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2018年5月 8日 (火)

出雲流の根拠

森林憲史「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」「民俗芸能研究」第42号を読む。関東地方の太々神楽、里神楽に広く分布する「テケテットン」と呼ばれる三つ拍子の分布状況および伝播の過程を考察。他、印を結ぶ、反閇(へんばい)を踏むなど共通の所作がある。反閇はマジカルステップとも訳され、大地を踏み鎮める呪法である。

関東地方に於いて執行される神楽は「神代神楽」或いは「出雲流神楽」と呼ばれ、出雲・佐陀神社の佐陀神能に源を発する能舞から派生した土師一流催馬楽神楽(鷲宮催馬楽神楽)がその起源とされる。(41P)

とある。執り物神楽を出雲流神楽と分類するのは本田安次の説だろうけれど、この「出雲流」という根拠についてはっきりしないのである。本田の著作に当たっても根拠がはっきりしないし、当時「出雲流」と名乗る伝承者から伝授されたということなのだろうか。

 濱沙武昭「銀鏡神楽 日向山地の生活誌」という本に本田安次「採物舞の舞楽要素―銀鏡神楽―」という一節がある。

 この疑問を述べる前に、一つの挿話を話しておきたい。それは、私の郷里、福島県本宮町にも太々神楽があつて、その内容は、素面の採物舞と仮面をつける「岩戸開」などの神々の舞である。素面の舞はただ採物をとつて東南西北を二まわり振を替へて舞ふだけのことが多く、別にドラマティックな仕組みがあるわけではない。尤も、この類の神楽は関東から東北にかけて広く行われてゐるが、やがてこの素面の舞と佐陀の七座の舞との関係に気がついたのである。

 「佐陀の神能」は大正十五年の日本青年館の第二回郷土舞踊と民謡の会に、もう一度これを招ばうといふことになり、このとき七座の方も是非演じていただくことにした。それは、関東、東北の素面の舞との関係が明らかになるかもしれないと思つたからである。私は注意深くこの素面の舞を繰返し見た。その結果はやはり、一つの謎がとけたやうに思つた。神能は御座替祭の云はゞ余興に、七座の後に行はれたもののやうである。私が後に、かうした素面の祈祷風の舞と仮面の神話を仕組んだ舞とを合せ演じてゐるものを出雲流の神楽と分類したのは、かうした観察がもとになつてゐる。誤解がないやうに、この出雲の神楽が、すべて各地に直接伝へられたといふのでは必ずしもなく、それに則つてつくられ、それが伝播したものも幾らもあつたらうと思はれるのである。(123P)

とある。漢字は旧字体を常用漢字に改めた。

 出雲神楽は見たことがないので分からないが、関東の神楽、埼玉の鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽と東京の品川神社の太々神楽とは見る機会があった。品川神社の太々神楽の沿革は分からないが、鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽では、江戸時代に三十六座あったのを神道流に十二座の舞に編成替えしている。これらの太々神楽の方がむしろ演劇化された能舞より古態を残しているのではないかと思う。

 これまで出雲流神楽というと演劇化された、能舞化された神楽が中国、四国、九州に伝播したものを言うと思っていたが、本田の文章を読むにそうではなく、佐陀神社の七座の舞、儀式舞および能舞が全国各地に伝播したという見方である様だ。大きな誤解であった。

 しかし、それにしても、昔から「出雲流」という言い方があったのではないようで、古くからの口伝でうちは出雲流だというのではなく、単に本田の直観によるところが大きいとは言えるのではないか。東京の里神楽、神代神楽もパンフレットを見ると出雲流と書いてあったが、口伝でそうなっているというのではおそらくなくて、現在の学説、通説に則ってそう称しているという意味合いが強いのではないか。

◆参考文献

・森林憲史「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」「民俗芸能研究」第42号(民俗芸能学会, 2007)pp.41-81
・「銀鏡神楽 日向山地の生活誌」(濱沙武昭, 鯉渕友南, 2012)

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