長安寺の身がわり地蔵
◆あらすじ
昔、浜田にとても我がままで贅沢な殿さまがいた。家来たちも始末がつかないので困っていた。ことに女中たちはとても勤めができず、来る女中も来る女中も皆暇をとって帰ってしまった。
そこで殿さまは門番を呼びつけて「また女中が一人いるから探してこい」と命じた。殿さまの我がままは知れ渡っていたので、誰も女中になってくれず、門番は困ってしまった。
仕方がないので町をぶらぶら歩いていると、橋の上に十六歳くらいの娘がいた。話を聞くと、田舎から出てきたがなかなか雇ってくれるところがないというので、話をすると喜んで承知したので城に連れ帰った。
城に連れて帰ると殿さまは娘に「城へ入ったからには決して勝手に城外へ出てはならないぞ」と固くいいつけた。
娘は人一倍よく働いた。ところがある晩台所の方で物音がするので家来が行ってみると、娘が外へ出るところだった。娘は殿さまの前に呼び出された。
「勝手に城外へ出てはいけないと言いつけたのに、どうして言う事が聞かれないのか」と詰問すると、娘は「私は殿さまがよい殿さまになられるように毎晩地蔵さまにお願いにいったのでございます」と答えた。
だが、そんな願いも耳に入れず、殿さまは娘を手討ちにしてしまった。そして家来たちに言いつけて山の中へ埋めさせた。
ところが翌朝、台所の方で音がするので行ってみると、娘が何事も無かったように働いていた。
びっくりした家来たちは殿さまに報告、娘を埋めたところを掘り返したところ、そこには何もなかった。ところが近くの長安寺の地蔵さまが頭から斜めに切られて血がたらたらと流れていた。それを聞いた殿さまははじめて娘が地蔵さまであったことに気づいた。
それからは殿さまはとても良い殿さまになったという。
浜田藩のお話であるが、誰に相当するのだろうか。長安寺は長安院のことだろうか、現存しないが、松平周防守家墓所が残されていて、遺髪が収められているとのこと。長安院の名は第二代・康重の法名・長安院に由来するとのことで、松平周守家の誰かだろうか。実際には松平周防守家からは幕府の老中を輩出、筆頭老中になった人もいるとのこと。現代の内閣総理大臣に相当する。
◆長安院
長安院(浄土宗 京都黒谷金戒光明寺末)は浜田藩主松平周防守家の菩提寺であった。長安院の称号は第二代康重の法名「長安院殿」に由来し、同家の転封地宍粟、浜田、棚倉、川越の各地にその菩提所として建立されている。
蛭子町広小路の奥。階段を上がると久光山八幡宮
写真奥が松平周防守家墓所
長安院の建物は三隅の龍雲寺に移築されたとのこと。
龍雲寺
長安院は周防守家とともに棚倉に移ったが残された伽藍のうち本堂は三隅の龍雲寺本堂として移築され、今日その遺構を偲ぶことができる。
◆余談
松平周防守家墓所は蛭子町の広小路、久光山八幡宮の奥に位置する。はじめ松平周防守家墓所の写真をキヤノンIXY DIGITAL 200aで撮ったが、新幹線の中で落としてしまい、再撮影となった。
◆参考文献
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.273-275
記事を転載 →「広小路」
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