退出したので、いや紅は園生(庭園)に植えても隠れることはありません(紅の花は花園に植えても目立つように高貴の人はそれと分かる)。大将軍の人品は区別がつかないということはあいません。誠に源の摂津の守殿は清原の右大将の平正盛らの讒訴によって御身を危ぶみさすらいさ迷いになるとは。山の奥にも広く知れ渡っています。その人物と名乗りなされば、自分の身の上をも語りましょう。定めて旅疲れ、何をかおもてなししましょう。頃よく山々の木の実も皆落ちてしまいました。まこと思いつきました、筑紫郡大宰府の山にいがぐりが一枝昨日までありました。是をとって来ましょうと表に出たが振り返り、必ずや奥の一間を覗き見てはなりません、まもなく帰りましょうお待ちになってくださいと、岩根を踏むこと飛ぶ鳥のごとく山深く飛んで入った。末武が横手を打って、筑紫の大宰府までは五百余里。今の内に帰りましょう。あやつの仕方と言い分は初めから不可解です。君の武功を抑えようと魔物や化物のなす所を追いかけて討ちとめましょうと駆け出したのを、やれ待て。変化と知ってたち騒げば心を奪われる。こちらは静まって却ってあやつを誑かし、さもあれかれの言葉に従ってなぶり殺しに退治しよう。奥の間を見ずにおくのも臆病だと主従が覗いたところ、あら凄まじいかな、五、六歳の童で全身の色は朱のようで、乱れ茂った産毛は四方に乱れて、餌食と思しい鹿、狼、猪を引き裂いて積み重ねて木の根を枕に臥した様は誠に鬼の子の様だ。知らずに我ら羅刹国に来たかと身の毛がよだつばかりである。時を移さず主の女が栗を手折って肩にかつぎ帰るところを頼光は膝丸を抜き放し、はたと打てばひらりと外し、ちょうど切ればはっと開きし去って顔つきが変わった。角は三日月、両眼は寒い夜の星と輝いた。怒れる面にはらはらとこぼれる涙に暮れながら、情けない恥ずかしいと恨みのない我が君に仇を成そうとも思いませんでしたけれど、太刀の光に驚いて本性を現しました。この上は枯野のすすき穂に出て力ない身の上を懺悔すべきでしょう。自分は元は遊女の身でありました。坂田の何某と幾世をかけた契りの中で、夫の父を物部という者に討たれ、その仇を討つため梓弓の様に離れ離れの別れとなりました。夫の運が悪く、妹に先を越され、親の仇を討たないのみか、その事故に源氏の大将が漂泊の身となってしまいました。この世のこの身でこの鬱憤は晴れ難い。腹かき切って魂魄がお前の胎内に宿り、日本無双の大力一騎当千の男子と生まれ敵の残党を滅ぼそうと天に訴え地に叫び、誓いの刃に伏しました。それから我が身もただならぬ子を妊娠し、望月の影の深い、人里離れた山に籠りましたところ、いつの間にか山を巡り一心に思いつめた結果、鬼となって角が突き出て、眼に光を帯び、邪と正とは別々のものではなくて、一つの心から出たものですから、もとは同一だと見る時は、鬼でもなく人でもなく名は山姥の山巡り。春は三吉野、初瀬山、高間(たかま)の山が白く見えますので、桜と見まがう霞も桜かと思って花を尋ねて山巡りしました。秋は澄んだ空の色。どこも同じく照らす月光の影も更科の姥捨山の名を愛でて、月を見る方にと、山巡り、冬は冴えゆく比良(ひら)が嵩(たけ)。越の白山しぐれ行く雲を起こして雲に乗り、雪を誘って山巡り巡り巡りて我が君に巡り合ったのも我が夫の念力通力神力にて。渡辺綱、碓氷定光をただ今ここへ招くべきです。ああなんとかして我が子をも譜代の家臣とお思いになって、敵征伐のお馬の口をも取るならば、父が一生の本懐を遂げ、母である鬼女の苦悩を逃れ、成仏して涅槃に至るのは疑いありません。この世とあの世の苦しみ助かるのも只、大将のお慈悲と角を傾け手を合わせひれ伏して泣いた。このような所へ綱と定光が木と草を押し分けて(ヤア)我が君ここにいらっしゃいましたか。両者とも今夜は信濃路を通ったので。誰が言うともなく源頼光は、此の山のあそこに、あの谷のこちらにと手を取って引くように意識せず此処まで参ったと申し上げたので、頼光は鬼女の人知ではかり知ることのできない不思議な変化を詳しく語り、不思議の思いをなされた。さて両人を末武に引き合わせ、この上は女の望みに任せ、お前の子供に主従の契約をしよう。ここへ呼びよせよとおっしゃったので母は喜び、快童丸、快童丸と呼んだところ、あいと答えてつっと出てどっかと坐した顔の色。のう母(かか)様あれはどこのおじ様じゃ、土産を貰うのは嬉しいと手を叩いて喜んで愛嬌あって凄まじい。あたかも愛染明王の笑い顔かと見間違える。母が立ち寄って(やい)ぶしつけもの、あの方は常々言い聞かせた源頼光様。今日よりそなたの殿様。ご奉公に精出しましょうと申しなさいと教えられ、はっと手をつき一礼した。随分奉公念入りにし、敵の首いくつでも引き抜いて上げましょうと将来が見えた大言壮語にお悦びは深い。母は重ねてあの岩窟に熊猪を追い入れ置きました。折節、力を試しみれば、ご覧になさいませ、あの様に引き裂きました。これお目見えの印に相撲を望みますと言ったところ、ずんどと立って岩屋の口に立てた岩を軽々と取って投げのけて両手を広げてつっ立つ所に荒々しい熊が飛んで出たのをどっこいよしきたとばかりにしっかと抱く。熊をものともせず捩じつけようとするけれども、一向に動かない。絡みつけば無理やりに放し、組み付けば押し伏せ、うめいた喉笛を二つ三つ叩きつけ、ひるんだところを取って押さえ、片脚を掴んでくるくるくる、二、三間かっぱと投げて(ああ)くたびれた。乳が飲みたい母(かか)様と母の膝にもたれる。頼光は甚だしく喜び、世に例無い強力、さすがこの母の子だったよのと。即ちただ今元服させ坂田金時と名づけ、四王天の四天を表し定光、末武、綱、金時。頼光の家の四天王、四方八方の賊徒と切りなびかせよ。源氏の威光を四方の海に照らす印だぞと。
◆快童丸と金太郎
坂田金時は源頼光の四天王として有名だが、その金時の幼少時を語る物語として金太郎の昔話がある。御伽草子の「酒呑童子」での鬼退治で坂田金時の名がクローズアップされる。
酒呑童子は江戸時代における新興の芸能である浄瑠璃で盛んに上演されるようになった。しかし、この時点では、金時の幼少時のエピソードは全く語られていなかったという。中世の能「山姥」にも山姥の子であるという発想は無いとのことである。
十七世紀に創作された「源氏のゆらひ」という演目に金時の父が登場する。そして十一歳の頼光と十五歳の金時という臣下の関係が誕生するとのことであるが、これはそれ以降発展することがなかったようである。
それから金時の子、金平というキャラクターが生まれ、好評を博する。そして金平の父である金時の出自を語る際に、山姥の子であり、山中で暮らしているという設定が生まれる。
「前太平記」では坂田金時は二十歳ばかり童形の姿であり、母の山姥が赤龍の子を孕んで誕生したとしている。それは「史記」で漢の高祖が龍の子であるとされている故事を援用したものとなっている。このとき金時を「くわいど」――つまり快童のことであろう――と呼んでいるのである。こうして金時の出生譚が広く民間に流布していくことになるのである。
この金時出生譚が近松門左衛門の「嫗山姥」で更に発展する。八重桐という遊女が信州の山中で山姥となり、夫の魂魄を孕んで快童丸が誕生したとするのである。ここで金時の幼名として快童丸の名が登場することになる。童子は全身朱色で、鹿・狼・猪を食い散らかす野生児として描かれている。そして頼光の家臣として召し抱えられることになるのである。
この快童丸が草双紙でイメージ化され流布することになる。そして同時に金時の幼名が快童丸から怪童丸へ、そして金太郎へと変遷していくのである。そこではマサカリを抱えた金太郎が熊に乗っているという図式で語られていくことになる。ここで、家来の獣たちを従えた足柄山の野生児である金太郎のイメージが確立される。
また、草双紙のみならず、浮世絵でも金太郎と山姥のイメージが広がっていくのである。ここでは山姥は美人として描かれ、美人画を規制されたことによる反動が見られる。
そしてこの金太郎のイメージは明治時代になっても引き継がれ、豆本という形式で児童の間に拡がっていく。そして厳谷小波が「金太郎」というタイトルの昔話で金時の幼少時のエピソードを再話することで、金太郎の昔話における地位は確固たるものとなっていく。折しも明治時代は富国強兵の時代であり、金太郎の持つ尚武のイメージが好感された。
◆国民伝説類聚
◆巌谷小波『日本昔噺』
巌谷小波『日本昔噺』に「金太郎」が収録されているが、以下のような粗筋である。
相模(さがみ)の国足柄山(あしがらやま)の山奥に山姥と金太郎の母子が住んでいた。金太郎は力持ちで大きな鉞(まさかり)を振り回しては大木をなぎ倒したり大きな岩を砕いていた。終いには山に住んでいる熊や鹿、猿や兎たちを家来にして相撲をとっていた。猿と兎が相撲をとる。次に兎と鹿が相撲をとる。勝った方は褒美の握り飯をもらう。帰り道、河が増水していた。金太郎は辺りにあった大木をなぎ倒して橋の代わりとする。その様子を見ていた木こりがびっくりして跡をつけた。金太郎が山姥と昼間の様子を話していると先ほどの木こりがやってきて腕相撲をとろうと言う。金太郎は受けてたつ。中々勝負がつかない。木こりは腕相撲を止めて、大した力持ちだ。この子を都にやって武士(さむらい)にする気はないか山姥に訊く。木こりの正体は碓井貞光だった。金太郎も喜びすぐに話はまとまった。別れの日、足柄山の動物たちが金太郎を見送る。貞光は金太郎を都に連れて行って源頼光に引き合わせた。頼光は殊の外喜んだ。金太郎は後に四天王の一人となって大江山で鬼を退治したり土蜘蛛を討ち取ったりした。坂田金時がこの金太郎である。
……という内容である。金太郎のお話は熊と相撲をとるイメージだけが残っていてその後のエピソードがどうだったのか忘れていたが、上記の様な内容だった。
◆動画
◆余談
◆参考文献
・「金太郎の誕生 遊学叢書21」(鳥居フミ子, 勉誠出版, 2002)
記事を転載 →「広小路」
| 固定リンク