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2017年12月23日 (土)

片脚の王子ときな粉の化粧の伝説――切目王子

◆鞨鼓・切目

 石見神楽に「鞨鼓(かっこ)」「切目」という一連の演目がある。紀伊の国、熊野の権現である切目王子に仕える禰宜(ねぎ)が、高天原から降ってきた目出度い太鼓をよろしき処に据え置けと命じられて、あれこれと苦心して据え置く。その太鼓を切目王子が叩く……という内容である

 切目王子は熊野九十九王子の一つで、また、藤白王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子と共に五体王子とも呼ばれて崇敬されている。熊野信仰が修験道の山伏によって伝播したものと思われるが、島根県では神楽の演目として切目王子が登場する舞いが残されているのが特徴である。

 その切目王子であるが絵画に描かれた王子の姿は片脚なのである。神楽に登場する切目王子はもちろん五体満足だが、どうして絵画では片脚の姿として描かれるのか、それには下記のような伝説がある。

◆きな粉の化粧伝説

 文安年間(15世紀、室町時代)のものとされる「宝蔵絵詞」と呼ばれる絵巻物の写本が残されている。その「宝蔵絵詞」に切目王子にまつわるきな粉の化粧伝説が語られている。固くこなれない訳だが、概略、以下の通りである。

 便所まで付いてくる切目王子を避けるため、腐った梛木とイワシを浴びた僧侶を臭いといって軽く殺してしまった切目王子は罰として右足を切られて熊野の山中に放逐される。王子は仕方がないので、熊野を参詣する人々の福幸いを奪うようになった。そこで困った権現は伏見稲荷の阿古町(あこまち)という女狐に頼みこむ。阿古町は切目王子に頼んで、王子が嫌うきな粉の化粧を目印として、化粧をしたものは阿古町の参詣者だから襲わないと約束させる……といった内容である。

 僧侶が(切目)王子が不浄の所(便所)まで付いてくるので、もてあましてしまい、「少しも離れないので如何にして放てばよいか。あさましい振る舞いをご覧になるか。世に恥ずかしく悲しいことだ」と相談したところ、「腐った梛木(なぎ)の臭いのにイワシを入れて頭から浴びよ」と言われたのを、その通りにしたところ、王子が現れて言った。「権現が離れて付けとの仰せあればこそ、このような憂き目を見た。どうして心憂きことをするか」と鼻を弾いたところ、僧侶は死んでしまった。

 さて童子は山に帰って言った。「付いてじっと側で待機していた僧は死んだので、帰ってきた」と申したところ、皆、「由々しい業をしたものかな」と言って、童子を捕らえて右の足を切って、切部の山に放った。その後、童子は権現が勘当しそうな様子もなく、さりとて如何せんと思って、熊野へ参って利益を得て下向しようとする者の福と幸いを取って世にあろうと思って、下向する者の福と幸いを取った。

 その時、権現がもてあまして(伏見)稲荷の大明神を召して仰せられた。「我が許に参る者の福と幸いを切部の王子が取るのはどうすべき」と。「まことに力の及ばぬ事だ。足を切って山に放てば、すべき様もなく、お仕えして側で待機しないのが理だ。但し、自分の許に阿古町という者がいる。それと王子は術のない困り果てた仲だ。阿古町に王子と語らってその心を見ましょう」と申した。権現は「返す返すも神妙なり。早く語らわせるべきだ」と仰せだった。

 稲荷の大明神は阿古町を召して、切部の皇子と語らうべき由を仰せつけられた。阿古町は承った。「退出して向い、語らって心を見ましょう」と申す。王子の許へ行って言った。「我が身は偏(ひとえ)に王子を頼み参ったところ、我が許へ来る者どもの熊野に参って利益を被って下向する者の福と幸いを取らせ給えば、泣き悲しむなり。如何するべきか」と申したところ、王子は「これこそ知り得なかった。如何にして阿古町の許へ参る者と知ることができようか。阿古町の様に化粧した者を参る者と知るべし」と言えば、阿古町は言った。「化粧する者は世に多く、また、僧侶や男は如何にして化粧させるべきか」。王子は言った。「我は由々しく豆の粉を臭く思う。なので豆の粉を化粧にした者を、それへ参る者と知りて、その福と幸いは取るまい」と。阿古町は「神妙に」と言って喜んで帰って大明神に報告した。

 大明神はこの由を権現に申した。その後、この定めにご託宣あって後、豆の化粧をするのだ。昔はこの事を知る者はいなかった。この因縁を広めた事は、板東より参った先達(修験者の先導者)、豆の粉を作る因縁が覚束なくて、権現に七日間祈ったところ、この定めに示現あった。それから語り伝えるのである。その先は知った人の無かった。但し、本体と付くべき所は切部の皇子葛城山の繁盛する様であると示現させ給うとの由を語り伝える。

 ……阿古町は伏見稲荷の眷属で命婦社に祀られた女狐であるという。室町時代の日記に熊野参詣した際、きな粉の化粧を実際にしたこと、「こうこう」と狐の鳴き声の真似をしたことなどが記されているとのこと。
 ここで王子とは仏法を守護する童子のことで、切目王子は切目金剛王子とも呼ばれる。人間を遥かに上回る力を持ちながら無邪気で己の力に無自覚である王子の性格がよく現わされていると言えるだろう。

◆諸山縁起

 鎌倉時代初期以前の成立とされる「諸山縁起」では熊野の地主神として麁乱神(そらんしん)が挙げられている。麁乱神は荒ぶる神であるが、きな粉で目つぶしされたことできな粉を嫌うとされており、切目の地名も挙げられている。

 私に勘(かんが)へて云はく、金峯山(きんぷせん)は、持統天皇の代(みよ)白鳳(はくほう)年中に、般若(はんにゃ)の中より出生し給ふなり。かの持統天皇元年丁亥(ひのとい)より、長治二年乙酉(きのととり)に至るまで、年代を計れば四百四十二年なり。また建久三年は五百廿九年に成る。大峯(おおみね)より役行者(えんのぎょうじゃ)出でて、愛徳山(あいとくさん)に参詣の間、発心門(はつしんもん)に一人の老者あり。値(あ)ふ。「何人(なにびと)ぞ」と問ふに、答えて云はく、「吾は百済(くだら)国の美耶山に住む香蔵仙人なり」と。云はく、「公(きみ)、数万劫(こう)、法を求めること久しく御坐(ましま)す。今この国の行人(ぎょうにん)叶(かな)はざるか。然りといへどもこの峯ここに種々の主(ぬし)あり。知らず御(ましま)すや。如何(いかん)。熊野の御山を下向する人のその験気(けんき)の利生(りしょう)を奪ひ取る者三所あり。未だ知らざるや。何(いかん)」と。行者「知らず」と答ふ。「我に教え給へ」と。云はく、「熊野の本主は麁乱神(そらんしん)なり。人の生気を取り、善道を妨ぐる者なり。常に忿怒(ふんぬ)の心を発(おこ)して非常を致すなり。時々山内に走り散りて、人を動(おびや)かし、必ず下向する人のその利生を妨ぐ。その持(じ)する事は、壇香(だんこう)、大豆香(だいずこう)の粉(こ)なり。面(おもて)の左右に少(すこ)し付くれば、必ず件(くだん)の神遠く去る。その故に、南岳大師(なんがくだいし)の御弟子一深仙人の云はく、「人、もろもろの麁乱神を招き眼(まなこ)を奪ふことあらば、壇香・豆香を入るれば皆悉(ことごと)く去り了んぬ」と。その故に、大豆を粉にして作(な)して面に塗れば、必ず障碍(しょうげ)する者遠く去るなり。その処は、一に発心門(はつしんもん)、二に滝本(たきのもと)、三に切目(きりめ)なり。山中に何の笠をば尤もにせん。那木(なぎ)の葉は何(いかん)ぞ。荒れ乱るる山神、近く付かざる料なり。金剛童子の三昧耶形(さんまやぎょう)なり。而るに不詳なるは松の木なり。この事を能く知り、末代の人に伝え御(ましま)せ」と。云はく、「滝尻(たきじり)の上の御前は常行の地にして、善生土と云ふなり。諸仏と共にこの山に住する山人、歳久しく常に麁乱神の遊ぶを知らず。余の恠(かい)あらず。毎月一度の供、善生(ぜんしょう)に返るか」と云ひて、隠れ了んぬ。願行(がんぎょう)これを記すと云々。
「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」102-103P
 もともとその土地を領有していた古い神たちは、仏教という強力な力を背景にした新しい信仰の主にその場を譲るとき激しい抵抗を試みるが、やがて威圧され服属し、かえって新しい主である仏を守護する役割を荷うことになる。麁乱神の暴悪は、熊野神という新しい信仰をもたらした役の行者に対する、地主神の抵抗を脚色したものと言える。
「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」107P
 麁乱神自体は荒ぶる神であり熊野固有の神ではないが、鎌倉時代から室町時代に入ると「宝蔵絵詞」で、その性格が切目王子に集約されてくるのである。

◆五行説

 石見神楽「切目」では五体王子の信仰は天神七代、地神五代の神々と結びつけられる。そして「木火土金水」「青黄赤白黒」の属性を得て、陰陽五行説に接近していくのである。

 山本ひろ子「大荒神頌」に、切目王子の社伝に、社殿が戦乱で消失し、社伝も多くが失われたが、文禄年間(16世紀)に、日向の国からやって来た身元の知れない男が五体王子宮を再興し、神道を講釈、五体王子を地神五代と結び付けたとある。この社伝が事実に基づくものと考えると、切目王子と陰陽五行説が結びついたのは織豊政権期のことであったかもしれない。すると、石見神楽の「切目」はそれ以降の時代に生まれたものとも考えることができる。

 一方で石塚尊俊「里神楽の成立に関する研究」によると、熊野本社では地神五代と五体王子を早い段階で結びつけており、中世初期には道中の王子神にも適用され「切部・藤代・鹿の瀬・米持・こんごう童子、五代の王子と名づけつつ」とした記述があると指摘している。なので、五体王子を地神五代と結び付ける思考は切目神社の社伝よりも早い段階で生まれたものかもしれない。

◆伝説との整合性

 神楽に登場する切目王子は五体満足であるけれど、きな粉の化粧伝説とはどう整合性をとればよいのだろう。出雲神楽では切目命とあるので、実はニアリーイコールな存在なのかもしれない。石見神楽では六調子、八調子とも切目王子となっている。神楽と伝説はパラレルなのかもしれないし、後に許されて脚が治ったのかもしれない。

◆宝蔵絵詞

 以下の文章は私が、理解の範囲内で漢字や濁点、現代読みに修正したものです。

帰りて(返りてか)この由を僧に言いて、(本)をつきて、この度は現れ現して、不浄の事ともする所にも見えさせ給えば、僧し扱(あつかい)て、古き物に語らいて曰く「こおうの身に沿い給いて、少しも離れ給わぬをば、如何して、放ち奉るべき。あさましき振る舞いなどするをご覧ずるか。世に恥づかしく悲しきなり」と言えば、「易きことなり。腐(くた)し梛木(なき)のよくよく臭きにイワシという肴を入れて頭くたり浴みよ」とて、その定にして浴みたれば、王子現して宣わく、(権現の離れて付きたれと仰せ事あればこそ、かくて憂き目をも見てはあれ。如何で心憂きことはするぞ」とて鼻を弾き給いたれば、僧死ぬ。

さて、童子御山に帰り給いて申し給うよう、「付けさせおはしまして侍いし僧は死侍(さぶら)いにたれば、帰り参りてなん候」と申し給いければ、皆、「さしたり。由々しき業したる物かな」とて、童子を捕らえて、右の足を切って、切り辺の山に放たせおわしましぬ。その後、童子、権現の御勘当すべき様もなくて、さりとて如何せんと思して、熊野へ参りて利生かうふりて下向せん者の福幸いを排とりて(おしのける)、世にあらんと思し撮りて、下向する者の福幸いを取り給う。

その時、権現し扱(あつか)わせ給いて、稲荷の大明神を召して仰せられて曰く、「我許に参りていつる物の福幸いを、切部の王子の排いとるは、いかがすべき」と仰せられ、あわせければ、「まことに力及ばぬ事にこそ候え。足を切りて、山に放たせ給いて候へば、すべき様もなくて、仕り侍(さぶら)はんは、理にこそ候え。但し、己が許に阿古町と申し候物候。それと王子とはずちなき仲にて候なり。それして王子を語らいて心見候はん」と申し給う。権現、「返し返し神妙なり。疾く語らい給うべし」と仰せの事あり。

稲荷の大明神、阿古町を召して、切部の皇子語らうべき由を仰せらる。阿古町承り侍いぬ。「まかり向かいて語らい心見候はん」と申し給う。時の間に、王子の許へ行きて曰く、「我が身は一重に王子を頼み参らせてあるに、我が許へまうて来る物どもの、熊野に参りて利生かぶりて下向する物の福幸いを取らせ給えば、まうて来て泣き悲しみ候なり。如何し候べき」と申し給えば、王子、これこそ得知り候はざりけれ。如何にしてか阿古町の許へ参る物とは知り候べき。阿古町の様に化粧したらむ者を、参る物とは知り候べき」とあれば、阿古町宣わく「化粧する物は世に多く候、又、僧男は如何にか化粧はし候べき」と宣えば、王子宣わく、我は由々しく豆の粉を臭く思ゆるなり。されば豆の粉を化粧にしたらむ者を、それへ参る者とは知りて、それか福幸いをば取り候はじ」と王子宣う。阿古町、「神妙に候」とて、悦て帰り給いて大明神に申し給う。

大明神この由を権現に申し給う。その後、この定に御託宣ありて後、豆の粉の化粧はするなり。昔はこの事知りたる物なし。この因縁を広めたる事は、板東より参りたる先達、豆の粉の作る因縁を覚束なかりて、権現に七日が間祈り申しければ、この定めに示現しおわしましたりけるなり。それより語り伝えるなり、その先は知りたる人も無かりける。但し、本たいと付くべき所は、切部の皇子葛城山のむくさか(繁盛する様)なりとぞ示現せさせ給う由語り伝えたる。
石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」840-842Pを参照の上、改変。

◆余談

 きな粉の化粧伝説を知ったのは、山本ひろこ「大荒神頌」の「切目の王子」を読んでのこと。子供の頃、はったい粉をまぶしたお団子は好物だったので、きな粉の香りは好きなのだけど、切目王子は苦手なようである。
 「すちなき」を最初「すぢなき」と読んだのだけど、「ずちなき」と読むと論文を読んで知って慌てて訂正した次第である。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.20-26
・嗣永芳照, 石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」第25巻(熊野那智大社, 1977)pp.834-842
・「資料紹介 後崇光院宸筆宝蔵絵詞」「書陵部紀要」第21号(宮内庁書陵部, 1969)pp.77-81
・「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」(沢井耐三, 三弥井書店, 2012)pp.102-128
・「大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉」(山本ひろ子, 岩波書店, 1993)pp.63-112
・「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)pp.102-103
・むしゃこうじみのる「伏見宮旧蔵本『宝蔵絵詞』について」「和光大学人文学部紀要 7・8・9」(和光大学, 1972, 1973, 1974)pp.37-42
・山本陽子「切目王子小考―熊野曼荼羅から一本ダタラまで―」「明星大学研究紀要【日本文化学部造形芸術学科】」第12号(明星大学, 2004)pp.29-36
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)pp.189-246
・「一目小僧その他」(柳田国男, 角川学芸出版, 2013)pp.11-71
・「定本柳田国男集 第四巻」(柳田国男, 筑摩書房, 1968)
・鈴木宗男「熊野参詣儀礼の記録と説話―切目王子の豆の粉化粧説話をめぐって―」「古文学の流域」(水原一, 新典社, 1996)pp.343-363
・筑土鈴寛「使霊と叙事伝説」「筑土鈴寛著作集第四巻 中世宗教芸文の研究二」(筑土鈴寛, せりか書房, 1996)pp.279-302

記事を転載 →「広小路

 

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