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2018年6月

2018年6月30日 (土)

学生のうちに読んでおくべきだった――橋爪大三郎「はじめての構造主義」

橋爪大三郎「はじめての構造主義」(講談社現代新書)を読む。僕が学生の頃には既にあった本だが、なぜか手が伸びなかった。読んでみて、学生のうちに読んでおくべきだったと感じる。「はじめての」だから、舐めていたのかもしれない。分かりもしないのに難しいものに手を出す悪弊が自分にはある。

構造主義は僕が学生だった頃に流行っていた現代思想。既にポスト構造主義の時代でもあったけれど、何も知らない学生にとっては同じようなものだった。

残念ながら、僕が現代思想に興味を覚えたのは大学三年くらいからなので、こういった本に手を出す余裕があまり無かった。大学は法学部だったし、教職課程も履修していたので、本腰を入れて読む時間的余裕が無かったのだ(かと言って、実定法はまるで理解していないが)。

本書では文化人類学者のレヴィ=ストロースの業績を中心に話が進む。大学生のときに「婚姻とは女性の交換である」ということは教わったのだけど、それがレヴィ=ストロースの業績だとは知らなかった。交差イトコ婚という概念があることも知っていたが(昔の皇室がそうだったらしい)、それは母方の(母と異性のキョウダイの)異性のイトコということまでは知らなかった。早いうちに読んでいれば、「?」のまま放置することもなかったのだ。なお、ソシュールの言語学については図書館で本を借りたが、分厚い本で読みこなせなかったことを記憶している。丸山圭三郎の著書については何冊か読んでいる。記号論については講談社ブルーバックスに入門書があり、それを読んだことを記憶している。

本書では構造主義について分かり易く解説している。構造主義は数学にも影響されているということなのだけど、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の違いなど分かり易く説明されている。僕自身、数学は大の苦手であるので、有難い。

文化人類学自体には左程興味がないけれど、レヴィ=ストロースが未開社会の婚姻関係の次に研究対象としたのは神話学であるという。神話の中に浮かび上がる構造を把握しようというのだ。こうなってくると、自分とも無関係ではいられない。ただし、レヴィ=ストロースの神話研究は名人芸ともいうべきもので、他人が容易に真似できるものではないらしい。

文化人類学と民俗学を比較してみると、互いに隣接分野だけど、文化人類学の方が理論的に精緻であると言えるだろう。民俗学の巨人である柳田国男自体が「無方法の方法」と呼ばれていたくらいである。一国民俗学として大量のデータを蓄積して、はじめてそこから浮かび上がる法則のようなものを研究するくらいの感覚で、それは後世の民俗学者に委ねられているのではないかと思う。大月隆寛ら若手(当時)の民俗学者が危機感を覚えるのも理解できないではない。ただ、批判するなら、新しいモデルを提示するなりしなければならなかったとは言えるだろう。

構造主義の功績としては、それまで西欧近代主義一辺倒だった価値観を相対化したことだろう。社会は決して進化論的な一様な発展を遂げるものではないことをことを明らかにした。一方で、価値相対主義による弊害もあっただろう。全ての価値が相対化されるとしたら、ではどこに立脚点を持てばよいのか分からなくなって来る。

本書では最後に日本には日本独自のモダニズムが必要であると結んでいる。第二次大戦の敗戦で価値観の急激な転換を余技なくされた結果だと思うが、戦後70年を経た今、日本独自の思想も求められているということだろう。

今、どんな思想が流行っているか知らない。これらの現代思想は90年代にソーカル事件という出来事が発生して信頼が失墜した。数学をモデルにしていたが、結局は比喩に過ぎなかったようである。

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2018年6月25日 (月)

奄美・沖縄の伝承を中心に――福田晃「神語り・昔語りの伝承世界」

福田晃「神語り・昔語りの伝承世界」(第一書房)を読み終える。奄美・沖縄の昔話を中心とした論考集だが、最初の方では奄美のユタやカンカカリヤーの成巫体験が語られる。女性だが、長く病気を患い、あちこち信心を変えつつ、地元の信仰に回帰していく様が描かれている。成巫体験を経ることで病気が克服されるのである。

このとき、心の内なる声が発して、それが神の言葉として扱われる。それが神話などの伝承の原型となったという見方と要約すればよいだろうか。本書では、奄美・沖縄の昔話を中心とした伝承を扱いつつ、こうした伝承の特質を抽出していく。

昔、沖縄出身の人と会話を交わしたことがあるが、沖縄方言でしゃべっているため、何を言っているのかさっぱり分からないのである。標準語に馴染んだ沖縄の人でないと、こうした沖縄の伝承を記録することは難しいだろう。実際、翻訳した人の名が記載されている。
<追記>
斎藤修平先生にお話しを聞く機会があったが、こういった沖縄のシャーマンたちは実際に会ってみると、民俗学者の名刺を何十枚も持っていたとのことである。「自分が聞きだすことがあるのか」と思われたとのこと。沖縄方言についてはインフォーマントの人が本土の言葉でしゃべってくれるのだとのこと。

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2018年6月16日 (土)

比較神話学についての対談集――ジョセフ・キャンベル「神話の力」

ジョセフ・キャンベル、ビル・モイヤーズ「神話の力」(飛田茂雄/訳、早川書房)を読む。キャンベルの著作で通読したのはこれが初めて。キャンベルとモイヤーズとの対談集だが、比較神話学者のキャンベルは自己をゼネラリストと位置付けている。該博な知識をベースとして語られるので、要約は難しい。己の内なる体験に意義を見出すとでもいえばよいのか、神秘主義とも接近しているようである。

全米で90万部も売れたそうである。日本とは2~3倍くらいの規模の違いがあるけれど、日本でこの手の本が30万部も売れるという事態は想像し難い。ちなみに「消えるヒッチハイカー」は日本で一万五千部売れたとのことである。

 

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2018年6月 9日 (土)

最古の神楽研究書――小寺融吉「芸術としての神楽の研究」

小寺融吉「芸術としての神楽の研究」を読む。神楽研究で最も古い本。170ページほどで、1ページ当たりのボリュームも少なかったので、比較的楽に読めた。

著者は舞踊の専門家とのこと。僕自身は舞についてほとんど何も知らない。ただ「舞っている」としか書けないのが現状である。

宇野正人「民俗芸能調査研究法再考―とくに神楽研究を中心に―」「神道宗教」第113号によると、「芸術としての神楽の研究」に載せられた研究の方法論、調査に赴く際の主な質問事項についてが記載されているのだけど、それが後続の神楽研究書の基礎となったとのこと。

国会図書館でデジタル化されている。僕が読んだのは紙の復刻版だけど、いずれ国会図書館まで赴かなくても、自宅か地域の図書館でいながらにしてデジタル資料を読める日が来るかもしれない。

◆参考文献
・宇野正人「民俗芸能調査研究法再考―とくに神楽研究を中心に―」「神道宗教」第113号(神道宗教学会, 1983)pp.43-65
 神楽殿の本殿に対する位置は、「そもそも神楽は誰に見せるものか」の問題から出発する。「神に見せる」といふのは比較的に後世の解釈で、「神が仮に現れて舞ふ」というのが、一層古い解釈であるらしい。尤も私は古神道に就ては全くの門外漢であるから、此の事に関して多くを語ることは出来ぬ。(34P)
かつらとは、日陰のかづら、まさきのかづらの名が示すとほり、本来は蔓草の名であつた。それは昔、舞踏者が鉢巻をするやうに額に巻いた。これは物忌みのしるしで、かつらを額に巻くと俗人では無くなり、清浄の人となるといふ観念が、含まれているのである。(59P)
 神楽の一つの特色は、手に物を持つて舞ふことで、物を持たずして舞ふことはない。そして持つ物は神聖視せられるので、後世の芸術として、或は娯楽として発達した舞踊に於ける持ち物とは、その意味を異にする。そして此の神楽の伝統は、日本の舞踊が外国の舞踊に比して、一つの著しい特色をなすところの「手に物を持つ」という約束を作りあげたのであつた。(64P)
 鈴を必ず右手に持つのは、鈴が如何に重大な役目を持つかを説明するのである。次に鈴は楽器として使用せられるのであるか、即ち舞踊の伴奏音楽として使用せられるのであるかといふに、多少の疑問が感ぜられる。私はオシラ様の神遊びを目撃して、鈴は本来、神の声の象徴的模倣として使用せられたことを思つた。(66P)
みてぐらは、わがにはあらず、天にます、豊をか姫の、神のみてぐら、神のみてぐら。
(中略)
豊をか姫は、豊うけ姫の訛りで食物調進の女神、伊勢に祭られる神である。(75P)
 然し一方に、「神楽は神々が現はれて舞ふのである」といふ説が昔から行はれ、それが根拠となつて、一々の曲に登場する神に、「如何なる名の神であらうか」と、人は考へるやうになつたのだ、とも云ひ得るのである。
 けれども古事記、日本書紀に現はれた神々の名を調べて、「此の神楽は、どの神が舞ふのであるのか」と研究するのは、正しくはない。単に、山の神、野の神、水の神、風の神、雷の神、東を司る神、西を司る神・・・・・・と解釈する方が、古人の心に一致するのである。(105P)
大蛇退治と岩戸びらきは、最も普遍的な演劇的神楽である。岩戸びらきは最後の曲目として、多く演ぜられるのは、神楽が夜に入つて始め、暁に至つて終るといふ風習が、おのづから此の神話を連想せしめ、且つ天岩戸びらきの故事は、神楽の起源であるといふ古来からの伝説が、此の曲を作りあげたことも感ぜられる。(114P)
気になった部分をテキストに起こしてみた。原文は旧字体である。主文よりボリュームが多いので著作権法に引っかかるけれど、文句を言う人は多分いないだろう。調べたら、著作権は切れていた。

天岩戸神話についても、いずれ記事を書きたいと思っているのだけど、神楽の源流ともなる神話であり、できるだけ内容を充実させねばという理由で先送りにしている。

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2018年6月 2日 (土)

超人的な業績の第一巻

本田安次「日本の伝統芸能 第一巻 神楽Ⅰ」を読み終える。第一巻ということもあって基本的な内容。宮廷の御神楽に関する記述、資料が多かった。御神楽、何百年にも渡って執行されてきたことが一覧表からもうかがえる。

宮廷の御神楽(みかぐら)、あるとき折口信夫、西角井正慶、本田安次の三名が特別に参観を許されたことがあったとのこと。一般人はまず見る機会はないだろう。一般の神社でも御神楽由来の演目を上演しているところはあるようなので、そういうものを観ることで窺い知るといったところだろうか。

本田は全国の神楽のみならず田楽や風流なども広く観て回っている。そして資料を筆写している。超人的な業績だけど、その第一巻がこの本である。

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