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2018年5月

2018年5月30日 (水)

超高齢での仕事――御薗生翁甫「防長神楽の研究」

御薗生翁甫「防長神楽の研究」(未来社)を読む。歴史学者である著者が88歳のときからフィールドワークをはじめたもの。超高齢での仕事。毛利氏や大内氏の研究が専門だが、神楽が消滅の危機に瀕しているので優先させたとのこと。歴史学なので民俗学の学者が書いたものとはちょっと異なるテイストである。

山口県の神楽は周囲の影響を受け、混然としているようだ。湯立神楽、山伏神楽、石見神楽の流入もある。また、出雲からは大元神楽(※石見の大元神楽とは演目が異なるようだ)、芸州の神楽や豊前の神楽の影響もある。山伏神楽には将軍といった演目が見られる。将軍で神がかりしたかは明らかではない。

神がかりも残されていたそうで、山口県ではチャンチキ舞といったそうである。託宣は無かったようである。

歴史学らしいところは庶民の生活史。非常に貧しい、粥しか食べられない貧相な食生活だったようだ。甘藷がもたらされるまでは、どうやって空腹を凌いでいたのだろう。雪の降らない瀬戸内沿岸では麦の裏作をして凌いでいたとか。虫害も深刻で、いもち病でせっかくの稲を燃やさねばならない無念はいかばかりか。そんなところから五穀豊穣を願う神楽が支持されてきた。

著者は92歳で亡くなったようだが、亡くなる一週間ほど前は意識が混濁して原稿の前後が混乱してしまい、それを今の形に直したそうである。残念なのは、資料集が付加されていないこと。資料集があれば、著者が意識しなかったことに他の誰かが気づくこともあっただろう。

なお、百姓神楽の起源として以下のように分類している。
1. 悪疫の流行によって死亡者が続出することを避けようとするもの。
2. 天候不順で五穀がみのらず、百姓の多くが餓死することのないように、稲作の無事息災や風雨順時を祈願したもの。
3. 雨乞。
4. 非業の最後をとげた者の怨霊、すなわちミサキを鎮め、また非常の災害にあった人民が餓死した折に、これを鬼神のたたりとしてミサキ鎮めをおこなうもの。
5. 同族が親和団結をはかるために神を祭って神楽を奉納する、いわゆる祖先崇拝にその端を発するもの。
6. 住民とはなんの関係ない神人等がやってきて伝授したもの。(59-60P)

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2018年5月28日 (月)

中世で存在感を増す神々――山本ひろ子「中世神話」

山本ひろ子「中世神話」(岩波新書)を読む。伊勢神道の文献を主な題材として古代の神話観から中世の神話観への変容を描いている。天御中主神と豊受大神について詳述されているのは良かった。天御中主神は古事記だと世界の始原に現れて、そのまま姿を隠してしまう。ちょっとだけしか登場しないのだ。

中世の両部神道では梵天王と習合され、その立ち位置が強化される。豊受大神は記紀神話では類似の神は登場するものの、豊受大神としての登場はない。その豊受大神が天御中主命と接近することで、皇祖である天照大神との関係を変化させていく。御饌(みけ)の神であった豊受大神が天照大神と対等な地位にまで格を上げるのである。

天の瓊矛やニニギ命に関する論考もある。両者とも中世神話では、そのイメージを変えている。天の瓊矛は天地創世にまつわる呪具、中世では天の逆鉾に姿を変える。ニニギ命は記紀神話では降臨した幼童というイメージだったのが、中世神話では自ら葦原中つ国を平定するそれに変わっている。

中世神話というと、中世出雲神話などもそうである。当ブログの記事だと、胸鉏比売の伝説などは中世神話に由来するものと言えるだろう。

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2018年5月22日 (火)

芸北神楽の創造性――新谷尚紀『映像民俗誌論ー「芸北神楽民俗誌」とその制作の現場から』

新谷尚紀『映像民俗誌論―「芸北神楽民俗誌」とその制作の現場から』『歴博大学院セミナー「民俗学の資料論」』という論文がある。書籍に収録された論文なので著作権の関係上、半分までしかコピーできなかった。コピーしたのは『三 「芸北神楽民俗誌」制作の現場から』という章である。これも写真や資料のページを削って規定枚数に収めた。
基本的には映像制作に関する論文である。その中で実例として芸北神楽の事例が取り上げられる。
このような神話を脚色した神楽の導入の背後には、通称安芸門徒と呼ばれる浄土真宗の圧倒的な影響下にある芸北地方でそれに対抗して氏神祭祀と神祇信仰を広めようとした神職たちの意図があった。(81P)
石見神楽をルーツに持つ芸北神楽だが、終戦後、GHQの統制で神楽は打撃を受けた。その中で新舞と称される創作神楽が生まれた。旧舞に比べてテンポが速く、一世を風靡したことが挙げられている。旧舞が駆逐される勢いであったとされる。

二つの事例が取り上げられる。一つは千代田町の有田神楽団。「神降ろし」「天の岩戸」「八岐大蛇」が県指定無形民俗文化財として指定された。そのことによる権威化で、地元の神楽競演大会で特別出演の扱いを受けている。その他、ホテルでの上演やテレビ出演など露出する機会が増えた。ただ、時間の制約で本来であれば一時間半かかる「八岐大蛇」を時間を短縮せざるを得ない状況も起きた。
神楽競演大会の晴れ舞台で特別上手な演者の登場によって華やかに脚光を浴びて一世を風靡してはやがてその演者の体力の衰えによって姿を消していく神楽団が多い中で、保存と伝承こそが自分たちの役目だとする自覚が有田神楽団には明確に存在する。(87P)
もう一つ、千代田町の中川戸神楽団の事例が「創造」として取り上げられる。高度経済成長によって農村から都市へ若者が流出し、神楽の担い手が不足するようになった。が、中国道の開通で町に工場が出来、若者が戻ってきた。そして芸北神楽はスーパー神楽なるものをも生み出すのである。

大衆演劇と神楽の間にコネクションが生じ、新たな神楽を創りたいという欲求が生じる。それは「大化改新」という古台本を元とした「板蓋宮」という演目だった。神楽の舞台に縄で縛られた罪人が登場する、そして神が鬼に殺される、「天蓋引き」の応用で切られた鬼の首が宙を舞うなど衝撃的な演出であった。

が、この「板蓋宮」は神楽競演大会では全く評価されず、社中のメンバーたちは落胆した。そこに企画会社が声をかける。審査員に評価されないなら、観客に評価されればよい。賃借料や広告費などで500万円もかかる広島市内での大ホールでの興行を決行、結果的に大成功というサクセスストーリーのような展開を見せる。

この「創造」については肯定/否定の両面からの見方があるだろう。芸北神楽は遂にスーパー神楽なるものを生み出したが、行き過ぎた演出は最早神楽とは呼べないのではないか、どこかで線引きをしなければならないのではないかという気もする。この事例の場合、文芸面では大化の改新の古台本を元としているのだから、特に問題はないとは思われるが。

例えば「石見神楽の創造性に関する研究」という調査報告書には島根県下の社中の創作神楽を取り上げた一覧表がある。それをみると胸鉏比売八色石などの地元の伝説を神楽化したものが見られるのである。また、櫛代賀姫命という地元の女神が登場する創作神楽もある。そういう地域に根差した題材であれば積極的に創作するのも理解できるのであるが、そうでない場合などだと逸脱を感じさせてしまう。基本、神話劇という枠はあるのではないか。

ただ、江戸里神楽では桃太郎や浦島太郎などの演目があることもあり、実は制約など無いという見方も可能だろう。だとしても鬼とのバトルに偏っている気はするが。

一方で、現に「生きている」伝統芸能としての芸北神楽という見方もあるだろう。保存と伝承に汲々とする地方が多い中で、伸びやかに創造性を発揮させている……という見方も可能なのだ。

<追記>
芸北神楽だが、Youtubeで中川戸神樂団の「天香具山」を視聴した。「中川戸神樂団 天香具山」でヒットする。「天香具山」が見られるので視聴してみたのだが、結果は想像と異なっていた。芸北神楽の新舞「天香具山」は出雲神楽の「山の神」とほぼ同一内容の演目で、天岩戸神話の裏ストーリーとでも呼ぶべきものだが、天照大神が天の岩戸に籠ってしまったので世界は闇にとざされる。そこで天照大神を何とか復活させようとして八百万の神々は相談し、鏡や勾玉など様々なアイテムを並べてお祭りをする。その中に天香具山の榊もあるのだが、神が天香具山の榊を根こじにしようとする。それを見とがめた山の神が詰問する。そこで追いつ追われつとなるのだが、神が自分は何者で天照大神を天の岩戸から出すためにこうしているのだと説明し、山の神はひれ伏す。そこで代わりに宝剣を授けて、山の神は悪切(※剣で四方を薙ぎ払い悪魔祓いする)で四方をなぎ祓うという内容……が出雲神楽「山の神」。

芸北神楽の新舞の「天香山」では、
大山津見「ことの次第まことにもって明らかなり。それなるまさかき必ず入用なり。」
児屋根「こはまたかたじけなきことなり。されば御神に進上いたすものあり。」(背の太刀をおろし)「これなる剣は天津神より授かりたるものなれば、これなる神剣によりて四方(よも)の悪魔を調伏なさるべし。」
(剣とさかきをとりかえる)
佐々木順三「かぐら台本集」13P
とあり、剣で四方を薙ぎ払うといった要素は残されているものの、これから魔人とのバトルとなって蛇足観がある。

中川戸神樂団の「天香具山」は上記内容とは異なった内容だった。調べてみると中川戸神樂団の「天香具山」は創作演目で、天照大神を天の岩戸から復活させるべくというところは同じだが、その後の展開が異なり、天の香具山に榊を取りにきた弥生姫を悪神が殺して榊を奪ってしまう(神が殺される)。そこで山祇神と娘のアタツ姫(コノハナサクヤヒメ)が榊を奪い返す、といった内容だった。内容が改変されている。

中川戸神樂団はスーパー神楽なるものを主催する団体であり、創作神楽をよくする広島では有名な団体のようだ。

「天の香具山」では最後に剣で四方を祓うのでなく幣串で祓っている。元の「天香山」に四方(よも)を剣で祓い給えといった口上がある(悪切を反映)のにも関わらずだ。剣で祓うから幣串で祓うへの変化の理由は、バトルで剣が血塗られてしまったからだろうか。バトル展開にすることで改変を余儀なくされたようだ。天の岩戸が閉ざされることで悪神が湧いてきたと言いうので、こういう展開もありかなとは思うけど、原義が失われてしまったようにも感じる。

多分、「天の香具山」が参考にしたのは新舞「天香山」までで、出雲神楽「山の神」は考慮に入っていないと思う。

創作神楽自体が禁止されている訳ではないのだが、あまり改変し過ぎると「それは神楽と呼べるのか?」ともなってしまう危うさが見られるように思う。なお、スーパーカグラは神楽の枠を超えた舞台総合芸術を志向しているとのこと。それゆえ「スーパーカグラ」なのだ。

出雲神楽の「山の神」については石塚尊俊の著作を参考にした。

<追記>
YouTubeで中川戸神楽団の「板蓋宮」を視聴する。別にこれくらいいいんじゃない? という印象だった。競演神楽は減点方式で採点するらしく、その場では不利かもしれないが、別に目くじらを立てる程でもないような気がする。ただ、創作神楽に限らず、独自の解釈をしている演目もあり、なぜそうするのかは分からない。

神崎宣武「神楽、パリを行く(二)」「図書」2007年4月号という小論文を読む。
もちろん、これをもって日本の神楽、とまではいえない。しかし、たとえば神事色をまるでつぶして歌舞伎化した安芸のスーパー神楽をもって、ヨーロッパの人たちに日本の神楽と誤解をまねくよりは正統な試みといえるはずなのである。(30P)
とある。元々、芸北神楽には農民歌舞伎の影響が濃いとかで、そういった批評となるのだろう。僕自身、関東のお神楽を回数は少ないながら実見して、中国地方の神楽は鬼退治偏重、バトル偏重であると気づかされたのである。それ故に人気があるのも事実だが。

◆参考文献
・新谷尚紀『映像民俗誌論ー「芸北神楽民俗誌」とその制作の現場から』『歴博大学院セミナー「民俗学の資料論」』(国立歴史民俗博物館/編, 吉川弘文館, 1999)
・「石見神楽の創造性に関する研究」(島根県古代文化センター, 2013)(島根県古代文化センター, 2013)
・「出雲神楽 出雲市民文庫17」(石塚尊俊著, 出雲市教育委員会, 2001)
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・神崎宣武「神楽、パリを行く(二)」「図書」2007.4月号(岩波書店, 2007)pp.28-31

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2018年5月19日 (土)

篳篥は何と読む? 中本真人「宮廷の御神楽―王朝びとの芸能―」

中本真人「宮廷の御神楽―王朝びとの芸能―」(新典社)を読み終える。宮廷で催される御神楽(みかぐら)についての入門書。

当然のことながら、御神楽に関しては全く知識が無い。一部の地域の里神楽だけである。本田安次「日本の伝統芸能 神楽Ⅰ」に書かれていたが、折口信夫、西角井正慶、本田安次の三名があるとき特別に御神楽の拝観を許されたとのことである。錚々たるメンバーである。

御神楽の記録が残っているのは平安時代からであって、それ以前の御神楽についてはよく分かっていないらしい。古の時代には天鈿女命の子孫だとされる猿女君たちが神楽に奉仕していたものと思われる。その後、時代が移り変わり、御神楽の担い手は男性となったのである。

篳篥という笛の一種があるが、「ひちりき」と読むのは知らなかった。

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2018年5月18日 (金)

獅子舞に曲芸――丸一仙翁「江戸太神楽」

丸一仙翁「今を生きる日本の伝統芸能 江戸太神楽」を読む。ページの半分は英文で正味100ページ程なので、すぐに読めた。おおよそ獅子舞と曲芸に関する本だった。ジャグリングの世界大会に出場したこともあるそうである。娯楽の少ない田舎と違って、江戸では曲芸方面で芸を磨いていったようだ。著者の少年時代が語られる。七歳で養子に入って芸の道に入った。中学卒業とともに芸人としての生き方を選んだとのこと。「源三位頼政」「天鈿女の舞」「七福神宝入船」といった演目もあるが漫才に近い内容。茶番とされている。

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2018年5月 8日 (火)

出雲流の根拠

森林憲史「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」「民俗芸能研究」第42号を読む。関東地方の太々神楽、里神楽に広く分布する「テケテットン」と呼ばれる三つ拍子の分布状況および伝播の過程を考察。他、印を結ぶ、反閇(へんばい)を踏むなど共通の所作がある。反閇はマジカルステップとも訳され、大地を踏み鎮める呪法である。

関東地方に於いて執行される神楽は「神代神楽」或いは「出雲流神楽」と呼ばれ、出雲・佐陀神社の佐陀神能に源を発する能舞から派生した土師一流催馬楽神楽(鷲宮催馬楽神楽)がその起源とされる。(41P)

とある。執り物神楽を出雲流神楽と分類するのは本田安次の説だろうけれど、この「出雲流」という根拠についてはっきりしないのである。本田の著作に当たっても根拠がはっきりしないし、当時「出雲流」と名乗る伝承者から伝授されたということなのだろうか。

 濱沙武昭「銀鏡神楽 日向山地の生活誌」という本に本田安次「採物舞の舞楽要素―銀鏡神楽―」という一節がある。

 この疑問を述べる前に、一つの挿話を話しておきたい。それは、私の郷里、福島県本宮町にも太々神楽があつて、その内容は、素面の採物舞と仮面をつける「岩戸開」などの神々の舞である。素面の舞はただ採物をとつて東南西北を二まわり振を替へて舞ふだけのことが多く、別にドラマティックな仕組みがあるわけではない。尤も、この類の神楽は関東から東北にかけて広く行われてゐるが、やがてこの素面の舞と佐陀の七座の舞との関係に気がついたのである。

 「佐陀の神能」は大正十五年の日本青年館の第二回郷土舞踊と民謡の会に、もう一度これを招ばうといふことになり、このとき七座の方も是非演じていただくことにした。それは、関東、東北の素面の舞との関係が明らかになるかもしれないと思つたからである。私は注意深くこの素面の舞を繰返し見た。その結果はやはり、一つの謎がとけたやうに思つた。神能は御座替祭の云はゞ余興に、七座の後に行はれたもののやうである。私が後に、かうした素面の祈祷風の舞と仮面の神話を仕組んだ舞とを合せ演じてゐるものを出雲流の神楽と分類したのは、かうした観察がもとになつてゐる。誤解がないやうに、この出雲の神楽が、すべて各地に直接伝へられたといふのでは必ずしもなく、それに則つてつくられ、それが伝播したものも幾らもあつたらうと思はれるのである。(123P)

とある。漢字は旧字体を常用漢字に改めた。

 出雲神楽は見たことがないので分からないが、関東の神楽、埼玉の鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽と東京の品川神社の太々神楽とは見る機会があった。品川神社の太々神楽の沿革は分からないが、鷲宮神社の土師一流催馬楽神楽では、江戸時代に三十六座あったのを神道流に十二座の舞に編成替えしている。これらの太々神楽の方がむしろ演劇化された能舞より古態を残しているのではないかと思う。

 これまで出雲流神楽というと演劇化された、能舞化された神楽が中国、四国、九州に伝播したものを言うと思っていたが、本田の文章を読むにそうではなく、佐陀神社の七座の舞、儀式舞および能舞が全国各地に伝播したという見方である様だ。大きな誤解であった。

 しかし、それにしても、昔から「出雲流」という言い方があったのではないようで、古くからの口伝でうちは出雲流だというのではなく、単に本田の直観によるところが大きいとは言えるのではないか。東京の里神楽、神代神楽もパンフレットを見ると出雲流と書いてあったが、口伝でそうなっているというのではおそらくなくて、現在の学説、通説に則ってそう称しているという意味合いが強いのではないか。

◆参考文献

・森林憲史「関東地方の神楽囃子について―楽曲から神楽の系譜を辿る試み―」「民俗芸能研究」第42号(民俗芸能学会, 2007)pp.41-81
・「銀鏡神楽 日向山地の生活誌」(濱沙武昭, 鯉渕友南, 2012)

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民俗学の現在と過去

コピーしていた「山陰民俗研究」の資料を読み終える。石塚尊俊の講演が幾つか含まれているが、昭和の時代の高度経済成長で様々な民俗が失われてしまった。民俗学は現在学であるはずが、過去を扱う学問へと後退を余儀なくされているようにも思える。橋本裕之「民俗芸能研究という神話」、大月隆寛「民俗学という不幸」といった当時若手の研究者たちが懸念していたことが、柳田国男に師事していた石塚からも語られるといえばよいか。
「とにかく、石見から安芸にかけての、ことに山間部にはヨコの連絡による大きなエネルギーがあるように思われます。そのことに関してここに二つ、神楽と大田植とに関する図を出しておきました。神楽は中国地方の大部分で今なお盛んです。しかし、石見・安芸の山間部ほど盛んなところはありませんここでは今なおムラをあげて盛んなのです。そして盛んなあまりどんどん改作されていきます。鬼が出れば必ず火を吹きますし、大蛇はどんどん長くなっていって、しかも今や文字通り八頭も一時に出すようになっています。
 曲目もどんどん新作され、神楽といいながら神話とも縁起とも関係ないものがもっぱら賞翫されるに至っております。」
・石塚尊俊「地方にいて思う民俗学の過去将来」「山陰民俗研究」第3号(山陰民俗学会, 1997)p.26
神楽としての一線を引くとしたら、それはどこまでなのだろうか。神話劇であることだろうか。しかし、江戸の里神楽では桃太郎や浦島太郎という演目があり、それは多分子供むけなのだろうけれど、実は制約なんて無いんじゃないかという気もする。能舞偏重で儀式舞軽視ではないかという見方もあるだろう。競演大会の演目リストを見ると、塩祓いから始めていないものもある。

<追記>
未来授業~明日の日本人たちへ
橋本裕之さん~東日本大震災で失われた郷土芸能を復活させることの意義、そして、私たちが考えるべきこと

現代において民俗学にも出番はあった。東日本大震災で祭りが行えなくなって、その復興に民俗学者が手を貸すという内容。普段はあまり現実と関係の薄いように見える民俗学だけど、共同体が危機に陥ったときにその効用を発揮するのである。

<追記>
「《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか―」というレジュメがあるのをアクセス解析で辿って知る。レジュメ形式で20世紀の民俗学への反省点が列挙されている。大月隆寛が「民俗学という不幸」で周辺学問と比較して劣位であると民俗学者であることのコンプレックスを表明していた。それは当時としては一若手民俗学者の不満に過ぎなく、学会では多分無視されたのだろうが、「民俗学という不幸」から20年近く経過して、ようやく危機感が共有されてきたというこころだろうか。

島村恭則「民俗学(Vernacular Studies)とは何か」という論文では柳田国男以降の民俗学は「民俗」そのものを研究する流れだったが、90年代に入って「民俗」そのものの研究から「民俗」で研究する方向性に潮流が変わってきたと指摘している。

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石見神楽における六調子と八調子に関する音楽的な分析

藤原宏夫「<塩祓い>のリズム構造―島根県石見神楽・美川西神楽保存会を事例として―」「民俗音楽研究」第26号、藤原宏夫「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」「民俗芸能研究」第43号という論文を読む。コピーしたのはレシートを見ると1月で、4カ月近く放置していたことになる。

「<塩祓い>のリズム構造」はその名の通り、石見神楽の基礎的な演目である塩祓いのリズム構造についての論考。「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」は石見神楽を分類する上で代表的な六調子と八調子についての論考。

明治時代に入り、神仏判然令が出され、神楽が修験道や陰陽道の色合いをもっていたことから神職が神楽に関わることが禁止された。それで神楽の担い手が神職から氏子に移ったのだけど、舞が崩れてしまったため、牛尾弘篤と藤井宗雄らが神楽改正に着手した。神楽改正の影響を受けたものが八調子石見神楽である。

「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」(83P)によると神楽改正は次の五点である

一、一定の台本によって統一を保った
二、舞楽の中心点を神本位とした
三、歌詞の改正
四、太鼓の調子の改正
五、舞の振付

八調子は六調子から生まれたものであり、明治期の神楽改正の影響を受けたものを八調子、受けなかったものを六調子と分類している。八調子の中でも神囃子は六調子、鬼囃子は八調子に分類されるとしている。
井野神楽において、、六調子は神楽のなかで神が舞う場面で演奏される神囃子とも呼ばれる囃子を、そして八調子は鬼が登場し神と合戦をおこなう場面などで演奏される、鬼囃子とも呼ばれる囃子を指していることが分かった。
藤原宏夫「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」
学者によって、神楽改正の影響を受けたものを八調子と解釈するものと、囃子のテンポの速さで六調子と八調子を分類する解釈に分かれる。

ここで、中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」第1号を読んでみる。中上論文では石見地方の神楽を
・邑智郡と那賀郡東部の六調子神楽
・那賀郡西部・美濃郡の六調子神楽から八調子神楽へ
・鹿足郡六調子神楽
と分類している。美濃郡の六調子神楽をみると、大太鼓のバチ数を増やすと八調子神楽へ移行していく連続性が見られるとしている。詞章も邑智郡・那賀郡東部のものと那賀郡西部のものでは異なると推察している。

那賀郡西部は明治の神楽改訂の影響を最も早く受けた地域であり、中上論文と藤原論文の主張には重なる部分が見られるのである。

◆8ビート
姫野翠「異界へのメッセンジャー」「ポリフォーン」9号という雑記記事を読む。「永遠のリズム 8(エイト)ビート」という項目がある。音楽とトランス状態の関係を考察したものだけど、

 ダンス・リズムの歴史を遡ってみると、実にさまざまなリズム・パターンが次々と展開されているのがわかる。しかし一九六〇年代に8ビートを中心としたロック・ミュージックが登場すると、ポピュラー・ミュージック界の価値観はがらりと変わってしまった。そして8ビートの王座は今日に至るまで揺るぎもしない一体どういうわけだろう?

 8ビートは最高に「のれる」リズムだ。8ビートにのってディスコ・ダンスを踊ると、疲れも知らずにいつまでもいつまでも続けられるような気がする。それはこのリズムが踊り手をトランスに引き込む「何か」を持っているからだ。実際長時間踊ってギネス・ブックの記録に挑戦した人は、最後にみな錯乱状態になってしまったそうだ。8ビートにのって踊るには、水平的な動きは当てはまらない。一拍一動作の垂直な動きがもっとも適している。この動きが踊り手を異次元へと誘うことは前にいった通りである。このことを念頭に置いてさまざまな呪術的舞踊を概観してみると、そのほとんどが8ビートと垂直な動きを内蔵していることがわかる。それだけではなく、クラシック音楽やポピュラー・ソングのジャンルにおいても、広く一般の人々に親しまれているものは、その奥底に8ビート的な要素を持っている。(32P)

神楽の舞は旋回動作で跳躍動作を伴う踊りとは区別されるが、石見神楽も8ビート的な要素を孕んでいると思われる。八調子石見神楽の舞手が神がかったという話は聞いたことがないが、重い衣装を着けて長時間舞うことができるのには、こういった理由が隠されているのかもしれない。

◆BPM200
 三上敏視「新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子」(アルテスパブリッシング)という本で石見神楽が取り上げられている。大元神楽を取り上げた項なのだが、八調子石見神楽も取り上げられている。

 ちなみに「石見神楽」の「八調子」のお囃子は、やはり見せ場になるとBPMが200を超えるところが多いようだ。そしてシャッフルだが、この速さだと8ビートとの中間くらいのノリになる。これはロックンロールのノリに近いものであり、若い人に喜ばれる要素のひとつになっているのだろう。
三上敏視「新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子」213-214P

◆余談
残念ながら、楽譜が読めず、音楽的なことはよく分からない。「トントコ」と「トコトコ」と言われれば何とか分かるけれど、その程度でしかない。

子供の頃、実家に電気オルガンがあって、習いたいと思ったのだけれども、音楽は女の子のするものという思い込みがあって言い出せなかった。まあ、小学校の学校音楽が身についていないのだから、習っていても早い段階で挫折しただろう。

Youtubeで匹見の三葛神楽の演じる「貴船」を見た。六調子の神楽を見たのは初めて。意外なことに、急調子の場面では八調子と変わらないくらいの激しい舞なのである。もっと関東のお神楽のようなゆったりとしたテンポだと思っていた。六調子と八調子の間には連続性があるというところだろうか。しかし、緩急をつけるという点では六調子の方が優れているようにも見え、なぜ八調子一辺倒になったのか疑問である。

◆参考文献
・藤原宏夫「<塩祓い>のリズム構造―島根県石見神楽・美川西神楽保存会を事例として―」「民俗音楽研究」第26号(日本民俗音楽学会, 2001)pp.41-52
・藤原宏夫「石見神楽における六調子と八調子―その定義と八調子の成立について―」「民俗芸能研究」第43号(民俗芸能学会, 2007)pp.80-96
・中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」第1号(山陰民俗学会, 1995)pp.39-52
・藤原宏夫「石見地方における諸神楽の比較音楽研究―大太鼓のリズム分析による神楽の系統分類序説―」「山陰民俗研究」9(山陰民俗学会, 2004)pp.35-49
・「新・神楽と出会う本 歌・楽器・お囃子」(三上敏視, アルテスパブリッシング, 2017)


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戦前の神楽研究本――西角井正慶「神楽研究」

西角井正慶「神楽研究」、本文を読み終わる。昭和9年の発行で戦前の本。若き日の牛尾三千夫が編集に携わったとのこと。早川孝太郎「花祭」、小寺融吉「芸術としての神楽」の方が先行しているが、神楽のまとまった研究書としては黎明期の段階の本だろう。

先ず宮廷で催された御神楽に言及される。里神楽はそれからだ。西角井正慶は折口信夫門下生とのことで、基本的には折口説で解釈している。といっても、僕自身、折口信夫の著書はほとんど全く読んだことがないで想像を働かせる他ない場面もあった。

要するに神楽を鎮魂と解釈する説と言ってよいだろうか。天岩戸神話の解釈に顕著である。天の岩戸神話を自然神話(戦前に既に日食説があったことが分かる)と葬祭説との解釈に別れるとし、一方で折口信夫の鎮魂論で解釈、古代の死の観念は生と死の境が曖昧なもので、一種の眠りと捉えていた。そして天照大神の身体から離れた魂を鎮魂(たまふり)で再び身体に付着させ蘇らせたとする。

「神楽研究」は西角井正慶が34歳のときに出版されたもので、まだ若い時期のものである。そういう意味では研究の集大成として出した本ではなく、新進気鋭の研究者として叩き台となる本を世に問うたという段階か。

資料集も200ページほどあり、読むのに骨が折れた。広島十二神祇神楽の荒平と九州の三宝荒神の関連を窺わせる神楽の詞章も収録されていた。

以前手にしたときは石見神楽にしか興味がなく、石見神楽に関する章がないので興味のあるそうなページを少しだけコピーするに留まった。今回は最初から最後まで読んでみることで、戦前の研究の水準を窺い知ることができた。

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2018年5月 1日 (火)

民俗学は二度死んでいる――大月隆寛「民俗学という不幸」

大月隆寛「民俗学という不幸」(青土社)を読み終える。大月隆寛という人は「消えるヒッチハイカー」の訳者として知っていたのだけど、橋本裕之「民俗芸能研究という神話」を読んで、その論文が度々引用されていることを見て試しに注文してみた。「民俗芸能研究という神話」よりはこなれた日本語だと思う。

柳田国男が確立した日本民俗学だが、「無方法の方法」とも呼ばれていて、西欧の学問の様な確固たる理論体系はなかったようだ。「民俗」や「常民」という概念ですら、厳密にその内容を検証していくと、まるでらっきょうの皮を剥く様に(芯が無い)実は論理的に詰められていなかったことが明らかにされる。

石塚尊俊によると、常民は英訳するとコモン・ピープルということで、柳田は当初、本百姓を想定していたらしいが、不変の概念ではあり得ないのかもしれない。

なお、「日本の知識人の柳田学への評価は大別して四つの型に分けられる」としている。(129-130P)
1. 理論の体系性が無く個々の仮説にも否定的だが、成果は利用する価値ありとする立場。
2. 理論の面は無視して、成果だけを積極的に利用した立場。
3. 理論の面で一部評価しつつも、決定的な欠陥ありとする立場。
4. 理論の面も成果も積極的に評価する立場。
ただ、当時の民俗学が対峙していたのは唯物史観である。唯物史観も冷戦の終結で存立基盤を失ってしまった。現在だと、このことについての検証も必要なのではないか。

「都市民俗学」批判もある。多分、高度経済成長で民俗の多くが失われていって、やることが無くなってしまったのかもしれない。民俗学は「都市」に目を向けるが、それは「現在」を扱うことに他ならず、民俗学とは眼前に現前する事象を扱うことであり、自家撞着を起こす。「都市民俗学」という括りは意義を失っていく。

最終章はニューアカデミズム批判だ。記号論と価値相対主義の組み合わせが猛威を振るった。なんでも<>でくくって二項対立にすればいいみたいな勢いがあった。僕自身、かじった程度だったけれども影響を受けたものである。僕が大学を卒業して数年後、ソーカル事件で支持を失ったらしい。もっとも、思うに、大月氏も「消えるヒッチハイカー」翻訳で、ニューアカを担う一人として認知されていたのではないだろうか。浅羽通明「ニセ学生マニュアル」は僕も読んだことがあるから、批判的な立場ではあるとして。Wikipediaで大月氏の経歴を確認したところ、タレント学者、評論家というカテゴリーにも分類される人の様である。

橋本裕之「民俗芸能研究という神話」からの流れで「民俗学という不幸」を読んだのだけど、初心者がいきなりこんな本を読んでしまって大丈夫なのかという気はする。僕自身の関心のあるのは口承文芸や神楽といったところで、民俗学の一部でしかない。1992年の出版だからもう30年近く前の本になる。執筆当時30代だったろう大月氏だが僕とは10歳くらいしか違わなかったのである。

<追記>
記事を書いてしばらくして知識を少々つけたのだけど、アメリカ民俗学の動向に詳しい大月氏には、フォークロリズム(疑似的民俗文化)、フェイクロア(商業主義的民俗文化)といった分野に向かう可能性があったのではないか。あくまで輸入学問ではあるが。また、本質主義と構築主義との対立といった傾向が民俗芸能の分野で平成の時代から論じられるようになった。そういう方向に進む途もあったのではないか。

<追記>
再読する。この本が書かれたのは平成の初期だった。そのころ民俗学では文化には不変の本質があるとする本質主義が主流だったところに、それを相対化する構築主義が徐々に頭をもたげてきた時期ということができる。構築主義というのは要するに「何でもあり」なのだが、そういう時代の流れの中で苛立ったのではないだろうか。調べてみると、橋本裕之といった民俗芸能学者の企画にも一枚噛んでいる。つまり、そういう方向に向かう可能性もあったのだと思う。ところが、大月氏のフィールドは競馬の厩舎だったから、おそらく本質主義と構築主義の対立といった局面にはあまり縁がなかったのかもしれない。また、むしろフィールドワークには関心が薄く、むしろ民俗学の理論面に興味があったのかもしれない。

<追記>
「《討論》福田アジオを乗り越える―私たちは『20世紀民俗学』から飛躍できるのか―」というレジュメがあるのをアクセス解析で辿って知る。レジュメ形式で20世紀の民俗学への反省点が列挙されている。大月隆寛が「民俗学という不幸」で周辺学問と比較して劣位であると民俗学者であることのコンプレックスを表明していた。それは当時としては一若手民俗学者の不満に過ぎなく、学会では多分無視されたのだろうが、「民俗学という不幸」から20年近く経過して、ようやく危機感が共有されてきたというこころだろうか。

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