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2017年12月

2017年12月30日 (土)

最多記事の年でした

今年はブログを分割してから今までで最多の記事を書きました。その分、取り上げたい題材・ストックも減ったので来年以降は記事が少なくなると思います。今年の特徴は五郎王子の記事を書いたことで副産物的に神楽の知識を得ました。ブログを始めてから14年目でようやくたどり着いたという印象です。

今年は横浜市の神代神楽を鑑賞できたのですが、相模原市の神代神楽が台風で中止になってしまったのが痛恨事でした。来年は狛犬の記事を拡充させたいと思ってます。それでは、よいお年を。

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2017年12月23日 (土)

片脚の王子ときな粉の化粧の伝説――切目王子

◆鞨鼓・切目

 石見神楽に「鞨鼓(かっこ)」「切目」という一連の演目がある。紀伊の国、熊野の権現である切目王子に仕える禰宜(ねぎ)が、高天原から降ってきた目出度い太鼓をよろしき処に据え置けと命じられて、あれこれと苦心して据え置く。その太鼓を切目王子が叩く……という内容である

 切目王子は熊野九十九王子の一つで、また、藤白王子、稲葉根王子、滝尻王子、発心門王子と共に五体王子とも呼ばれて崇敬されている。熊野信仰が修験道の山伏によって伝播したものと思われるが、島根県では神楽の演目として切目王子が登場する舞いが残されているのが特徴である。

 その切目王子であるが絵画に描かれた王子の姿は片脚なのである。神楽に登場する切目王子はもちろん五体満足だが、どうして絵画では片脚の姿として描かれるのか、それには下記のような伝説がある。

◆きな粉の化粧伝説

 文安年間(15世紀、室町時代)のものとされる「宝蔵絵詞」と呼ばれる絵巻物の写本が残されている。その「宝蔵絵詞」に切目王子にまつわるきな粉の化粧伝説が語られている。固くこなれない訳だが、概略、以下の通りである。

 便所まで付いてくる切目王子を避けるため、腐った梛木とイワシを浴びた僧侶を臭いといって軽く殺してしまった切目王子は罰として右足を切られて熊野の山中に放逐される。王子は仕方がないので、熊野を参詣する人々の福幸いを奪うようになった。そこで困った権現は伏見稲荷の阿古町(あこまち)という女狐に頼みこむ。阿古町は切目王子に頼んで、王子が嫌うきな粉の化粧を目印として、化粧をしたものは阿古町の参詣者だから襲わないと約束させる……といった内容である。

 僧侶が(切目)王子が不浄の所(便所)まで付いてくるので、もてあましてしまい、「少しも離れないので如何にして放てばよいか。あさましい振る舞いをご覧になるか。世に恥ずかしく悲しいことだ」と相談したところ、「腐った梛木(なぎ)の臭いのにイワシを入れて頭から浴びよ」と言われたのを、その通りにしたところ、王子が現れて言った。「権現が離れて付けとの仰せあればこそ、このような憂き目を見た。どうして心憂きことをするか」と鼻を弾いたところ、僧侶は死んでしまった。

 さて童子は山に帰って言った。「付いてじっと側で待機していた僧は死んだので、帰ってきた」と申したところ、皆、「由々しい業をしたものかな」と言って、童子を捕らえて右の足を切って、切部の山に放った。その後、童子は権現が勘当しそうな様子もなく、さりとて如何せんと思って、熊野へ参って利益を得て下向しようとする者の福と幸いを取って世にあろうと思って、下向する者の福と幸いを取った。

 その時、権現がもてあまして(伏見)稲荷の大明神を召して仰せられた。「我が許に参る者の福と幸いを切部の王子が取るのはどうすべき」と。「まことに力の及ばぬ事だ。足を切って山に放てば、すべき様もなく、お仕えして側で待機しないのが理だ。但し、自分の許に阿古町という者がいる。それと王子は術のない困り果てた仲だ。阿古町に王子と語らってその心を見ましょう」と申した。権現は「返す返すも神妙なり。早く語らわせるべきだ」と仰せだった。

 稲荷の大明神は阿古町を召して、切部の皇子と語らうべき由を仰せつけられた。阿古町は承った。「退出して向い、語らって心を見ましょう」と申す。王子の許へ行って言った。「我が身は偏(ひとえ)に王子を頼み参ったところ、我が許へ来る者どもの熊野に参って利益を被って下向する者の福と幸いを取らせ給えば、泣き悲しむなり。如何するべきか」と申したところ、王子は「これこそ知り得なかった。如何にして阿古町の許へ参る者と知ることができようか。阿古町の様に化粧した者を参る者と知るべし」と言えば、阿古町は言った。「化粧する者は世に多く、また、僧侶や男は如何にして化粧させるべきか」。王子は言った。「我は由々しく豆の粉を臭く思う。なので豆の粉を化粧にした者を、それへ参る者と知りて、その福と幸いは取るまい」と。阿古町は「神妙に」と言って喜んで帰って大明神に報告した。

 大明神はこの由を権現に申した。その後、この定めにご託宣あって後、豆の化粧をするのだ。昔はこの事を知る者はいなかった。この因縁を広めた事は、板東より参った先達(修験者の先導者)、豆の粉を作る因縁が覚束なくて、権現に七日間祈ったところ、この定めに示現あった。それから語り伝えるのである。その先は知った人の無かった。但し、本体と付くべき所は切部の皇子葛城山の繁盛する様であると示現させ給うとの由を語り伝える。

 ……阿古町は伏見稲荷の眷属で命婦社に祀られた女狐であるという。室町時代の日記に熊野参詣した際、きな粉の化粧を実際にしたこと、「こうこう」と狐の鳴き声の真似をしたことなどが記されているとのこと。
 ここで王子とは仏法を守護する童子のことで、切目王子は切目金剛王子とも呼ばれる。人間を遥かに上回る力を持ちながら無邪気で己の力に無自覚である王子の性格がよく現わされていると言えるだろう。

◆諸山縁起

 鎌倉時代初期以前の成立とされる「諸山縁起」では熊野の地主神として麁乱神(そらんしん)が挙げられている。麁乱神は荒ぶる神であるが、きな粉で目つぶしされたことできな粉を嫌うとされており、切目の地名も挙げられている。

 私に勘(かんが)へて云はく、金峯山(きんぷせん)は、持統天皇の代(みよ)白鳳(はくほう)年中に、般若(はんにゃ)の中より出生し給ふなり。かの持統天皇元年丁亥(ひのとい)より、長治二年乙酉(きのととり)に至るまで、年代を計れば四百四十二年なり。また建久三年は五百廿九年に成る。大峯(おおみね)より役行者(えんのぎょうじゃ)出でて、愛徳山(あいとくさん)に参詣の間、発心門(はつしんもん)に一人の老者あり。値(あ)ふ。「何人(なにびと)ぞ」と問ふに、答えて云はく、「吾は百済(くだら)国の美耶山に住む香蔵仙人なり」と。云はく、「公(きみ)、数万劫(こう)、法を求めること久しく御坐(ましま)す。今この国の行人(ぎょうにん)叶(かな)はざるか。然りといへどもこの峯ここに種々の主(ぬし)あり。知らず御(ましま)すや。如何(いかん)。熊野の御山を下向する人のその験気(けんき)の利生(りしょう)を奪ひ取る者三所あり。未だ知らざるや。何(いかん)」と。行者「知らず」と答ふ。「我に教え給へ」と。云はく、「熊野の本主は麁乱神(そらんしん)なり。人の生気を取り、善道を妨ぐる者なり。常に忿怒(ふんぬ)の心を発(おこ)して非常を致すなり。時々山内に走り散りて、人を動(おびや)かし、必ず下向する人のその利生を妨ぐ。その持(じ)する事は、壇香(だんこう)、大豆香(だいずこう)の粉(こ)なり。面(おもて)の左右に少(すこ)し付くれば、必ず件(くだん)の神遠く去る。その故に、南岳大師(なんがくだいし)の御弟子一深仙人の云はく、「人、もろもろの麁乱神を招き眼(まなこ)を奪ふことあらば、壇香・豆香を入るれば皆悉(ことごと)く去り了んぬ」と。その故に、大豆を粉にして作(な)して面に塗れば、必ず障碍(しょうげ)する者遠く去るなり。その処は、一に発心門(はつしんもん)、二に滝本(たきのもと)、三に切目(きりめ)なり。山中に何の笠をば尤もにせん。那木(なぎ)の葉は何(いかん)ぞ。荒れ乱るる山神、近く付かざる料なり。金剛童子の三昧耶形(さんまやぎょう)なり。而るに不詳なるは松の木なり。この事を能く知り、末代の人に伝え御(ましま)せ」と。云はく、「滝尻(たきじり)の上の御前は常行の地にして、善生土と云ふなり。諸仏と共にこの山に住する山人、歳久しく常に麁乱神の遊ぶを知らず。余の恠(かい)あらず。毎月一度の供、善生(ぜんしょう)に返るか」と云ひて、隠れ了んぬ。願行(がんぎょう)これを記すと云々。
「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」102-103P
 もともとその土地を領有していた古い神たちは、仏教という強力な力を背景にした新しい信仰の主にその場を譲るとき激しい抵抗を試みるが、やがて威圧され服属し、かえって新しい主である仏を守護する役割を荷うことになる。麁乱神の暴悪は、熊野神という新しい信仰をもたらした役の行者に対する、地主神の抵抗を脚色したものと言える。
「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」107P
 麁乱神自体は荒ぶる神であり熊野固有の神ではないが、鎌倉時代から室町時代に入ると「宝蔵絵詞」で、その性格が切目王子に集約されてくるのである。

◆五行説

 石見神楽「切目」では五体王子の信仰は天神七代、地神五代の神々と結びつけられる。そして「木火土金水」「青黄赤白黒」の属性を得て、陰陽五行説に接近していくのである。

 山本ひろ子「大荒神頌」に、切目王子の社伝に、社殿が戦乱で消失し、社伝も多くが失われたが、文禄年間(16世紀)に、日向の国からやって来た身元の知れない男が五体王子宮を再興し、神道を講釈、五体王子を地神五代と結び付けたとある。この社伝が事実に基づくものと考えると、切目王子と陰陽五行説が結びついたのは織豊政権期のことであったかもしれない。すると、石見神楽の「切目」はそれ以降の時代に生まれたものとも考えることができる。

 一方で石塚尊俊「里神楽の成立に関する研究」によると、熊野本社では地神五代と五体王子を早い段階で結びつけており、中世初期には道中の王子神にも適用され「切部・藤代・鹿の瀬・米持・こんごう童子、五代の王子と名づけつつ」とした記述があると指摘している。なので、五体王子を地神五代と結び付ける思考は切目神社の社伝よりも早い段階で生まれたものかもしれない。

◆伝説との整合性

 神楽に登場する切目王子は五体満足であるけれど、きな粉の化粧伝説とはどう整合性をとればよいのだろう。出雲神楽では切目命とあるので、実はニアリーイコールな存在なのかもしれない。石見神楽では六調子、八調子とも切目王子となっている。神楽と伝説はパラレルなのかもしれないし、後に許されて脚が治ったのかもしれない。

◆宝蔵絵詞

 以下の文章は私が、理解の範囲内で漢字や濁点、現代読みに修正したものです。

帰りて(返りてか)この由を僧に言いて、(本)をつきて、この度は現れ現して、不浄の事ともする所にも見えさせ給えば、僧し扱(あつかい)て、古き物に語らいて曰く「こおうの身に沿い給いて、少しも離れ給わぬをば、如何して、放ち奉るべき。あさましき振る舞いなどするをご覧ずるか。世に恥づかしく悲しきなり」と言えば、「易きことなり。腐(くた)し梛木(なき)のよくよく臭きにイワシという肴を入れて頭くたり浴みよ」とて、その定にして浴みたれば、王子現して宣わく、(権現の離れて付きたれと仰せ事あればこそ、かくて憂き目をも見てはあれ。如何で心憂きことはするぞ」とて鼻を弾き給いたれば、僧死ぬ。

さて、童子御山に帰り給いて申し給うよう、「付けさせおはしまして侍いし僧は死侍(さぶら)いにたれば、帰り参りてなん候」と申し給いければ、皆、「さしたり。由々しき業したる物かな」とて、童子を捕らえて、右の足を切って、切り辺の山に放たせおわしましぬ。その後、童子、権現の御勘当すべき様もなくて、さりとて如何せんと思して、熊野へ参りて利生かうふりて下向せん者の福幸いを排とりて(おしのける)、世にあらんと思し撮りて、下向する者の福幸いを取り給う。

その時、権現し扱(あつか)わせ給いて、稲荷の大明神を召して仰せられて曰く、「我許に参りていつる物の福幸いを、切部の王子の排いとるは、いかがすべき」と仰せられ、あわせければ、「まことに力及ばぬ事にこそ候え。足を切りて、山に放たせ給いて候へば、すべき様もなくて、仕り侍(さぶら)はんは、理にこそ候え。但し、己が許に阿古町と申し候物候。それと王子とはずちなき仲にて候なり。それして王子を語らいて心見候はん」と申し給う。権現、「返し返し神妙なり。疾く語らい給うべし」と仰せの事あり。

稲荷の大明神、阿古町を召して、切部の皇子語らうべき由を仰せらる。阿古町承り侍いぬ。「まかり向かいて語らい心見候はん」と申し給う。時の間に、王子の許へ行きて曰く、「我が身は一重に王子を頼み参らせてあるに、我が許へまうて来る物どもの、熊野に参りて利生かぶりて下向する物の福幸いを取らせ給えば、まうて来て泣き悲しみ候なり。如何し候べき」と申し給えば、王子、これこそ得知り候はざりけれ。如何にしてか阿古町の許へ参る物とは知り候べき。阿古町の様に化粧したらむ者を、参る物とは知り候べき」とあれば、阿古町宣わく「化粧する物は世に多く候、又、僧男は如何にか化粧はし候べき」と宣えば、王子宣わく、我は由々しく豆の粉を臭く思ゆるなり。されば豆の粉を化粧にしたらむ者を、それへ参る者とは知りて、それか福幸いをば取り候はじ」と王子宣う。阿古町、「神妙に候」とて、悦て帰り給いて大明神に申し給う。

大明神この由を権現に申し給う。その後、この定に御託宣ありて後、豆の粉の化粧はするなり。昔はこの事知りたる物なし。この因縁を広めたる事は、板東より参りたる先達、豆の粉の作る因縁を覚束なかりて、権現に七日が間祈り申しければ、この定めに示現しおわしましたりけるなり。それより語り伝えるなり、その先は知りたる人も無かりける。但し、本たいと付くべき所は、切部の皇子葛城山のむくさか(繁盛する様)なりとぞ示現せさせ給う由語り伝えたる。
石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」840-842Pを参照の上、改変。

◆余談

 きな粉の化粧伝説を知ったのは、山本ひろこ「大荒神頌」の「切目の王子」を読んでのこと。子供の頃、はったい粉をまぶしたお団子は好物だったので、きな粉の香りは好きなのだけど、切目王子は苦手なようである。
 「すちなき」を最初「すぢなき」と読んだのだけど、「ずちなき」と読むと論文を読んで知って慌てて訂正した次第である。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.20-26
・嗣永芳照, 石塚一雄『「切目王子」の「きな粉の化粧」伝」「那智叢書」第25巻(熊野那智大社, 1977)pp.834-842
・「資料紹介 後崇光院宸筆宝蔵絵詞」「書陵部紀要」第21号(宮内庁書陵部, 1969)pp.77-81
・「室町物語研究――絵巻・絵本への文学的アプローチ」(沢井耐三, 三弥井書店, 2012)pp.102-128
・「大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉」(山本ひろ子, 岩波書店, 1993)pp.63-112
・「諸山縁起」「寺社縁起 日本思想大系20」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)pp.102-103
・むしゃこうじみのる「伏見宮旧蔵本『宝蔵絵詞』について」「和光大学人文学部紀要 7・8・9」(和光大学, 1972, 1973, 1974)pp.37-42
・山本陽子「切目王子小考―熊野曼荼羅から一本ダタラまで―」「明星大学研究紀要【日本文化学部造形芸術学科】」第12号(明星大学, 2004)pp.29-36
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)pp.189-246
・「一目小僧その他」(柳田国男, 角川学芸出版, 2013)pp.11-71
・「定本柳田国男集 第四巻」(柳田国男, 筑摩書房, 1968)
・鈴木宗男「熊野参詣儀礼の記録と説話―切目王子の豆の粉化粧説話をめぐって―」「古文学の流域」(水原一, 新典社, 1996)pp.343-363
・筑土鈴寛「使霊と叙事伝説」「筑土鈴寛著作集第四巻 中世宗教芸文の研究二」(筑土鈴寛, せりか書房, 1996)pp.279-302

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反乱とは別の伝説も――滝夜叉姫と如蔵尼

◆芸北神楽の新舞

 広島県の芸北神楽に「滝夜叉姫」という新舞(戦後の新作神楽)がある。滝夜叉姫は関東で乱を起こした平将門の娘で、父の仇を討つために貴船神社に七日七夜の願掛けをする。その一念が通じて妖術を授かる。滝夜叉姫は反乱を企てるが、陰陽道に通じた大宅(おおやけ)中将光圀(みつくに)が征伐に向かい、抵抗したものの討ち取られるという粗筋である。

◆歌舞伎「忍夜恋曲者―将門―」

 芸北神楽の「滝夜叉姫」は歌舞伎の「忍夜恋曲者(しのびよる こいはくせもの)」が出典と思われる。「忍夜恋曲者」では島原の如月という傾城(遊女)に扮した滝夜叉姫が大宅太郎光圀に近づくが、光圀は姫の正体を見破る。滝夜叉姫は蝦蟇(ガマ)の妖術を使って光圀を苦しめる……という内容である。

◆伝説

 「ふるさとの伝説 8 城・合戦」(伊藤清司/編, ぎょうせい, 1990)に収録された「滝夜叉」の伝説だと、福島県が舞台となっている。

 天慶年間(938~947年)に朝廷に反旗を翻し、自ら新皇と名乗った平将門は関東一帯を席捲するが、反撃に転じた朝廷側の前に敗れ、将門をはじめとした配下たちはことごとく打ち滅ぼされてしまった。
 が、北を目指してひそかに落ち延びる者がいた。将門の娘、滝夜叉姫と兄の良門(よしかど)である。追手から逃れた二人は奥州の恵日寺に庵を結んで新たな生活を始めた。
 しばらくすると、滝夜叉姫は近在の者たちに地蔵菩薩の信仰を説いて回るようになった。高貴な姿の滝夜叉姫に惹かれ、多くの老若男女が姫の許に集まるようになっていった。
 しかし、姫の布教は純粋な信仰心から出たものではなかった。宗教に名を借りてできるだけ多数の帰参者を集めて彼らを扇動するつもりなのであった。姫は表向き尼僧の姿ではあったが、豊かな黒髪をたくわえ、手にした錫杖には刀が仕込まれていた。
 機は熟したと判断した滝夜叉姫と良門は地蔵菩薩の名の元に集まった信者たちの信仰心を巧みに朝廷に対する敵愾心に転じてみせたのである。もともと辺境の土地で中央の搾取に悩まされていたから、皆の内にわだかまっていた鬱屈した心に火をつけたのである。
 自分たちだけの王国を作る、そう意気込んだ人々が立ち上がった。加えて滝夜叉姫は勝軍(しょうぐん)地蔵の呪術を会得していたので、反乱軍はたちまち勢力を伸ばし、相馬の一体を彼らの勢力下に置いた。
 一方、事態を重く見た朝廷は大宅(おおや)太郎光圀をを総大将とする大軍を派遣した。怒涛のように押し寄せる精鋭部隊を相手に反乱軍は奮闘した。しかし、所詮は一地方を拠り所にする少数派に過ぎない。数の上で圧倒的な優位を誇る征討軍に反乱軍は崩れ落ちてしまった。
 相馬の居城で良門は討死にした。滝夜叉姫も最期を遂げたであろうとと無念の涙を流し、人々がそう囁き合っていたそのとき、朝廷軍に制圧された城の門を凄まじい勢いで駆け抜けていく者がいた。滝夜叉姫と姫を乗せた白馬であった。
 あれこそは敵の首領だ、総大将の号令の下、朝廷軍は騎馬を繰り出して追撃した。しかし、相馬は原野で馬を放し飼いにする土地であった。滝夜叉姫の乗った馬は草原に放たれた馬の群れに紛れ込んでしまい、朝廷軍の探索は徒労に終わった。
 反乱が終息し、時代は下っても、牧場の群れの中に滝夜叉姫を乗せた白馬を見かけたと語る者はあとを絶たなかったという。

 勇壮な伝説である。芸北神楽の新舞の特徴は姫が貴船神社で妖術を授かったとしていることだ。ところが、一方で平将門の娘である姫には全く別の伝説が語り伝えられているのである。

◆今昔物語

 今昔物語の「陸奥国の女人、地蔵の助けにより活(よみがえ)りを得る語(こと)」に平将門の娘であるともされる尼(如蔵尼)の伝説が語り伝えられている。一旦死んで、冥途に行った女人だったが、地蔵菩薩の助けで、善行を積んだ罪のない善人と閻魔大王に判定され蘇ったという伝説である。

陸奥国女人依地蔵助得活語第二十九(みちのおくのにょにんじぞうのたすけによりてよみがえるをうることだいにじゅうく)

 今は昔、陸奥国に恵日寺と云う寺があった。これは興福寺の前の入唐の僧である得一菩薩と云う人が建てた寺である。その寺の傍らに一人の尼がいた。これは平政行(たいらのまさゆき)と云う者の第三の娘である。この尼は出家していなかった時、姿形が美麗で心は柔和であった。父母があって、度々夫と合わせようと(結婚させようと)したが、全くこれを好まず、寡婦(やもめ)にして年を送った(重ねた)。
 そうした間にこの女人は身に病を受けた(病気になって)、日ごろ悩み煩(わずら)って遂に死んでしまった。冥途に行って閻魔の庁に至った。自ら庭の内を見れば、多くの罪人を縛って、罪の軽重を勘定して定めていた。罪人が泣き悲しむ音は雷の響きのようであった。この有様を見て聞くに、肝が砕けて心は迷って限りなく耐え難かった。その罪人の考える(勘える)中に一人の小僧がいた。その形は端正で厳めしかった。左の手に錫杖を取り、右の手に一巻の書を持って東西に往復して罪人の罪の軽重・有無を計っていた。その庭の人は皆この小僧を見て「地蔵菩薩が来たもうた」と言った。この女人はこれを聞いて、掌を合わせて小僧に向かって地に跪いて泣く泣く申した。「南無帰命頂礼地蔵菩薩」と三度申した。その時、小僧が女人に告げて宣わく、「汝は私を知っているか否か。私はこれ三途の苦難を救う地蔵菩薩である。私が汝を見るに、既に多大の善根を積んだ人である。そうであるならば、私は汝を救おうと思う。いかに」と。女人は申して云った。「願わくは、大悲者(大慈悲の心を持って衆生を済度する菩薩)よ、私の今度の命を助けてください」と。その時に、小僧は女人を引き連れて、閻魔庁の前に行き向かって、訴えておっしゃった。「この女人は大いに信心のある良人である。女の形を受けたと言えども、男と姦淫の業を成したこと無いためである。今既に召されたと言えども、速やかに返し遣わして、いよいよ善根を修めさせようと思う。どうだろう」と。王は答えておっしゃった。「ただ仰せの旨に従うべし」と。
 そうだったので、小僧は女人を門の外に連れ出し、「私は一行の法文を持っている。汝はこれを受けて保つか否か」と。女人は答えて言った。「私は能く保って忘れまい」と。小僧は一行の法文を唱えておっしゃった。
 人身難受 仏教難値 一心精進 不惜身命
 またおっしゃった。「汝は極楽に往生すべき縁がある。今その肝要な句を教えよう。ゆめゆめ忘れるな」と言って、
 極楽の道の標(しるべ)は我が身なる心一つが直きなりけり
 と、このように聞く。と思った間に蘇っていた。
 その後、一人の僧を請じて出家した。名を如蔵と云う。心を一にして地蔵菩薩を念じ奉る。この故に、世の人はこの尼を地蔵尼君と言った。このようにして年を重ね、歳八十歳あまりにして、心違わず端座して口に念仏を唱え、心に地蔵を念じて入滅した。
 これを見聞きした人は尊ばないことはなかった、と語り伝えるとや。

 ここでは平将行の三女とされているが、注釈では平将行は伝未詳で、行は門の誤写かとされている。伝説によっては、反乱を起こしたものの討伐され、敵の囲いの中を自ら白馬にまたがり奥州玉山村の恵日寺に逃れ、寺内に庵を結んで仏門に帰依し、地蔵菩薩を信仰した。そしてあるとき病で息絶えるが、地蔵菩薩の救済で蘇り、得度して「如蔵尼」となったとしている。

「今昔如蔵尼物語」「徳一菩薩 ―ひと・おしえ・がくもん―」では如蔵尼は単に蘇ったのではなく、罪深き者たちは六道輪廻で地獄・餓鬼・畜生の三悪道が行く先であるところ、人間界に戻された、あるべき理想の人間として新生したという風に解釈している。

◆平将門の首塚

 皇居の近くに平将門を祀る首塚がある。読売新聞社からほど近い。祟りで有名な首塚であるが、江戸城を守護するため、神田明神は江戸城の丑寅の方角に移転させられたとのことで、霊威の強さを伺わせる。将門公は新皇を名乗ったため朝敵であるが、関東地方では庶民の人気が高く、将門公にまつわる伝説も多く残されているようである。

平将門・首塚・境内
平将門・首塚
解説・将門塚
将門首塚の由来
解説・将門塚

◆広島発のドラマ

 2016年にNHKBSで「舞え!KAGURA姫」というドラマが放送された。NHK広島局の制作である。東京から芸北地方に引っ越してきたヒロインが神楽と関わることで人間らしさを取り戻していくという内容らしい。劇中でヒロインが舞うのが「滝夜叉姫」なのである。なお、ヒロイン役は朝の連続ドラマでも主役を務める葵わかなである。

◆余談

 動画投稿サイトで芸北神楽の「滝夜叉姫」を鑑賞する。結末は上記台本とは異なっていて、光圀に敗れた姫が改心するという内容のようであった。芸北神楽を鑑賞するのは初めてであったが、見た感じ「塵輪」を二倍派手にしたような演出であった。

◆参考文献

・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)pp.50-53
・「国立劇場歌舞伎公演上演台本 昭和48年1月~昭和48年12月」(国立劇場, 1992)pp.35-41
・「ふるさとの伝説 8 城・合戦」(伊藤清司/編, ぎょうせい, 1990)pp.40-41
・「伝説の女たち」(毎日新聞特集版編集部/編, 毎日新聞社, 1992)pp.48-52
・「徳一菩薩 ―ひと・おしえ・がくもん―」(高橋富雄, 歴史春秋出版, 2000)pp.63-71
・「日本伝説大系 第5巻 南関東編」(宮田登/編, みずうみ書房, 1986)pp.69-77
・岡田清一「平将門」「在地伝承の世界【東日本】講座日本の伝承文学 第七巻」(徳田和夫, 菊地仁, 錦仁, 三弥井書店, 1999)pp.84-98

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2017年12月16日 (土)

土地の開墾で責任を取った伝説――大東町のすくも塚

◆はじめに

 日本標準の「島根のむかし話」に「すくも塚」というお話が収録されている。話者が大原郡大東町の人であり、その土地にまつわるお話であるので大東町の伝説であると思われるが、昔話として収録されている。

◆粗筋

 昔々、この辺(大原郡大東町)は田畑が少なく土地がやせていたので米や麦はあまり獲れなかった。村人は食べ物が少なくて困っていたが、加えて毎年年貢を収めねばならなかった。与兵衛という庄屋がいた。与兵衛は何とかして村人を救ってやりたいと考えていた。そこで荒れた土地を開くことを考えついた。そこで川原を開きたいと代官に願い出た。ところがそこの頃は土地を広げたり道を付け替えるようなことは中々許しがでなかった。与兵衛は根気よく何回も頼んだがどうしても許しが出なかった。
 こうなれば自分が責任を取る他ない、そこで与兵衛は自分の家や土地を売って色々な道具を買ったりに人夫賃の準備をした。村人たちは喜んで集まってきた。土地を開いていることが役人に知られないよう一生懸命に働いた。
 新しい土地が出来上がった。が、悪いことに役人が土地を調べに来るということになった。こうなっては仕方がない、与兵衛は村の者を集めて、土地を開いたが、本当のことを言うと、殿様の許しが出ていないのだ。役人に見つかってもお前たちに罪はない。この土地を大事にして暮らすのだぞと言った。村の者たちは誰もがびっくりした。与兵衛は自分はもう覚悟している。その代わり、自分が死んだらこの土地がよく見える所に埋めてくれと言って役人が来るのを待った。
 役人が来た。与兵衛は今までのことを全部話した。そして全ては自分が勝手にやったこと。村人には罪がありません。私の我がままを許してくださいと腹を切って死んでしまった。役人たちは命がけで村人を救った与兵衛に感心して何も言わずに帰った。
 村人は与兵衛をこの土地がよく見える丘に埋めてお祀りした。その土地が「すくね(宿祢)」という土地だったのが、いつの間にか「すくも」と呼ぶようになり、与兵衛の墓をすくも塚というようになった。

◆すくも塚

 島根県ですくも塚というと、大抵の場合、益田市久城町のスクモ塚を指すだろう。石見地方でも大きな規模の前方後円墳(または円墳と方墳が合体したもの)である。他、地図で確認しただけだが、三瓶山麓にもスクモ塚がある。

 大東町のすくも塚も古墳だろう。それが江戸時代になって新田開拓の話と結びついたのだろう。

 大東町に関してもネットで検索したところすくも塚がヒットした。なので、大東町の伝説と考えていいだろう。ネット上の地図には載っているので機会があれは行ってみたい。

 宿祢(すくね)がすくもに転訛したという話だが、宿祢は古代の重臣に対する敬称であり、古墳であることから宿祢塚と元は呼ばれていたのだろう。すくもは広辞苑で調べたところ、藻屑という意味やもみがらのことであるようだ。

◆大東町誌

 雲南市教育委員会に問い合わせたところ、「新大東町誌」の写しが送られてきた。それによると、史料が無いものの、新田の開墾は享保の大飢饉がきっかけで、大塚与兵衛の自刃は寛延十年頃とされている。すくも塚周辺で開墾された新田は二十六石くらいと推定され、一石=人一人を一年養える量と換算されるから、随分と余裕ができたことになる。

◆島根のむかし話

 この伝説は日本標準の「島根のむかし話」に収録されている。が、話者は大原郡大東町の人で、「この土地」と呼んでいることから大東町の伝説と思われる。「島根のむかし話」発刊の時点では対になる「島根の伝説」の発刊は決まっていなかったはずで、それで伝説がむかし話として収録されたものと思われる。

 このように日本標準の「島根のむかし話」は面白い、楽しい話だけではなく悲しい話も収録している。また「島根の伝説」も優れた出来だが、話の撰者が優れたお話を選んだということが分かる。小学生のときに読んで印象に残っていたお話である。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.241-244
・「新大東町誌」(大東町誌編纂委員会/編, 大東町, 2004)

記事を転載 →「広小路」

 

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2017年12月 9日 (土)

六調子石見神楽「山の大王」はメタ神楽か

◆山の大王

 六調子石見神楽に「山の大王」という演目がある。手草(たぐさ)の舞いにつられて出て来た山の大王を祝詞司(のっとじ)がもてなすが、難解な山言葉をしゃべる大王に、それを一々曲解する祝詞司の滑稽な姿を描いたものである。

祝詞司「山の大王さん、大変ご苦労さまでございました。わしゃ言葉が解りませんから、どうぞ大和言葉でおっしゃって下さい」
大王「あいあい。祝詞司、さんげ、さんげ」
祝詞司「大王さん、さんげさんげとおっしゃっても、今子供を産めというても産むものはいませんが、後家くらいではどうでしょうか」
大王「いやいや、さんげとはお前のいう子供を産むことではない。神明から申して、かのみそぎのことじゃ」
祝詞司「みそぎと言うのは」
大王「神明から申して、かの祓いのことじゃ」
祝詞司「高天の原に神づまります、神漏岐漏美(かむろぎかむろみ)の命以ちて、皇御祖(すめみおや)いざなぎ命、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原(あはぎ)、禊ぎ祓いし時に成りませる祓戸の大神たち、もろもろの禍事、罪汚れあらむをば、祓い清め給へと申す事の由を天津神国津神八百万の神たち、共に聞こしめせとかしこみかしこみ申す」
  祝詞司の祓詞が途中間違うと、大王は機嫌が悪くなる。
大王「うん、なかなか良く出来た」
祝詞司「神饌ものは、何から先に供えましょうか」
大王「あいあい、祝詞司、からくり、からくり」
祝詞司「からくりからくりと申されても、今からあの遠い唐の国は栗を拾いに行くのは出来ませんが、私のやりくりさねくり(女陰、陰核か)では、どうでございましょうか」
大王「これこれ、やりくりさねくりの事ではない。神明から申してお神酒の事じゃ」
  ここで神酒を大王に捧げる。
「山の大王が降りなされて、神酒を上る時や、左廻しが十九と九つ、右に廻しが十九と九つ、廻いたり廻いたり」
大王「うん、なかなか良く出来た。今度は、仏の耳、仏の耳」
祝詞司「仏の耳仏の耳と言いましても、仏の耳を取りに行くわけには参りません。私の耳ではどうでしょうか」
大王「仏の耳ではない。神明から申して鏡餅のことじゃ」
  大王に鏡餅を捧げる。
大王「今度は、またあり、またあり」
祝詞司「又あんなことを言われるが、またありまたあり言うて、人の股を借りてくる訳には行きませんが、私の股ではどうでしょうか」
大王「人の股の事ではない。神明から申して肴の事じゃ」
  祝詞司が肴を捧げるとき、長短二本の箸を用いる。
大王「これこれ、祝詞司、上箸が長く、下箸が短いのは一体どうした訳じゃ」
祝詞司「上箸の長いのは悪魔災難をずっと押しのけるためです。下箸の短いのは、福徳円満をずらずらずらずらと引っ込むためです」
大王「ふん、なるほど、もう一回やり直せ」
  やり直し。次いで神饌を下げる。
大王「うん、なかなかよく出来た。大王は一足先に帰るから、祝詞司も早く帰って来い」
  大王入り、祝詞司、舞い収めて入る。

◆手草の先

 校訂石見神楽台本では一名「手草の先」とあり、「手草の後」の意であり、その伝来は古いとしている。八調子石見神楽では手草を真榊として改訂しており、「山の大王」は改訂の際省かれたのだろうと推察している。

 「校訂石見神楽台本」では戯事としており、実際に滑稽な内容であるが、神を招いてもてなし、神を送り返す(祭却)という内容であり、神楽内神楽という見方もできるのではないだろうか。入れ子構造である。観客の視点と演者の視点のズレはいわばメタ視点と言えるかもしれない。「山の大王」はメタ神楽なのだ。

 出雲神楽において神楽の演劇化が始まり、石見神楽にもその影響が及んだが、古い六調子神楽の時点でメタフィクショナルな視点を既に得ていたという見方も可能ではないだろうか。

◆山の神と炭焼き

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」でも「山の大王」は取り上げられている。参考資料として「山の神と炭焼き」が挙げられている。

 昔、ある処に炭焼きがいて、毎日山に行って炭を焼いていた。ある日、山の天狗が着て「わしも炭を焼いて暮らしているが、お前は一日にどのくらい仕事がなるか」と言った。「この竈へ一杯木を伐って立てるには五、六日かかる」と言うと、天狗は「それなら竈を開けておけ、わしが一杯炭を焼いてやる」と言ったので、炭焼きはその通りにして寝た。
 朝起きてみると、竈の中に木が一杯入っていた。これは昨日の天狗の仕業だと思って、竈へ火を焚いていると、天狗が来て、今日は火を焚かしてもらおうと言う。炭焼きは「大変ご苦労して下さったので、お酒をあげようと思いますが、肴が何も無い」と言うと天狗はその一言を聞いただけで逃げてしまった。それは山では天狗にはマタアリと言わなければならないのに、肴と言ったため、食べずに逃げられたのである。
 そこで炭焼きは天狗へ断りを言ってもらうように山の神へお願いした。すると山の神はそれならば自分が断りを言ってやろうと言われたので、今度は山の神に向かって「お礼をしなければならないが、お酒を差し上げましょうか、それともお餅を搗いてあげましょうか」と言うと、山の神は逃げていなくなった。
 山の神は餅と言うと気に入らない。ネコノミミと言わねばならなかった。炭焼きは二度も不作法したので、山の木を伐っている時に、木にはねられていなくなった……という内容。

 「山の神と炭焼き」の昔話を読むと、「山の大王」の意味する所がようやく伝わって来る。

◆山の神

 出雲神楽には類似の演目として「山の神」(山神祭、香具山)という演目があるとのこと。先ず柴叟(しばそ)と称する直面の者が両手に柴を持って舞う。次に着面の山の神が白幣を持って現れて柴叟を見つけて「我が山の柴を勝手に取るものは何者か」となじる。そして追いつ追われつとなるが、やがて山の神は柴叟を捕らえ、持っている柴を取り上げる。ところが柴叟は開き直り、「われは天照大神に仕える春日大明神なり」と名乗る。たちまち山の神は平伏する。柴叟がさらに「この度天照大神が天の岩戸にお隠れになったので、岩戸の前でお神楽をすることになった。そのため真榊がいるので、自分が採りに来た」と言う。そこで山の神はそれならばこれを献じましょうと言って、取り上げた柴を改めて柴叟に奉る。春日大明神は褒美として山の神に宝剣を与える。山の神はそれによって「悪切り」の舞いを舞う、という内容である。

 大田市の仙山神楽の「山の神」では山の神が荒平となっていることが特徴として挙げられる。荒平は広島の十二神祇神楽で登場する鬼で、道返しの鬼のルーツとも言える存在である。

◆抜月神楽

 「山の大王」や「山の神」のルーツを探ると、抜月神楽に「山舞」という古い儀式舞があることが分かった。ただ、この舞は藁蛇を使った舞ですなわち蛇神なのだ。蛇体から人体に変貌する上では幾つかの変遷があるものと思われるが、そのミッシングリンクを埋めるものはあるだろうか。

 石塚尊俊「山の神出現の神楽」では「山の神」のルーツを求めて遠く土佐や日向の神楽を取り上げている。そこでは神が直面の者の舞いで誘い出され、司祭者の代表と問答をして、その答えに満足して帰るという形となっており、「山の大王」や「山の神」に至る原型がほの見えて来る。

◆動画

 Youtubeで検索すると「山の大王」がヒットする。一分ほどしか収録されていないが、それでも笑い声に満ち溢れていて、観客を楽しませるものであることが伝わってくる。

◆芸北神楽の新舞

 広島県の芸北神楽の新舞に「天香山(あまのかぐやま)」という演目がある。天照大神が天の岩戸に籠ったので、世界は闇に閉ざされる。そのため神々が集まって協議する。天児屋根命が祭りに使う真榊を天香山に採りに行くことになる。天児屋根命が真榊を採ったところ、大山津見神が現れ、自分に断りなく真榊を取るのは誰だと問う。天児屋根命は自ら名乗って天の岩戸を開くため真榊が必要であることを訴える。大山津見命は快く応ずる。天児屋根命は代わりに神剣を大山津見命に与え、四方の魔物を調伏すべきことを伝える。魔神が登場し、大山津見神と戦うが討ち取られる……という内容である。

 「天香山」は出雲神楽の「山の神」とほとんど同じ粗筋であることが分かる。一方で「山の神」には無い大山津見神と魔神の立ち合いという要素が付加されている。これに関しては蛇足であるように感じられる。

◆余談

 「山の大王」は「神楽と風流 山陰民俗叢書9」を読んでいて石塚尊俊「山の神出現の神楽」で存在を知った。「満足した。帰る」が気に入った。校訂石見神楽台本では戯事との評であるけれど、こういうのが好みなのである。八調子神楽でも取り入れるところがでないか。

◆参考文献

・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.214-217
・石塚尊俊「山の神出現の神楽」「神楽と風流 山陰民俗叢書9」(山陰民俗学会, 島根日日新聞社, 1996)pp.16-23
・石塚尊俊「山の神出現の神楽」「山陰民俗」第27号(山陰民俗学会, 1976)pp.8-13
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)pp.228-231
・「西日本諸神楽の研究」(石塚尊俊, 慶友社, 1979)pp.381-385
・「里神楽の成立に関する研究」(石塚尊俊, 岩田書院, 2005)pp.111-118
・川上登「山の神と荒平―仙山神楽の詞章―」「山陰民俗」第32号(山陰民俗学会, 1979)pp.57-58
・牛尾三千夫「信仰としての神楽」「西石見の民俗」(和歌森太郎, 吉川弘文館, 1962)
・「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)
・「見々久神楽 (島根県古代文化センター調査研究報告書 9) 」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2001)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・三村泰臣「佐伯郡佐伯町の神楽―旧佐伯郡津田村を中心として―」「広島民俗」第57号(広島民俗学会, 2002)pp.28-38

記事を転載 →「広小路

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