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2018年2月

2018年2月27日 (火)

昔話の概説書――小澤俊夫「昔話入門」

小澤俊夫「昔話入門」を読み終える。このところ昔話の理論書を何冊か読んでいて、昔話の概説書が読みたかったので丁度よかった。マックス・リュティの理論やアールネ=トムソンの分類した昔話の話型、グリム童話の沿革など。子供に昔話を読み聞かせるための一章もある。

 第4章「子どもに昔話を!」では、
 また、「やさしく心豊かな子どもに育てたい」との教育的配慮からいえば、残酷な場面を省いてしまった再話もよく見かけますが、広い意味での教育的配慮からいえば、むしろ昔話における残酷さは子どもの成長にきわめてたいせつな役割を果たしているといえるのです(小澤俊夫著『昔ばなしとは何か』(福武書店<ベネッセ>、一九九〇年)及び野村泫著『昔話の残酷性』(東京子ども図書館、一九七五年)』参照)。
 このほか、教訓臭の強い再話、情緒に訴えようとするセンチメンタルな再話など、昔話本来の子ども奥深くへ働きかける力強さを失ってしまった再話を選ばないように心がけることもたいせつです。すなわち、語るためのお話を選ぶ時には、再話の良し悪しを見極めること、昔話の法則を保っているかを見極めることが必要なのです(本書第二章参照)。
「昔話入門」(小澤俊夫, ぎょうせい, 1997)p.151
 昔話絵本『かちかちやま』には、実際いろいろなものがあり、中には、最後にうさぎがたぬきを赦し、手に手を取り合って、これから仲良く暮らしましょうというものさえあります。このような安易な話の結び方では人生の厳しさや自然の摂理にふれないままで終わってしまいます。本の読者よりもっと年齢層の低い幼児向けの絵本で、あえて「とうとう、やまんばを ころしてしまいましたとさ」としたところに、昔話に織り込まれた人生の真実を伝えようとした、再話者の意図が読み取れるのではないでしょうか。書店に並ぶ昔話絵本が教育的配慮? として、残酷性を排除しようとしたり、みんな仲良く暮らしましょうといった安易な筋運びをしていることを思うとき、昔話絵本は決して改ざん、改悪してはならないと思うのです。(207P)
 と昔話の残酷性にも触れている。昔話の残酷性というのは、昔話がある面で因果応報を説いていることの裏返しである。安易な物語の改変は、因果が巡り巡って自分に返って来るという人生の真実から目を逸らしてしまうことにもつながりかねない。悪いことをしたら報いが返ってくるという人生の真実が自然に学べるのが昔話なのである。

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2018年2月24日 (土)

伝承ならぬ電承――伊藤龍平「ネットロア」

伊藤龍平『ネットロア ウェブ時代の「ハナシ」の伝承』(青弓社)を読み終える。ネットを舞台にした伝承(電承)についての本。都市伝説という用語は民俗学では定着しなかったとのこと。

ネットというメディアを通じての現代社会論にもなっている。内容的には読書スピードの遅い自分でも一日で読み切れるボリュームだ。

「くねくね」という某匿名掲示板を舞台にした電承がまず検討される。某匿名掲示板には僕も時間を吸い取られたが、それはともかく、オカルト板と民俗・神話学板でそれぞれ電承が繰り広げられたとしている。オカルト板は覗いたことがないが、民俗・神話学板は時々覗いている。専門板でほとんどのスレッドが過疎気味である。

オカルト板はスレッドの参加者がビリーバー(話を信じている人)というスタンスであるが、民俗・神話学板ではリサーチャー(調査者)というスタンスに別れるとのことである。板にもその板特有の気風があるのである。

現在ではTwitter、Facebook、LINEといったSNSが普及していて、2018年現在、匿名で書き込む掲示板スタイルはピークを過ぎたと思う。

僕自身、オカルトネタを書き込んだことはないけれど、ネタならよくレスしている。たまに受けて、更に稀にそのレスがコピー&ペーストされることがある。コピペによってスレッド、ボードを超えて拡散していくのだけど、その際、微妙に改変が加えられることがある。

一方、Twitter、FacebookといったSNSでは基本、リツイート、いいね!でそのまま拡散していく仕組みなので改変が加えられる可能性は匿名掲示板より少ないのではないか。

Twitter、Facebookを使い始めた頃のこと、リツイートやいいね!が何をするものか意味がよく分からなかった。いきつけの歯科医の先生のアカウントを教えてもらって友達設定としたのだけど、そうしたところ、タイムラインに先生がいいね!を押した内容が頻繁に表示されるようになった。それを見て「あっ、こうやって拡散していくんだ」と感心した憶えがある。SNSは友達の輪を介して友達の友達に情報を拡散していく機能が標準でそなわっているのが特徴だろうか。

ネットロア(電承)を取り扱った本であるが、この30年ほどはパソコン通信からインターネット掲示板、ブログ、ポッドキャスト、動画共有、SNSなどメディアとしての性格が目まぐるしく進化した時代でもあった。歴史的に百年分の進化が一気に起きたと言っても過言ではないだろう。そういう時代の匿名掲示板論にもなっていると思う。

本書では他に「八尺様」などを参照しつつ、ネットによる電承の形態――文字、音声、画像、動画による――を探っていく。ネットの動画については一人称的な視点で――ゲームと違い主人公をコントロールできないが――視聴させることも可能である。他、「南極のニンゲン」など。

また、鳥居みゆきの芸(黒い笑い)とネットという「地下」との関連、ドラマ「あまちゃん」の考察を元にしたアマチュア的アイドル論やファスト風土化した郷土論なども収録されている。

さて、「くねくね」というネットロアであるが、僕自身、あまりオカルトを信じる性質ではないのだけれど、小学生のときに不思議なものを見た記憶があるのだ。それは小学高学年のあるとき、秋だったか、剣道教室を終えて同級生と帰り道を歩いていたときの話である。既に日は暮れていた。陸上競技場を挟んで小学校の体育館が見えるのだけれど、体育館のカマボコ状の屋根の上を何かヒラヒラしたものが飛び回っているのである。なにかとんぼ返りしている印象だった。それは大きさからして人間の動きを遥かに上回っていたろう。遠くから見えたのだから発光していたかもしれない。あれは何だろうと思った記憶がある。確かめに引き返す気もなかったのだけど、未だに記憶している。今となっては夢を混同したのかとも思わないでもない。ただ、夢ならば醒めてしまえば直ぐに忘れてしまうはずなのである。夕方になって今朝の夢を思い出せるかと言われて答えられる人は少ないだろう。それが記憶に焼きついているのである。ネットロアと違うのはそれを見たから何か不幸が自分の身に起きたという訳ではなかったことである。心胆を寒からしめる強烈なオチがないのである。

インターネット上のコンテンツという電子媒体による伝承という意味であれば、当ブログも電承である。当ブログの場合は地方の伝説を紹介して、それに現地にいった写真を添付することで伝説のリアリティを増している。僕自身、郷土史家のように伝説そのものを発掘する訳ではないけれど、収集者の役割を果たしていることになる。

<追記>
「口裂け女」については記憶がある。小学校低学年のある日、全校集会で口裂け女がやって来るという噂が流れているけれど、信じないようにというものだった。早生まれで幼かった自分はそのときになって口裂け女の話を聞いたのである。なんでも〇月×日にはどこそこまで来ていたらしい、浜田には何時いつやってくるとか噂になっていたようだ。

 

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2018年2月23日 (金)

ヒマワリ――芸北神楽をフィーチャーしたヤンキー漫画

平川哲弘「ヒマワリ」(秋田書店)第一巻を読む。物語は広島県の安芸地方で始まる。芸北神楽をやっている少年二人の一人が突然上京しアイドルになり、もう一人が追いかけるという粗筋。冒頭に神楽シーンがあって神楽をフィーチャーしているけれど、神楽自体が題材ではないようだ。神をシンと読むのは初めて知った。神楽好きの老人がいて解説役を務めるのもいかにもといった感じだ。

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2018年2月22日 (木)

2月22日は竹島の日

2月22日は竹島の日。もう書いても大丈夫と思うが、数年前、2月22日に「リメンバーしまね」の掲示板に竹島で捕獲されたアシカの剥製の写真を投稿した。ところが、投稿がいつまで経っても反映されないのである。「リメンバーしまね」の掲示板投稿は承認制で運営が承認した投稿しか表示されない。それで結局、翌日の午後になって確認してみると、ようやく反映されていた。たかがアシカの剥製の写真なのだから過剰反応だと思うけど、裏で面倒くさいことが色々あるんだろうな、と邪推してしまった次第。

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2018年2月19日 (月)

国文学者としての一面――岩田勝「神楽新考」

岩田勝「神楽新考」を読み終える。「神楽源流考」も通読していないのだけど、生憎と関東地方での所蔵は国会図書館だけなのだ。

「神楽新考」は僕にとって異次元な本であった。「鎮魂」をタマフルと読むかタマシズメと読むかで考察が進み、更に神がかりを一言で要約すると「憑」だけど、「憑」をカカル、ツク、ヨルなどと読む場合に分けて考察している。一度通読しただけではとても理解したとは言い難いので、解説は省く。興味のある方は手にとって欲しい。

岩田勝は在野の神楽研究者というイメージだったけど、「神楽新考」では国文学者という一面を見せる。単に芸能としての神楽に留まらず、その根源にあるものを古典を駆使しつつ論じているのだ。

独学で高等教育を身に着け、専門家に勝る考察を行っているのである。たとえば、章末の参考文献一覧だけど、「神楽源流考」の場合は、これを読んでみようかと、ある程度見当がついた。ところが「神楽新考」の参考文献一覧はどこから手をつけたらいいのか皆目分からないのだ。

独学でしかも郵便局員という本業がありつつ、どうやって時間を捻出したのかと思うくらいである。

また、僕の場合に引き比べて考えてみると、関東地方だと国会図書館や東京都立図書館、横浜市立図書館などの蔵書でほとんど賄えるのだけど、岩田は中国地方の各局を転々としていたようだから、関東地方のように恵まれた環境下にいた訳ではないことになる。休日は県立図書館に通ったという文がどこかにあったか。

「神楽新考」は平成4年の出版で、岩田勝は平成6年に亡くなっているから、批判を受け付ける時間がほとんどなかったことになる。次回作の構想もあったようだけど、それは結局出ないままとなった。

しかし、「神楽新考」初版は600部に過ぎないのである。大学と図書館で大多数はけてしまう数字だろう。なので11,000円と高い価格設定になっている。現在でも書店で注文可能のようだ。

当ブログも島根県石見地方の伝説は主なものはほぼカバーできたと思っている。それで、これからの10年間をどうするかという考えがもたげて来ているのだけれど、考えさせられる本であった。

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2018年2月11日 (日)

ホームページ開設10周年

ホームページ「広小路」が今日で10周年を迎えました。その記念記事です。

メイキング・オブ・広小路

ちなみに、ブログ移転が2009年4月26日。

ブログ分割・島根に特化(ココログプラス化)が2010年5月2日です。(備忘録)

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2018年2月10日 (土)

近代文学とは対照的な昔話の形と本質

マックス・リュティ「ヨーロッパの昔話 その形と本質」(岩波文庫)を読み終える。奥付をみると2017年8月初版発行なので、新しい文庫版である。

元々は博士論文として書かれたらしく、抽象的な記述が続く。でも、難解な哲学のように複雑な概念を駆使するという訳ではないので、なんとか読み切ることができた。ただ、翻訳物につきまとう硬さはあると思う。日本語に訳す際、用語の定義をきっちりする等で、原文に比べて難解になる傾向があるそうである。

たとえば登場人物の平面性ということが語られる。それだけだと抽象的で何が言いたいのか分からないが、
昔話の図形的な登場人物には感情の世界そのものはない。したがって精神的奥行きといったものは、彼らには縁のないものである。(39P)
昔話の人物は内的世界をもっていないばかりでなく、周囲の世界ももっていない。(44P)
とあれば何となくでも意味しているところは分かるであろう。登場人物の内面は描かれないし、写実的な描写といったものは見られないのである。つまり近代文学とは正反対の世界が昔話では広がっているのである。

時間の経過についても同様である。
ところが昔話では若者は若いまま、老人は老いたままで変わらない。年老いた王様が死ぬのは、主人公が国を継ぎ、それによって物語が終結点を見いだせるように死ぬだけのことなのである。そのばあい時間の経過はすこしも感じられない(後略)(57P)
伝説のなかでだれかが百年、あるいはそれ以上の年月のあいだ眠っていたとすると、あるいは地下の国で過ごしたりすると、人間界へもどってくるときにこっぱみじんに砕け散ってしまったり、しわだらけにちぢまって非常な老人または老婆となってしまう。しかし、それは彼が人間界から離れた時間に気づかされてはじめて起きることである。すなわち、そのときになってはじめて、経過した時間全体をいちどきに意識し、かのまったくべつな状態、つまり人間の法則以外のものが支配しているあの状態のなかではけっして体験することのできなかったものを、精神的にも肉体的にも、一瞬のうちに体験するのである――すなわち時間の力を。(56P)
このような例を挙げると、日本の昔話では浦島太郎が例として直ぐに思いつく。浦島太郎の場合は玉手箱が時間をとどめる働きをしているけれど、決して開けるなという禁止を破ることで、地上で経過した時間が一気に浦島太郎に襲い掛かる。日本の昔話は外国の伝説に近いと言われることがあるようだけれども、その一例がここに記されている。

また、昔話の登場人物は孤立している。孤独ではない。彼をとりまくあらゆるものから孤立して存在しているのである。孤立しているが故にあらゆるものと普遍的結合も可能となるのである。
超越的な驚きがないこと、あるいは彼岸的なものとの交渉のさいに好奇心も憧憬も不安もないこと自体、すでに昔話の図形的人物が対人関係において孤立していることを示している。(89P)
ただ、三人兄弟が課題を与えられて、上の二人の兄が失敗を重ねる一方で、末子の三男は上手くやり遂げるといった場合、リュティはこの三男は経験に学んだのではなく、あくまで独立しているのだとしている。確かに文章的には経験に学んだことは言及されていないが、三男の知恵を示すという点では兄二人の失敗から学んでいるのではないだろうか。そうすると、三男は孤立していないことになるが。

本書は昔話の理論書であり、伝説や聖者伝についても触れているけれど、近代文学との対比で読むのも悪くないかもしれない。内面描写も写実的な描写もない。にも関わらず、昔話は魅力的である。その意味を一度考えてみるのも悪くない。

 

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2018年2月 4日 (日)

エンタテインメントの源流へと遡ると、死生観に辿り着く――牛尾三千夫「神楽と神がかり」

横浜市立図書館で借りた牛尾三千夫「神楽と神がかり」を読み終える。500ページ以上ある大著なので二週間では読み切れないかと思っていたが、何とか読み終える。といっても理解した訳ではない。記述自体は平易だが、神楽の式次第が事細かに記されていて、門外漢の僕にとっては一読では理解できないものだった。

備後の荒神神楽、三十三年目の式年祭は、死後三十三年経つと魂が祖霊に加入する儀式ということで、仏教の輪廻転生とは異なる死生観が現れていて興味深かった。神楽が吉田神道の影響を受ける前には浄土神楽なるものも執り行われていたとのことであるが、現在では文献に残るのみである。

備後地方における若宮信仰の場合――これは神主など特別な人のみだが――死後二、三年で仏の支配から離れて祖霊に加入するという儀式も行われていたとのこと。

現代の神楽は地方のエンタテインメントだけど、源流へと遡っていくと、日本人の死生観に行き当たるのが面白い。死んだらどうなる? というのは根源的な疑問だ。仏教では輪廻転生としつつ、お盆にはご先祖さまの零が帰って来るなど日本人の死生観は仏教や道教の影響が混在して曖昧だけれど、その曖昧さに一つの光を差し向けるのではないか。

牛尾は大元神楽の継承者でもあるので、生まれながらの神楽研究者と言えるだろう、神がかりについて詳しい。あらかじめ選抜した託太夫に憑く場合と、その場に居合わせた人――観客を指すのだろうけれど――につく場合とに分かれるとのことであるが、どうして、あらかじめ潔斎していた託太夫でなく、その場に居合わせた人が神がかることがあるのか不思議である。

神が憑いて託宣ということは科学的な説明をするとトランス状態に入り、無意識の声を聞くということだろう。この本には書かれていないけれど、トランス状態には単純な動作の繰り返しで入っていくらしい。大脳生理学で研究すれば面白いのではないかと思うが、厳粛な神事ということもあって禁じられているのかもしれない。

この本は牛尾三千夫が病床にあるときに編纂されたもので、書下ろし部分も含むが、それまでの研究を集大成したものである。編纂は岩田勝が行っている。ちなみに、岩田勝は浜田の郵便局長を務めていた時期があることが解説で分かった。

牛尾の関心は主に儀式舞に向けられていて、能舞にはあまり関心がなかったようである。口上台本は史料として残してくれている。当ブログでは神楽については文芸的な面から書いているけど、社中に所属したことがある訳でもなし、儀式舞だと書きようがないのだ。まあ、先駆者に掘り尽くされるよりいいのかもしれない。

余談

神がかりした人の鬼気迫る表情が写真で納められているのだけど、それが自分の父に似ているのである。石見の山奥だし、うっすらと血がつながっているのかもしれないし、石見地方によくある顔立ちなのかもしれない。細身で腕が細いタイプだから、肉体的に強い訳ではないが、遺伝子が残っている。別のメリットがあるのだろう。

 

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