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2018年1月

2018年1月14日 (日)

今年もどんど焼きに参加 2018.01

横浜市都筑区のどんど焼き

横浜市都筑区のどんど焼き

近所の公園で催されたどんど焼きに参加する。甘酒、おでん等が振る舞われる。天気は快晴で寒いけれど、火の側は熱かった。

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2018年1月13日 (土)

宮島の怪異と不思議な夢

雑誌「広島民俗」に栗原秀雄『「あやかし」―宮島町の口頭伝承から―』という世間話(※昔話、伝説に対する世間話)に関する論文が収録されている。何でも「あやかし」と呼ばれる正体不明の怪異が起きるらしい。厳島合戦で滅んだ陶晴賢配下の武将の亡霊だとも言う。宮島は聖域として特殊な歴史・習俗があったそうだが、不思議な話の舞台でもあるらしい。

実は小学生のとき修学旅行で宮島の旅館に一泊している。そのとき不思議な夢を見たのである。

旅館の一室で同級生たちと雑魚寝していたのだけど、夜中に目を覚まして体を起こすと、旅館とは異なる風景が見えていた。何か旧家の一室とでもいうのか、最初は土間のようなものが見えた。それから自分はどこにいるんだろうと思って箪笥に手を伸ばすと、手が箪笥を突き抜けた。

今思うに、何かの記憶に触れているようなものだったのだろう。自分はどこにいるんだと思っているうちに幻影は去った。これはただの夢であるかもしれない。しかし、夢にしては記憶がはっきり残っているのである。また、この不思議な体験をしたからといって、それから何かが起きたということはなかった。

夢というものは見た直後は憶えているけれど、時間が経つとどんな夢を見たのか記憶が薄れてしまう。ただ、この宮島で見た夢は未だにはっきりと憶えている。宮島にはそういうものを呼び覚ます何かが潜んでいるのかもしれない。

◆余談

ちなみに宮島の神様は非常に別嬪だそうである。宗像三女神だからさもありなん。

◆参考文献

・栗原秀雄『「あやかし」―宮島町の口頭伝承から―』「広島民俗」第37号(広島民俗学会, 1992)pp.9-29
・栗原秀雄『宮島の「世間話」(1)』「広島民俗」第62号(広島民俗学会, 2004)pp.18-33
・栗原秀雄『宮島の「世間話」(2)」「広島民俗」第63号(広島民俗学会, 2005)pp.22-41

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2018年1月 7日 (日)

写真はなし

横浜市歴史博物館に行く。仏像(西方寺十一面観音菩薩立像)が良かった。写真撮影は今回禁止だった。

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2018年1月 6日 (土)

幻の演目――広島十二神祇神楽の将軍舞

◆将軍舞

 広島県の十二神祇神楽に将軍舞と呼ばれる演目がある。平たく言うと、破邪の舞である。昔は出雲や石見でも舞ったらしいが現在は消えている。将軍舞は広島県内でも二団体、山口県で一団体しか保持していない幻の演目である。また、神がかる演目としても将軍舞は貴重なものである。

 石塚尊俊「西日本諸神楽の研究」によると、中国・四国・九州地方の神楽は最後の段の最も重要な演目として「岩戸」を目標とする神楽、五行神楽(五郎王子)を目標とする神楽、そして「将軍」を目標とする神楽とに大別されるとしている。

 石見神楽は「岩戸」で初めて「五神」で締めるので、五行神楽を目標とする神楽に分類される。一方、広島県の十二神祇神楽では「王子」(五郎王子)を舞った後で、最後の段として「将軍」を舞う段取りとなっているようだ。将軍舞は南九州にも分布しているとのことで、古くに伝播したことが窺える。

 また、東日本では「大宝」「大豊」という神楽の演目が広島の将軍舞の詞章と一部重なっていて、それらの神楽でも神がかりがあったのではないかと窺わせる内容となっている。

◆阿刀神楽

 広島県安佐南区沼田町阿戸の阿刀神社では十二神祇の演目として「将軍舞」が保持されている。将軍と太夫が出て舞い、クライマックスになると弓を採って舞う。将軍が四方を射ようとするが太夫が「青帝青竜王の御座所にて弓々かないません」と制止する。同様に「赤帝赤竜王の御座所にて弓々かないません」「白帝白龍王の御座所にて弓々かないません」「黒帝黒竜王の御座所にて弓々かないません」と制止する。そして中央でも「黄帝黄龍王の御座所にて弓々かないません」と制止する。弓矢を放つことを制止された将軍は射ることが出来ず狂い舞いとなる。そこで太夫が「これより北に当たって一寸四方の穴があり、それにデツイツという鬼がいる。将軍大王には、それに弓を放し給え」と言って将軍が弓を射る。天蓋につるした米袋に命中すると、将軍は神がかる……という内容である。ただし、神がかるが、託宣は行われないとのことである。

 五方が示され、青帝青竜王・赤帝赤竜王・白帝白龍王・黒帝黒竜王・黄帝黄龍王の名が見えることから、陰陽五行思想の影響が窺われる。北に当たってというのは丑寅(うしとら)の方角と思われる。丑寅の方角にいる鬼を射て、封じるのである。

 将軍の行ないは「小弓遊び」と「宝遊び」とされ、「小弓遊び」は弓矢を丑寅(うしとら)の方角に放って鬼を封じること、「宝遊び」は米袋をついて神がかることである。なお、阿刀神楽の将軍舞は詞章が大部分失われていて、20分程で舞い終える簡略化した内容となっている。つまり、将軍とは何者か人物像が明らかでないのである。

◆正行本

 三村泰臣「将軍舞考―安芸の十二神祇の世界―」に筒賀村の大歳神社(筒賀神社)に所蔵される「正行本(しょうぎょうぼん)」の内容が収録されていた。現存する最古の詞章と思われる。こなれない訳であるが、以下の通り要約してみた。

『諸正行大全』将軍

○明ぼのに 〃 〃 将軍兄弟請じよう。所賢めに宝遊びしよう。

○明ぼのは 鶴の羽にこそさも似たり 皆元白になると思えば。

○今日の日はさも照り良さげな朝日から雲を計り指に栄えて。

〇抑(そも)そも天大将軍殿と申すお方は過去の崇宝元年丙寅(ひのえとら)年閏(うるう)三月の初三日丙寅の日の寅の時にお誕生した。

○ご誕生ならせた事、幼名をば徳達童子と申し上げる。三歳のお歳から弓矢の家を賜り、七歳の春の頃、小弓遊びのご宣旨を蒙って、先宝殿の小庭の下で柳の落葉を的に立て、五百に一矢も流れ矢がなかった。大王はこれをご覧になって、烏帽子の着替え袴の蹴まわし賢く仁に優れ抜きんでた容貌の男子といって、鉄の的を四寸二分に七重に立たせて、土神の方に神通の鏑矢を打ち食わせ、悪鬼を引きつけ放さなかったことこそ、東の洲に風吹けば南の洲も旗が揺るぐ、西の洲に風吹けば北の洲の旗揺るぐ、旗揺るぐのが浚う波を立てて居ます。

〇扨(さて)十三歳の春の頃、矢房の陣に赴いて、鎧の袖に矢を負って、名声を極め、やがて元服された事、矢房七郎殿と申す。所領として豊葦原の国を賜って、今天大将軍として現れ給う。事も愚かや恐れあり、名乗りは佐々井中将則行とは申す。

〇所こそ所こそ久敷(奇しく)いまして空は晴れて地には萬のさ米降るさ米降る。

  〇次に衣を取る事

〇秘者の男□□具足取る声宣旨が幾路をイラリヤトンド。

  〇太刀しこ弓取の事

〇弓取りの弓取りの買うべき者は□□□見路と歌って時を告げれば。

〇毘沙の男の好物は鎧腹巻小手弓懸(ゆがけ)尚も男子の好物コイヤ紅綾の丸帯。

〇扨(さて)も天大将軍殿は恐ろしや。四十措いた矛の矢を三十七まで流れ矢なし。残る三筋の矢で我が氏人の悪魔を祓う。

〇鶴亀の鶴亀の踏んで馴らした庭ならば悪魔は寄せじさ米降らしょう。

  次に悪事を打つ事

〇災難を払う弓と矢と悪事を打つや立て方なりか。

〇弓張月にむら雲が引き懸って、夜半には雨が戌亥(いぬい)で降る。

〇夜半に雨は戌亥(いぬい)で降るのが趣きがある。扨(さて)我が朝には降ろうとして秩父の飛ぶスリントという鷹をとって、名づけて左のスガリ(数珠の房)には一道此丸、右のスガリには二道此丸、鈴付けには我が天大将軍殿をお召しになって、日本へ刹那の暇間に打ち渡りなさった。出雲の国の屋内田の庄の枕木の森に岩間が三十尋ばかりあって、その榎の戸襖に落ち着きなさったが、これは分内(境内)が狭いといって、大筑紫肥後の国は葱嶺(そうれい)が嶽、権(ごん)の岩屋にお移りになってから阿蘇の明神とおなりになった。高い処をおましどころと定め、低い所を祓殿と称し、心が晴れた氏子には五色の色で拝見せられて居らっしゃる。心が悪しき参詣者には霞を隔てて拝見せられて居らっしゃる。それ程貴い天大将軍殿をただ今ここに舞い下し申すなり。

〇鶴亀の鶴亀の踏んで馴らした庭なので悪魔は寄せじさ米を降らしょうしょう。

〇我は天大将軍を舞い請けして舞い下し申すこと、皆の知るところか諸領が問い得るか、早々に申し述べよ、祝詞の主よ聞かせ納めよ。

〇次に祝詞

〇抑(そも)そも天大将軍殿と申し上げるのは、過去の崇宝元年丙寅(ひのえとら)の年閏三月初めの三日丙寅の日の寅の時にご誕生なさったと申す。上旬三日は天大将軍殿のお誕生なされたと申す。中旬三日は中大将軍殿がご誕生なされたと申す。下旬三日には地大将軍殿がご誕生なされたと申す。

〇右の祝詞終わりて 次は常の如く述ぶる事

  次にミクマ

〇申したり鶴の声々が様々に申す願いよ叶えます。

〇投げ上げる御久マの米を得る人は命も長く千代をこそ経るだろう。

  次に二道に尋ねる事

〇一道よ聞け、二道よ聞け、今日の程に兵杖と具足を持たせたが、どうして遅く持って参られるか、早々にもたらせよ、天大小弓遊びをしよう。

  二道の答

〇尤(もっと)も天大将軍殿の仰せはそうであるけれども、何ぞや一道や二道めやと卑し気に仰せになるけれども、上旬三日は天大将軍殿のご縁日、中旬三日は中大将軍のご縁日、下旬三日は地大将軍のご縁日、昔は兄弟三人アコダの森の売ったのも、元は一つと申すけれども、浦はチンヂに分かれたと申す旨、声の礫(つぶて)酒杜氏の間男も一度打ち超えて遊ばせよ。

〇実に実に、主は下人(使用人)を敬うとか、下人は主を敬うとか、一道殿よ聞き給え、二道殿よ聞き給え、今日の程、兵杖の具足を持たせたが、何で遅く持って参った哉(かな)。早々に持って参られよ。天大小弓遊びしよう。

  祝詞の主

〇先(ま)ず笠を拝み申し上げると、雨笠日笠と拝み申し上げる。御佩刀(はかせ)を拝み申し上げると、十握(とつか)の剣と拝み申し上げで、御弓(みたらし)を拝み申し上げると、今日参集した衆生の悪事災難を除けばつと拝み申し上げて、本筈(はず)を拝み申し上げれば、二十四の作物の根は深く、葉は広く果実は大磐石の如くに入らばと拝み申し上げる。後に箭竹(やだけ)を拝み申し上げれば、参集した衆生の中を丁シツト合竹と拝み申し上げて、弓もあり矢もあり、早々に小弓遊びしよう。

〇月弓月弓神来(かむらい)板付き弓と矢を取り添えて我が射る矢は鹿の背に立つイラリヤトンド。

〇あらもったいない天大将軍殿、これ東方と申すは甲乙(きのえきのと)の世界、五万五千の神がおわす所、ゆめゆめ叶いますまい。
 南方は六万六千の神 丙丁(ひのえひのと)の世界
 西方は七万七千の神 戊己(つちのえつちのと)の世界
 北方は八万八千の神 庚辛(かのえかのと)の世界

〇あらもったいない天大将軍殿、これ中央と申すは壬癸(みずのえみずのと)の世界九万九千の神のおわす所、しかるに天大将軍殿の方便の弓と神通の鏑矢を打ち食わせて丑とお遊びになれば、天の神を怒らせて大雨などが降り下る様な時は天大将軍殿はどの国におわすか。

〇あらもったいない天大将軍殿、これ上方下界というのは、上一遍は大土公神、下一遍は小土公神、堅牢の地神、見下すとバゴンの魚が地球を背負って伏せて居るが、この魚には鰭(ヒレ)が十二あって、この鰭一つがイタガイキ時でさえ世界は大地震となって動きます。殊(こと)に天大将軍の方便の弓に神通の鏑矢を差し挟んで、丑とお遊びになると、魚が痛さに驚いて、吹き返したならば、天地が打ち返さんその時は天大将軍殿はどこの国におわずか。

〇東に向て放さんとすれば 青竜王イの恐れあり。

〇西方に白竜王、南方赤竜王、北方に黒竜王。

〇中央は雨や風の恐れの為めと申すなり。

〇下界に向けて(矢を)放そうとすれば、上一遍は大土公神、下一遍は小土公神、堅牢の地神、バゴンの魚への恐れの為と申すのである。

〇十五夜の矢立つ処知りたいと弓取り男子が探り教えよう。

〇尤(もっと)も天大将軍殿の仰せはかのごとくであるけれども、これから丑寅(うしとら)の方角に当たって、邪気妖怪が常行して蒼生(人民)の悩みとなるところ、畏(かしこ)くも天大将軍殿の方便の弓に神通の鏑矢を挿し挟めて、落ち着いて打ち下され。

  右 将軍終り

(明治三十六年十月二十二日写、筒賀村梶原神楽本)

三村泰臣氏と谷本浩之氏の双方の資料を参照した。

 正行本によると、天大将軍の人物像が浮かんでくる。幼い時から弓矢が得意で容貌も優れていたとされる。その天大将軍を舞い請け、舞い下すのが将軍舞の眼目なのである。なお、正行本では四方と上下(天地)を除いて弓を射て悪魔を封じる小弓遊びが眼目のようだが、一方で神楽歌に「明ぼのに 〃 〃 将軍兄弟請せばや 所賢めに宝遊びせう」「なげ上ぐる みくま(御久米)の米を得る人は 命もながく千代をこそそへん」とあり、宝遊びのモチーフも見てとることができる。

◆原十二神祇

 三村泰臣「将軍正行―山県郡筒賀村梶原神楽将軍祭文―」と「神がかる神楽と十二神祇の将軍舞」に廿日市市の原十二神祇の「天だい将軍」の報告がなされている。それによると将軍舞の詞章が充実しており、舞も一時間以上に渡る長大な舞となっている。花舞・刀舞・弓舞と続けて舞われ、弓舞では「木の謂れ」「将軍の謂れ」「弓の謂れ」「十二神祇の謂れ」が語られる。そして最後の宝遊びでは米袋を矢で射るのではなく、五方に吊るした米袋を矢の筈(はず)で突く。まず四方の米袋から突き、最後に中央の米袋を突いて神がかるとされているのが特徴である。
刀舞
それ東方に七万七千の青き色なるさいのちいちい、さいのはあはあきこしめす、つるぎのさいと参らする、うけ納め給へやよもの神
 それ南方に……(同上)
 それ西方に……(同上)
 それ北方に……(同上)
 それ中央に……(同上)

木の謂れ
しかればそもそも、それ西天竺せんぽうとうの頂には、トチラ様と申す木一本候えば、
東方に向いたる枝もあり、南方に向いたる枝もあり、西方に向いたる枝もあり、
東方に向いたる枝にこそ、青き木の芽が芽ぐみ、青き花も咲く、同じ色なるこの実がのるによってこそ、東方は春の草木をひょうするなり
 南方に向いたる枝にこそ、……
 西方に向いたる枝にこそ、……
 北方に向いたる枝にこそ、……
 中央に向いたる枝にこそ、……
 中央は四期の土用をひょうするなり。

将軍の謂れ
そもそも天だい将軍の御事を申し奉るは愚かなり、申さぬはさすがなり、御腹にまします時は、マナ王御前と申すなり、御誕生となりては、ミタラ王御前と申すなり、今七歳にハヤ王と申し、たかにめざして、日本筑紫の国、肥後の御山に、とみ給いしその時に、
左の鈴つきには、いちぞうこのまるに奉り、右の鈴つきには、にぞうこのまるに奉り、中央の鈴つきには、天だい将軍殿に奉り、筑紫の国、肥後の御山をば、とみさか山とは、ひょうすなり。

弓の謂れ
しかればそもそも、それ西天竺センポウトウの頂には、竹のしゃしめに候らえば、これを一本切りて、ひちふしゃかりにこめ、弓七丁を作らして給いてます、
二丁御弓をば、いちぞうこのまるに奉り、また二丁御弓をば、にぞうこのまるに奉り、のこる三丁御弓をば、
八人張り二本さんさんくどとこのまし給いてます、天だい将軍殿に奉る。

十二神祇の謂れ
只今御たろうじの、御弓と申し奉るは、たやすからぬ御事なり、
是をわすより拝み奉れば、たいそんかい五百よそんうらわすより拝み奉れば、ぜんごう回七百よそん、三まいあわせにする事は、三種の神器をひょうするなり、今十二の舞たるは、天地七代地神五代、合わせて十二神器をひょうするなり。
東方に向いて矢を張れば、東方は青竜王の御座所。
天に向いて矢を張れば、天には天王の御座所。
地に向いて矢を張れば、地には地神五代の御座所。
是より{亥子|いのこ}に当たって悪魔祓いのはなしける。

三村泰臣「将軍正行―山県郡筒賀村梶原神楽将軍祭文―」22-25P
 また、三村泰臣『安芸の十二神祇と「将軍舞」』では廿日市の原十二神祇だけでなく、佐伯郡湯来町打尾谷の打尾谷十二神祇の詞章が比較対象として掲載されている。

◆神がかり

 明治期に神職演舞禁止令が出て、神職が神楽を舞うことは禁止された。また、それに伴う神がかりも禁止された。それが広島の十二神祇神楽を保持する団体で将軍舞を保持する団体が二団体しかない理由と思っていたが、実は将軍舞は「死に入り」とも呼ばれる危険な舞だったので廃れていったとのことである。
 たとえば、広島市沼田町の阿刀(あと)神楽の場合でいうと、(中略)そして最後には将軍の狂い舞になり、とど、天蓋に吊り下げた米袋を突く。そうすると将軍はとたんに倒れて失神するが、これを「死に入り」というのである。しかし、ここではそれによる託宣はない。つまり失われている。けれども、こうして大切な大尾におかれているからには、もとはおそらく託宣もあったに違いないと思われる。
石塚尊俊「西日本諸神楽の研究」210-211P
 石塚は将軍舞にも託宣があり、やがて廃れたと考えているが、一方で、三村泰臣氏は神がかりの意図について異なる見解を述べている。
 この「将軍正行」の全文から、将軍舞は天蓋の米袋を突いて神がかる舞ではなく、諸悪を弓に引きつけ、その諸悪を悪魔の居場所で放逐するための舞であったと考えられる。したがって、将軍舞の神がかりは、諸悪を解き放つために要請された神がかりであったということになる。このことから、将軍舞の神がかりの意図は、憑依によって神からの託宣を得ることではなく、むしろ脱魂して諸悪を封殺・鎮送することにあったのである。
三村泰臣『安芸と周防の「将軍舞」―神楽における神がかりの意図をめぐって―』21P
 悪の力は人間の能力を超えて凄まじいものである。この力に対し共同体を守るには、神の託宣による安心を獲得するよりも、悪の力を現実的に阻止することが先決である。それは、通常の人ではなく、神がかり超自然の力を獲得した者にのみ可能であった。将軍は弓を採って激しく舞うことで一気に神がかり、悪に対峙できる特別の力を獲得し、諸悪の根源を弓の威力で放逐したのである。安芸十二神祇の将軍舞の神がかりは、託宣を目的にしたことを示すものではなく、それとは異なる目的の神がかりが存在することを明白に示している。
三村泰臣『安芸と周防の「将軍舞」―神楽における神がかりの意図をめぐって―』22P
 石塚は将軍には元々託宣があったと見ているが、三村氏は神がかりに託宣以外の役割を認め、人が超自然の力を得て悪を封じるという風に解釈している。

 なお、文化庁の「五島神楽 調査報告書」によると、長崎県の五島列島の上五島神楽にも神がかりする将軍舞があり、託宣は伴わないとのこと。

◆作られる神

 井上隆弘「神楽における死霊祭祀」、梅野光興『いざなぎ流「神楽」考―米とバッカイを中心に―』では以下のように述べられている。
 これについて梅野光興は次のように指摘している。すなわち天臺将軍は「あらかじめ舞台の袖で衣装を着て舞台に登場するのではなく、観客の目の前で衣装が整えられていくのだ。これは「太夫」が「将軍」という神を作り上げていることを見せる演出だと思う。」「最後の弓のくだり」においては「将軍の働きは太夫によってコントロールされている」。「つまり、将軍は太夫が神楽の舞台に人工的に作り出した「神」であり、大夫の指令によって敵に攻撃を加える武器なのだということがわかる」。
井上隆弘「神楽における死霊祭祀」23P
 作られる神、太夫の指令によって敵に攻撃を加える武器という解釈が興味深い。超越神的性格を持っているとしている。

◆全国の神楽

 本田安次「日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」を読んで、悉皆調査ではないので漏れはあるけど、全国の詞章を読んで、例えば広島県の「将軍」は九州では「弓将軍」「荘厳」などというタイトルとなっていた。ただし、唯一神道流に改訂されていたのが多かった。「荘厳」の様に二人の将軍が登場する舞だと櫛岩窓命、豊岩窓命と解釈されているものもあった。東日本でも「大宝舞」「大豊之次第」とタイトルは異なるものの、広島の阿刀神楽と同じような詞章を確認できるものがあって参考になった。
木曽駒ケ岳神社の太々神楽 長野県西筑摩郡上松町徳原
大寶舞
(前略)
(曾儀[ゾウギ])先づ東方に向て候
(大寶[タイホウ])東方には木の祖(オヤ)句々廼馳之命(ククノチノミコト)の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)さらば南方に向て候
(大寶)南方には火の祖軻遇突智命(カグツチノミコト)の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば西方に向て候
(大寶)西方には金の祖金山彦命の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば北方に向て候
(大寶)北方には水の祖 彌都波能賣命(ミヅハノメノミコト)の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば中央に向て候
(大寶)中央には土の祖 埴山姫(ハニヤマヒメ)命の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば天に向て候
(大寶)天には天津(アマツ)神の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば地に向て候
(大寶)地には地津神(クニツカミ)の御立ち候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)然ば虚空に向て候
(大寶)暫く御待ち候へ虚空には天神地祇八百萬神の御立候へば如何なる悪魔も來るまじ
(曾儀)誠(マッコト)の大寶の神にて座坐さば矢道(ヤミチ)を引て たび給え
(大寶)斯(カカ)る鬼門(キモン)の方より未申(ヒツジサル)を指(サ)して雲の足の早さは是こそ悪魔の通ふなるべし 曾儀の神は未申を射被(イハラ)ひ給え 大寶の神は丑寅の方を天久方にして長く地は直金(アラガネ)にして固く天長地久とつき鎭む
(曾儀)然ば射祓ふ
以上
本田安次「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」pp.364-367
曾儀(ゾウギ)と大寶(タイホウ)との問答で進み、全体としては将軍舞とは異なるが、末のやり取りは広島県の阿刀神楽の「将軍舞」の詞章と被っている。
飯山の太々神楽 長野県飯山市太田
大豐之次第
(前略)
千早振神ノ井垣ニ弓ハリテ 向フ矢サキニ悪魔タマラジ
扨て雅彦ガ持處ノ弓ハ 邪神降伏ノ爲ナリ仍テコノ矢ヲバ東方に向テ放申サン
大豐 先ヅ先ヅ御待候ヘ、東方ハ句々廼馳之命ノ神門ナリ、是則チ萬木ノ祖(ミオヤ)ニシテ、其色青シ、人々在テ肝元(カンゲン)灵神肝目膽腑眼筋爪(カンモクタンフガンキンソウ)ヲ守護シ玉フ、何ゾ弓ヲ曳(ヒキ)、矢を放□(※文字コードに無し)ヲセン、トウトウシリゾキ玉ヘ
双祇曰 然ラバ南方ニ向テ放チ申サンヤ(西方北方中央何レモ同シコトバ也)南ノ色赤シ 人々マシマシテ肝元灵神心火小膓舌血毛ヲ守護シ給フ
西方ハ金山彦命ノ神門ナリ、是則金ノ祖ニシテ、其色白シ、人々マシマシテ肺元灵神肺金大膓鼻皮膚息(ビヒソク)ヲ守護シ玉フ
北方は罔象女命ノ神門ナリ 是則萬水ノ祖ニシテ、其色黒シ 人々マシマシテ腎元(ジンゲン)灵神腎水膀胱耳骨齒(ニコツシ)ヲ守護シ玉フ
中央ハ埴山姫命ノ神門ナリ 是則土ノ祖ニシテ、其色黄ナリ、人々マシマシテ脾(ヒ)元灵神脾土□(月ヘンに胃)腑(ヒドイフ)唇肉乳ヲ守護シ玉フ
双祇曰 天津神ヨリ給所(タマハル)ノ香兒弓羽々矢ハ不順(マツロハヌ)神降伏ノ爲ナリ、然ルニ手ヲ空スル□(※文字コードになし)是レ本意(ホイ)ナキニアラズヤ汝命宣ヲシヘ玉ヘ
大豐 是より艮(ウシトラ)ニアタツテ雲アシノ早(ハヤキ)ヲ不思議ト□(ソかメかノか)射玉ヘ、大豐モロトモ坤(ヒツジサル)ヲカタメ申サン
双祇舞、弓矢ノ作法口傳
大豐杵餂ニテブタイヅケ舞テ納ム
本田安次「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」pp.373-374
双祇と大豐との問答で進み、全体としては将軍舞とは異なるが、末のやり取りは広島県の阿刀神楽の「将軍舞」の詞章と被っている。もしかすると、大宝(大豊)でも、これらの舞の後に神がかり託宣があったのではないかと思わせる詞章の一致である。
銀鏡(しろみ)の神楽 宮崎県西都市銀鏡
式十三番 荘嚴(二人舞)
「弓荘嚴」とも。二人、つまどり、白素襖、赤襷、白袴、股立をとる。矢二本を襷にしばつて背負ひ、左手に弓、右手に鈴をとつて出、地舞を舞ふ。プリント本に「天照大神千箭(ちのり)の□(※革に又)を負ひ玉ふ。豊磐窓命、櫛磐窓命の兩神常に弓箭を帯び、これを荘嚴の神とも云ふ」とあり。次の曲につゞく。
(一)柴荒神(ママ)(天太玉命)
そもそもふぐい二年、かのとの正月九日(元イ)に生れさせ玉ふ天大荘嚴殿とは是也
此の神森羅萬象ことごとくみ前の所爲にあふ。三界の統梁とはわが事ぞかしと申さるゝ神なり。
(二)豊磐窓櫛磐窓命
三月三日に生れさせ玉ふ中大荘嚴殿とは是也
五月五日に生れさせ玉ふ乙大荘嚴殿とは是也。そして荘嚴殿生れ、是(足イ)おち所知らずして、白木の弓とこそやとぎ奉る
龍宮浄土も近くして、蓬來山にあけにける是也
本田安次「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」pp.171-172
〇越後柏崎三島神社の造杵(ツヅキ)(年の神)・大寶(山の神)も舞人同志の問答で、年の神が山の神の名をきき、持物の杵の縁をきゝ、山の神は年の神の名とその持物をきゝ、互に目出度きいはれを語り最後に年の神が四方天地に向つて矢を射ようとするのを、山の神一々その方の守護神あるを注意して鬼神の住家(鬼滿國)の方角を敎え、矢を放たしめる。(資料参照)
西角井正慶「神楽研究」279P

◆鹿児島の将軍舞

 渡辺伸夫「鹿児島県入来神舞資料」「演劇研究 演劇博物館紀要」第14号で紹介された鹿児島県の入来神舞に将軍舞の詞章が残されている。スイという鬼が鬼萬国から来て、月を六つ、日を五つ呑んで喰ったため、今日一つ残ったのを是を呑み喰ったら日本は定夜の暗闇になろうといって五つの剣を投げ、ほどなくスイという鬼の首を打ち落とす……といった内容が最後の段にある。詞章は意味がよくとれない箇所もあるがそれほど崩れていないと言っていいだろう。
笠よ笠よ笠はなそかよ、笠は
(一同より)笠はあれともあれとも、召す人が候半、召す人が候半、将軍殿は此所に座しますける
(二同)立ちよ腹巻腹巻しめり重て当国まで御共申さん、御供申さん、一同殿しかと御坐りまするか。今日将軍殿御縁日出仕を申すに、東の御門より西の御門に光り物がひか々と致しまするを、取りて見ますとまきれなり、将軍殿御宝物そに見賦りて御坐りまする、一同殿御目に掛けて見ましう。
(一同)誠に誠に将軍殿御宝物そに御坐候、先つ二同殿目付よと申す、名を付てみなさい。
(二同)名付る事はなりにく候、去らば一同二同一同に参り、今日御縁日出仕を申すに、御門脇誠に将軍殿御宝物と見申候程に御名をなし候得、
(将軍)将軍の御内に一同二同と久しく召し仕れ、将軍の宝物の名を知らない云われなし、されとも夜も明け日も暮れつくし方の候程に御名を下しなさるゝ何事も天下太平国土安穏敵を平くる具足の鎧。
(一同)さかの野辺行けば見ちけたりとか氏人の太刀
  一同二同問答趣意右同断
(将軍)将軍の御内にくはしやみつからと召く召し仕はれ、宝物の名を知るまい云はれなし、去れとも夜も明け日も暮れつくし方の候程に名を下しなさるゝ何事も天下太平国土安穏敵を平るランバビランバワハット五つの劔。
(二同)雀の羽なれどくわしやどうく矢は、千里も飛び候、萬里も飛び候。
  一同二同問答右左将軍も前回 敵を平くる御ぢうつ
(一同)ちやう々々やなくりさら〃〃(?)てにすてたるはこたかうら
一同二同前に同、将軍同、敵を平くる御ぢうつはつて参らかこ
  将軍舞 弓の手まて終て弓を餅の上に立て曰く
抑も天大将軍の云れを静かに拝奉に事も忝なし、唐土より丑寅に当りて国有、国の名を井万国と申し、国に高さ八万由じゆん、廣さ八万由じゆんの岩屋あり、岩屋に池有り、池の名を峯ちか池と申、池に島有り、島の名を金剛りきじか岳と申す。島に木に有り、木の名を釈千段ときまさしか木と申の彼の木の本の大きなることは、七百五十年に廻り給ふ木なり、彼の木の枝のさつしなることは、三千大千世界に景をさし、彼の木の第一の枝に日羽根を休め給ふ、第二の枝に月羽根を休め給ふ、第三の枝に天下の星の尊の羽根を休め給ふ木なり、彼の木の元に御宮造り岩根の大将軍とて毎日朔日三日を御縁日とし玉ふは是こそ天大将軍の云れなり。
(一同)抑も中大将軍の云はれを委く拝奉に事も忝なし、是より東に根ンが川とて河有り、ぞの口より流れ、ししの口より流れ、亀の口より流れ、丑の口より流れ、馬の口より流れ、青赤白黒黄五つの色に流れたり、彼の川上に武田天王とて王の坐します、御長ケ高さ十六丈、其の腹より産せられしを以て、南海の福将軍と申て、毎月十三日を以て御縁日とし玉へんは、是れこそ中大将軍の云れなり。
(二同)抑も地大将軍の云れを静かに拝奉に事も忝なし、是より東に横手と申す谷有、谷の父の御名はすたま王、母の名はほし大悲、四土用の神とてありしち女人の御子にて候得しが、御長ケ高さ弐十丈、其の腹より産せられしを以て、南海の福将軍と申て、毎月二十三日を御縁日とし給へは、是こそ地大将軍の云れなり。
将軍 こゝをとり直し
 あつさ弓ひかばよひこそちよちよと
 我が氏人の悪し拂はん
扨て一年に一度のをくえほうめい的の貴方を尋ねよ。
(一同)東方 (二同)南方 (一同二同)神師の東方祭文将軍 (一同)西方 (二同)北方 (一同)天 (二同)大地
(一同)天と申すは東方八天、南方八天、西方八天、北方八天、四八三十二天なり、中なるきげん上るい天、山天、川天、年ぶ天、文も天、文珠天、鬼宿京天、天武自在天の眼を見開き候得共、是にも的の貴方有がとう候、
(二同)抑も抑も大地と申すは、五万五千五百五十五部とて、大荒神、小荒神、八尾小荒神、六尾荒神、三宝荒神よな、荒神の眼を見開き候得共、是にも的の貴方は有がと候。
(一同二同一声に)子の方と申す、頭を子の方大将軍で下は人と現し、丑の方と申すは、丑の方大将軍で下は人と現し、寅卯辰巳午未申酉戍亥是皆な子丑と同前に十二方を尋ね候得共、是にも的の貴方有かと候。
(将軍)一年に一度のをくえのほめいに的の貴方のあるまい云れない、能く尋ねよ。
抑も昔は月七つ日七つを以て、日本を照し玉ふ、鬼萬国よりすいと云ふ鬼来て、月六つ日(「五」脱か)つを呑み喰ひ候、今日一つ残りしを、是を呑み喰はんば、日本は定夜の暗とならんとて、太刀劔小刀劔をンバビランバワツトテ五つの劔を五方に投けさせ給へば、ほどなきすヰと云鬼の首を打ち、片眼を取ては今月の天大将軍の奉射の的と表す、片眼を取りては正月七日の御鏡と表す、面の皮をはいては三月三日の草の餅と表す、たつさを取りては五月五日の棕と表す、ナツキを取ては奈良の東大寺の鐘と表す、からだを取ては炭に焼しゆみ頂上に置き候得、ソゝ五万風ばつと吹き来て山に吹入候得は、虎狼と成て人を害す、海に吹入候得は、鰐鯨しやち矛と成りて人を害す、野に吹き入候得は、あぶかはちかと成りて人を害す、人の家の内に吹き入れ上は、ノミ床虫と成て人を害す、掛かる悪たう深き鬼の出入方なれば、是より丑寅に當て、とう針のみにすわほとあきて候、是の的の貴方遊そはれ候得。
渡辺伸夫「鹿児島県入来神舞資料」「演劇研究 演劇博物館紀要」第14号(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館, 1991)pp.69-71
※カタカナをひらがなに変えた。

 69Pには「御伽草子風な物語の展開である」とした要約が載っているが原文は載っていない。

◆椎葉神楽

 宮崎県の椎葉神楽にも将軍舞があり、多くは「森」という。弓通しという信仰行事があって、舞子二人が向きあって坐し、弓をつき立てて互いに相手の弓弦を引っ張り合って輪形を作る。この弓輪の中を幼児や赤児や祈願者をくぐらせる。弓をくぐり抜けることで災厄を祓うという。また椎葉神楽の将軍舞には御酒の宝渡しがあるといった特徴がある。太夫が先地の舞子に焼酎を渡すと、舞子はそれを矢とともに道化の衆に渡す。お宝の焼酎は道化の衆が飲む……といった内容である。

◆動画
 Youtubeで「将軍舞」で検索したところ、幾つかの動画がヒットした。高鍋神楽は宮崎県のもので少年二人が舞うもの。安居神楽は高知県のものだった。いずれも神がかりはしないが、安居神楽では弓くぐりの所作が見られた。弓くぐりは弓を女陰と見立てると、生を受け誕生~生まれ変わりを象徴する所作だったか。ソースが見当たらず
 将軍と云う曲目は西日本では広い範囲にあって、神がかりする処もあり、又、将軍弓くぐりと称し、この弓をくぐることによって生まれ浄まわりする意味もあった。
牛尾三千夫「神楽と神がかり」504P

◆余談

 将軍舞の存在を知ったのは石塚尊俊「西日本諸神楽の研究」を読んでだった。将軍舞に関しては未見であり、今書くべきではないのかもしれないが、日帰り旅行がせいぜいの性分でもあり、参考文献一覧だけでも示す意義があるのではないかと考えた。ほとんどが三村泰臣氏の論文である。石塚尊俊の弟子筋に当たる谷本浩之氏は将軍舞に関して原稿用紙300枚もの論考を執筆したとのことであるが(一冊の本となるボリュームである)、未発表である。時代が時代だし、インターネット上で発表しても良いのではと思うのだが。

 谷本浩之「将軍という名の神楽考序説」を読み返したが、広島だけでなく九州の将軍舞にも目を配っていて、主な論点はここで出ているのではないかと思う。僕個人の考えというのはほとんど無いに等しい(将軍と大豊の関係についてはネットで一番乗りだろう)、その意味で研究者が開拓した跡を辿っているだけだが、将軍舞の詞章を現代語に訳してみた意義はあるのかなと思う。詳しい内容は論文で読めばよいが、テキストの持つ魅力をネット上で訴求できれば意義があるかもしれない。

 民俗芸能研究27号に正行本の詞章が収録されているのだけど、国会図書館ではデジタル化されていて、図書館内のパソコンで見る分にはいいのだけど、コピーすると解像度が低く、スキャナで取り込んでも解像度が粗く、判読しづらい文字がある。東京都立多摩図書館で民俗芸能研究27号が所蔵されているので、それで直接コピーした方が結果的に良かった。

※正行本の詞章を掲載したのは、谷本浩之「将軍という名の神楽考序説」の方が先である。

◆参考文献

・「西日本諸神楽の研究」(石塚尊俊, 慶友社, 1979)
・「中国地方 民間神楽祭祀の研究」(三村泰臣, 岩田書院, 2010)
・「椎葉神楽発掘」(渡辺伸夫, 岩田書院, 2012)pp.364-395
・谷本浩之「将軍という名の神楽考序説」「神楽と風流 山陰民俗叢書9」(山陰民俗学会, 島根日日新聞社, 1996)pp.24-38. ※正行本所収。

・三村泰臣「安芸十二神祇神楽―阿刀神社と伊勢神社神楽―」「民俗芸能」87号(日本青年館公益事業部/編, 2006)pp.40-53
・三村泰臣「安芸と周防の『将軍舞』―神楽における神がかりの意図をめぐって―」「山岳修験 第32号 修験と芸能特集」(日本山岳修験学会, 2003)
・三村泰臣「神がかる神楽と十二神祇の将軍舞」「広島民俗」第47号(広島民俗学会, 1997)pp.1-13
・三村泰臣「将軍正行―山県郡筒賀村梶原神楽将軍祭文―」「広島民俗」第48号(広島民俗学会, 1997)pp.15-25
・三村泰臣「五日市十二神祇」「広島民俗」第52号(広島民俗学会, 1999)pp.10-20
・三村泰臣『「昼神楽」の形式とその意図―山県郡戸河内町大歳神社の事例から―」「広島民俗」第53号(広島民俗学会, 2000)pp.10-18
・三村泰臣「阿戸の十二神祇」「広島民俗」第29号(広島民俗学会, 1988)pp.8-15
・三村泰臣『安芸の十二神祇と「将軍舞」』「日本民俗学」213号(日本民俗学会, 1998)pp.130-145
・三村泰臣「将軍舞考―安芸の十二神祇の世界―」「民俗芸能研究」27号(民俗芸能学会編集委員会/編, 民俗芸能学会, 1985)pp.1-21. ※正行本所収。
・三村泰臣「筒賀・大歳社の神楽」「広島民俗」第55号(広島民俗学会, 2001)pp.6-15
・吉本由梨香「広島市佐伯区湯来町を中心とした『十二神祇』神楽の特徴について」「帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要 第16号 赤田光男教授退職記念号」(帝塚山大学, 2014)
・渡辺友千代「十二神祇神楽考」「広島民俗」第9号(広島民俗学会, 1978)pp.26-35
・三村泰臣「大竹市の神楽」「広島民俗」第58号(広島民俗学会, 2002)pp.26-36
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」(本田安次, 錦正社, 1994)pp.26-28 「六将軍」pp.37-38「二弓舞(六将軍舞)」p.137「弓神楽(二人舞)」pp.153-154「弓の手神楽」pp.171-172「荘厳」p.199「衣笠荒神問答」p.209「弓将軍の歌」p.213「注連荒神問答」pp.220-221「将軍」pp.251-252{将軍」p.257「第拾五 四ツノ事」pp.313-314「澳江ノ御前ノ腰懸けノ石」pp.364-367「大宝舞」pp.372-374「大豊之次第」
・「神楽研究」(西角井正慶, 壬生書院, 1934)
・渡辺伸夫「鹿児島県入来神舞資料」「演劇研究 演劇博物館紀要」第14号(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館, 1991)pp.63-107
・井上隆弘「神楽における死霊祭祀―山口県山代地方の山鎮神楽について―」「佛教大学総合研究所共同研究成果報告論文集」6号(佛教大学総合研究所, 2018)pp.17-34
・梅野光興『いざなぎ流「神楽」考―米とバッカイを中心に―』「神楽と祭文の中世―変容する信仰のかたち―」(斎藤英喜, 井上隆弘, 思文閣出版, 2016)pp.257-283
・「椎葉神楽発掘」(渡辺伸夫, 岩田書院, 2012)

・文化庁「五島神楽 調査報告書」

◆正行本の本文

 以下、三村泰臣「将軍舞考―安芸の十二神祇の世界―」に収録された『諸正行大全』将軍舞の原文を掲示する。なお、カタカナはひらがなに修正した。
『諸正行大全』将軍

〇明ぼのに 〃 〃 将軍兄弟請せばや 所賢めに寶遊びせう

〇明ぼのは 鶴の羽こそさも似たり 皆本白になると思へば

〇今日の日は さも照りよげな朝日から 雲を計りに指にさかえて

〇抑も天大将軍殿と申奉るは 過にし崇寶元年丙寅年閏三月初の三月丙寅日の寅の時にぞ御誕生

〇御誕生ならせ給事 幼名をば徳達童子と申す 三歳の御歳より弓矢の家を給はりて 七歳の春の頃小弓遊びの宣旨をかうむりて 先寶殿の小庭の本にて柳の落葉を的に立て 五百矢に一矢も流失なし 大王は是を御覧じて烏帽子の着替袴の蹴まわし賢仁異相の男子にて御座す 鐵の的を四寸二分に七重に立てさせ給ひて 土神の弓に神道の鏑を打くわせ 悪鬼を引き付け放させ給へばこそ 東州に風吹かば南州に簱ゆぐる 西州に風吹がは北州に簱ゆぐる 簱ゆぐるがざらねばささら波立御座す

〇抑も十三歳の春の頃 矢房の陣へおも向き給いて 鎧の袖に矢を負ひ玉ひて高名を極め やがて元服ならせ玉ふ事 矢房七郎殿とは申すなり 一処領には豊葦原の国を給て 今天大将軍殿と現じ給うなり 事もおろかや恐れなり 名乗りは佐々井中将則行殿とは申すなり

〇所こそ 〃 〃 久敷御座空晴て 地には萬のさ米降 〃 〃

 次に衣を取る事

〇秘者の男が 具足取るまえせんじがいくろう いらりやどんど

 次に太刀次にしこ次に弓

〇弓取の 〃 〃 カフべき物は口ヨ 可見路と歌とて時を告れば

〇毘沙の男の好物 鎧はらまきこてゆがけ 尚も男子好物 こいや紅いやあの丸帯

〇抑も天大将軍殿は恐や 四十措いたるほこの矢を 三十七口流矢なし 残る三節の矢を以て我氏人の悪魔拂おふ

〇鶴亀の 〃 〃 跡てならした庭ならば 悪魔はよせじさよ子降らせう

 次に悪事を打つ事

〇災難拂ふ弓と矢と 悪事を打つや立方なりや

〇弓張の 〃 〃 月に村雲引き懸て 夜半に雨は戌亥でぞふる 夜半に雨は戌亥でぞ降る面白し 扨(さ)て我朝え降り給はんとてちゝぶのとぶすりん云ふ鷹を取り 名付給ひて 左のすかりに一道此丸 右のすがりに二道此丸 鈴付には吾天大将軍を召給ひて 日本へはせつなが間に 打ち渡り給ふなり 出雲の国屋内田の庄枕木の森に岩間三十尋計なる榎のとぶすに落付き給ひしが 是は分ないせまきとて 大筑紫肥後の国そをれいが竹 權(かり)が岩屋に問ひ移り給いてこそ 安蘇の明神とはなり給ふなり 高き所おば御座処と定め 低き処をは祓殿とせうし 情心清くして参る氏子には五色のいろにて拝まれ御座す 情心悪敷して参る氏人には霞を隔て拝まれ御座 程貴き天大将軍殿を只今此所に舞下申すなり

〇鶴亀 〃 〃 跡みてならした庭ならば 悪魔はよせじさよね降らせう

将軍殿の御供 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

 次に弓くぐりの事

〇我天大将軍を舞請し舞下事 諸知か諸領か問い得か 早々申候えや 祝詞の主聞や納め

 次に祝詞

〇抑も天大将軍殿と申奉は 過にし崇寶元年丙寅の年閏三月初めの三日丙寅の日の寅の時にぞ御誕生ならせ給ふと申すなり 中旬三日は中大将軍殿の御誕生ならせ給ふと申すなり 下旬三日は地大将軍の御誕生ならせ給ふと申すなり

〇右の祝詞終わりて 次は常の如くのふる事

 次にみくま

〇申たり 鶴の聲々様々に 申す願や叶へまします

〇なげ上ぐる 御久まの米を得る人は 命もながく千代をこそそへん

 次に二道に尋ぬる事

〇一道めや聞け 二道めや聞け 今日の程の兵杖に具足を持せるが 何とて遅く持て参りて候や 早々持て参て候や 天大小弓遊びせう

 次に二道答え

〇抑も天大将軍殿の仰は然も候得供 何ぞや一道や二道めやといやしげに仰せ候得供 上旬三日は天大将軍の御縁日 中旬三日は中大将軍の御縁日 下旬三日は地大将軍の御縁日 昔は兄弟三人あこだの森のうりつるも 本はひとつと申せども 浦はちんぢに別れたと申むね 聲のつぶてさかとうじの間 男も一度打こへて遊ばせ

〇実に々 主は下人を敬ふとかや 下人は主を敬ふとかや 一道殿や聞き給え 二道殿や聞き給へ 今日の程の兵杖の具足を持せつるが 何にとて遅く持て参りて候や 早々持て参られ候へや 天大小弓遊せう

 是は二道答え

〇先御笠を拝み奉れば 雨笠日笠と拝み奉りて候 御はかせを拝み奉れば 十握の剣と拝み奉りて候 御たらしを拝み奉らば今日の参衆の悪事災難除けはつと拝み奉りて候 本はづを拝し奉らば 二十四の作物の根は深く 草は廣く 実は大磐の岩の如に入りはつと拝み奉りて候 後箭竹を拝み奉れば 参衆の中を丁っしつと合竹と拝み奉りて候 弓もあり矢もあり 早々小弓遊びせう

〇月弓 〃 〃 かむらいたつき 弓と矢を取り添て 吾がいる矢は鹿のせにたついらりやとんど

 次に二道

〇 あらもつたない天大将軍殿 是東方と申すは甲乙の世界 五万五千の神の御座所 ユメユメ叶ひますまい

 南方は六万六千の神 丙下
 西方は七万七千の神 戌巳
 北方は八万八千の神 庚口

〇あらもつたいない天大将軍殿 是中央と申すは壬癸の世界 九万九千の神の御座処 然る天大将軍殿の方便の弓神通のかぶら矢を打ち食はせて うしと遊ばせ給へば 天神いからせ給いて大雨など降り下らん時は 天大将軍殿何処に御座か

〇あらもつたいない天大将軍殿 是上方下界と申すは 上一偏は大土公神 下一偏は小土公神 けんろうの地神 其下にはばごんの魚が地球を負ひて伏居が 此の魚に鰭(ひれ)が十二候が この鰭ひとついたがいき時さへ 地震となつて動き候 孫に天大将軍の方便の弓に神通のかむら矢をさしはさめて うしと遊ばせ給へば 魚がいたさにおどろきて服返したらば 天地と打ちかえさん時は 天大将軍殿 何國に御座すか

〇東に向て放さんとすれば 青竜王いの恐れあり
 西方には白竜王
 南方には赤竜王
 北方には黒竜王
 中央は雨や風の恐の為めと申すなり

〇下界に向て放さんとすれば 上一偏は大土公神 下一偏は小土公神 賢ろうの地神 ばごんの魚えの恐の為と申すなり

〇十五夜の 矢立処は知りたれど 弓とり男がさぐり教へん

〇尤も天大将軍殿の仰はしかも候得供 是より丑寅に当り 邪気妖怪者常にひ行して 蒼生をなやみ候処 恐こしも天大将軍殿の方便の弓に神通の鏑をさしはさめ しつとりてうと打て下され候へ

 右将軍終り

◆試みに訳す

 以下、『諸正行大全』将軍を現代語に訳してみたものを掲示する。詞章が難解で訳がこなれていない、呪文など能く訳せない部分が多々あるが、参考までに。
『諸正行大全』将軍

〇明ぼのに 〃 〃 将軍兄弟請せばや 所賢めに寶遊びせう

〇明ぼのは 鶴の羽こそさも似たり 皆本白になると思へば

〇今日の日は さも照りよげな朝日から 雲を計りに指にさかえて

〇そも天大将軍というお方は、崇宝元年丙寅(ひのえとら)年閏三月初の三月丙寅日の寅の時にぞ御誕生された。

〇ご誕生になった事、幼名を徳達童子という。三歳から弓矢の家を賜って、七歳の春の頃、小弓遊びの宣旨を受けて、先宝殿の庭で柳の落葉を的にして、五百に一矢も流れ矢がなかった。大王はこれをご覧になったが、先宝殿の烏帽子に袴のすそまわり賢く情け深い並みとは違った容貌の男子でいらした。鉄の的を四寸二分に七重に立て、土神の弓に神道の鏑矢を射て、悪鬼を引きつけ放さなかった。東州に風吹かば南州に旗ゆぐる、西州に風吹がは北州に旗ゆぐる、旗がゆぐらねば波が立つ。

〇そも十三歳の春の頃、矢房の陣へ赴いて、鎧の袖に矢を負って、高名を極めて、やがて元服した。矢房七郎という。所領には豊葦原の国を賜って、今天大将軍として現じなさった。畏れ多い。名乗りは佐々井中将則行殿という。

〇所こそ 〃 〃 久敷御座空晴て 地には萬のさ米降 〃 〃

 次に衣を取る事

〇秘者の男が 具足取るまえせんじがいくろう いらりやどんど

 次に太刀次に司皷(?)次に弓

〇弓取の 〃 〃 買う(?)べき物は口ヨ 可見路と歌とて時を告れば

〇毘沙の男の好物 鎧はらまき小手(?)ゆがけ 尚も男子好物 こいや紅いやあの丸帯

〇そも天大将軍殿は恐ろしや、四十措いた鉾(?)の矢を 三十七口流れ矢なし、残る三本の矢で氏人の悪魔を祓おう

〇鶴亀の 〃 〃 跡てならした庭ならば 悪魔はよせじさよ(小夜か?)子降らせう

 次に悪事を打つ事

〇災難を祓う弓と矢と 悪事を打つのは立方(能のシテ、ワキなど)であるか
〇弓の弦を張ったような月にむらがり立つ雲が懸かって、夜半には雨は戌亥(いぬい)の方角で降る。夜半には雨は戌亥の方角で降るのが趣がある。さて我が朝へ降るとて秩父の飛ぶスリンという鷹をとって、名づけて、左の数珠の房には一道此丸、右の数珠の房には二道此丸、鈴には自分こと天大将軍をお召しになって、日本へは刹那のあっという間にお渡りになった。出雲の国の屋内田の庄の枕木の森には三十尋の岩間があるその榎の戸襖に落ち着いたが、これは境界の内が狭いといって、筑紫肥後の国は葱嶺(そうれい)の竹、權(かり)の岩屋に問いお移りになって安蘇の明神となった。高い所をおましどころと定め、低い所を祓殿とし、慈悲心が清いお参りする氏子には五色の色で拝まれる。慈悲心が悪しき氏人には霞を隔てて拝まれる。それ程貴い天大将軍をただ今ここに舞い下すなり。

〇鶴亀 〃 〃 跡みてならした庭ならば 悪魔は寄せじさ米(よね)降らせう

将軍殿の御供 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃

 次に弓くぐりの事

〇我、天大将軍を舞い請けして舞い下すこと、皆の知るところか問い得るか、早々に申し述べよ、祝詞の主よ聞き納めよ

 次に祝詞

〇そも天大将軍とは、昔、崇寶元年丙寅の年閏三月初めの三日丙寅の日の寅の時にご誕生なさったという。中旬三日には中大将軍がご誕生なさったという。下旬三日には地大将軍がご誕生なさったという。

〇右の祝詞終わりて 次は常の如く述ぶる事

 次にみくま

〇申したり 鶴の声々様々に 申す願や叶へまします

〇なげ上ぐる みくまの米を得る人は 命もながく千代をこそそへん

 次に二道に尋ぬる事

〇一道よ聞け、二道よ聞け、今日の程、兵の杖に具足を持たせるのは、どうして遅く持って参るか、早々に持って参れ、天大小弓遊びをしよう。

 次に二道答え

〇そも天大将軍殿の仰せはそうであるけれども、どうして一道や二道やと卑し気に仰せになるけれども、上旬三日は天大将軍のご縁日、中旬三日は中大将軍のご縁日、下旬三日は地大将軍のご縁日で、昔は兄弟三人がアコダの森に熟れた(?)のを、元は一つと申すけれども、浦はちんぢに別れたと申す旨、声のつぶては酒杜氏(?)の間、男も一度打ち超えて遊ばせ

〇実に実に、主は使用人を敬うとか、使用人は主を敬うとか、一道殿よ聞き給え、二道殿よ聞き給え、今日の程、兵杖の具足を持たせたが、何で遅く持って参ったか。早々に持って参られよ。天大小弓遊びしよう。

 是は二道答え
〇まず笠を拝むと、雨笠日笠と拝む。佩刀(はかせ)を拝むと、十握(とつか)の剣を拝んで、御弓(みたらし)を拝むと、今日参集した衆生の悪事災難を除け果てると拝んで、本筈(はず)を拝めば、二十四の作物の根は深く、草は広く、果実は大磐の岩の如くに入り果てると拝んで、後に箭竹(やだけ)を拝めば、参集した衆生の中を丁しつ(?)と合竹と拝んで、弓もあり矢もあり、早々に小弓遊びしよう。

〇月弓 〃 〃 かむらいたつき 弓と矢を取り添て 吾がいる矢は鹿のせにたついらりやとんど

 次に二道
〇あらもったいない天大将軍殿、これ東方と申すは甲乙(きのえきのと)の世界、五万五千の神がおわすところ、きっと叶いますまい。

 南方は六万六千の神 丙(ひのえ)下
 西方は七万七千の神 戌巳(いぬみ)
 北方は八万八千の神 庚(かのえ)口

〇あらもったいない天大将軍殿、これ中央と申すのは壬癸(みずのえみずのと)の神のおわす所、しかる天大将軍殿の弓と神通の鏑矢を打ち食わせて、うし(憂し?牛、丑?)とお遊びになると、天の神がお怒りになって大雨が降ったときは、天大将軍殿はどこにおわすか。

〇あらもったいない天大将軍殿、これ上方下界というのは、上はひたすらに大土公神、下はひたすらに小土公神、その下にはバゴンの魚が地球を背負って伏せているが、この魚にはヒレが十二あって、このヒレが一つ違(たが)う時でさえ地震となって動きます。孫に天大将軍の方便の弓に神通の鏑矢を差し挟んで、うし(憂し?牛、丑?)とお遊びになると、魚が痛さに驚いて、吹き返したならば、天地が打ち返しましょう、その時は天大将軍殿はどこの国におわずか。

〇東に向て放さんとすれば 青竜王の恐れあり
 西方には白竜王
 南方には赤竜王
 北方には黒竜王
 中央は雨や風の恐れの為めと申すなり

〇下界に向けて矢を放とうとすれば、上はひたすら大土公神、下はひたすら小土公神、堅牢地神、バゴンの魚への恐れと申すのである。

〇十五夜の 矢立処は知りたれど 弓とり男がさぐり教へん
〇もっとも天大将軍の仰せはかのごとくであるけれども、これから丑寅(うしとら)の方角に当たって、邪気妖怪が常に空を飛んで(飛行?)人民を悩ましているところ、かしこくも天大将軍の方便の弓に神通の鏑矢を挿し挟め、落ち着いてちょうと射てくだされ。

 右将軍終わり

記事を転載 →「広小路

 

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2018年1月 5日 (金)

抽象的で難解

東京都立多摩図書館に行く。将軍舞の「正行本」が収録された民俗芸能研究27号、コピーできた。余った時間で小松和彦『「伝説」はなぜ生まれたか 』を序章だけ読んで帰る。伝説に関する理論をレヴィ・ストロースの文化人類学等を援用しつつ述べていると思うのだが、抽象的で頭に入らない。

分かり易い本も執筆されている先生なので意外な感があった。学問的に厳密さを求めるとそういう表現に落ち着くのかもしれない。

 

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2018年1月 1日 (月)

依然としてトリックスター 道返しの鬼と荒平

◆道返しの鬼のルーツは荒平

 石見神楽に「道返(ちがえ)し」という演目がある。鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)命が鬼を退治する。鬼は許されて高千穂で米を食い物となせと諭す内容で、鬼が殺されない結末である。鬼の存在感は神々のいたずら者であるトリックスター性をうかがわせる。
石見神楽・道返しの鬼
石見神楽・道返しの鬼、神と対峙
石見神楽・道返しの鬼、降参

 神と鬼の掛け合いが興味深い「道返し」であるが、岩田勝「神楽源流考」によると、主に広島県の十二神祇神楽で舞われる演目である「荒平」(その他、関、柴鬼神など)がそのルーツであるらしい。「荒平」→石見神楽の六調子「鬼返(きがえ)し」→八調子「道返し」と変遷していったとしている。元々はシテ(主役)であった荒平が、時代が下るにつれてワキ役へと転じていき、ワキ役であった法の主が時代が下るにつれて高位の神へと変遷していくのである。

◆荒平舞

 広島県の十二神祇神楽で主要な演目とされている「荒平」だが、これは鬼が日本に攻めて来たのを退治する内容ではなく(※荒平の一人語りで日本は神国なので叶わず降伏したというセリフはある)、死繁昌(しはんじょう)の杖という祝福の杖を携えた荒平が杖を法の主に与えるという、いわば<呪具の贈与>というモチーフを備えた詞章となっているのである。

 荒平が人に似ないのも道理である。数千の角が生え、眼は日月のごとし、鼻は高く、牙は強く舌は長い。荒平の口から吹き出す風はあらゆる世界を吹き回る。丈は一丈五尺。歩くのは風の如くで走るのは稲妻の如し。叫ぶ声は雷が鳴る如しである。山の大王に日本の十二の山を賜った荒平だったが、まどろんだ隙に柴笹を盗まれてしまい、世界中を飛び回って探したが見つからない。日本に戻ってきて、神室(むろ)を見出す。ワキ役である法の主に自らの出自を一人語りする。天竺の王の四人の子息の子供で長男の王子が釈迦であり、末子の末の子であるのが荒平である。釈迦は八万法を得たが、荒平は六万法しか教えられず、残り二万法を教えられなかった。そこで荒神となり、神の使い(ミサキ)となった。大蛇となり鬼となり散々人を餌食にした。四万六千の鬼を連れ、日本の生きとし生けるものを餌食にしようと企んだが、日本は神の国なので叶わなかった。そこで荒平は祝福の杖を法の主に贈与するのである。鬼の持つ宝は五宝六法。一に錦の袋、二に打ち出の小槌、三に沓(くつ)、四に飛ぶ車、五に死繁昌の杖。今夜与えよう。

 岩田勝は荒平舞を荒平型・悪切型・提婆型に三分類している。荒平型は上記に挙げたタイプである。

◆悪切型

 悪切型は出雲神楽などに見ることができる。祝福の杖の贈与というモチーフは失われているが、宝剣を賜って、悪切(悪魔払いの舞)を行なうというモチーフを見ることができる。

 川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」に大田市仙山で舞われている「山の神」に荒平が登場すると指摘している。出雲神楽では山の神、大山祇命が登場するが、仙山神楽では荒平が登場するのである。

 天の岩戸に天照大神が籠ってしまい、天地が闇に閉ざされてしまった。高天原に集まった神々は合議して天香具山から榊を取って来て供えることにする。春日大明神が榊を取りに赴いたが、そこに荒平大明神が現れ、勝手に榊を取るのは誰だと問う。春日大明神は自ら名乗り、それで荒平大明神はかしこまって榊を奉ることにする。春日大明神は宝剣を荒平大明神に与え、荒平大明神は宝剣で悪切をなす……という内容である。
〇悪切
(略)
荒平詞
ああら、尊き御神の御用方かな、我れが謂れを語り聞かさん程に、暫時の間、此の葉(シバ)預け申さん。

是より柴を赦し、神は床几に掛かり、荒平大神前にて扇の曲。

夫れ天の初め地の治りし時、ニ神の御神此土に下り玉いましまして、七神の御子をもうけ玉ふ。我は是の時身七老に当る、荒平大明神とは我が事なり、山の守護主に仕え奉る、其時山を廻る間(ヒマ)もなく、雨風厳しき余り体内苦しさに、あれなる御山(ミセン)にはや上り、壱の榊、壱の枝にと腰を懸けて、手をばをつ天と指上げ、足をば八海にみをろし、少まどろむ其のひまに、峯の榊の枝をば失ひ、其れを尋る処は中国や大国や、三国無事の底(ソコ)までも尋ねたれど更になし。又元の林に立ち返り、四方を勘ずるに於ては、高天の原に於てソウナ、ソウナ、柴さそうなととのたまう声風に靡き、彼の神はあらじと舞かする処、我が耳に入り、是ぞと思ひ急ぎ出て、千里一度に馳りきて、能く見れば香具山の榊に相違あらじ、其の榊の追手に来り、其柴をけをけ。

其時春日立出て


謹上再拝々と敬て申す。当社御神の廣前に於て、七座の神楽を奏じ、時に荒平大明神の御用方こそ尊っとけれ。その柴の換りに此宝剣を授け申さん、是こそ我が験なり。

此詞の切、宝剣を渡し、
荒平大明神の詞

心得申して候。

其時荒平は春日を送り、其後にて悪切をなすなり。

川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」「神楽と風流 山陰民俗叢書9」(山陰民俗学会, 島根日日新聞社, 1996)pp.67-69を参照の上、カタカナをひらがなに修正。

◆提婆型

 四国にも荒平舞の系譜に連なる舞があるが、大蕃、大蛮(だいばん)、大魔(だいま)などと呼ばれている。大抵の場合、五方に悪鬼悪霊を攘う悪魔払いの四天という演目に続いて舞われるとされている。

 鬼は荒平とは名乗らない。提婆(だいば)とか第六天の魔王と名乗る。提婆は提婆達多のことで仏教で生きながら地獄に堕ちた大罪人のことを指しているのだろう。内容はかなり変化していて、祝福の杖を授ける場面が失われているものもあるとのこと。

 なお、井上隆弘「霜月神楽の祝祭学」の注釈では、
 岩田勝氏は、「だいばん」のような「提婆型」は「荒平型」の変種ではないかとしている(同前、八三頁)が、これは逆ではないか。岩田氏には、「荒平舞詞」のような一人語りに終始するものは「託宣型の神楽事」であり、鬼の詞章のもっとも古形を示すという思い込みがあるようである。これについては終章を参照されたい。(198P)
 と岩田勝の論考に批判的な検討を加えている。

 この点については判断しようがないが、「荒平舞詞」が現存する最も古い文献なのでそうしているのかもしれない。「荒平舞詞」では祝福の杖の贈与というモチーフはあるが、杖と宝剣との交換というモチーフは見られない。が、現行の十二神祇神楽では荒平が持つ「死繁昌の杖」と太夫の持つ「あいかわの太刀」を交換するというモチーフが見られる。宝剣を手にした荒平はそれで舞い納める。つまり、宝剣と杖との交換は悪切のモチーフへと繋がるのである。なので、「荒平舞詞」にしても、その時点で宝剣との交換というモチーフが失われている可能性も否定できない。

◆六調子石見神楽

 岩田勝「神楽源流考」では六調子石見神楽として三葛神楽の「貴返(きがえ)し」を挙げている。神はシテ(主役)に変貌し、武甕槌命になっていると指摘している。
「この本(もと)杖持って三度撫づればしつちんなんば(七珍万宝か)、この中杖持って三度撫づれば病気病難平癒し、この裏杖持って三度撫づれば人の繁栄とぐべき杖にて候」(79P)
と祝福の杖を渡す場面は残っている。八調子の「道返し」では祝福の杖の贈与、いわば<呪具の贈与>というモチーフが失われているが、六調子神楽と比較すると、モチーフが失われたのは明治期の詞章の改訂があって八調子となった際と考えられる。他所のブログによると修験色を払拭したとのことである。

※中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」によると邑智郡系の六調子神楽台本と、校訂石見神楽台本のベースとなった那賀郡西部の神楽台本では系統を異にしているとの指摘がある。ここでは比較元は美濃郡の六調子の台本であり、那賀郡の古台本に「道返し」が収録されていないことから断言できないが、明治期の詞章改訂時に祝福の杖の贈与のモチーフが失われたと推定するのは早計であることになる。

 なお、広島の十二神祇神楽では荒平の面は黒色のものを使うが、石見神楽では特に指定がないようである。

◆トリックスター

 岩田は「神楽源流考」で荒平の特徴を以下の様に挙げている(20-21P)。
・人に似ぬ姿
・吹き出す風のすごさ、歩み走る早さ、おらぶ声。
・山の大王から十二の山を領して、安積山の麓にまどろんでいたとき、御柴葉を盗み取られたこと。天竺から日本まで探し廻り、歌の声につれて我が神室なると参ったこと。
・唐土から渡らせ給うた山の大王のこと。
・鹿経王の異種誕生譚。
・兄弟四人の乙子の末のこと。
・釈尊ほどに法を教えてもらえず、荒神、みさき、外道となったこと。
・深沙大王(※西遊記の沙悟浄)さながらに大蛇・大鬼となって人を餌食にしたこと。
・日本をとび廻り衆生を餌食にせんとたくらんだが、ついにかなわず、降伏したこと。
・鈴と申すは仏の御声のこと。
・しはんぢやうの杖のいわれ。
・鬼の持つ宝のいわれ。

以上を挙げた上で、インド神話のクリシュナやギリシャ神話のヘルメスと比較し、荒平のトリックスター性を論証している。トリックスターの要件として

・末子とされていること。
・貴種の出自を持つものとされているが、異常な出生の説話を持っていること。
・手におえない暴れ者で、秩序の攪乱者であること。それはしばしば末子の幼児性(=童子性)としてあらわされる。
・豊かな飛翔能力を持っていること。
・高位の神の使者・手先(みさき・つかわしめ)となって人間の前に訪れ、神と人間とを媒介すること。
・異形で、たいていは黒色であらわされていること。
・蛇に関係があること。
・以上の属性をすべてふまえて、これらのマイナーの神々は、共通して、人間に再生あるいは豊饒をもたらす杖または棒をたずさえて現れる。それによって人間に恩寵をもたらすのである。(30-31P)

 ……とまとめている。祝福の杖の贈与というモチーフは失われたが、八調子石見神楽の「道返し」の鬼も、他所のブログの表現を借りると「ああ言えばこう言う」鬼像なのである。依然としてトリックスター性をまとっている。

◆関山

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」に大元神楽の資料が掲載されているが、その中に「関山」という演目があり、「我天竺に生れ提婆の流を学ひ」(164P,)「我は天竺に生 だいばの流をしたい 法力行力行を積みたる三界無庵の執行者也」(208P)と名乗る僧侶が日本の大天狗と対決する筋立てのものである。提婆の名が見えるのであるが、大天狗が僧侶を引き裂くという結末で、祝福の杖と宝剣の交換というモチーフは見られない。これも荒平の流れを汲むものであろうか。

◆静岡県の田楽

 萩原秀三郎「来訪神と鬼やらい」に静岡県の事例が取り上げられている。
 (略)静岡県水窪(みずくぼ)町の西浦(にしうら)田楽の「翁の宝かぞえ」の詞章のなかに「おなじきついでに鬼の宝をかぞえて参らせふ、鬼がかくれみのかくれ笠、延命小袋、打出小槌」とあって最後に「しはんぜうの杖とか」で鬼の宝ものを締めくくっている。しはんじょうの杖とは死人反生、つまり死からの復活を意図した再生・豊饒の杖である。
萩原秀三郎「来訪神と鬼やらい」「民俗芸能研究」27号(31P)
 ……とあり、静岡県の田楽に鬼の宝として「死繁昌の杖」が登場する。死繁昌の杖は西日本だけのものではないことが分かる。

◆九州の三宝荒神

 荒平だと「三界鬼」「柴荒神問」などというタイトルで荒平が荒神として書き換えられ、神道の由来について神主と問答する、神道の知識を競い合う内容のものとなっていた。神楽歌が一部被っているので、元は荒平だろうと推測できる。「荒平言葉」「御笠問」の様に中には荒平の名が残っているものもある。また、荒神は猿田彦命の化身という解釈もあるようだ。
〇日向高鍋神樂の第七(問舞)と第八の(節舞)は一連の種目で、問即、神主が祭りをしてゐる處へ節が現れる。神主がその名を問ふと「神に大ばのみさき、佛に伽藍のみさき、八萬四千剣のみさきを現ずる三寶大荒神」だと名乗り、次々に神主が鳥居、地神五代の根源をきく。荒神は一々説明するが、實は神を困らせて容易に許さない。神楽をつとめると言ふので立去る。神主が荒神の杖を乞ふ。此も仲々許さないのであるが、氏子の守りにする爲といふので授けてゆく。(資料参照)。
西角井正慶「神楽研究」279P

◆荒平舞の詞章

 岩田勝「神楽源流考」に収録された壬生井上本「荒平舞詞」を校定したものを以下に要約してみた。

 さて荒平を鹿(しし)かと見ても鹿でもないし、青黄赤白黒、五畜五行の色でもなく動くけれども人にも似ていない。

 人に似ないのも道理である。そもそも荒平には数千の角が生え、眼は日月の如し。鼻は高く、物を噛む四十八の牙は強く、骨をかみ砕く。歯向かって噛みつく舌は長く、物を味わう。そもそも荒平の額の髪は天を指して生えあがる。うなじに口があり、吹き出す風は十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟粒国(ぞくさんこく)――粟粒を散らしたような日本のごとき小さい国を吹き回る。この風に当たった人は一日一夜を極める。大龍のごとき髭の中から吹き出す風は日本秋津洲を吹き回る。この風に打たれた人は七日七夜を極める。丈は一丈五尺、気は一尺。荒平が歩むのは風の如し。走る速さは稲妻の如し。叫(おら)ぶ――大声で泣き叫ぶ声は雷の鳴るが如し。果報が際立つ荒平を防ぐ者がいるとは思いも寄らない。

 そもそも荒平が参ったのも道理である。山の大王から十二の山を賜って、日本を我が思いのままに領じたとき、魔犂(まれい)山と胥山(しょざん)と安積山(あさかやま)の頂を仰いだ者はうつむくことができない。このような宣旨を賜って日本を我が思いのままに領じて安積山の麓で少しまどろんだとき、柴笹を盗み取られて、心安からずと思って、十六の大国、五百の中国、十千の小国、無量の粟粒国を尋ねみたけれども、柴笹の行方は更に分からない。東天、南天、西天、北天、中天竺を尋ねみたけれども柴葉の行方は知れない。丑寅(うしとら)の隅へ立ち寄ってみれば、案の定、日本秋津洲へ来た。

 あわやここに我が神室(むろ)があると思って訪ねてみれば、案の定我が神室であった。自分はこの声について参った荒平である。防ぐ者がいるとは思いも寄らない。天竺の釈迦という小法師の他に防ぎとめる者は思いもよらない。

 そもその荒平が山に妨げをなしたのは、山口太郎殿、中山次郎殿、この神たちがなつきつつ離れつつ遊んでいたからだ。

 山の大王とは、唐土から渡った時、鳥の羽根に乗って飛ぶとき、一首の歌に言う、

 此深山翔けてとぶ鳥しばし待て 雅の羽(はね)にも言伝えせむ

 法の主よ、このように仰せがあって、日本のそなた達が回り給う。この神の手から十二の山を賜っ て日本を我が思いのままに領じたのだ。

 よくよく聞き給え、荒平の祖父(おうぢ)曾祖父(ひをうぢ)の行方を知るか。

 法の主よ、知らない。天竺に迦耶国(からこく)という国があり、その王は迦耶(から)大神といった。子供がなく仏神に強く祈ったところ、仏神の申し子を授かった。よくよく見ると有漏(うろ)――煩悩のある状態の―悩ましい姿だった。見苦しいといって(捕らえた生き物を)放つ手箱に入れて-河原に捨てたのを、何かあったのか、鹿(しし)が養育して、鹿の腹に宿らせて、十三か月経って生んだ。なので鹿の名を模して鹿経王と言った。

 鹿経王には四人の子弟がいた。太郎上本大王(浄飯{ばん}王)、次郎国本大王(黒飯王)、三郎白本大王(白飯王)、四郎甘露飯(かんろん)王。太郎の浄飯王の御子に悉達(しった)太子、今の釈迦仏である。次郎の黒飯王の御子は阿難(あなん)尊者である。三郎の白飯王の御子は目連(もくれん)尊者である。四郎の甘露飯大王の御子にほんすい王と言って荒平大王である。我は兄弟四人の末子である。自分も仏神である。

 そもそも荒平は仏の前で荒神となり、神の前で御前(みさき)――神の使いとなった。有漏の煩悩に満ちた凡夫の外道となった。由来を尋ねると、釈尊は太郎の嫡子であるから八万法を保つ。自分は末子の子であるから六万法を保つ。今二万法をを教えろと言ったが、遂に教えられなかったらしい。心安からず。自分も仏神である。おろそかにできないだろう。

 玄奘三蔵は(輪廻転生を繰り返し)六度も渡った。流砂の河で大蛇となり、葱嶺(そうれい)の山では大鬼となって、散々に人を餌食にして、頭(つぶら)を集めて数珠に連ね念仏を申す荒平である。

 あさの御嶽に籠って、きんか国の王を悩まし、日本を飛び回って、どこに住処があるか尋ね、美濃と尾張の境に刃(やいば)が城を拵えていたが、陸奥の国の外の浜達谷が岩屋に要害を拵えて、鉄(くろがね)の築地を四十ニ丁に築きあげて、四万六千人の鬼を集めて、日本の生きとし生けるものを餌食にしようと企んだけれども、日本は神の国なので、あさの御嶽に籠り、辰の天王でかん平国の王子を招き、弓矢を揃えて散々に射ち払ったが、遂に叶わなかったらしい。

 そもそも鈴は誠に仏のお声である。鈴の声は仏の前で錫杖といい、仏の前で鈴といい、法師のために生きとし生けるものと言う。七と三の割合の神の眠りを覚ませと(僧侶に)言った処、花の都まで聞こえたのである。是を聞いた人は身の内の悪行煩悩虫の罪と障りを逃れ、今生では無量の経を覚(さと)る。

 そもそも荒平がつく杖には三つの法が籠っている。上に大乗の法が籠り、下に小乗の法が籠り、中に瑠璃光の法が籠る。杖の細い方で年老いた人を撫でれば、若々しくなる。太い方で死んだ人を撫でれば、生きて繁昌する。死繁昌(しはんじょう)の杖と申すのである。

 そもそも鬼の持つ宝には五宝六法と言って一に御経堂(隠形袋)と申すのは錦の袋の事である。二にふかいりふかしぎとは霞の鞭、打ち出の小槌の事である。三に一万べんとは沓(くつ)の事である。四にすさんきと申すのは、飛ぶ車の事である。五に死繁昌の杖を今夜、氏人に与えるなり。

 「神楽源流考」の壬生井上本荒平舞詞(5-12P)を校定した文を元に要約した。

◆宮崎県の八坂神社の節舞

 宮崎県の八坂神社の「節舞」では神の名は節とあるものの「三宝大荒神」と名乗っている。また、「大ばのみさき」と名乗っている。「大ば」は「提婆」だろう。そして「神主此杖は三千世界を吾が心の儘に爲す寶の杖此杖は許しがたねし」「左様な御寶の杖とは御見受奉りまして氏子共に諸々の災ある時は御杖を以て持ち祓はんが爲め御願い奉る訣でござる何れの道許しなされませ」「許し難なれども氏子守りと云ふに依りて差許すあゝ許しがたねし」とある。「許しがたねし」の意味がとれないが、これは荒平にも見られる祝福の杖の贈与のモチーフである。
宮崎県 郷社 八坂神社 兒湯郡高鍋町
第八番節舞(荒神の面を冠り荒神服を着し、右手に御幣付の杖を持ち左手を懐にし、榊葉を撒き、後に扇子を携へて演舞す)
問「白金や黄金の梅が花咲くや神の戸のとも開かざらめや。天津神國津神社を祝ひてぞ我葦原の國は治まる抑々天長地久武運長久御息災延命五穀成就の爲に祭典並御神樂執行奉る處に俄に御出現ましますはいかなる御神明にてぞましますやらむ御宣の程の御託宣注文入るべく存じ候再拜々々敬つて申す」
節唱「抑々三寶大荒神の謂はれ汝知るや知らずや神の大ばのみさき佛に伽藍のみさき八萬四千劍のみさきと現ずるとあるなり汝に早や敎へとらす」
問「さてさて三寶大荒神殿と御名告なされまして神主も安重仕りて御座ります。御許しなされませ」
節「神主まだ許せとははるばるの事」
問「左様御座りますならば一寸御崇敬にまかり立ち申してちと大荒神殿へ御尋ねの儀が御座り申す」
節「如何なる事でも問はれよ指し示さん」
問「鳥居の根源を御示し預りとふ御座ります」
節「神主申し上げよ」
問「何れの道荒神殿の御示しに預りたう御座る」
節「神主我が前に立てる程の神主神主申し上げよ」
問「左様御座りますればふつゝかなる神主に御座りますれども後と先でも申し上るで御座る」
節「神主申し上げよ」
問「抑鳥居は日の大御神天の岩戸にこもり給へりしとき八百萬神等神議りに議り給ひて日の大御神出まし給はんことを祈り給ふ時木を岩戸の前に立て其の木の上に鶏居らしめて鳴かしむ所謂る鳥居の始めなり右の柱は陰左の柱は陽、木を其上に通はす物は陰陽五感の理なり再拜々々敬つて申すもう御許しなされませ」
節「主心な神主より心得られた託宣を指し示す」
問「有り難うござる」
節「抑地神由來の三德を兼ね國々を巡り氏子繁昌と守るが爲天より寶を下し地より五穀を生じし事萬物に至る迄是皆我爲す所作なり早や敎へとらす」
問「扨て扨て御託宣に預り申して神主も安重仕て御座りますもう御許し下さりませ」
節「神主未だ許せとは遙々の事」
問「左様御座りますならば一寸敬ひ申した後御許しなさりませ」
節「許す折もあらん」
問「千早振る我心よりなすわざを何れの神かよそに見るべき『榊葉は何時のときにか折りそめて岩戸の前に飾りとはなる』もう御許し成りませ」
節「まだ許せとははるばるの事」
問「左様御座りますなればちと大荒神殿へ御尋の儀が御座ります」
節「何にやうな事でも問われよ指し示さん」
問「地神五代の根源を御示しに預りたふ御座ります」
節「神主申し上げられよ」
問「何れの道荒神殿の御示しに預りたうござる」
節「神主侮らるゝ事を申さるるな神主」
問「御侮りとの御咎め殆んど迷惑仕てござる何れの道荒神殿の御示に預りたうござる」
節「神主我前に立てる程の神主がそれしきな事をしらぬ神主とは見立んなれど、知らぬと云はるゝに就て聊かさし示す」
節「抑地神五代は第一に天照大神第二に正哉吾勝々速日天忍穂耳尊第三に瓊々杵尊、第四に彦火々出見尊第五に彦波瀲武鵜茅葺不合尊、是我國五代の神々にまします汝に早や敎へ取らす」
問「愈々安重仕て御座りますもう御許しなされませ」
節「神主未だ許せとははるばるの事」
問「さてさて今日も段々神樂敷の義に御座候得日も西に傾きまして御座る跡で御神樂奉るに依り御許し下さりませ」
節「神主許し難なれども後で神樂仕へまつると云へるに依りて差し許す」
問「有難うござる迚もの事に御杖ともに御許しなされませ」
節「神主此杖は三千世界を吾が心の儘に爲す寶の杖此杖は許しがたねし」
問「左様な御寶の杖とは御見受奉りまして氏子共に諸々の災ある時は御杖を以て持ち祓はんが爲め御願い奉る訣でござる何れの道許しなされませ」
節「許し難なれども氏子守りと云ふに依りて差許すあゝ許しがたねし」
西角井正慶「神楽研究」資料集第二190-191P

◆余談

 道返しに登場する双六であるが、これは現在でいう双六とは異なっているらしい。灰原薬「応天の門」という菅原道真の若き日を描いた漫画があるが、その中で双六で賭けをするエピソードがある。それに登場する双六はバックギャモンに似た感じのゲームなのだ。

 道返しは神と鬼の掛け合いが面白いが、これは「校訂石見神楽台本」の注釈を読まないと、その意味するところが解らなかった。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)pp.1-94
・岩田勝「荒平考 その一」「広島民俗」第9号(広島民俗学会, 1978)pp.19-26
・岩田勝「荒平考 その二」「広島民俗」第11号(広島民俗学会, 1979)pp.5-13
・岩田勝「死繁昌の杖―壬生井上家蔵天正十六年荒平舞詞―」「山陰民俗」第31号(山陰民俗学会, 1978)pp.1-28
・川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」「山陰民俗」第32号(山陰民俗学会, 1979)pp.57-58
・川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」「神楽と風流 山陰民俗叢書9」(山陰民俗学会, 島根日日新聞社, 1996)pp.67-69
・三村泰臣「広島市の荒平舞をめぐる一考察」「広島民俗」第45号(広島民俗学会, 1996)pp.35-42
・「中国地方 民間神楽祭祀の研究」(三村泰臣, 岩田書院, 2010)
・「霜月神楽の祝祭学」(井上隆弘, 岩田書院, 2004)pp.191-198
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.271-272
・萩原秀三郎「来訪神と鬼やらい」「民俗芸能研究」27号(民俗芸能学会編集委員会/編, 民俗芸能学会, 1998)pp.22-49
・渡辺友千代「十二神祇神楽考」「広島民俗」第9号(広島民俗学会, 1978)pp.26-35
・中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」(山陰民俗学会, 1995)pp.39-52
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第二巻 神楽Ⅱ」(本田安次, 錦正社, 1993)pp.448-449
・「本田安次著作集 日本の伝統芸能 第三巻 神楽Ⅲ」(本田安次, 錦正社, 1994)pp.19-20 「三界鬼」pp.34-36「山海鬼 天女」pp.43-44「山海鬼神之舞」pp.73-76「矢、鈴」pp.102-108「柴荒神口弁扣」pp.154-157「芝荒神の舞」pp.183-196「唯一神道荒神柴問答」「神道荒神問答」pp.221-223「笠取鬼神 間橋 荒神舞」pp.236-237「門境」pp.248-249「柴之問」「荒平言葉」※「アラヒラ」の名が残っている。pp.263-264「御笠問」※「アラヒラ」の名が残っている。pp.305-306,
・「神楽研究」(西角井正慶, 壬生書院, 1934)
・白川琢磨「<落差>を解く 豊前神楽をめぐる歴史人類学的一解釈」「国立歴史民俗博物館研究報告」第132集(国立歴史民俗博物館, 2006)pp.209-242


記事を転載 →「広小路

 

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「童女(おとめ)の胸鉏とらして」は巨乳か貧乳か?

横浜市歴史博物館に展示されていた古代の鋤

横浜市歴史博物館に展示されていた古代の鋤

横浜市歴史博物館に展示されていた古代の鋤(すき)。手前が広鋤で奥に狭鍬がある。これを見て出雲国風土記の「童女(おとめ)の胸鉏とらして」という文句に納得がいく。広鍬は女性の乳房を横から見た感じに見えるのだ。「童女の胸鉏とらして」は乙女の豊かな胸のような広い鋤で、という意味なのだろう。

いや、逆の解釈もあり得るのだ。三浦祐之「古事記講義」だと「少しばかりふくらんだ少女の胸のような反りをもつ鋤」と解釈している。原文では「童女」と書いて「オトメ」と読んでいるからだろう。この場合、狭鋤が相当するだろう。

新年早々にくだらないネタで失礼しました。

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あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。今年は狛犬の写真に力を入れたいと思っています。記事は書くとしたら神楽関連のが多くなると思います。

 

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