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2017年8月14日 (月)

石見神楽批判――牛尾三千夫「神楽と神がかり」

牛尾三千夫「神楽と神がかり」を横浜市立中央図書館で序章だけ読む。基本的には大元神楽の本のはずだが、島根県の神楽も紹介されている。石見神楽に関しては、

 出雲に引き換えて石見の神楽は混然としている。大体に海岸部の神楽と山間部の神楽とは大別出来るが、現状は山間部にも海岸部からの八調子神楽が輸入されて、昔の古風さは一年々々失われてゆく有様で、我々のような者は時には目をそむけたい時がある。(10P)
 石見神楽の海岸部のものは、今は殆ど新風の八調子となり、儀式舞は殆ど無視して、能舞のそれも激しい舞のみを主として、衣装に金をかけ、その重たい衣装を着て、八咫の大蛇を一疋から二疋とし、最近では八頭十頭と出して得意としている。全くショウ化した。こんなものはもう神楽と私達は思っていないが、その熱心さだけは益々盛んになって学童の神楽にまで及んでいる。(11P)

 舞衣装に巨額の金をかけるのは、石見海岸部と芸州地方の神楽であるが、このようなことが真の神楽でないことを、文化評論家は声を大にして注意を促してもらいたいと思う。(11-12P)

とケチョンケチョンである。これは著者が大元神楽の継承者で宮司であるからだ。同じ大元神楽の研究者である竹内幸夫は寛容であるが、これは高校の教師で吹奏楽の指導者であることによるのだろうか。

石見神楽がショー化しているという批判は中学一年生のときに聴いた。担任の社会科の先生が郷土史家でもあったのだ。多分大元神楽のことであるが、派手な衣装をまとわず白衣で舞っているとかそんな内容だったと思う。

明治期に改訂されたとして、2017年時点で百数十年の歴史が八調子にもある。ロックンロールも1950年代くらいから爆発的に広がって、もう70年近く経つ訳である。当時は不良の音楽とされて軽視されたが、時代が下るにつれ、誰も文句を言わなくなった。何せ団塊の世代のその下がもう六十代なのである。

浜田市出身のミュージシャンである福岡ユタカが石見神楽とコラボしている曲が典型的だろうか。全てがそうである訳ではないけれど、石見神楽は存在そのものがロックなのだということもできるかもしれない。

僕が赤ん坊の頃に耳にした音楽は特撮番組の主題歌や劇伴だったろう。初めから西洋音階に慣らされているのである。長じて初めて石見神楽の笛の音を聴いたときは奇異に思った記憶がある。

神楽についても舞手ではなく観客としてだった。秋の奉納神楽だと飲食しながらストーブにあたり、一晩明かすというものだった。別にかしこまって見るものではなかった。記憶によると、僕の小さい頃から既に火薬やドライアイスの演出は行われていた。妖術を表現する蜘蛛の糸は見たことはないが、あれは沢田研二(ジュリー)が使って以降に流行ったものかもしれない

派手な衣装に関しては、一着100万円以上するとの話である。資金が乏しければ、別に弓道部員の着る弓道着――白衣に紺の袴でもいいじゃないかという気がする。鬼はさしずめ剣道着だろうか。ただ、剣道着は藍染めなので、汗をかくと藍の色が身体についてしまい、臭い。シャワーが必要である。

<追記>
諏訪淳一郎「『石見神楽』―民俗芸能の現在進行形として―」『総合政策論叢』3(島根県立大学研究活動・総合政策学会委員会/編、2002)pp.47-60という論文を国会図書館の遠隔複写サービスで取り寄せる。この論文、既に一度コピーしていたのだけど、どこに紛れ込んだか分からなくなっていたもの。

注釈で牛尾三千夫の石見神楽批判について触れている。

ただ、ここで注意すべきは、邑智郡で神職を務め自らも舞を舞った牛尾が、大元神楽を石見地方の中でも、むしろ周縁的存在として感じていることである。それは、八調子を主とする浜田や江津といった都市部において、むしろ神楽が盛んに上演され、大阪万博などの全国的イベントにも積極的に参加しているために、八調子神楽をもって石見神楽とするステレオタイプ化への危機感であったといえよう。(58P)

とある。僕自体の感覚は違う。石見神楽は大元神楽がルーツと言って間違いないだろう。その大元神楽の伝承者がわざわざ批判を後世に残したのである。言ってしまえば本家が分家に苦言を呈しているといった感覚に思える。

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