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2018年10月

2018年10月28日 (日)

紅葉狩と戸隠山絵巻

◆はじめに

 芸北神楽の新舞に「紅葉狩」がある。おそらく謡曲を元にしたものだろう。明治時代には歌舞伎でも上演されているとのこと。紅葉狩という紅葉の美しい季節のイメージが背景にあって、謡曲のそれは美文でもある。芸北神楽の新舞が誕生したのはGHQの神楽統制下にあっての苦肉の策だけれども、現在でも人気の高い演目で島根県で上演する事例もあるようだ。

横浜市都筑区・ささぶねロードの紅葉

◆芸北神楽の新舞「紅葉狩」

 狩野の旅に出た平維茂(これもち)は戸隠山で道に迷ったところを木の又権兵衛と出会う。権兵衛は維茂を戸隠山に住む古だぬきと勘違いするが、維茂が道に迷った旨を告げたところ、戸隠山には鬼女が住み着き、未だに成敗した者がいないことを告げる。それで、維茂は戸隠山の鬼女を成敗することにする。
 鬼女の白蜘蛛、赤蜘蛛は二人の姿を見て、これはよい酒の肴だと喜び鬼女大王に進言する。鬼女大王は女性の姿となって酒宴の席を設ける。
 酒宴の席に出くわした維茂と権兵衛は休息をとることにする。酒を勧められた維茂と権兵衛は酔い伏してしまう。それを見た大王は喜ぶ。権兵衛が気づいて逃げ出そうとしたが、鬼に喰われてしまう。
 そこに八幡大菩薩が現れ、維茂に剣を授け、鬼女を成敗するべしと告げて去る。気づいた維茂は剣をもって戸隠山の鬼女たちを成敗する。

◆関東の里神楽
 2019年6月に「第二回 神奈川のお神楽」公演を鑑賞する。萩原社中の「紅葉狩」が上演された。関東の里神楽は神話劇が多いようだが、「紅葉狩」などの神祇と関係のない演目も一部あるようだ。

紅葉狩・平維茂
紅葉狩・平維茂
紅葉狩・平維茂
紅葉狩・平維茂
紅葉狩・酒を勧められる平維茂
紅葉狩・酒を勧められる平維茂
紅葉狩・鬼女・更科姫と酔いつぶれた維茂
紅葉狩・鬼女・更科姫と酔いつぶれた維茂
紅葉狩:酔いつぶれた維茂と山神
紅葉狩:酔いつぶれた維茂と山神
紅葉狩・鬼女と戦う平維茂
紅葉狩・鬼女と戦う平維茂

◆謡曲「紅葉狩」

 余五将軍・平維茂(これもち)は紅葉の戸隠山で狩りをしている最中に女房と出会った。聞くと上臈(じょうろう)が酒宴を催しているという。維茂は馬を降りて(上臈への礼儀)、上臈のところへ向かう。上臈はこれも他生の縁と酒を勧める。維茂も岩や草木ならぬ身であったので、上臈の誘惑には勝てずに酒を飲んでしまう。酔って寝てしまった維茂の許に八幡宮の使いが現れ、上臈たちは戸隠山の鬼神であることを告げ、剣を一振り与える。目覚めた維茂は鬼神たちを退治した……という内容。

 平維茂は伝説の武人。「新潮日本古典集成 79 謡曲集 下」の注によると「尊卑文脈」には「鎮守府将軍、信濃守従五上、帯刀して奥山城鬼才(イ子)流、或いは将軍に非ずや云々、世人余五将軍と号す、貞盛朝臣の為に余五と称す、実兼忠子也」とある。原文を読み下した。(308-309P)

 「後拾遺往生伝」には「鎮守府将軍平維茂者(は)、前将軍貞盛之(の)姪男也。貞盛其の器量を知られ、以て息男として入る、字余五と号す、其人本自道心(道徳心)内薫、武威を外に顕わし、遂に征戦之(の)賞に依りて、抽して将軍之(の)職を任ぜられる、故に世号之(これ)を余五将軍と号す、板東諸国、信状に莫(なか)れ、云々……生年八十云々。」とある。原文を読み下した。(308-309P)

 「舞曲『夜討曽我』等には田村・利仁将軍と並ぶ伝説的武将。」とある。(309P)
 「維茂」は平安朝の末葉を彩る東国の武将でありました。鎮守府将軍平繁盛の孫、父は上総介兼忠、幼少の頃から人並みすぐれた器量人であったので、従祖父(いとこおじ)の貞盛に愛せられて其養子となったのです。この貞盛は好んで同族の子供を養うて子としたが、維茂が一番若くて行列の順位が十五番でした。維茂を余五将軍というのは此の訳からです。
「新歌舞伎十八番の内 紅葉狩 国立劇場上演資料集570」(国立劇場調査養成部調査記録課/編, 日本芸術文化振興会, 2013)P.82
「戸隠山鬼女紅葉退治之傳」では「維茂公は常陸國ニ産ス成長ノ近江國伊香郡與吾ノ湖水ノ邊リ與吾村ニ住ス故ニ與吾將軍ト稱ス」とある。

◆戸隠山絵巻

 謡曲「紅葉狩」と並んで戸隠山の鬼神退治を描いた作品として「戸隠山絵巻」がある。大島由紀夫「『戸隠山絵巻』考」によると、これは絵巻の制作が江戸前期で、詞章が明らかに「紅葉狩」の影響を受けているので、謡曲「紅葉狩」の後に成立したものだとされている。

 要約すると、

 第四十四代、元正天皇の御代に美濃の国から奏上があった。不思議な泉が湧いて、その水を飲んだものは若やぐと。天皇が勅使を召して確かめさせにいった。年老いた父にその滝の水を飲ませたところ若やいだというのだ。その次第を聞いた天皇は年号を養老と改めた。

 民は安穏に暮らしていたが、いつしか民を煩わせることが起きた。信濃の国の戸隠山に鬼神が住んでいて、行き来する者に害をなすという。信濃の国の数十人が都へ上って、惨状を訴えた。そこで誰か鬼神を滅ぼすものはいないかとなって、吉備の大臣が文武両道であると推挙された。

 大臣は驚いて自分ではとても叶うまいと思ったが、家の名誉であると説得されて、曽我の川丸、紀のさたをの二人を呼び、数十人のものを連れて信濃へ下った。その際、信仰していた長谷の観音に参篭したかったが、急ぎの旅なので使者を遣わした。

 信濃の国に入った大臣は、大勢では鬼たちが寄ってこないだろうと言って、川丸、さたをの二名を連れ、残りの者たちは麓に残して戸隠山に入った。戸隠山は険しい山で、道なき道を進んだが、やがて声が聞こえて来た。さては鬼どもか、声のする方にいってみると、女房たちが涙をながしていた。安心した川丸とさたをは女房を大臣のところへ連れていった。大臣はこの山に鬼が住むという。住処はどこだと問い、女房たちは上臈たちが酒宴を催している。その上臈たちに聞けばよいだろうと答える。上臈たちの酒宴を尋ねた大臣たちであったが、鬼の首領は陸奥へ行って不在であると告げられ、やがて打ち解けて、勧められるままに酒を飲んで前後不覚となってしまう。

 上臈たちは実は鬼が化けたものであった。酔いつぶれた大臣たちを見た鬼たちは主である九しょう大王を呼びに行く。危険の迫った大臣たちであったが、有難いことに長谷の観音が現れて大臣を揺り起こした。目覚めた大臣は辺りに女房たちがいないことに気づき、川丸とさたをを起こす。そして木陰に隠れた。

 鬼たちがやってくると、大臣たちの姿は無かった。これはどうしたことだと慌てて騒いでいるところに大臣たちが姿を現した。戦いとなった。鬼たちは通力を得ているので大臣たちは苦戦、とても叶わないと思ったが、一人の天童が現れて大臣たちを守った。鬼の通力も失せ、次々と討ち取られていった。それを見た九しょう大王は怒って大臣と取っ組み合いになる。川丸とさたをが切りつけて、弱った大王の首を掻き切る。ところが、その首は宙に舞い上がり、口から火炎を吹いた。と、どこからともなくワシとクマタカが現れ、大王の首を千丈の谷底に落とした。首は粉みじんとなった。

 戦いが終わり、しばし休息をとった大臣たちは故郷の土産話に鬼の住処を見ていこうとなった。鬼の住処は深い穴で藤の蔓(つる)を伝って出てくるらしかった。中に入るには及ばないと大臣が言ったので、その場を立ち去る。ところが、三人は道に迷ってしまった。谷伝いに降りていくと、大臣たちを呼ぶ声がした。麓に残っていた者たちが大臣を探していたのだった。

 麓に下りた大臣は身内の者を呼んで都への使いを出した。使いは迎えの者たちと出会い、事の一部始終を話したので、京に奏上することになった。鬼神が退治されたという話は国中の者たちが知るところとなった。大勢の者たちが帰ってきた大臣を迎えた。

 参内した大臣は帝に奏上した。帝はこの度の忠孝は数え難いといって信濃の国を大臣に下賜された。川丸とさたをの二人は少将となった。大臣は長谷の観音に参篭して、様々な建物や道具を寄進した。

 大臣は川丸とさたをに恩賞として二人を信濃の国の総政所とした。信濃の国に下った二人は民に迎えられ、勅命ほど恐るべきものはない、勅命の前には鬼神も滅んでしまうと述べた。川丸とさたをの二人は家を建て大いに栄えた。大臣は信濃の国に下る益もないといって由々しくも都に住み続けた。

 帝は鬼の首を見てどうしようかと考えたが、七条の河原に獄門にした。見物の人たちは末代までの物語とした。こうして帝の威光は国中に届き、靡かないものはなかった。

 ……大島由紀夫「『戸隠山絵巻』考」によると、鬼たちの住処である深い岩山を見るも、「入るには及ばず」と中を見ずに帰ってしまうが、これは「酒吞童子」の影響を受けたもので、「酒吞童子」の場合、岩穴に囚われた女性たちがいるので救出しなければならないため、岩屋探索のシークエンスがあるが、「戸隠山絵巻」では囚われた者はいないので、探索のシークエンスはなく「入るには及ばない」となっている(物語が破綻)と指摘されている。

 主役が吉備の大臣とされているのは、吉備真備(まきび)に鬼に関する伝説があり、そこからではないかとされている。

 では、謡曲「紅葉狩」の本説(典拠)は何かということが問題になるが、
 とりわけ信州の山奥、修験の霊地で、『神道集』四には鬼神退治譚も見える戸隠のイメージは、≪紅葉狩≫の異常性を増幅する効果を果し得ており、それゆえに、戸隠における縁起の中に維茂譚があって、≪紅葉狩≫の本説となっていたかも知れぬと考えられたりもしたのだが、その可能性はまずあるまい。
「新潮日本古典集成 79 謡曲集 下」(伊藤正義/校注, 新潮社, 1988)p.493
ということで今後の課題となっているとのこと。ちなみに「世阿弥は、よき能というのは、『本説』正しいものであるといっている。」と土屋恵一郎「処世術は世阿弥に学べ!」(104P)にある。なお、「紅葉狩」の作者は観世小次郎信光である。

◆訳

 こなれない訳だが全文を訳してみた。徳田和夫, 大島由紀夫「翻刻『戸隠山絵巻』に漢字を当てて、「国民伝説類聚」で間違いを訂正した。口語訳は既に他のサイトであるのだけど、要約を書こうとしている内に全文訳となってしまった。

 それ天下泰平に治まる事は仏法をもって旨として、仁・義・礼・智・信の五条を守り、慈悲を深くするにどうして国民が正直でないことがあろうか。ここに人皇第四十四代に当たる帝は元正天皇と名づけられた。この帝は漢朝のいにしえ、三皇五帝の跡を慕い、慈悲をもって専らとし、賢臣の諫めを用い、佞奸な臣を退け、善に近づき、悪を離れ給う故にか、国は豊かに治まって民は安穏に暮らしていた、これで国土の民は遠い国の波濤に至るまで靡かない草木もなかった。そうなので、治める御代の印でか、美濃の国から不思議なことが奏上された。本栖の郡(こおり)に泉が湧き出て、飲む人は白髪が変じて黒髪となり、老いたるは若やぎ、若きはいつも老いない由を申し上げたところ、殿上人は奇異の思いをなし、急いでこの由を奏上したところ、帝がお聞きになって、このような奇特なことは他にないだろうと勅使に命じて見てまいれと宣旨なされたので、すぐに勅使を下して事の様子を見たところ、里人が答えて申すには、左様でございます。この泉の湧き出ること、古くより出たのでしょうか、又はこの頃湧き出たのでしょうか、知らないが、我ら年寄りの父がいるが、彼を世話するために山へ入り、薪を切ってこれを生業として過ごすところに、あるとき山道の疲れにこの滝川のほとりに安らいで、なんとなくこの水をすくい飲んだところ、疲れもやみ、心も若やいだので、急いで家まで汲んで運んで、父にこれを与えると、かの老人、この水を飲んでから、いつしか白髪が変じて黒くなり、足も軽く、夜の寝覚めも心配なく、朝寝も起きやすくなって、疲れることも無いので、この水を朝夕に汲んで飲むことで、この最初の人々はこれを知りました、と申し上げたところ、勅使も奇特に思って、その滝津壺に立ち寄って、泉の湧き出るところをよく済まして見て、すぐに都に帰って、この由をありのままに奏上したところ、帝も大いに感じるところがあって、すぐに年号を養老と改められた。まことに天皇の御代には、このような瑞相があること、漢朝にもその例が多い。いよいよ帝も政(まつりごと)を怠らず、君も臣も安穏に過ごしていた。

 こうして年月を経たが、また、民の患うことが出た。その訳は、東山道、信濃の国の戸隠山には、不思議な変化の物が住んで、暮れれば行き来する人が稀であった。初めの程であるが、後には夜となく昼ともなく鬼神の姿を現して、麓へ出て行き来の人を悩ますこと莫大であった。これに伴って、関東からの貢物は滞り、都から東へ下ることも叶わず、近国の人々は鬼神のために捕らえられて、あるいは親を獲られて残った子がなげき、あるいは夫を失って妻が嘆き、兄を獲られた後で弟が憂えることもあった。いずれも家々で大声をあげて泣くそれは叫喚地獄の苦しみも、これには勝らないだろうと見えた。無益なことに田畑を耕すこともならず、ならば行く末も覚束ない。結局、この事を都へ申し出て訴え、なにとぞ国のおだやかな様に計らえとあったので、この義は尤もであると言って、我と思う者を数十人連れて都を目指して上洛した。

 こうして都に着いたが、事の子細を奏上したところ、帝は大いに驚き、かの十人の者を読んで尋ねさせたので、初めから終わりまで詳しく申し上げたところ、帝がお聞きになって殿上人を近づけて、どうするかと仰せだったので、中でも堀川の内大臣が進み出て申すことに、古くもこのような例がありました。天智天皇の御時に藤原の千方という逆臣があって、鬼を悉く従えて召し使ったけれども、急いで武士に仰せになって退治されたので、何の差しさわりがありましょうかと言ったので、帝は実にとお思いになり、その義であるならば、誰に仰せになるべきかとおっしゃったので、吉備の大臣と申す者は文武両道の人なので、彼に仰せになりなさいませと申し上げた。帝はならば大臣を呼べとおっしゃったので、急いで勅旨を下された。大臣は驚いて、すぐに参内した。
 帝が、信濃の国の戸隠山に鬼神が住んで国中の民を悩ましている。大臣に、汝、信濃の国に下って退治せよと仰せだった。大臣は勅命を受けたが、我らのごときが行ったとしても、鬼神を滅ぼすことは難しいだろう、これは天下に名を上げようとする人に仰せつけられるべきではと申し上げたところ、大臣の答えはそうだけれども、天子の言葉は一度口から出たら取り消せない。そなたを選んだことが面目である、片時も時刻を移さず、直ぐに下るべしと公卿と殿上人が宣った。大臣は宣旨に背くのは命を惜しむか様のである、その機会なれば信濃に下るべしと。大臣は御前を立って宿所に帰った。そして郎党の曽我の川丸と紀のさたを(貞雄)という剛の者がいて、彼らを召して、おのおの如何にか承れ、この頃、信濃の国戸隠山に鬼神が住み民を悩まし行き来の人を煩わせている由が上奏された。そうであるところに、我に鬼神を退治せよとの勅命を下されたので、家の面目、末代までの評判である。明日にも早く信濃の国へ下るべし、お前たち二人も供をせよと言ったところ、二人はこれは由々しい大事かな、人数多いなかで君に宣旨を下されたことはお家の面目であると承った。たとえ通力を得た鬼神であったも、眼に写りさえすれば、なんとか滅ぼすことも叶いましょう。その上勅命であり頼もしく思えて限りなく喜んだ。大臣は、勅命を帯びて下るので、いささか思う子細がある。そうであるけれども、仏神を頼むべきである。長年、長谷の観音を信じてきた。祈願したく思うが、大事な宣旨なので早く下るべしといって、長谷の観音には使者を下された。養老二年に川丸、さたをを大将として、五十余騎を率い、都に訴えた三人に案内させ、都を出て大津の浦に着いた。

 瀬田の橋を渡り、野中の道で篠竹の生えた道を過ぎ、夜に日を継いで急いだところ、噂に伝え聞こえた信濃の国に着いた。三人はとある在家に入って旅の休息をとった。大臣は夜明けには山へ分け入るべしとて、都から案内してきた三人の者を召して、山の様子を尋ねさせた。三人が申すところ、戸隠山は越中の立山や加賀の白山とも続いており、険しく、鳥の他には通うものはいないと答えた。月日の光は明らかでなく、木の葉がつもって道も無いので、偶々行き交う人も帰る道を弁えない。眼(まなこ)を遮るもの、空を駈ける翼、耳に触れるのは、峰の嵐、谷の水音、これらの他は音するものもありませんと申し上げた。大臣はそれを聴いて、何はともあれ、夜が明ければ戸隠山へ分け入って、山の有様を見るべし、そうならば計略を用いるために出よう、そのとき、思いのままに服従させようといってその夜はそこで明かした。

 そうしていると、山の端は白み、横雲がたなびき、日陰もようやく差したので、大臣は人が多くては叶うまいといって、川丸、さたをの二人に供をせよ、残る者たちは皆麓に留まるべし、人が多くては鬼神が恐れて出てこないだろう、用意せよと言って、緋縅(ひおとし)鎧と巳の刻に輝く赤地の錦の直垂(ひたたれ)を着て、二尺八寸の太刀を腰に帯びて、薄絹を上に一枚着ながら先に進んだ。川丸は萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の鎧に褐(かちん)の直垂を着けて、さたをも木桜縅(こさくらおどし)の鎧を、いずれも薄絹を上に担いで、彼の山に分け入った。残りの者は麓に留まって、何はともあれ、射ち漏らしたら、ここで捕えようと皆牙を噛んで待ち構えた。かくて主従三人は山へ分け入った。

 実に聞くに勝って凄まじい、九月下旬の折なので、峰の木枯らしが吹き、木の葉が積もって道もない。山路に雨は無く霧が深く、日の光も稀だった。時を弁(わきま)えることも無かった。憂うべき険難を過ごして、時を無駄に過ごして居た。とある木陰に三人は立ち寄って息をついた。大臣は、これほど分け入って、はや夕日も西に移ったと言えども、眼(まなこ)を遮るものもない。きっと宣旨を恐れたか、又は観音の仏力で、我らの威勢に恐れたか、不思議なことよとおっしゃった。二人の者は承って、常に里に下りて人を取る奴らが、ここまで来たのに、仇をなさないのは、きっと宣旨を恐れたか、大臣の威勢に恐れたのでしょうと答えた。何はともあれ、この山で年月を過ごしても、姿を見なければ、退出するまいと申し上げた。大臣はお聞きになって、よく申した。我もそれは心得た。この山で暮らしても、姿を見ないままでは、二度と故郷へ帰るまいと、腰につけた乾飯を取り出して、飢えをしのいでお休みになった。こうしたところ、峰の方で人の声が聴こえたので、大臣は不思議に思って、これこそ鬼神である。行って見ようとおっしゃって、はるばる分け登ったところ、美しい女房が二人涙を流していた。大臣はこれこそ彼の変化なり、我らをたばかる為に女となって出たのか、やつらを連れて来いとおっしゃったので、承りましたと、川丸はするすると立ち寄ったところ、女はとても恥ずかし気に、木陰へ立ち隠れ、川丸はお前たちは何者であって、この森林以外には稀な深い山に住んでいるのか、不審だと言ったところ、女房が聞いて申すには、我らはこの山に住む者ではなく、麓の者ですと申した。川丸はこれを聞いて、これは差し支えない、急いで帰って大臣の前へ行った。大臣が御覧になって、お前たち、この山に鬼神の住処があると聞く、どこか教えろとおっしゃったので、女房たちは涙を流して、左様でございます。我らは知りません。この峰の彼方に気高い上臈が数多く酒盛りしています。この人たちがよく知っておられる、我らは住処へは入れないので、彼処へ行ってお尋ねになってくださいと申したので、大臣はとにかく女房を連れて、峰をはるばる超えたところ、案の定、気高い女房たちが六、七人、幕をうち回して、屏風を立てて酒宴半ばであった。

 大臣たちが寄って見たところ、女房たちは気後れする風情で、木陰、あそこの岩の下へ隠れたので、大臣はいかに、各々方、これは苦しうない、何しに隠れたのですか、早く出で給えとおっしゃったので、女房たちが気後れしながら立ち出で、姿を見たところ、都の人と見える、自分たちはこの山に住む者でないけれど、差し支えのある事情があって、このような山の奥に来て、人は知るまいと打ち解けて戯れたところ、大臣たちに見られて恥ずかしいことよ、とうち伏した。大臣はご覧になって、何を散らばせましょうか、たまたま同じ一本の樹木の陰に宿るのも、これも他生の縁、前世からの因縁なので、このような折に野辺の草葉の露の言い訳をを交わすことも、これならない契りである。我らは都の者で、東へ下ったが、道に迷い、この山へ分け入った。道を教えてくだされ、とおっしゃったので、女房たちはこれを聞き、都の人と聞くと懐かしくございます。更にはこちらへ渡り給え、道標を申しましょう。そうではあるけれども、前世からの因縁であるお酒をどうして見捨てさせましょうと袖にすがって勧めたので、さすがに岩や木ではない身なので、心弱くも立ち寄って、林の間に酒を温めて、紅葉を焚く風情もこの様かと思われて、立ち舞う足元に気分は惑い、はやくも、心も打ち解けた。大臣はどうか聞き給え、まことなのか、この山に鬼が住むと聞いているが、どちらか教え給えとおっしゃったところ、女房たちはもしもしと聞いて、この山には九しょう大王と申す、その丈一丈あまりの鬼がいる。召使いの眷属に至るまで、一人として従わない者はない。この頃は陸奥に下っており、二、三日は帰るまいと申したので、我々は留守の間に出て、心を慰めていたのですと打ち解けた顔でいたので、大臣をはじめ、川丸、さたを、差し受け差し受け飲むほどに前後もなく乱れてしまった。

 側の岩を枕として、少しまどろんだか、女房どもはこれを見てやったと喜んで、今までは女と見えたのが皆凄まじい鬼となって、急いで九しょう大王に申そうとして、皆鬼の岩屋へ帰った。無残なことだ。三人の人々既に危うく見えたが、有難いことに長谷の観音は大臣殿の枕許に現れて、どうした大臣、このような宣旨を承って仇を知らずにこうも深く見えるか、早く起きよとおっしゃって、かき消す様に姿が失せた。大臣は夢から覚め、かっぱと起きて見ると、辺りにいた女は一人もおらず、二人の者も枕に臥していた。大臣は声を怒らせて二人を起こさせたが、川丸とさたをは夢から醒めてかっぱと起き上がり、四方をきっと見回して、これはいかなることですかと言ったので、大臣は、不思議なことだ、ただ今の女は皆この山の鬼だぞ、用意せよと言い、上に着てた薄絹を脱ぎ捨てて、太刀を抜いて持って三人一緒に立ち集まり、大木が一本あったのを盾にして、今か今かと頼もしく待ちなさった。

 そうする内に、かの女は皆鬼の形を現わして岩屋に帰り、九しょう大王の御前に参り、このようにたばかって前後も知らず伏しております。急いでおいでになり、早々に餌食にしてしまいなさい、大王はどのようにと申し上げたので、大王ははなはだしく喜んで、よくぞ言ったとすぐさま岩屋を出て、眷属どもを引き連れて、三人がいたところに出たところ、三人の姿は無かった。これはいかなることかと慌てて騒ぎ、ここかしこと探せば、三人はこれを御覧になって、さあ、鬼神が現れた、一人も漏らすなとおっしゃって木陰から露わに出て、大きな音を立てて、いかに鬼神よ、天下あまねく、地の続くかぎり、帝の治める国である、それに、なにか、お前は帝の治める地を侵すのみならず、行き来の人を悩ます天罰は逃れまい、とかかったところ、鬼どもはこれを見て、何、帝の治める土地を侵したとや、昔はそうであったろう、手並みの程を見せようと、三人の人々を中に取り込んで攻めたが、元から剛の者であったので、掛け合い戦った。鬼神は通力を得たものなので、悪い風を吹かせ、火を飛ばし、谷を駈け、峰に登って岩を崩し、古木を倒して戦ったので、叶うべくもなかった。

 しかれども、王の威光のありがたいことに、どことも知らず、十七、八歳の天童が一人現れ、鉄の盾を持って三人の前に立って防いだ。大臣もこれを御覧になって、有難いことだ、さては仏神のお守りになることも廃れていないぞと言って面も振らずに戦うと、さしもの卑怯自在な鬼どももたちまちのうちに通力が失せて、悉く討たれたので、九しょう大王はこれを見て大いに腹を立て、憎き奴らかな、出でて自分が手並みの程を見せようと言って、小高い岩の上に飛び上がって、大臣を睨んで立ったのは身の毛もよだつばかりであった。三人の人々はこれを見て隙間も無く斬りつけてかかったところ、叶わないと思ったか、大臣を目がけて宙を飛んで飛び掛かった。すぐさま、組み合って、あれほどまでに険しい山中を上になり下になる転んだのを、二人の人は見て、隙間もなく斬りかかったところ、少し弱ったと見えたのを、やがて押さえて首をかき落としたところ、首が宙に飛び上がって、口から火炎を吹き、三人の人に吐きかけた。どうしてか、溜まるべき様はなかった。鎧の袖を頭にかつぎ、かなたこなたと木陰を求めたところ、どこから来たのか、ワシとクマタカが二羽飛び着て、舞い上がる首を隙間もなく蹴って、数千丈の深い谷の底へ落としたところ、微塵に砕けて失せてしまった。

 三人はこれを見て、いよいよ有難いと手を合わせ伏して拝んだ。今はもう、思う仇は滅ぼしたので思う事もないといって、木陰に立ち寄って、少し安らいだが、程なくして日が落ちたので、元から山路に月の光は無く満ちておらず、ならば、今宵はこの山で夜を明かそうと、木の葉を集めて焚き火をして長い夜寒を明かした。麓にいた者たちはどうしただろう、覚束ない。いざ尋ね参ろうと道も見えない険しい山をかなたこなたと尋ねいる心の内こそ頼もしい。かくしてその夜が明けたので、三人は斬り殺した鬼の首を二つ持たせて帰ろうとしたが、裁断を申すには、今はもう、思う仇を滅ぼしたので心に掛かることもない、いっそのこと鬼の住処を見て故郷の物語にしようと指示を出した。大臣はまことにと思い、山の奥に分け入り、かなたこなたと尋ねたが、これと思う所はなかった。

 なお谷を指して下りたところ、大きな岩穴があった。立ち寄って見たところ、入口には石を畳んで門として奥には如何なることがあったか見えず、数千丈の深い谷で、藤の蔓(つる)を伝って出たと思しく、藤鬘(かずら)が幾つもあり、入って見るには及ばないので、いざ、帰ろうとおっしゃったので、二人は尤もと言って立ち帰ったが、谷に下り、峰に登るにつれて、帰るべき道を忘れてしまった。かなたこなたとと迷ったけれども、行先は詰まって岩石だけだった。どうしようと天を仰いだが、大臣が知らない山道に迷ったときは谷について、いずれは必ず里があるだろうとおっしゃった。いざ水に随って(したがって)いた。流れを尋ねていて、こうしたところに、麓から尋ね入った大勢がかなたこなたと尋ねかねて、声を上げて呼ばわった。この辺りに吉備の大臣殿はいらっしゃるか、曽我の川丸、紀のさたをはいないかと声々に呼ばわる声がかすかに谷に聞こえた。大臣は不思議に思って耳をすまして聞いたところ、大ぜいの声であった。きっと麓にいた者たちが尋ねきたのだろうと思い、すぐに谷から答えたところ、大勢の者たちはこの声を聞き届け、谷を指して下りた。見れば、三人は鬼の首を持っていた。喜び勇んで、やがて伴って麓に出た。

 信濃の国の里人は、この由を聞くと、有難い次第だと言って、皆立ち出でて、大臣を拝んだ。それからすぐに、大臣は先ず都へ人を上洛させるべしと言って、身内の者を一人呼んで、お前は都へ上がって事の子細を上奏いたせ、自分は明日上洛しようとおっしゃって、とある在家に入り、しばらく安らいだ。お手柄があっぱれだったので、使いの者は大臣の仰せに従って都を目指した。かくして都には大臣が下った日から毎日人を出して、大津、粟津、松本の辺までお迎えがあったらよい。大臣の使いの者も、程なく瀬田の橋に着いたので、かのお迎えに対面して、ありのままに語ったので、迎えの人たちも立ち帰って、この由をこのように伝えた。帝もお聞きになって、喜ばれることは限りがなかった。なので、迎えをせよとおっしゃったので、殿上人は目出度いことだと我も我もとおいでになった。また大臣の奥方も思い思いにいた。都から大津、松本、粟津、瀬田、野中の篠竹の生えた道まで馬、車、徒歩で、裸足の人はひきも切らず、都の人たちはこれを聞いて、いざ、末代までの物語に見物しようと、逢坂の辺りでは桟敷を立てて並いった。かくして大臣は片時も無駄にせず上洛しようと、鬼の首を持たせて次の日に信濃の国を出たので、国中の民が、なんとまあ有難いと言って、皆、大臣を送った。まことにあっぱれな有様で、かくして大臣は近江の国の安川で迎えの人たちに合ったところ、皆馬から降りて会釈した。信濃の国の人たちはお暇申し上げて、本国に帰り、喜び合うことは限りがなかった。

 かくして大臣殿はあっぱれな有様で都に入った。道々のお迎えに皆会釈して、宿所に入り、そのまま参内すべしと言って、川丸、さたをに鬼の首を持たせて、帝へ参内したところ、内裏からの宣旨は、この度の忠孝、ひとえに数え難い、近く寄って戸隠山の物語を話せとおっしゃったので、ありがたいと言って御簾近くまで寄って、始めから終わりまで、女房に酒を強いられたこと、鬼の首が宙に舞い上がったこと、鬼の住処を尋ねたこと、道に迷ったことなど、詳しく申し上げたので君も臣も舌を振るっていた。まことにあっぱれな手柄であるといって、大臣には信濃の国を下賜され、その上、剣や色々の巻物など取り揃えて下さった。さて、川丸、さたをの二人を有難いことに少将になされた。有難きことと言って、御前を発ち、宿所に帰った。

 大臣のおっしゃることに、この度の忠孝はひとえに長谷の観音のおかげではないか、いざ、参篭しようといって二人の少将を引き具して御前に参って、三十三度礼拝し、さて、堂塔一宇も残らず建立した。八十八間の回廊、四十四間の廊下、仏前の道具を皆金銀で磨き立てた。末世の今に絶えず、有難いことである。

 さて大臣は急いで参篭から帰り、二人の少将を近づけ、この度の忠孝は数えるに限りない、その恩賞にと、信濃の国の総政所を下された。二人はありがたいと言って、御前を発って信濃の国に下った。国中の人々はこれを聞いて、この国が安穏でいられるのも、ひとえにこの人々の御蔭であるとて、国中の人々が色々の供物や捧げものを持って、少将に参った。二人の少将は立ち出で、皆と対面しておっしゃることに、この度、この国の鬼神を服従させたのは、一つは君のお蔭、または仏神の力である。まったく人間の一分では及びもしない。されども、勅命を受けた故に、思いのままに滅んだのである。世話を焼くが、各々がたも勅命とあるならば、恐るべし。かような変化の物までも勅命の前では滅ぶのだぞと、今昔の物語があったので、その国の人達は承り、まことに恐れても恐るべしは君のお蔭であると皆お暇し、各々の家に帰った。さて、その後、二人の少将は思いのままに家を造って栄華に栄えた。かくして大臣は信濃の国に下っても益のないことだと都に住んでいたが、まことに畏れ多いことだ。

 かくして帝はかの二つの鬼の首を御覧になって、どうすべきか考えたが、このような物は末代までも語り伝えさせようと、七条の河原に獄門にかけて晒された。誰も君を敬うべしとて、見聞く人々も勅命を恐れたので、いよいよ君のご威勢も目出度く、靡かない者もなかったのである。

◆戸隠山 上

徳田和夫, 大島由紀夫「翻刻『戸隠山絵巻』に漢字を当てて、「国民伝説類聚」で間違いを訂正した。一部分からない箇所が残っている。

それ、天下泰平に治まる事は、仏法(ふつほう)を以つて旨とし、五常(しやう)を守り、慈悲心(しひしん)を深くせんに、なとか、国民(くにたみ)の素直ならんや、ここに人皇(人わう)四十四代に当たらせ給ふ帝(みかと)とをば、元正(けんしやう)天皇と名づけ奉る、この帝とは、漢朝(かんてう)の古(いにしへ)、三皇(くハう)五帝の跡を慕ひ、慈悲心を以つて専らとし、賢臣の諫めを用い、佞臣(ねいしん)を退け、善(せん)に近づき、悪を離れ給ふ故にや、国豊かに治まり、民安穏(あんをん)に住めり、これによつて、国土の人民、遠国波濤(はたう)に至るまで靡かぬ草木もなかりけり、されば、治まる御代の徴(しるし)にや、美濃の国より不思議の事を奏聞す、本巣(もとす)の郡(こおり)に泉の出て、飲む人は白髪変じて黒くなり、老いたるは若やぎ、若きはいつも老いせぬ由を申し上げければ、殿上(てんしやう)人奇異の思ひを成し、急ぎこの由奏聞ありければ、帝叡聞(ゑいふん)あり、かかる奇特なる事こそなけれ、急ぎ勅使(ちよくし)を成し、見てまいれ、と宣旨なりければ、やがて勅使を下して、事の様(やう)を見給へば、まことに希代不思議なり、勅使、辺りの里人を近づけて、事の子細を問ひければ、里人答えて申しけるは、さん候、この泉の出で侍ること、古(いにしへ)よりも出でたるやらん、又このころ出でたるやらん、知らざりしか、我ら、年寄りたる父をもつて侍るが、彼を育まん(はこゝまん)そのために、山に入り、薪を切り、是を営みとして過ごし申すところに、あるとき、山路(やまち)の疲れにこの滝川のほとりに安らい、なにとなくこの水を結びて飲み侍れば、疲れも止み、心も若やぎ候ほどに、急ぎ家路(いゑち)に汲み運びて、父にこれを与ふるに、かの老人この水を飲みてより、いつしか白髪を変じて黒くなり、足も軽く、夜の寝覚めももの憂からず、朝寝(ゐ)のことも起き易くして、疲れに臨むことも無き故、この水を朝夕汲みて飲み侍るにより、この最初の人々、これを知り侍るなり、と申し上げれば、勅使も奇特の思ひをなし、さて、その滝壺に立ち寄り、よくよく泉の出るところを見澄まして、やがて、それより都に帰り、この由をありのままに奏聞ありければ、帝も多きに御感(きよかん)ありて、やがて年号を養老(やうらう)と改められける、まことに聖体(せいたい)の御代には、かようの瑞相(すいさう)ある事、漢朝にもその例多し、いよいよ帝も政(まつりこと)怠り給はず、君も臣も安穏にこそ過ごされけれ。

 かくて年月経るほどに、又、人民の患いこそ出きにけれ、その故は、東山道(とうせんたう)信濃の国に戸隠山(とかくしやま)には、不思議なる変化の物の住んで(すむて)、暮るれば行き来の人稀なりけり、初めの程こそあれ、後には夜となく昼とも言わず、鬼神(きしん)の姿を現し、麓へ出て、行き来の人を悩ますこと莫大(はくたい)なり、これに携えられて関東(くはんとう)より貢物素直ならず、都より東(あつま)へ下る事も叶わず、近国の人々これが為に取られ、或いは親を取られて子残りて嘆くもあり、あるいは夫を失ひて女の嘆くもあり、兄を取られて弟後にて憂ふるもあり、いずれも家々に啼哭(ていこく)する声は、叫喚?驍悍?(けうくハん)地獄(ちこく)の苦しみもこれには勝らじとぞ見えし、徒に田畑?(てんはく)も耕かさず(たかやかさす)、昼夜ともに門戸を閉じて籠り居る事、まことに天下の愁えなりとて、信濃の国の人民、こぞり集つて詮議しけるは、昔もかかる事侍り、このままにてあるならば、近国の人民悉く彼に滅ぼされて候へし、偶々我らごときの者、残り留まりても、かくのごとく門戸を閉じて籠り居ては、田を耕す事もならず、されば、行く末とても覚束なし、所詮この事都へ訴へ申し、なにとぞして国の素直ならん様に計らえ、とありければ、この義、尤もしかるべしとて、我と思しき者数(す)十人連れて、都を指してぞ上りける、

 かくて都に着きしかば、事の子細を奏聞申せば、帝大きに驚かせ給ひ、かの十人の者を召され、尋ねさせ給へば、始め終わりの事詳しく申し上げければ 帝叡聞ましまし殿上人を近づけ、如何はせんと仰せければ、中にも堀川の内大臣進み出て申されけるは、古もさる例(ためし)あり、天智天皇(天ちてんわう)の御時も、藤原(ふちハら)の千方(ちかた)と言ひし逆臣(けきしん)も、鬼を悉く従え召し使ひしかとも、宣旨を帯して?戴して?(たいして)攻めければ、たちまち滅びし例(ためし)有、今とても斯くのごとし、急ぎ武士(ふし)に仰せて退治せられば、何の子細の侍るべき、とありければ、帝げにもと思召し、その義(き)にて有るならば、誰にか仰せつくべし、とありければ、吉備?紀伊?(きひ)の大臣と申すは文武二道(ふんふニたう)の人なれば、これに仰せられ候へかしと申し上げらるる、帝、さらば大臣召せとありければ、急ぎ勅旨を下されける、大臣驚き、やがて参内せられける。

 帝仰せける様(やう)は、信濃の国戸隠山に鬼神の住んで、国(こく)中の人民を悩まし、行き来の人を滅ぼす事奇怪(きつくわい)なり、急ぎ汝信濃の国に下つて退治せよとの勅諚(ちよくちやう)なり、大臣勅諚を受け給わり、我らごときの者の罷(まか)り下り候とも、滅ぼし得ん事は難かるべし、これは、天下に名を得たらん人に仰せつけられ候へかし、と申し上げられければ、公卿(くきやう)殿上人仰せけるは、勅答は(ちよくたうハ)さる事なれとも、人多きその中に、御辺を選び出さるる事こそ面目なれ、その上、斯くの如く綸言汗のごとくなれば、片時(へんし)も時刻(しこく)を移さず、罷り下らるべしとの給へば、大臣聞し召し、重ねて申さば、宣旨を背くといい、命を惜しむに似たるべし、その義(き)にてあるならば、罷り下り(くたり)申すべし(へし)とて、御前を立つて宿所(しゆくしよ)に帰り、御家(うち)の郎党(らうとう)の曽我?蘇我?(そか)の川丸(まる)、紀の(きの)さたを(貞雄)とて大剛(大かう)の者あり、彼ら二人を御前に召して、如何に面々受け給はれ、この頃、信濃の国戸隠山に鬼神の住むで、人民を悩まし行き来の人の患ひある由を奏聞申す、しかる処に、我にかの鬼神を退治せよとの勅諚を下さるれば、家の面目、末代までの聞こえなり、明日にもなるならば、はや、信濃の国へ下るべし、汝ら二人も供せよとありければ、二人の者受け給はり、これは由々しき大事かな、人多きその中に、ただ今君に此宣旨を成し下さるる事、家の面目、何事かこれに如かん、たとひ通力を得たる鬼神なりとも、眼(まなこ)にさへ見えなば、なとか滅ぼさで叶うまじ、その上勅諚なれば、いよいよ頼もしう覚え候とて、喜ぶ事は限りなし、大臣の給ひけるは、汝が申すごとく、勅諚を帯して下るなれば、いささか思ふ子細なし、さりながら、仏神(ふつしん)を頼むべし、我、この年(とし)月、長谷(はせ)の観音(くハんおん)を信じたり、参篭申したく思へども、大事(大し)の宣旨なれば、早く下るべしとて、長谷の観音へは使者を下し、御身、養老二年九月中旬に、川丸、さたをを大将として、その勢五十余騎を引くし、かの三人の者に案内させ、都を発ち出で、大津の浦につき給ふ、

 瀬田の橋をうち渡り、野路の篠原(のちのしのハら)を過ぎ、夜を日に継いで急がせ給ふ程に、音に聞こえし信濃の国に着かせ給ふ、三人の者どもは、とある在家(さいけ)に入れ奉り、先ず(まつ)、旅の休息させ奉る、大臣殿は、夜明けは彼の山へ分け入るべしとて、かの三人の者を召して、山の様子を尋ねさせ給ひける、三人のもの申す様、さん候、かの山と申すは、越中の立山(たてやま)に加賀の白山(しら山)と続き候か、険しき事なかなか鳥ならでは通うべき様なし、と老樹茂りて、月日の光明らかならず、木の葉つもりて道無ければ、偶々行き交う人とても、帰るさを弁えず、眼(まなこ)に遮るもの、空を駈ける翼、耳に触るるものは、峰の嵐、谷の水音、これらの他は音するものも候はずとぞ申しける、大臣聞し召し、何ともあれ、夜あけなば彼の山へ分け入り、山の有様を見るべし、しからば、謀(たはか)らんために出ずべきそのとき、思いのままに従えんとの給ひて、その夜はそこに明かし給ふ。

 さる程に、山の端白み、横雲たなびき、日陰もようよう(やうやう)差し給へば、大臣殿は、人多くして叶ふまじとて、川丸、さたを、ただ二人供せよ、残る者どもは皆麓に留まるべし、人多く行かば、鬼神恐れて出づ(いつ)まじきぞ、その用意せよとて、大臣殿は緋縅(ひおとし)の鎧の未だ巳(み)のとき輝くを赤地の錦の直垂(ひたたれ)を召し、二尺八寸の太刀を佩き、上に薄絹一つうち着つつ、先に進んでいて給ふ、曽我(そか)の川丸(川まる)も萌黄糸縅(もえきいとおとし)の鎧に、褐(かちん)の直垂を着しければ、紀のさたをは、木桜(こさくら)縅(おとし)の鎧を着て、いずれも薄絹を上に担ぎて、かの山へ分け入り給ふ。残の者どもは、皆麓の野辺に留まり、何ともあれ、射ち漏らし給ふものならば、ここにて捕らえ止むべし、と皆牙を噛みて(ミなきはをかみて)ぞ待ちかけたる、かくて、主従(しうじう)三人は、足に任せて分け入り給ふ。

 まことに聞くよりは、いや勝りして凄まじ、頃は九月下旬の折なれば、峰の木枯らし吹き絞り、木の葉積もりて道もなし、山路(やまち)に雨無うして来返し?霧深し?(きかえし)、日輪の光稀なれば、時をまきまうる(まふる)わきまえる?弁ふる事もなし、斯かる者憂き険難を過ごして、少しの徒過なるところに居て給ふ、とある木陰に三人立ち寄りて、息をつき給ふ、大臣仰せける様(やう)は、これ程まで分け入り、はや、夕陽(せきやう)も西に移り給ふと言えども、眼(まなこ)に遮るものもなし、如何様(いかさま)これは宣旨に恐るるか、又は観音の仏力にて、我らが威勢に恐るるか、不思議さよ、とぞ仰せける、二人の者受け給はり、まことに常には里までも下りて、人を取る奴めが、かかるところまで来たれ共、仇をなさぬは、如何様宣旨に恐るるか、君の威勢に恐るるなるべし、なにともあれ、この山にて年月を送るとも、姿を見ざらんにおいては、罷り出づ(いつ)まじき、とぞ申しける、大臣聞し召し、よく申したり、我らもそれは心得たり、この山にて暮らすとも、姿を見ざらんに於いては、二たび故郷へ帰るまじき、とて腰につけたる乾飯(かれいひ)なと取り出して、飢えを休め御座します、かかりける処に、峰の方に人の声聞こえければ、大臣不思議に思し召し、これこそ彼の鬼神なるべし、行きて見ん、との給ひて、又はるばると分け登り給へば、美しき女房(はう)二人、涙を流し居たり、大臣、これこそ彼の変化の物なるべし、我らを謀(たはか)らん為に、女となりて出たるぞや彼奴(きやつ)を連れて来よ、との給へば、受け給はると申して、川丸、するすると立ち寄りければ、女いと恥ずかし気に、木陰へ立ち忍、川丸言ふよう、汝らは何者なれば、この森林稀なる山には住むぞ、不審なりと申せば、この女房聞て申す様(やう)、我らはこの山に住むものにあらず、麓の者なり、とぞ申しける。川丸聞きて、さては苦しからずとて急ぎ帰りて大臣殿の前に行く、大臣御覧して、如何に汝ら承れ、この山に鬼神の住処ありと聞く、いづくの程ぞ、教えよ、と仰せければ、女房涙を流し申しけるは、さん候、我らは知らず候、此の峰の彼方(あなた)に、気高き上臈の数多酒盛りしてまします、この人々こそ、よくよく知ろし召され候、我らは住処へは入れず候、彼処(かしこ)へ行きて尋ね給へ、と申しければ、大臣、とやかく彼の女房を具して、又、峰をはるばると超え給ひければ、案のごとく、気高き女房六七人、幕うち回し、屏風を立てて、酒宴半ばと見えにける。

 大臣たち、寄り見給へば、かの女房たち恥かしげなる風情して、ここの木陰、彼処(かしこ)の岩の下(もと)へ立ち隠れければ、大臣仰せけるは、いかにいかに、かたがた、これは苦しからぬものなり、なにしに隠れ給ふぞや、はやばや出で給へ、と宣へば、女房たち、恥ずかしながら立ち出で、御姿を見立て奉れば、都の人と見え申す、これはこの山に住む者ならねど、子細ありて、斯様(かやう)の深山(ミやま)の奥に来て、人は知らじと打ち解けて、戯れ侍りしに、かかる人々に見え参らせける恥ずかしさよ、と打ち伏し給へば、大臣御覧して何をかは散らばせ給ふらん、一樹の陰の宿りも(一しゆのかけのやとりも)他生の縁と聞くなれば、かかる折節、道野辺の草場の露の託言(かこと)をも跳び交わすことも、このならぬ契りなり、我らは都の者にて、東の方(かた)へ下りしか、道に踏み迷い、この山へ分け入り侍る(はんへる)なり、道をお教へ立て、とありければ、女房これを聞き、都の人聞けば、懐かしくこそ侍れ、更は此方(こなた)へ渡り給へ、道標申すべし、さりながら、一河の流れを汲む酒を、いかでか見捨てさせ給ふべき、と御袖にすがりて勧むれば、流石(さすか)岩木ならぬ身なれば、心弱くも立ち寄りて、林間に酒を温め、紅葉(こうえう)を焚く風情も斯くやと思ひ知られて、立ち舞う足許に心地惑い、はや、心も打ち解け給ふ、大臣仰せけるは、いかにや方々聞き給へ、まことや、この山に鬼の住むと聞ひてあり、いづくの程ぞ、教え給へ、との給へば、女房たち聞きて、さん候、この山には九しやう大王(わう)と申して、その丈一丈(ちやう)あまりの鬼あり、召し使ふ眷属に至るまで、一人として徒なる者なし、この頃は、陸奥国(みちのくに)へ下り候、二三日は帰り申しまじきなれば、さて、我々留守の間に出でて、心を慰み候なり、とて打ち解け顔にてし居ければ、大臣殿を始め、川丸、さたを、差し受け差し受け飲む程に、前後(せんこ)しどろに見え給ふ。

◆戸隠山 下

 側なる岩を枕として、少しまどろみ給ひしか、女房ともこれを見て、し済ましたり(しすましたり)と喜びて、今までは女と見えしか、皆凄まじき鬼となりて、急ぎ九しやう大王に申さんとて、皆々鬼の岩屋へ帰りけり、無残やな、三人の人々既に危うく見え給ひしか、かたじけなくも長谷の観音は、大臣殿の枕許に現じ給ひ、いかにや大臣、かかる宣旨を受け給はり、大事(大し)の仇(かたき)を知らずして、かく深く見えけるぞや、はやばや起きよ、との給ひて、かき消す様(やう)に失せ給ふ、大臣夢覚め、かっぱ(かつは)と起きて見給へば、辺りにありつる女一人も無し、二人のものも同じ枕に臥したり、大臣殿声を怒らかして、二人のものを起こさせ給ひければ、川丸、さたを、夢醒め、かっぱ(かつは)と起き上がり、四方をきつと見回して、これは如何に、と言いければ、大臣宣う様(やう)、不思議やな、ただ今の女は皆この山の鬼になるぞ、用意せよ、と宣いて、上にうち着給へる薄絹脱ぎ捨てて、太刀抜き持つて、三人一緒に立ち集まり、大木の一本ありけるを盾につき、今や今やと待ち給ふ心の内こそ頼もしけれ、

 さる程に、かの女は皆鬼の形を現わし、岩屋に帰り、九しやう大王の御前に参り、申しけるは、斯様(かやう)に謀(たばか)りて、前後(せんこ)も知らず、伏して候なり、急ぎ出させ給ひて、早々餌食になし給へ、大王如何に、と申しければ、大王斜め(なのめ)に喜び、よくこそ申してありけるとて、やがて岩屋を発ち出で、眷属共を引具して、有りしところに立ち出で給へば、三人の人々は無かりけり、これはいかにと慌て騒ぎ、ここや彼処(かしこ)と訪ぬれば、三人の人々これを御覧じて、すわや、鬼神の出でたるぞや(いてたるそや)、一人も漏らすな、と宣ひて、木陰(木かけ)より露わ(ハ)出で、大音(大おん)揚げて(あけて)宣ふ様(やう)、如何にや鬼神、確かに普天(ふてん)の下、率土(そつと)の内、王土(おうと)にあらずといふ事なし、それに、なんぞ、汝王地(わうち)を侵すのみならず、行き来の人を悩ます、その天罰は逃るまじ、とて掛かり給へば、鬼共是をみて、何、王地(わうち)を侵すとや、昔はさもこそありつらめ、手並みの程(ほと)を見せんとて、三人の人々を中に取り込めて攻めけるが(か)、元よりこうなる人々にて、掛け合わせ戦ひ給ふ、鬼神は通力を得たるものなれば、悪風を吹かせ、火を飛ばせ、谷を駈けり、峰に上り岩を崩し、古木(こほく)を倒して(たふして)、戦ひければ、叶うべき様はなかりけり、

 然れども、王威(わうゐ)のかたじけなきことは、何処(いつく)とも知らず、十七八の天童(てんとう)一人と引きたり、黒鉄(くろかね)の盾を持ちて、三人の面に立て防ぎ給う、大臣これを御覧して、かたじけなきことどもかな、さては、未だ仏神の擁護(おうこ)も廃らざるぞとて、面も振らず戦ひ給へば、さしも卑怯自在の鬼共もたちまちに通力失せて、皆悉く討たれければ、九しやう大王、これを見て大きに腹をたて、憎き奴原(やつはら)かな、出で、某(それかし)が手並みの程を見せんとて、小高き岩の上に飛び上がり、大臣殿を睨んで、立たりしは、身の毛もよだつばかり也、三人の人々これを見て隙間も無く斬つてかかれば、叶わじとや思ひけん、大臣殿を目にかけて、宙を飛んで掛かりしか、やがて、むすと組合ひける、さしも険しき山中を、上になり、下を(ママ)なり、転びしを、二人の人々これを見て、隙間も無く斬り給へば、少し弱りて見えけるを、やがて、押さへて首掻き落としければ、この首空に飛び上がり、口より火炎(くハえん)を吹きいたし、三人の人々に吐きかけけれ、などかは溜まるべき様なかりけり、鎧の袖を頭に担ぎ、木陰を求めて彼方(かなた)此方(こなた)とし給へば、何処(いつく)より来たりけん、鷲、熊鷹、二つ飛び来たり、かの舞い上がる鬼の首を、隙間もなく蹴る程に、数(す)千丈深き谷の底へ落としければ、微塵に砕けて失せにけり。

 三人の人々これを見て、いよいよかたじけなしと手を合わせ伏し拝み給ふ、今ははや、思ふ仇は滅ぼしつ、思ふ事なしとて、木陰に立ち寄りて少し安らひ給ひしか、程なく日輪入り給へば、元より山路(山ち)に月無うして、満ち見えず、さらば、今宵はこの山に明かせとて、木の葉を集めて焚き火をして、長き夜寒を明かし給ふ、麓に在りし者共は、如何し給ひけん、覚束なし、いざや、尋ね参らせんとて、道も見えぬ嶮しき(さかしき)山を彼方(かなた)此方(こなた)へ尋ね入りける心の内こそ頼もしけれ、かくて、その夜も明けければ、三人の人々は斬り殺したる鬼の首を二つ持たせて、帰らんとし給ふが、沙汰を申しける様(やう)は、今ははや、思ふ仇滅ぼし給へば、心に掛かる事もなし、とてものことに、彼の鬼の住処を見て、故郷の物語にせん、と言ひければ、大臣、げにもと思し召し、又、奥山に分け入らせ給ひ、彼方(かなた)此方(こなた)と尋ね給へども、これこそと思うところなし。

 なお、谷を指して下り給へば、ここに大きなる岩穴あり、立ち寄りて見給へば、口には石を畳んで門とし、奥には如何なる事がありつらんと見えず、数(す)千丈深き谷なり、藤(ふち)の蔓(つる)を伝ひて出たると思しくて、藤鬘(かつら)幾らもあり、入りて見るに及ばねば、いざや、帰らんとの給はば、二人の人々尤もとて、立ち帰り給ひけるが、谷に下り、峰に登り給ふ程に、帰るべき道を忘れ給ふ、彼方(かなた)此方(こなた)と迷ひ給へども、行く先詰まりて、岩石のみなり、如何はせんとて仰天(きやうてん)し給ふが、大臣仰せけるは、知らぬ山路(山ち)に迷ふときは、谷につきて、いづれは必ず里ありと言ふ、いざや、水(みつ)に随(つ)きて出でん(いてん)、流れを尋ねていて給ふ、掛かりし処に、麓より尋ね入りたる大勢、彼方(かなた)此方(こなた)と尋ねかね、声を上げて呼ばはりける、この辺りに、吉備?(きひ)の大臣殿や御座し(おわし)ます、曽我の川丸、紀のさたをや居給はぬか、と声々に呼ばはる声、かすかに谷へぞ聞こえける、大臣不思議に思し召し、耳を澄まして聞き給へば、大勢の声なり、如何様、彼は麓に在りし者どもが尋ね来る、と思し召し、やがて、谷より答え給へば、大勢の者、この声を聞き届け、谷を指して下りたりける、見れば、三人の人々、鬼の首を持ちてましハ(ママ)す、悦び勇みて、やがて、伴い奉り、麓に出させ給ひける。

信濃の国の里人、この由を聞くよりも、さても有難き次第とて、皆々立ち出でて、大臣殿を拝し奉る、それよりやがて、大臣殿、まず(まつ)、都へ人を上すべしとて、身内の者一人召して、如何に汝は都へ上り、事の子細を奏聞申せ、某(それかし)は明日上るべし、との給ひて、ある在家にいらせ給ひ、しばらく安らひ給ひける、御手柄の程こそ由々しけれ、かくて、御使い、大臣殿の仰せに従ひ、都を指して上りける、かくて、都には、大臣殿の下らせ給ふ日よりも、毎日人を出して、大津、粟津(あハつ)、松本の辺まで、御迎ひありしか、大臣殿の御使いも、程なく瀬田の橋に着きければ、かの御迎ひに対面して、在りのままに語りければ、御迎ひの人々たち返って、この由斯くと申す、帝も聞し召され、御悦びは限りなし、さらば、迎ひをいたせとの給へば、殿上人、目出度きこととて、我も我もと出で給ふ、又大臣殿御台所の御方よりも、思ひ思ひに居てさせ給ふ、都より、大津、松本、粟津、瀬田、野路篠原(野ちしのハら)まで、馬(むま)、車、徒歩(かち)、裸足の人々は、ひきも切らず、都の人々これを聞き、いざや、末代の物語に見物せん、とて、逢坂(あふさか)辺りは、桟敷を打って並み居たり、かくて、大臣殿は、片時(へんし)も早く上らんとて、鬼の首を持たせて、次の日、信濃の国を出で給へば、国(こく)中の人民、さてもかたじけなく候とて、皆々、大臣殿を送り奉りける、まことに由々しき御有様なり、かくて、大臣殿、近江(あふみ)の国安川にて、御迎ひの人々に会い給へば、皆々馬(むま)より降りて、色代(しきたい)あり、それ、信濃の国の人民は、御暇申して、本国に帰り、喜び合へる事限りなし、

 かくて、大臣殿、由々しき体(てい)にて、都に入らせ給ひ、道々の御迎ひに、皆々色代(しきたい)ありて、宿所に入らせ、そのまま参内申すべしとて、大臣殿、川丸、さたをに二の鬼の首を持たせ、帝へ参内し給へば、内より(うちより)の宣旨には、この度の忠孝、ひとえに数え難し、近く参りて、戸隠山の物語とも仕れ、とありければ、かたじけなしとて、御簾近く差しよりて、始め終わりの事、女房に酒強いられし事、鬼の首宙に舞い上がりし事、住処を訪ねし事、道に迷いし事、詳しく申し上げ給へば、君も臣も、各々舌(した)を振りて居給へり、まことに由々しき手柄なりとて、すなはち、大臣殿には信濃の国を下され、その上、御剣色々の巻物など、とり添えて下されける、さて、又、二人の人々をば、かたじけなくも、少将になされける、有難しとて、御前を発ち、宿所に帰り給ひける、

 大臣殿の仰せけるは、この度の忠孝は、ひとえに長谷の観音の往古にあらずや、いざや参篭せん、とて二人の少将を引具して、御前に参りて、三十三度の礼拝を奉り、さて、堂塔一宇(う)も残らず建立あり、八十八間の回廊、四十四間の廊下、仏前(ふつせん)の道具(たうく)を皆金銀を以つて磨き立て、決行し、末世(まつせ)の今に絶えせず、有難かりし、事ともなり、

 さて大臣殿は、急ぎ御下向あり、二人の少将を近づけ、この度の忠孝は明けて数うるに暇あらず、その恩賞にとて、信濃の国の総政所(まんところ)をぞ下されける、二人の人、かたじけなしとて、御前を罷(まか)り発ちて、信濃の国に下り給ふ。国中(こくちう)の人々はこれを聞きて、この国の安穏なりしも、ひとえに、この人々の御故なりとて、国中にある程の人々、色々の果物?供御物?(くた物)、捧げものを持ちて、少将殿に参りける、二人の少将立ち出で給ひ、皆々に対面ありて、仰せけるは、この度、この国の鬼神を従えし事、これも一つは君の御蔭、又は仏神の力なり、更々人間(人けん)の一分にて、及ぶべきとも見えず、然れども、勅諚を被りたる故にや、思いのままに滅びしなり、構いて、方々も勅諚とあるならば、恐れ給ふべし、斯様の変化のものまでも、勅諚には滅ぶるぞかしと、昔今の物語ありければ、国人(うと)受け給はり、まことに、恐れてて(ママ)も恐るべきは、君の御蔭なり、と皆々御暇を給はり、己が家々に帰りけり、さて、その後、二人の少将は、思いのままに家造りして、栄華(ゑいくわ)に栄え給ふ、かくて、大臣殿は、信濃の国に下りても、益無しとて、都に住み給ふが、まことに由々しき有様なり、

 かくて、帝は、かの二つの鬼の首を叡覧(ゑいらん)ありて、如何はせんと思し召しけるが、斯様の物、末代までも語り伝へさせんとて、七条(てう)河原に、獄門に掛けて晒されける、誰々も、君を敬ひ給ふべしと、見聞く人々も、勅諚を恐れ奉れば、いよいよ、君の威勢目出度くした、靡かぬところもなかりける、

◆「諸寺略記」戸隠寺の条

 大島由紀夫「『戸隠山絵巻』考」に「阿娑縛抄」所収「諸寺略記」戸隠寺の条が引用されていたので読み下してみた。「学問行者が地主神である「九頭一尾鬼」を石屋に封じ込め、戸隠山を開いたというものである。」「戸隠山に住む鬼を退治するという伝承の源はこのあたりに求められよう。」(29P)とある。

戸隠寺者(は)。仁明天皇の御宇。嘉祥二年比(ころ)。学問修行者飯縄山七日之(の)間。西ノ(の)大嵩に向かいて祈念する。独古を擲(な)げて飛墜する。即ち行きて之を見る。大石屋に在り。彼処(かしこ)に於いて法華経を誦(とな)える之(の)間。南方自(より)臰(しゅう)風吹く。而して九頭一尾の鬼来たり。何人も法華を誦える哉。前祈者(は)聴聞の為に来た也。我毒気風に値(あた)いする。触れる者害心無しと雖(いえど)も皆逝去すること畢(ことごとし)。我前の別当貪欲に住み。虚しく信施(お布施)を用いる。故に此の身に受ける也。彼処此の如く破壊し顚倒すること四十余ケ度也。我功徳を持ち依りて。遂に菩提を得べし云々。学問云わく。鬼者(は)隠形する(呪文で姿を隠す)。言に随い本拠に還ること畢(ことごとし)。彼の所名を龍尾と曰う。石屋の内に入り籠ること畢(ことごとし)。石屋之(の)戸を封じる。地中高声に唱えて云う。南無常住界会聖観自在尊三所利生大権現聖者。此の山字(あざ)戸隠寺と曰うべし。其故龍尾鬼を石屋之(の)戸に封じ、而して(将に、か)持ち建立する故也。又反す(云う、か)飯縄山の前の形は戸を立てた如し故也。

◆戸隠山鬼女紅葉退治之傳

「戸隠山鬼女紅葉退治之傳」は明治時代の作品。平維茂が鬼女・紅葉を退治する話で、戸隠山の伝説に材をとったものだが、維茂が酒に酔い伏すシーンは無い。

要約すると、

 清和天皇の御世に伴の善男(よしを)なる者が応天門に災いをなし、その咎で伊豆の小島に流され、その後大赦され奥州会津に流れた。その子孫である伴の笹丸と菊世とは二人の間に子のいないことを憂えて神仏に祈っていたが、験が無かった。ある人の教えで第六天の魔王に祈ったところ、菊世が子供を身ごもった。一児を授かり名を呉葉(くれは)と名づけた。

 呉葉は利発な子であり才知に満ちていた。呉葉が歳十五六になると美貌を誇るようになった。源右衛門という長者の息子である源吉は呉葉の美貌に心を惑わし、やがて病の床に臥した。源右衛門は呉葉を我が息子の嫁にと使いを出したが、笹丸は京に上る野心があったので断った。笹丸には十五両の借金があった。使者たちは借金の質に呉葉を寄こせと迫る。笹丸は腹を切ると芝居をしてその場を切り抜ける。呉葉は呪文を唱え、自分の分身を作り、結納として百両受け取り嫁がせる。呉葉親子三人は都目指して逃れる。呉葉の分身が源吉の見舞いをして源吉は元気を取り戻すが、呉葉の分身は雲に乗って消えてしまう。源右衛門が会津の笹丸の許を探させたが、呉葉親子三人は既に都に逃れた後だった。

 京都に着いた三人は伍輔、花田、紅葉(もみじ)と名を改める。一月二月ほどで紅葉の器量の良いことは知れ渡り、紅葉の弾く琴は話題となった。そして源経基(つねもと)の御台所(正妻)の目にとまった。紅葉は第六天に祈りつつ琴を弾じる。感銘を受けた御台所は紅葉を召し抱えることにする。紅葉は邪術で経基を虜にする。いつしか経基の種を宿した紅葉は正妻の御台所を亡き者にするよう呪詛する。病に倒れた御台所だったが、治療のかいが無かったので、比叡山の律師に頼んで祈祷してもらう。律師の配った加持符を身につけることを紅葉は拒む。これは怪しいとなったところで紅葉の姿は忽然と消える。本体の紅葉は捕らえられた。律師曰く紅葉は生かしておくべきではないけれど、このことが露見したら御家の恥なので、遠国に流してしまうべし。紅葉たち親子三人は信州戸隠山の岩屋へと流される。

 紅葉親子は伍輔と花田を譜代の家臣と偽り、自分は経基公の寵愛深かったために嫉妬され流されたと偽った。紅葉は秘術で病人の病を治し、生き神と評判をとった。紅葉の息子が生まれた。名を経若丸という。紅葉親子の生計は成り立ったけれど、紅葉の性質は悪に傾き、富んだ家で盗みを行ない、貧しいものに施した。

 平将門の乱で敗れた遺臣たちがいたが、今は盗賊に身をやつしていた。鬼武(をにたけ)ら盗賊たちは紅葉に戸隠山を明け渡せと迫ったが、紅葉は秘術で一蹴した。盗賊たちは紅葉の配下となった。

 賊の仲間たちの間に鬼のおまんと呼ぶ巨体の女がいた。紅葉に気に入られたおまんは鬼武らと肩を並べるに至った。

 紅葉は第六天の申し子なので、容姿は美しかったが、心は邪で人を殺め、金銀財宝を奪う日々だった。唯一、紅葉を諫めていた父の伍輔が亡くなった。盗賊たちも悪しき心を表して麓の村から娘たちを攫って己がものとした。紅葉はやがて鬼女となり生き血をすすり、肉を食べるようになった。

 やがて、紅葉たちの悪事は帝の耳にも入った。驚いた帝は平維茂(これもち)に山賊退治を命じた。紅葉は我が通力で水を出し火を降らせ、維茂の首を獲り信濃の国を奪うべしと言った。紅葉は岩屋を要害とした。

 花田は経若丸に自分は実の祖母であると打ち明けて自害する。維茂は家臣ら百五十余騎を連れて京を発った。

 維茂は出浦の里に入った。斥候を放ち要害の様子を報告させる。家臣の河野(かはの)と真菰(まこも)が百五十余騎を連れて要害を攻めた。が、紅葉の秘術で大水を出され、火を降らされて敗走してしまう。河野は腹を切ろうとするが、真菰が押しとどめる。維茂に報告したところ、それは幻術だという話になった。幻術を破るには武器に不浄のものを塗ればよいと。後詰の金剛太郎と成田も出陣した。一方、敵を退けた紅葉と山賊たちは酒宴を催す。酒宴の最中に維茂の兵たちが奇襲する。が、またしても紅葉の秘術に撃退されてしまう。

 報告を聞いて怒った維茂だが、金剛兵衛が開いて敵は妖術を使う鬼神だ、鬼神を討つには神仏の力に依るべしと諫める。維茂は代々天台宗に帰依してきた。殊に北向観音に頼もうと答える。維茂は紅葉の妖術を破るべく観音に祈る。維茂は霊夢を受け、降魔の剣を授かった。維茂は自ら出陣する。

 紅葉は壇に上がり妖術を使おうとするが遮られてしまう。鬼武と伊賀瀬地(いがせち)は麓の住人の姿となって敵陣に近づく。が、金剛太郎に気づかれ討ち取られる。金剛太郎は賊の抜け穴を見つける。維茂は抜け穴を通って、紅葉の許に向かう。紅葉は本性を現し、鬼女となって維茂を狙う。鬼女は雲に乗って逃れようとするが、遮られる。維茂が首を獲った。首はどこかへ消えてしまった。岩屋は落ちた。おまんは逃げ延びる。捕らえられた賊は悉く死罪となった。

 逃げ延びたおまんだったが、これまでの悪事を懺悔し、得度を受けて自害した。維茂は厄除観音へ参篭し、堂塔伽藍を寄進した。

……という様な内容。経若丸のその後については触れられていない。

◆謡曲「紅葉狩」を現代語訳する

紅葉狩

前シテ:女
ツレ:侍女
後シテ:鬼
ワキ:平惟茂
トモ:従者
處は:信濃
季は:九月

平惟茂の信州戸隠山にて妖鬼を退治すること世伝伝(伝説の誤りか?)によりて作れり

シテツレ次第「時雨をいそぐ紅葉狩、紅葉狩、深い山路を尋ねよう」
シテ「これはこの辺りに住む女でございます」
一同「実に長らえて浮世に住むといっても今ははや、垂れる白雲の八重葎、茂る宿の寂しさに、人も見えない秋が来て、庭の白菊移ろう色も、憂き身の類としみじみと趣がある」
シテ「あまりに寂しい夕ぐれ、時雨れる空を眺めつつ、四方の梢も懐かしさに」
一同「伴い出る道の辺の、草葉の色も日に沿って」
歌「下紅葉、夜の間(ま)の露が染めたのだろうか、染めたのだろうか。朝(あした)の原は昨日より色深い紅を分け行く方の山の深み、実に谷河に風のかけたしがらみは、流れもやらぬ紅葉をば、渡れば錦なか絶えようと、待つ(松)木の下(もと)に立ち寄りて、四方(よも)の梢を眺めて、しばらくお休みください」
ワキサシ「面白いかな。頃は長月(九月)二十日あまり、四方の梢も色々で、錦を彩る夕時雨、濡れて鹿の独り鳴く、声を標(しるべ)の狩場の末、実に面白い景色かな」
トモ一声「明けたといって、野辺から山に入る鹿の跡を吹き送る風の音に駒の足並みが勇むのだ」
歌「丈夫(ますらお:立派な男子)が矢たけ心(いよいよ猛り勇む心)の梓弓、矢たけ心の梓弓、入る野の薄い露を分けて行く辺も遠い山陰の鹿木(しがき:猟師が高木の枝に横木を結び付けて柴で覆い、中に隠れて鹿を待つ装置)の道がしっかりしているのに、落ち来る鹿の声がする。風の行方も心せよ、心せよ」
ワキ詞「これ、誰かいるか」
トモ「御前に侍っております」
ワキ「あの山陰に当たって人影が見えるのは、どのような者か。名を尋ねて来たまえ」
トモ「畏まって候。名を尋ねたところ、貴い上臈(しやうらふ:身分の高い女官)の幕をうち回し屏風を立てて酒宴半ばと見える所に、念入りに尋ねたところ、名は申さず、只さるお方とだけ申しました」
ワキ「不思議なことかな。この辺りに左様な人は思いも寄らない。よしんば誰であっても上臈が道のほとりの紅葉狩、殊更酒宴の半ばなら、方々乗りうち叶うまいと」
地「馬より降りて沓(くつ)を脱ぎ、沓を脱ぎ、路を隔てて山陰の岩の多い細い道を過ぎた。心遣いは類ない、類ない」
シテ「実に数にならぬ身ほどで山の奥に来て、人は知るまいと打ち解けて独り眺める紅葉葉の色が見えたのはどうしよう」
ワキ「我は誰とも知らま弓、ただよんどころない御事に恐れて忍ぶばかりです」
シテ「忍ぶ地摺(ぢずり:織地に金泥・銀泥で模様を摺り出した織物)誰ぞとも、知らせて下さらぬ道の辺の頼りに立ち寄りくださいな」
ワキ「思いも寄らない事です。何をしに私を留めなさる、去らない様に過ぎ行けば」
シテ「あら情けない御事かな、一村雨の雨宿り」
ワキ「一樹の陰に」
シテ「立ち寄って」
地「一河の流れを汲む酒を、どうして見捨てられるのかと恥ずかしながらも袂にすがり留めれば、さすが岩木ではないので、心弱くも立ち帰る。処は山路の菊の酒、何が苦しいだろうか。
クリ地「実に虎渓(こけい:中国江西省九江の南、廬山にある渓谷)を出た古(いにしえ)も志をば捨てがたい、人の情けの盃の、深い契りの試しとか」
シテサシ「林間に酒を温めて紅葉(こうよう)を焚くとか」
地「実に面白い処から巖の上の苔筵(こけむしろ)、片側だけ寂しく敷く袖も紅葉衣の紅(くれない)深い顔の様の」
ワキ「この世の人とも思われない」
地「胸がうち騒ぐばかりだ」
クセ「そうでなくてさえ人の心の乱れる節は竹の葉の、露ばかりなのに受けずとは思ったけれども盃に向かえば変わる心かな。なので仏も諫めの道は様々に多いけれど、殊に飲酒(おんじゆ)を破ったならば邪婬妄語(じゃいんもうご:みだらな妄言)も諸共に乱れ心の花かずら、そうある姿はまた世にも類嵐の山桜、他所の見る目もどうであろう」
シテ「よしと思えば是とても」
地「前世の契り浅からぬ、深い情けの色が見えて、このような折しも道の辺の草葉の露の口実をも掛けて頼む行く末を、契るも儚い打ち付けに、人の心も知らぬ白雲の立ち患う景色かな。こうして時刻も遷りゆく、雲に嵐の声がする。散るか正木(まさき)の葛城の、神の契りの夜にかけて、月の盃さす袖も雪を巡らす袂かな。堪えず紅葉」
シテ「堪えず紅葉青苔(せいたい)の地」
地「堪えず紅葉青苔の地、又これ涼風で暮れゆく空に、雨がうち注ぐ夜嵐の、もの凄まじい山陰に、月待つほどのうたた寝に堅い袖も露が深い。夢をば覚まし給うなよ。覚まし給うなよ」
ワキ「あら浅ましいかな我ながら、無明(むみやう)の酒の酔い心、まどろむ暇もない内に、新たなる夢の告げと」
地「おどろく枕に雷火みだれ、天地も響き風もあちこちの、手がかりも知らない山中に、覚束ないかな恐ろしや」
歌「不思議かな。今まであった女、女、とりどりに化生(けしょう)の姿を現わし、あるいは巖に火炎を放ち、または虚空に炎を降らし、咸陽宮の烟(けむり)の中(うち)に七尺の屏風の上になお余ってその丈一丈の鬼神の角はかぼく眼(まなこ)は日月、面を向けるべき様はない。
ワキ「維茂は少しも騒がず」
地「維茂少しも騒がず、南無や八幡大菩薩と心に念じ、剣を抜いて待ちかければ、微塵にしようと飛んで掛かるのを飛び違い、むんずと組み、鬼神の真ん中刺し通す所を、頭(こうべ)を掴んで上がろうとするのを切り払えば、剣を恐れて巖を上るのを引き下ろし刺し通し、たちまち鬼神を従える、威勢の程が恐ろしいことだ」

◆動画

 YouTubeで横田神楽団の「紅葉狩」を視聴。平維茂は戸隠山の鬼神退治の勅命を受けて来たことになっていた。謡曲「紅葉狩」のオリジナルバージョンでは勅命を受けておらず、単に狩りか散策中に女房たちに会ったことになっている。流派によっては勅命を下されるバージョンもあるとのこと。

 中川戸神楽団の「紅葉狩」を視聴。録音レベルが低く、口上は聞き取れなかったが、ホームページを参照すると、「北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之傳全」をベースとしているようだ。

 「校定石見神楽台本」には「紅葉狩」とキャプションのついた面の写真がある。石見神楽でも「紅葉狩」の演目はあったのかもしれないが、台本には収められていない。今「紅葉狩」というと、芸北神楽の新舞だろう。

 謡曲「紅葉狩」は文章が美しく思え、好きである。いつかライブで「紅葉狩」を見てみたい。
◆近代神楽
 関東の里神楽でも「紅葉狩」は神楽化されている。華がある演目だからだろう。「神楽囃子 日本の伝統」(江戸神楽若山流家元 若山胤雄社中)というCDのライナーノーツを本田安次が執筆しているのだけど、「紅葉狩」は「古典神楽」に対する「近代神楽」として分類されているとのことである。紅葉狩は神祇からは外れた演目で神話劇ではないのだけど、近代神楽と分類することで、神楽の演目の中で地位を保っている様だ。

◆参考文献

・「新潮日本古典集成 79 謡曲集 下」(伊藤正義/校注, 新潮社, 1988)pp.301-311, 492-494
・「中世衆庶の文芸文化―縁起・説話・物語の演変」(大島由紀夫, 三弥井書店, 2014)※『「戸隠山絵巻」考』pp.398-419.
・大島由紀夫「『戸隠山絵巻』考」「伝承文学研究」第34号(伝承文学研究会/編, 三弥井書店, 1987)pp.27-40
・徳田和夫, 大島由紀夫「翻刻『戸隠山絵巻』「伝承文学研究」第34号(伝承文学研究会/編, 三弥井書店, 1987)pp.41-52
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.267-288
・「新歌舞伎十八番の内 紅葉狩 国立劇場上演資料集570」(国立劇場調査養成部調査記録課/編, 日本芸術文化振興会, 2013)pp.34-44, 44-63, 79-84
・「処世術は世阿弥に学べ!」(土屋恵一郎, 岩波書店, 2002)
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「紅葉狩」pp.448-452
・戸隠山鬼女紅葉退治之伝 : 北向山霊験記(国会図書館 近代デジタルライブラリー)

記事を転載 →「広小路

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2018年10月25日 (木)

秘密のケンミンSHOW、石見神楽編を見る

「秘密のケンミンSHOW」で石見神楽が特集されていたので見る。何でも島根県の人口は大正時代より少なくなってしまったのだとか。それで島根を支援する企画というところらしい。

インタビューに応じた人が石見神楽は8ビートだと言っていた。ロックと同じだと。番組の島根出身のタレントさん(江上敬子さん)はロックというよりジャズ(即興性)だと例えていた。宮崎出身のタレントもいたけど、宮崎の神楽はプロがやるとコメントしていた。

石見神楽が「ショーである」と批判を受けつつも人気なのは、この8ビートによるところが大きいのではないか。二十世紀の音楽シーンは8ビートの音楽が席捲した。それと一脈通じるのではないか。

益田の居酒屋のお座敷でやっていた演目は「十羅」だろう。姫が舟の櫂を持って舞っていた。石見神楽人気、相変わらず盛んだけど、それしか楽しみがないんじゃないかという気もしないでもない。

ここ一、二年ほど関東のお神楽を見ているけれど、ゆったりとしたテンポで、神話を元にした黙劇である。中国地方のような鬼退治、バトルの要素が薄いのだ。そこら辺、石見神楽と異なっている。関東の神楽は中国地方ほど盛んではない。他に娯楽がいくらでもあるからだろう。

ちなみに、浜田の三宮神社の夜神楽定期公演、僕が行った回だと県外からのお客さんが多かった。

 

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2018年10月20日 (土)

二巻は遠し――カグラ舞う!

<追記>
「カグラ舞う!」第三巻は2021年10月29日発売予定。

<追記>
「カグラ舞う!」第二巻は2021年9月30日発売予定。

<追記>
「カグラ舞う!」の単行本2巻と3巻は2021年夏ごろの発売予定と修正された。描きおろし部分が多いので、作業がずれ込んだのだろう。

ヤングキングアワーズ11月号を買う。佐藤両々「カグラ舞う!」が目当て。「カグラ舞う!」を知ったのはコミックスが発売されてから(コラムニストがFacebookで紹介していたのを偶々目にした)だったので何話か見逃しているのだけど、話はそれほど進んでいなかった。

作中、「塵輪(ジンリン)」という演目が紹介される。これは帯中津彦命(仲哀天皇)が新羅の国の悪鬼・塵輪を退治するという内容なのだけど、出典に当たる八幡宮縁起や八幡愚童訓では仲哀天皇と塵輪は相討ちになる。これは仲哀天皇が熊襲征伐中に流れ矢に当たって崩御したと日本書紀(一書に曰くと異伝としている)に由来するものと思われる。天皇と相討ちとなるキャラなんて他にいない。

読んでいて思ったのは、実際の神楽では、神二人が高速旋回するのが塵輪の見せどころなのだけど、四コマ漫画ではそのダイナミックさが表現できないというジレンマである。コマを統合すれば書けなくはないだろうけど、そうはしていなかった。平川哲弘「ヒマワリ」なら見せ場となっていただろう。

ネタバレになるが、瞳という女子キャラがいて、非常に内気な女の子なのだけど、面を被ると普通にしゃべられるというギャップがこの漫画の面白いところでもあるのだけど、今回の連載を見るに、裏事情があるようだ。なお「イサワ神楽団」が「イワサ神楽団」と誤植になっていた。

連載一回当たり8ページで、コミックスには一巻あたり18話掲載されるのだけど、月刊誌なので一年半待たないと次の巻が出ないという気長さだ。

<追記>
2020年12月号で最終回とのことである。ゆったりとしたペースで物語は進んできたのだけど、ここにきて急展開と言えなくもない。どうやら「カグラ舞う!」は2巻構成で終わるようだ。

<追記>
「カグラ舞う!」の連載は2020年12月号で終わったけれど、単行本2巻と3巻が2021年春に刊行予定とのこと。3巻は描きおろし分がたっぷりらしい。

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2018年10月11日 (木)

ポップ調の写真

密かにライバル視しているサイトを閲覧。スマートホンで撮ったと思われる写真が添付されていた。色味がポップ調に誇張されている。肉眼で見るのと明らかに違う。いや、アスペクト比3:2で撮った(それなりのカメラのはず)と思われる写真もポップ調だ。差し替えたのか。

まあ、自分のところも古い写真はコンデジで撮った写真で、差し替える元気もないけれど。それはそのとき撮ったものだから、そこに意味はある。

サイトの管理主、どこの人だろうか。全国の神社を取り上げているけど、島根ローカルな神社への訪問も多数なのである。

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鷲宮神社の神楽 2018年10月

鷲宮神社の神楽を見物。11月23・24日に名古屋で鷲宮中学校が神楽の全国大会に出場するとのこと。ググってみたが、それらしい情報はヒットしなかった。約30分かかる舞を13分に縮めてくれとの要請で考え中とのこと。

・天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
・天神地祇感応納受之段
・五穀最上国家経営之段
・端神楽
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・磐戸照開諸神大喜之段
・端神楽
・祓除清浄杓大麻之段
・折紙の舞

鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・天神地祇感応納受之段
天神地祇感応納受之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・五穀最上国家経営之段
五穀最上国家経営之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・五穀最上国家経営之段
五穀最上国家経営之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・端神楽
端神楽
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
鷲宮神社・土師一流催馬楽神楽・折紙の舞
折紙の舞

今回舞われたのは以上。祓除清浄杓大麻之段を二回やっているのは子供の巫女さんと大人の巫女さんがいるため。

客席で一眼レフで撮るのはシャッター音が煩かったか。隣の人はペンタックスQ、リコーGX100、EOS-Mを使っていた。

鷲宮神社・鳥居跡
今年の夏に倒壊した鳥居の跡。

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2018年10月 6日 (土)

岩手の郷土芸能を題材にした漫画――篠原ウミハル「鬼踊れ!!」

篠原ウミハル「鬼踊れ!!」(芳文社)という漫画を読む。東京のとある私立高校に教師として赴任した県(あがた)が新規設立の民俗芸能部の顧問に推され、岩手県の郷土芸能である鬼剣舞(おにけんばい)に挑む。唯一の部員(候補)であった紬(つむぎ)の他にも入部希望者が現れて……(本来、鬼剣舞は8人で舞う)という内容。鬼と呼んでいるが、本当は仏様なのだとか。まだ部員が集まった段階でこれからだけど、ゆくゆくは総文(文化系のインターハイ)を目指すようだ。実際に島根県の浜田商業が石見神楽で総文優勝した実績があるので、夢ではないだろう。

なぜ東京が舞台なのに岩手県の郷土芸能なのだろうと思ったら、作者は関西出身で、岩手県に旅行した際に岩手県の郷土芸能に触れたことがきっかけらしい。

芳文社ということで、萌え四コマ漫画だと思っていたら、普通のコマ割り形式だった。四コマ漫画誌でなく成年向けの週刊漫画timesに連載中とのことだった。

ここのところ、「舞え!KAGURA姫」や「ヒマワリ」「カグラ舞う!」など郷土芸能を題材としている作品がちらほらと見かけるようになった。何かそういう機運でもあるのだろうか。

<追記>
鬼剣舞は実際に総文で優勝したことがあるそうで、それだと漫画での展開も無理がないことになる。東京の高校がなぜ岩手の郷土芸能を? という疑問はあるのだが。

<追記>
姉の家にある週刊漫画timesを手にとったら、偶々「鬼踊れ!」が掲載されていたが、最終回だった。校内への鬼剣舞の披露で終わってしまう。なんとも残念な終わり方だった。2月に単行本が出るらしいので、全3巻になるだろう。

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