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2018年7月25日 (水)

朝シャンはみそぎか――大塚英志「少女民俗学」

大塚英志「少女民俗学」(カッパサイエンス)を読む。大月隆寛「民俗学という不幸」で、
だとすれば、その「分析」とは、後に大塚英志の大ヨタで一部ではもの笑いと共に有名になったあの「現代の少女にとって朝シャンとはみそぎである」というあてはめと全く選ぶところはない。(211P)
という文章が気になったもの。大塚英志はサブカルチャーに強い評論家・編集者で、僕も何冊か著書を読んでいたので、引っかかったのである。そういえば「少女民俗学」のタイトルは聞いたことがあったよなあと思い起こしたもの。

大塚もいきなり朝シャン=みそぎとする訳ではない。前フリとして、少女のおまじないを挙げている。80年代当時の雑誌に掲載された少女の投稿を引き合いに出している。なんでも風呂上りの湯気で鏡が曇ったところに相合傘を書いてお祈りするといいことがあるのだとか(好きな男子と同じクラスになったとのこと)。つまり、少女が独自に編み出した自己流のおまじないである。

ここで、おまじないをする前に入浴していることに注目される。身を清めておまじないに挑むのである。そこから敷衍して大塚は少女の朝シャンに単なる潔癖症の現れというだけではなく、巫女のみそぎを見出すのである。

そもそも近代以前では、女性は13歳になったら一人前の大人扱いされていたとのことで、近代のような少女という存在は無かったとしている。性交、出産も可能だけれど、その可能性は留保したままのモラトリアム的な立ち位置が少女なのである。

大月隆寛はよほど大塚英志のことが嫌いと見えて、
ただし、戦犯探しをしようというのではない。およそことばとそのことばによってつむぎ出されてゆくはずの論理というものに対するおそれも謙虚さも感じられないまま、それでも何かもっともらしいことを言い、そのことに責任をとる覚悟はかけらもなくただ「知識人」のふりだけはしておきたい、という大塚英志の病いのさまは、とりもなおさず、一九七〇年代末から一九八〇年代にかけて吹け上がった民俗学の構造的病いに他ならないことを思い知るために、このような作業が必要だという、それだけのことだ。(231P)
とまで口を極めて罵っている。大塚英志からの反論は目にしたことがない。大月隆寛も宝島社系のライターとして活動したり、NHK「BSマンガ夜話」に出演したりとサブカルチャーの領域でも活動している。近親憎悪のようなものである。

どちらの勝ちかは分からないけれど、稼いだ金額で言えば大塚英志の方が上である。漫画原作者として1,000万部売ったというのが彼の誇りであり拠り所なのである。大塚の文章は読んで鼻につくところがある。

<追記>
「おたくの精神史―一九八〇論という本でわずかに触れられていた。
「都市伝説」というアメリカの民俗学の用語が安易に社会化されてしまった背景には、「噂話」という現象それ自体への奇妙な関心があったのだといえる。(257P)
大学院に残った同世代の研究者からあからさまな敵意を示されたのもこの頃で、しかも良く考えればアカデミズムに残った彼らがライター業界に手を出すからぼくと彼らの「差異」が見えなくなるのであり、ぼくが大学の紀要に論文を書いたり学会で発表をしたりして彼らのシマを荒らしたわけではなかった。(333-334P)
議論は噛み合っていない。

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