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2018年7月

2018年7月31日 (火)

鷲宮神社の神楽を見学 2018.年7月

埼玉県久喜市の鷲宮神社で催された神楽を見学に行く。鷲宮の地は最初に土師氏(焼き物焼き)が入って、次に二千年前に出雲族が入ったとのこと。関東は出雲族によって開拓されたのである。

今回は夕方から別のお祭り(人形流し)が入っているとのことで、一時間ほど早く終わった。真夏に約四時間、仮設テントの下だけど居続けるのはしんどかった。

今回舞った演目は下記の通り
・天照国照太祝詞神詠之段
・天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・天神地祇感応納受之段
・磐戸照開諸神大喜之段

元々は36番あったそうだが、江戸時代に12番の演目に編成されたという。12番の番外としてひょっとこの踊りがあるそうだが、これは江戸から入ったもので、支社でしか舞わないという。面白可笑しい演目とのこと。

端神楽は合間にやる演目。小学生の女の子が演じたが、小学1年生だと、流石に神楽を始めたばかりという印象だけど、4年生になると戦力になっているのである。磐戸~でも立派に役を務めている。

天照国照太祝詞神詠之段
天照国照太祝詞神詠之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
端神楽
端神楽
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
端神楽
端神楽
天神地祇感応納受之段
天神地祇感応納受之段
天神地祇感応納受之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段

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2018年7月29日 (日)

ビックリマンの神話体系――大塚英志「物語消費論」「物語消費論改」

大塚英志「物語消費論」「物語消費論改」を読む。大塚はサブカルチャーに詳しい評論家・編集者・漫画原作者である。

物語消費とは、単に物語を消費するということではなく、物語の背後に隠れた<大きな物語>つまり世界観を楽しむということである。<大きな物語>世界観そのものは商品として成立しないので、消費者はその断片を消費して楽しむといったもの。

<大きな物語>という用語はポストモダンの言説らしいが出典は明らかにされていない。

端的な例として1980年代に流行ったロッテの「ビックリマンチョコ」が挙げられる。一個30円の安価なチョコレートであるが、これにシール一枚が添付されている。そのシールにはビックリマンの神話体系とでも呼べるような壮大な物語の断片が記されている。シールはランダムで770枚以上に及ぶ。子供たちがシールを集めていくことで徐々に世界観の全貌が明らかになっていくもの。

このように実際の売り物は神話の断片を記したシールだったため、本来の売り物であるチョコレートが捨てられて社会問題となったりした。

アニメやゲームなどのサブカルチャーでは作品世界を構築していく上で、作品世界の歴史や約束事を設定として予め定めていく。その設定の集合体が世界観と呼ばれる。世界観という用語自体は世界をどのように見るかといったニュアンスが含まれており、元々は人類学等の用語であるかもしれない。

70年代から80年代を経過していく中で、背景に壮大な世界観つまり<大きな物語>を持った作品群が登場してくる。「機動戦士ガンダム」シリーズが典型であろう。

一方で、ジブリ作品は「ナウシカ」以降、作品の背景に<大きな物語>壮大な世界観を設定するのを止めた作品づくりへとシフトしていくとこのことである。

ビックリマンの場合、開発者の反後四郎は元々ロッテの法務部門に勤めており、開発部門に異動してビックリマンを立ち上げたとのこと。子供の頃から仏教説話に親しんでいたらしい。ビックリマンチョコは僕自身は存在は知っているものの、当時大学生だったこともあって、購入したことはない。

こういう風に壮大な設定<大きな物語>そのものを売り物とすることはできないので、その断片を売るというマーケティングの手法もありうるということである。

WEBが発達した現在、我々は電話会社とプロバイダに料金を払えば、情報の発信は容易になっている。一方、それは物語の二次創作とも結びついて、新たな物語消費の形態を生んでいる……というのが大塚の言説である。

<追記>
大塚は二次創作が盛んになり、著作権者との境界が曖昧になっていく未来を無想していたと思われる。が、実際には二次創作は著作権者の掌の上で踊らされているのだ。宣伝になるから見逃されているだけである。著作権が厳然としてある現在、その既得権益を手放すはずがないのである。

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天の香具山を観る

Youtubeで中川戸神楽団の「天の香具山」を観る。「天の香具山」は天岩戸神話の裏ストーリーともいうべきもので、スサノオ命の暴虐を恐れた天照大神が天岩戸に籠ってしまい、世界が闇に閉ざされる。それを何とかしようとした八百万の神々が知恵を絞って、鏡や勾玉等色々と取り揃え、天の香具山の榊を根こじにしてお供えしようとしたところを山の神に見とがめられ、自分はこういう者でこれこれこういう訳で……と事情を説明し、承諾した山の神に宝剣を授け、山の神が宝剣で悪切り(四方を剣で薙ぎ払い悪魔祓い)するという内容のはずだが、期待していたそれとは異なっていた。

天の香具山に榊を取りに来た姫を悪神が襲って殺し奪ってしまう。それを大山祇神とアタツ姫(コノハナサクヤヒメ)が奪い帰すという内容に改変されていた。

「天の香具山」は出雲神楽風の悪切が見られ、新舞の中でも唯一神事性が感じられる演目なのだが、何でもバトルにしてしまうのは中国地方の能舞の悪弊かもしれない。

創作神楽の「天の香具山」では剣で祓う代わりに幣串で祓うという変化が見られる。これは剣がバトルで血塗られたという解釈からかもしれない。それにしても原義が失われたように思える。

中川戸神楽団はスーパー神楽で有名だが、彼らの考える創造性のために神事性を犠牲にしていると言えるだろう。

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2018年7月25日 (水)

朝シャンはみそぎか――大塚英志「少女民俗学」

大塚英志「少女民俗学」(カッパサイエンス)を読む。大月隆寛「民俗学という不幸」で、
だとすれば、その「分析」とは、後に大塚英志の大ヨタで一部ではもの笑いと共に有名になったあの「現代の少女にとって朝シャンとはみそぎである」というあてはめと全く選ぶところはない。(211P)
という文章が気になったもの。大塚英志はサブカルチャーに強い評論家・編集者で、僕も何冊か著書を読んでいたので、引っかかったのである。そういえば「少女民俗学」のタイトルは聞いたことがあったよなあと思い起こしたもの。

大塚もいきなり朝シャン=みそぎとする訳ではない。前フリとして、少女のおまじないを挙げている。80年代当時の雑誌に掲載された少女の投稿を引き合いに出している。なんでも風呂上りの湯気で鏡が曇ったところに相合傘を書いてお祈りするといいことがあるのだとか(好きな男子と同じクラスになったとのこと)。つまり、少女が独自に編み出した自己流のおまじないである。

ここで、おまじないをする前に入浴していることに注目される。身を清めておまじないに挑むのである。そこから敷衍して大塚は少女の朝シャンに単なる潔癖症の現れというだけではなく、巫女のみそぎを見出すのである。

そもそも近代以前では、女性は13歳になったら一人前の大人扱いされていたとのことで、近代のような少女という存在は無かったとしている。性交、出産も可能だけれど、その可能性は留保したままのモラトリアム的な立ち位置が少女なのである。

大月隆寛はよほど大塚英志のことが嫌いと見えて、
ただし、戦犯探しをしようというのではない。およそことばとそのことばによってつむぎ出されてゆくはずの論理というものに対するおそれも謙虚さも感じられないまま、それでも何かもっともらしいことを言い、そのことに責任をとる覚悟はかけらもなくただ「知識人」のふりだけはしておきたい、という大塚英志の病いのさまは、とりもなおさず、一九七〇年代末から一九八〇年代にかけて吹け上がった民俗学の構造的病いに他ならないことを思い知るために、このような作業が必要だという、それだけのことだ。(231P)
とまで口を極めて罵っている。大塚英志からの反論は目にしたことがない。大月隆寛も宝島社系のライターとして活動したり、NHK「BSマンガ夜話」に出演したりとサブカルチャーの領域でも活動している。近親憎悪のようなものである。

どちらの勝ちかは分からないけれど、稼いだ金額で言えば大塚英志の方が上である。漫画原作者として1,000万部売ったというのが彼の誇りであり拠り所なのである。大塚の文章は読んで鼻につくところがある。

<追記>
「おたくの精神史―一九八〇論という本でわずかに触れられていた。
「都市伝説」というアメリカの民俗学の用語が安易に社会化されてしまった背景には、「噂話」という現象それ自体への奇妙な関心があったのだといえる。(257P)
大学院に残った同世代の研究者からあからさまな敵意を示されたのもこの頃で、しかも良く考えればアカデミズムに残った彼らがライター業界に手を出すからぼくと彼らの「差異」が見えなくなるのであり、ぼくが大学の紀要に論文を書いたり学会で発表をしたりして彼らのシマを荒らしたわけではなかった。(333-334P)
議論は噛み合っていない。

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2018年7月15日 (日)

古代出雲を巡る迷宮――吉田大洋「謎の出雲帝国」と斎木雲州

吉田大洋「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史」(新装版)を読む。ふとした思いつきで国会図書館で検索したところ、2018年5月に新装版が刊行されていることが分かったので購入したもの。
司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で登場するW氏がこの本の情報提供元で、それは元産経新聞の富當雄(とみまさお)さんだという情報に心惹かれたもの。富氏は一子相伝の形で4000年に渡る出雲の記憶を継承しているというのだ。

帯に「待望久しい幻の名著が38年の時を超えて復刻!」とある。38年前というと、発刊の数年後に荒神谷遺跡が発掘されて大きな話題となったことが挙げられている。当時と今とで違うことは、現在では四隅突出型墳丘墓の存在が知られて、それが山陰から北陸まで分布していることで、弥生時代後期に日本海沿岸にまたがる文化圏があったことが分かったことである。また、人類の遺伝子の解析が進んだこと。出雲人は縄文系だったと少し前の報道であったことを記憶している。また、砂鉄を利用したたたら製鉄がいつ頃生まれたのか、まだ定説を見ないのではなかったか。

他所のレビューに要約があるので、それは割愛することにする。帯に挙げられたものを列挙すると、「熊野大社 対 神魂神社、出雲では現在でも敵対関係が続いている」「いつしか神々の承認は天孫族の承認へと変わってしまった……」「出雲神族はシュメールを追われ、インド→ビルマ→タイ→中国江南→朝鮮→ロシア・カムチャッカ半島→千島列島→北海道→出雲へと渡来した!?(※これは吉田大洋の考えが多分に反映されている)」「出雲神族の葬儀は風葬と水葬で行われた」「継体天皇は、昔から謎の天皇とされてきた……」「武烈天皇で神武王朝は断絶 国は乱れ、出雲神族は頼まれて天皇を出した」「継体天皇~宣化天皇は出雲神族であった」等である。

また、富氏と吉田大洋の考えが混然としていて、富氏単独での記憶が掴みにくいのも事実である。基本的な疑問は、なぜ富氏はこの本の著者である吉田大洋を信用したのかということである。発端は女性週刊誌に富氏の記事が載り、それを見た吉田がコンタクトをとったということらしい。

読了してぶっちゃけた話、口伝の信ぴょう性を担保するものが何もないのである。古事記がシュメール語で読めるというというくだりがあるけれど(これは吉田大洋の持論である)、これで信用度がほとんどゼロになるほど著しく失墜するのである。古代オリエントと日本にどのような繋がりがあったというのか。遺伝子の解析でもそのような研究結果はない。なぜ、このような形でしか公開できなかったのか、疑問である。

富氏の友人に司馬遼太郎がいる。司馬に託す形でもよかったではないか。司馬の信用を毀損する恐れがあったかもしれないが、歴史エッセイとして想像力を働かせたという形にでも収められたはずである。

出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群に見られる四隅突出型墳丘墓を見ても、一号墳は小さいのである。二号墳から巨大化がはじまる。それは弥生時代後期に出雲を束ねる有力な首長が登場したということであろう。だから大国主命のモデルとなった王たちが活躍したのは弥生後期で、同時に国譲りも四隅突出型墳丘墓が作られなくなる時代の頃と考えるのが、自然ではないか。

嘘の中にも何がしかの真実が隠されているかもしれないと思って買ったが、芳しい成果ではなかった。中学生のとき、雑誌「ムー」が好きだったが、さすがにそれは卒業した。

なお、「富家文書」(古代文化叢書)という鎌倉期以降の富氏の古文書の写しが島根県古代文化センターの手で書籍化されている。

続いて、

斎木雲州「出雲と蘇我王国 : 大社と向家文書」(大元出版)
斎木雲州「出雲と大和のあけぼの : 丹後風土記の世界」(大元出版)
斎木雲州「お伽話とモデル : 変貌する史話」(大元出版)
斎木雲州「古事記の編集室 : 安万侶と人麿たち」(大元出版)

を読む。著者の斎木雲州氏は富当雄氏の子息とのこと。吉田大洋「謎の出雲帝国」が彼の持論(シュメール文明)と富氏の話を混ぜて書いてしまったため、真実の日本史を伝えるために書いたという。富氏の遺言は真実の日本史を伝えて欲しいとのことだった。
 父の所に吉田大洋という、出版社員から手紙が来た。かれはシュメール文明に関心をもっていた。
 そしてイラクでの調査結果をまとめたものだというパンフレットが同封されていた。父は普通の人の取材に応じたことはなかった。
 しかしイラクまで調査に行ったという熱心さを買って、応対した。しかし、かれの取材の時間は短すぎた。
 かれは「出雲帝国の謎」という本を書いた。父は重要なことを、話したという。しかし、かれの理解は消化不良であることが、本を読んで分かった。
 困ったことに、かれはシュメール文明についての自説を書きたかったらしい。記紀(古事記と日本書紀)がシュメール語で書かれているという誤説を、父の話と混ぜて書いてしまった。これは真実の日本史のためには、マイナスであった。
「出雲と蘇我王国」(28P)
「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」「お伽話とモデル」「古事記の編集室 」の順で読んだ。

四冊の内容が混雑しているが、気づいたところでは、「出雲と大和のあけぼの」ではスサノオを徐福としている。スサノオが稲作をもたらしたとのこと。また、このとき主王である八千矛と副王である事代主が捕らえられ幽閉されて死んだという。出雲国造の祖である天穂日は徐福の先兵だったとのこと。このことがきっかけで、出雲の王国の分家筋が奈良に入り、カツラギ王国となる。

徐福は一度秦国に戻り、始皇帝に上奏する。そして再び日本へとやって来て、今度は北九州に定着する。このときの徐福の日本名がホアカリ/ニギハヤヒで物部一族の祖となるというものであった。日本の支配者が徐福の子孫では対中華帝国的にまずいので、徐福の伝説は隠されたとしている。ニギハヤヒは記紀ではニニギ命と名を変えたとしている。

そしてスサノオの子息である五十猛は日本で生まれたという。また、大屋姫は五十猛の姉妹ではなく后としている。

個人的には宗像一族の市杵嶋姫が徐福に嫁いだとしているのが、凄く嫌。というか、実在してたのか? 宗像三女神。

「出雲と蘇我王国」では、事代主は国譲りの際、洞穴に幽閉されて餓死したのだとしている。

出雲には主王と副王で統治する体制であったとする。主王が大穴持と呼ばれ、副王が少名彦と呼称された。何代も続いた王の総称なのである。八代目の大穴持の名が八千矛だったという。

そして蘇我氏と富家は姻戚関係にあり、武内宿祢の系譜を引く蘇我氏が滅んだ当時のことを記している。

また、奈良には出雲系のカツラギ王家があるが、新羅の王子である天日矛の但馬進出で分断される。但し、日矛自身は但馬で生涯を終えたとする。天日矛と大国主命は播磨を争い戦う。その後、カツラギ王国の軍勢が吉備に進出、定着するが、出雲と同系統のキビツヒコが率いる吉備の勢力が出雲に侵略する、それがヤマタノオロチ伝説として記憶されているというものだった。キビツヒコはスサノオの血筋でもあるのだ。古代出雲は平和で戦は弱かったとしている。なので、力を持った親戚には警戒すべしと家訓が残されているという。

天日矛の子孫に神功皇后がいる。神功皇后は新羅の国の継承権は新羅の王家の血を引く自分にあるとして、新羅の国へ派兵し、百済、高句麗も服属させるのである。

北九州の物部氏の大和進出は二度に渡る。これがまとめられて神武天皇の東征神話となったとしている。神武天皇は架空の大王で、本来は天村雲命がそうだったとしている。第二次の東征の際、日本海側のルートを辿った物部氏の一派は出雲王国を滅ぼす。これで出雲以外の領国は放棄することになる。これが神話では国譲りとして平和的な移譲として描かれることになる。

古代史には詳しくなく、誰が誰のことだかよく分からないままに読み進めてしまった。

出雲族は鼻の長い動物のいる地から砂漠、そして大きな湖、長い河を経て日本に入ったという。斉木氏はそれはインドのことであろうとしている。ゴビ砂漠、バイカル湖、アムール河を経たというのだ。出雲族のリーダーであったクナトはドラヴィダ族だったともしている。

鼻の長い動物とは象のことだろう。象は東南アジアにもいる。また、出雲風土記に妹がワニ(鮫)に食べられたという伝説がある。あれは魚の鮫ではなく爬虫類のワニではないかという気もするので、出雲のルーツが南方にあると訴えること自体は理解できる。むしろ東南アジアから島伝いに日本列島へやって来たとした方が説得力がある気がする。しかし、遺伝子の解析ではドラヴィダ族というかインドとの関係があったとはされていないのが不審点である。象は象でも、案外マンモスだったりするかもしれない。

出雲に定着した理由として、そこに黒い川があったからだとしている。これは砂鉄が採れることを意味している。そういう意味では吉備も良質の砂鉄の採れる地域なのである。

富家には配下に情報収集を担う集団がいたとしている。それは明治期に至るまで連綿と続いて、但し昭和になるとどうかは言及されていない。

また、個人的に興味を惹いた点として、出雲ではクナト(岐)の大神を祭っていたとしていることである。后神の幸姫(さいひめ)の別名がサヒメ神であり、太陽の女神だったとしているのだ。もしそうならば、サヒメ神は相当古い時代からの神ということになる。クナト大神とサヒメ神は物部氏によってイザナギ命とイザナミ命に変えられてしまったという。

文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なるのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。

読み終えて、吉田大洋「謎の出雲帝国」を読むよりは遥かに良かった。読めるなら、「謎の出雲帝国」を読まずに「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」だけを読んだ方がいいだろう。島根県立図書館に所蔵されている。なお、「出雲と大和のあけぼの」は著者がフィールドワークして稼いだ他家の口伝も交えられているようである。「お伽話とモデル」は昔話を富家口伝によって解釈するといった風の読み物である。古代史に強くないと理解できない一面もあるだろう。「古事記の編集室」は古事記の口伝を述べた稗田阿礼が実は柿本人麻呂だったとしている。また、ヒミコやヤマタイ国に関する独自の見解が披露される。

誤りもある。「古事記の編集室」では、韓国の檀君神話(王が天降って来る)を参考に天孫降臨神話を創ったとしているが、檀君神話は高麗時代のもので、記紀より後代のものなのだ。

斎木説によると、帝紀の編纂は船頭多くして……の類で各氏族の伝承がバラバラで、しかも裏切りなど好ましい内容ではなかったため頓挫したらしい。その上で記紀の編纂が始まる。出雲王国の歴史は神話とするという形で一応記録された。が、そうなると記紀神話の多くは編纂時に創作されたものということになる。それにしては、何世代にも渡って語り継がれてきたと思える程によく出来ているのではないか。

ネットで見かける古代出雲に関する記述のソースがこれらの本であることが分かった。それらを書き込んだ人達も全面的に信じている訳ではないと思うが。

情報が分散していて、何冊か読まないと分かり難い部分もある。どこまでが富家口伝で、どこからが斎木氏の独自研究なのか判然としないとも言える。

とにかく、富家口伝を真実であると証明する手立てが何一つないのだ。これだけはどうしようもない。ちなみに富氏が出版した本は買い占められて原稿ごと無かったことにされてしまったとのこと。近年の考古学的発見で、出雲に王権があったこと、山陰から北陸圏にまたがる広域のものであったこと自体はまず間違いないけれども、そこから先は未だ五里霧中なのである。

出雲には国びき神話がある。縄文時代の三瓶山の噴火で噴出した土砂が神戸川を通じて流れて堆積し、出雲平野となったという事実を神話として語り直したもの。この神話の背景には縄文時代からの記憶がある。出雲には確かにそこまで古い何かがあるのだ。

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2018年7月 1日 (日)

芸北神楽をテーマにした四コマ漫画――佐藤両々「カグラ舞う!」

佐藤両々「カグラ舞う!」を読む。芸北神楽を題材にした四コマ漫画。広島の田舎に越してきたヒロイン・神楽が高校で神楽を始めるというストーリー。読んでみると、ほのぼのとした内容。巻末に取材先が載せられているけれど、件数が多くて、それくらい調べないと描けないというところだろうか。

芸北神楽は神楽としては新興勢力で、(企画を立てる上で)芸北神楽が神楽の代表みたいな認識はどうかとも思う。広島には十二神祇神楽や備後荒神神楽など古くからの神楽もある。新舞は戦後の創作神楽で、それでも70年くらいの歴史はあるけれど、神事性が薄いのが難点だと思う。

作者は広島出身なので、単に神楽が好きなだけかもしれない。しかし、(周囲には)この機会に神楽ブームを仕掛けたいという思惑があるかもしれない。とにかく、芸北神楽や石見神楽には「ショー」という批判がついて回るのを忘れてはいけないのである。

そこら辺はストーリーが進んで、神楽甲子園で全国の神楽が披露されて、配慮されるかもしれない。

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10万ヒット達成

アクセスカウンタが10万ヒットを達成した。ココログのアクセスカウンタはおそらく異なるIPアドレスがアクセスして1ヒットとカウントする仕様なので、掛け値なしの数字である。およそ9年で達成なので、年間11,111件くらいの実績。

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競技かるたと島根県

益田高校に競技かるた部があることを知る。強豪らしい。柿本人麻呂終焉の地なのだから、和歌は盛んだろう。島根で競技かるたをやっているとすれば松江、出雲くらいだろうかと考えていたら間違っていた。江津はどうなのだろう。調べてみると、松江、出雲、益田で行われている。

なんでも、益田の大会には西は佐賀から、東は新潟から参加があるとのこと。佐賀は新山口で乗換で想像できるが、新潟の場合、どういうルートなのか分からない。上越新幹線で一旦東京に出た方が速いだろうか。広島からバスは出ていたか。もしかしたら、広島空港まで行き、そこからはレンタカーか。いずれにしても半日以上移動に費やすかたちとなる。

競技かるたは漫画「ちはやふる」がアニメ化、映画化もされ、この上ない宣伝となった。部活ストーリーとしてよく出来ているし、競技かるたを描いた作品で「ちはやふる」を超える作品は最早でないだろう。

僕自身は百人一首には縁がない。坊主めくりをやったことがある程度である。そもそも反射神経が鈍いのだから、かるたには向いていない。高校で下の学年が夏休みの課題で百人一首を憶えることというのを聞いて、大変だと思いつつ(当時、分からない言葉は一字一句、辞書で引いていた)、うらやましくも感じたのである。

 

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