出雲口伝は時代が合わないのでは――吉田大洋「謎の出雲帝国」と斎木雲州
<2024.03追記>
Googleサーチコンソールによると「出雲口伝 信憑性」のキーワードで当記事にアクセスする人が多くなった。深く考えてなかったのだが、出雲口伝に関する情報を長期間に渡ってばら撒いてしまっていた。
元々はネットでそれまで聞いたことのない情報を目にするようになってこれは何だろう? と思って調べてみたものである。斉木雲州氏の著作については国会図書館に通って何冊か読んだ。それを要約したものが当記事となる。なので要約自体にそれほど誤りはないと思う。口伝の信憑性については否定も肯定もしていないつもりだった。
ところで出雲口伝の核となるのは「スサノオ=徐福」説である。徐福は秦の始皇帝の時代の人なので紀元前3世紀の人となる。以前NHKスペシャルで始皇帝陵の副葬品が紹介されたことがあるのだが見たことのある人はいるだろうか。非常に高い技術で制作された精緻な工芸品だった。当時の秦の文明レベルは東アジアで群を抜いて高かった。ひょっとしたら漢の時代の方が戦乱でレベルが下がっているかもしれない。
で、出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群、要するに出雲商業の裏山なのだが、ここにある四隅突出型墳丘墓の中で最小の西谷1号墓の写真を見て欲しい。これは解説図によると紀元2世紀後半頃のものと推定されている。非常に小さい。
西谷墳墓群・1号墓
これは現存するものなのでこれが最古のものだとは断定できないが、この時点ではまだ小さいのである。古代のクニは集落を柵で囲ったものをそう呼んでいたそうだが、そのレベルの首長のものだろう。
四隅突出型墳丘墓はこの後急速に大型化していくが、ここに葬られた人たちは出雲平野を統べる出雲王の系譜だろう。つまり、西谷墳墓群に葬られた首長たちが急激に勢力を伸ばし出雲地方が統一されていくのは紀元後、2世紀から3世紀にかけてと考えていいだろう。出雲王と呼びうる首長が登場するのは2世紀に入ってからなのだ。だから弥生前期の人である徐福とは300年以上時間が合わないことになる。紀元前3世紀に出雲地方を統一した王と副王がいたとはとても考えられない。
西谷墳墓群・3号墳。西暦200年頃のものと推定されている。かなり巨大化しているがこれでも最大のものではない。形状が認識しやすいから選んだのである。
……という訳でよくよく考えると時代が合わないねという話になるのである。
出雲で弩(ど:古代のボウガン)を模した祭器が発掘されたという記事を見たことがあるので全く交流がなかったとも考えられないが、もし徐福が出雲に渡来していたら突出した、あるいは時代と隔絶した文明レベルのものが持ち込まれたはずである。そんなものは発掘されていない。日本中探してもないだろう。徐福は日本に渡来しなかったと考える方が自然ではないか。秦の時代に外洋を超える航海技術があったかも判然としない。
ちなみに邑智郡邑南町(旧瑞穂町)の順庵原一号墳が四隅突出型墳丘墓の最初の発見例だけど、これも紀元1世紀から2世紀頃のものと推定されている。
筆者は横浜市在住だけど、市営地下鉄センター北駅の近くに大塚歳勝土遺跡という弥生時代の集落と方形周溝墓が復元された公園がある。確か紀元1世紀頃のものだったとされていると記憶している。公園に遺跡の全体像を現した模型が展示されているのだけど、丘陵を削って集落を作っているように見える。紀元後にはかなりの土木技術があったことが分かる。だが、紀元前3世紀となるとどうだろうか。
西谷墳墓群に葬られた首長たちが大国主命のモデルとなった人たちだろう。日本書紀では大国主命はスサノオ命の五世孫か六世孫と記されていたはずである。紀元2世紀から5~6代遡っても紀元前3世紀まで達しないだろう。やはり時代が合わないのである。
八千矛(やちほこ)とは大国主命の別名だが強大な軍事力を持った王の称号だろう。そんな存在が紀元前3世紀にいるはずがないのだ。
もちろん、いつの時代にもその土地の有力者はいただろう。だが、村長の域を出るものではなかったろう。あるいはそういった人たちの系譜が残っていることはあり得るかもしれない。しかし、それにしても八千矛などという勇壮な名はあり得ない。現代日本では意味のとれない名となるだろう。
大国主命は出雲の国造りをした神さまである。だから紀元2世紀以降のイメージだけが投影されている訳ではないだろう。それ以前の時代のイメージも投影されているだろう。それにしても紀元前3世紀までは遡れないのではないか。
あるいは崇神天皇に誅殺されたとされる出雲振根、この人は紀元3世紀から4世紀にかけての出雲王だろうか、これらのイメージも大国主命のイメージに投影されているかもしれない。僕は神話と古代の歴史はある程度並行的に語られているのではないかと考えている。
3号墳が西暦200年頃のものとすると、被葬者は倭国大乱の時代を生きた人の可能性が高い。倭国大乱と呼ばれる時代に各地の勢力はまとまっていったと見ることができるのではないか。
改めて記事を読み返してみると、初めから四隅突出型墳丘墓が大型化したのは紀元後だと認識している。それ自体は当然の話で、実際に西谷墳墓群を訪ねて写真に撮ってインプットしたからである。僕自身は古代史に特に興味がある訳ではない。知り得ないものは知り得ないくらいのスタンスである。
だが、その認識が徐福は紀元前3世紀の人間で決定的に時代が合わないという認識に至ることはなかった。僕は高校生のときに司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読んでいる。だから当時のイメージは漠然とでもあるのだ。だけど、何年間も思い浮かぶことがなかった。要するに深く考えていなかったということである。考え抜かないと着想は浮かばないという。出雲口伝に追求すべき価値を感じていなかったのである。こんな話がありますよくらいのスタンスだったのである。
ブログにアクセスがあるのを見るたびに「これでいいのかな?」とは思っていた。記事を削除するかと考えたが、それは却ってよくないと考えた。で、6年ほど経過してようやく軌道修正を施すことになった。
「出雲口伝」で検索してみると、YouTubeで動画まで作られていることに気づいた。そう数が多い訳でもないが、映像の力は大きい。WEB上の記事を読んでも、比較的まともそうに思える人ですら出雲口伝に共感を示している人がいる。僕は風葬については触れていないので斉木氏の著作に直接当たったのだろう。我ながら罪深い。
そもそもこの記事では富家口伝と表記して出雲口伝とは書いていなかったのだが。
-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*
帯に「待望久しい幻の名著が38年の時を超えて復刻!」とある。38年前というと、発刊の数年後に荒神谷遺跡が発掘されて大きな話題となったことが挙げられている。当時と今とで違うことは、現在では四隅突出型墳丘墓の存在が知られて、それが山陰から北陸まで分布していることで、弥生時代後期に日本海沿岸にまたがる文化圏があったことが分かったことである。また、人類の遺伝子の解析が進んだこと。出雲人は縄文系だったと少し前の報道であったことを記憶している。また、砂鉄を利用したたたら製鉄がいつ頃生まれたのか、まだ定説を見ないのではなかったか(※とはいえ、たたら製鉄はそう古くまでは遡れないだろう。せいぜい5~6世紀くらいまでだ)。
他所のレビューに要約があるので、それは割愛することにする。帯に挙げられたものを列挙すると、「熊野大社 対 神魂神社、出雲では現在でも敵対関係が続いている」「いつしか神々の承認は天孫族の承認へと変わってしまった……」「出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ロシア・カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来した!?(※これは吉田大洋の考えが多分に反映されている)」「出雲神族の葬儀は風葬と水葬で行われた」「継体天皇は、昔から謎の天皇とされてきた……」「武烈天皇で神武王朝は断絶 国は乱れ、出雲神族は頼まれて天皇を出した」「継体天皇~宣化天皇は出雲神族であった」等である。
また、富氏と吉田大洋の考えが混然としていて、富氏単独での記憶が掴みにくいのも事実である。基本的な疑問は、なぜ富氏はこの本の著者である吉田大洋を信用したのかということである。発端は女性週刊誌に富氏の記事が載り、それを見た吉田がコンタクトをとったということらしい。
読了してぶっちゃけた話、口伝の信ぴょう性を担保するものが何もないのである。古事記がシュメール語で読めるというというくだりがあるけれど(これは吉田大洋の持論である)、これで信用度がほとんどゼロになるほど著しく失墜するのである。古代オリエントと日本にどのような繋がりがあったというのか。遺伝子の解析でもそのような研究結果はない。なぜ、このような形でしか公開できなかったのか、疑問である。
富氏の友人に司馬遼太郎がいる。司馬に託す形でもよかったではないか。司馬の信用を毀損する恐れがあったかもしれないが、歴史エッセイとして想像力を働かせたという形にでも収められたはずである。
出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群に見られる四隅突出型墳丘墓を見ても、一号墳は小さいのである。二号墳から巨大化がはじまる。それは弥生時代後期に出雲を束ねる有力な首長が登場したということであろう。だから大国主命のモデルとなった王たちが活躍したのは弥生後期で、同時に国譲りも四隅突出型墳丘墓が作られなくなる時代の頃と考えるのが、自然ではないか。
嘘の中にも何がしかの真実が隠されているかもしれないと思って買ったが、芳しい成果ではなかった。中学生のとき、雑誌「ムー」が好きだったが、さすがにそれは卒業した。
なお、「富家文書」(古代文化叢書)という鎌倉期以降の富氏の古文書の写しが島根県古代文化センターの手で書籍化されている。
続いて、
斎木雲州「出雲と蘇我王国 : 大社と向家文書」(大元出版)
を読む。著者の斎木雲州氏は富当雄氏の子息とのこと。吉田大洋「謎の出雲帝国」が彼の持論(シュメール文明)と富氏の話を混ぜて書いてしまったため、真実の日本史を伝えるために書いたという。富氏の遺言は真実の日本史を伝えて欲しいとのことだった。
父の所に吉田大洋という、出版社員から手紙が来た。かれはシュメール文明に関心をもっていた。
そしてイラクでの調査結果をまとめたものだというパンフレットが同封されていた。父は普通の人の取材に応じたことはなかった。
しかしイラクまで調査に行ったという熱心さを買って、応対した。しかし、かれの取材の時間は短すぎた。
かれは「出雲帝国の謎」という本を書いた。父は重要なことを、話したという。しかし、かれの理解は消化不良であることが、本を読んで分かった。
困ったことに、かれはシュメール文明についての自説を書きたかったらしい。記紀(古事記と日本書紀)がシュメール語で書かれているという誤説を、父の話と混ぜて書いてしまった。これは真実の日本史のためには、マイナスであった。
「出雲と蘇我王国」(28P)
四冊の内容が混雑しているが、気づいたところでは、「出雲と大和のあけぼの」ではスサノオを徐福としている。スサノオが稲作をもたらしたとのこと。また、このとき主王である八千矛と副王である事代主が捕らえられ幽閉されて死んだという。出雲国造の祖である天穂日は徐福の先兵だったとのこと。このことがきっかけで、出雲の王国の分家筋が奈良に入り、カツラギ王国となる。
徐福は一度秦国に戻り、始皇帝に上奏する。そして再び日本へとやって来て、今度は北九州に定着する。このときの徐福の日本名がホアカリ/ニギハヤヒで物部一族の祖となるというものであった。日本の支配者が徐福の子孫では対中華帝国的にまずいので、徐福の伝説は隠されたとしている。ニギハヤヒは記紀ではニニギ命と名を変えたとしている。
そしてスサノオの子息である五十猛は日本で生まれたという。また、大屋姫は五十猛の姉妹ではなく后としている。
個人的には宗像一族の市杵嶋姫が徐福に嫁いだとしているのが、凄く嫌。というか、実在してたのか? 宗像三女神。
「出雲と蘇我王国」では、事代主は国譲りの際、洞穴に幽閉されて餓死したのだとしている。
出雲には主王と副王で統治する体制であったとする。主王が大穴持と呼ばれ、副王が少名彦と呼称された。何代も続いた王の総称なのである。八代目の大穴持の名が八千矛だったという。
そして蘇我氏と富家は姻戚関係にあり、武内宿祢の系譜を引く蘇我氏が滅んだ当時のことを記している。
また、奈良には出雲系のカツラギ王家があるが、新羅の王子である天日矛の但馬進出で分断される。但し、日矛自身は但馬で生涯を終えたとする。天日矛と大国主命は播磨を争い戦う。その後、カツラギ王国の軍勢が吉備に進出、定着するが、出雲と同系統のキビツヒコが率いる吉備の勢力が出雲に侵略する、それがヤマタノオロチ伝説として記憶されているというものだった。キビツヒコはスサノオの血筋でもあるのだ。古代出雲は平和で戦は弱かったとしている。なので、力を持った親戚には警戒すべしと家訓が残されているという。
天日矛の子孫に神功皇后がいる。神功皇后は新羅の国の継承権は新羅の王家の血を引く自分にあるとして、新羅の国へ派兵し、百済、高句麗も服属させるのである。
北九州の物部氏の大和進出は二度に渡る。これがまとめられて神武天皇の東征神話となったとしている。神武天皇は架空の大王で、本来は天村雲命がそうだったとしている。第二次の東征の際、日本海側のルートを辿った物部氏の一派は出雲王国を滅ぼす。これで出雲以外の領国は放棄することになる。これが神話では国譲りとして平和的な移譲として描かれることになる。
古代史には詳しくなく、誰が誰のことだかよく分からないままに読み進めてしまった。
出雲族は鼻の長い動物のいる地から砂漠、そして大きな湖、長い河を経て日本に入ったという。斉木氏はそれはインドのことであろうとしている。ゴビ砂漠、バイカル湖、アムール河を経たというのだ。出雲族のリーダーであったクナトはドラヴィダ族だったともしている。
鼻の長い動物とは象のことだろう。象は東南アジアにもいる。また、出雲風土記に妹がワニ(鮫)に食べられたという伝説がある。あれは魚の鮫ではなく爬虫類のワニではないかという気もするので、出雲のルーツが南方にあると訴えること自体は理解できる。むしろ東南アジアから島伝いに日本列島へやって来たとした方が説得力がある気がする。しかし、遺伝子の解析ではドラヴィダ族というかインドとの関係があったとはされていないのが不審点である。象は象でも、案外マンモスだったりするかもしれない。
出雲に定着した理由として、そこに黒い川があったからだとしている。これは砂鉄が採れることを意味している。そういう意味では吉備も良質の砂鉄の採れる地域なのである。
富家には配下に情報収集を担う集団がいたとしている。それは明治期に至るまで連綿と続いて、但し昭和になるとどうかは言及されていない。
また、個人的に興味を惹いた点として、出雲ではクナト(岐)の大神を祭っていたとしていることである。后神の幸姫(さいひめ)の別名がサヒメ神であり、太陽の女神だったとしているのだ。もしそうならば、サヒメ神は相当古い時代からの神ということになる。クナト大神とサヒメ神は物部氏によってイザナギ命とイザナミ命に変えられてしまったという。
文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なると解釈し得るのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。
読み終えて、吉田大洋「謎の出雲帝国」を読むよりは遥かに良かった。読めるなら、「謎の出雲帝国」を読まずに「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」だけを読んだ方がいいだろう。島根県立図書館に所蔵されている。なお、「出雲と大和のあけぼの」は著者がフィールドワークして稼いだ他家の口伝も交えられているようである。「お伽話とモデル」は昔話を富家口伝によって解釈するといった風の読み物である。古代史に強くないと理解できない一面もあるだろう。「古事記の編集室」は古事記の口伝を述べた稗田阿礼が実は柿本人麻呂だったとしている。また、ヒミコやヤマタイ国に関する独自の見解が披露される。
誤りもある。「古事記の編集室」では、韓国の檀君神話(王が天降って来る)を参考に天孫降臨神話を創ったとしているが、檀君神話は高麗時代のもので、記紀より後代のものなのだ。
斎木説によると、帝紀の編纂は船頭多くして……の類で各氏族の伝承がバラバラで、しかも裏切りなど好ましい内容ではなかったため頓挫したらしい。その上で記紀の編纂が始まる。出雲王国の歴史は神話とするという形で一応記録された。が、そうなると記紀神話の多くは編纂時に創作されたものということになる。それにしては、何世代にも渡って語り継がれてきたと思える程によく出来ているのではないか。
ネットで見かける古代出雲に関する記述のソースがこれらの本であることが分かった。それらを書き込んだ人達も全面的に信じている訳ではないと思うが。
情報が分散していて、何冊か読まないと分かり難い部分もある。どこまでが富家口伝で、どこからが斎木氏の独自研究なのか判然としないとも言える。
とにかく、富家口伝を真実であると証明する手立てが何一つないのだ。これだけはどうしようもない。ちなみに富氏が出版した本は買い占められて原稿ごと無かったことにされてしまったとのこと。近年の考古学的発見で、出雲に王権があったこと、山陰から北陸圏にまたがる広域のものであったこと自体はまず間違いないけれども、そこから先は未だ五里霧中なのである。
出雲には国びき神話がある。縄文時代の三瓶山の噴火で噴出した土砂が神戸川を通じて流れて堆積し、出雲平野となったという事実を神話として語り直したもの。この神話の背景には縄文時代からの記憶がある。出雲には確かにそこまで古い何かがあるのだ。
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