五神と五龍王――石見神楽の五郎王子譚
◆はじめに
五郎王子譚は東北から九州まで全国に幅広く分布している。元は「五龍王」として祭儀で鎮められる存在だったのが、やがて人格神と化して「五郎王子」として物語の主役となった。中でも中国地方は五郎王子譚が長大化した土地柄でもある。備中から備後にかけてがいわゆる五行神楽の本場であるようだが、島根県石見地方でも五行神楽が重視され、現在では「五神」という石見神楽中の最大の長編として舞われ続けている。
石見神楽では「岩戸」と「五神」「五龍王」が重視されているという。先ず「岩戸」からはじめて「五神」「五龍王」で締めるという流れだが、これは太陽神の死と再生のモチーフ、そして陰陽五行思想に基づく農民の哲理、遡ると祟る地霊を鎮める鎮めのモチーフが窺える。
◆島根県石見地方の五郎王子譚――「五龍王」と「五神」
五龍王:青帝青龍王・赤帝赤龍王・白帝白龍王・黒帝黒龍王・黄帝黄龍王
となっている。「五龍王」では龍王のままで五人の王子とはなっていない。仲裁に入る文選博士の名は、
五龍王:塩土の老翁(しおつつのおじ)
としている。これは文選博士という名が中国の古典に精通した博士という意味であり、神道色に馴染まないことを示唆しているか。
柳神楽では下記の神々とされている。
「五龍王」には盤古大王は登場しない。「五神」では盤古大王に相当するのが国常立王となっている。これは日本書紀に登場する最初の神である国常立尊を言い換えたものだろう。五郎の王子である黄帝黄龍王が埴安大王となっているのと合わせて考えると、「五神」では「五龍王」の内容をより神道に即した内容として改訂している。また、「埴安」とあるように「五神」での埴安大王は「土」の属性を始めからまとっているものと思われる。
土公祭文にも国常立尊は登場するが、それは世界が創造された最初に現れる始原の神としてであって、この点は日本書紀と同じである。この後、天神七代、地神五代を経て盤古大王が登場するのである。
後述するが、地神経の釈文や土公祭文に見る五郎王子譚では、五郎の王子が火の属性には水の属性を、といった形で五行の属性(木・火・土・金・水)を自在に変化させて兄王子たちに対抗するのである。どことなくコンピューターRPG的であるが、この点「五神」の埴安大王は土の属性で固定だろう。属性を神楽で舞って表現するにはしづらい面があるのかもしれない。
話を戻すと、牛尾三千夫「神楽と神がかり」に収録された大元神楽の「五龍王」の口上台本(165-170P)と「校訂石見神楽台本」の「五龍王」を読み比べてみると、特に大きな違いは無いように見える。大元神楽は古形を保っていると考えられるので、
※中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」によると、寛政期の台本で既に「国常龍王」「秋白大王」となっているとのことで、大元神楽の邑智郡系の台本と、校訂石見神楽台本のベースとなった那賀郡西部の台本では系統を別にするとの指摘がある。
「五龍王」と「五神」の細かい違いを見てみると、「五龍王」ではそれぞれ72日の所務を譲り分けられた龍王たちの后や子息に与える所務を長々と並べたてており、陰陽道の影響が窺えるのだけど、「五神」では簡略化されており、四季の土用の18日、計72日の所務を与えられた時点で埴安大王は納得している。なお、長大化した五郎王子譚では72日の所務だけでは不足と訴えた五郎王子に対して閏月の一か月とその他の間日を与えられて収まるという形に変化している。
また、「五龍王」では「山川田畠家内の守護神大土公(どくう)神共成り玉へ」とあり、地神である土公神との習合が見られるが、「五神」では類する記述が見られない。
「五神」では「それ譬えて申さうならば、雲なくしては雨降らず、土なくしては草生えず。父なくしては種(たな)まらず、母なくしては生れ来ず」と四人の兄弟たちと腹を同じくしていることを訴える場面がある。それは土公祭文にも見受けられる展開である。
四人の兄たちに戦いを挑まんとする黄帝黄龍王、埴安大王のいずれも自らを「蟷螂(とうろう※カマキリ)が斧を以て降車に向ふが如し」「蟷螂が斧とかや」と怖気づき劣勢を認める言動がある。後述するが、地神経の釈文に登場する五郎王子が終始優勢に戦いを進めるのと対照的である。大土公祭文にも「蟷螂の斧」は言及されるが、戦いでは互角以上に渡り合っている。神楽のそれは要するに判官びいきである。劣勢の末弟を観客は「負けるな」と応援したくなるのである。
◆注好選
昔、舎衛国(コーサラ国)に都夫王という王がいた。その婦人は四人の王子を生んだ。また、一子を妊娠した。妊娠した子を未だ産まない間に、王が崩御してしまった。王の遺言があった。「君等(きんだち)、我が死後には天下を領じて人々を救え。太郎は春三月を領じるべし。次郎は夏三月を領じるべし。三郎は秋三月を領じるべし。四郎は冬三月を領じるべし。妊娠中の子は未だ産まれていないので、所領を置かないままに王は崩じた。そこで即ち四人の王子たちは父の命の如く四方を領じた。時に妊娠中の子が生まれた。まぎれもなく男子であった。成人して兄たちに向かって「私のために父はいかなる所領を残してくれたのでしょう」と言った。兄たちは「君は父が亡くなった時未だ生まれていなかったので、所領を置かなかった」と答えた。五郎の王子は「父母を同じくする子供です。どうして所務がないことがありましょうか。兄様たちが抱えこんで出し惜しみをしているのです」と度々言い争った。そこで即ち五郎の王子は力が強く、勇敢でたくましく一騎当千の強者だった。そこで即ち闘争を盛んにして、天下は静まらなかった。更に損傷して、とても争いをやめさせる手段がありそうになかった。
ここでは仲裁役の文選博士が影の主役である。そのために博士の末裔に祟ることは決してないと言わしめるのである。これは後に土公神と五郎王子たちが習合した際にも、土公神の祟りを鎮める根拠となるのである。注釈では、
陰陽五行説で四季を五行(木・火・土・金・水)に配すると水があまるので、四季それぞれ九十日の終わりの十八日、つまり四季の土用を水にあてて計七十二日としたもの。五郎は土用の擬人化で、土用の由来説明となっている。
「新日本古典文学大系 31 三宝絵 注好選」(273P)
「新日本古典文学大系 31 三宝絵 注好選」の解説では、注好選の撰者は明らかでないが、空海の作として仮託されてきたとする。
注好選の後代的受容については、撰者の思わく通り、童蒙教育の用に供されたかどうか、確たる証拠は見いだせない。確認できるのは、童幼ではなく、歴とした後代の知識層に便利な資料集としてかなり活用されたという事実である。今昔物語の編者は注好選を天竺部の最有力の典拠の一としたし、中世浄土宗門では、弘法大師作の権威も手伝って、経論注疏や唱導教化の資料として活用した。
「新日本古典文学大系 31 三宝絵 注好選」(548-549P)
こうしたことは他の収載話全般に言えることで、結局、撰者が直接原典に取材したと認められる例は無いに等しい。それらは原典から二伝三伝の屈折した伝承回路を経て、撰者のもとに到達したのであろう。しかも、注好選の記事は、例外なく先行文献に依存した書承で、その上撰者の添削が加わらない原文の転載だったと思われる。
「新日本古典文学大系 31 三宝絵 注好選」(548P)
理論的には地霊である五龍王が時代の変遷とともに人の体を得て、五人の王子という形となるという風に展開していくのだが、注好選の登場で、その図式が一部崩れてしまった。思ったより五郎の王子の登場は早かったのである。
後述するが、注好選では陰陽五行思想による世界の再編というモチーフを見てとることができる。諍いを鎮め、子孫代々まで祟りを及ぼすことはないという結末に、祟る神を鎮めるという鎮めのモチーフをも見出すことができる。
◆とっかかりとなる論文
五郎王子譚についてコンパクトにまとまった内容で概略を掴むのに適している。ただ、初読では何のことか分からず、再読してようやくボヤっと五郎王子譚が見え始めた。そして、関連書籍欄に記載された参考文献を全てではないが、できる限り読んだ上で再読して、ああ、そういうことだったのか(まだ欠けている部分がある)という認識である。
なお、五郎王子譚の研究者は神道系と仏教系で分かれるように思える。上記増尾論文は仏教系の論文である。石見神楽から話に入ったのだけど、論文を読んだのは仏教系の先生のものが先なので、理解の順番として先に地神経とその釈文を挙げる。
◆地神経とその釈文
地神盲僧は四季の土用の節に檀家を回って、竈(かまど)祓いや荒神祓いをする。その際に読誦されるのが「仏説地神大陀羅尼経」(以下、地神経と略)とその内容を平易に説いた釈文である。
地神経は日本と朝鮮半島に分布する。朝鮮半島では「地心経」と表記される。日本と朝鮮半島に分布することから、その淵源は中国にあると思われるが、今のところ、中国では見出されていない様である。地神経は、
(前略)釈迦の入滅に際して信伏しなかった五竜王や堅牢地神などの廻心を願う高弟阿難陀らの要請に応えて、釈迦が再び棺中から起ち、大地をめぐる本末の因縁と受持の作法を説く。十干・十二支・七曜・九星・二十八宿などを織り込んだ、五行思想の影響が顕著な疑似経典である。
増尾伸一郎「『地神経』と〈五郎王子譚〉の伝播」(33P)
竈祓いや荒神祓いの際に地神盲僧は地神経とその釈文を読誦するのであるが、釈文の中に五郎王子譚が見られる。「伝承文学資料集成 第19輯 地神盲僧資料集」(三弥井書店, 荒木博之/編, 1997)に地神経とその釈文が採録されている。「長久寺文書」とあるので、日南市飫肥町の長久寺と思われる。なので、薩摩・日向系の常楽院法流の釈文であって、島根のそれが属する玄清法流のものではないが、見てみたいと思う。
この釈文の内、「王子の釈」と「四方立、勝負の段」が五郎王子譚に相当する(※勝負は所務と思われる)。要約すると、
番後大王は二万七千歳を保ち、四人の王子に四方の所務を解かし給うた。春三か月は太郎の王子に。夏三か月は次郎の王子に。秋三か月は三郎の王子に。冬三か月は四郎の王子に。そこに乙子(末子)の五郎王子が現れる。自分には所務が無い故、父の所務を尋ねて参ったと言う。
地神経の釈文における五郎王子譚では、五郎の王子は属性には属性を以て戦い、兄王子たちが蛇神と化すると(五龍王の先祖返りか)、自身もより大きな蛇神と化すなどして終始優勢に戦いを進めている。その点、石見神楽の五神では「蟷螂(とうろう)の斧」と劣勢であるのと対照的である。
地神経の釈文の成立がいつ頃かに関しては研究がないようだが、五郎王子譚が大きく発展しているところから、陰陽師や修験の山伏の影響を受けた、つまり土公祭文と同じ頃、中世末期から近世初期にかけてのことだろうか。
「五来重著作集 第七巻」によると、
これらの盲人のなかでザット(座頭)さんとか法印さんとか、ケンギュウ(検校)とかシノンボ(師の御坊)と呼ばれた九州の地神盲僧と東北地方のイタコには、修行や儀礼に修験道の影響が濃厚にみられる。これは盲人史研究の大きな課題であるが(以下略)
五来重「五来重著作集 第七巻」(241P)
このような時代に筑前の盲僧は四王寺を介して宝満山(竈門山)とむすび、四王寺を盲僧玄清の開基とする縁起をつくるとともに、山伏のおこなうべき荒神祓いもおこなうようになったのではないかとおもう。そして、玄清法流の本寺、妙音寺は四王寺山麓から明治八年(一八七五)の盲僧取締規則とともに現在の福岡市高宮にうつされて、成就院と称するようになった。末寺は福岡県八か寺、佐賀県四か寺、長崎県四か寺、熊本県三か寺、大分県一か寺、島根県一か寺で、計二十一か寺である。
五来重「五来重著作集 第七巻」(251P)
盲僧が荒神祓いをするということには、本来、盲人の宗教的機能に鎮魂のはたらきがあったと推定されるので、祟りやすい火の神の怒りを鎮め、災を祓うという荒神祓いは盲人にはもってこいに仕事であった。盲人は生産はできないが、人一倍つよい霊感と霊能で、巫術と呪術に生きる道をもとめることはできた。しかし具体的に「荒神供」とか「荒神祓い」をさずけて、家々村々をめぐらせるものが別にあったはずである。
五来重「五来重著作集 第七巻」(248P)
◆修験道と地神経
地神とはいうまでもなく大地の神のことだが、修験道の地鎮祭では堅牢地神(けんろうじじん)、土公神(どこうじん)といった地の神を祭祀して執り行なう。地鎮祭というと神主がやるものと考える人が多いのか佛教や修験道の地鎮祭というと首をかしげる人がいるようだが、本来「安鎮法(あんちんほう)」といって平安時代からよく行なわれてきたのである。
羽田守快「修験道秘教経」(126P)
密教や日蓮宗では仏教本来の占術として「宿曜経(しゅくようきょう)」をもとに日や方位の吉凶をいうが、修験道では陰陽道を最初から導入しており、修験者はしばしば陰陽師の要素も併せ持った。これが時代が下り江戸時代になると、しばしば陰陽師を統括する土御門家(つちみかどけ)などと職域の問題を巡りトラブルの元となった。
羽田守快「修験道秘教経」(127-128P)
◆中国の坐后土
儺戯(なぎ)と呼ばれる追儺儀礼で、中国山西省の曲沃県任庄村に伝えられる扇鼓儺戯では祭りの三日目に「坐后土」と呼ばれる神話劇が演じられる。これが日本の五郎王子譚と同じモチーフを持っていると諏訪は指摘する。
「坐后土」后土聖母娘娘が高堂上にいらっしゃるという意味で、この祭りの主神である女神が、森羅万象のすべてを支配していることを示している。
女神の誕生日の祝いに、女神の命令を受けた使臣王成の迎えで参上した太郎、二郎、三郎、四郎の四人の子は春夏秋冬と東西南北の支配をまかされるが、参上しなかった第五の五郎は四季から十八日ずつを抜き出した七十二日の土用日と、中央の支配をゆだねられるという筋である。
最高神の名が母神である后土聖母娘娘であること、兄弟の戦争場面がないこと、土用日を選定する人物が文前(選)博士ではなく、母親の女神であることなど、いくつかの相違点はあるが、基本となる四季を五行にあてはめて土用を設けるというテーマは完全に一致している。
諏訪春雄「日中比較芸能史」(143-144P)
后土は大地の神である。后の文字は本来女性を意味し、土は吐と同義である。吐とは万物を吐き出すことであり、したがって、后土は万物を生む大地の母、地母神の意となる。民間で后土娘娘と呼ぶのはそのためである。
諏訪春雄「日中比較芸能史」(144P)
といったところが共通するモチーフか。
「日中比較芸能史」は五行神楽、五郎王子譚について、また中世神楽について考察しているが、「注好選」に関する言及はない。これは「注好選」「文選は諍を止めき」の存在が認識されたのが比較的新しいということなのだろう。
「坐后土」と五郎王子譚を結びつけるミッシングリンクが「注好選」「文選は諍を止めき」なのかもしれない。また、「注好選」「文選は諍を止めき」は他の出典からの転載であり、中国の「坐后土」と「文選は諍を止めき」の間には更なるミッシングリンクが隠されているのかもしれない。
◆簠簋内伝
「簠簋内伝」で重視されるのは巻一の牛頭天王の縁起である。嫁とりの長い旅にでた牛頭天王に巨旦(こたん)大王は一夜の宿を貸さなかった。蘇民将来の助けを得て妻である頗梨采女(はりさいめ)と八人の王子(八将神)を得た牛頭天王は巨旦大王に復讐する。その際、蘇民将来と牛頭天王に親切であった奴婢の女だけは命を助けた。牛頭天王は末代の行疫神とならんと誓願をした……という縁起である。
牛頭天王の縁起と「簠簋内伝」の冒頭に示される「晴明朝臣入唐伝」も面白いのだけど、ここでは五郎王子譚に関わってくる巻二の盤牛(ばんこ)王の縁起に話を進めたいと思う。ちなみに盤牛と書いて「ばんこ」と読むのは牛頭天王に掛かっているからだとされる。
宮廷の陰陽道がその典拠となる文献を重視しているのに対し、「簠簋内伝」の場合、牛頭天王の縁起と盤牛王の縁起そのものに禁忌、吉凶の典拠を求めていると違いが指摘されている。牛頭天王と盤牛王は暦を司る暦神として「簠簋内伝」に登場するのである。
盤古とは中国の神話に登場する巨人で、鶏の卵のような混沌の中から生じ、その死体から万物が化生したとされている。
「簠簋内伝」の巻二では盤牛大王の縁起が語られる。鶏の卵のような混沌の中から生じた盤牛王で、その身体から万物が化生するが、ここでは死ぬことは無い。五人の采女を娶り、五龍王を生み成す。これまでは別々の存在だった盤古と五龍王が「簠簋内伝」の巻二に於いて一つに結びつく。そして、十干、十二支と暦の起源譚となる。
つらつら考えるに天は元より容貌が無く、また地も形象が無かった。鶏卵のごとく丸く実体は無かった。曰(いわ)く最初の伽羅卵(カララン)とか。ここに於いて天が蒼々(そうそう)と開け、そのいかばかりか知れず広々と開け、その幾程と伝えるか察せず、盤牛王が平らかに生まれた。その中に長大なること十六万八千由旬なり。丸い頭を天と為し足は地と為った。そのけわしい胸を猛火となし、腹を滔々(とうとう)とした四海と為した。頭は阿伽尼咤天(あかにだてん)に達し足は金輪際(こんりんざい)の地獄の底まで跨(またが)った。左手は東の仏提婆(ふつだいば)国を過ぎ、右手は西■(灈からさんずいを除いた字)茶尼(にしくだに)国まで及んだ。面(おもて)は南の閻浮提(えんぶだい)を覆い、尻は北の鬱単(うったん)国を揉(も)んだ。三千大世界の一つとして盤牛の体で無いものは非(あら)じ。大王の左眼を日光と為し右目を月光と為した。まなじりは開いては丹(に)の曙光(しょこう)となり、まなじりを閉じれば黄昏となった。吸うと暑くなり、吹く息は冬となった。息は風雲となり吐く声は稲妻となった。上に居るときは大梵天(ぼんてん)王と号し、下に座すときは堅牢地神(けんろうじしん)と言った。迹不生(じゃくふしょう)より盤牛大王と名づけ、本不滅にして大日如来と称す。本体は龍の形であって広い地に沈み、四時(しじ)(季節)の風に随(したが)って臥(ふ)した像は既に異なる。左に青龍(せいりゅう)の川を流し、右に白虎(びゃっこ)の園を領ずる。前には朱雀(すざく)の池を湛(たた)え、後ろに玄武(げんぶ)の岳を築く。五方に五つの宮を構え、八方に八つの楼閣を開き、五つの宮の采女(うねめ)を妻愛し五帝龍王を産んだ。
熟巨天元無容貌地亦非有形象猶如雞卵團圝(タンラン)無實是曰最初伽羅卵耶于■天開蒼蒼不知厥大幾計闢廣廣不察其傳幾程盤牛王生平其中長大十六萬八千由膳那也頭圓爲天足方爲地胸嶮嶮爲猛火腹蕩蕩爲四海頭逮于阿伽尼咤天足跨金輪際底獄左手過東弗婆提國右手逮西■茶尼國面掩南閻浮提尻搓北鬱單國總而三千大千世界一而■非盤牛大王軆左眼爲日光右目爲月光睚開爲丹■睚閉爲黄昏呼而爲暑吸而爲寒吹息爲風雲吐聲爲雷霆上居號大梵天王下座曰堅牢地神迹不生名盤牛大王本不滅稱大日如来本軆龍形沈廣量地隨四時風臥像旣異左流靑龍川右領白虎園前湛朱雀池後築玄武嵩五方構五宮八方開八閣等妻愛五宮采女産生五帝龍王
十干の事
第一の妻女は伊采女(いさいじょ)と号す。然(しかり)而(しこう)して青帝靑龍王を産み春の七十二日を領じた。また金貴女(きんきじょ)を妻愛して所謂(いわゆる)甲(こう)乙(おつ)丙()へい丁(てい)戊(つちのえ)己(つちのと)庚(かのえ)辛(かのと)壬(みずのえ)癸(みずのと)等の十人の王子を生んだ。
(以下略)
十二支の事
第二の妻女は陽専女(ようせんじょ)と号す。しかりしこうして赤帝赤龍王を産み夏の七十二日を領じた。また昇炎女(しょうえんじょ)を妻愛し、いわゆる子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)ら十二人の王子を生んだ。
(以下略)
十二客(十二直)の事
第三の妻女を福采女(ふくさいじょ)と号す。しかりしこうして、色姓女(しきせいじょ)を妻愛し、いわゆる建(たつ)除(のぞく)満(みつ)平(たいら)定(さだん)執(とる)破(やぶる)危(あやう)成(なる)納(おさん)開(ひらく)閉(とず)ら十二人の王子を生んだ。
(以下略)
九図の名義
第四の妻女を癸采女(きさいじょ)と号す。黒帝黒龍王を産み冬の七十二日を領ずる。上吉女(じょうきちじょ)を妻愛し九人の王子を生む。いわゆる一の徳(とく)は天上の水とする。二の義(ぎ)は虚空(こくう)の火とする。三の生(せい)は造作の木とする。四の殺(さつ)は剣鉄(てっけん)の金とする。五の鬼(き)は欲界(よくかい)の土とする。六の害(がい)は江河(こうが)の水とする。七の陽は国土の火とする。八の難(なん)は森林の木とする。九の厄(やく)は土中の金とする。
七箇の善日
第五の妻女を金吉女(きんきつじょ)と号す。しかりしこうして黄帝黄龍王を産み四季の土用の七十二日を領ずる。堅牢大神(けんろうだいじん)を妻愛し四十七人の王子を生む。これを詳(つまび)らかにすると(以下略)
※彼らは暦注(れきちゅう)と節日(せちにち)に当てはめられた。
◆土公祭文
土公神は、もともとはその由来は不明であったが、中世後期からの民間社会で竈神信仰や荒神信仰ともリンクして、盤古王説話や五帝龍王を引き寄せて、独特な物語縁起を作り出した。それが「土公神祭文」として各地で製作され、伝播していったのである(山本ひろ子「神話と歴史の間で」
斎藤英喜「陰陽道の神々 佛教大学鷹陵文化叢書17」(178P)
ところで、こうした各地の「土公神祭文」は祈祷祭祀の場とともに「神楽」などで演じられるものも少なくない。とくに中国地方では「王子舞」として神楽の場で舞われ、演じられた。その担い手は神社の社人や、あるいは山伏、法者(ほさ)、博士、神楽大夫(かぐらだゆう)などと呼ばれた、いくたの民間宗教者たちである(岩田勝「神楽源流考」)。そこには、民間系の陰陽師の流れも見出すことができよう。
斎藤英喜「陰陽道の神々 佛教大学鷹陵文化叢書17」(178P)
中国地方の神楽に詳しい研究者である岩田勝が編纂した「伝承文学資料集成 第16輯 中国地方神楽祭文集」に収録された「五行霊土公神旧記」(明和・安永年間頃 備後国奴可郡)では、五郎王子譚のレーゼドラマ(読む台本)化が進み、全十六段にも渡る一大長編となっている。
<第一段>
<第二段>
<第三段>
<第四段>
<第五段>
<第六段>
<第七段>
<第八段>
<第九段>
<第十段>
<第十一段>
<第十二段>
<第十三段>
<第十四段>
<第十五段>
<第十六段>
※「五行霊土公神旧記」を要約したのは、当て字も少なく読み物として比較的読み易いからである。
ちなみに、
また、長門から石見西部の長門に隣接する一部の地域では地神盲僧による地神祭りが優越していた。
「伝承文学資料集成 第16輯 中国地方神楽祭文集」(33P)
◆備後の弓神楽
弓弦を打ち鳴らすことによって、死霊を呼び出したり、神をなごめたり、邪霊を追い払うなどする意味があるとされる。シキ荒神といって式神の一種を祭るものもある。
鈴木正崇「弓神楽と土公祭文--備後の荒神祭祀を中心として」牛尾 三千夫「弓神楽」田中重雄「備後の弓神楽」「歴史民俗学論集1 神楽」を読むと、弓神楽では弓は揺輪(ゆりわ:浅い桶)に結びつけて、打竹(うちだけ)を両手に持ち、弓弦を打ち鳴らしながら祭文――主に土公祭文(五行祭文)と手草祭文を読むとある。
弓神楽は弓祈祷とも呼ばれ、
の三種に大別される。
昭和初期までは備後の全域で弓神楽が行われてきたが、現在では三次市の甲奴郡を中心とした一帯で伝承されている。
明治時代に神職演舞禁止令で神職が神楽を舞うことを禁止されたが、明治四十年代から大正初期にかけて禁止令の統制が村々の祭祀にまで徹底されるようになり、記紀にない土公祭文を演奏することが困難となっていった。備後の一部地域ではその統制下にも関わらず、神職が土公祭文を演奏することが細々と続けられた。現在、土公祭文を暗誦できる宮司は数名とのことである。
土公祭文のルーツに関しては、
第四は、現行の五行祭文(土公祭文)の語りの名乗りに「我は法者(ほさ)の神子(みこ)なれば神のみ前に舞をもうなれ」とあり、法者の存在が今も意識されて語り継がれている。第五は、五行祭文の作者は、有福の僧侶であるという伝承があり、特に有福の桑本家は、明治初年の由緒書き上げでは「往古修験職神光院」であったと記しており、この付近が神楽形成の一つの中心地であった可能性も高い。
鈴木正崇「弓神楽と土公祭文--備後の荒神祭祀を中心として」(16P)
中世の終わり頃から近世の初めにかけて弓神楽が盛行するにつれて、土公祭文の文芸化が進んで長大なものになっていった。これは上で見た通りである。文芸化した土公祭文を備後の修験系の法者たちが全国に運んで流布させたということだろうか。
◆いざなぎ流
吉浦淑甫「いざなぎ流神道祭文集(一)――大土宮神本地――」「土佐民俗」第8・9合併号にいざなぎ流の「大土宮神本地」の台本が収録されているので、それを見てみる。直訳調だが、
天神七代、地神五代、よーけをが十代、弥勒が千代のその時代に、日本では三年三月九十二日の日照りが続いて、青い木に古木が枯れ、五穀の種が尽きた。烏の頭が白くなり、猫の額が三尺一歩になり、五歳の牛の面が四寸二歩になり、天地の間が四寸二歩に張りつき、水も川上へ逆さに流れていく(等々あり得ないこと起きた)ので、二体の月日の将軍さまは東・東方の天の岩戸へ立て籠もってしまった。日本の御世が尽きてしまい、南海浪海の乱れる島となってしまった。その時代に、日本の黒い烏がただ一つがい西天竺へ飛んでいった。盤古大王に、日本の御世が尽いて乱れた島になり山も川も共に南海の海となり、物種、人の種が切れて住処がありませんと告げたところ、日本の黒烏が来て日本の御世が尽きたと知らせたが、天竺の白烏よ残らず見て来いと北鬼門へただ一つがい放した。天竺の白烏が日本までやって来て見たけれど、日本の御世が尽き、南海の乱れた島となって、翼を休めるところもなくて、四方の海の波に呑まれてしまい、帰らなかった。そこで日本の黒烏よ、再び日本へ帰って国の在り処を余さず見て来いと南面へ放つと、日本の黒烏は再び戻ってみたけれども、どこなのか、国の在り処も山の在り処も分からず、南面に桑の枯木が一本浮いていたので、そこで翼を休めて、盤古大王の館へ飛び返って、日本では国の在り処も島の在り処も山の在り処も知れませんと告げた。盤古大王は、それならば我ら自身で訪ねてみようと申されて、楠木の船を造らせて、水とる玉、火とる玉、阿古屋の水晶、のり干し玉を作り、天の逆鉾を作って、日本の島の南へやって来た。天の逆鉾を降ろしてざっとかき混ぜてみると、泥がつき、木の葉もつき、粟の穂がついて上がり、我らは日本で島の在り処を、山の在り処を、五穀の種を訪ねて行きついたと喜んで、水とる玉、火とる玉、阿古屋の水晶、のり干しの玉を五方へ投げたところ、水とる玉が水を吸い干し、火とる玉が水を吸い干し、阿古屋の水晶とのり干しが水を干したので、南南方、南海浪海の島へ流させたところ、日本にも島が始まり、山が始まり、山中に人も始まった。望み通りだと喜ばれて、日本の始まりだと申され、島が始まったので淡路島、山が始まったので大和の国、人が始まったので王人島と名づた。そのとき日本には明るさ、暗さがなかったので東東方の天の岩戸を訪ねたところ、月日の将軍さまは天の岩戸に立て籠もっていたので、鍛冶を雇って、天の岩戸に錐で穴を開けたところ昼の時間が戻った。戸開け、戸開きの大明神を雇ったところ、ただ一蹴りで割ったので、月日の将軍さまはいたくご立腹され、日本の御世を照らして守ることができなかった。日本の氏子は少ないので、生まれた子に至るまで並べて据えて、大きな雛の人げを並べて据えて、三十三度の礼拝神楽を催したら日本の御世を見事に守ってみせようと仰せられた。日本には氏子が少なくて、生まれた子に至るまで雛人げを相添えて、十二人の神楽役者を並んで据えて、三十三度の神楽を差し上げたけれど、日本には読む字書く字が無くて、あば、あば、ちょうち(てうち)、こいや、こいやと三十三度申し上げたところ、日本で幼き子の声がすると月日の将軍さまがお悦びになって、日本の御世を照らして守ろうと申されて天の岩戸から舞い出た。月日の将軍さまは東寅卯(とらう)の間より舞い出て西方申酉(さるとり)の間にお入りになると言うのは、そういう因縁である。これで日本に明るさ・暗さが始まったと盤古大王はお悦びになったけれど、まだ四季というものがなくて(以下略)
以下、五郎王子の所務分けへと繋がっていく。いざなぎ流の土公祭文では日本の創世神話と五郎王子の所務分けの二段構成となっている。
赤子のくだりは、山本ひろ子「神話と歴史の間で」では下記のように解説されている。
ところが神楽をあげようにも、日本には言葉も文字もないので、「アバアバ、チョウチ、コイヤコイヤ」と三十三度呼んでみると、月日の将軍さまは非常に喜んで、「日本で幼い子供の声がする。日本の御世を照らして守ってやろう」と天岩戸を舞い出て下落したので、日本に昼と夜の別ができた。(56P)
備後の弓神楽と比較してみると、弓神楽の土公祭文では、天神七代、地神五代、つまり、天地創造とイザナギ・イザナミの神による国産みが語られた後に盤古大王が登場する。しかるに、いざなぎ流の大土公祭文では、一旦日本を滅亡させて、再度盤古大王による国産みが語られる。つまり、ナギナミの神が産んだ国土が一旦滅んで、しかる後に盤古大王が復活させるという風に理解の仕方が異なっている。これは表層的な部分を見るに、天神七代地神五代の天地創世・国産み神話と盤古大王の創世神話を併存させようとした試みから来るのではないかとも考え得る。
別の観点からみると、陰陽五行説をモチーフとした土公祭文のなかに天の岩戸神話――死と再生のモチーフが組み込まれたともみることができる。
土公祭文では地霊を鎮める鎮めのモチーフと陰陽五行説による世界の再編というモチーフとが重なっている。いざなぎ流の一部の祭文では更に加えて日本の死と再生のモチーフが込められているのである。
なお、いざなぎ流の研究者である小松和彦は大土公祭文に意味について、世界が滅亡する危機的状況に使用される祭文ではないかとしている。
斎藤英喜「いざなぎ流の呪術世界 | 「呪詛の祭文」と「取り分け」儀礼をめぐって」では次のような記述がある。
たとえば太夫たちは次のように語る。――祭文をたんなるお伽話と思って、これを軽んじていい加減に誦んでいると、病気治しの治療儀礼はうまくいかない。逆に祭文さえしっかり誦み唱えれば、どんな病気でも治せる。あるいは祭りや祈禱のなかで、何か不明のことが出てきたらともかく祭文を調べてみること。たいていのことはここに書いてある。また祭文の言葉を現代の言葉に直してしまったら、ぜったいに神様と言葉を交わすことができなくなる。そしてさらに、太夫たちは、自分が使ってきた祭文を書き記した書物(覚書き)は、自分の死後、そのまま残しておくと子孫に災いや祟りをもたらすことがあるので、地中に埋めるとか焼いてしまう――。(141P)
だが、「取り分け」を完遂するためには、祭文だけでは「何のコウ果もない」ともいう。儀礼にふさわしい効果を求めるためには、「其の場に相ふ様に読解を附けて祈る」という技が必要となってくるというのだ。
「読解」。これはまた「りかん」ともいう(以下、「りかん」に統一)。それは儀礼のなかで太夫が独自に考え出す言葉とされている。この「りかん」の言葉を、祭文を読誦したあとに、それに続けて発するのである。これがスラスラ出てくるようにならなければ、一人前の太夫とはいえないともいう。したがって通常「りかん」は書き留められることはない。まさしく儀礼の現場に生成していく生の声といえよう。
それにしても、「りかん」という言葉の付加は、一見すると、祭文だけでは儀礼の遂行には不十分であると、太夫たちが認識しているようにも見える。祭文の読誦だけでは何の効果もない、とはきわめて実利的な発想だ。けれども、その一方で、祭文こそが儀礼遂行の要めになるともいう。祭文がすべての基本だとも。儀礼の現場で祭文に付加される「りかん」の言葉とは、したがって、祭文に語られる物語世界のエッセンスからあらたに導きだされた呪術言語だといえるだろう。(155-156P)
「いざなぎ流」祭文の多様性について斎藤英喜氏は、祭文が儀礼と密接に関連した「実践的テキスト」であり、儀礼の場で効力を発揮する文言が祭文の中に組み込まれることから生じた現象として捉えている。(28-29P)
また、「いざなぎ流」では「太夫」になるために複数の師匠に弟子入りし、長い年月をかけてオリジナルの「いざなぎ流」を作り出すことから、「太夫」一人につき一つの「いざなぎ流」が存在する。従って、オリジナルの「いざなぎ流」を作り出す際に、「太夫」によって<大土公祭文>に様々な意味が持たされたと考えられる。(35-36P)
◆五郎の姫宮
簠簋内伝の異本で五郎王子を姫宮とした記述がある。「伝承文学資料集成 第16輯 中国地方神楽祭文集」に記載されたくだり(186P)を要約すると、
盤牛大王と星宮は和合して懐妊した。星宮は春夏秋冬を四人の王子に与えた。この度盤端(ばんたん:囲碁用語)生まれる子は男子であるとも女子であるとも言った。盤牛大王は男女どちらであっても八尺懸帯、八尺花形、唐鏡七面、宇浮絹(うぶけん)鎧、沙婆訶(ソワカ)剣などを与えようと言って蔵の中に残しておいた。しかるに十カ月が経ち女子が誕生した。天門玉女妃という名である。これすなわち黄帝黄龍王である。しかるに堅牢大地神王が妻愛し、四十八人の王子が誕生した。
女子の相を転じて男子の相に転じるとある。これは現代で言うとトランスセクシュアルだろうか。
簠簋内伝の解説書である「簠簋抄」も引用されていて(187-188P)、要約すると、
一番 青帝青龍王、二番 赤帝赤龍王、三番 白帝白龍王、四番 黒帝黒龍王、五番 黄帝黄龍王。この五人の内前の四人は男子の体であって、四季を領じていた。しかるに第五番目の黄帝黄龍王は后である金吉女が懐妊したとき、盤牛大王は他界に去ろうとしており、后は胎内の子にも所務を譲り給えと言ったので、盤牛大王は、そうならば譲ろう、胎内の子は必ず女子であるだろうからとお思いになって、一つには懸帯花形――万を結ぶもの、ニつには五尺の髪――仏菩薩の花鬘(かずら)、三つには八花形の唐の鏡七十面――八角にして八方を見る――を、四つには眉間赤(みけんじゃく)の剣――これを沙縛賀(ソワカ)の剣とも言う――を、五つには初生衣の鎧――宇浮絹(うぶけん)の鎧といって百歳の人が着ても二、三歳の人が着ても似合う鎧である――、この五つをお譲りになった。
山本ひろ子「五郎の姫宮」「大荒神頌」では奥三河花祭の土公祭文を分析して、女子の相を男子の相と転じるのを仏典の説く「変成男子(へんじょうなんし)」の思想からきているとしている。「女人が変じて男子と成る」。月経の穢れがあるため、女性には仏身にはなれない五つの障りがあるからだとする。この他、宇浮絹(うぶけん)の鎧について胞衣(えな)と絡めて詳しく考察している。
五郎の姫宮は五郎王子譚が到達した最終形であると言えるだろうか。奥三河の花祭では土公祭文は読誦されなくなってしまったようだが、東北地方の王子舞に残されている。
◆奥三河の花祭
(筆者注:盤古後大王の后が)其後御足にはばんじゃくを踏み
御手には剣をみぎりて生させ玉ふ
とり上げおがみ奉れば姫宮にてまします
御名を名附て五郎の姫宮と申
「日本庶民生活史料集成 第17巻 民間芸能」(381P)
花祭で土公祭文が読誦される儀式では、それと並行して反閇(へんばい)を踏む儀式が行われる。大地を鎮めるマジカルステップである。
◆塵滴問答
「一年を五季に別事。先国の開発の事。天竺をは大三末多王。唐土をは番れい王。日域をは天の御神也。是三所開発の神達は一体分身にて本地廬舎那如来也。百億の世界に仏け同時に出世の法を説か如し。□(※読めず)王の御事は即陰陽に沙汰することなんとも。片端(かたはし)可申。此ばん牛王に五人の王子坐す。太郎の王をは青龍帝王とて春三月の内七十二日を領給て下十八日を大土用に除給ふ。次郎の王子を赤龍帝王とて夏三月七十二日を領め下十八日を除大土用とす。三郎王子をは白龍帝王とて秋三月上七十二日を領め下十八日を土用と除給ふ。四郎の王子をは黒龍帝王とて冬三月上七十二日を領下十八日を土用除給ふ也。され四季土用合七十ニ日あり。是五郎王子奉る也。此王子をは黄帝龍王と云り。此義にて五季とは申す也。諸事に五を賞する事は仏に五眼と云。五仏と云。五智と云。五如来と云。教に五時教在。戒に五戒と云。諸戒の根本なり。法相には五世各別を立たり。五薀(うん)と云。五蔵と云。五味と云。程(経か)に五部大乗経あり。彼蔵に五部あり。経に六波羅蜜とは云えとも。法花には五波羅蜜を本とする。雖六道と経には五道を為正と。真言には雖六大。顕?の大乗には五大と云へり。五肉あり。五調子あり。星の行道をは五更(かう)の空と云へり。日月火水木の事也。仏に十弟子あり。内の五徳外の五徳当る。亦十王とてあり。善の五王衆生の善根を讃嘆し。悪の五王は衆生の悪行を沙汰し給也。通力に五通あり。草に五辛あり。色五色あり。縁?に隨顕る。真言に五宝。五楽。五香あり。五穀あり。人に五体あり。五性あり。木に五木あり。草に五草あり。畜に五形あり。五鳥五魚とて帝王に進する物也。仏界衆生界外非見たり。亦五日照五天伝□環礼敬展(のふ)とも云へり。五人大菩薩五天竺法を弘めし事なり」としている。
一年を五季に別ける事として四季と土用を挙げ、五郎王子譚を引用している。また、他に五眼、五仏、五季等々「五」のつく単語を列挙している。
◆八帖花伝書
土用の調子は一越なり。同、閏月も一越なり、たゞし、土用の内成(うちなり)とも、間日の調子は違ふべし。間日には、春なら春、夏ならば夏、秋ならば秋、冬ならば冬、季の調子を謡ふべし。右の子細は、昔、天竺に盤古大王と申王あり。御子五人坐す。(以下略)
「日本思想体系 23 古代中世芸術論」(531P)
◆沙石集「俗士遁世シタル事」
丹後の国の何某というが、名も聞いたけれど忘れてしまった。小名(領地の少ない領主)だったけれど、家中は貧しくもなく、歳が長じて病気となり亡くなってしまったが、遺言で遺産処分について記した遺言書は中陰(四十九日)を過ぎてから開くべしと言いおいてあったので、子息たちはそのいいつけに従って遺言書を開いてみると、男子八人、女子も少々いた。嫡子に概ね譲って、次男から少しずつ減らして、むらなく譲ってあった。ここで嫡子が「亡くなった殿の譲渡はかれこれ言い立てる程のことではないけれど、考えていることを述べよう。亡くなった殿は幸運ももちろんのことだけど、思慮も深かったので、京・鎌倉の宮仕えと軍役・夫役なども殊勝な様であった。この所領を遺言状の指示した通りに遍く分けて、所有権に対して主君の安堵を願い出て、宮仕えすることは由々しい重大事である。自分の身も苦しく、人の見た所も苦しいい。なので一人を面に立てて家を継がせて、残りの人は給田を少しずつ分けて、山里なので、水や薪の便のいいところに庵を造って、入道になって念仏をして、生涯身を安んじて過ごしたく思う。私は嫡子だけれど、器量もないと自分ながら思うので、この中から一人選んで家を継がせたい。評定をして計らいなさい」と言ったところ、不服を言う兄弟はいなかった。嫡子が言うには、「各々にとって役立たずなのは我ながら力量のないことだ。ぜひとも自分は入道になろう、この中で五郎の殿が器量のある人だ。なので家を継ぎ、宮仕えし給え。各々は専らその庇護によって面に立たずにおれ」と言ったところ、残りの物も異存なく、皆が入道となり遁世して仏門に入ったと聞く。賢いことである。
と著者の無住は書き残している。実際にすんなりと事が運んだかは知りようがないが、世間話で印象に残ったこととして書き記しているのである。
萩原龍夫「五郎の王子」「神々と村落 : 歴史学と民俗学との接点」によると、
ただ筆者として最も興味を感ずるのは、五郎という末子が相続権を主張するという点である。周知のごとく、中世に於いては原則として分割相続が行われ、戦国期に入るにしたがい、長子単独相続が優勢になって、農民の間にも近世前期を経過する間にそれが支配的になったと推定されるのである。もちろんそこに地域差のあることは忘れてはならない。一般に中世においても、家族間の統率のために、惣領というものの地位は重かったが、これは長男子がそれに当るとはきまっておらず、親の指定が重く見られていたようであり、まして財産の相続は子女に分割されるのが当然とされていた。もちろん惣領側の拘束が、各人の自由な所領処分を妨げて居り、しかも数子ある場合、平等に分けた例はあまり見られず、あきらかに差が付けられていたようであるが、ともかく近世のような包括的な単独相続(これも長男子ときめての)は行われていなかったのである。
「五郎の王子」では、総領制とか総領権のことははっきり出ていないけれども、末子たりといえども堂々と相続を主張すれば、それが承認されるものだという通念を示しているように思われ、まして、前にも引用した如く、五郎はまとまった期間としての「閏月」を獲得するという大きな得をするのである。これは「残りものに福」という思想でもあるが末子が惣領に指定されることもあるとの当時の通念を間接的に示すものではないか。
萩原龍夫「五郎の王子」(179P)
◆法者陰陽師、修験の山伏
石塚尊俊は「西日本諸神楽の研究」で陰陽師と法者(ほさ)を取り上げ、九州では法者が神社の社人として神楽に携わっていたことを指摘、また、備後地方でも法者の存在が確認できるとしている。一方で、法者のルーツを地方へ散逸した民間の陰陽師たちと推定しつつ、保留する。なお、対馬における法者のルーツは陰陽師であることが確定しているとする。
石塚は、神楽の保持者が山伏であること、あるいは神楽の中に修験の要素の多いことは東日本では珍しくないとする。一方で、西日本ではその存在がほとんど指摘されていなかったと指摘するのである。五郎王子譚と修験の山伏との関連について触れ、
そこで、問題はその脚色者が誰であったかということになるが、今日備後の三次市附近の伝承では、いわゆる王子神楽は神石郡豊松あたりの山伏寺から始まったとなっている。それが具体的にどこを指すのものかは明らかでないが、もしかして油木町安田の永聖寺あたりを指すものとするならば、これはたしかに近世を通じて当山派の山伏と因縁浅からぬ寺であったから、口碑とはいい条、単に聞き流してしまうわけにはいかなくなる。豊松では現八幡神社の宮司翁氏ももとは修験者であったというから、かれこれ考え併せれば、確証はないが、この豊松・油木を中心とする一帯において盛んであった修験者の活動が、もと単調なりしこの五行祭の祭文を今日見る複雑な、振りもある神楽に仕立て上げていったものと見るのも、あながち当を得ぬことではあるまい。
石塚尊俊「西日本諸神楽の研究」(336P)
◆岩戸と五行神楽
ここで「坐后土」で取り上げた諏訪春雄の「日中比較芸能史」に目を転じると、三隅治雄の論を引用し、日本の祭りを
・神迎え
と定義する。そして折口信夫や柳田国男の論をふまえて、日本の祭りの原型を「籠る」行為と共食による祖神との一体化、その生命力を体内に取りいれての再生と規定する。
「籠り」の観念は時代の推移とともに薄れたとしつつ、奥三河の花祭で行われる「浄土入り」を援用して日本の古代神楽の基本モチーフを擬死再生とする。神楽の源流は天岩戸神話に求めることができ、ウズメ命の踊りに求められるのであり、太陽神の死と再生のモチーフがそこでは語られている。
一方で、中国地方の神楽に詳しい岩田勝の論を引用し、これは弓神楽における土公祭文に見られる祟る地霊を鎮める(悪霊強制)というモチーフから来ていると思われるが、日本の中世神楽のモチーフを御霊鎮めのモチーフであるとする。
この御霊鎮めのモチーフが古代神楽にも存在していたのか、のちに加わってきたものなのかは、まだ議論の余地を残しているかも知れない。私は古代神楽にもすでに存在していたものと考えたい。しかし、中世神楽はこの御霊鎮めのモチーフを表面に立てて、古代神楽とは別の形式に再編成されたというように認識する。
諏訪春雄「日中比較芸能史」(181-182P)
諏訪説はいわば折衷説だけど、ここまでで見てきたように神楽には死と再生のモチーフと御霊鎮め、言い換えれば祟る神を鎮める鎮めのモチーフの双方が含まれていることが――必須要件ではないかもしれないが――分かる。そして、再び石見神楽に目を転じると、能舞として演劇化されてはいるが、「岩戸」と「五神」「五龍王」にそのモチーフが継承されているのが見てとれるのである。「岩戸」は天岩戸神話で太陽神の死と再生のモチーフ、五行神楽は陰陽五行説による世界の再編であり、矢富巌夫曰く「農民の哲理」である。これもルーツを辿ると祟る地霊を鎮めることが主眼であったことは前述した通りである。
土公祭文では祟る地霊を鎮める鎮めのモチーフと陰陽五行説による世界の再編というモチーフが重層的になっているのである。近代に於いて書き換えられた五神では鎮めのモチーフは薄れ、陰陽五行説による世界の再編という色合いが濃い。
大元神楽の宮司である牛尾三千夫は「神楽と神がかり」で八調子の石見神楽に痛烈な批判を行なった。だが、こうして見てくると、八調子の石見神楽でも、まず岩戸をもってきて最後の締めとして五神をもってくることで窺えるように、決して神楽の原理原則を踏み外しているものではないと言える。
◆五行神楽盛衰記
◆文献
僕個人は地神盲僧に関する論文から入ったため、土公祭文に関する論文を読むのが遅れた。体系的な知識を先ず得るためには岩田勝の著作から入るのが解説も資料も豊富で良いと思われる。
読み物としては、山本ひろ子「五郎の姫宮」「大荒神頌 シリーズ〈物語の誕生〉」が平易で読み易いだろう。女の先生なので、女性が活躍する物語に共感するのだろう。
◆五郎の王子様
温泉津町の昔話「五郎の王子様」から。現在も火の神様として、毎年2月14日に開かれる「御比待祭」(ねーたらおこせ)の主人公である。ヤンチャな神様で夜な夜な一軒ずつ戸をたたいては大声をあげ村人をこまらせた。ある夜大火があったのを機会に、村人たちは王子を火の神様として祭り、それ以来敬うようになった。
◆余談
土公祭文や地神経の釈文は漢字が少なく、カタカナだらけで――もともと口伝で伝わっていたものを文字に起こしたものだから――読んでいてチンプンカンプンであった。そのため資料を読むのが遅れて、全体で一年以上かけてしまうこととなった。まあ、これまでの記事のように老舗の秘伝のタレのごとく継ぎ足し継ぎ足しとやって支離滅裂な文章になるよりはマシかもしれない。訳が直訳調でこなれていないのは悪しからず。
◆参考文献
【書籍】
【その他:参考までに】
記事を転載 →「広小路」
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