学生のうちに読んでおくべきだった――橋爪大三郎「はじめての構造主義」
橋爪大三郎「はじめての構造主義」(講談社現代新書)を読む。僕が学生の頃には既にあった本だが、なぜか手が伸びなかった。読んでみて、学生のうちに読んでおくべきだったと感じる。「はじめての」だから、舐めていたのかもしれない。分かりもしないのに難しいものに手を出す悪弊が自分にはある。
構造主義は僕が学生だった頃に流行っていた現代思想。既にポスト構造主義の時代でもあったけれど、何も知らない学生にとっては同じようなものだった。
残念ながら、僕が現代思想に興味を覚えたのは大学三年くらいからなので、こういった本に手を出す余裕があまり無かった。大学は法学部だったし、教職課程も履修していたので、本腰を入れて読む時間的余裕が無かったのだ(かと言って、実定法はまるで理解していないが)。
本書では文化人類学者のレヴィ=ストロースの業績を中心に話が進む。大学生のときに「婚姻とは女性の交換である」ということは教わったのだけど、それがレヴィ=ストロースの業績だとは知らなかった。交差イトコ婚という概念があることも知っていたが(昔の皇室がそうだったらしい)、それは母方の(母と異性のキョウダイの)異性のイトコということまでは知らなかった。早いうちに読んでいれば、「?」のまま放置することもなかったのだ。なお、ソシュールの言語学については図書館で本を借りたが、分厚い本で読みこなせなかったことを記憶している。丸山圭三郎の著書については何冊か読んでいる。記号論については講談社ブルーバックスに入門書があり、それを読んだことを記憶している。
本書では構造主義について分かり易く解説している。構造主義は数学にも影響されているということなのだけど、ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の違いなど分かり易く説明されている。僕自身、数学は大の苦手であるので、有難い。
文化人類学自体には左程興味がないけれど、レヴィ=ストロースが未開社会の婚姻関係の次に研究対象としたのは神話学であるという。神話の中に浮かび上がる構造を把握しようというのだ。こうなってくると、自分とも無関係ではいられない。ただし、レヴィ=ストロースの神話研究は名人芸ともいうべきもので、他人が容易に真似できるものではないらしい。
文化人類学と民俗学を比較してみると、互いに隣接分野だけど、文化人類学の方が理論的に精緻であると言えるだろう。民俗学の巨人である柳田国男自体が「無方法の方法」と呼ばれていたくらいである。一国民俗学として大量のデータを蓄積して、はじめてそこから浮かび上がる法則のようなものを研究するくらいの感覚で、それは後世の民俗学者に委ねられているのではないかと思う。大月隆寛ら若手(当時)の民俗学者が危機感を覚えるのも理解できないではない。ただ、批判するなら、新しいモデルを提示するなりしなければならなかったとは言えるだろう。
構造主義の功績としては、それまで西欧近代主義一辺倒だった価値観を相対化したことだろう。社会は決して進化論的な一様な発展を遂げるものではないことをことを明らかにした。一方で、価値相対主義による弊害もあっただろう。全ての価値が相対化されるとしたら、ではどこに立脚点を持てばよいのか分からなくなって来る。
本書では最後に日本には日本独自のモダニズムが必要であると結んでいる。第二次大戦の敗戦で価値観の急激な転換を余技なくされた結果だと思うが、戦後70年を経た今、日本独自の思想も求められているということだろう。
今、どんな思想が流行っているか知らない。これらの現代思想は90年代にソーカル事件という出来事が発生して信頼が失墜した。数学をモデルにしていたが、結局は比喩に過ぎなかったようである。
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