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2017年9月

2017年9月28日 (木)

ユングの元型の概念で昔話を分析――河合隼雄「昔話の深層」

河合隼雄「昔話の深層 ユング心理学とグリム童話」を読む。ユングの心理学に基づいてグリム童話を解釈したもの。ユングの提唱した元型(アーキタイプ)という概念に基づいて童話を分析するのである。

グレートマザー(太母)や影(シャドウ)、トリックスター、アニマ、アニムスなどといった概念に基づいてグリム童話の様々なお話が解釈されていく。童話と元型の概念は相性が良いようで、日本人が日本語で書いた本ということもあって分かり易い。

グレートマザーとは全てを包み込むような母性であるが、反面、全てを呑み込んでしまうような恐ろしい一面も見せる。影(シャドウ)はもう一人の自分。トリックスターは神話や昔話に登場するいたずら者。アニマとは男性が自分の内に持つ理想の女性像。恋をするということは、自分のアニマを相手に投影するということでもある。アニムスは女性の中にある理想の男性像。女性にとってアニムスは父性像という形で現れる。全てを包み込むグレートマザーとは正反対に、父性は全てを分割、処断していく厳しい一面を持っている。

巻末には実際に分析に用いられた昔話が収録されている。グリム童話は子供の頃に読んだきりで、大人になってから目を通したことはなかった。子供向けにマイルドにされたお話ばかりではないとのことで、例えば「トルーデさん」といった怖い結末の作品も収録されている。「トルーデさん」については夢オチに改変すればいいのではないかと思うが。

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2017年9月24日 (日)

隠れ里か猿神退治か浦島太郎か――高田六左衛の夢

◆粗筋
 昔、高田余頃(よごろ)というとこりに鬼の穴という洞穴があった。奥がでれほどあるのか、誰も入ったものがいない。
 近くに六左衛という肝の太い鉄砲うちがいて、いつかその鬼の穴に入ってみたいと考えていた。
 ある日、「おかみさん、俺はあの鬼の穴に入ってみようと思う。弁当をこさえてくれ」と言った。おかみさんは驚いて「お前さん、何をおっしゃるのやら、やめて下さいな」と止めようとしたが、六佐は聴かない。
 無理に作らせた弁当を持って、穴の中へどんどん入っていく。中は真っ暗で何もないところをおよそ一日も歩いたかと思う頃、彼方に灯りが見えてきた。
 「ようやく出口を見つけた」と更に進んでいくと、穴の出口へ出た。見たことのない山奥で谷あいに小川が流れている。水をすくって飲んでいると、椀が一つ流れてきた。川上に誰か住んでいる、と小川の岸を上流へと上がっていった。
 すると村があった。着いてみると、村ではお囃子が鳴り響き、幟(のぼり)が立っている。ところが不思議なことに、一軒の家では賑やかな酒盛りをしているのに、隣では人々が泣き悲しんでいた。
 どうしたことか訊いてみると、「ここの氏神様の祭りには毎年娘を一人、人身御供にあげることになっていて、くじ引きをしたら、当たったところでは悲しみ、外れたところでは喜んでいる」と村人が答えた。
 可哀想に思った六佐は助けてやろうと決心した。人身御供の家に行き、自分が娘の代わりに行こうと言った。 六佐は強そうに見えたので、人々は助かったと喜んだ。
 六佐は赤い着物を着て女装し、人身御供に使う長持ちの中に入った。長持ちには細い穴が開けてある。明日の朝、太鼓が鳴ったら、六佐が生きている合図だ、迎えに来るようにと頼んで、山の宮へ担がれていった。
 宮の拝殿に長持ちを置いた村人たちは逃げるように帰っていった。
 夜が更けた。拝殿の扉が開いた。六佐が長持ちに開けた穴から覗いていると、二人の小坊主が現れた。
 小坊主が長持ちの蓋に手を掛けた。六佐はここぞとばかりに長持ちの穴から鉄砲をぶっ放した。一人の小坊主があっと叫んで消えた。次の弾をこめると、逃げようとするもう一人の背中めがけて、またぶっ放した。小坊主はあっと叫んで消えた。やがて静まり返り、六佐は息を殺して耳を澄ましたが、何も起こらなかった。
 夜が明けた。六佐は長持ちから出て太鼓を精一杯打ち鳴らした。すると村人たちが上がってきた。六佐から夕べの話を聞き、点々と落ちている血の跡を辿っていくと、洞穴の中に二疋の古狸がいた。村人は古狸を打ち殺してしまった。
 こんなうれしいことはないと、村中でお祭りをして祝った。六佐は強い人だから、うちの娘の婿(むこ)になってくれと頼まれた。困った六佐は「家におかみさんがいるから、帰らなければ」と断った。
 六佐はお礼の品を貰い、もと来た道を引き返した。洞穴を抜けて、自分の村に出てみると、どことなく様子が違う。自分の家があった辺りは畑になっている。
 畑を耕している爺さんに話を聞いてみると、何でも、昔、六左衛という人の家があったらしい。これが六左衛のかみさんの墓だと教えてくれた。
 六佐はたった四、五日のことだと思ったのに、そんな昔のことなのかと合点がいかない。おかみさんの墓の前で跪くと泣き出した。
 すると、「お前さん、何言ってるかね」というおかみさんの声でパッと目が覚めた。みんな夢だったとさ。

 ……村は隠れ里か、六左衛の活躍は猿神退治か、そして結末は浦島太郎かと思わせつつ、結局は夢落ちで終わってしまうお話である。

◆誤読した粗筋
 最初に読んだとき、全体で6ページあるのだけど、真ん中の2ページを飛ばして読んでしまっていた。その様に粗筋を書くと下記のようになる。

 昔、高田余頃というとこりに鬼の穴という洞穴があった。奥がでれほどあるのか、誰も入ったものがいない。
 近くに六左衛という鉄砲うちがいて、いつかその鬼の穴に入ってみたいと考えていた。
 おかみさんに無理に作らせた弁当を持って、洞穴の中へどんどん入っていく。中は真っ暗で何もないところをおよそ一日も歩いたかと思う頃、彼方に灯りが見えてきた。
 「ようやく出口を見つけた」と更に進んでいくと、穴の出口へ出た。見たことのない山奥で谷あいに小川が流れている。椀が一つ流れてきた。川上に誰か住んでいる、と小川の岸を上流へと上がっていった。
 すると村があった。着いてみると、村ではお囃子が鳴り響き、幟が立っている。ところが不思議なことに、一軒の家では賑やかな酒盛りをしているのに、隣では人々が泣き悲しんでいた。
 どうしたことか訊いてみると、「ここの氏神様の祭りには毎年娘を一人、人身御供にあげることになっていて、くじ引きをしたら、当たったところでは悲しみ、外れたところでは喜んでいる」と村人が答えた。
 困った六佐は「家におかみさんがいるから、帰らなければ」と村人の願いを断った。
 六佐はもと来た道を引き返した。洞穴を抜けて、自分の村に出てみると、どことなく様子が違う。自分の家があった辺りは畑になっている。
 畑を耕している爺さんに話を聞いてみると、何でも、昔、六左衛という人の家があったらしい。これが六左衛のかみさんの墓だと教えてくれた。
 六佐はたった四、五日のことだと思ったのに、そんな昔のことなのかと合点がいかない。おかみさんの墓の前で跪くと泣き出した。
 すると、「お前さん、何言ってるかね」というおかみさんの声でパッと目が覚めた。みんな夢だったとさ。

 ……という具合に読んだのだが、読み飛ばしても意外と繋がっていたのだ。これだと六左衛が活躍するはずのところを、家にかみさんがいるからと渋ってしまうという妙な流れになってしまう。何とも不思議な味わいの昔話だと思っていたら、真ん中のページを読み飛ばしていただけだったというオチであった。

◆アニメ
 「高田六左衛の夢」は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。石塚尊俊(未来社刊)より、スタッフは、演出・美術・作画:久米工、文芸:境のぶひろ。

 昔、出雲の片田舎、高田の余頃というところに六左衛という名の鉄砲うちがいた。こうした山里には一人くらい鉄砲うちがいたものだ。そして普通の人とはどこか変わったところのある男たちだった。六左衛もその内の一人だった。
 六佐はかみさんに明日は鬼の穴に入るから、朝早くから出る。弁当を作ってくれと言う。おかみさんは鬼の穴には鬼が住んでいる、とんでもないと言ったが、六佐は鬼がいるかどうかは入って見なければ分からない。人は恐れて入ろうとしないが、自分は入ろうと思うと答えた。
 あくる朝、六左は鬼の穴へと出かけた。確かに六佐は肝の太い男だった。鬼の穴はどれくらい深いか見当もつかない深い洞穴で、入り口の前に立つと唸り声のような音がして人を震え上がらせた。
 その日の鬼の穴は六佐を迎え入れるかのように、しんと静まり返っていた。と、と、松明の火が消えた。どちらへ行けばいいのか、仕方がないので弁当を食べた。そうして、風向きを調べて、風の吹いてくる方向へと進んでいった。と、六左は落とし穴に落ちてしまった。すると、小鳥の声が聴こえる。出口が見つかった。
 出口から出ると絶景だった。どうしたことか、家を出るときには雪が積もっていたのに、ここでは春で雪は積もっていなかった。
 小川で顔を洗っていると、上流から椀が流れて来た。上流には誰か住んでいる、六佐は上流へと向かった。どんなことがあろうとも、恐れる六佐ではなかった。やがて村に出た。
 村では家々に幟を立て、お囃子が響いていた。ところがある一軒では、村人が嘆き悲しんでいた。向かい合わせの家で、向こうは酒盛り、こっちは悲しんでいる、何とも不思議な光景だった。せっかく来たのだから、訳を聞かせて貰おうと、嘆き悲しんでいる家に向かった。すると、ここの氏神は化物で、毎年娘を一人、人身御供に上げねばならない。くじを引いたら当たってしまったので、こうして悲しんでいるのだと答えた。
 六佐はそれならば自分が身代りになろうと言って、娘の着物を羽織ると、長持ちの中に入った。明日の朝、氏神様の太鼓が鳴ったら、自分が生きている証拠だと言って、長持ちの中に身を潜めた。
 長持ちには六佐の注文で、外が見える様に穴が開けられていた。長持ちはお社の拝殿の前に置かれた。六佐は息を殺して時を待った。
 と、真夜中を過ぎた頃、拝殿の扉が開いた。すると中から一つ目の化物が二体出てきた。そこで六佐は狙いを定めると鉄砲をぶっ放した。化物は消えた。不思議な地響きがしたが、やがて止んだ。
 夜が明けた。暗い内に起きだす六佐ではなかったが、もう大丈夫と長持ちの外へと出た。六佐はしっかりバチを握ると、太鼓を打ち鳴らした。聞きつけた村人たちがやって来た。
 さて、化物の正体はというと、二匹の大狢(むじな)だった。長年に渡って、村の娘の生き血をすすってきた大狢を見て、村人たちは言葉も無かった。
 村は二日続きの祭りとなった。なにせもう悲しむ者はいないのだから。挙句の果てに、六佐に命を救われた娘の父親が六佐に婿になって欲しいと頼む。せっかくだが、自分には長年連れ添ったかみさんがいると六佐は断った。
 村人たちは沢山のものを六佐に贈り物として与えた。不思議なことに、気がつくと六佐は鬼の穴の入口に立っていた。だが、六佐の家が跡形もなく消えていた。通りかかった爺さんに訊いてみると、昔、自分の爺様の話だと、昔、六左衛という人の家があったというと答えた。そして、あれが六佐のかみさんの墓だと答えた。たった二日のことだったのに、六佐は墓に積もった雪を払った。すると、六佐のかみさんの名前が彫られていた。こんなことなら、鬼の穴の中に入るんじゃなかったと嘆いていると、おかみさんの声で目が覚めた。夢だった。その後、六佐は二度と鬼の穴に行くとは言わなかった。かみさんの傍が一番だと。

◆今昔物語
 今昔物語「飛騨国猿神止生贄語第八(ひだのくにのさるかみのいけにへをとどむることだいはち)」では隠れ里における猿神退治の話が収録されている。

 今は昔、仏の道を修行して歩く僧がいた。いずこともなく修行し歩くうちに飛騨の国まで行った。

 そうこうしているうちに山深く入って道に迷ったので、出る方向も分からないところに、道と思しく木の葉の散り積もった上を分け行くと、道が行き止まりになって大きな滝で簾をかけた様に高く広く落ちる所に行き着いた。引き返そうとしたけれども、道も分からない。行こうとすれば手を立てたような断崖の一、二百丈ばかりで、登ることのできる様子も無いので、「ただ仏よ助け給え」と念じていると、後ろに人の足音がしたので振り返って見ると、荷物を負った男が笠を被って歩いてきたので、「人の来たことだ」と嬉しく思って「道の行き方を問おう」と思うと、この男は僧を非常に怪し気に思った。僧はこの男に歩き寄って「どこからどうしてやって来た人か。この道はどこに出るのですか」と問うたけれども答えも無く、この滝の方に歩いて向い、滝の中に飛び込んでいなくなったので、僧は「これは人ではない。鬼でしょう」と思っていよいよ恐ろしくなった。「自分は今どうにも逃れ難い。さればこの鬼に喰われる前に彼が飛び込んだ様にこの滝に飛び込んで身を投げて死のう。死んだ後に鬼が食っても苦しくないだろう」と思い、歩み寄って「仏よ、後生を助け給え」と念じて、彼が飛び込んだ様に滝の中に飛び込んだところ、顔面に水を注ぐ様にして、滝を通った。「今に水に溺れて死んでしまうだろう」と思うと、なお正気だったので、立ち返って見ると滝はなんとただ一重に簾をかけた様であった。滝より内側には道があり、そのままに行くと、山の下を通って細い道があり、それを通り過ぎてしまえば、向こうに大きな人里があって、人の家が多く見えた。

 なので僧は「嬉しい」と思い歩き行くと、荷物を負った男が背負ったものを置いて走り向かって来た。後ろに大人しい男で浅黄の裃を着た男が遅れまいと走ってきて、僧を引いた。僧は「これはどうしたことですか」と言えば、この浅黄の裃を着た男はただ「私の許へ来なさい」と言って引いていくと、あちらこちらから人々が数多く来て、各々が「私の許へ来なさい」と言って引っ張り合ったから僧は「これはどうしたことだろう」と思っていると、「このような滅茶苦茶な奪い合いをしてはならない」と言って「郡司殿に参って、その定めに従ってこそよかろう」と言って、集まり付いて行けば、何が何やら訳の分からぬまま行くと、大きな家があってそこに行った。

 その家から年老いた翁がもったいぶった様子で出て「これはどうしたことだ」と言ったので、この荷物を負った男が言うには「これは、自分が日本の国から詣でて来てこの人に差し上げたのです」と浅黄の裃を着た者を指して言ったので、この年老いた翁は「とやかく言うべきではない。あの主の得るべきものだ」と言って取らせたので、他の者たちは去った。なので、僧は浅黄の男に取られて、その行く方に行った。僧は「これは皆鬼だろう。自分を連れて行き食おうとしてるのだ」と思うと、悲しくて涙が落ちた。「日本の国と言ったのは、ここはどういう所で、このように遠そうに言うのです」と怪しく思う様子をこの浅黄の男が見て、僧に言うには「分からないと思いなさるな。ここはとても楽しい世界である。思い煩うこともなく豊かに暮らせましょう」という内に家に行きついた。

 家を見ると、郡司の家よりは少し小さいけれども、望ましい様に造って男女の使用人が多かった。家の者たちは喜んで待ち、際限なく走り回った。浅黄の男は僧を「早く上がりなさい」と言って板敷に呼び上げれば負った笈(おひ)というものを取って傍らに置いて蓑、笠、藁沓(わらぐつ)などを脱いで上がったところ、すばらしくしつらえた所に座らせた。

 「先ず物を早く参らせよ(食べ物を用意せよ)」と言ったので、食物を持ってきたのを見ると魚や鳥をなんともいえない程見事に調理して差し出した。僧はそれを見て食わずにいたので、この浅黄の男が出て来て「どうしてこれを食べないのか」と言った。僧は「幼くして法師になってから未だこのような物を食べたことがないので、このようにして見ているのです」と言ったところ、「実にそれはさもありなん。しかしながら今はこのような状況なのでこの物を喰わないでいることはできない。かわいく思う娘が一人いるが、未だに独身で歳もよくよくとったので、そなたに娶せよう。今日からその髪を伸ばしなさい。そうだとしても、今は外へ出ることもないだろう。ただ申し上げるのに従っていなさい」と言ったので、僧は「このように言うのに異心を抱くならば、殺されるかもしれない」と恐ろしく思うのに合わせて、逃げていくべきところも無いので、「未経験のことですから、そう申しただけのことです。只今おっしゃったことに従いましょう」と言えば、家の主は喜んで自分の食物も取り出して、二人差し向かって食べた。僧は「仏はいかに思召すのか」と思ったけれども、魚や鳥を食べてしまった。

 その後、夜に入って、歳二十歳ばかりの女で美麗な姿形でよく装束を着た(着飾った)のが来たのを、家の主が押し出して、「娘を差し上げましょう。今日からは私が思うのと変わらず愛情をもって思うべきです。ただ一人の娘なので、その志の程を推し量ってください」と言って帰ったので、僧は何も言えずに近づいた。

 こうして夫婦として月日を過ごすに、楽しいことは一通りでない。思うに従って着衣をつけ、食物はなんでも食べたので、以前と違って引き替えたように太った。髪も髻(もとどり)を取られる程に生えたので、引き結い上げて、烏帽子を被った容姿にして、とても清らかであった。娘もこの夫からとても去りがたく思った。夫も女の志が愛情深いのに合わせて自分もいじらしいと思ったので、夜昼とも起き伏して日を明かし暮らす程に、いつの間にか年月が過ぎて八か月ばかりにもなった。

 そうしているうちに、その頃からこの妻の様子が変わって、深く物思いにふける姿となった。家の主は以前よりも大事にかしづいて「男は肉がつき肥えたのがよい。太りなさい」と言って日に何度も食べさせたので、食べ肥えるに従って、この妻がさめざめと泣くときもあった。夫はこれを怪しく思って、妻に「何事を思っているのか、分からない事だ」と言ったけれども、妻は「ただ心細く思えるだけです」と言って、それにつけても以前に増して泣いたので、夫も承知せず怪しんだけれども、人に問うべきことでもなかったので、そうして過ぎるうちに客人が来て、家の主に会った。互いに話し合うのを静かに立ち聞きすると、客人の言うに「運よく思いもかけない人を得なさった。娘殿のご無事でいらっしゃるのがいかにもうれしく思われます」などと言ったので、家の主は「そのことでございます。この人を得なかったら今頃はどのような心持ちであったでしょうか」「ただ今までは求め得た方がいらっしゃるが、(自分にはいないから)明くる年の今頃はどんな心持ちでしょうか」といって後ずさりして出て去ったので、家の主は返り入るままに「物を持ってきなさい。よく食べさせよ」などと言って食物をよこしたので、これを食うにつけても妻が物思いして嘆き泣く、分からない。客人が言った事も「いかなる事か」と恐ろしく思ったので妻の機嫌をとって問うたけれども、「本当のことを言いましょう」という様子ながらも言うことはなかった。

 そうする間に、この里の人々は事を急ぐ気配で、家毎にごちそうを調え騒ぐ。妻が泣き物思いにふける様が日ごとに勝ったので、夫は妻に「泣き笑い、大層な事があったとしても自分をよもや隔てたりはしないでしょうね」と思ったので、「このように隔てているのがつらいのです」と言って恨んで泣いたので、妻も泣いて「申すまいとは思いませんでした。だけれども、(お顔を)見て聞こえることはもう幾ばくもないでしょうから、このように睦まじくなったことが悔しいのです」と言いやる方もなく泣けば、夫、「自分が死ぬだろうということか。それは人の遂に免れぬ道なので、苦しくもないでしょう。ただ、それより他の事が何事かあるのでしょうか。ただ言いなさい」と責めたので、妻は泣く泣く言った。「この国には大変由々しきことがあります。この国に現じた神がいらっしゃいますが、人を生贄にして食うのです。あなたがこの国にお着きになったとき「自分も得よう」と口々に訴え騒いだのは、この生贄の用に供しようと思って言ったのです。年に一人の人が順番に生贄を出すのに、その生贄を求め得なかったときには愛しいと思う子であっても、それを生贄に出すのです。あなたがいなかったら自分のこの身が生贄にされ神に食われるだろう」と思えば「ただ自分が替りに出ようと思うのです」と言って泣いたので、夫は「それをどうして嘆くのです。簡単なことです。さて、生贄を料理して神に供えるのですか」ととえば、「そうではありません。生贄を裸にしてまな板の上に美しく伏せて瑞籬(みずかき:玉垣)の内にかつぎ入れて人が皆去ったら、神が調理して食うのです」と聞きます。やせ衰えた生贄を出せば、神が荒れて作物が不作となり、人も病み、里も平穏ではありません。かくして幾たびとなく物を喰わせて食い太らせようするのです」と言ったので、夫はここ何ヶ月か労わられた事を皆承知して、「さて、この生贄を喰らう神はいかなる姿でいらっしゃるか」と問えば、妻は「猿の姿形でいらっしゃいます」と答えたので、夫が妻に語るには「自分に鍛えた刀を求め得てください」と。妻は「容易いことです」と言って刀を一振り構えて取らせた。夫はその刀を得て、返す返す研いで隠し持っていた。

 さて過去より勇んで、物をよく食べ太ったので家の主も喜んで、これを聞き継ぐ者も「里の今後はよくなるでしょう」と言って喜んだ。こうして生贄の日の七日前を兼ねて、この家に注連縄を引いた。この男にも精進潔斎させた。家々にも注連縄を引いて物忌みをし合った。この妻は「今何日か」と数えて泣き入ったのを、夫は慰めつつ、大事とも思わなかったことで妻は少し慰められた。

 こうして生贄の日になったので、この男に沐浴させ、装束を美しく着させて、髪を櫛で削って、髻(もとどり)を取らせて、鬢(びん)を美しくかき繕い世話をしている間に、使いが幾たびともなく来て、「遅い」と責めたので、男は舅と共に馬に乗って行った。妻はものも言わず(着物を)被って泣き伏した。

 男が行き着いて見たところ、山の中に大きな神殿があって、瑞籬(玉垣)が大層広く巡らしてあった。その前に御馳走を多く据えて、人々が数知れず着き並みいた。この男は一段と高い座席を設けて食べさせられた。人々が皆物を喰い酒を飲んだりして舞を愉しんで終わって後、この男を呼び立てて裸に成し元結を解かせて、「ゆめゆめ動かずにものを言うな」と教え含めて、まな板の上に伏せて、まな板の四つの隅に榊を立てて、注連縄と木綿(ゆふ:楮の皮の繊維から作った白い糸)を掛けて集めてかつぎ入れて先払いして玉垣の内に担ぎ入れて、玉垣の戸を閉じて、人一人も無く帰った。この男は足を差し伸べた股の中にこの隠した刀を持ってさり気なく挟んで持っていた。

 そうしている間に第一の社殿の戸が思いがけずきっと鳴って開いたので、それに少し頭の毛が太って(身の毛がよだって)恐ろしく思えた。その後で次々と社殿の戸が順々に残らず開き渡った。そのときに大きさは人程の猿が社殿の傍から出て来て、一の社殿に向かって屈んだので、一の社殿の簾をかき開いて出た者があり。見たところ、これも同じ猿で、歯は銀を貫いたようなのが、もう少し大きく厳めしいのが歩み出てきた。「これは何とまあ、猿だ」と見て、心が安らかになった。このようにしつつ、社殿から次第に猿が出て着き並みいて後、あの初めの社殿の傍から出てきた猿が一の社殿の猿に向かったので、一の社殿の猿がきゃっきゃ言うのに従って、この猿は生贄の方に歩み寄ってきて、置いてあった真魚箸と刀を取って、生贄に向かって切ろうとしたその瞬間、この生贄の男は股に挟んだ刀を取るままに急に起きて走って、一の社殿の猿に掛かったので、猿は慌ててのけ反って倒れたのを、男はやがて起こさずに押しかかって踏んで、刀を未だ差し当てず、「お前は神か」と言ったところ、猿は手を擦る。他の猿どもはこれを見て一つもなく逃げ去り、木に走り登ってきゃっきゃ騒いだ。

 その時に男は傍に葛のあるのを断ってこの猿を縛り、柱に結いつけて刀を腹に差し当てて言うには「お前で猿ではないか。神という虚名を名乗って、年々に人を喰うのは、非常なことではないか。そこの二、三の御子と言った猿を確かに召し出せ。さもなくば突き殺そう。神ならば刀も立たないであろう。腹に突き立てて試みよう」と言って、ほんのちょっと刀でえぐる様にすると、猿は叫んで手を擦り合わせるので、男は「ならば、二、三の御子という猿を早く召し出せ」と言ったので、それに従ってきゃっと叫べば二、三の御子という猿が出てきた。また「自分を切ろうとした猿を召し出せ」といえば、またきゃっきゃと言ってその猿が出てきた。その猿に葛を折らせて、二、三の御子を縛って結いつけた。また、その猿を縛って「お前たち、自分を切ろうとしたけれども、従うならば命は断つまい。今日から後、事情を知らない人の為に、祟りをなし、よからぬ事を致すならば、その時には貴様の命を断とうとするぞ」と言って玉垣の内から皆を引き出して木の根元に結びつけた。

 さて、人が食事をした火の残り火があるのを取って、社殿に順につけ渡したので、この社から里の家々へは遠く去っていたので、こうしたことも知らないでいたけれども、社の方から高く燃え上がったのを見て、里の者たちは「これはどうした事だ」と怪しみ騒いだけれども、この祭りより三日ほどは家の門を閉じ込めて、人一人も外に出る事も無かったので、騒ぎ惑いながら、出て見る人もいなかった。

 この生贄を出した家の主は「自分の生贄にいかなる事があったのか」と心穏やかでなく恐ろしく思っていた。この生贄の妻は「自分の夫は刀を乞い取って、隠して持っていた。怪しかったのに合わせて、このような火が出たのは彼の仕業だろう」と思って、恐ろしくも気がかりにい思っていると、この生贄の男、この猿四匹を縛って前に追い立て、裸で髻(もとどり)を解いた髪で、葛を帯にして刀を差して杖をついて里に来て家々の門を覗き見たところ、里の家々の人はこれを見て「あの生贄が、御子たちを縛って前に追い立てて来たのはいかなる事か。これは神にも勝った人を生贄に出したに違いない。神ということすら隠す。まして我らを食うてはしまわないだろうか」と恐れ惑った。

 そうしている内に、生贄の男は舅の家に行って「門を開けよ」と叫んだけれども、音もしない。「ためらわずに門を開けよ。よもや悪いこともあるまい。開けねば中々よくないことがあるぞ」と「早く開けよ」と門を足で踏み鳴らしたので、舅が出て来て、娘を呼び出して「これは立派な神にも勝った人であろう。もしや我が子(娘)を悪く思っているのだろうか」「(娘に)そなた、門を開けてとりつくろいなさい」と言ったので、妻は恐ろしいと思いながら嬉しく思って、門を細目に開けたところ、押し開けて、妻が立っていたので、「早く中に入れよ。装束をもって来なさい」と言ったので、妻はすぐさま返り入って、狩衣、袴、烏帽子などを取り出したところ、猿どもを家の戸の許に強く結いつけて、戸口で装束を着て、弓や胡録(やなぐい:矢の容器)のあったのを求めて出させ、それを背負って舅を呼び出して言った。「これは神と言って、年毎に人を食わせたことはとても情けないことです。これは猿丸と言って人の家ででも繋いで飼えば、飼われた人にいじめられているものなのに、事情も知らずここで年々に生きた人を食わせていた事は極めて愚かです。自分がここに居る限り、これにいじめられることはあるまい。ただ自分に任せなさい」と言って猿の耳を痛くつねったところ、こらえる様がとてもおかしい。「このように人に従う物でありますのか」と見ると「自分は仲間は全くこうした事情を知りませんでした。今は君を神と仰いで身をお任せましょう。ただ仰せのままに」と言って手を擦ったところ、「さあ郡司の許へ行きましょう」と言って舅を引き連れて猿丸どもを前に追い立てて門を叩くと、それも開かなかった。

 舅がいて「これ、ただ開け給え。申すべきことがございます。お開けにならないのなら中々よろしくないことになるでしょう」と言って脅したので、郡司が出て来ておずおずと門を開けて、この生贄の男を見て土に平伏したので、生贄の男は猿どもを家の内に引き連ねて、目を怒らして猿に向かって言って「お前が年来神という虚名を名乗って年に一人の人を食い失っていた。お前、改めよ」といって弓箭(弓と矢)をつがえて射ようとしたので、猿は叫んで手を擦って惑った。郡司はこれを見て、あさましく恐ろし気に思って、舅の許に寄って「我らをも殺すおつもりか。助け給え」と言ったので、舅は「ただ仰せの通り(ご安心なさい)。自分たちがいるからその様な事はあるまいでしょう」と言ったので、頼もしく思っていたところ、生贄の男が「よしよし、お前の命は断つまい。これから後、もしこの辺りに見えて人の為に悪事を為さば、その時は必ずや射殺してやるぞ」と言って、杖を持って二十回ばかり順に打ち渡して、里の者を皆呼び集めて、あの社に(人を)やって、(焼け)残った祠を皆壊して集めて、火をつけて焼き払った。猿を四匹罪をあがなわせて追い払った。片足を引きずって山深く逃げ入って、その後敢えて姿を見せることは無かった。

 この生贄の男はその後、その里の長者として人を皆意のままに駆使して、妻と暮らしたという。

 (隠れ里)のあちら(人間界)にも時々密かに通ったので語り伝えるのである。元はそこには馬牛も犬もいなかったけれども、猿が人をいじめるためにといって犬の子や労役に使う目的で馬の子などを渡したので、皆子を産んだ(数を増やした)。飛騨の国の傍らでこういう所があるとは聞くけれども、信濃の国の人も美濃の国の人も行くことはなかったそうだ。その人はこちらに密かに通ったけれども、こちらの人は行くことが無かった。

 これを思うに、彼の僧がその所に迷い行って生贄をも止めさせ自分も住んだのは皆、前世の果報でこそあろうと語り伝えたそうだ。

◆余談
 創作では夢オチは禁止に近いくらい避けられている。面白い昔話は何度でも繰り返して楽しめるけれど、夢オチという手は最初の一回しか通じないからだろうか。「高田六左衛の夢」は昔話でも珍しい夢オチの作品である。

◆参考文献
・「出雲の民話 日本の民話12」(石塚尊俊, 未来社, 1958)pp.78-83
・「今昔物語集 新編日本古典文学全集 37」(馬淵和夫, 国東文麿, 稲垣泰一, 小学館, 2001)※猿神退治pp.491-513

記事を転載 →「広小路

 

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2017年9月23日 (土)

登場人物たちの機能で分類する――プロップの「昔話の形態学」

ウラジミール・プロップ「昔話の形態学」を読み終える。僕が大学生のときは構造主義哲学が流行っていたが、そのルーツとなる本である。構造主義は西欧の近現代が普遍的な価値とされていたのを相対化する役割があった。

解説によると流れとしてはロシア・フォルマリズムに属し、後の世への影響としては記号論とも関わりがあるようだ。発表当時はスターリンの圧政下で時代が悪く、本書が評価されたのは出版されてから30年後のことだった。

元々は漫画畑の評論家である大塚英志のキャラクター論の本で知ったもので、今回、原典に当たってみた。といっても外国語はできないので日本語訳されたものだが。

プロップはロシアの魔法昔話について分析し、そのいずれもが三十一の機能(解説によると機能の実現の仕方)に分類されるとした。あくまでロシアの魔法昔話に関する分類であるが、一般的な物語を分析する上でも有益な示唆を与えてくれるだろう。

1. 家族の成員のひとりが家を留守にする(留守)
2. 主人公に禁を課す(禁止)
3. 禁が破られる(違反)
4. 敵対者が探り出そうとする(探り出し)
5. 犠牲者に関する情報が敵対者に伝わる(情報漏洩)
6. 敵対者は犠牲となる者なりその持ち物なりを手に入れようとして、犠牲となる者をだまそうとする(謀略)
7. 犠牲となる者は欺かれ、そのことによって心ならずも敵対者を助ける(幇助)
8. 敵対者が、家族の成員のひとりに害を加えるなり損傷を与えるなりする(加害)
8-a. 家族の成員のひとりに、何かが欠けている。その者が何かを手に入れたいと思う(欠如)
9. 被害なり欠如なりが[主人公に]知らされ、主人公に頼むなり命令するなりして主人公を派遣したり出立を許したりする(仲介、つなぎの段階)
10. 探索者型の主人公が、対抗する行動に出ることに同意するか、対抗する行動に出ることを決意する(対抗開始)
11. 主人公が家を後にする(出立)
12. 主人公が[贈与者によって]試され・訊ねられ、攻撃されたりする。そのことによって、主人公が呪具なり助手なりを手に入れる下準備がなされる。(贈与者の第一機能)
13. 主人公が、贈与者となるはずの者の働きかけに反応する(主人公の反応)
14. 呪具[あるいは助手]が主人公の手に入る(呪具の贈与・獲得)
15. 主人公は、探し求める対象のある場所へ連れて行かれる・送りとどけられる・案内される(二つの国の間の空間移動)
16. 主人公と敵対者とが、直接に闘う(闘い)
17. 主人公に標(しるし)がつけられる(標づけ)
18. 敵対者が敗北する(勝利)
19. 発端の不幸・災いか発端の欠如が解消される(不幸・欠如の解消)
20. 主人公が帰路につく(帰還)
21. 主人公が追跡される(追跡)
22. 主人公は追跡から救われる(救助)
13-bis. 兄たちがイワンの手に入れたものを略奪する(イワンそのものは深淵に投げ込む
10-11bis. 主人公が再び探索に出発する
12bis. 主人公は再び呪具の獲得の条件となる[贈与者の]働きかけを受ける
13bis. 主人公は再び、いずれ贈与者となる者の働きかけに応える
14bis. 新たな呪具が主人公の手に入る
15bis. 主人公が、探し求めている対象のいる所へ送りとどけられるか、はこばれるかする
23. 主人公はそれと気付かれずに、家郷か、他国かに、到着する(気付かれざる到着)
24. ニセ主人公が不当な要求をする(不当な要求)
25. 主人公に難題が課される(難題)
26. 難題を解決する(解決)
27. 主人公が発見・認知される(発見・認知)
28. ニセ主人公あるいは敵対者(加害者)の正体が露見する(正体露見)
29. 主人公に新たな姿形が与えられる(変身)
30. 敵対者が罰せられる(処罰)
31. 主人公は結婚し、即位する(結婚)

1.昔話の恒常的な不変の要素となっているのは、登場人物たちの機能である。その際、これらの機能が、どの人物によって、また、どのような仕方で、実現されるかは、関与性をもたない。これらの機能が、昔話の根本的な構成部分である。
2. 魔法昔話に認められる機能の数は、限られている。
3. 機能の継起順序は、常に同一である。
4. あらゆる魔法昔話が、その構造の点では、単一の類型に属する。

物語の構造を数式で表されても何のことやらよく分からないのであるが、訳書では分析の実例も添えられているので理解の助けになる。

登場人物たちの機能とされているのは、文法で言うと動詞部分である。主語や目的語は入れ替え可能なのである。ただ、解説で指摘されているが、実際には要約に要約を重ねないと、動詞としては一致しないようだ。
たとえば、昔話に登場するのがキツネであってもタヌキであっても入れ替え可能、つまり可変だが、人を「化かす」という点では不変なのである。この不変の構成要素を物語の機能(ファンクション)と呼ぶのである。

ロシアの魔法昔話で魅力的なのはニセ主人公である。闘いに勝利、欠如が埋められてメデタシメデタシでなく、もう一波乱あるのだ。

<追記>
昔、大塚英志の本でプロップの昔話の形態論の存在を知った際、昔話にそんな法則性があるのかと魔法をかけられた様な思いがした。が、よくよく読み返してみると、あくまでも「ロシアの」「魔法昔話」に関しての分析なのである。昔話の構造を方程式で記述するという構想は遠大だ。しかし、創作というのはどのようにしようが基本的には自由であり、普遍的な法則性を見出すのは難しいだろう。例えば映画なら2時間というパッケージの中で起承転結が求められるから、何分頃に盛り上がりを最高潮にもってくるとか大体決まってはいるが。ナラトロジーの入門書も読んでみたが、まあ何となく分かっていればいいかな、くらいの感想であった。

◆参考文献
・ウラジミール・プロップ「昔話の形態学」(北岡誠司, 福田美智代/訳, 白馬書房, 1983)

 

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2017年9月19日 (火)

蛤姫――島根県石見地方における蛤女房の類話

◆はじめに

 石見の姫シリーズも終盤に差し掛かった。今回は大田市大森町の昔話を取り上げてみる。

◆粗筋

 昔、一人の若い漁師がいて、毎日海へ出て魚をとって、それを町に持っていって売って暮らしていた。ある日、いつものように舟で海へ出て魚を釣ったが、どうしたことか一尾も掛からない。もう一度釣ってみて掛からなかったら今日はやめにしようと思って、最後の糸を投げ込んだ。
 しばらくすると手ごたえがあるので、上げようとしたが中々重くて上がらない。やっとのことで引き上げてみると、大きな魚だと思いの他、見たこともないような珍しい蛤(はまぐり)だった。びっくりした漁師が見惚れていると、蛤が二つに割れて中から綺麗な女の子が出てきた。
 漁師はたいそう喜んで家へ連れて帰って、蛤から生まれたので蛤姫と名づけて大切に育てた。
 姫は大きくなるにつれてますます美しくなった。姫はそれだけでなく機を織ることが大変上手で、その織った反物は何とも言えない美しさであった。漁師はそれからは魚を獲ることをやめて、反物を町で売って沢山儲け、楽しく暮らしていた。
 姫は機を織ることが上手であるだけでなく、その機を織る音が美しい音楽のようだった。その音がとても綺麗なので、姫の機を織る様子を見ようと、話を聞き伝えて大勢の人が漁師の家に押し掛けたが、姫は何故か一室に閉じこもって戸を固く閉め、機を織る姿は誰にも見せなかった。
 ある日、漁師はいつもの通り織物をもって町へ出かけた。ある一軒の大きな家の前に差し掛かると呼び止められ、反物を沢山のお金で買い取ってもらった。こんな美しい織物は得難い。よい物を買わしてくれた、お礼に座敷まで上がってくれと言って漁師を座敷へ通して沢山のご馳走やお酒でもてなした。漁師はよい気分になって酔いつぶれてしまった。
 家では蛤姫が一室でとんとんからり、とんからりと機を織っていた。すると近所の人達がやって来て、今日は幸い漁師もまだ帰っていないから、どうして機を織っているのか戸を開けてみようではないかと相談して、部屋へそっと忍び寄ると、いきなり戸を開けて覗きこんだ。
 蛤姫はびっくりして「ああ、この機を織る姿を人に見られたら、私はここにいることはできません。さらばです。元の蛤の中へ帰ります」と言って消えてしまった。

 蛤姫という可愛らしい姫が機を織る話である。特徴としては、この話は大田市でも海岸部のものではなく、大森町(石見銀山)で採録された話であるということだ。

◆蛤女房

 蛤姫は蛤女房の一類話だろう。「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」に収録された蛤女房の類話を要約してみる。

 あるところに貧乏な男がいた。あるとき一人の娘がやって来て、嫁にしてくれと頼む。あなたのような美人は私の様な者には不釣り合いだと断ろうとするが、娘は古女房の様にかいがいしく世話をした。そんなことが続く内に二人は夫婦となった。
 ところが、あそこの嫁は鍋にまたがって小便をするという噂がたった。そこである日、男は外出するふりをして、こっそり覗き見した。果たして嫁は鍋にまたがって小便をした。
 男は何をしているかと嫁を咎めたが、嫁は男に命を助けてもらったお礼に、こうして契って美味しい汁ものをこしらえていたが、もうここにはいられないと言って貝の姿に戻って海に飛び込んだ。それから男は世帯を持ち崩してしまったという。

 世間一般に流布している蛤の昔話はこの蛤女房のパターンである。「日本昔話大成」を見ても蛤女房の話は全国に分布している。

◆蛤の草紙

 「御伽草子」に「蛤の草紙」という説話が収録されている。要約すると、

 天竺の摩訶陀(まかだ)国に、しじらと言う貧乏な男がいた。母と二人で暮らしていたが、その頃天竺は酷い飢饉が起きていた。しじらは母を養うため漁に出た。ある日、釣り糸を垂れでも魚が全く釣れなかった。母を養うために殺生した報いかと思い、母が待ちわびているだろうと思ったところ、糸に獲物が掛かった。釣り上げてみると美しい蛤だった。しじらは蛤を海に返した。そして釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。再び海に返し、釣り場を変えたところ、また同じ蛤が掛かった。三度も掛かるということは前世・現世・来世の三世の縁かと思い、今度は舟に引き上げた。すると蛤が大きくなり、中から歳十七、八の美しい女人が現れた。
 女人はしじらの家へ連れていって一緒に暮らしたいと頼む。しじらは自分の家は普通の家と違って粗末なものだからと断り、妻を得ては母をぞんざいに扱ってしまうだろうから駄目だと答えた。それでも女人がせめて一夜の宿だけでもと頼んだところ、しじらは母の承諾を得て、ようやく女人を家に招き入れた。しじらの母は女人を見て有難いことだといって二人が夫婦になることを承諾した。
 女人は麻で糸を縒り合わせて、機で布を織った。その音は妙なるものであった。女人はしじらに機屋を立てて欲しいと願う。しじらが機屋を立てると、機を織っている間は決して覗いてはならぬと言いつける。十二か月が経って、布が織り上がった。女人はその布を鹿野苑(ろくやおん)の市に持っていって、金三千貫で売れとしじらに告げた。
 しじらが市に行ったところ、布は中々売れず、しじらはあきらめかけた。と、そこに馬に乗って三十三人の供を連れた身なりの良い老人が現れた。布を見た老人はこの布を買おうと言った。
 しじらは老人の館に招かれたが、その館は見たこともないような壮麗な館だった。老人がしじらに酒を勧めた。しじらは七杯飲んだ。
 布を売って家に戻り、事の次第を話そうとしたところ、女人が全て知っていた。これは只の者ではないとしじらは思った。が、女人は急に暇乞いをした。自分は童男童女身(どうなんどうにょしん)という観音に仕える者だ。しじらが親孝行なので、やって来たのだと答えた。布を売って得た三千貫で一生暮らすとよい。しじらが飲んだ酒は一杯で一千歳の寿命を得る。七杯飲んだので七千歳の寿命を得た。これからは金にも恵まれ身分も高くなるだろうと言い残して、虚空に去った。

 機を織るところを見てはならないという禁止はあるが、しじらは言いつけを守ったので七千年の寿命と三千貫の大金を得ている。ただし、結局は女人と分かれることになる。

◆零落した昔話

 柳田国男は「昔話と文学」の「蛤女房・魚女房」という論文で蛤女房について考察している。御伽草子の「蛤の草紙」が蛤女房の原話であるか否かについては保留している。が、柳田は蛤女房を零落した昔話であると言っている。小便をするのが汚らしいということだろう。

 「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」で蛤女房が小便をするのでなく機を織る類話も収録されている。それによると、島根県大田市の蛤姫の話と山形県最上郡の話とが挙げられている。山形県の話は、
 母と息子が魚をとって暮らしている。息子は毎日浜辺に行く。ある日、蛤がかかる。蛤の中から子供が生まれ、お姫様になる。家に伴う。村人が神様が宿ったと米を持ってお詣りする。麻糸が欲しいと望むと村人が麻糸を持って来る。そこで機織りをしりっぱな反物にする。町に売りに行き三千両の大金を得る。お姫様は毎日浜に来る息子へのお礼だと告げて、ふたたび海に帰っていく。
とあり、これは機織りするところを決して見るなという禁止も破っていないし、麻の糸で反物を織る、金三千両で売ること等から、蛤の草紙を原型とした昔話であることが分かる。蛤の草紙から蛤女房へという図式が浮かんでくる。

 一方、島根県大田市の話は、
 漁夫が魚釣りに行って蛤を釣り上げる。蛤が二つに割れ女が生まれ蛤姫と名づける。あとは鶴女房の形式をとる。
とある。大田市の場合、機織りするところを決して見るなという禁止を破っている。蛤が機を織っている点では山形県のお話と一致するけれど、大田市の昔話の場合、禁止を破ってしまうのである。

◆艶笑話

 柳田は蛤女房を笑話として位置づけている。美味しい出汁の効いた汁だと思ったら、実は蛤の嫁の小便だったという、ある種の艶笑話である。そもそも貝は女性器の暗喩だろう。

 艶笑話であるからには子供にそのままの内容で伝えるのははばかられたのかもしれない。そこで、大田市の場合、蛤女房の導入部を踏襲しつつ、後半のパートは鶴女房に準じた形にして蛤姫として子供向けにしたのかもしれない。蛤女房から鶴女房のパターンへという変遷が見てとれるが、蛤の草紙へ先祖返りしたという解釈も可能だろうか。

◆蛤の草紙の訳

 参考までに、粗い訳だが訳してみる。

 天竺の摩訶陀国に、しじらという貧乏な人がいた。父には早く死なれ、母と二人で暮らしていた。その頃、天竺では飢饉が起きて、人々が餓死することが甚だしかった。しじらは母を養うため小舟で漁に出た。ある日漁に出て、釣り糸を垂らしたところ、一向に釣れなかった。魚を獲って母を養った報いだろうかと思い、母が待ちかねているだろうと案じた。すると釣り竿にも心があったのか、何かが掛かった。それ、と思って釣り上げたところ、それは美しい蛤だった。しじらはこれは如何なることだろう、何の役に立つか(立つまい)と思って海に投げ入れた。ここには魚はいない、西の海へ舟を漕いでいき、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤を釣り上げた。これは不思議なことだと思い、また海へ放した。それから北の海へ行き、釣り糸を垂れたところ、また同じ蛤が掛かった。これは稀代の不思議なことだ。一度ならず二度ならず三度まで釣り上げた。かりそめながらも前世・現世・来世の三代の契りを得たかと思い、今度は取り上げて舟の中へ投げ入れた。また、釣り糸を垂れたところ、例の蛤が急に大きくなった。不思議なことだと思って海へ投げ入れようとしたところ、蛤の中から金色の光が三筋さした。これは如何なることぞと思い、驚き、肝をつぶして遠ざかった。この蛤の貝殻が二つに開き、中から十七、八歳くらいの容顔美麗な女人が現れた。

 しじらは手水を使いつつ「これほど美しい女人が海から上がったことの不思議さよ。もしかしたら龍女ではないか。貧しい男の舟に上がったのはもったいないことだ。住処へ帰りたまえ」と言った。女人は「来る方も行く方も知らず、行く末も知らないので、そなたの家へ連れて行っておくれ。互いに生計を営んで、憂きこの世で暮らそう」と言った。しじらが言った。恐ろしいことで思いも寄らぬことだ。私はもう四十歳になったけれども、未だに妻を持たず、その訳は六十歳を過ぎた母がいるので、もしも女房として連れ帰れば、心もおろそかになって母をぞんざいに扱ってしまうだろう。母への義に背くことを思えば、妻を持つことは思いも寄らないことだ」と、とんでもないと断れば、女人は「思いやりのない人ですね。ものの成り行きをよく聞きなさい。袖をすり合わせるのも他生の縁と聞く。この船に近づいたかいもなく、帰れと言うのは情けないことだ」と思いつめた様子で涙にむせんだ。しじらはこれを見て、そうならば、せめて陸(おか)へ降ろそうとして水際に着くと、舟から女人を急いで降ろした。「私はここまでお届けします。なので、お暇しましょう」と言ったところ、女人はしじらの袖にすがりついて嘆いた。「せめて、そなたの家まで連れて行って一夜の明けるまで過ごさせておくれ。夜が明けたらどこへでも足に任せて行こう」と。しじらは「我々の家は、ただ世間一般の家ではなく、まことに卑しい男の寝屋でして、目も当てられない所なので、置くところもないのです。普通の座敷に置くことは畏れ多いので、家を造りましょう。お待ちあれ」と言った。女人は「如何なる金銀財宝でこしらえた家であろうと、他所の家には行きたくない。そなたの住処ならば行こう」と言ったので、「ならば、少しお待ちあれ。先ず我々の家に行って、母に伺いを立てて、お迎えに上がりましょう」と言ってしじらは家に帰って母にこのことを申し上げたところ、母は甚だ喜んで「急いで座敷を清めて、こちらへ迎えましょう」と言ったので、しじらは喜んで、急いで海の傍へ迎えに行った。女人は待ちかねていた。しじらは「裸足では脚が痛いでしょう、この卑しい男の背に負いましょう」と言ったところ、女人は喜んで、背負われた。さて、我が家へ着いたところ、しじらの母が出て見て、あら畏れ多いことだ、これぞ天人というのだと言って、自分の居るところでは如何なものかと、急いで棚を作り、自分より高く置き奉って限りなく尊んだ。

 しじらの母は「畏れ多いことだけれども、どうしてしじらの妻になられる人でいらっしゃらないはずがありましょうか。しじらも早四十歳になりましたが、未だに妻も持たず、子の一人もいないことを明けても暮れても寂しく思っておりました。わが身ははや六十を過ぎ、明日をも知れぬ身で、このことばかり案じております。ああ、似合わしい妻がいて欲しい」と言った。女人は「私は来し方も知らず、元より行方も知らぬ身なので、如何様にでもしじらと一緒に置かせ給え。私は人の知らない営みをして一緒に憂き世を渡りましょうと言ったので、しじらの母は一通りでなく喜んで「ならば」と言ってしじらにこのことを言ったので、しじらは元より親孝行の人なので、「とにかく母のお計らいのままに」と返事した。天竺も人の好奇心の強いところなので「しじらの所に不思議な降ってきた人が来た。いざ参って拝もう」と言って、僧侶も普通の人も供米を包んで参った。そして白米が三石六斗、一日の内に集まった。そのとき女人は「私は素姓が確かな者なので、麻と申すものがあればくれ」と言ったので、その次の日は麻を持って参った。しじらは目出度いことがあって、前の日から集まった米で母と暮らしていけることはなんと嬉しいことだと喜んだ。また、この女人は密かに大量に糸をよった。そのうち、錘(つむ)が欲しいと言ったので、しじらは尋ね求めて差し上げた。この麻を紡ぐ音が物珍しく聞こえた。よくよく聞いて文字に写してみると、南無常住仏と響き、糸を縒るときには南無常住法と響き、巻くときには阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と巻く。手がいを取るときには南無妙と響いた。二十五か月紡ぎ出したところ、さて機の道具が欲しいといったので、拵えてみよとしたところ、それを見て言うことに、普通の機の道具ではよくないのだ。私の機の道具は普通のではないと言って本を出した。好みの様に拵えたところ、女人は喜んで「一人でどうして巻き立てられましょうか」と言った。そこに示現神通力者がやがて心得て、どうして悪いことが起きようか、一度も見たことない人が二人来て一夜の宿を借りた。

 これをはじめとして、しじらの母は不思議なことだと言って、ますます崇めた。しじらはこの機が立ってから母の心が慰められたことが嬉しく、いつよりも心安く過ごし、この頃は心労も感じず、天竺の飢饉が甚だしいけれど、我々の心安くあることが嬉しいと言って、母の足を自分の額の上に載せて寝させた。そのとき、しじらの傍に寝かせた女人がしじらになぜ泣くのか尋ねた。しじらは、母が若いときは太っていて足を額に寝かせると重かったが、歳をとったので次第に身体も細くなって、殊の外軽くなったので、泣くより他ない」と語った。女人はそれを聴いて、まことにうらやましい心ぞ。いかなる仏の恵もどうしてないことがないだろうか。これほど親孝行の人は世に珍しい」とて、やがて物語を語りはじめた。

 「例えば、越(えつ)の鳥は南の枝に巣をかけるというが、親の育みを思い、巣を立てて、一緒に立つときに、四鳥(しちょう)の別れと言って母子の別れを知らない妄執の雲に隔たれるけれども、親孝行の鳥は生まれた木の枝に日に一度ずつ来て羽根を休めるのを母鳥は、これこそ我が子だと喜ぶと語ってしじらを慰めた。孝行の鳥の霊験は、何とか捕まえたいと網を掛けたけれども取られることはあるまい。まして、人間として生を受けて、親に従わない人はこの世では禍(わざわい)を請け、七つの災難や過失にあって、その身の思うことは叶うものではない。親孝行の人には天から福が授けられ、七難即滅七福即生(しちなんそくめつしちふくそくしょう)といって、何事も思う事がその日のうちに叶うものだ。多くの人々に愛されて自ずから現世の生では上に向かって悟りの道を求め、安穏安楽な気分を受け、極楽浄土の蓮の台を指して、東方薬師の浄土、西方阿弥陀の浄土で諸仏の上の浄土に近づき、自ずから示現神通力の身となって、観音を念ずればと唱えさせることは疑いないと語った。息の匂いはこの世のものでない香りがして、満ち満ちて夜昼の境もない。

 いざ機を織ろうとして、しじらに、この家は布幅が狭くて織れまい。傍に機屋を造ってくれと言ったので、しじらは急いで皮のついたままの材木で機屋を造った。その時、女人が言う事には、機を織っている間は、こちらへ人を入れてはならないとのことなので、しじらは分かったと言って、母にこのことを語った。その夕暮れに、若い女が一人、いずこからとも知れず来て宿を借りた。女人はすぐに機屋を貸した。しじらの母が「この機屋に人を入れるなとおっしゃったが、どうして宿を貸したのでしょう」と言ったので、女人はこの人は差し支えないと言って二人で機を織る音は珍しい。

 妙法蓮華経観世音菩薩普門品(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五の菩薩が玉のような機を織った。まことに法華経の一の巻から八の巻に至るまで二十八品(ほん)を悉く織りいれるお声が耳に聞こえて有難く、夜昼の区別もなく十二カ月の間に織り出した。女人が「今織り出した」と言って碁盤のように厚さ六寸、広さ二尺四方に畳んで、しじらに「明日、摩訶陀国の鹿野苑(ろくやおん)の市に持って行って売りなさい」と言った。しじらが値段はいかほどにと問うと、「金三千貫で売りなさい」と言ったので、「不思議なことだ。近頃売り買いする布は普通の安いものだが、これは並外れて値段が高い」と可笑し気に言ったところ、女人は、ただ普通の布ではない。我々が織る布は間違いなく鹿野苑の市で価値の分かる人がいるだろう。値段は限ってはならない。さあ、市も立つだろう、行き給え」と言ったので、しじらがその布を持って行くと、鹿野苑の市で「これは如何なるものだろうか」と笑い、不審そうに見る人もいた。一日待って回ったけれども、誰も取って見る人すらいない。しじらは、ならば知らないことをして、このような物を市へ出し、人の笑い草になることは無念だと言って持って帰ろうとしたところに、道で齢六十余りの老人で鬢(びん)と髭(ひげ)は白く、その身なりは人に優れ、葦毛(あしげ)の馬に乗り、三十三人の供がいる人に会った。この馬に乗った老人がお前はどこの者かと問うたので、私はしじらと申す者ですが、鹿野苑へ布を売りに行ったところ、買い主がいなくて持ち帰るところですと答えた。「お前は聞き及んだ者だ。その布を見ようと言ったので、馬の上へ布を差し上げた。三十三人の人がこの布を広げたところ、長さは三十三尋あった。近頃珍しい布だな。私が買おう。値段はどれ程だと老人が言ったので「金銭三千貫で売りましょう」と言ったところ、「あら安い布だ」と言って、「ならば我々の所へ来い」と言って、しじらも誘って、そこから南の方へ行く。高い軒が遠く広がり、雲にかかるほどそびえ立つ門があった。見ると、瑪瑙(めのう)の礎(いしずえ)に水晶の珠を柱として、瑠璃(るり)の垂木、瑪瑙(めのう)で屋根を葺いて、目を驚かせるばかりであった。門の内へ入って見れば、この世のものとも思えない香りが漂い、花が降り、音楽が天に満ち満ちて、心も若く齢も久しくある心地がして、帰ることを忘れてしまった。馬に乗った老人は縁の際まで乗りつけて降り、内へ入って、金銭三千貫、三人で持って出てきた。こんな力の強い人もいるかと思うと、しじらは恐ろしくなった。さて、「今の布売りをこちらへ呼べ」といって座敷に上げた。しじらは足が震えて心も乱れて身の置きどころもなかった。階段を上がり、細長い部屋に上がった。心はさながら薄氷を踏むがごとしであった。さて、老人は酒を呑ませよと言ったので、元よりしじらは上戸なので、一杯飲んでみれば、甘露の味わいが満ち満ちて言葉にならない美味い酒だった。どれほどでも飲めるけれど、七杯より多く飲んではならないと老人が言ったので、七杯呑んだ。さて、「金銭三千貫をこれから送ろう」といって、恐ろしげな人を三人呼び出した。名を声聞身得度者(しょうもんじんとくどしゃ)、毘沙門身得度者(びしゃもんじんとくどしゃ)、婆羅門身得度者(ばらもんじんとくどしゃ)と言った。この三人に仰せつけて三千貫の金銭をただ一度でしじらの家を来させたので、その時、しじらがお暇しましょう言ったところ、老人が言うには、「今呑んだ七徳保寿(しちとくほうじゅ)の酒は観音の浄土にある酒だ。一杯呑めば一千年の寿命を保つ。ましてや、お前は七杯呑んだから七千年の寿命を保つだろう。この後はものを食べずとも欲しくもあるまい。寒く思うこともあるまい。これぞ親孝行の印よ」と言って立ち上がって雲の上に乗って行ったところ、五色の光が差して、南の天に上がったかと思えば、しじらは家へ帰っていたのだった。

 女人に語ろうとしたところ、その時の有様を言わぬ先に、少しも違わずに女人が語ったので、しじらは、これは神通を悟る化身ぞと思ったところ、女人がならば私はお暇しようと言った。しじらの母が聞いて、「嘆かわしいことかな。この程思いの他な人を迎えて、しじらと共に嬉しく思い、譬えようもなかったのに、このように仰せになるとは、あら情けないことだ」と言って、天を仰ぎ地に臥して嘆くことは限りもなかった。女人は「このように長々と居ることならば、如何なることもしても稼ぎ出して、後の形見として見せ、また過ぎた過去のことを忘れるように思ったけれども、我々の仕事はこの布を織り出して金銭三千貫で売らしめたが、特別なことと思ってはならない。これで一生暮らせ。これもひたすらにしじらの親孝行の印である。南方補陀落(ふだらく)世界の観音の浄土より使いとして来た。今は何を包み隠そうか。私は童男童女身(どうなんどうにょしん)と言う観音に仕える者である。布売りにいった所は南方補陀落世界の観音の浄土である。これから後は七千歳の寿命である。これは七徳保寿の酒を七杯呑んだからである。これより後は、いよいよ金もあり身分も高くなって仏神三宝の加護があるだろう。あの酒をいただく時に三人出て酌をした者こそ、われわれと肩を並べる人である。名を声聞身得度者、毘沙門身得度者、婆羅門身得度者と申す。これもひたすらに親孝行の徳によって、紛れもなくこのように憐れみ給うたことだ。さらば」と言って、しじらの家を出立し、門で暇乞いしたことは四鳥の別れの如くであった。名残惜しいと言って南の空に上がるかと見れば、白雲に乗って上がった。虚空に音楽が響き、この世のものとも思われぬ香りが四方に漂い、花が降り、諸々の菩薩たちが迎えに来た。しじらは途方に暮れて佇んでいたが、何と思っても、再び逢うことはできないので、思いきりつつ、親子は家へ帰った。それから、金もあり身分も高くなって、親を心安く養った。さて、しじらは自ずから成仏得道(じょうぶつとくどう)の縁を受け、仏果を得て煩悩を逃れる縁を受け、仏の位となり、七千年目には天に上がった。そのとき紫雲がたなびいて、この世のものとも思われぬ香りが四方に満ち満ちて、花が降り、不老不死の風が吹いて、音楽も止むこともなく、二十五の菩薩、三十三の童子、二十八部衆、三千仏、みな色めき、十六の天童、四天、五大尊、みなみな虚空に満ち満ちた。

 これはひたすらに親孝行の印である。後々でも、この草紙を読んで親孝行であれば、このように富み栄えて現世と来世の願いはたちどころに叶うであろう。まず現世では、七難即滅し、さしつかえも無く、衆人に愛されて、末代まで繁盛であるだろう。後の世では必ず成仏を得ること疑いない。ひたすらに親孝行で、この草紙を他人にも読み聞かせるべし。読み聞かせるべし。

◆余談

 見るなと言われたら見たくなるのが人情だが、蛤の草紙では見るなの禁止を破らなかったパターンの話を見ることができる。が、結局別れは訪れるのである。

 正体がバレたら居られなくなる、昔話の定型であるが、なぜそうなのかについては昔話の一つの謎かもしれない。

◆参考文献

・「日本の民話 34 石見篇 第一集第二集」(大庭良美/編, 未来社, 1978)
・「日本昔話大成 第2巻 本格昔話 一」(関敬吾, 角川書店, 1978)
・「御伽草紙集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)
・柳田国男「蛤女房・魚女房」「昔話と文学」(柳田国男, KADOKAWA, 2013)

記事を転載 →「広小路

 

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実は歳の差カップル? 八岐大蛇神話

◆日本書紀の第七段

 スサノオ命は天から出雲の国の簸(ひ)の川のほとりに降りた。そのとき川のほとりで鳴く声がした。声を頼りに探し求めていくと、ある老人と老婆が中に一人の少女を置いて泣いていた。スサノオ命は「お前たちは誰で、なぜ泣いているのか」と問うた。
「私達は国つ神で、名はアシナヅチ、妻はテナヅチです。この娘(童女)は私の子で名は奇稲田媛(くしいなたひめ)です。泣く訳は、もともと我が子は娘八人だった。一年経つごとに八岐大蛇(やまたのおろち)の為に一人ずつ呑まれてしまいました。今またこの娘(小童)が呑まれるときが来て、免れる術も泣く、ただ泣いている」と答えた。
スサノオ命は勅した「それならば、娘を私に献上するか?」
「勅に従い、献上します」
 それでスサノオ命はクシイナタヒメを櫛に変えてミズラに挿した。それからアシナヅチ、テナヅチに八度発酵させた強い酒を醸造させ、仮の棚八面を作らせて、それぞれの棚に一つずつ八個の酒船を置き、酒を満たして大蛇の来るのを待った。
 はたして大蛇が現れた。頭と尾がそれぞれ八つあり、眼はホウズキのようだった。背には松や柏が生え、八つの丘、八つの谷の間に這い渡っていた。酒を見つけて、頭をそれぞれ一つの酒船にあてがい飲んだ。そして酔って眠った。
 そこでスサノオ命は腰の剣を抜いて、眠る大蛇を斬った。尾に至って、剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみると、中に一振りの剣があった。これがいわゆる草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。一書は言う。元の名は天叢雲(あめのむらくも)剣である。
 スサノオ命は「これは神の剣で、私蔵できない」といって、すぐ天に献上した。
 そののち、結婚するところを求めて行き、とうとう出雲の清地(すが)についた。「心が清々しい」と言って、その地に宮を建てた。
 ときにスサノオ命は「八雲の立つ 出雲の八重垣よ 妻をこもらす 八重垣をつくる その八重垣よ」と歌を詠んだ。
 そして結婚して、子の大己貴神(オオナムチノカミ)を生んだ。「我が子の宮の長(おさ)はアシナヅチとテナズチである」と勅して、二神に名を賜り、稲田宮主(イナタノミヤヌシ)神といった。
 こうした後、スサノオ命はついに根の国に行った。

八岐大蛇に巻かれる須佐之男命

 クシナダ姫は奇(く)し稲田とある。奇しは尊称なので、貴い稲田の女神である。

 古事記ではコシノヤマタノオロチと呼ばれている。コシは高志で越、現在の北陸地方を指す。四隅突出型墳丘墓の分布をみると、日本海沿岸に沿って出雲から北陸地方まで分布している。越も出雲の影響下にあったと見ることができるけれど、ここではコシのヤマタノオロチとされている。越に怪物のイメージが投影されているのは、出雲が越を平定したイメージがあったのかもしれない。

 大筋では古事記の八岐大蛇神話と同じ流れであるけれど、日本書紀の一書には意外な話が記録されている。

◆一書に曰く

 一書に曰く、スサノオ命は天下って安芸の可愛(え)の川のほとりに到着した。そこに神がいた。名をアシナズテナズと言った。妻の名はスサノヤツミミといって妊娠していた。夫婦ともに心配してスサノオ命に告げた。私が生んだ子は沢山いたけれども、産む度ごとに八岐大蛇がやって来ては呑み、一人も生き残らなかった。いま私はまさに子を産もうとしている。恐ろしいことだが、また呑まれてしまうだろう。それを悲しんでいますと。
 スサノオ命は「お前たちは果実で八瓶の酒を醸せ。私は蛇を殺そう」と教えた。二柱の神は教えられた通り酒を準備した。
 産むときがきて、まさに大蛇が戸に当たって子を呑もうとした。スサノオ命は蛇に勅して「お前は畏れ多い神だ。もてなさなくては」と言って八瓶の酒を大蛇の八つの口に注ぎ入れた。
 蛇は酒を飲んで眠った。スサノオ命は剣を抜いて斬った。尾を斬ったとき、剣の刃が少し欠けた。尾を割いてみると、一振りの剣が尾の中になった。これを草薙剣と呼ぶ。
 これは今は尾張の吾湯市(あゆち)村にある。熱田の神官が祭っている神がこの剣だ。その蛇を斬った剣を蛇の麁正(おろちのあらまさ)という。こちらは今、備前の石上(布都[ふつ]の魂[みたま]神社)にある。
 この後、稲田の宮主、スサノヤツミミが生んだ子、真髪触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)を出雲の簸(ひ)の川のほとりに移住させ、養育した。長じてのちスサノオ命が妃として産ませた子の六世の孫が大己貴(おおあなむち)命と言う。

 クシナダ姫というと妙齢の、または年頃の娘を連想する。が、日本書紀の異伝ではクシナダ姫は生まれたての赤ん坊なのだ。生まれた後出雲で養育したとあるけれど、姫が成長するまで十五、六年くらいか、随分気の長い話ではある。

 日本神話の中でトリックスター的な性格を持つスサノオ命は八岐大蛇を退治することで出雲の英雄となる。横溢するパワーを持て余していたスサノオ命が悪龍を退治して出雲の王として君臨するのである。悪龍退治は欧米の叙事詩で語られる英雄譚でもしばしば登場するモチーフである。

◆神楽のイノベーション

 神楽の演目「大蛇」は昭和の時代に蛇胴が開発されて一気に迫力を増した。何匹もの大蛇の胴がえんえんとうねる様はさながらスペクタクルである。

 未だに語り継がれているそうだが、大阪万博が「大蛇」普及の一つの転機になったという。八頭の大蛇がステージに登場する勇壮なもので、当時、一緒に公演した他の伝統芸能の人たちは「大蛇に喰われた」と述懐していたそうで、それだけインパクトのあるものだったらしい。

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」に蛇胴開発以前の大蛇の写真が収録されているけれど、それはウロコ状の模様をあしらったマント状の衣服だった。当時の舞は現在の大蛇に比べて簡素で質素だったと思われる。

 石見神楽は観光資源化が著しく、ショー化するのを好ましく思わない人たちもいる。が、蛇胴の開発は神楽における創造的破壊、イノベーションだったと言えるだろう。

 蛇胴を得た大蛇の舞はスペクタクル化し、見た目にも分かり易いものとなった。都会での公演や海外の公演で大蛇が請われて舞われるのは迫力があって、悪龍退治という分かり易い図式でセリフが分からずとも理解できるからだろう。

 僕が子供の頃に観た神楽の共演会では大蛇がトリの演目だったように記憶している。石見神楽は岩戸と五神を重視しているとされ、トリの演目は五神とする社中が多いようだけど、地域によっては大蛇をトリの演目とするようだ。

 五神は陰陽五行思想に基づく世界の再編を描いた演目で、言わば農民の哲理を説いているとも言える。その最重要演目を押しのけるまでに大蛇が成長したのは蛇胴の開発無くてしては成し遂げられなかっただろう。大蛇自体、純然たる出雲神話だからトリの演目でも問題ないのだろう。

◆関東の里神楽
 2018年3月に「江戸里神楽を観る会」で「八雲の舞」(品川神社太太神楽)を、2019年6月に「第二回 かながわのお神楽」公演で佐相社中「八雲神詠」を鑑賞する。「八雲の舞」は太々神楽で演劇化されていないが、この二つの舞には連続性があることが見てとれる。いずれも石見神楽の様な提灯式蛇胴は使用していない。

八雲の舞:大蛇
八雲の舞:大蛇
八雲の舞:大蛇と須佐之男命と櫛名田比売命
八雲の舞:大蛇と須佐之男命と櫛名田比売命
八雲の舞:降参する大蛇
八雲の舞:降参する大蛇

八雲神詠:櫛稲田姫命
八雲神詠:櫛稲田姫命
八雲神詠:足名槌
八雲神詠:足名槌
八雲神詠:手名槌
八雲神詠:手名槌
八雲神詠:大蛇
八雲神詠:大蛇
八雲神詠:大蛇
八雲神詠:大蛇
八雲神詠:酒に酔って眠る大蛇
八雲神詠:酒に酔って眠る大蛇
八雲神詠:須佐之男命が大蛇の様子を伺う
八雲神詠:須佐之男命が大蛇の様子を伺う
八雲神詠:須佐之男命が大蛇と戦う
八雲神詠:須佐之男命が大蛇と戦う
八雲神詠:須佐之男命、天叢雲剣を手にする
八雲神詠:須佐之男命、天叢雲剣を手にする

◆古事記
 古事記の八岐大蛇神話を直訳調ながら現代語訳してみた。

 そこで(高天原を)去り追われて出雲国の肥の河(斐伊川)の河上の鳥髪(とりかみ)というところに降った。この時、箸がその河から流れ下ってきた。ここで須佐之男命は人が川上にいると思って、訪ね求めて上って行ったところ、翁と媼とが二人いて童女(をとめ)を中に置いて泣いていた。そうして問うて「お前たたちは誰だ」とおっしゃった。そこでその翁が答えて「私は国つ神である大山津見神(おほやまつみのかみ)の子です。私の名は足名椎(あしなづち)、妻は手名椎(てなづち)と言い、娘の名は櫛稲田比売(くしなだひめ)と言います」と言った。また問うて「お前たちが泣く理由は何だ」と問うた。答えて「私の娘は本から八人の稚女(をとめ:娘)がいたのですが、高志(こし:越)の八俣(やまた)のをろちが毎年やって来て喰らうのです。今をろちが来る時です。そこで泣くのです」と言った。そうして問うて「その形はどの様なものだ」と問うた。答えて「をろちの目は赤かがちの様で、身体一つに八つの頭と八つの尾があります。また、その身に日影かずらと檜(ひのき)と杉とが生え、その長さは谷八つ山八つに渡って、その腹を見れば悉く常に血でただれています」と申した。<ここに赤かがちと謂うのは今のホオズキだ>。

 そうして速須佐之男命はその翁に「お前のこの娘は自分に献上するか」とおっしゃった。答えて「畏まって。またあなたの名を知りません」と申した。そうして答えて「自分は天照大神の同母の弟だ。そこで今天から下っているのだ」と仰せになった。そうして足名椎と手名椎の髪は「左様でしたら、恐れ多いことです。献上しましょう」と申した。そうして速須佐之男命はただちんい神聖な櫛の爪にその童女を変えて、自分のみずらに差して、足名椎と手名椎の神に告げて「お前たちは何度も繰り返し醸造した強い酒を用意し、また垣を作って巡らして、その垣に八つの門を作り、門毎に仮に設けた棚を八つ用意し、その棚ごとに酒船(さかぶね:船形の大きな器)を置いて、酒船ごとにその強い酒を盛って待って」と告げた。そこで告げた通りにこのように設け備えて待ったその時に、その八俣のをろちがまことに話した通りに来て、ただちに酒船ごとに己の頭を垂れて入れ、その酒を飲んだ。ここで飲んで酔い留まって伏して寝た。速須佐之男命はその佩(は)いた十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜いてその蛇を切り散らしたところ、肥河(ひのかわ:斐伊川)は血に変わって流れた。そこでその中の尾を切った時に刀の刃があこぼれた。そうして怪しいと思い。刀の先で刺して割いてみたところ、つむ羽の太刀が出てきた。そこでこの太刀をとって特別な物っと思って天照大神に申して献上した。これは草那芸太刀(くさなぎのたち)だ。

◆日本書紀

 この時に素戔嗚尊は天から出雲国の簸の川(斐伊川)の川上に降って至った。その時川上で泣く声があるの聞く。そこで、声を訪ねて探して行ったところ、一人の翁と媼がいた。中に一人の少女(をとめ)を置き、かき撫でつつ慟哭した。素戔嗚尊が問うて「お前たちは誰か。何をしてこのように泣く」とおっしゃった。答えて「我はこれ国つ神、脚摩乳(あしなづち)と申します。我が妻は手摩乳(てなづち)と申します。この童女(をとめ)は我が子です。奇稲田姫と申します。泣く理由は、往事に我が子は八人の少女(をとめ)がいたところを、毎年八岐大蛇の為に呑まれたのです。ちょうど今この小童(をとめ)が呑まれようにしています。免れる手立てがありません。そこで悲しんでいるのです」と申した。素戔嗚尊が曰く「もしそうならば、お前は娘を私に献上しないか」と仰せになって、答えて「仰せのままに献上します」と申した。そこで素戔嗚尊はたちどころに奇稲田姫を神聖な爪櫛に変えてみづらに挿した。ただちに脚摩乳と手摩乳に何度も醸造した強い酒を醸し、併せて仮の棚(仮ヅチ、ここでは佐受枳サズキと云う)。八つの棚を作り、各々に一つの槽(さかぶね:酒を入れる桶)を置いて酒を盛って待った。時が来て、果たして大蛇が出て来た。頭と尾は各々八つあった。眼が赤かがち(ホオズキ)の様で、(赤酸醤、ここでは阿箇箇ガ知と云う。松と柏(かや)の木が背の上に生えて、八つの丘、八つの谷の間に這い渡った。酒を飲むに至って、頭が各々一つの槽(さかぶね)を飲んで酔って眠った。時に素戔嗚尊はたちまち帯びた十握(とつか)の剣(つるぎ)を抜いてずたずたにその大蛇を斬った。尾に至って剣の刃が少し欠けた。そこで、その尾を割り裂いて見たところ、中に一つの剣があった。これがいわゆる草薙剣(くさなぎのつるぎ)である。草薙剣、ここでが俱娑那伎能都留伎と云う。一書(あるふみ)に曰く、本の名は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)。まさしく大蛇が居る上に常に雲があった。そこで名づけたか。日本武皇子(やまとたけるのみこ)に至り、名を改め草薙剣と云うという。素戔嗚尊は「これは霊妙な剣だ。どうして敢えて私用しておこうか」と仰せになって、ただちに天照大神に献上した。

 日本書紀の異伝(一書に曰く)を直訳調であるが現代語訳してみた。

<第二>一書に曰く、この時に素戔嗚尊は安芸国(あきのくに)可愛(え)の川上に下り到った。そこに神がいた。名づけて脚摩(あしなづ)手摩(てなづ)と言う。その妻(手摩)は名づけて稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)と言う。この神はまさに妊娠していた。夫婦(いもせ)共に憂えて、ただちに素戔嗚尊に告げて「私が生んだ子は多いとはいえども、生む毎にただちに八岐大蛇(やまたのおろち)が来て呑み、一人も生存することができませんでした。今や私は産もうとしています。恐れるのはまた呑まれてしまうことです。これで悲しむのです」と申した。素戔嗚尊はただちに教えて曰く「お前たちは諸々の木の実で酒を八つ醸すべし。私はお前たちのために大蛇(おろち)を殺そう」とおっしゃった。二柱の神は教えのままに酒を用意した。産むときに至り、必ずその大蛇が戸に当たって(直面して)子を呑もうとした。素戔嗚尊は大蛇に勅命を下して曰く「お前はこれ恐ろしい神だ。敢えて饗応しないことはないだろう(饗応しない訳にはいかない)」と仰せになり、ただちに八つの甕の酒を口毎に注ぎ入れた。その大蛇は酒を飲んで眠った。素戔嗚尊は剣を抜いて斬った。尾を斬るときに至って、剣の刃が少し欠けた。割いてみれば、剣が尾の中にあった。くれを草薙剣と申す。これはちょうど今尾張の吾湯市村(あゆちのむら)にある。乃ち熱田の祝部(ほふり)が司る神がこれだ。その大蛇を斬った剣は名づけて蛇(おろち)の麁正(あらまさ)と言う。これはちょうど今石上(いそのかみ)にある。この後、稲田宮主簀狭之八箇耳は児真神触奇稲田媛(こまかみふるくしいなだひめ)を生んだのを以て、出雲国の簸(ひ)の川上(斐伊川の川上)に遷り置いて養育した。そうして後に素戔嗚尊は(奇稲田媛を)以て后として生んだ御子の六世(むつつぎ)の孫(みまご)がこれを大己貴命(おほあなむちのみこと)と申す。大己貴、ここではオホアナムチと云う。

◆岩田勝の悪霊強制説
 岩田勝は神楽の本義を悪霊強制説と主張したが、例としてヤマタノオロチ神話を取り上げてみる。

 地霊の地上への顕現であるスサノヲは、その具象化としての蒭霊あるいは茅人形の始原的な像容である。(中略)
 そのような矛による形象は、たとえば疫神の頭(かしら)とされてスサノヲに習合された牛頭天王が疫神を統御する霊威をよく揮うものとされているように、それに蛇形の地霊がつよく顕れるものなるがゆえに悪気邪霊を攘う威力もまた強いものとされた。蛇形のスサノヲは、根の国(出雲国)ではみずからの分身の八岐大蛇を殺害する。
岩田勝「神楽新考」52P

とある。「蛇形のスサノヲは、根の国(出雲国)ではみずからの分身の八岐大蛇を殺害する。」とある。地霊である(故に蛇形である)スサノヲが自らの分身であるところの地霊である八岐大蛇を退治する。なんともアクロバティックな解釈ではなかろうか。普通に読めば何か変と思わざるを得ない。この一文で岩田の悪霊強制説は決定的に破綻してしまうのだ。

◆余談

 昔、大学の文学部に在学中の兄が八岐大蛇神話は斐伊川の水害を治めたことを象徴しているという旨のことを言って、当時僕は小学生だったが、なるほどと思ったことがある。
 大蛇の尾から剣が出てきて、スサノオ命の剣が欠けるのは銅剣と鉄剣の違いを示しているかもしれない。なので、八岐大蛇神話は農業だけでなく製鉄にまつわる話だともされている。実際、日本に於けるたたら製鉄はいつ頃まで遡れるのだろう。

◆参考文献

・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・俵木悟『八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽「大蛇」の大阪万博出演とその影響―』「石見神楽の創造性に関する研究」(島根県古代文化センター, 2013)pp.33-48
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)

記事を転載 →「広小路

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2017年9月16日 (土)

岩田勝「神楽源流考」にみる神楽の理論書と暗黙知の働き

◆本は一冊書けばいい

大学生のとき、刑法の講義だったが、教授が脱線して言った。学者は生涯で一冊本を書けばいいんだと。ちなみにその教授は告発本によると、学内の政治に長けていたらしい。

文系に限るが、学者・研究者としての人生には色々あるだろう、その究極の目標としてのゴールは、教授になるといったゴール、更にそれに留まらず学部長・学長になるなど政治的なゴール、法学だと司法試験の委員になるといったその道の権威的なゴールもある。

本を一冊書けばいいというのは、研究の集大成として理論書を一冊執筆するというゴールがあるということだろうか。

ブログをはじめて14年、ようやく視界に入ってきた研究者として岩田勝という中国地方の神楽に詳しい先生がいる。もうお亡くなりになったが、本業は郵政公務員で、独学で兼業ながら、本職の研究者に勝る実績を叩き出した驚異的な人物である。

◆岩田の業績――神楽の理論化

岩田勝の著作として「神楽源流考」と「神楽新考」の二冊を挙げる。他にもあるけど、この二冊は神楽の理論書なのである。民俗学の中の神楽というジャンルに相当するか。

岩田の業績として(実際には三分類だが)神楽を託宣型と悪霊強制型に分類したことが挙げられる。託宣型は舞につられて出て来た神の一人語りと呪具の贈与というモチーフを持つ。そして神が祝福の舞を舞い、祭却されるというものである。悪霊強制型は祟る神を守護霊として転化して祀る型と、祟る神として依り代に依らしめて攘却する型に分類される。また、日本のシャーマニズム、神がかりを神がからせる者と神がかる者とのセットで把握したことも業績の一つだろう。

例を示すと以下のようになる。
・託宣型……Ⅰ型(託宣の舞)
・悪霊強制型……Ⅱ型(祝詞(のっと)の舞=祭文の舞)
         ……Ⅲ型(使霊の舞)……ⅢA型(→悪霊)
                       ……ⅢB型(→死霊)

神楽は日本の文化の一つで、現在では伝統芸能/郷土芸能であるけれど、掘り下げると、日本人の精神性と深く関わっているのだ。

学生向けの教科書ではない理論書を執筆する、それは研究者として大成したことを示すものではないだろうか。もちろん、ただ独りのみで成し遂げたのではない、石塚尊俊、牛尾三千夫ら先行する研究者がいて、畑を耕し種を播きということはやっている。だが、その中で二冊の理論書という形で花を咲かせ、他に大きく影響を及ぼした点で抜きんでているのだ。

批判もある。諏訪春雄という学者は「日中比較芸能史」で、井上隆弘という研究者は「神楽祭文研究の方法について―岩田勝・山本ひろ子の所説を中心として―」という論文で、また「霜月神楽の祝祭学」という著作でそれぞれ岩田説について批判的検討を加えている。

諏訪説は神楽を天の岩戸神話や奥三河の花祭りのような擬死再生のモチーフと土公祭文のような祟る神を鎮める御霊祓いのモチーフとに分類した。折口説と岩田説との折衷説のような形である。

井上説では神楽の託宣型と悪霊強制型は明確に分離できるのではなくそのどちらの要素も、いわば両義性が見られると指摘している。

僕自身、まだ著書の一部しか読んでいないが、岩田説の天の岩戸神話の解釈には微妙なものを感じるのも事実である。天鈿女命にスサノオを憑依させ攘却するという解釈になるからである。

しかし、批判的検討を加えるということは、検討する叩き台となる材料があるということでもある。とにかく一つの理論として体系だてたこと自体が誰にでもできることではない。

長年に渡ってこつこつと地道に研究を重ねる。ここまでは学者・研究者ならば誰しもがそうだろう。しかし、研究がいい具合に煮詰まって、あるときポンと発想が飛躍する、これは一部の者にしか訪れないのではないか。

◆暗黙知

科学哲学者のマイケル・ポランニーは暗黙知という概念で知られているけれど、発想の飛躍が起きる過程を創発と呼んでいる。暗黙知は経営学で援用されて言語化できない知、職人の勘やコツのようなものが事例として挙げられているけれど、元々は科学者の発見に関するものだ。

知識はピラミッド型で下部構造から上部構造が発生、相互に影響を及ぼすと説明していいだろう。上位概念を得ることで下位の概念をコントロールできる、つまり統一的に理解するのである。ここが「下部構造が上部構造を規定する」と考える唯物論と違うところだ。

面白いことに「神楽源流考」のあとがきを読むと、「神楽源流考」に記載された文章は元々は「山陰民俗」「広島民俗」等、各地域の民俗学会の学会誌に発表されたものなのだけど、1970年代の約5年という短いスパンの中で生み出されているのである。

マイケル・ポランニーなら、岩田に暗黙知の働きを見出すかもしれない。悪霊強制型という概念はマックス・ウェーバーの宗教社会学に由来するとのことなので、いつなのかは不明だが、宗教社会学を読んだ時点で予見というか構想のようなものがあったのかもしれない。

大学生のとき、別の先生だが、文系の学問は(理系のような新発見などはないのだから)一つ一つ積み重ねて一歩でも進むことが大事だと、そのようなことを述べていたと他の学生から聞いた。普通、文系の分野で新発見なんてないのである。大抵は誰かが既に考えていたことなのだ。なので、岩田勝の達成した神楽の理論化は稀な事例とも言えるかもしれない。

◆死

「神楽と風流」という「山陰民俗」の論文を集めた本で岩田勝が平成6年に亡くなっていたことが分かった。1926年生まれで69歳68歳。自分の父と近い同じ歳で亡くなっている<。学者としては若い死だ。まだ活躍する余地は十分あっただろうけど、「神楽新考」を残したことが救いか。

備後福山の生まれで本業は郵政公務員官僚だった。神楽理論の功績が評価されて早稲田大学の非常勤講師になって間もない時期の死だったようだ。「山陰民俗」に寄稿した講演会の文章では子供時代に五郎王子の神楽を鑑賞していたことに触れられている。子供のときの体験が根っこにあって、それで大人になってから情熱を燃やしたことが分かる。

雑誌「広島民俗」42号に田中重雄「岩田勝さんを惜しむ」という追悼記事があった。家庭の事情で旧制中学卒業で旧制高校や大学には進学していないようだ。大学には行っていて実学を学んだのではないかと予想していたが、実際にはそうではなかった。高等教育を独学で学んだのだろう。独学でくずし字を読み、難しい神楽の詞章を読解している。そしてそれらを体系づけて理論の構築。驚異的というか異次元だ。「神楽新考」に見られる折口信夫に直接接したかったという述懐は大学に進学できなかったことからくる真摯なものだったのだ。

なお、著書のあとがきによると、神楽の観光資源化、要するにショー化には強い懸念を抱いていたようである。特に広島県の芸北神楽に顕著だけど、現代の神楽は神事性と商業性の間で揺れ動いている。これは後の世代に託された問題なのだろう。

◆神楽新考

 「神楽新考」では岩田は在野の神楽研究者に留まらず、国文学者の一面を見せた。古典を駆使して神楽の根源にある概念「タマフル」「タマシズメ」、「カカル」「ツク」「ヨル」等を分析しているのだ。「神楽源流考」の参考文献一覧はある程度見当がついたけれど、「神楽新考」の参考文献一覧はどこから手をつけたものか皆目分からない。異次元である。

 「神楽新考」は平成4年で、岩田が亡くなったのは平成6年だから、批判を受け付ける時間がほとんどなかったものと思われる。次回作の構想もあったけれども、結局出ないままとなった。

◆備後東城荒神神楽能本

 「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」に収録された広島県比婆郡東城町戸宇の宮脇栃木家蔵の神楽能本(備後東城荒神神楽能本)の延宝本と寛文本を精読した。詞章が崩れている箇所も多々あって内容を理解しているとは言い難いが、これは能本、つまり昔の田舎のエンタメなのだと思わされた。読む前はもっと呪術的な内容かと思っていたが、読んでみると意外と面白いのだ。確かに「目蓮の能」「松の能」「身売りの能」等、葬式神楽で演じられたと思われる演目もあるが、「身売りの能」など、読んでいて、この後、物語はどういう風に展開するのだろうと思わされる内容だった。

 岩田は「神楽源流考」で備後東城荒神神楽能本を託宣型と悪霊強制型に分類した(499-502P)。儀式舞ならともかく能舞で単純にこれらの図式を当てはめられるのだろうかという疑問が湧いた。岩田は備後東城荒神神楽能本に呪術性を見出した。それは作品の解釈には寄与する。が、それは全体像の中の一面に過ぎないのではないだろうか。

 「日本庶民文化史料集成」の編集者の山路興造は備後東城荒神神楽能本を能楽大成以前の能の有り様が記されていると見た。それにしても能である。この能を持ち伝えたのは修験の山伏たちだろう。呪術的な側面が無いとは言えないが、当時これらの神楽能を見物していた人たちはどう見ていただろう。娯楽としてではないのか。

◆権威として
 岩田は岩田勝「シンポジウム雑感」「民俗芸能研究」18号という小論を寄稿している。1993年だから晩年のものになる。この中で岩田は岩手の中野七頭舞を「それは、私にはフェスティバルか余興の場で観衆も演者もともに楽しむことができる“少女歌劇”化したおどりとしか思えなかった」と酷評している。中野七頭舞は練習方法が近代化され、腕を何度上げるとかいった指導がされているそうだ。要するにモダナイズされた舞なのだけど、そのことがお気に召さなかったようだ。そこには「神楽源流考」の実績で権威と化した晩年の岩田の姿を見ることができる。

 また、岩田は、岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号という小論を書いてもいる。高知県で催された全国神楽フェスティバルに出席し、シンポジウムに参加している。フェスティバルのトリは石見神楽の「大蛇」が演じられたようだ。新聞報道では「身体が左右に揺れ出した。ジャズやロックを聴いている時のようにリズムを刻む」「舞い手と観客が一体となってどよめいた数時間は興奮以外の何ものでもなかった」と報じられた様だ。対する岩田は「そこには民俗芸能研究などという、客観的で冷静な態度などはありようがない。あえて学問としてというならば、おそらくこれから本格的に取り組まれるべきなのは、祭りの場から離れた民俗芸能の社会学(あるいは経営学)であり、祭祀組織の基盤を失ってもなお一人歩きさせるための民俗芸能保護行政学であるであろう。」と冷めた見解を披露している。

 また「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」では

 前夜の強烈な印象の覚めやらぬ私は、いささか非情なことになってもやむを得ないと、同族や地縁の共同体祭祀組織の式年ごとの神楽の祭りの構造とその意図するところを強調したりして、昨夜と今夜の“神楽”は、そのような神楽の祭りの中からいちばん見た眼に面白い部分だけを上演するのであって、くれぐれもあれだけ(※石見神楽と備中神楽)をもって神楽だと受け取られないようにと、人々の興奮に水をさす役目を勤めざるを得なかった。(2P)

と書いている。石見神楽の大蛇だけが神楽ではないのだと。だが、反対のことも言える。呪術性のある神楽――大元神楽や比婆荒神神楽だけが神楽ではないとも。現代の神楽は多岐に渡っているのだ。

 更に「神楽新考」のあとがきを読むと分かるが、そこでは中国地方の神楽の沿革が記され、近代に入って能舞偏重となり、更に八調子石見神楽や芸北神楽が盛行する有り様を神楽のショー化だと批判している。

 「神楽新考」の「あとがき」では「能舞の芸能神楽は、もはや民俗芸能の範疇でとらえることすらためらわれるほどになっている。」(472頁)と記している。意訳すれば八調子石見神楽や芸北神楽の能舞は学問的対象ではない、つまり研究に値しないと述べているのである。これに加えて「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」では「そこには民俗芸能研究などという、客観的で冷静な態度などはありようがない。」と記している。だが、本当に客観的冷静にみて八調子石見神楽系の能舞が研究に値しないものだと断言できるだろうか。ある意味では神楽の最先端を走っている、そして現在でも変化し続ける生きている神楽なのである。そこには神楽の権威としての個人的な嗜好が含まれてはいないだろうか。

 これらから伺えるのは岩田は神楽のジャンルにおいて本質主義をとっていることだ。本質主義に対抗する構築主義は平成に入った辺りから論じられる様になったようで、岩田はその世代ではないのである。

 本質主義の欠点は芸能の歴史的変容の過程を認めないことだ。現在を後世の堕落した姿と捉えるのである。言わば、理想化された神楽の幻影を追い求めて、ありのままの神楽を見ていないことにもなる。権威主義と表裏一体なのである。

◆昇華させられないか

武井正弘「奥三河花祭り祭文集」という史料集のあとがきによると、武井正弘という研究者は東大法学部を卒業した後、編集者として活躍、奥三河花祭りの研究に身を投じたのは四十代からだったというから、四十代でも遅すぎるということはないのかもしれない。

僕自身、原史料を読む力が無いし(くずし字を学んだ方がいいのかと考え中)、そもそも高等教育が頭に受けつけなかった身であるから、研究というのはおこがましいが、これまでで得たものを何らかの形で昇華させられないかなとは思っている。

具体的には創作のジャンルなのだけど、このブログのこなれていない文章で容易に想像できるだろう、とにかく文才が無くて、とても人様に見せられるものではない。島根の伝説は観光資源にはならないのだろうかという問題意識がちょっとだけある。

◆参考文献

・田中重雄「岩田勝さんを惜しむ」「広島民俗」第42号(広島民俗学会, 1994)pp.39-45
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)
・「神楽新考」(岩田勝, 名著出版, 1992)
・「日中比較芸能史」(諏訪春雄, 吉川弘文館, 1994)
・「霜月神楽の祝祭学」(井上隆弘, 岩田書院, 2004)
・井上隆弘「神楽祭文研究の方法について―岩田勝・山本ひろ子の所説を中心として―」「民俗芸能研究」59号(民俗芸能学会編集委員会/編, 2015)pp.26-44
・「奥三河花祭り祭文集」(武井正弘/編, 岩田書院, 2010)pp.212-231
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)
・岩田勝「シンポジウム雑感」「民俗芸能研究」18号(民俗芸能学会編集委員会/編, 1993)pp.76-78
・岩田勝「“神々の乱舞”全国神楽フェスティバル」「民俗芸能学会会報」第21号(民俗芸能学会, 1991)pp.2-3

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母の面と鬼の面――母思いの孝行話

◆はじめに

 日本標準「島根のむかし話に「おにの面」という昔話が掲載されている。仁多のお話とされているので、奥出雲の昔話だ。

◆粗筋

 仁多の奥の娘が町に奉公することになった。母思いの娘は町で母に似た面を買って行李(こうり)の中に入れて奉公先にいった。そうして毎日夜になると面を出しては「お母さん、今日も無事でした。お母さんもご無事で」と話しかけていた。
 ある日、そこの親方がこっそり覗き見て「何を見てぶつぶつ言っておるのかの」と言って、こっそり行李を開けて見た。
 そうしたら、行李の中に女の面が入っていた。「ふうん、それなら脅かしてやれ」と言って、女の面の代わりに鬼の面を入れておいた。
 あくる晩、「今日のお母さんは、どうしているだろうか」と思って行李の蓋をとったところ、母の面が鬼の面になっていた。
「これは、どうしたことか。行李の蓋を取った見たら、お母さんの面が鬼の面になっている。帰らなきゃ」と言って、親方に暇を貰って里へ帰ることにした。
 あくる朝、早くに出たが、峠まで来たら日が暮れてしまった。それでも歩いて行ったら、向こうに灯りが見えてきた。娘はやれ、うれしやとどんどん急いでいった。
 行ってみると、恐ろし気な顔をした男が焚火をして酒を飲んでいた。その中の男が娘を見つけて、「お前はこんな晩にどこに行くのか。ここで火たきの手伝いをせよ」といって捕まえてしまった。
「勘弁してください。私は実家へ帰らなきゃいけないから」と言ったけれども許してくれなかった。そうして「夜が明けるまでは仕方ない」と思って火を焚いていた。
 焚いてやったのはよいが、生の木もあったので、煙が出て煙たいので、娘は仕方なく荷物の中から鬼の面を取り出して被った。
 すると、男の中の一人がこれを見て、「やあ、あの娘が鬼になってしもうた。ありゃあ、鬼だったらしい」と言って、みんな逃げてしまった。
 後には沢山の銭が残っていたので、風呂敷に包んで持って帰った。
 帰ってみると、母は病気ではなく、家にも変わりがなかった。二人はそれから仲良く暮らしたとさ。

◆まんが日本昔ばなし

 このお話はまんが日本昔ばなしで「母の面と鬼の面」というタイトルでアニメ化されている。小汀松之進(未来社刊)より、演出:小林三男、文芸:沖島勲、美術:阿部幸次、作画:高橋信也とクレジットされている。

 むかしむかしのことだった。ある山国に一人の娘と母親が住んでいた。二人の家は貧乏だったので、ある年の冬のこと、娘は町の長者の家に奉公に出ることになった。奉公に出れば、二人が会えるのは盆と正月に限られる。年老いた母を独り残して娘は気が気でなかった。それで娘は町の面屋に頼んで、母そっくりの面を作ってもらった。母親は娘の無事を祈って、一生懸命に神棚に祈った。こうして娘は黙々と雪の山道を歩いていった。峠まで来ると、すでに夕暮れだった。娘は振り返って自分の村を見て母の無事を祈った。
 さて、こうして娘は長者の家に住み込んで働くことになった。朝は暗い内から起きだして炊事、昼日中は洗濯、風呂焚きも大変だった。こうして娘の手は来てまだ四五日も経たないのに赤くしもやけになった。でも、娘は毎晩、母の面に会うのが楽しみだった。娘はこうしていつも面に話しかけていた。
 ところが下男の中に一人いたずら者がいて、この様子を障子の穴から覗いていた。よし、一丁脅かしてやろうと言った。
 一日が終わり、仕事を終えた娘が母と話をしようと針箱の引き出しを開けた。すると母の面が鬼の面となっていた。
 娘はすっかり驚いて、これは故郷の母に何か不吉なことがあったに違いないと思い、いても立ってもいられなくなった。
 娘はその夜、長者が明日にしろと止めるのも聞かず、そのまま奉公先を飛び出ていった。一歩表に出ると、そこは暗い山の中だった。娘は暗い山の中を駈けに駆けていった。と、前方に小さな灯りが見える。あそこまで行けば、と娘は急いだ。ところが、火の側にはむさ苦しい男が三人立っていた。そして、娘をいやらしい目つきで見ると、にやにやと薄笑いを浮かべた。娘は慌てて逃げようとしたが、捕まってしまった。今夜は一晩中つきあってもらうぞと男は言った。娘はどうしても今晩中に帰らないといけないと懇願した。男は明日になれば許してもやろう、でも、今夜は駄目だ。火の番をしてもらおうと言い、放さなかった。娘は必死に頼んだが、聞き入れて貰えなかった。
 男たちはそのうち賭け事を始めた。娘は母のことを思うと気が気でなかった。娘は火の番をして段々顔がほてってきた。それでいつの間にか鬼の面を被っていた。すると、それを見た男たちは鬼だと一目散に逃げ出した。
 娘はこうして我が家に辿り着いた。母は元気で、何もかも下男のした仕業だと判った。
 娘は男たちが残していった金を集めて、お役人の所へ持っていったが、お役人はお前の母を思う気持ちが天まで届いたのだろうといって、そっくりそのまま娘に与えた。そして、娘は長者の家から暇をとり、いつまでも親子仲良く暮らしたという。

◆未来社

 この話は未来社の民話シリーズにも収録されている。石塚尊俊「出雲の民話 日本の民話12」では、原話:「仁多郡誌」、再話:小汀松之進とある。「まんが日本昔ばなし」の内容はこの未来社のものに沿っているようだ。大庭良美「日本の民話 34 石見篇」では原話:三原小学校児童採集「川本町誌」とある。

◆島根オリジナルか

 アニメと下に挙げた三冊の本だけで「母の面と鬼の面」は島根県が出所の昔話であると言えるかどうか分からない。こうして書籍化もされているし、昔話なので、全国に伝播していてもおかしくないだろう。

◆角川書店「日本昔話大成」

 角川書店「日本昔話大成」第9巻によると全国に伝播した昔話であった。「鬼の面」で収録されている。主人公が男のバージョンもあった。ただ、主人公は女の方が母を思う気持ちが出ていて好ましいと思う。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.71-74
・「出雲の民話 日本の民話12」(石塚尊俊, 未来社, 1958)pp.170-174
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.215-216
・「日本昔話大成」(関敬吾, 角川書店, 1979)pp.102-108

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2017年9月11日 (月)

貴船――謡曲「鉄輪」を元としつつ結末の解釈が異なる神楽の演目

◆はじめに

 石見神楽に「貴船」という演目がある。京都の貴船神社を舞台にした演目で、謡曲「鉄輪(かなわ)」が元である。「校定石見神楽台本」の注によると「呪詛をテーマとしてゐる陰惨な舞ひであるから、明治以来上演を禁ぜられ、現今では殆んど実演せられない」(94P)とのことであるが、動画投稿サイトのYoutubeを見ると何作も投稿されており、現在では特に問題なく演じられているようである。

 鉄輪とは五徳のことである。五徳といっても現在のガスレンジのそれではなく、火鉢で使うものである。

◆石見神楽「貴船」

 女が現れ、下京に暮らす男の妻だと述べる。夫に離縁された無念から、貴船明神に三七(二十一)日参詣したところ、霊夢を見たという。憎い夫に怨みを報いようとするならば、毎夜丑(うし)三つの時を違えず、赤い衣をまとい、頭に三つの金輪(かなわ)を据えて、金輪の足に火を灯して、宇治の浅瀬を渡るならば鬼女となるだろうというお告げを聞いたのである。
 一方、男は妻を離縁したところ夢見が悪いと言い、安倍晴明に面会を求める。晴明の弟子の三吉が案内する。晴明は確かにこの頃、毎夜貴船神社に丑の刻参りをする女がいると聞く。男の妻に相違ないと言った。禍を逃れるために、茅がやの人形を人尺(人の背丈)に作り、五尺の棚にこれを立て、幣帛(みてぐら)を奉る。その時女が姿を現し、真の夫と思い、命を取ろうとするだろう。天には雨が降り、雷電が鳴り響き、暗闇となり女はこの人形を掴み取って虚空へと昇らんとするだろう。そうならば男の身を害することはないから安心せよと述べた。
 果たして、鬼女と化した女が現れ、人形を掴み取った。
 女は「憎い夫を打った。願いがかなった」と言って人形を打つ。

 六調子の神楽台本によると、
 抑(そも)呪詛怨念の始といつぱ 神代に於て磐長媛命其形醜しとて天孫宣ひしを恥ぢ恨み玉ひて天地の神を祈り給ふ是を以て始めとす
「校定石見神楽台本」(192P)
とある。磐長媛はコノハナサクヤヒメの姉でサクヤヒメと共にニニギ命に嫁いだが、容貌がよろしくないので親元に返されてしまった。それで父親の大山祇命が呪詛して、皇室の命は普通の人と同じく限りがあるようになってしまったという神話である。

◆謡曲「鉄輪」

 貴船の宮に仕える社人が霊夢を見たといって丑(うし)の刻(とき)参りをする女を待つ。女が現れ貴船神社に詣でる。社人が女に声をかけ、あなたのことを夢のお告げに見た。鬼になりたければ家へ帰って赤い衣を着て、顔には丹(に)を塗り、髪に鉄輪(かなわ)を戴き、三つの足に火を灯し、怒る心があるならば、たちまち鬼神となるだろう。女は人違いだと言うが、社人はあなたに違いないと言う。女は家に引き返し、社人に言われた通りにする。
 下京に住む男がこの頃夢見が悪いといって陰陽師である安倍晴明の許を訪ねた。安倍晴明は女の恨みだと一目で見抜き、今夜で命が尽きるだろうと告げる。男は女を離縁し、後妻を迎えたのであった。男は調伏を頼むが晴明は一旦断る。が、男のたっての願いで調伏を引き受けることにする。
 晴明は三重の高棚を拵え五色の幣で飾り、茅で人形(ひとがた)を作って供物を調えた。
 やがて鬼女となった女がやって来た。女は捨てられた恨みを言い、今生の内に恨みを果たさんことを誓う。まず後妻(うわなり)の人形を打ち据え、次に男の人形に向かうが、三十番神が守っていて近づけない。力を失った鬼女は他日を期すと言い残して去る。

三十番神とは、
ひと月三十日を守護する三十の神々。ことに法華信仰とも関連して中世に著しい信仰があった。貴船もその一つ。
「新潮日本古典集成 謡曲集 上」(327P)
とのことである。天照大神を初めとした三十柱の神々だ。

◆平家物語

 鉄輪の原話は平家物語・剣の巻にある宇治の橋姫の伝説とのこと。鬼女となる概要は鉄輪とほぼ同じである。謡曲の場合、本曲といって馴染み深い古典に題材を求めることが多いそうだ。

 満仲の代を継いで嫡子である摂津守頼光の代となった。頼光の代となって様々な不思議なことがあった。先ず第一の不思議として、天下に人が多く失せる事があった。失せると言っても死んで失せるのではない。行って(逃げて?)失せるのでもない。座席に連なって集っていた中にも立ったとも見えず、出たとも見えずに、かき消すように失せる。あそこでも失せたと言う、ここにも無いという、行方も知れない。いるところも聞こえず失せる人が多かったので、恐ろしいとも何とも言いようがない。これはいかなる不思議だといって万民の騒ぎとなった。是を詳しく尋ねたところ、嵯峨天皇の御代にある公卿の娘があまりに物を妬んで、貴船の大明神に詣でて七日籠って「帰命頂礼貴船の明神、願わくは七日籠った利益として、わらわは生きながら鬼になしてください。恨めしいと思う女をとり殺しましょう」と申した。大明神はお聞きになって哀れとお思いになったのだろう、「申すところが実に不憫である。まことに鬼になりたくば、姿を変えて宇治川の川底が浅くて流れの速いところに行って三七二十一日浸りなさい。されば鬼となそう」と示現があった。女房は喜んで都に帰って人気の無いところに籠って、猛々しい髪を五つに分けて飴を塗って巻上げて五つの角に作った。顔には朱を塗りつけ、頭には金輪(五徳)を被り、松明を三束火をつけて一束ずつ金輪の三つの足に結いつけて、長い松明に上下に火をつけて、中を口にくわえて、夜が更け人が寝静まった後で大和大路を宇治へと走り出し、南を指して行けば、頭から五つの炎が燃え上がった。偶然これに行き合った者は肝を抜かれ魂を失い、死なないことはなかった。こうして宇治の川瀬に行って三七二十一日浸ったので、貴船大明神のお計りで、彼女は生きながら鬼となった。宇治の橋姫とも是を言うと承る。鬼になった後、妬ましいと女の所縁の者、自分を嫌い捨てた男、彼の親戚、前世の報いとして受ける境遇は上をも下をも選ばず、男女を嫌わず思うままに取り失った。男を取ろうとしては美しい美女と変じ、女を取ろうとしては見目良い男と現れて多くの人を取る間、恐ろしいと言うばかりであった。このようなので、京中の上下は申(さる)の時(午後四時ごろ)から後は人の出入りが無くなった。門を堅く閉じて慎んだという。

◆また来るぞ

 謡曲と神楽台本を比較すると、概ね謡曲の筋に沿っているのだけど、ラストシーンの解釈が異なる。謡曲では後妻(うわなり)打ちした後で元夫の人形を打ち据えようとするのだけど、三十番神に遮られて力を失い、時節を選んでと言い残して退散する。いわば「また来るぞ」で、危機は一時的に去ったに過ぎない。

 一方、神楽台本では、鬼女が元夫の人形を手にしている。人形を打ち据えても本体には影響がないのだけど、鬼女はそれで満足して去る。六調子の台本でも後妻(うわなり)を打ち据えたからと満足して去っていく。このように謡曲と神楽台本でラストシーンの解釈の違いが生じている。なぜなのか理由は分からないが、理由の一つとして鬼女が人形をわしづかみにする場面が見せ場だということができる。他、石見神楽では滑稽さを演出することがあるからだろうか。

◆動画

 Youtubeに投稿された動画を視聴した。能を鑑賞するのは初めてなのだけど、能の「鉄輪」は一時間じっと鑑賞しているのが、せっかちな自分にとっては中々難しかった。魅力もあって、静と動の切り替えの素早い所作が見事であること、微動だにしないような演者の身体能力、どういう奏法か知らないが、高音(裏音)から始まる笛の音が場を一気に引き締めること等が伝統芸能の重みを感じさせた。

 石見神楽の方は細谷社中の「貴船」を鑑賞した。こちらも一時間近い上演時間だったけれど、男が茶利なのか滑稽な筋立てなので気楽に見られた。また、安倍晴明は老人として登場していた。

 三葛神楽の六調子の貴船を鑑賞した。急調子のところでは八調子と変わらないくらいのテンポであった。そういう意味では六調子と八調子はつながっていると言えるか。

◆謡曲「鉄輪」現代語訳

シテ:女
ワキ:安倍晴明
ツレ:夫
狂言:貴船社人
處は:京都

嫉妬の一念凝って捨てられし夫を取り戻さんとせしに、安倍晴明に祈り伏されて立ち去ることを太平記其他によりて作れり

狂言「このような者は、貴船の宮に仕える者でございます。扨(さ)ても(ところで)今夜不思議な霊夢を蒙(かうむ)りました。その言われたことは、都から女の丑の刻参りをするのに申せと仰せになった子細をば新たに霊夢を蒙って、今夜参られるならば、ご夢想の様子を申そうと思う」
シテ次第「日も数沿いて恋衣(恋という着物)、恋衣。貴船の宮に参ろう」
サシ「実に蜘蛛の(糸で)家に荒れた駒は繋ぐといっても、二道(分かれ道)に隠れるあだ人(真心のない浮気者)を頼むまいと思ったところに、人の偽りを行く末も知らずに、契りそめた口惜しさも、ただ自分からの心です。あまりに思うも苦しさに、貴船の宮に詣でつつ、住む甲斐もない同じ世の、内に報いを見せ給えと」
歌「頼みを懸けて貴船川、早く歩みを運ぼう。通い慣れた道の末、道の末、夜も糺(ただ)すのの変わらないのは、思いに沈むみぞろ池、生きる甲斐ない憂き身の、消える程だろうか草深い、市原野辺の露を分けて、月の遅い夜の鞍馬川、橋を過ぎれば程なく貴船の宮に着いたことだ、着いたことだ」
詞「急ぐ間に貴船の宮に着きました。心静かに参詣しましょう」
狂言「どのようにしてか申すべき事がございます。あなたは都から丑の刻参りされるお方でいらっしゃるか。今夜あなたの身の上をご夢想に蒙っております。申される事は既に叶っております。鬼になりたいとの願いですが、我が家へお帰りになって、身には赤い衣を着て顔には丹(たん)を塗り、頭(こうべ)には鉄輪(かなわ)を戴き、三つの足に火を灯し怒る心を持つならば、忽ち鬼神となるであろうとのお告げでございます。急いでお帰りになってお告げの様になさい。なにほどの奇特なお告げでございますぞ」
シテ詞「これは思いも寄らない仰せでございます。妾(わらわ)の事ではないでしょう。きっと人違いでしょう」
狂言「いやいやしかとあらたかな夢想でありましたので、あなたのことですぞ。このように申す内に何とやら恐ろしく見えてきました。急いでお帰りなさい」
シテ「これは不思議なお告げかな。まず我が家に帰りつつ、夢想の様になるべしと」
地「言うより早く顔色が変わり気色(様子)が変じて、美女の形と見えたのが、緑の髪は空ざま(空の方)に立つか黒雲の雨降り風と鳴る神(稲妻)も、思う中を避けられた、恨みの鬼となって人に思い知らせよう、憂き人に思い知らせよう。
男詞「このような者は下京の辺りに住む者でございます。私はこの間うち続いて夢見が悪くて、晴明の許へ立ち超えて夢の様子を占なってもらおうと存じます。どのように案内申しましょう」
ワキ詞「誰ですか」
男「左様でございます。下京の者でございますが、この程うち続く夢見の悪さを尋ねる為に参上しました」
ワキ「あら不思議かな。考えるには及びません。これは女の恨みを深く蒙った人です。殊に今夜の内にお命も危うく見えます。もしや左様な事でござるか」
男「左様でございます。何を隠しましょう、私は本妻を離別して新しい妻と語らった(契った)のですが、もしや左様な事でもあるでしょうか」
ワキ「実にその様に見えております。彼の者が仏神に祈り数積もってお命も今夜に究(きわ)まっておりますので、自分の調法(調伏の呪法)では叶いそうにありません」
男「ここまで参ってお目にかかった事こそ幸いです。平にしかるべき様にご祈念し給え」
ワキ「この上はどうともしてお命を転じ変えて参らせましょう。急いで供物を調えなされ」
ワキ「どれどれ、転じ変えようといって、茅(ち)の人形(ひとがた)を人の背の尺に作って、夫婦の名字を内に籠め、三重の高い棚と五色の幣に、各々供物を調えて、肝胆(かんたん:心の中)を砕いて祈ったことだ。謹上再拝(きんじやうさいはい)。それ天が開け地が固まってからこの方、伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)尊、天の磐座(いはくら)でみとのまぐわい(まぐわい)をなしてから、男女夫婦の語らいをなし。陰陽の道が長く伝わる。それにどうして魍魎鬼神が妨げをなし、非業(業因によらない死)の命を取ろうとするか」
地「大小の天神地祇、諸仏菩薩、明王部天童部、九曜七星二十八宿を驚かせ、祈れば不思議かな雨が降り風が落ち、雷稲妻しきりに満ち満ち、御幣もさざめき鳴動して、身の毛もよだって恐ろしい」
後シテ「それ花は斜脚の(斜めに)吹く暖かいに風に開いて、同じ暮春の風に散り、月は東の山から出て早く西の嶺に隠れる。世間の無常はこの様である。因果は車輪が巡る様に、私につれない人々に忽ち報いを見させるべきだ。恋の身の浮かぶ事のない加茂川に」
地「沈んだのは水の青い鬼」
シテ「我は貴船の河瀬の蛍火」
地「頭(かうべ)に戴く鉄輪の足の」
シテ「焔(ほのほ)の赤い鬼となって」
地「伏した男の枕に寄り添い、いかに殿御(貴方)よ珍しや」
シテ「恨めしい、そなたと契ったその時は玉椿の八千代二葉の松の末にかけて変わるまいと思っていたのに、どうして捨て果ててしまうのか。あら恨めしや捨てられて」
地「捨てられて思う思いの涙に沈み、人を恨み」
シテ「夫(つま)の愚痴を言い」
地「ある時は恋しく」
シテ「又は恨めしく」
地「起きても寝ても忘れぬ思いの因果は今だと白雪の消えようとする命は今宵ぞ。いたわしい」
地「悪しかれと思わぬ山の峰にさえ、人の嘆きは生じるのに、いわんや(長い)年月思いに沈む恨みの数、積もって執着心の鬼となるのも道理かな」
シテ「いでいで(どれどれ)命を取ろう」
地「どれどれ命を取ろうと、細枝(しもと)を振り上げ、後妻(うはなり)の髪を手に絡ませて、打つや宇津(うつ)の山の夢とも現(うつつ)とも分かれぬ憂き世に因果は巡り合った。今更さぞ悔しいだろう、扨(さ)ても(ところで)懲りろ思い知れ」
シテ「殊更恨めしい」
地「殊更恨めしい、あだし男(薄情な男)を取って行こうと伏した枕に立ち寄って見たところ、恐ろしや幣帛(みてぐら)に三十番神がおいでになって、魍魎鬼神は汚らわしい、出でよ出でよと責めるぞ。腹立たしいや思う夫(つま)を取らずにあまつさえ神々の責めを蒙る悪鬼の神通通力自在の勢いが絶えて、力もたよたよ(弱々しく)足弱車(あしよわぐるま:車輪の堅固でない車)の、巡り合うべき時節を待つべきか。まずこの度は帰るべしと言う声ばかりは定かに聞こえ、云う声ばかり聞こえて、姿は目に見えぬ鬼となったことだ。目に見えぬ鬼となったことだ」

◆参考文献

・「新潮日本古典集成 謡曲集 上」(伊藤正義/校注, 新潮社, 1983)pp.319-328, 429-430
・「日本古典文学大系 41 謡曲集」(横道萬理雄, 表章/校注, 岩波書店, 1963)pp.349-352
・「校定石見神楽台本」(篠原實/編, 石見神楽振興会, 1954)pp.91-95, 191-193
・「鉄輪 能の友シリーズ14」(川西十人, 藤堂憶斗, 當山孝道, 白竜社, 2003)
・「能の鑑賞講座」(三宅襄, 檜書店, 1994)pp.134-147
・「平家物語剣巻」「完訳 日本の古典 第四十五巻 平家物語(四)」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1989)※平家物語剣巻pp.411-412
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「鉄輪」pp.459-463

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謡曲「黒塚」と「殺生石」の合成作――石見神楽の「黒塚」

◆「黒塚」と「殺生石」

 石見神楽に「黒塚」という演目がある。謡曲の「黒塚」を元としているが、後半部分、鬼女が現れる段が「殺生石」の九尾の狐に差し替えられている。どうしてこうなったのか不明だけど、あらすじを以下に見てみる。

◆石見神楽「黒塚」

 那智の阿闍梨(あじゃり)祐慶(ゆうけい)大法印は剛力を伴って諸国を修行中、陸奥の国那須野が原に辿り着いた。那須野が原に住むという九尾の狐を調伏しようというのである。
 法印は一夜の宿を柴の庵に求めた。女は一旦断るが、宿が是非借りたくば、山から薪をとり、川から水を汲み、窓から煙を出せば御僧の鈴懸衣を干そうと言い、法印の重ねての願いを聴き入れる。
 女は女性は罪深く成仏できないというが誠かと問う。法印はいかにもと答え、月経の障りがあるため成仏できないと答え、男子に変成するならば有難い霊文を授けようと言った。女は喜び十二半の舞い奏でをして元の古巣に身を失った。いかにも不思議なので剛力に里人に那須野が原の名所旧跡にことを聞いてこいと命じた。
 里人が那須野が原の名所旧跡について語る。那須野が原に黒塚がある。そのに金毛九尾の狐がたち籠り、往来を妨げ万民を害するという。昔、帝(みかど)の御簾に影を映し、帝はご病気となられたそのとき二人の博士に占わせた。これは宮女の玉藻の前の仕業であると占った。その後、二人の弓取りを雇って九尾の狐を退治したが、その亡魂が少し残っていて様々に変化する。那須野が原を通る際は錫杖で静かに祈り鎮めて通るのが肝要である。自分の家宅に立ち寄るならばもてなしもしようと。
 法印が剛力に護身心法を授けると、鬼女が現れる。鬼女に剛力を喰われてしまって法印は逃げる。
 弓取り二人が現れる。鬼女は自分は唐と天竺を滅ぼし、日本では玉藻の前として帝の命を奪おうとした。だが、安倍泰成(やすなり)の呪力で縛につき、那須野が原に引きこもって万民を害する大悪狐であると言う。
 弓取りは三浦の介(すけ)と上総(かずさ)の介である。二人は九尾の狐を討ちとる。九尾の狐は殺生石となって再び害をなそうと言うが、三浦の介と上総の介に退治される。

◆謡曲「黒塚」

 熊野の山伏である阿闍梨の祐慶は回国行脚の途中、那須の安達ケ原で一夜の宿を求める。糸を繰る女主人はみすぼらしい草庵であるからと一旦は拒むが、祐慶らのたっての願いをようやく聞き入れる。女は独りわびしく暮らす身の憂さを嘆く。女は薪をとってこようと山へと出かける。そのとき、自分の閨(ねや)は決して見るなと言いおく。女は出ていき、祐慶一行は休みをとるが、連れの能力が見るなと言われたらぜひにも見たいと禁じられた閨を覗いてしまう。閨の中は白骨死体で溢れていた。肝をつぶした能力は祐慶に知らせ、祐慶一行は慌てて逃げ出す。そこに戻ってきた女が現れ、約束を違えたことを責める。女は祐慶たちを殺そうとするが、祐慶たちの必死の祈りで折伏され、恨み言を残しながら去っていく。

◆謡曲「殺生石」

 玄翁(ゲンノオ)という高僧が那須野を通りかかった際、不思議な石があって、石の上を飛んだ鳥が皆落ちてしまった。女が現れ玄翁にそれは那須野の殺生石だから近づくなと教える。女は殺生石の謂われ、玉藻の前の話を語りはじめる。玉藻の前は才色兼備で帝に寵愛された。あるとき、清涼殿で管弦楽の催しをした際、御殿の灯火が風で一斉に消えてしまった。そのとき玉藻の前の身体が輝いて御殿を照らしたという。それから帝は病に伏ってしまった。陰陽師の安倍泰成に占わせたところ、玉藻の前が原因で帝の命を奪おうとしているのだとして調伏した。正体を現した玉藻の前は三浦の介と上総の介に退治された。なおも残る執着心が殺生石となったと語る。
 玉藻の前のことをよく知っているが、そなたは何者と玄翁が訊いたところ、女は自分は殺生石の石魂(せきこん)で、成仏を願って現れたのだと答えた。
 殺生石が割れ、石魂が怖ろしい姿となって現れた。天竺と唐の王朝を滅ぼしたと自らの由来を語るが、玄翁の調伏で殺生石の石魂はこの後悪事をなすことはあるべからずと約束、堅い石となって鬼神の姿は失せた。

◆謡曲と神楽を比較

 謡曲の「黒塚」にしても「殺生石」にしてもワキ役は高僧である。高僧の前に成仏を願う女が登場し、後段で本性を現すのである。

 八調子神楽の「黒塚」では何故か「閨(ねや)を覗くな」というセリフが無い。覗くなと言われたら覗きたくなるのが人情で、その通り結局は覗いてしまい、女が安達ケ原の鬼女であることに気づくのである。

 なお、大元神楽の台本では寝屋を覗くなというセリフはある。なので、八調子に改訂する際に何らかの理由で削除されてしまったのかもしれない。

 女はあさましい姿を見られてしまったことで怒り、閨を覗かないという約束を違えたことを責める。鬼女として人を喰らってはいても、心のどこかで成仏を願っているのである。
 「殺生石」でも先ず女が現れ、殺生石について説明した後で、詳しい理由は自分が殺生石の石魂であるからだと正体を明かす。ここでも、過去に悪行を積み重ねつつ、成仏を願う心が働いている。

 一方、石見神楽の場合、安達ケ原の鬼女から金毛九尾の狐に役割が移るのだけど、ここでは成仏を願う心はどこへ行ったのか、結局は三浦の介と上総の介に討ち取られてしまうという結末となる。高僧によって成仏させられるという筋は消えてしまっているのである。

◆変成男子

 女は成仏を願うのだけど、女の身では障りがあって成仏できないことが神楽では語られている。これも謡曲には無い特徴である。

 山本ひろ子「大荒神頌」では五郎王子譚(五郎の姫宮)を考察する際に、変成男子という概念を出して、女の身から男に性転換することの意味が解説されている。
 この変成男子は、さまざまなテクストにあらわれていますが、とても面白いのは大元神楽の神事能「黒塚」(石見大元神楽本)です。
山本ひろ子「大荒神頌」(188P)
 大元神楽では以下のようになっている。
内:いかに御僧様に願度きの事の候
法印:何条何事ぞや
内:さればなあ 女人と一ぱ 三世諸仏に隔てられ 遂に成仏せざらんと聞しが 誠に成仏せざらんを助給へや御僧様
法印:なるほど汝が云ふ通り 男の胸には八よをのれんげ登に開き 女の胸には八ようの連花下に開き 胸にたんすいと申所有 此中に数多の虫が住居をなし 物を思は青くなり 腹を立つれば赤くなり よれつ纏つ鳴涙 月に一度の月水となり 是を山に捨れば山の神の祟有 川に捨つれば水神の祟有 地に捨れは地神の祟有、遂に捨べき所無故に 三世諸仏に隔てられ 成仏せざらんと有れども 是を法花経の巻に解く時は 一謝復得 二謝退捨 三謝転臨 四謝魔追 五謝仏心と申て 男人女人の隔なく 速真成仏の位を得せん
内:此様なる御僧様に合奉事 闇に灯火 渡に舟を得た如く 助け給や御僧様
法印:速々汝が体を替て参れ 速真成仏の位を得せん
「日本庶民文化史料集成 第一巻 神楽・舞楽」(136P)
 柴の戸に住む美女(実は九尾の狐)と法印の問答のポイントは、女人往生-変成男子にあったことになります。けれども法印の説法は仏教の心蓮華(しんれんげ)向上説そのままではありませんでした。女は胸中に住む虫が原因で月水という負性を背負う。しかもその月水は不浄のゆえに捨てるところがない。結局女人のままでは往生は果たせないから、男子に変成して成仏するように、とさとしたのでした。月水-赤不浄を女人成仏の障りとみなしていることになります。
山本ひろ子「大荒神頌」(190P)
校定石見神楽台本では以下のようになっている。
女「御(おん)僧様に尋ねたき子細(しさい)御座候。」
法印「尋ねたき事の子細あらば、こまごま語られ候へ。」
女「誠に女と申す者は罪深くして、三世の諸仏に隔てられ成仏ならざる由、これは誠にて候や。」
法印「いかにも女人が申す通り、女と申すものは罪深くして、三世(さんぜ)の諸仏に隔てられ成仏といふこと更になし。女の胸には淡水(たんすい)とて、広さ八万由旬(ゆうじゅん)、深さ八万由旬の血の池あり。その池のほとりには殺生、倫盗(ちゅうとう)、邪淫(じゃいん)と申す三つの虫が住まひして、その虫の常に思ふやう、男の胸に住むならばかゝる悪事はあるまじと、よれつもつれつ泣く涙、これによつて月に七日の障りなす。これを地に捨つれば地神の御嫌ひたまふ、山に捨つれば山神様の御(お)嫌ひたまふ。水は清きものなれど、水に流し捨つれば、八徳水神の御嫌ひたまふが故に、八万代のうち成仏といふこと更になし。汝、一夜の宿の奇縁により、有難き霊文(れいもん)を授くるなり。一者福徳、二者大社、三者魔王、四者天神、五者明王 仏身と授くるなり。急ぎもとの古巣に立ち帰り形を変へて参られ候へ。」
女「こは有難き御仰せにて候。渡りに舟を得たるが如く、又闇の夜に燈火(ともしび)を得たるが如し。この上は御僧様の御仰せにまかせ申し候。」
「校定石見神楽台本」(72P)

◆神楽の成立

 岩田勝という中国地方の神楽に詳しい研究者の著作に「神楽源流考」がある。その中で「ノウノ本」という章を設けて、その中で黒塚の成立過程が考察されている。

 十七世紀、寛文・延宝期の広島県比婆郡の荒神神楽の神楽能本が残されていて、まだ近世神道の影響を受けていない形のものが確認できるとのこと。「アダチガ原黒塚」に「ナスノガ原」が混交し、やがて現在の形となったという。

◆動画

 動画投稿サイトYoutubeで細谷社中の「黒塚」を視聴した。一時間を超える上演時間だけど、滑稽な演出ということもあり気楽に見られた。特に剛力役の演技が茶利というのか滑稽でキャラが立っていた。結局は九尾の狐に喰われてしまうのだけど。

◆ネオ・クロツカ

 浜田市出身のミュージシャンである福岡ユタカの「reminiscence」というアルバムにNeo Kurotukaという曲が収録されている。「陸奥の国 那須野が原の黒塚に 鬼住む由を聞くが真か」「青き葉の 燃え立つほどに思へども 煙立たねば人は知らずや」という神楽歌が歌詞として取り込まれている。

◆謡曲「安達原」(一名、黒塚)現代語訳

後シテ:鬼女
ワキ:東光坊祐慶
ツレ:同行山伏
處は:陸奥

安達原に道ふみ迷ひたる山伏、鬼女の住処に宿を求めて、終にあるじの鬼女を祈り伏する事を作れり。(以下略)

ワキ次第「旅の衣は篠懸(すゞかけ:修験者が着る直垂と同じ形の麻の衣)の、篠懸の、露の多い袖をしおれるだろう」
サシ「私は那智の東光坊(とうくわうばう)の阿闍梨(あざり)、祐慶(いうけい)とは自分の事である」
ツレ「それ捨身(出家)抖藪(とそう:頭陀:衣食住に関する貪欲を払いのける修行)の行体(修行の様)は山伏修行の頼みとするところです」
ワキ「熊野(ゆや)の順礼(聖地・霊場を参拝して回ること)廻国(諸国をめぐり歩くこと)は、皆釈門(仏門)の習いです」
二人「ところで、祐慶はこの間、心に立てた願があって、廻国行脚に赴こうと」
歌「我(わが)本山を立ち出でて、立ち出でて、分け行く末は紀の路(ぢ)方、塩崎の浦をさし過ぎて、錦の浜の折々は、なお萎れゆく旅衣、日も重ねたので程なく、名のみ聞いていた陸奥(みちのく)の安達が原に着いたことだ、着いたことだ」
ワキ詞「急ぐほどに、これは早陸奥(みちく)の安達が原に着きました。あら笑止かな日が暮れました。この辺りには人里もなく、あそこに火の光が見えるので、立ち寄って宿を借りようと存じます。
シテサシ「実に侘人(わびびと:寂しく暮らす人)の習いほど悲しいものはよもやないだろう。この様な憂き世に秋が来て、明け方の風は身に染みるけれども、胸を休める事もなく、昨日も空しく暮れたので、まどろむ夜半(よは)が命だ。あら定めのない生涯だな」
ワキ詞「どのようにこの屋敷の内へ案内しよう」
シテ詞「そもそもどのような人か」
ワキツレ「いかにも主よ聞き給え。我ら初めて陸奥の安達が原に行き暮れて、宿を借りる便(たより*頼みとするところ)もありません。願わくば我らを憐れんで一夜の宿を貸し給え」
シテ「人里遠いこの野辺の松風が激しく吹き荒れて、月影も溜まらない閨(ねや:寝室)の内には、どうして留めることができましょうか」
ワキ「ままよ旅寝の草枕、今宵ばかりの假寝(かりね)しよう。ただただ宿を貸し給え。私だけでも憂うこの庵(いほ)に」
ワキ「ただ泊まろうと柴の戸を」
シテ「さすがに思えば労しさに」
地「ならば留まりなさいと言って、扉を開き立ち出る、異なる草も交じる茅筵(かやむしろ)、これはしたり今宵敷くでしょう。強いても宿を借り衣、固い袖の露深い、草の庵(いほり)のせわしない、旅寝の床が物憂さよ、物憂さよ」
ワキ詞「今宵のお宿は返す返すも有り難いことです。またあそこにある物は見慣れない物です。これはどうした物でしょう」
シテ「左様でございます。これはわくかせわ(かせわ:糸繰りの道具)といって、卑しい身分の低い女の営む仕事でございます」
ワキ「あら面白い。ならば夜通し営んで見せ給え」
シテ「実に恥ずかしい、旅人が見る目も恥じず何時とない、卑しい仕事が物憂いのです」
ワキ「今宵留まるこの宿の、主の情け深い夜の」
シテ「月もさし入る」
ワキ「閨の内に」
地次第「真麻苧(まそを:麻の繊維からとった糸)の糸を繰り返し、繰り返し。昔のことを今になしましょう」
シテ「賤しい績苧(うみそ:つむいだ麻糸)の夜までも」
地「世を渡る仕事こそ物憂いことだ」
シテ「浅ましいことです。人間界に生を受けながら、このような憂き世に明け暮らし、身を苦しめる悲しさよ」
ワキサシ「儚い人の言葉かな。まず生身(父母から生まれたこの身体)を助けてこそ、仏身(仏の身体)を願い頼りとするところもあれ」
地「このような憂き世に生き長らえて、明け暮れ暇のない身であれども、心が誠の道に叶うならば、祈らずとて終(つい)にどうして仏果(悟り)の縁とならないことがあろうか」
クセ「ただこれ地水火風(ちすゐくわふう)の仮にもしばらく纏わって生死(しやうじ)に輪廻し、五道(天・人間・畜生・餓鬼・地獄)六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)にめぐる事はただ一心の迷いである。凡そ人間の仇となる事を案じるに、人は更に若い事はない。終には老いとなる物を、これほど儚い夢の世をどうしてか厭わない我ながら、仇となる心こそ恨んでも甲斐がないことだ」
ロンギ地「さてそもそも五條辺りで夕顔の宿の尋ねたのは」
シテ「日陰の糸の冠(かむり)を着て、それは名高い人だろう」
地「賀茂だけあれに飾ったのは」
シテ「糸毛(いとげ)の車と聞こえ」
地「糸桜、色も盛りに咲く頃は」
シテ「来る人も多い春の暮れ」
地「穂に出た秋の糸薄(いとずゝき)」
シテ「月に夜を待つのだろうか」
地「今機(はた)で身分の低い女が繰る糸も」
シテ「長き命のつれなさを」
地「長き命のつれなさを、思い明かす明石の浦千鳥、音(ね)だけを独り泣き明かす、泣き明かす」
シテ詞「いかに客僧たちに申しましょうか」
ワキ詞「承りましょう」
シテ「あまりに夜が寒いので、上の山に上がり木を取って焚火をして当てましょう。暫く待ち給え」
ワキ「お志有難い。そうであるなら待ちましょう。そのままお帰りなさいませ」
シテ「それならばすぐに帰りましょう。や、どのように申しましょう。妾(わらわ)が帰るまでこの閨の内を見ないでください」
ワキ「心得ました。見ることはあるまい。お心安らかにお思いになってくだされ」
シテ「あら嬉しいかな。きっと見ないでください。あちらの客僧も見ないでください」
ツレ「心得ました」
ワキ「不思議だ、主の閨の内を物の隙間からよく見れば、膿血(のうけつ:うみと血)が忽ち融滌(ゆうでき:溶けて流れる)し、臭穢(臭く汚いこと)が満ちて肪脹(ぼうちやう)し、膚膩(ふに:皮膚の脂)悉く爛壊(らんえ:肉がただれ崩れること)している。人の死骸は数知れず、軒と等しく積んで置いてある。きっとこれは音に聞く安達が原の黒塚に籠る鬼の住処だ」
ツレ「恐ろしい。このような憂き目を陸奥の安達が原の黒塚に鬼こもれりと詠んだ歌の心もこのようであろうと」
二人歌「心も迷い、肝をつぶし、行くべき方向は分からないけれども、足に任せて逃げていく」
後シテ「如何にあそこの客僧止まれ。あれほど隠した閨の内を露わにした恨みを申しに来ました。胸を焦がす炎、咸陽宮(かんやうきう)の煙が紛々として」
血「野風と山風が吹き落ちて」
シテ「鳴神(なるかみ:雷)が天地に満ちて」
地「空がかき曇る雨の夜の」
シテ「鬼がひと口に食おうとして」
地「歩みよる足音」
シテ「振り上げる鉄杖の勢い」
地「あたりを払って恐ろしい」
ワキ「東方に降三世明王(がうさんぜみやうわう)」
ツレ「南方に軍荼利(ぐんだり)夜叉明王」
ワキ「西方に大威徳(だいゐとく)明王」
ツレ「北方に金剛夜叉明王」
ワキ「中央に大日大聖(だいしやう)不動明王」
二人「唵呼嚕(おんころ)々々旋茶利摩登枳(ぜんだりまとうぎ)、唵阿毘羅吽缺娑姿呵(おんあびらうんけんそはか)、吽多羅吒干𤚥(うんたらたかんまん)」
地「見我身者発菩提心(けんがしんしやはつぼだいしん)。聞我名者断悪修善(もんがみやうしやだんあくしゆぜん)。聴我説者得大智恵(ちやうがせつしやとくだいちえ)。知我身者即身成仏(ちがしんしやそくしんじやうぶつ)。即身成仏と。明王の繋縛(束縛)にかけて責めかけ責めかけ祈り伏せたことだ。さて懲りろ」
シテ「今まではあれほど実に」
地「今まではあれほど実に、怒りをなした鬼女だが、忽ち弱り果てて、天地に身を縮め、眼がくらんで足元はよろよろと漂い巡る。安達が原の黒塚に隠れ住んだのも明らかになった。浅ましい、恥ずかしい我が姿よと云う声はなお物凄まじく、云う声はなお凄まじく。夜の嵐の音に立ちまぎれ失せたことだ。夜の嵐の音に失せたことだ」

◆謡曲「殺生石」現代語訳

前シテ:里女
後シテ:狐
ワキ:玄翁
處は:下野
季は九月

殺生石の故事を海蔵寺開山伝によりて作れり(以下略)

ワキ次第「心を誘う雲水(くもみず)の、雲水の、浮世の旅に出ようよ」
詞「私は玄翁(げんをう)という道人(仏門に入って得度した者)である。私は知識の床を立ち去らず、一大事を嘆き一見所(けんしよ:みどころ)を開き、終(つい)に払子(ほつす:獣の毛や麻を束ねて柄をつけた仏具)をうち振って世間に眼を晒す。この程奥州にいるが都に上り冬夏(とうげ:冬季の安居)を結ぼうと思う」
並行「雲水の、身はどことても定めなき浮世の旅に迷い行く、心の奥を白河の、結びこめた下野(しもつけ)や、奈須野の原に着いたことだ、着いたことだ」
シテ詞「のう、その石の辺(ほとり)に立ち寄りなさるな」
ワキ詞「そもそもこの石の辺へ寄るまじき謂れがあるのか」
シテ「それは奈須野の殺生石といって、人間は言うに及ばず鳥類畜類までも障るに命なし。このように恐ろしい殺生石ともお知りになって御僧(おそう)達はお求めになる命かな。そこを立ち退きなさい」
ワキ「扨(さ)てもこの石はなぜこのような殺生をするのか」
シテ「昔鳥羽の院の上童(うへわらわ:宮中に仕える目名家の子弟)に玉藻の前という人の執着心が石と為ったのです」
ワキ「不思議だ。玉藻の前は殿上の交わった身でこの遠国(をんごく)に魂を留めた事は何故か」
シテ「それも謂れがあればこそ、昔から申し習わすのでしょうか」
ワキ「貴方の風情は言葉の末、謂れを知らない事はあるまい」
シテ「いや委しくはいざ白露の玉藻の前と」
ワキ「聞いた昔は都住まい」
シテ「今魂は天離(あまざか)る」
ワキ「鄙(ひな:田舎)に残って悪念の」
シテ「なおも表すこの野辺の」
ワキ「往き来の人に」
シテ「仇(あだ)を今」
地「奈須野の原に立つ石の、立つ石の、苔に朽ちた跡までも執着心を残してきて、またたち帰る草の原、もの凄まじい秋風の梟(ふくろ)は松桂の枝に鳴き、狐は蘭菊の花に隠れ住む、この原の時も、もの凄い秋の夕べかな、夕べかな」
地クリ「そもそもこの玉藻の前と申す人は、出生出世が定まらず、どこの誰とも白雲の殿上人の身で」
シテサシ「そうであれば好色を事として」
地「容貌は美麗なので、帝のお考えは浅くなかった」
シテ「ある時玉藻の前の智恵を計ったところ、一事とも滞る事がなかった」
地「経論(仏教の経と経を注釈した論)聖教(釈尊の説いた教え)和漢の才、詩歌管弦に至るまで問うに答えは暗くなく」
シテ「心底曇りないのでといって」
地「玉藻の前と呼ばれた」
クセ「ある時帝は清涼殿にお出でになり、月卿(帝を日に、公卿を月に喩えて言う)雲客(殿上人)の学問や技芸に優れた人を召し集め、管弦の遊びをするとき、頃は秋の末、月がまだ遅い宵の空の、雲の気色凄まじくうち時雨れ吹く風に御殿のともし火が消えた。雲上人が立ち騒ぎ、松明(しようめい)を早くと進めたところ、玉藻の前の身から光を放って清涼殿を照らしたので、光が内裏に満ち満ちて、画図(ぐわと)の屏風萩の戸、闇の夜の錦だったけれども、光に輝いて偏に月の様であった」
シテ「帝はそれからご病気となったので」
地「安倍の泰成(やすなり)が占って勘状(考えを記した文書)で申したのは、これは偏に玉藻の前の所為である。王法(王たる者の道)を傾けようと変化して来たのだ。調伏の祭をするべしと奏上したので忽ちに、帝のお考えも替わり引きかえて、玉藻変化を元の身に奈須野の草の露と消えた跡がこれだ」
ワキ詞「このように詳しく語る貴方はいかなる人だろう」
シテ詞「今は何を包み隠すべきでしょうか。その古(いにしえ)は玉藻の前、今は奈須野の殺生石。その石魂(せきこん)でございます」
ワキ「実に余りの悪念は却って善心となるのだろう。ならば衣鉢(仏法を伝えた印に授ける袈裟と鉢)を授けよう。同じく本体を再び顕すべし」
シテ「あら恥ずかしい我が姿、昼は浅間の夕煙の」
地「たち帰り夜になって、夜になって、懺悔の姿を現わそうと、夕闇の夜の空だけれど、この夜は明るいともし火の我が影とお思いになり、恐れずに待ち給えと、石に隠れて失せたか、石に失せたことだ」
ワキ「木石(ぼくせき)に心はないと申すけれども、草木国土悉皆(しっかい:悉く)成仏と聞く時は元から仏体を備えている。まして衣鉢を授けるならば成仏は疑いないと花を手向けて焼香し、石面(せきめん)に向かって仏事をなす。お前は元来殺生石。石霊に問う。どこから来て、この世でこのようになった。急々に去れ去れ。今以後お前を成仏させ仏体真如(世界の普遍的な真理)の善心と成そう。摂取せよ」
後シテ「石に精あり水に音あり。風は大虚(大空)に渡る」
地「形を今と表す石が二つに割れれば、石魂たちまち現れ出た。恐ろしい」
ワキ「不思議かな。この石が二つに割れ、光の内をよく見れば野干(狐)の形はありながら、さも不思議な仁体(身体)だ」
シテ「今は何を包み隠しましょう。天竺では班足太子(はんそくたいし)の塚の神、大唐では幽王の后褒姒(きはうじ)と現じ、我が朝では鳥羽の院の玉藻の前と為ったのです」
詞「私は王法を傾けようと仮に優しい女の形となり、玉体(天皇のお体)に近づけばご病気となる。既にお命を取っただろうと喜んだ処に安倍の泰成が調伏の祭を始め、壇に五色の幣帛を立てて、玉藻に御幣を持たせつつ、肝胆(かんたん:心の中)を砕き祈ったところ」
地「やがて五体(全身)を苦しめて、苦しめて幣帛を押っ取り飛ぶ空の、雲のある空を翔け海山を越えてこの野に隠れ住む」
シテ「その後勅使が立って」
地「その後勅使が立って、三浦の介と上総の介の両人に綸旨(勅命を受けて書いた文書)をされつつ、奈須野の変化の者を退治せよとの勅命を受けて、野干(狐)は犬に似ているので、犬で稽古するべしといって、百日犬を射た。これ犬追物(いぬおひもの)の始めだとか」
シテ「両介は狩装束で」
地「両介は狩装束で数万騎で奈須野を取り込んで、草を分けて狩ったところ、身を何と奈須野の原に現れ出たのを狩人に追いつつ巻きつつ刳り(さくり:馬射の最初の一騎が弓を射ずに馳せて射手の進行方向を示す)につけて、矢の下に射伏せられて、即時に命を徒らに奈須野の原の露と消えても、猶執着心はこの野に残って殺生石となって、人を取ること長年に渡るけれども、今逢い難い御法(みのり:仏法の尊敬語)を受けて、この後悪事を致すことあるべからずと御僧に約束固い石と為って、石と為って鬼神の姿は失せたことだ」

◆余談

 九尾の狐は言わずと知れた大妖怪であるけれど、ちなみに孫悟空がどれくらい強いかというと、九尾の狐を瞬殺するくらい強い。

 子供の頃は玉藻の前の話がお気に入りだったのだけど、中学生の頃にオカルト雑誌「ムー」を読んで九尾の狐に関する投稿を読んでから、すっかり狐が苦手になってしまった。大妖怪が小物を狙うはずもないのだけど。

◆参考文献

・「新編日本古典文学全集 59 謡曲集 2」(小山弘志, 佐藤健一郎/校注, 小学館, 1998)pp.459-473
・「新潮日本古典集成 謡曲集 中」(伊藤正義/校注, 新潮社, 1986)pp.225-237, 464-466
・「校定石見神楽台本」(篠原實/編, 石見神楽振興会, 1954)pp.67-86
・「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」(芸能史研究会/編, 三一書房, 1974)pp.135-137
・「大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉」(山本ひろ子, 岩波書店, 1993)
・「神楽源流考」(岩田勝, 名著出版, 1983)pp.499-513
・「能百番を歩く(下)」(京都新聞出版センター, 2004)pp.28-30
・「能の鑑賞講座」(三宅襄, 檜書店, 1994)pp.281-294
・「能の鑑賞講座 二」(三宅襄, 檜書店, 1997)pp.120-135
・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「殺生石」pp.325-328
・「謡曲叢書 第一巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1914)※「鉄輪」pp.459-463


記事を転載 →「広小路

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2017年9月 7日 (木)

熊野詣編、花祭編と合わせて読む

山本ひろ子「大荒神頌」熊野詣編を読み終える。これで熊野詣編、花祭編と合わせて全部読んだことになる。熊野詣編では切目王子信仰について詳しい解説がある。石見神楽の「切目」につながる。

小説だったり随筆だったり手紙形式だったりと専業の小説家ではない学者さんらしさを感じる一冊。

 

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昔話の基本書

柳田国男「桃太郎の誕生」を読み終える。義兄の家にあった古本を貰ったもの。奥付を見ると昭和49年とある。5月に読みはじめて途中中断時期が長く9月まで掛かった。

昔話の伝播には座頭などの盲僧が関与したようだ。そういうものは資料として残されているのだろうか。九州の地神盲僧だとくずれという講談風の物語が記録されている。

他、庚申講でも、一夜を明かす際に昔話が語られたともいう。

 

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神楽祭文研究批判

井上隆弘「神楽祭文研究の方法について―岩田勝・山本ひろ子の所説を中心として―」「民俗芸能研究」と山本ひろ子「神楽の儀礼宇宙―大神楽から花祭へ(上)(中)(中の二)(下の一)(完)」「思想」を読む。

山本ひろ子「神楽の儀礼宇宙」は奥三河の花祭を取り上げた論文。花祭に関してはまだよく分からない。

井上隆弘「神楽祭文研究の方法について」は岩田勝・山本ひろ子という二人の神楽研究者――中世祭文に光を当てた二人――の研究を取り上げたもの。

岩田勝については著作を少しづつ読みはじめた段階だが、神楽の儀礼を大きく分けて託宣型と悪霊強制型に分類している。この内、悪霊の祟りを祓う祭文として土公祭文を挙げているが、祟る地霊としての土公神を鎮めるモチーフだけでなく、井上論文では陰陽五行思想による世界の再生と更新のモチーフを挙げて反証している。

祟る神を鎮める鎮めのモチーフだけで全てを説明しようとすると、例えば天岩戸神話の解釈等で微妙な点が出てくるので、批判はありなのかなとも思う。

山本ひろ子の業績に関しては祭文を儀礼の場から分離してテキストのみの解釈に絞っている研究が多いのだろうか。祭文の場合、儀礼と一体化しており、その文脈で読まねばという方法論と対立するようだ。

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動画サイトで観る能

youtubeで能「鉄輪」を見る。石見神楽「貴船」の元ネタ。粗筋は本を読んで知っているけど、セリフや地歌は一部しか聞き取れなかった。ネットで一時間以上じっと鑑賞するのは、せっかちな自分にとっては中々難しかった。動と静、所作の一つ一つが決まっているのと、どういう名の奏法か知らないけれど、笛の高音から始まる出だしが魅力だと感じた。

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2017年9月 4日 (月)

台風で中止――相模原市の神代神楽 2017.9

相模原市観光協会に問い合わせした返信が帰ってくる。
2017年9月17日(日)に相模原市の亀ヶ池八幡宮にて番田神代神楽が催される。
時間帯は午後3時~5時くらいを予定しているとのこと。
亀ヶ池八幡宮の最寄り駅はJR相模線・上溝駅。

深夜まで催されるのだったらどうやって帰宅しようかなと考えていたのだけど、そう遅くならずに帰れそうだ。
2時間程度ならデジカメのバッテリーも持つし。

<追記>
17日は台風のようだ。困った。

<追記>
相模原市上溝に出かける。亀ヶ池八幡宮で催される神代神楽を見るつもりだったのだけど、ちょうど台風が来ていて、風雨はさほどでもなかったのだけど、社務所で訊いてみると、中止(延期ではない)とのことだった。午前中の神事は行われたそうだけど、午後からは中止したらしい。毎年9月15日前後に祭りが行われるとのことで、興味のある方は相模原市の観光協会に問い合わせてみればいいと思う。

相模原市の亀ヶ池八幡宮

相模原市の亀ヶ池八幡宮・神楽殿 神楽殿

相模原市の亀ヶ池八幡宮・拝殿

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2017年9月 3日 (日)

データ化したのはいいけれど

遠隔複写サービスを依頼していた論文が国会図書館から届く。振込み用紙が添付されていて、代金は郵便局やコンビニで支払いできる。

一度写真として撮影したものをデータ化したのだろうか、このタイプの論文は文字が小さく解像度も低いのか読みづらい。ドキュメント・スキャナで取り込んでPDF化して、拡大して読んだ方がいいくらいである。

PDFで読む場合は、二段組の方が拡大した際に読み易い。

 

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悪問の記憶――ユングのシンクロニシティ

秋山さと子「ユングの心理学」(講談社現代新書)を読む。学生のときに買って今まで積読だった本。なぜ手を出さなかったのか分からないが、200ページほどだし、読みはじめると一気に読んでしまった。

これまで全くの無縁ということもなくて、神話の解釈や創作論で元型(アーキタイプ)という概念には触れていた。グレートマザーや老賢人、トリックスターなど。リンダ・シガー「ハリウッド・リライティング・バイブル」という脚本についての本では、ドラマに神話的要素を盛り込むという目的で、元型の幾つかが援用されていた。

残念なのはシンクロニシティ(共時性)についての記述が少なかったこと。高校生のとき、模試の現代文でユングのシンクロニシティをとりあげた(と記憶ではそう推測している)問題が出て、面食らったことがある。具体的な内容は忘れてしまったが、オカルトとも言えなくもない内容で、今振り返っても悪問だと思う。今なら国語の教師に「これ、なんです?」と質問することを思いつくのだが、当時はそういうこともなく流してしまった。

 

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読めるけど意味が分からない――風姿花伝

馬場あき子「古典を読む 風姿花伝」を読む。風姿花伝の入門書を読んで一歩先に進んでみた。世阿弥の文章は特に難しくない。高校で古典の授業を受けていれば問題なく読めるだろう。なのだけど、意味が頭に入ってこない。これは繰り返し何度も読まないと、という類のものであるし、そもそもが一芸を極めた、あるいは極めんとする人に向けてのものだから、凡人である自分には想像が及ばないのかもしれない。

元々は「秘すれば花」という言葉の裏が知りたかったのだけど、秘密というのは得てして明かしてしまうと、意外と何でもないことだったりするようだ。切り札としてとっておくから花なのだろう。何でもないことといっても、体得しなければ意味がないのであり、それができるかできないかで大きく違うのだろう。

風姿花伝が一般に公開されたのは明治時代で研究が進んだのは戦後とのこと。

 

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2017年9月 2日 (土)

(番外編)島広――地神盲僧の創世神話

◆はじめに

 地神経という正式の仏典ではないお経がある。その思想は修験道や陰陽道にも重なるが、その内容を平易に説いた釈文と呼ばれるものがある。「島広経」はその釈文の一つで、創世神話だ。そこでは国産みにはじまり、木々の起源、人の起源、五穀の起源、火と水の起源が語られる。

◆地神盲僧

 地神盲僧(じじんもうそう)と呼ばれる宗教家の一団がある。西日本、九州から山口・島根にかけて分布しており、福岡(筑前)の成就院を本拠とする玄清法流と鹿児島と宮崎(薩摩・大隈・日向)の常楽院法流の二つに大別される。島根県石見地方にも地神盲僧がいたそうである。

 地神盲僧は四季の土用の節に檀家を回って、竈(かまど)祓いや荒神祓いをする。その際に読誦されるのが「仏説地神大陀羅尼経」(以下、地神経と略)とその内容を平易に説いた釈文である。

 釈文の中に「島広(しまひろめ)」という段があって、これが魅力的な創世神話なのである。「伝承文学資料集成 第19輯 地神盲僧資料集」に収録されたものは「長久寺文書」とあるので、日南市飫肥町の長久寺と思われる。なので、薩摩・日向系の常楽院法流の釈文であるが、西岡陽子「地神盲僧の伝承詞章――『地神経』および釈文について――」によると、薩摩の釈文には島広は収録されていないとのことである。なお、国東半島の地神盲僧の釈文に島広があるようだ。

◆粗筋

 昔、天竺に喜良(きりょう)国があった。王の名は四国の大王といった。大王には四人の王子がいた。大王は王子たちを召して、中つ国という島があるという、行って島を領地とせよと言った。
 太郎、次郎、三郎の王子たちがそれぞれ飛び立った。長い旅だったが、翼を休める島も無く、引き返した。
 四郎の王子が飛び立った。十三万里を渡ったけれど、翼を休める島も無く、引き返そうとしたところ、烏がいた。烏はそなたがまこと天竺の大王の末子であるならば、島の在り処を教えようと言った。
 そこで更に二十万七千里旅をして島に辿り着いた。島には翁が二人いて(翁と媼か)、何事か、立ち退き給えと言った。王子はそこで自分は天竺の大王の末子であると答えたところ、それならばと翁は納得した。
 中つ国が見つかったとの知らせに天竺の大王は経を送った。木を植えて、地神経を七日七晩読誦すると、島が広がって六十六国が沸き上がってきた。速秋津島という。
 次に人が百七人生まれた。生まれてきた子たちの後の世のために天竺から五穀の種が下賜された。
 翁は暇(いとま)請いし、火と水の行方を言い残して岩戸に伏した。火は火炎と燃え上り、水は大海となった。
 正月十五日に粥を煮て、日本を治め奉るという。

◆創世神話

 末子である四郎の王子が活躍するところが特徴だ。
 地神経の釈文では四季の土用の由来を語った五郎王子譚が有名であるが、島広も五郎王子譚と並ぶ創世神話である。島広では単に日本の島が生まれたというのではなく、木々の発生や、人(青民草)の誕生や、それを食べて生きていく五穀の種の由来、火と水の行方なども説いていて、それらの要素が一つの神話にパッケージされているのが特徴だろうか。
 また、百七人生まれた子のうち三人が障害児であるとして、盲僧の起源譚ともなっている。

・天竺に大王がいて四人の王子がいる
・末子の四郎の王子が長旅の果てに島(中つ国)に辿り着く
・島には翁が二人いる。翁と媼か
・翁は背丈が十六丈もある巨人である
・島はイザナギ・イザナミ命の鉾の滴りが堅まったもの
・地神経を七日七晩読誦したところ、島が広がり、六十六国が湧き出る。国産み
・木の種を天竺からもってきて植える。樹々の起源譚
・人の種、百七人の子を産む。イザナギ・イザナミの法
・三人は障害児である。盲僧の起源譚
・五穀の種を天竺から持ってくる。五穀の起源譚
・火と水の行方を探る。火と水の起源譚
・粥を煮て供えること
・粥で地神を鎮めること
などのモチーフが見られる。

 鳥を飛ばして島の在り処を探らせるというくだりは、土佐の民間宗教であるいざなぎ流の土公祭文に見られる日本の滅亡と再生を語る物語とどことなく似ている。

◆要約

 粗い訳だが、ざっと見てみる。

 昔、天竺に喜良国という国があった。王の名は四国の大王といった。大王には四人の王子がいた。大王は王子たちを召して、中つ国という島があるという、行って島を領地とせよと言った。

 太郎の王子は十五歳。オウムの翼に乗って東に向かった。三万三千里も渡ったけれど翼を休める島も無く、万里の波に翼を休めて天竺に飛び戻った。

 次郎の王子は十三歳。孔雀の翼に乗って南に向かった。五万五千里も渡ったけれど、翼を休める島も無く、大河の波に翼を休めて、天竺に飛び戻った。

 三郎の王子は十一歳。オジロの翼に乗って西に向かった。七万七千里も渡ったけれど、翼を休める島もなくダイゴの波に翼を休めて、天竺に飛び戻った。

 四郎の王子は九歳。嘉良便(カラベンか)という翼に乗って北に向かった。十三万里を渡ったけれど、翼を休める島も無く、万里の波に翼を休めて、天竺に飛び戻ろうとしたところ、沖合に烏の翼があった。そこで休もうとしたところ、翼は怒って早々に立ち去れと言った。王子は自分は天竺の大王の末子であり、中つ国へ下って領地とせよとの使いであって、十三万里も渡ってみたけれど、翼を休める島もなく、万里の波に翼を休めて天竺に戻ろうとしたところだと述べた。

 烏は答えて、天竺四国の大王の末子であるならば、島の在り処を教えて進ぜようと言った。島を求め、国を求め、神を崇め、仏を供養するならば、神の清酒をとらせよう。

 ここから西に向かい二十万七千里飛べば、その西東北南に百六十六里の島がある。古くはイザナギ・イザナミの命の鉾の滴りが堅まって出来た島だ。水が堅まった国なので、水の尾の国、粟屋島という。相方の島というのは、この島のことである。翁が二人いるぞ。背丈が十六丈もある巨人である。

 四郎の王子は、それならばと急ぎ渡って二十万七千里を超えた。西東北南に確かに島があった。島の南側に降り立ったところ、翁が二人(翁と媼か)、やあやあ、翼に乗ってくるとは不審である。早々に立ち去らないと、餌食にしてしまうぞと言った。

 王子は答えて、我は天竺四国の大王の末子であり、中つ国へ下って島を領地とせよとの仰せであると答えた。まことに四国の大王の末子でいらっしゃるならばと答えたので、それならばと、四郎の王子は扇子を三間開いて扇いだ。すると扇いだ羽風が天竺四国の大王の御門(みかど)に届いた。

 大王はそうと知って、四郎の王子が島を求めたか。早々に七十五禅の使いの経を取らせよと言って、経を中つ国相方の島に下らせた。

 翁はまこと天竺四国の大王の末子でいらしたかと言って、この島は狭いので急いで種を下され、島を拡げて見せましょうと言った。

 王子はそれならば急いで天竺に登り、木の種を求めよと言った。翁は自分は三万三千歳で歳を経てはいるけれど、天竺がどこか知りませんと答えた。

 王子はそれならばと扇子を七間開いて、翁を扇いだ。翁は扇子の羽風に吹き上げられて天竺の御門に辿り着いた。

 大王はこの様を見て、やあやあ、汝はどこから渡ってきたのかと問うた。

 翁は私は四国の大王の四郎の王子の使いで、木の種を下されるよう中つ国からやって来ました。先ず一番に葦(あし)、葦(よし)、榎、柳、藤を申し下されと言った。

 翁は木の種を賜って、それを中つ国に植えた。東に葦(あし)、南に葦(よし)、西に榎、北に藤、中央に枝を万合植えた。
 王子はさて、木は植え終わったが、島を拡げられないかと言った。
 翁は承知しました。地神経を読誦すればいいでしょうと言った。
 王子はそれならばと急ぎ天竺に登り、二人の聖(ひじり)を召して七日七晩地神経を読誦させた。すると伊予・讃岐をはじめとして六十六国が湧き出てきた。

 王子は、翁の言った通り島は広がったが、この島は古の時代にイザナギ・イザナミの命の鉾の滴りが堅まってできた島で、水の尾の島、粟屋島と名づけた。当代の日本の速秋津島とはこの島のことだ。この島には人の種が無い。人の種を産みなさいと言った。
 翁は人の種は気が成るがごとく、茅が繁るがごとくで存じ上げませんと答えた。
 王子はそれをお聞きになって、なんぞや、そういうことならば、行いなさい、そうしてこの世に生まれてくるだろうと言った。
 翁は七日七晩、古のイザナギ・イザナミの法を行なったので、懐胎した。生まれた子は百四人だった。

 百七人生まれたと聞いたのに、百四人とは不審だと王子が言った。翁は百七人生まれたが、三人は障害をもって生まれたので、不憫に思って引き取ったと答えた。

 王子はそれならば、目の見えない者は天竺に上げて釈迦の弟子として四方の衆生のために祈らせようと言った。

 王子は生まれてきた子の上中(下)を定めた。天上人、臣下大臣、聖(ひじり)、国司、地頭、郡司などに分けた。このような因縁である。

 王子は生まれた子を六十六国にばらりと撒いた。木の熊の庄、火の熊の庄などに分けた。源平藤橘が分かれた。木性、火性、土性、金性、水性の五性に分けた。

 王子は翁の産んだ子らの末の世までのために、五穀の種を下されよと言った。

 翁は急いで天竺に登り、五穀の種を求めた。先ず一番に麦米大豆粟小豆を、それから四十二の草の種を下賜され、六十六国にばらりと撒いた。こちらでは百二十草に分かれたといって、大日本という。

 翁は暇(いとま)請いをした。

 王子はそれならば翁の産んだ子らの末の世までのために、火と水の行方を教えよと言った。
 翁は答えて、火と水の行方は、自分が(死んで)伏した岩戸を割って御覧なさいと言った。それから大地を七丈割って(死んで)伏した。魚と現じて十二のヒレを動かすと日本国が動いた。

 王子は翁の教えた通りに翁が伏した岩戸を割ってみたが、長さ三寸の黄金のアブが三匹でてきた。一つは東へ、一つは西へ行き、残りの一つをとって火と水の行方を尋ねたところ、アブは火は私は翁の時代に見たこと聞いたことを答えましょう、石の中に納められている。水は木の中に納められていると申し上げた。

 それならばと石を割ってみると火が出た。木を割ってみると中から水が出た。火は火炎のごとく燃え上がった。水は余海、質海、無質海、九千の海となって八海の船をも浮かべた。

 木の氏の庄は譲葉(ゆづるは)を迎えて歳をとり、田の氏の庄はタラの木を迎えて門に立つ。榎を迎えて年木(としぎ)とする。葦(よし)を割り、菅(すげ)を入れるのも、これ平氏とも言う。

 正月十五日に粥を煮て、日本を治め奉る。

 家を造って煮る粥で地神を治め奉る。

 亀は蓋し千年。鶴は蓋し千年。鶴になぞらえて千年守り給え。亀になぞらえて万合与え給え。大檀那の御祈祷には四節、四土用、戌亥の方の荒神に。夏三月の災難を祓いこれを御祈祷に。地神経二十五巻の内、島広一巻、速やかに幸読誦し奉る。

◆島広経

 「伝承文学資料集成 第19輯 地神盲僧資料集」に収録された内容に読み易いよう手を入れてみる。読んでみると何となく意味は通じるのだけど、現代語に訳せと言われたら困ってしまう。

 それ昔、木を結い、縄を結び、金(カネ)を屈め、かの地を堅める御節(ヲンゼツ)という。聞し召され候、それ昔、海中の天筑(天竺か)に国あり。国の名をば気良国(キリョウコク)と申す。かの喜良国に王まします。王の御名をば四国の大王と申す。然るにや、大王は王子四人まします。四人の王子を御前に召して宣うは、やあやあ、人々聞き給うぞ。是より中つ国へ、島の有ると覚ゆるぞ。東々下り島領ぜよと、丸下る。王子、かの由聞し召し、召されて、其の儀にて候は、急ぎ渡りて見候らわんとて。

 太郎の王子は十五歳の歳、オウムと言える翼に源じ(現じ?)給いて、是より東に打ち向かわさせ給い候いて、三万三千里渡りてご覧じめ候えど、三万三千里の内に翼を休めるべき島無くして、万里の波に翼を休め、本の天筑に飛び戻り候。

 次郎の王子な十三歳、孔雀と言える翼に源じ給いて、是より南に打ち向かわさせ給い候いて、五万五千里渡りてご覧候えど、五万五千里の内に翼を休むべく島無くして、大河の波に翼を休め、本の天筑に飛び戻り候。

 三郎の大人な十一歳。尾白と言える翼に源じ給いて、これより西に打ち向かわさせ給い候いて、七万七千里渡りてご覧候えど、七万七千里の内に翼を休むべく島無くしてダイゴ(大五)の波に翼を休め、本の天筑に飛び戻り候。

 四郎の大人な九つの歳、嘉良便と言える翼に源じ給いて、是より北に打ち向かわさせ給い候いて、十三万里を渡りてご覧候えど、十三万里の内に翼を休むべく島無くして万里の波に翼を休め、本の天筑に飛び戻り候うが、沖中にて翼、夫婦よき、あったりける。彼の翼のコウ(甲か?)に翼を休め給えば、翼、多きに怒って申す。やあやあ我はいかなる翼にてまします候が、丸ガコウ(港か?)に翼を休めたるぞや。早々立ち(発ち)給えと詮議する。

 王子、彼の由聞し召されて、翼の義にて候えば、聞き給うぞ。我は中天筑、四国の大王の乙子(末子)の四郎の王子にてまします候が、父大王より中つ国へ下り、島を領ぜよとの使いにて、是より北に向かって十三万里渡りて見ては候えど、十三万里の内に翼を休めべく島無くして、万里の波に翼を休め、本の天筑に飛び戻り候うが、あまりはだれて脇見が港に翼を休めたるぞや。

 いった。くな、怒った翼と宣え。翼仰せ承り、我此の島にて住まいせし、住まいせじが子には様王、様王が子には、バイソウが子にはスミタ。スミタが子には権が(恒河か?)と申して、代々、伝わったる烏にて候が、普通の烏にも似ざり。立ち丈は九尺五寸。尾羽は四尺四寸。ハスは二尺三寸。三つ色は五色の烏にて候うが、まこと中天筑四国の大王の乙子の四郎の王子にてまします候えば、未だ島の有る所を教え参らせんと申す。

 王子かの由聞し召されて、其の儀にて候えば、島をも求む。国をも広め、神をも崇め、仏をも供養しての其の後に汝らをば神の前なるサヘビトと名づけ奉り候いて、神の前なる清酒(キヨザケ)、清し祀(トギ)をば汝らに取らするべくと宣い、翼、仰せ承り、ナノメニ喜び其の義にて候えば、島の有る所を教え参らせんと申す。

 是より西に向かわさせ給い候いて、二十万七千里渡りてご覧候えばや。まこと是こそ西東北南に百六十六里の島候が、、此の島と申すは古(いにしえ)イザナギ・イザナミの命の鉾の滴りが凍り堅まって島と源じ給えば、本より水より堅まったる島にて水の尾の国、粟屋島と名づけ奉り候えて、相方の島と申すは、この島の事なりけり。主候うが覧ばび覧ばとて、に二の翁の候うぞ。立ったる丈(たけ)が十六丈、至る丈は十二丈、節丈六丈。手に十八足三十六。八方の面、八つの口よりも、もの申さんや。

 矢わ川領ぜよと宣い、王子、彼の由聞し召されて、其の義にて候えば、急ぎ渡って見候わんとて、四郎の王子な、是より西に打ち向かわさせ給い候い。二十万七千里渡りて、ご覧じ候えば、まこと是にこそ、西東北南に百六十六里の島候うが、此の島の南表に飛びつき給えば、翁、二人、立ち出て(立ちふさがって)、やあやあ、古(いにしえ)より此の島に世の楽人な(の)渡り給わんに、翼の渡り給うはフジン(不審か?)なり。早々早々立ち(発ち)給わん程の事ならば、翁が一時のえぜき(餌食か)にして失わんと申す。

 王子、彼の由聞し召されて、やあやあ、翁、聞き給うぞ。我は中天筑四国の大王の乙子の四郎の王子にてまします候うが、父大王より中つ国へ下り島を領ぜよとの使いにて、これまで仰せ承り。まこと中天筑四国の大王の乙子の四郎の王子にてまします候えば、今日、□時の内にし手給われ。我王人とモチヘ(申し)参らせんと申す。王子、彼の由聞し召されて、其の義にて候えば、易き間の事ぞとて、扇を三間(さんげん)開き、中天筑にを三度扇がせ給えば、四郎の王子の扇の葉(羽か)風は中天筑四国の大王の御門(ミカド)に参り候。

 大王、彼の由ご覧じて、すはすは、四郎の王子は島をも求めたるぞや。覚ゆる事の候ぞ、扇の葉風を登せたるぞや。早々早々七十五(ゴン)禅の使いの経を取らせ下さんと思召されて、七十権禅の使いの経は中つ国相方の島に振り下る。

 王子、彼の由ご覧じて、是とうとう行ない申せ、翁と宣い。翁仰せ承り、まこと中天筑四国の大王の乙子の四郎の王子にてまします候かや。綾タッド、佐屋タッド、ケツジョウ、此の島と申すは、翁が為に猪の之島(命の尾の島)、外(殿)の為には島狭く候えば、王の位が薄くご座まします候。急ぎの種を申し下し給え。我、上(ウエ)拡げて参らせんと申す。

 王子彼の由聞し召されて、其の義にて候えば、急ぎ天筑に登り、木の種を申し下し給え、翁と宣い、翁承り。我はこの島にて歳を振る(経る)こと三万三千年。歳を得ては候えど、其の内、火の雨、火の風にも三百一度相申し候えど、天筑とやらんな、いづくも存じんと辞退する。

 王子、彼の由聞し召されて、其の義にて候えば、何ぞや、行きて登る様に登りござらん。翁とて扇子を七間開き、翁を三度扇がせ給えば、勢(セイ)多きなる。翁とは申せども、四郎の王子の扇子の葉風にあき揚げられて中天筑四国の大王の御門に参る。

 大王、彼の由ご覧じて、やあやあ、我何処(いづく)より渡り給うぞ。

 翁と宣え、翁仰せ請け給わり、我は中つ国相方の島より四郎の王子の使いにて木の種を取らせ下さん思し召されて、先一番に葦(アシ)の根三本、葦(ヨシ)の根三本、榎の木、柳木三本、藤の根三本。枝万合(グウ、ごう)、十一万合(グウ)、千代五万歳と言える。

 木の種を賜り下りて、中つ国相方の島にて先一番に東に葦(アシ)の根三本、南に葦(ヨシ)の根三本、西に榎の木柳三本、北に藤の根三本、中央に枝万合(グウ)、十一万合(グウ)、千代五万歳と言える。木の種を給わり下りて植えたりける。

 王子宣わく、去りて(さて?)翁の教えの如く、木は終わりて候うが、此の島を広まらん事の候ぞ。島のソウガワ(総曲輪?)シクワ(敷くは?)、何の因縁ぞ。

 翁と宣う。翁仰せ請け給わり。是はいつしか殿の屋が為に地神経を遊ばされたる事の候ぞ。是は地神の勢い候(ゾウロウ)と申す。

 王子、彼の由聞し召されて、其の義に而して候わば、急天筑に登り、天筑の父イバシイと言える二人の聖(ヒジリ)を申し下し、新敷所は白金の繙(ハン)に小金(黄金)の三枚、寿命の尾、桂の御水(コスイ)、御幣の神、綾の天上に、二敷の居り、筵(ムシロ)を敷き、千の供物を取り調えてまさ、日月、三神の法に向かって、南無や、仏節(ふっせつ)地神大状大火(ダイジョウダイヒ)、陀羅尼経と彼の紋を七日七夜が間延びとき給えば、中らわ山中らわ野参屋(三夜か?)六幕、引け田の郡(コオリ)、伊予讃岐を始めとして六十六ヶ国は余間に湧き出でたり。

 王子は一ヶ国と思し召されて、上げてご覧候えば、六十六国は、余間に湧き出たり。王子宣わく、去り而して、翁の教えの如く島広がって候うが、此の島と申すは古(イニシエ)イザナギ・イザナミの命の鉾の滴りが氷となり凍り堅まって、島と源じ給えば、本より水より堅まりたる島にて、水の尾の国、粟屋島と名づけ奉り候いて、日本、トウダイ(当代か)速秋津(ハヤアキツ)島と申わ此の島の事なりけり。此の島に任言(人の種)無うては如何あるべく。任(人)の種を産み給え。

 翁と宣わく、人の種と申すは、気が成りて嘉屋(茅か?)成る者やらん。嘉屋が成りて気が成る者やらんも、存じんと辞退する。

 王子、彼の由聞し召されて、其の義に而して候えば、何そや、行き而して、馬(ムマ)ショウに生まれ(ムマレ)ござらん。

 翁とて七長(シチチョウ)の内に荒コモウ、樒(シキミ)、黄金のミシメ縄を七重に引く(敷く)。古(イニシエ)イザナギ・イザナミの命の法を七日七夜が間、行ない申せば懐胎(クワイタイ)となる。懐胎積もりて産む子は育(イク)たり。百四人と申す。
 王子、彼の由聞し召されて、何そや。行きて而して、百七人と申し立てたるに、百四人とは不審なり。その儀に而して候えば、一々に無知差(ムチザシ)にして失わんと申す。

 翁、仰せ請け給い、まこと百七人の子は生み候えど、三人の〇〇〇(※障害のある子)にて翁が膝元にて不憫に当たらんが為。

 何そや、角板と申す。王子、彼の由聞し召されて、其の義に而して候えば、三人の〇〇〇(※障害のある子)成るには、先ず見参せんとて、両眼暗からざる者をば急ぎ天筑に召し登らせ、釈迦の仏弟子となして四方の衆生を祈らするべし。堅ミ(カタミ)、堅腰(カタコシ)成らん者をば十三の王の御門に備ゆるべし。名あらん者をば、五セク(節句か)、初セク、十二セクの者初穂を取りて過ぎるべしと。訳(ワキ)置かれたるも此の因縁なり。

 王子宣わく、去りて、翁の産んだる子供の末之よに上中を定めんと思し召されて、先ず一番に比叡山成らば、十禅の君、次にご参な供下(クゲ:公家か)天上人(テンジョウビト)、其の以後生まれたるをば臣下大臣、惣聖(ヒジリ)、国に下りて百官の職(ツカサ)、国子(コクシ)も下り、申し口、肥伊の取次、地頭郡司、弁差累師。九万タンミ(丹身か?)、草刈り、水シトネ(褥か?)りと訳(ワキ)置かれたるも、此の因縁なり。

 王子宣わく、去りて翁の産んだる子供を六十六国にばらりと撒き渡らうずるをば小(ショ)氏(諸子か?)と定めんと思し召しられて、先ず一番に木の上に落ちたるをば木の熊の庄、火の上に落ちたるをば火の熊の庄、池の上に落ちたるをば池田池氏の庄、船の上に落ちたるをば売島(ウルシマ)福島(フクシマ)、阿間(アマ:天か)本の庄、橋の上に落ちたるをば大倉、小倉、高橋の庄、田の皆口に落ちたるをば丹身(タンミ)、平良(タイラ)、皆本の庄、寸下(スゲ:菅か)の上に落ちたるをば菅原氏、フチ(藤か)の上に落ちたるをば藤原氏、マッコウ(抹香か)、幸付(こうづけ)人夫の庄と訳(ワキ)置かれたるも、此の因縁なり。

 仏の庄は上盆上庄、中盆中庄、下盆下庄。神の御(ヲン)庄は丹治藤原、屋衛(八重か)立花。大中任(タイチュニン)の庄は木性、火性、土性、金性、水性、五性是なり。源平藤橘、四家(シケ)の別かされとは此の事なりけり。

 王子宣わく、去りて、翁の産んだる子供の末の代(ヨ)に作り設けて過ぎるべし。者種(モノタメ)無うては、如何なる者べし。五穀の種を申し下し給え。

 翁、仰せ請け給わり、其の義にて候えば、急ぎ天筑に登り、五穀の種を申すに。先ず一番に麦米大豆(マメ)粟小豆、任の惣(人の草)とて四十ニ草(クサ)の草の種を給わり下りて、六十六国にばらりと撒き、今より此方は百二十草に別れたるを申して、大日本国とは申すなり。
 翁は日本国、暇(イトマ)申す。何時までか。浮無田の如く候うが、我訳け入てモタエテ(悶えてか?)、参らせんと申す。

 王子、彼の由聞し召されて、其の義にて候えば、翁の産んだる子供の末の夜(ヨ)に火水の成衛(ユクエ:行方か)を教え給え。

 翁と宣う。翁答えて曰く、火水の行衛(行方か)は、翁が伏したる岩戸の口を七壇半割りて而してご覧じ候えとて、大地を七丈割りて而して、伏しけるが、マカ(魔訶か?)ダイゲと言える。魚(ウヲ)に源じ給いて一つのヒレは大砂(タイシャ)近藤(金剛)火神藤(道)流神藤(道)近藤藤(金剛道か)とて。十二のヒレを次第次第に動かし給えば、大日本国は大なへ(苗か?)と成りて動き渡るよりし。ギンバ。長者二人の親の教養の為に妙法経を六万九千三百二十九本、此の島に治め(収めか)られたるを以て、ナエ(苗か)の緩き時の寿門(呪文)には、南命(ナンミョウ)法蓮花経、京(キョ)の束とは申す也。

 王子宣わく、去りて、翁の教えの如く火水の行を尋ねて見んとて、翁が伏したる岩戸の口を七丹(壇か)半に割りて、ご覧じめ候えば、まこと是にこそ長さ三寸の小金(黄金)の虻(アブ)が三つ候うが、一つの虻は東へ飛行、一つの虻は西へ逸れて行く。末一つの虻を取りて火水の行方(イクエ)を尋ぬるに、虻承り、我、翁の代に目は良うて見ること聞く事申すなり。とて先ず(マツ)両眼をま抜き脇の下にも告げおかれ候えど、我は越には見給えど、火は石の中にも治め(収め)られたり。水は木の中にも治め(収め)られたりとて、斯くの次第に申しける。

 去らばと金(カネ)をドンジ(鈍じ?呑じ?)、石を割りて而して見給えば、石の中より火は出る。木を割りて而して見給えば、木の中より水出る。石の中より出る。火は正火とは申せども火炎(クエン)の如く(ゴトモ)燃え上る。木の中より出る水は小さきとは申せども、余海、質海、無質海、九千、八海の船をも浮かみ、行くからせんと申すは、是限りなし。

 木の氏の正(庄か?)は譲葉(ユヅルハ)を迎えて年(歳)をとり、田の氏の正(庄か)は、タラ(タラの木か?)を迎えて門に立つ。榎の木を迎えて年義(年木)にする。葦(ヨシ)を割り、管を入れ候うも、皆これ平良氏ともこれ末ゾウロウ(候か?)。

 正月十五日煮る粥(カイ)はヲウドロ(黄泥?)粥とて粥を煮て、二本(日本)を治め奉る。

 家を造りて煮る粥をば九千八海(カイ)とて、海をにて地神を治め奉る。

 食うたる(空たる?)亀は千年蓋しなり。鶴は何(ナン)鶴。一丁が田の隅に咥えたるクワエヅラ(咥え面か?)を食うたる。鶴は千年蓋しなり。鶴に比えて(ヨソエテ)千年衛(へへ)給え、亀に比えて万合(グウ)衛(エ)給うと。今日、大檀那の御祈祷には四節、四土用、六八千、夜の方、戸の方、御座の方。惣達(ダチ)の方、戌亥の方の荒神に。夏三月の災難。払いこれを御祈祷に、地神経。二十五巻の内、台重(ダイジュウ)、島広一巻、速やかに幸独寿(奉?読誦)し奉る。

島広経終

◆余談

 島根にも筑前の玄清法流に連なるお寺があるとのことで、ひょっとすると島広も読誦されているかもしれない。

◆参考文献

・「伝承文学資料集成 第19輯 地神盲僧資料集」(三弥井書店, 荒木博之/編, 1997)pp.261-268
・西岡陽子「地神盲僧の伝承詞章――「地神経」および釈文について――」「講座日本の伝承文学 第八巻 在地伝承の世界【西日本】」(岩瀬博, 福田晃, 渡邊昭五/編, 三弥井書店, 2000)

記事を転載 →「広小路

 

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