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2017年12月16日 (土)

土地の開墾で責任を取った伝説――大東町のすくも塚

◆はじめに

 日本標準の「島根のむかし話」に「すくも塚」というお話が収録されている。話者が大原郡大東町の人であり、その土地にまつわるお話であるので大東町の伝説であると思われるが、昔話として収録されている。

◆粗筋

 昔々、この辺(大原郡大東町)は田畑が少なく土地がやせていたので米や麦はあまり獲れなかった。村人は食べ物が少なくて困っていたが、加えて毎年年貢を収めねばならなかった。与兵衛という庄屋がいた。与兵衛は何とかして村人を救ってやりたいと考えていた。そこで荒れた土地を開くことを考えついた。そこで川原を開きたいと代官に願い出た。ところがそこの頃は土地を広げたり道を付け替えるようなことは中々許しがでなかった。与兵衛は根気よく何回も頼んだがどうしても許しが出なかった。
 こうなれば自分が責任を取る他ない、そこで与兵衛は自分の家や土地を売って色々な道具を買ったりに人夫賃の準備をした。村人たちは喜んで集まってきた。土地を開いていることが役人に知られないよう一生懸命に働いた。
 新しい土地が出来上がった。が、悪いことに役人が土地を調べに来るということになった。こうなっては仕方がない、与兵衛は村の者を集めて、土地を開いたが、本当のことを言うと、殿様の許しが出ていないのだ。役人に見つかってもお前たちに罪はない。この土地を大事にして暮らすのだぞと言った。村の者たちは誰もがびっくりした。与兵衛は自分はもう覚悟している。その代わり、自分が死んだらこの土地がよく見える所に埋めてくれと言って役人が来るのを待った。
 役人が来た。与兵衛は今までのことを全部話した。そして全ては自分が勝手にやったこと。村人には罪がありません。私の我がままを許してくださいと腹を切って死んでしまった。役人たちは命がけで村人を救った与兵衛に感心して何も言わずに帰った。
 村人は与兵衛をこの土地がよく見える丘に埋めてお祀りした。その土地が「すくね(宿祢)」という土地だったのが、いつの間にか「すくも」と呼ぶようになり、与兵衛の墓をすくも塚というようになった。

◆すくも塚

 島根県ですくも塚というと、大抵の場合、益田市久城町のスクモ塚を指すだろう。石見地方でも大きな規模の前方後円墳(または円墳と方墳が合体したもの)である。他、地図で確認しただけだが、三瓶山麓にもスクモ塚がある。

 大東町のすくも塚も古墳だろう。それが江戸時代になって新田開拓の話と結びついたのだろう。

 大東町に関してもネットで検索したところすくも塚がヒットした。なので、大東町の伝説と考えていいだろう。ネット上の地図には載っているので機会があれは行ってみたい。

 宿祢(すくね)がすくもに転訛したという話だが、宿祢は古代の重臣に対する敬称であり、古墳であることから宿祢塚と元は呼ばれていたのだろう。すくもは広辞苑で調べたところ、藻屑という意味やもみがらのことであるようだ。

◆大東町誌

 雲南市教育委員会に問い合わせたところ、「新大東町誌」の写しが送られてきた。それによると、史料が無いものの、新田の開墾は享保の大飢饉がきっかけで、大塚与兵衛の自刃は寛延十年頃とされている。すくも塚周辺で開墾された新田は二十六石くらいと推定され、一石=人一人を一年養える量と換算されるから、随分と余裕ができたことになる。

◆島根のむかし話

 この伝説は日本標準の「島根のむかし話」に収録されている。が、話者は大原郡大東町の人で、「この土地」と呼んでいることから大東町の伝説と思われる。「島根のむかし話」発刊の時点では対になる「島根の伝説」の発刊は決まっていなかったはずで、それで伝説がむかし話として収録されたものと思われる。

 このように日本標準の「島根のむかし話」は面白い、楽しい話だけではなく悲しい話も収録している。また「島根の伝説」も優れた出来だが、話の撰者が優れたお話を選んだということが分かる。小学生のときに読んで印象に残っていたお話である。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.241-244
・「新大東町誌」(大東町誌編纂委員会/編, 大東町, 2004)

記事を転載 →「広小路」

 

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