芸北神楽の創造性――新谷尚紀『映像民俗誌論ー「芸北神楽民俗誌」とその制作の現場から』
このような神話を脚色した神楽の導入の背後には、通称安芸門徒と呼ばれる浄土真宗の圧倒的な影響下にある芸北地方でそれに対抗して氏神祭祀と神祇信仰を広めようとした神職たちの意図があった。(81P)
二つの事例が取り上げられる。一つは千代田町の有田神楽団。「神降ろし」「天の岩戸」「八岐大蛇」が県指定無形民俗文化財として指定された。そのことによる権威化で、地元の神楽競演大会で特別出演の扱いを受けている。その他、ホテルでの上演やテレビ出演など露出する機会が増えた。ただ、時間の制約で本来であれば一時間半かかる「八岐大蛇」を時間を短縮せざるを得ない状況も起きた。
神楽競演大会の晴れ舞台で特別上手な演者の登場によって華やかに脚光を浴びて一世を風靡してはやがてその演者の体力の衰えによって姿を消していく神楽団が多い中で、保存と伝承こそが自分たちの役目だとする自覚が有田神楽団には明確に存在する。(87P)
大衆演劇と神楽の間にコネクションが生じ、新たな神楽を創りたいという欲求が生じる。それは「大化改新」という古台本を元とした「板蓋宮」という演目だった。神楽の舞台に縄で縛られた罪人が登場する、そして神が鬼に殺される、「天蓋引き」の応用で切られた鬼の首が宙を舞うなど衝撃的な演出であった。
が、この「板蓋宮」は神楽競演大会では全く評価されず、社中のメンバーたちは落胆した。そこに企画会社が声をかける。審査員に評価されないなら、観客に評価されればよい。賃借料や広告費などで500万円もかかる広島市内での大ホールでの興行を決行、結果的に大成功というサクセスストーリーのような展開を見せる。
この「創造」については肯定/否定の両面からの見方があるだろう。芸北神楽は遂にスーパー神楽なるものを生み出したが、行き過ぎた演出は最早神楽とは呼べないのではないか、どこかで線引きをしなければならないのではないかという気もする。この事例の場合、文芸面では大化の改新の古台本を元としているのだから、特に問題はないとは思われるが。
例えば「石見神楽の創造性に関する研究」という調査報告書には島根県下の社中の創作神楽を取り上げた一覧表がある。それをみると胸鉏比売や八色石などの地元の伝説を神楽化したものが見られるのである。また、櫛代賀姫命という地元の女神が登場する創作神楽もある。そういう地域に根差した題材であれば積極的に創作するのも理解できるのであるが、そうでない場合などだと逸脱を感じさせてしまう。基本、神話劇という枠はあるのではないか。
ただ、江戸里神楽では桃太郎や浦島太郎などの演目があることもあり、実は制約など無いという見方も可能だろう。だとしても鬼とのバトルに偏っている気はするが。
一方で、現に「生きている」伝統芸能としての芸北神楽という見方もあるだろう。保存と伝承に汲々とする地方が多い中で、伸びやかに創造性を発揮させている……という見方も可能なのだ。
<追記>
芸北神楽の新舞の「天香山」では、
大山津見「ことの次第まことにもって明らかなり。それなるまさかき必ず入用なり。」
児屋根「こはまたかたじけなきことなり。されば御神に進上いたすものあり。」(背の太刀をおろし)「これなる剣は天津神より授かりたるものなれば、これなる神剣によりて四方(よも)の悪魔を調伏なさるべし。」
(剣とさかきをとりかえる)
佐々木順三「かぐら台本集」13P
中川戸神樂団の「天香具山」は上記内容とは異なった内容だった。調べてみると中川戸神樂団の「天香具山」は創作演目で、天照大神を天の岩戸から復活させるべくというところは同じだが、その後の展開が異なり、天の香具山に榊を取りにきた弥生姫を悪神が殺して榊を奪ってしまう(神が殺される)。そこで山祇神と娘のアタツ姫(コノハナサクヤヒメ)が榊を奪い返す、といった内容だった。内容が改変されている。
中川戸神樂団はスーパー神楽なるものを主催する団体であり、創作神楽をよくする広島では有名な団体のようだ。
「天の香具山」では最後に剣で四方を祓うのでなく幣串で祓っている。元の「天香山」に四方(よも)を剣で祓い給えといった口上がある(悪切を反映)のにも関わらずだ。剣で祓うから幣串で祓うへの変化の理由は、バトルで剣が血塗られてしまったからだろうか。バトル展開にすることで改変を余儀なくされたようだ。天の岩戸が閉ざされることで悪神が湧いてきたと言いうので、こういう展開もありかなとは思うけど、原義が失われてしまったようにも感じる。
多分、「天の香具山」が参考にしたのは新舞「天香山」までで、出雲神楽「山の神」は考慮に入っていないと思う。
創作神楽自体が禁止されている訳ではないのだが、あまり改変し過ぎると「それは神楽と呼べるのか?」ともなってしまう危うさが見られるように思う。なお、スーパーカグラは神楽の枠を超えた舞台総合芸術を志向しているとのこと。それゆえ「スーパーカグラ」なのだ。
<追記>
神崎宣武「神楽、パリを行く(二)」「図書」2007年4月号という小論文を読む。
もちろん、これをもって日本の神楽、とまではいえない。しかし、たとえば神事色をまるでつぶして歌舞伎化した安芸のスーパー神楽をもって、ヨーロッパの人たちに日本の神楽と誤解をまねくよりは正統な試みといえるはずなのである。(30P)
◆参考文献
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