物部神社と「生きている出雲王朝」
◆物部神社と出雲牽制
折居田のお腰掛岩
むかし物部神社の御祭神宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が白い鶴に乗ってこの川合に天降られました。そのところを鶴降山(つるぶやま)といいます。鶴降山から国見をなされたところ、八百山(やおやま)(神社の後山)が大和国の天の香具山(あまのかぐやま)によく似ているので、八百山の麓にお住まいなさることになりました。このとき鶴降山から白い鶴に乗って降りられたところを折居田(おりいでん)といいます。
折居田には御祭神が腰を掛けたという大きな岩があり、また、むかしから大きくもならず枯れもしないといい伝えのある一本の桜の樹がありました。
ここから東へ六百メートルくらいのところにあって、石碑が建ててあります。
近くには清らかな泉もあり。十種神宝(とくさのかんだから)を祀る石上布瑠神社(いそのかみふるじんじゃ)もあります。
昭和五十六年の秋、道路の拡張工事のためお腰掛岩(こしかけいわ)と桜の樹を境内に移して伝説とともに永久に保存することになりました。
御祭神が白い鶴に乗って天降りなされたという伝説によって、物部神社の御神紋は「日負鶴(ひおいづる)」となっています。
ところで、司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で物部神社が取り上げられている。
この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前記の天穂日命などのころよりもずっとくだり崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来た者があり、物議をかもしたこともあったという。(27-28P)
◆生きている出雲王朝
W氏は現代の語り部である。司馬は「生物学者がアフリカ海岸で化石魚を発見したときのそれに似ていた」(11P)と驚きを記している。W氏が少年の頃から伝えられた口伝には明かしてよいものと秘さねばならないものとに分かれるらしい。どこまで司馬遼太郎に語ったかまでは触れられていないが、司馬は「生きている出雲王朝」を出雲族によって治められていた第一次王朝と天孫によって統治された第二次王朝とに分けて論じている。
「生きている出雲王朝」が発表されたのは昭和三十六年の中央公論上だった。当時は出雲の考古学研究が進んでいなかったため、古代出雲は神話上の存在としか見なされていなかったが、その後、荒神谷遺跡や四隅突出型墳丘墓などの発見によって、山陰から北陸地方にかけて日本海を通じてつながる独自の文化圏があったことが分かってきた。
ネットで調べたところ、「生きている出雲王朝」発表当時、出雲では強い反発があったらしい。支配者が交替して既に千数百年にもなるのだから無理もない。今もなお出雲国造の子孫が出雲大社の宮司を主宰していることに歴史の積み重ねが窺える。
物部神社は石見と出雲の国境に近く、出雲監視のために置かれたと考えるのには魅力がある。古代になにがあったのか分からないが、司馬遼太郎も出雲と石見の気質の違いや仲違いについて触れている。
◆富家口伝
だが、吉田の持論は古事記がシュメール語で読めるという、正直トンデモ説と見なす他ないものであった。また、富氏に取材した部分と吉田独自の持論が混じって、区別がつけ難い。
「謎の出雲帝国」のレビューを読んで斎木雲州という人が「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」という本を出版していることを知る。斎木氏は富氏の子息で、これは「謎の出雲帝国」の誤りを正すために書かれた本であるとのこと。島根県立図書館に所蔵されているので、興味のある人はこちらを読んでみるといいと思う。出雲は主王と副王の並立する政権で、主王が大穴持、副王が少名彦と呼ばれていたことなどが挙げられている。
紀元前3世紀、秦の始皇帝の不老不死の薬を探してくるべしという命を受けた徐福が出雲にやってくる。この徐福がスサノオとされている。徐福は当時の王であった八千矛と事代主を幽閉、謀殺してしまうというもの。この事件がきっかけで出雲王家の分家筋は奈良に移住、カツラギ王国を建てたとのこと。
二度目に来日した徐福は、今度は北九州に定着、ホアカリ/ニギハヤヒという和名で呼ばれる。そして物部氏の祖となった……などという流れである。
日本にやって来たのは徐福だけではなく、新羅の王子である天日矛もそうである。但馬に入った天日矛はそこを開拓して亡くなったが、後継勢力が播磨を巡って出雲と争ったとしている。天日矛の子孫である神功皇后は自らに新羅の継承権があると考え、海を渡り、新羅、百済、高句麗を従えた。
その後、出雲は砂鉄を巡り、自らと同系統のキビツヒコ率いる吉備に攻められたりしたとのこと。
文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なるのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。
富家口伝は興味深くもあるが、結局は真実性を担保するものが何も存在しないのがネックである。富家文書というのがあって出雲大社で地位があったことは確認できるが、それは口伝には触れていないのである。四隅突出型墳丘墓の山陰から北陸にまたがる分布や荒神谷遺跡の出土物などで、弥生時代後期に出雲を中心とした王権があったのは間違いないが、それ以上のことは知り得ないのである。
<2024.03追記>
出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群、要するに出雲商業の裏山なのだが、ここにある四隅突出型墳丘墓の中で最小の西谷1号墓の写真を見て欲しい。これは解説図によると紀元2世紀後半頃のものと推定されている。非常に小さい。
これは現存するものなのでこれが最古のものだとは断定できないが、この時点ではまだ小さいのである。古代のクニは集落を柵で囲ったものをそう呼んでいたそうだが、そのレベルの首長のものだろう。
四隅突出型墳丘墓はこの後急速に大型化していくと見られるが、ここに葬られた人たちは出雲平野を統べる出雲王の系譜だろう。つまり、出雲地方が統一されていくのは紀元後、2世紀から3世紀にかけてと考えていいだろう。だから徐福とは300年以上時間が合わないことになる。紀元前3世紀に出雲地方を統一した王と副王がいたとはとても考えられない。
……という訳でよくよく考えると時代が合わないねという話になるのである。
◆参考文献
記事を転載 →「広小路」
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