近代文学とは対照的な昔話の形と本質
マックス・リュティ「ヨーロッパの昔話 その形と本質」(岩波文庫)を読み終える。奥付をみると2017年8月初版発行なので、新しい文庫版である。
元々は博士論文として書かれたらしく、抽象的な記述が続く。でも、難解な哲学のように複雑な概念を駆使するという訳ではないので、なんとか読み切ることができた。ただ、翻訳物につきまとう硬さはあると思う。日本語に訳す際、用語の定義をきっちりする等で、原文に比べて難解になる傾向があるそうである。
たとえば登場人物の平面性ということが語られる。それだけだと抽象的で何が言いたいのか分からないが、
昔話の図形的な登場人物には感情の世界そのものはない。したがって精神的奥行きといったものは、彼らには縁のないものである。(39P)
昔話の人物は内的世界をもっていないばかりでなく、周囲の世界ももっていない。(44P)
とあれば何となくでも意味しているところは分かるであろう。登場人物の内面は描かれないし、写実的な描写といったものは見られないのである。つまり近代文学とは正反対の世界が昔話では広がっているのである。
時間の経過についても同様である。
ところが昔話では若者は若いまま、老人は老いたままで変わらない。年老いた王様が死ぬのは、主人公が国を継ぎ、それによって物語が終結点を見いだせるように死ぬだけのことなのである。そのばあい時間の経過はすこしも感じられない(後略)(57P)
伝説のなかでだれかが百年、あるいはそれ以上の年月のあいだ眠っていたとすると、あるいは地下の国で過ごしたりすると、人間界へもどってくるときにこっぱみじんに砕け散ってしまったり、しわだらけにちぢまって非常な老人または老婆となってしまう。しかし、それは彼が人間界から離れた時間に気づかされてはじめて起きることである。すなわち、そのときになってはじめて、経過した時間全体をいちどきに意識し、かのまったくべつな状態、つまり人間の法則以外のものが支配しているあの状態のなかではけっして体験することのできなかったものを、精神的にも肉体的にも、一瞬のうちに体験するのである――すなわち時間の力を。(56P)
このような例を挙げると、日本の昔話では浦島太郎が例として直ぐに思いつく。浦島太郎の場合は玉手箱が時間をとどめる働きをしているけれど、決して開けるなという禁止を破ることで、地上で経過した時間が一気に浦島太郎に襲い掛かる。日本の昔話は外国の伝説に近いと言われることがあるようだけれども、その一例がここに記されている。
また、昔話の登場人物は孤立している。孤独ではない。彼をとりまくあらゆるものから孤立して存在しているのである。孤立しているが故にあらゆるものと普遍的結合も可能となるのである。
超越的な驚きがないこと、あるいは彼岸的なものとの交渉のさいに好奇心も憧憬も不安もないこと自体、すでに昔話の図形的人物が対人関係において孤立していることを示している。(89P)
ただ、三人兄弟が課題を与えられて、上の二人の兄が失敗を重ねる一方で、末子の三男は上手くやり遂げるといった場合、リュティはこの三男は経験に学んだのではなく、あくまで独立しているのだとしている。確かに文章的には経験に学んだことは言及されていないが、三男の知恵を示すという点では兄二人の失敗から学んでいるのではないだろうか。そうすると、三男は孤立していないことになるが。
本書は昔話の理論書であり、伝説や聖者伝についても触れているけれど、近代文学との対比で読むのも悪くないかもしれない。内面描写も写実的な描写もない。にも関わらず、昔話は魅力的である。その意味を一度考えてみるのも悪くない。
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