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2018年4月22日 (日)

牛尾三千夫論が掲載されている――橋本裕之「民俗芸能研究という神話」

橋本裕之「民俗芸能研究という神話」(森話社)を読み終える。図書館で本の出庫を請求していて、その待ち時間に偶々手にとった本。その本の中に偶然、牛尾三千夫論が掲載されていた。本論で取り上げられる牛尾は詩人としてのそれであったり、田植え歌の採集家・研究者としての立場から述べられている。神楽から接近した自分とは正反対のルートを辿っている。

本論文では民俗学者としての牛尾の真骨頂を「美しい村」という著作に求めている。田植え歌を採集する中で歩いた村の光景が美しい姿として牛尾の脳裏に焼き付けられている。そしてそれは高度経済成長で農業が機械化されるにつれて急速に衰退していった民俗芸能でもあるのだ。牛尾は哀惜の念を込めつつも、それを論文として上梓することはなく、あとがきに記載する程度に留めていたとのことである。
日本の今日以後の稲作栽培を始めとして、農村のありようを、如何にせば、その能率を高め、収穫を増やすばかりでなく、もっとも安心して、心楽しく、親の譲りの宝の田を耕作するに可能なりや、という問題を今考え見るべき時に迫られている。農村に魅力がなくなる時、若い者はいなくなるだろう。それは物質文明の進歩に比して精神文化が追従しないからである。そして農村の現状を見通すだけの力のある文明批評家がいないということでもある。早急に国の識者は農村から離れゆく青年子女をくい止める方策を考究しなければ、農村の危機は目に見えて早く来るだろう。私はこのことを杞憂するものの一人である。
牛尾三千夫「大田植と田植歌」265P
と、牛尾の著作が引用されている(94P)。1968年出版の本だが、現状を見事にいい当てている。農村に嫁のきてがいないとしばしば嘆かれることである。

本書は「民俗芸能」という民俗学に隣接するジャンルでその「民俗」と「芸能」という二つの概念の繋がり方を模索していると言えばいいか。例えば芸能は芸術まで昇華されていない段階のものを指す。民俗芸能は郷土芸能という言葉でも代用される。郷土に根づいた、芸術までは昇華されていない段階の技芸である。「神話」とは「脱神話化」である。

大学の専門課程で学ぶ学生か、むしろ大学院生クラスを対象にした論文だろう。民俗学は柳田国男がそうであったように平易な記述のものが多いが、本書は観念論的で抽象的な議論に終始する。正直、大学の一般教養レベルの自分には厳しい面もあった。民俗学は未だ入門者レベルである。それでも(内容を理解していないなりに)一気に読んでしまったのだから、自分にとっては面白い本だったのだろう。

自分の知っているジャンルに引き寄せて考えてみると、例えば神楽だと、学者の興味関心はその始原に向けられる。大抵の場合、江戸時代に唯一神道流に改訂されているのだけど、それ以前の両部神道流を残している奥三河の花祭りなどが重要視される訳だ。一方で神楽の現在については関心が薄い。八調子石見神楽やそれよりも更に先鋭化した芸北神楽などはあまり扱われない。繁昌しているのだから、敢えて保存する理由もない訳だ。だけど、神楽は現に観光資源となっている。

ネットで評判を確認したところ、生憎レビューの類は無かったが、本田安次賞を受賞したとのこと。

<追記>
しばらくして少々知識をつけてから振り返ると、この本では明言していないが、構築主義について触れていたのだということが分かる。本質主義/構築主義の対立は平成に入った辺りから論じられるようになったようで、橋本氏がちょうどその世代に当たるのだ。

なぜ戦前の旅行雑誌についての論考があったのかというと、民俗芸能自体が鉄道網の発達で旅行が身近なものになったから、観光振興という観点からも論じられていたのだ。やがて民俗学者たちは旅行雑誌を低く見るようになったらしいが。

民俗芸能の参考文献一覧を見ていると、橋本氏の論文を挙げているものが多い。それだけ活躍しているというところだろう。
<追記>
大石泰夫『民俗芸能における「実践」の研究とは何か」「日本民俗学」262(日本民俗学会, 2010)という論文は2006年~2008年の民俗芸能の研究の動向を記した論文なのだけど、読むと90年代から橋本氏の論考が民俗芸能における議論をリードしていたことが分かる。「民俗芸能研究という神話」はそのまとめに相当する本なのだ。

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