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2017年3月

2017年3月31日 (金)

山積み――話題の新刊らしい

神田神保町の三省堂書店では中公新書の「応仁の乱」が売れているようで、山と積まれていた。 積読になるのもアレなので今日は買わなかったけれど、読んでみたい一冊である。 <追記> 同一内容をTwitterでつぶやく。Twitterアナリティクスを見たところ、900インプレッションくらい稼いでいた。リツイートは1件。僕のフォロワーは20人ほどなので、予想外に多い反応である。

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2017年3月23日 (木)

浜田出身の女が丸亀に逃れる――阿波の国の伝説

「黒髪お京肉付鐘の緒伝説」が残る阿波の関所【19番札所「立江寺(たつえじ)」】
http://pilgrim-shikoku.net/tatsueji-19

という記事が目に留まる。阿波の国の伝説なのだけど、江戸時代、夫を殺した女が男と讃岐丸亀に逃れて心中しようとするも果たせず、遍路の旅に出る。享保3年(1718年)に阿波の国の立江寺にお参りし、本尊の地蔵尊を拝もうとすると、女の髪が逆立ち鐘の尾に巻き付いてしまった。あまりの苦痛に住職に救いを求めたところ、二人の行いを問いただされ、懺悔した。すると、女の黒髪は肉とともに剥がれ、命だけは助かった。その後、二人は改心して出家した……という内容。

江戸時代のお寺の話なので、ある程度、事実に即しているかもしれない。

以前、読んだことがあったのだけど、スクラップ帳に埋もれてしまっていた。忘れない内に投稿しておこう。

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2017年3月19日 (日)

「さなとりょう」―時代小説でミステリ仕立ての女バディもの

谷治宇「さなとりょう」を読み終える。

さなとりょう・表紙
さなとりょう・帯

実はこれ、知り合いが書いた本なので宣伝である。坂本龍馬暗殺の謎を巡り、龍馬の妻であった楢崎りょうと龍馬の許嫁であった千葉佐奈がコンビを組む、時代小説だけどミステリー要素のある女バディものという趣向。

時代は明治六年、上京してきたりょうが佐奈のいる千葉道場を訪ねて来て……という出だし。「竜馬がゆく」や新撰組等、幕末ものの作品を読んだことがある人なら余裕で作品世界に入れるだろう。そうでない人でも大丈夫。史実に即して謎が組み立ててあるのだ。

読後感として、100ページくらいから本題に入って読書のペースが上がり、そのまま一気に読んでしまった。

坂本龍馬その人を描いたのでは二番煎じ、三番煎じになってしまうところを、佐奈とりょうの二人にフォーカスを当てることで巧く独自性を主張している。

さなとりょう・三省堂書店のPOP
さなとりょう・三省堂書店・時代小説コーナーで一位

<追記>
神保町に行く。三省堂書店では時代小説新刊のコーナーで谷治宇「さなとりょう」が1位、「とんでもない新人がでました!」とPOPが打たれていた。

このブログ、月700セッション、1000PVくらいのアクセス数なのだけど、ほとんどが検索から流入してくる人で必ずしもトップページから入る訳ではないし、どれくらい効果があるのか分からない。アクセス解析を調べてみたところ先月のトップページの入口回数48回。RSSリーダーで購読している人はどれくらいいるだろう。

試みに、お薦めの本リストをサイト左上の一等地に持ってきてみた。パソコンで閲覧している人は全体の半数なので期待できるのは500PVくらいか。よろしくお願いします。

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ホームページに手を入れる

ホームページの構成を微妙に見直す。SEO(検索エンジン最適化:サーチエンジン・オプティマイゼーション)という手法があって、自分のWEB記事を検索サイトでより上位に表示させるための方法論。

要するに、強調したい点をクローラー(検索ロボット)に向けて強調し、サイトのコンテンツ(ここでは文章)の構造(大見出し、中見出し、小見出し……)をクローラーに把握し易いものにするという手法である。

<title>タグに強調したいキーワードを盛り込むのが手始めなのだけど、「島根県」の記述が漏れていて「石見地方の伝説」「石見地方の昔話」となっていた。これでは「島根 伝説」「島根 昔話」では検索でヒットしづらいので「島根県」の記述を入れる。ホームページを運営して今年で9年目だけど、今まで気づかなかった。

修正した結果、上位3ページ目くらいに表示されるようになった。同じ記事をブログとホームページで公開しているのだけど、ブログ:正、ホームページ:従としているので(canonical属性で紐づけ)、ホームページ自体が従の記事を集めたものとなっていて、ミラーサイトとでも言うのか、検索する上での重みが低いようだ。

その他、<h2>タグで記述していた大見出しを<h1>タグに修正。また小見出しを<p>タグから<h2>タグに修正。これで記事の文章構造ははっきりしたと思う。

写真ブログ狛犬記事にもタイトルに「島根県」の記述を入れる。島根以外の人にもどの県の市区町村か分かり易いし、「島根 狛犬」でも検索でヒットするようになった。

「島根 伝説」で検索すると、都市伝説のページもヒットする。なので、ランキングは混沌としている感じ。通常、上位2ページくらいまでしか読まれないとされているけれど、そうでもないかもしれない。「島根 伝説 -都市伝説」で検索するとすっきりするが、わざわざマイナス検索する人は少ないか。

「島根 神話」だと、これはさすがに出雲神話を期待している人がほとんどだと思うので、諦める。

普通にホームページを運営している範囲でできるのは<title>タグ、<meta>タグ、<h>タグ、パンくずリスト、<img>タグのalt属性の記述、サイトの構造を体系だったものにする、くらいか。

結局はコンテンツの中身次第なのだけど、島根ネタ中心なので、アクセス自体はこれ以上伸びないだろう。

<追記>

ブログにも手を入れる。画像のalt属性、title属性に画像の説明を記述する。また、小見出しを<h4>タグに修正する。結構な作業量だった。効果はでるか。

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危うく削除されかける

Wikipediaに島根の伝説関連の項目のページを幾つか作る。神社のご由緒書を元にして書いているのだけど、著作権的に大丈夫だろうか? 乙子狭姫のページも書いたのだけど、粗筋をこのブログから持ってきたら著作権侵害で削除されかけた。慌てて釈明して事なきを得る。

元はといえば、僕のブログやホームページは僕の生死次第でいずれは消えてしまうから、より永続性の強いWikipediaに記事を書いておこうという考え。WEB辞典なので独自の考えは盛り込めないが、参考文献で地元の郷土史家たちが開拓した跡を追えるようにしている。

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2017年3月18日 (土)

物部神社と「生きている出雲王朝」

◆物部神社と出雲牽制

島根県大田市の物部神社・拝殿
折居田のお腰掛岩・ご由緒
折居田のお腰掛岩
むかし物部神社の御祭神宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が白い鶴に乗ってこの川合に天降られました。そのところを鶴降山(つるぶやま)といいます。鶴降山から国見をなされたところ、八百山(やおやま)(神社の後山)が大和国の天の香具山(あまのかぐやま)によく似ているので、八百山の麓にお住まいなさることになりました。このとき鶴降山から白い鶴に乗って降りられたところを折居田(おりいでん)といいます。
 折居田には御祭神が腰を掛けたという大きな岩があり、また、むかしから大きくもならず枯れもしないといい伝えのある一本の桜の樹がありました。
ここから東へ六百メートルくらいのところにあって、石碑が建ててあります。
近くには清らかな泉もあり。十種神宝(とくさのかんだから)を祀る石上布瑠神社(いそのかみふるじんじゃ)もあります。
 昭和五十六年の秋、道路の拡張工事のためお腰掛岩(こしかけいわ)と桜の樹を境内に移して伝説とともに永久に保存することになりました。
 御祭神が白い鶴に乗って天降りなされたという伝説によって、物部神社の御神紋は「日負鶴(ひおいづる)」となっています。
 大田市川合町の物部神社は石見国一の宮。ご祭神で物部氏の祖神である宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が鶴に乗って降臨したという言い伝えが残されている。
物部神社の鶴像
物部神社の鶴像
物部神社裏山の御神墓
物部神社裏山の御神墓

 古代、出雲の牽制・監視のため物部氏が入植したという説があるが史的証拠に乏しいとされている。

 ところで、司馬遼太郎の「歴史の中の日本」という随筆集に「生きている出雲王朝」という随筆があり、その中で物部神社が取り上げられている。
 この神社も、いまでこそ、神社という名がついているが、上古はただの宗教施設として建てられたものではなく、出雲への監視のために設けられた軍事施設であった。その時代は、前記の天穂日命などのころよりもずっとくだり崇神朝か、もしくはそれ以後であったか。とにかく、出雲監視のために物部氏の軍勢が大和から派遣され、ここに駐屯した。神社の社伝では、封印された出雲大社の兵器庫のカギをここであずかっていたという。出雲からそのカギをぬすみに来た者があり、物議をかもしたこともあったという。(27-28P)
 とある。これは興味深い記述だ。出雲牽制のためというところまでは他の書物でも見るのだけど、出雲大社の兵器庫のカギを預かっていたという記述は他では読んだことはない。司馬遼太郎といえば日本を代表する歴史作家でいい加減なことを書くとは思えないし、もし間違いがあれば物部神社からクレームがついたことだろう。

◆生きている出雲王朝

 ただ、この「生きている出雲王朝」という随筆自体謎めいているのである。まず出雲大社の社家を名乗るW氏が登場する。W氏は産経新聞でそれなりの地位を得ていた人物らしいが、この人が自分は大国主命の末裔であると告白するのである。いわば出雲は天孫族に簒奪されたのだと。
出雲大社・拝殿
出雲大社・本殿前
出雲大社

 W氏は現代の語り部である。司馬は「生物学者がアフリカ海岸で化石魚を発見したときのそれに似ていた」(11P)と驚きを記している。W氏が少年の頃から伝えられた口伝には明かしてよいものと秘さねばならないものとに分かれるらしい。どこまで司馬遼太郎に語ったかまでは触れられていないが、司馬は「生きている出雲王朝」を出雲族によって治められていた第一次王朝と天孫によって統治された第二次王朝とに分けて論じている。

 「生きている出雲王朝」が発表されたのは昭和三十六年の中央公論上だった。当時は出雲の考古学研究が進んでいなかったため、古代出雲は神話上の存在としか見なされていなかったが、その後、荒神谷遺跡や四隅突出型墳丘墓などの発見によって、山陰から北陸地方にかけて日本海を通じてつながる独自の文化圏があったことが分かってきた。
出雲弥生の森公園の西谷墳墓群・4号墓
出雲弥生の森公園の西谷墳墓群・4号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・3号墓
西谷墳墓群・2号墓
西谷墳墓群・2号墓

 日本書紀と異なり古事記では出雲の国譲り神話を語っている。葦原の中つ国の支配者となるために国譲りという儀式が必要だったということだろう。それが何を意味するのかは分からない。そしてそれが古代において既に神話となり、無視できないものだったということだろう。日本海沿岸にまたがる文化圏と瀬戸内海を沿岸、内海とする文化圏――大和に連なる連合があったはずであるが、瀬戸内沿岸の方が生産力は高いはずで初めから大和の方が優位にたっていたのではないか。それでもなお国譲りとして語らざるを得なかった、その理由は何なのだろうか。

 ネットで調べたところ、「生きている出雲王朝」発表当時、出雲では強い反発があったらしい。支配者が交替して既に千数百年にもなるのだから無理もない。今もなお出雲国造の子孫が出雲大社の宮司を主宰していることに歴史の積み重ねが窺える。

 物部神社は石見と出雲の国境に近く、出雲監視のために置かれたと考えるのには魅力がある。古代になにがあったのか分からないが、司馬遼太郎も出雲と石見の気質の違いや仲違いについて触れている。

◆富家口伝

 吉田大洋「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史」(新装版)が復刊されていることを知る。これは著者の吉田大洋が「生きている出雲王朝」に登場するW氏こと元産経新聞の富當雄(とみまさお)氏に直接取材して書いた本とのことである。

 だが、吉田の持論は古事記がシュメール語で読めるという、正直トンデモ説と見なす他ないものであった。また、富氏に取材した部分と吉田独自の持論が混じって、区別がつけ難い。

 「謎の出雲帝国」のレビューを読んで斎木雲州という人が「出雲と蘇我王国」「出雲と大和のあけぼの」という本を出版していることを知る。斎木氏は富氏の子息で、これは「謎の出雲帝国」の誤りを正すために書かれた本であるとのこと。島根県立図書館に所蔵されているので、興味のある人はこちらを読んでみるといいと思う。出雲は主王と副王の並立する政権で、主王が大穴持、副王が少名彦と呼ばれていたことなどが挙げられている。

 紀元前3世紀、秦の始皇帝の不老不死の薬を探してくるべしという命を受けた徐福が出雲にやってくる。この徐福がスサノオとされている。徐福は当時の王であった八千矛と事代主を幽閉、謀殺してしまうというもの。この事件がきっかけで出雲王家の分家筋は奈良に移住、カツラギ王国を建てたとのこと。

 二度目に来日した徐福は、今度は北九州に定着、ホアカリ/ニギハヤヒという和名で呼ばれる。そして物部氏の祖となった……などという流れである。

 日本にやって来たのは徐福だけではなく、新羅の王子である天日矛もそうである。但馬に入った天日矛はそこを開拓して亡くなったが、後継勢力が播磨を巡って出雲と争ったとしている。天日矛の子孫である神功皇后は自らに新羅の継承権があると考え、海を渡り、新羅、百済、高句麗を従えた。

 その後、出雲は砂鉄を巡り、自らと同系統のキビツヒコ率いる吉備に攻められたりしたとのこと。

 文中ではなぜか触れられていないが、神武天皇に抵抗した長髄彦(ナガスネヒコ)は登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれている。つまり富氏の系譜に連なるのである。出雲系の王が奈良を支配していたということになるだろうか。

 富家口伝は興味深くもあるが、結局は真実性を担保するものが何も存在しないのがネックである。富家文書というのがあって出雲大社で地位があったことは確認できるが、それは口伝には触れていないのである。四隅突出型墳丘墓の山陰から北陸にまたがる分布や荒神谷遺跡の出土物などで、弥生時代後期に出雲を中心とした王権があったのは間違いないが、それ以上のことは知り得ないのである。

<2024.03追記>

出雲市の出雲弥生の森公園の西谷墳墓群、要するに出雲商業の裏山なのだが、ここにある四隅突出型墳丘墓の中で最小の西谷1号墓の写真を見て欲しい。これは解説図によると紀元2世紀後半頃のものと推定されている。非常に小さい。

西谷墳墓群・西谷1号墓
西谷墳墓群・西谷1号墓・解説図
西谷墳墓群・西谷1号墓

これは現存するものなのでこれが最古のものだとは断定できないが、この時点ではまだ小さいのである。古代のクニは集落を柵で囲ったものをそう呼んでいたそうだが、そのレベルの首長のものだろう。

四隅突出型墳丘墓はこの後急速に大型化していくと見られるが、ここに葬られた人たちは出雲平野を統べる出雲王の系譜だろう。つまり、出雲地方が統一されていくのは紀元後、2世紀から3世紀にかけてと考えていいだろう。だから徐福とは300年以上時間が合わないことになる。紀元前3世紀に出雲地方を統一した王と副王がいたとはとても考えられない。

……という訳でよくよく考えると時代が合わないねという話になるのである。

◆参考文献

・司馬遼太郎「生きている出雲王朝」「歴史の中の日本」(司馬遼太郎, 中央公論社, 1994)所収 ※初出は「中央公論」昭和三十六年三月号
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)
・「謎の出雲帝国 天孫族に虐殺された出雲神族の屈辱と怨念の歴史(新装版)」(吉田大洋, ヒカルランド, 2018)
・「出雲と蘇我王国 : 大社と向家文書」(斎木雲州, 大元出版, 2012)
・「出雲と大和のあけぼの : 丹後風土記の世界」(斎木雲州, 大元出版, 2007)
・「お伽話とモデル : 変貌する史話」(斎木雲州, 大元出版, 2008)
・「古事記の編集室 : 安万侶と人麿たち」(斎木雲州, 大元出版, 2011)

記事を転載 →「広小路

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2017年3月17日 (金)

「古事記講義」を読み終える

三浦佑之「古事記講義」(文藝春秋, 2007)を読み終える。「口語訳 古事記」とセットになった本と考えればよいか。文庫版は2007年刊行なので10年近く積読になっていたことになる。 専門の学者さんが一般向けに書いた本なので、素人の自分でも読めた。古事記だと天照大神と須佐之男命の間で行われた誓約(ウケイ)で生まれた三柱の女神と五柱の男神を取り換える話はその意図するところが判然としないのだけど、日本書紀と比較することで、古事記の持つ意味合いが分かり易いものになっていた。 第四章では「出雲神話と出雲世界」と題した講義で、出雲神話についてページを割いて詳述している。日本書紀には出雲神話はあまり語られていない(国譲り神話などは語られていない)のだけど、日本書紀、出雲国風土記と比較しつつ、出雲神話の持つ役割について詳述されていた。 律令制国家の成り立ちを語る歴史としては出雲神話の神統譜は不要だったが、古事記では国史的な枠組みに収まりきらない神話も取り込まれているのが特徴だろうか。日本書紀よりも文学性が強い。 紙数の関係か、関心が薄いのか分からないが、残念ながら神武東征神話については触れられていない。物部氏が服属するまでの物語と考えればよいのだろうか、単なる神話とするには記述が具体的で何がしかの真実が込められていると思うのだけど。 著者の三浦佑之氏は千葉大学教授を経て立正大学に籍を移された。今年定年退官とのこと。

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2017年3月12日 (日)

父娘対談

家族によると、「口語訳古事記」「古事記講義」の三浦佑之・立正大学教授が定年退官で記念講演を行ったとのこと。娘で「舟を編む」の三浦しをんさんとの対談だったようだ。あいにく直ぐに予約で一杯になってしまったとのこと。

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2017年3月 5日 (日)

来春、廃線とのこと――JR三江線

朝日新聞の報道で来春JR三江線が廃線になると知る。いつか来ると思っていたが、決まると速いものだなと感じる。
実は昨年の夏の帰省時に一日開けて三江線に乗った。朝4時起きで浜田駅を出る。デジカメで車窓の風景を撮りながら乗っていたのだけど、眠気でうとうとしてカメラの構図がズレては戻しズレては戻しを繰り返す。
最初はキヤノンPowershot SX130ISで動画を撮影していたのだけど、ファイル容量の制限か一回当たり十分程しか撮れず、駅間の風景が途切れてしまうこともあった。エネループが劣化していたため、浜原駅からPowershot G16に機材を変える。
それで三次駅に到着する。三次駅ではしばらく待って、石見川本駅行きの鈍行で引き返す。途中、石見川本駅で一時間半くらいの待ち時間があって、街に繰り出す。時間があるようで無いので、Cafe' du Soleil というカフェで一服する。ここは気持ちのいい店だった。
気づいたところでは、乗客の多くは僕と同じくカメラを構えた旅行客だった。
石見川本駅を出て江津駅に着く。しばらくして快速がやってくるのでそれに乗って浜田に引き返す。石見神楽トレイン。
そうして録画した動画なのだけど、まだ全部見返していない。どこまで見たか忘れてしまった。今となっては貴重な映像で、Youtubeにアップロードできなくもないだけど、うちの回線は未だにADSLで10分程度の動画をアップロードするのに数時間かかってしまう。
キハ120系車内・JR三次駅にて
JR石見川本駅
JR石見川本駅
キハ120系・JR石見川本駅にて撮影
キハ120系
JR三江線車内から見た江川
JR三江線車内から見た江川

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2017年3月 1日 (水)

今年中に読めるか

横浜市立中央図書館に行く。五郎王子関連の書籍を物色。原文+解説で100ページを超えるボリュームの本(「伝承文学資料集成 第16輯 中国地方神楽祭文集」)があってコピーしたのだけど、これを読むだけでかなり時間がかかりそうである。原文は漢文で、江戸時代の活字化されたものなら自分の実力でも読めなくはないなと思っていたのだけど、当てが外れる。 一冊貸出中の本があって(「日本庶民文化史料集成 第1巻 神楽・舞楽」)、それは想定外だったが、概ね満足する結果だった。 <追記> 「伝承文学資料集成 第16輯 中国地方神楽祭文集」に収録された土公祭文、漢文だけではなくて口述筆記されたものも収録されているが、なんとか読めなくはないものの、意味がとれない。大学の先生たちはこれを平易な現代語に訳してしまうのだから、実力が違い過ぎる。

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