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2018年3月28日 (水)

コンテンツツーリズムはハレーションをひき起こせるか――岡本健「n次創作観光」

岡本健「n次創作観光 アニメ聖地巡礼/コンテンツツーリズム/観光社会学の可能性」(NPO法人北海道冒険芸術出版)を読む。要するにアニメの聖地巡礼を取り上げ、観光社会学の観点から分析した本である。100ページ足らずの本なので2時間ほどで読み終える。
アニメ聖地巡礼とは宗教的な聖地巡礼ではなく、アニメの舞台(背景画像)のモデルとなった土地を視聴者が実際に訪ね歩くことである。必ずしも観光名所とは限らない。住宅街のように一見何気ない風景が採用されることも多いのである。

コンテンツとは何らかの編集過程を経たものでユーザーが消費するものを言う。要するに媒体は異なれど作品である。

まず観光社会学について概説が述べられる。一般教養で社会学をかじったのはもう30年以上前になる。その間、情報通信が革命的に進歩して、個人を取り巻く環境が激変した。なので、ほとんど初めてに近い概念も多く再度読み直した。

この本は東浩紀「動物化するポストモダン」(講談社新書)のポストモダン論に依拠している面があって、たまたま「動物化するポストモダン」は既読なのだけど、何というか、強烈な説得力に欠ける印象なのである。そういう点では基礎となるべき部分に問題を残しているかもしれない。

タイトルのn次創作というのはボーカロイド「初音ミク」の大ヒットに触発されたコンテンツのあり様を述べたもの。初音ミクという第一次的なキャラクター像があって、そこに二次創作として楽曲をつける。するとその楽曲に反響があり、更に次なる三次創作を呼び起こす……というもので、ニコニコ動画が標榜するUGC(ユーザージェネレイテッドコンテンツ、ユーザーが生成したコンテンツ)が相当する。

アニメの聖地巡礼でも似たようなことが起きる。どこか現実の場所を舞台(背景画像)のモデルとした作品が放送されると、まず「特定班」という層――おそらく地元の人が多いだろう――が動く。そうして舞台となる背景の位置を特定してネットで公開するのである。それが次なる訪問客を呼び、舞台となる背景に関する情報がネット上で蓄積されていく。更にマスコミで取り上げられることで、その存在を知り訪れる層が現れる……という具合に進行するのである。

寅さんの映画ロケ地を探訪したホームページもあり、宗教用語でないいわゆる聖地巡礼という行動はアニメに限らず昔からあった。アニメでも1995年まで遡れるとのことである。本著では具体的な成功例としてアニメ「らき☆すた」の舞台のモデルである埼玉県久喜市鷲宮がクローズアップされている。アニメ「らき☆すた」が放映されたのは2007年だが、鷲宮では現在に至るまで息の長い活動が続けられている。

従来、観光学ではゲスト/ホストの二項対立的な概念で訪問客とそれを受け入れる現地の人たちを論じていたが、アニメ聖地巡礼では、この二項対立的な図式が崩れ、訪問客のうちディープな層が地元を盛り上げようとする地域プロデューサー的な立場の人と関わりを持つようになったりしているとのことである。中には実際に住まいを聖地周辺に移した人もいるらしい。

要するに、コンテンツツーリズムはハレーションをひき起こせるかということだろうか。調べてみるとハレーションは悪い意味で影響を及ぼすというニュアンスがあるらしいが、良い場合にも用いられることがある。鷲宮の事例ではキーマンとなる人材が要所要所で欠けることなく揃っていることが挙げられていた。

例えば本著では「朝霧の巫女」という広島県三次市を舞台とした作品も取り上げられている。「朝霧の巫女」は僕も一巻だけ読んでいるけれど、それはともなく稲生物怪録という三次市に伝承される物の怪譚をベースとしているのである。地元に伝わる伝承を基にした作品が作られ、更にそれが映像化された事例なのである。

島根県石見地方だとアニメではないけれど、少女漫画を映像化した「天然コケッコー」や「砂時計」が挙げられる。映画の場合は「フィルムツーリズム」と呼ばれるらしい。そういえ本著ではフィルムコミッションに関する記述はなかった。実際には映像化に当たってフィルムコミッションが裏で働いていて、映画のクレジットなどでそれが確認できる。

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