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2017年1月

2017年1月22日 (日)

中世出雲神話と須弥山の隅

◆中世神話

 「大社町史」上巻で下記のような中世の出雲神話が紹介されている。
A 年月日未詳(元亀元年<一五七〇~三>頃カ)鰐淵寺僧某書状断簡(鰐淵寺文書)
当寺(鰐淵寺)は、最初西天鷲嶺(せいてんしゅうれい)の艮(たつみ)の隅、欠けて浮浪し流れ来るを、素戔嗚尊築き留め玉ふ。故に浮浪山といふ。麓には霊祇利生(れいぎりしょう)の大社を建て、諸神降臨の勝地と定め、峯には権現和光の社壇を構へ、仏天影向(えこう)の結界を示す。(これ)夜半毎に大明神飛瀧の社地に歩を運び、仏法を護り国家を持し盟誓(めいせい)を成し玉ふ所以なり。ここをもって、杵築と鰐淵二にして二ならず、並びに仏道神道暫しも相離るる事無し。
「大社町史」上巻432P
 杵築とあるのは杵築大社(出雲大社)である。

 仏教発祥の地、釈迦が初めて法華経を説いた霊鷲山の隅が欠けて日本まで流れ寄せ、それを素戔嗚尊がつき固めて浮浪山とした、というのがおおざっぱな内容である。
 ※伝承によっては霊鷲山ではなく、仏教で世界の中心に位置する高い山である須弥山の隅が欠けたとするものもある。

 中世には仏教説話を取り込んだ形で古代の記紀神話とは異なる独自の中世神話が発展していたことが分かる。

出雲大社・拝殿
出雲大社・本殿前

 ここで注意しなければならないことは、中世の杵築大社(出雲大社)の祭神は大国主命ではなく素戔嗚尊であることだ。杵築大社は元々は大国主命の魂を慰めるために建立されたもののはずだが、中世はどうしていたのだろう。それはともかく、古代の記紀神話では荒ぶる神として高天原から追放後、出雲に降臨して後、英雄神へと性格を変える素戔嗚尊だが、中世の出雲神話では英雄神としてのみ描かれているようだ。
 この中世「出雲神話」は、さきにも述べたように、祭神スサノオを、出雲の国造りの神、そして農業の神であると同時に、外敵から出雲及び日本国を守る軍神でもあるという、巨大な全能の神として描き出す内容のものであった。
「大社町史」461P
 これは仏教世界からすると辺境の地である日本が、その中核部分を取り込むという説話でもある。

 仏教の中心地の隅が欠けて流れ寄せてきたのを神がつき固めたというのは、出雲国風土記の国びき神話を連想させる。

◆日御碕神社

 なお、大社町史によると、日御碕神社は中世には杵築大社の末社として取り込まれてしまったとのこと。
【花山院耕雲筆日御碕社修造勧進状】
雲州日御碕靈神、乃、昔者月支國惡神插利兵、乘巨航而來冦。其鋒弗可當也。蓋、欲復荒地山乃舊土也。時吾神飛靈劍振威勇、賊兵蓋漂沒。是孝靈天皇六十一年十一月也。爾来、異國防禦之神、至今弗絶。
(中略)
                      沙門明魏拜書(朱印)[耕雲]
 龍集 庚子[應永二十七] 仲夏廿有六日也。
(以下略)
「神道大系 神社編 36 出雲・石見・隠岐国」(神道大系編纂会/編, 1983)pp.3-4
 「荒地山の旧土を復さんと」とあるように、仏教の中心地の隅が欠けたのが日本まで流れ寄せた。それを神がつき固めて出雲の土地(荒地山)とした。それを取返しに異敵が押し寄せてくるのを日御碕神社の神が撃退した、というのがおおざっぱな内容である。

 杵築大社の影響下から脱するために、このような独自の中世神話を必要としたことが窺える。

◆神楽

 この中世神話は、神がつき固めた土地を鬼が取返しにくるという粗筋に発展する。謡曲「御崎」や神楽「日御碕(彦張)」「十羅」などがそうである。そして現在まで受け継がれている。背景に仏教説話があるというのが、神仏習合していた時期を想起させ興味深い。
 なお、神楽「日御碕(彦張)」「十羅」では鬼が「旧土を復さん」とやって来ることは明示的に語られていない。が、お話の源流を辿ると、そこに中世出雲神話があったことが分かるのである。

◆余談

 こういう体系的な知識が無いままに胸鋤姫の記事を書いてしまった。汗顔の至りである。

◆参考文献

・「大社町史 上巻」(大社町, 1991)
・「神道大系 神社編 36 出雲・石見・隠岐国」(神道大系編纂会/編, 1983)pp.3-4
・井上寛司「中世の出雲神話と中世日本紀」「古代中世の社会と国家 大阪大学文学部日本史研究室創立50周年記念論文集」(清文堂出版, 1998)

記事を転載 →「広小路

 

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江津と益田の違い――柿本人麻呂の伝説

◆はじめに

 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」に柿本人麻呂の伝説が収録されている。主なものは江津市と益田市のものとなる。

江津市――人麿は大和に生まれ、幼い時に父に死別した。母に連れられて石見国美濃郡小野郷(現、益田市)の身よりを頼って来た。人麿は長ずると語部になり、天武天皇の御代、国史記定の事が行われ、諸国の語部が朝廷に召された時に人麿も出仕した。しかし、記憶していた出雲石見の伝説で、朝廷の怒りに触れ、語部をやめることになった。だが抜群の才が惜しまれて、草壁皇子の舎人となった。皇子が二十八歳で亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきた。江津とはゆかりが深く、朝集使として上京の際、石見でめとった妻・依羅娘子に送られ、高角山で別れを惜しんで詠んだ歌はよく知られている。この依羅娘子は『石見八重葎』によると「人麻呂が都野津本郷の井上道益という医師の娘の歌才を愛でて、都に召しつれよさみのむらじの養女として、よさみのおとめと名づけ、内室とし、都野津に仮寓した」とあり、都野津の仮寓近くに人麿夫婦を祀った柿本神社がある。(『江津のはなし』)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」65P

益田市――歌聖柿本人麻呂は同地に生まれ、少年時代を送り、晩年再び石見の国府に留まり、高津の鴨山にその生涯を閉じたと伝えられている。綾部家はもと大和に居住し、柿本氏に仕えていた。柿本氏が石見に下った時、従って美濃郡小野郷戸田(現、益田市戸田町)に住み、代々語家(やからや)と称していた。柿本某は語家の女を寵愛して、一男子を得た。それが柿本人麻呂であったという。「綾部氏家系」に「綾部は其先、出づる所詳ならず。初め大和に住し、柿本に仕へ、氏の石見に下らるるに際し、陪従して美濃郡小野に住し、一世に語家と称し、柿本氏に仕ふ。柿本某語家の女を嬖幸(いこう)して一男を挙げられ、其児幼にして、父を喪へるを以て、語家これを養育したりき。これ柿本朝臣人麻呂なり」と記されている。人麻呂の死後、その出生を記念するため、今日の戸田柿本神社が建造されたと言われている。一方、同家では、人麻呂の死後、彼の死没地の鴨山から遺髪を奉じて帰り、同家の側に埋め、墓を建てた。この墓は綾部家の前にあり、方三メートルくらいの土壇を盛り、周囲には石の柵をめぐらしている。さらに壇上の礎石の上に、高さ約一メートル、幅三十センチの自然石を墓標として据えている。なお、人麻呂が石見にいる時に、石見の産鉄と石見半紙の生産を奨励したとも伝えられているという。(『益田市誌』上巻)
「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」67P

◆柿本氏

 柿本氏は人皇第五代孝昭天皇の皇子の天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の後裔である。大和に住んでいたが後に石見に移り戸田郷小野に住んだと「綾部氏柿本人麿譜」にある。これは柿本氏と小野氏が同族であったことから縁故を頼ったものだろうとしている。

 祖先の天足彦国押人命は浜田市下府町の伊甘神社の祭神として祀られている。石見地方には春日族や同系の櫛代族、小野族などが移り住んだとされており、小野の戸田町には小野族の祖神を祀る小野神社がある。

◆出生

 江津の伝承では人麻呂は大和に生まれ、幼いときに父と死別して母と共に石見国の美濃郡小野郷の身よりを頼ってきたとあり、益田市の伝承と食い違っている。いずれにせよ、幼少期を石見国で過ごしたとされているようだ。

 益田市の伝承では、綾部氏は大和に住んでいたが、仕えていた柿本氏が石見国に下るのに付き従って小野郷に移り住み、語家(やからや)と称したとある。人麻呂の母は綾部氏の女で、人麻呂の父が寵愛して人麻呂を授かったとしている。「嬖」は貴人から特にかわいがられる身分の低い女の意(広辞苑)。

 柿本社旧記では、ある時綾部家の後ろの庭園にあった柿の木の下に七、八歳の神童が忽然と出現したとする。どこから来たかと問うと、自分には父も母もないので生死を知らず、ただ敷島の道を知るのみと答えたという。そこで綾部氏が養育することとなったという。

 これは父の柿本氏が皇孫の出であることに対し、母の身分が離れていたために柿の木の下に忽然と出現したという言い伝えとなったものであろうとしている。

◆語り部

 江津市の伝承では、長じた人麻呂は語り部になり、朝廷に出仕したとある。しかし、記憶していた出雲石見の伝説が朝廷の怒りに触れたため語り部をやめたとされ、ただ、抜群の才が惜しまれたため、草壁皇子の舎人となったとある。若い頃から才気煥発で知られていたことが分かる。

 皇子が亡くなると、自ら進んで石見国府の役人として帰ってきたとある。この頃の国府は現浜田市下府町の伊甘郷にあったのではなく、都野津の辺りにあったようだ。人麻呂は在任中、砂鉄洗いを勧めたり、紙を漉くことを教えたとされる。殖産興業に努めた先人という扱いである。

◆女性

 人麻呂が愛した女性に依羅娘子(よさみのおとめ)と石見娘子(いわみのおとめ)の二人がいたとされる。また、二人は同一人物であったする説もあるようだ。

 依羅娘子は恵良媛のことだが、石見八重葎によると、人麻呂が都野津本郷の井上道益という医師の娘の歌才を愛で、都に召しつれ、依羅連(よさみのむらじ)の養女として依羅娘子と名づけ内室とし、都野津に仮の住いを設けたとしている。

島根県江津市の高角山公園・依羅娘子像
依羅娘子像

 これとは正反対の史料もあり、人麻呂は石見の掾(じょう)、国司の三等官として任じられたのが石見と関係を持つはじめであったとする。依羅娘子は都に残されて、現地で石見娘子という愛人を得たとしている。しかし、「柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上り来る時の歌」とあるので、どうだろうか。

◆角の里

 角の里、角の浦で江津市と益田市の解釈が分かれるようだ。江津市の伝承では都野を角の里、角の浦としており、島の星山を高角山としている。一方で、益田市では美濃郡高津の高角山としている。

島根県江津市波子町大崎鼻灯台から見た角の浦

江津市の高角山(島の星山)

石見相聞歌の世界・解説図

◆終焉の地

 人麻呂は四十代で亡くなったとするものや七十代で亡くなったとするものがある。鴨山をどこに比定するかだが、益田市の高角山とするものや邑智郡美里町の鴨山だとする説の他、浜田市の亀山(浜田城が建つ以前は鴨山と呼ばれていた)とする説もある。

 人麻呂の死後、社が建立されたのが、益田市沖の鴨島だった。が、鴨嶋は万寿三年の大地震で海中に没したとされている。延宝年間に津和野藩主・亀井公が現在地に遷座した。

島根県益田市の柿本神社

柿本神社・拝殿

柿本神社楼門由緒

柿本神社由緒

鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況・解説

 また、小野郷戸田では人麻呂の出生を記念するため戸田柿本神社が建立されたとされている。

島根県益田市の戸田柿本神社

戸田柿本神社・拝殿

戸田柿本神社・ご由緒

ひとまろの里・案内図

戸田柿本神社近くの遺髪塚

遺髪塚

◆安来市の伝説

 他、安来市の伝説があって、人麻呂が京都から任地の石見に向かう途中、岩礁に船が当たり溺死したとするものがある。安来にも人麻呂の墓と伝えられるものがあるようだ。

◆菅原道真の出生伝説

 北野天神縁起に、

 菅原院とは菅相公(是善)の家である。相公は生前の当初、相公の家の南の庭に五、六歳ばかりの幼い小児が遊んでいたのを見たところ、容貌、姿形が只の人でないと思いながら「君はどこの家の子か。どうして来て遊んでいるのか」と問うた。稚児は答えるに「さしたる定めた居所もなく、父もなく母もいません。相公を父としたいと思います」とおっしゃったので、相公は大いに喜んで、かき抱いて撫でて次第にくわしく研究させたところ、天才が日に日に新たとなった。これを菅贈大相国と申すらしいと日記にある。

 戸田柿本神社の柿本人麻呂の伝説と似ている。菅公の伝説の影響か。

◆余談

 江津市の島の星山を登っていくと、ゴルフ場があり、近くに高角山公園がある。そこに人丸神社が鎮座している。

 

高角山公園・入口

高角山公園・入口はたかつのグランドゴルフ場が目印

島根県江津市の人丸神社・鳥居

人丸神社

 益田市の戸田柿本神社は国道9号線の戸田の辺りに看板が立っているので、そこを曲がる。JR山陰本線・戸田小浜駅から歩いていけなくもない。近くには小野神社もある。

戸田柿本神社へ向かう道

 人麻呂公ゆかりの歌は一部しか知らないが、依羅娘子の「な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ」が好きである。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.64-70
・「日本思想大系 20 寺社縁起(※八幡愚童訓 甲乙および諸山縁起、北野天神縁起所収)」(桜井徳太郎, 萩原龍夫, 宮田登/校注, 岩波書店, 1975)

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スサノオの家来――大山祇命

◆はじめに

 「三隅地方の神話と伝説」に「大男大山祇命の話」という伝説が収録されている。

 それによると、三隅にやって来た大山祇(おおやまつみ)命は富士山のように背が高く、彌畝山(やうねやま)をひとまたぎした。一足ごとに地震のような地響きがしたので住民たちは驚いてしまった。
 しかし、大山祇命は案外心の優しい男で、ざわめいている人達に気づくと「これはすまんのう」と言った。そして岡見の大山に腰をおろすと自らを須佐之男命の家来であると名乗り、須佐之男命の命でこの地を治めに来たと言った。
 そこで足を振ると、足についていた泥がさっと飛んで海から凄い水煙が経った。それが収まると島ができた。高島、鹿島、大島である。さらに沢山の小さな島ができたので、楽に魚や貝が取れるようになった。
 大山祇命は今度は放屁した。すると、屁は地中に大穴を開けて地の底にぶちあたると向きを変えて地上に吹き上げた。これが三瓶山である。
 屁の次は糞をした。夜の来るのを待って、漁山と芦谷山に両足をふんばって夜通し糞を垂れた。この糞が積もり積もって井野の大糞山(野山嶽)となった。それで肥料をやらずとも作物がよくできた。

島根県益田市沖の高島
高島
島根県浜田市沖の鹿島
鹿島
浜田市三隅町須津の大島
大島

◆大山祇命

 大山祇命はイザナギ命とイザナミ命との間に生まれた神である。日本書紀ではイザナギ命がカグツチの神を斬った際に生じている。
 八岐大蛇神話に登場する足名椎命(アシナヅチ)と手名椎命(テナヅチ)が大山祇命の子である。
 また、ニニギ命の妻となるコノハナサクヤヒメが大山祇命の子である。大山祇命はコノハナサクヤヒメと磐長姫(イワナガヒメ)の両者を差し出したが、イワナガヒメは見目麗しくないのでニニギ命はイワナガヒメを帰してしまった。それで岩のごとき永遠の命が花と散るように失われてしまった。

 石見独自の神話として、狭姫伝説では大山祇命は巨人の足長土とオカミ神の父である。

◆大糞山

 「三隅地方の神話と伝説」では大山祇命を須佐之男命の家来としているところが特徴だろうか。井野の野山嶽(大糞山)でよく作物が取れるという説話でもある。これは玄武岩が風化した土壌が天然の肥料となることからくるとのこと。

浜田市三隅町井野の野山岳
野山岳
野山岳・遠景

野山岳の玄武岩類
という島大のサイトがあるが、それの図解をみると、野山嶽は地球の吹き出物のように見える。

◆氏族移住

 「三隅地方の神話と伝説」では、
 ところで、おおむかしのことをいろいろ調べてみると、そのころの出雲の国の勢力は出雲の国だけに限られていたのではなく、広い地域にわたっていました。石見地方がスサノオノミコトの勢力下に入れられたことは当然ですが、矢張り最初は出雲族がなにびとかの指揮で、この地方に攻めて来たに相違ありません。その指揮者が大山祇命だったのではありますまいか。(12P)
 としている。この氏族移住による開拓観も「三隅地方の神話と伝説」に見られる特徴である。

◆小人の伝説

 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」には巨人の伝説だけでなく、小人の伝説も収録されている。

 小人が井野村の西北から来て落合を通り、大神城、十文、大井谷、栃下などを通っていき、そこに杖や足跡が残っているとされる。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.100-101
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦訳, ニュートンプレス, 1992)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)
・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)pp.230-231
・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)
・「三隅地方の神話と伝説」(寺井実郎/編, 三隅時報社, 1960)pp.9-12

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2017年1月15日 (日)

ツクヨミではなくスサノオが――五穀種元

◆死体化生神話

 五穀種元(ごこくたねもと)は石見神楽の演目の一つである。杵ともいう。「校定石見神楽台本」によると六調子に分類される。

 葦原の中つ国に保食(うけもち)の神がいると聞いた天照大神が須佐之男命に命じて様子を見させた。命を受けた須佐之男命は早速保食神のところに赴いた。保食神は種々(くさぐさ)のものを取り出して須佐之男命をもてなしたが、その様子を覗いて見ていた須佐之男命は怒り、保食神を打ち殺してしまう。
 天照大神は天熊人(あめのくまうし)に命じて様子を見させに行った。すると、保食神は死んでいたが、体から様々の穀物の種や桑の木、蚕、牛馬が生じ、それを天照大神に捧げた。天照大神は喜び、「これらの物は現し世(うつしよ)の青民草が朝夕に食べて生きていくものである」と述べて、粟、稗、麦、豆を畑の種子、稲を水田のものと定めた。
 また、天の村君をして天の狭田(さた)、長田(ながた)に植え広めさせよと詔勅を出した。詔勅を受けた天熊人がそれを天の村君に伝えるべくやってきた。
 応じた村君は荒野を開き水田をつくり、収穫した稲で新嘗祭を行うべく神禰宜を呼び、杵を取り、餅をつく……という内容。

 殺された女神の死体から穀物が生じるとした死体化生神話を基とした演目であるが、基となった日本書紀と古事記でそれぞれ内容が一部異なる。

 日本書紀だと、
 葦原の中つ国に保食神がいると聞いた天照大神が月読尊にその許に行くよう命じる。天照大神の命をうけて地上に降りた月読尊は保食神に会った。保食神は頭を回して陸に向かうと口から飯が、海に向かうと魚が口から出てきた。山に向かうと獣の肉が出てきた。保食神はこれらの品々を料理して盛大に月読尊をもてなした。ところが月読尊は「きたない」と言って怒り、保食神を斬り殺してしまった。
 帰って事情を報告すると、天照大神は怒り、「もうお前とは会わない」と言った。それで太陽と月は昼夜を隔てて住んでいる。
 その後、天照大神は様子を見に天熊人(あめのくまひと)を遣わした。すると保食神の体から牛馬、蚕が生じ、粟、稗、稲、麦、豆が生えていた。天熊人はこれらを採取し、高天原に献上した。天照大神はたいそう喜び、「これらのものを人は食べて生きて行け」と言った。また、粟、稗、麦、豆を畑の種子とし、稲を水田の種子とした。
 そして天邑君(あめのむらきみ)を定め、天狭田(あまのさだ)と長田に稲を植えた。また保食神から生じた蚕が養蚕の始まりともなった。
 古事記では、
 悪事を働いて高天原を追放された須佐之男命は、道中食べ物を大宜都比売(おおげつひめ)に求めた。大宜都比売は鼻や口、尻から様々な食べ物を取り出して、それを調理して須佐之男命をもてなした。ところが、その様を覗いていた須佐之男命は「わざと穢している」と怒って大宜都比売を斬り殺してしまった。
 すると、殺された大宜都比売の体に次々にものが生まれてきた。頭には蚕、目には稲が、耳には粟が、鼻には小豆が、陰(ほと)には麦が、尻には大豆が生じた。
 その様を見ていた神産巣日(かみむすび)の神で、生じたこれらを取らせて、諸々の実のなる種と成して、須佐之男命に授けられた。

 ……となっている。これは殺された女神の死体から穀物が生じるとした型の神話で死体化生神話とされている。また、日本書紀では日月離反の説話ともなっている。なお、月読尊は保食神を斬り殺したことで天照大神の怒りを買うが、須佐之男命の場合、既に高天原を追放されていることもあってか、特に咎められていないようである。

 保食神の存在が語られるように、五穀種元は日本書紀の神話を元としているように見受けられるが、なぜ保食神を斬り殺したのが月読尊ではなく須佐之男命なのか、「校定石見神楽台本」では注で「スサノオノ命をつかはされたとするのは、何によるのか判然としない。書紀一書には月夜見尊をつかはされたとある。」(137P)としている。

◆大元神楽

 牛尾三千夫「神楽と神がかり」に大元神楽の資料が掲載されている。その中に「伎禰」という演目があり、大宮之女と老人が四季の花について問答し、餅をついて大神に奉るという筋立てである。「伎禰」は「杵」だから、「五穀種元」と同系統の神楽であると思われるが、詞章の内容は異なっている。

◆関東の里神楽
 関東の里神楽(神代神楽)に「神逐蓑笠(かみやらいみのかさ)という演目がある。「言いつけのば」「五穀本現」「素尊勘当」の三場からなる演目で、天照大神が天児屋命に素戔嗚尊を呼びさせ、素戔嗚尊が来ると天照大神が保食神から五穀の種を貰う様に命じる。ところが授かった種が臭いと保食神を斬ってしまう。斬られた保食神は天照大神に訴え、怒った天照大神は素戔嗚尊を勘当してしまう。蓑と笠を被った素戔嗚尊は追放される……という粗筋となっている。

神逐蓑笠・言いつけの場・天照大神
神逐蓑笠・言いつけの場・天照大神
神逐蓑笠・言いつけの場・天児屋命
神逐蓑笠・言いつけの場・天児屋命
神逐蓑笠・言いつけの場・素戔嗚命
神逐蓑笠・言いつけの場・素戔嗚命
神逐蓑笠・五穀本現・保食神
神逐蓑笠・五穀本現・保食神

神逐蓑笠・五穀本現・保食神の従者のモドキ
神逐蓑笠・五穀本現・保食神の従者のモドキ
神逐蓑笠・五穀本現・素戔嗚命
神逐蓑笠・五穀本現・素戔嗚命
神逐蓑笠・五穀本現・保食神の種が臭いと怒って、素戔嗚命が保食神を斬ってしまう
神逐蓑笠・五穀本現・保食神の種が臭いと怒って、素戔嗚命が保食神を斬ってしまう
神逐蓑笠・素尊勘当・天照大神に素戔嗚命の暴虐を訴える保食神
神逐蓑笠・素尊勘当・天照大神に素戔嗚命の暴虐を訴える保食神
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命と対峙する天照大神
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命と対峙する天照大神
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命を制止する天児屋命
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命を制止する天児屋命
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命に怒りをぶつける天照大神
神逐蓑笠・素尊勘当・素戔嗚命に怒りをぶつける天照大神
Kamuyaraiminokasa13
神逐蓑笠・素尊勘当・蓑と笠を着て追いやられることになった素戔嗚命
神逐蓑笠・寂しく去っていく素戔嗚命
神逐蓑笠・寂しく去っていく素戔嗚命

◆埼玉県の太々神楽
 埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社の土師(はじ)一流催馬楽(さいばら)神楽に「五穀最上国家経営之段(ごこくさいじょうこっかけいえいのまい)別名種蒔きという演目がある。演劇化された内容ではないが倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と保食命(うけもちのみこと)とが舞う内容となっている。

鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段
鷲宮神社:五穀最上国家経営之段

◆動画

 YouTubeで石見神楽宇野保存会の「五穀種元」を見る。まず天熊大人の舞があって、それから村君が入る。天熊大人が退場して人民が入ってくる。ここからトークになる。銀天街(浜田市の商店街)やジュンテンドー(ホームセンター)といった言葉が聞こえる。それから神禰宜(爺)と婆さんが入ってきて餅を搗く。途中、爺が間違って婆さんを杵で搗く。餅ができあがる。村君の中の人が独身だと明かす。それから餅撒きに入っておしまい。一時間以上に及ぶ長丁場だった。

◆古事記

 古事記で該当する部分を訳してみた。

 ここに八百万の神は共に協議して、速須佐之男命にたくさんの祓えの物を科して、また鬚(ひげ)と手足の爪とを切り、祓えさせて(罪を取り除かせて)(神やらいに)追放した。

 また、(須佐之男命は)食物を大気都比売神(おほげつひめのかみ)に乞うた。そうして大気都比売は鼻・口と尻から種々の美味な食べ物を取り出して様々に料理しお供え差し上げるときに、速須佐之男命はその仕業を伺って、汚して進上したと思って、ただちにその大宜津比売神(おほげつひめのかみ)を殺した。そこで殺された神の身に生えたものは、頭に蚕が生じ、二つの目に稲穂が生え、二つの耳に粟が生え、鼻に小豆が生った。女陰に麦が生え、尻に大豆が生えた。そこで神産巣日御祖命(かむむすびのみおやのみこと)はこの生えた種を取らさせた。

◆日本書紀

 日本書紀の「一書に曰く」として月読命の異伝が掲載されている。それに保食神の神話が語られている。

 さるほどに天照大神は天上にいらして曰く「葦原の中つ国に保食神(うけもちのかみ)がいると聞く。お前、月夜見尊は行ってみよ」とおっしゃった。月夜見尊は勅命を受けて天下り、まぎれもなく保食神の許に到った。保食神は頭を回して陸地に向かうと口から飯が出て、また海に向かうと大きなヒレの魚と小さなヒレの魚が出て来て、また山に向かうと毛のごわごわした獣と毛の柔らかい鳥が口から出てきた。その種々の物を悉く供えて多くの物を載せる台に積んで饗応した。この時月夜見尊は怒って色をなして曰く「汚らわしいことだ。卑しいことだ。どうして口から吐いた物で敢えて自分を養うことができようか」とおっしゃり、たちまち剣を抜いて討ち殺してしまった。そうして後、復命(命令されてしたことの結果を報告)してつぶさにその事を申した。ときに天照大神は怒ること甚だしくて曰く「お前は悪い神だ。相まみえることはあるまい」とおっしゃり、ただちに月夜見尊と一日一夜隔ててお住まいになった。この後、天照大神はまた天熊人(あまのくまひと)を遣わして、行って看護させた。この時、保食神はまこと既に死んでいた。ただし、その神の頭頂から牛と馬が成り、額の上に粟が生り、眉の上に蚕の繭が生った。眼の中に稗が生え、腹の中に稲が生え、女陰に麦と大豆、小豆と生えていた。天熊人は悉く持って去り(天照大神に)奉った。時に天照大神は喜んで曰く「この物はこの世に生きる青民草の食べて生きていくものだ」とおっしゃり、ただちに粟・稗・麦・豆を以て畑のものの種として稲を以て水田の種とした。またこれによって天邑君(あまのむらきみ:村の首長)を定めた。そこでその稲の種を以て、始めて天狭田(あまのさだ)と長田とに植えた。その秋の垂穂は拳八つ分くらい数多く実って甚だ快かった。また口の裏に繭を含んで、ただちに糸を抽出することができた。これから養蚕の道が始まった。保食神はここでは宇気母知能加微(ウケモチノカミ)と云う。顕見蒼生はここでは宇都志枳阿烏比等久佐(ウツシキアヲヒトクサ)と云う。

◆余談

 五穀種元は観たことのない演目で、いつか見てみたい。しかし、六調子に分類される神楽で、演目を保持している社中はどれくらいあるのだろうか。

◆参考文献

・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦訳, ニュートンプレス, 1992)pp.42-43
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)pp.48-49
・「校定石見神楽台本」(篠原實/編, 石見神楽振興会, 1954)pp.131-139
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)pp.204-206
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)

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ミゾオリヒメ――伊甘神社と御衣織姫命

◆はじめに

 浜田市下府町に鎮座する伊甘神社のご祭神は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)であるが、江戸時代の地誌である「石見八重葎」によると、以下の様なことが書き記されている。

島根県浜田市の伊甘神社とイチョウの木
伊甘神社・拝殿
伊甘神社・拝殿と本殿
伊甘神社・境内社
伊甘神社・ご由緒
式内正五位
 伊甘神社 [除地三石 社司(略)]
清和ノ御宇貞観三年辛巳五月五日鎮座即授位。本朝水土記ニ曰、伊甘ハ川ノ名ナリ。天豊足柄姫妹御衣織(ミゾオリ)姫命
「角鄣経石見八重葎」(同)p.109
 御衣織姫命は浜田市内にある石神社のご祭神である天豊足柄姫命の姉妹であるということだろうか。

島根県浜田市の石神社
石神社

◆機織りの女神

時代が下ると、大島幾太郎「那賀郡史」に以下の様な記述がある。
 生物の生活に先ず無くてはならぬのは食物だが、人類には住む場所(穴でも素でも進んで家)がいる。それから着物もいる様になる。抓之姫命(つまつひめ)、大屋姫の事が伝えられるのは、こういうわけからだ。抓之姫は紡績(つむぎ)、機織(はたおり)の神様で、下府で溝織姫(みぞおりひめ)というのは御衣織姫(みぞおりひめ)の意で、抓之姫の御事らしく語られている。(120-121P)
 抓之姫命、抓津姫命は須佐之男命の娘であり、五十猛命と大屋姫命の妹神である。抓津姫命が御衣織姫だとしたら、天豊足柄姫命は大屋姫に相当するだろうか。

 「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」では祭神を溝樴姫命(みぞくいひめ)とする資料が幾つかあるとしている(175P)。
 溝樴姫命は日本書紀では事代主神・古事記では大物主の妃。神武天皇の皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)の母でもある。
 溝織姫命と溝樴姫命で混同が生じたのであろうか。

◆「桃太郎の誕生」と瓜子姫

 柳田国男「桃太郎の誕生」では瓜子姫と機織の関係を考察、織姫とは神の御衣を織る巫女であるとしている。伊甘神社の御衣織姫はその名のごとく、神の御衣を織る巫女が神格化されたものなのだろう。
 神を祭るには清浄なる飲食を調理するを要件としたごとく、かねて優秀なる美女を忌み籠らしめて、多くの日を費やして神の衣を織らしめたことは、あるいはわが国だけの特徴であったかと思う重要なる慣習であった。それがいかなる信仰に出たものかは、まだわれわれにも明白でないのだが、とにかく機を織ることが上手というのは、もとは神を祭るに適したということも意味していた。(117P)
 なんにもせよ織姫といえば神に仕うる少女であり、後にはまつられて従神の一に列すべき巫女であった。(118P)
 察するところ、以前には小駕籠の用意ということが、意味はわからぬながら必ず付け加えられていて、それは織姫が祭の式に参与することを具体化したものだったのである。実際またわれわれの年久しい信仰においては、神の御衣を織りなしたる処女は、当然に神の御妻と解せられていたらしいのである。(120P)
 第二、事業。男性の鬼が島征伐という武勇に対して、女性の事業は技芸であり、機織である。この瓜子姫の機織ということは、神を祭るに清浄なる飲食を調理するのを要件としたように秀れた美女を忌みこもらせて神の衣を織らしめたのと比較し、わが国だけの特徴であったかと思われる重要な慣習であった。織姫というのは神に仕える少女であり、のちに祀られて従神の一つに列すべき巫女に比較された。それが桃太郎の鬼が島征伐に匹敵すべき女性の大事業であることは疑いないと主張された。(430P)
※430Pの文章は関敬吾の解説である。

◆由豆佐賣神社

 山形県鶴岡市湯田川の由豆佐賣(ゆずさめ)神社のご祭神が溝織姫命で水利・お湯の神様だという。意外なところで一致したが、ネットで二、三度検索するだけで辿れてしまった。昭和の時代には考えられなかったことだ。伊甘の地も良い水の湧き出る所で、水の神様なのかもしれない。

◆余談

 伊甘神社も単独で取り上げられないかと思っていたが、御衣織姫命の話がちょうどあってよかった。御衣織姫命にまつわるお話もあればよかったのだけれども。

 島根県には狭姫や胸鉏比売など、意外と姫神を祀る神社が多い。このご時世、現代風にもっとアピールすればよいのではないかと思う。狭姫伝説は漫画化されているが、地元の人の熱意があってこそ。

◆参考文献

・「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)p.109
・「那賀郡史」(大島幾太郎著, 大島韓太郎, 1970)pp.120-121
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)p.175
・「桃太郎の誕生」(柳田国男, 角川書店, 1974)
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婦人病の神様――粟島明神

◆帯下の病

 粟島明神は住吉大神の后であったが、帯下(こしけ)の病によって住吉大神に疎まれ粟島に流された。そこで粟島明神は一般婦人の帯下の病はなおしてやらねばならぬという御心願だった。このことを伝え聞いた婦人病患者は我も我もと参詣してそのご利益に預かったので婦人守護の神として繁盛する様になった。

島根県浜田市の粟島神社
粟島神社

 これは島根県だけの伝説ではないが、木村晩翠「随筆 石見物語」に収録されているので取り上げてみた。

 帯下の病とは広辞苑によると、「女性生殖器から出る白色または帯黄白色の病的液状分泌物」とある。男の自分には分かったような分からないような内容ではある。

 「随筆 石見物語」によると浜田市の粟島公園にある粟島神社の祭神は粟島明神の他に少彦名命と薬師如来を併せ祀っているとのこと。粟島公園からは浜田マリン大橋がよく見える。

浜田マリン大橋
 粟島公園には列女松田察の墓とお初の碑がある。また隣り合う大歳神社は式内論社の一つとのこと。
鏡山事件・松田察の墓
松田察の墓
鏡山事件・お初の碑
粟島公園とお初の墓・解説
浜田市元浜町の大歳神社
大歳神社

 大歳神社の境内には島村抱月の手になる序文が掲示されている。

島村抱月の序文

◆余談

 粟島公園には小学生のとき遠足で行ったことを憶えている。

◆参考文献

・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)

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観音寺と龍神さん:浜田市真光町

◆はじめに

 浜田市真光町に観音寺というお寺がある。そこに龍神を祀る祠がある。由緒書きによると「尚、当時(原文ママ)の門前には、旧浜田領の総鎮守として、『龍宮尊札』が祭祀されている。」とある。


浜田市真光町の観音寺・山門

観音寺・鎮守堂

観音寺・お堂

小篠東海と浜田の国学・案内板

◆勧請

 児島俊平「龍神さんと石見漁民」(23P)によると、

この祠堂は文化三年(一八〇六)、今を遡ること一七六年前に浜田藩領浦々(江津市~益田市)の漁民が願主となって遠く出羽国庄内(山形県鶴岡市)からご神体を勧請し建立したもので、梁札には次の如くある。

「新に龍王神祠を修る梁札」
 天下泰平 国土安穏 日月清明 五穀成熟
奉建立龍殿一宇専祈当城太守武運長久文武官僚如意満足修
 海鹿退散 大猟繁栄 邦内漁民 福波壽無料

 この龍神さまは

 出羽の国庄内の城北、大山邑龍沢山善宝禅寺の鎮守霊符、龍道大龍王戒道大龍女の神祠は霊験赫著(あきらか)にして、遠近祈■(いのる※漢字不明)所あれば感応あること響の如し

 と信仰が深かったようだ。

◆アシカの食害

「海鹿退散」とあるようにアシカの食害に悩んだ浜田藩領内の官民挙げての勧請だったとのことで、わざわざ遠く出羽の国(山形県鶴岡市)の善宝禅寺まで出かけて懇請している。善宝禅寺も「寺主曰く吾が龍王祠は古より未だかって他邦に許さず然れ共懇切の求以て貴寺に奉祠ことを許すと」(23P)と願いを容れて特別の許可を与えている。この旅路には三か月かかったそうである。

 「龍神さんと石見漁民」では文化年代は気候が寒冷で、それで石見地方でもアシカが見られたのであろうとしている。

 アシカは竹島に多く生息していたが、明治時代、日露戦争の毛皮の需要、油の需要を当て込んだ業者により乱獲され数を大きく減らしたとのこと。現在では絶滅したとされている。

ニホンアシカの剥製

ニホンアシカ・解説

ニホンアシカ
Zalophus californianaus japonicus
 数十年前まで、日本にはアシカのなかまがくらしていました。ニホンアシカは、本州・四国・九州の近海にすみ、特に日本海に多く見られたようです。
 ニホンアシカは、明治の終わり頃から脂と皮をとるために、漁師によって捕獲されていました。1950年頃には島根県の竹島に200~500頭が生息していましたが、乱獲によって次第に数を減らしていきました。
 そして、生息地が破壊されたことも影響して、今では見ることができなくなってしまいました。
※アクアスの解説より。

アクアスに展示されていたアシカの剥製。

◆参考文献

・児島俊平「龍神さんと石見漁民――文化年代の異常海象について――」「郷土石見」第十一号(1982)

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国造りの仮住まい――志都の岩屋

大汝少彦名のいましけむ 志都の石屋は 幾代経ぬらむ
 万葉集に「志都乃石室」と詠まれたとされる場所が島根県には二か所存在する。大田市静間町の静之窟と邑南町にある志都岩屋神社である。

◆志都岩屋神社

 邑南町の志都岩屋神社の本殿裏には鏡岩と呼ばれる巨岩があり、古くからの巨石信仰が窺われる。
邑智郡邑南町の志都岩屋神社・鳥居
志都岩屋神社・拝殿
志都岩屋神社・本殿と巨岩
志都岩屋神社・ご由緒
志都岩屋神社・萬葉歌副碑
 2018年に志都岩屋神社の裏山を登った。体力不足で古志都岩屋までしか行けなかった。次回はもっと上まで行ってみたい。
邑南郡邑南町・古志都岩屋
古志都岩屋

◆静之窟

 大田市静間町の静之窟は海岸にできた岩窟(海食洞)。以前は人が入ることができたようだが、現在は崩落の危険ありということで立ち入りは禁止されている。
大田市静間町の静之窟
静之窟・石碑
静之窟と鳥居

◆静間神社

 大田市静間町にある静間神社は静之窟との所縁が深いようだ。
大田市静間町の静間神社・拝殿
静間神社・拝殿と本殿
静間神社・ご由緒
 静間神社は、第五十八代光孝天皇の御代、仁和二年(八八六年)二月八日に創建されました。昔は魚津の静ノ窟に鎮座していましたが、明暦二年魚津■(?)の前に遷座し、さらに延宝二年(一六七四年)六月二十七日、現在地に遷し祀られました。
 大己貴命、少彦名命の二柱の神は、農民に鋤、鍬を与え、水稲の種子をまいて、田作りの方法を教えられました。また、人間の病気はもとより、家畜の病気治療にも当たられた神々として、今の世でも日本各地で、病める人たちの深い信仰を集めています。
 とご由緒にある。元は静之窟に鎮座していたが、後に現在地に遷座したとのこと。
 大国主命と少彦名命が「志都乃石室」を国造りを行なうための仮住まいとされたというが、考えるに、大田市静間の方が出雲に近くそれらしいか。

◆よいところも悪いところも

 むかし、オオアナムチ命がスクナヒコナ命に話しかけた。
「われわれのつくった国は、良くできたと言っていいだろうか」
「うまくいったところも――スクナヒコナ命が答えた――あれば、うまくいかなかったところもある」
 この話には、どうやらふかい趣があるらしい。その後、スクナヒコナ命は[出雲の]熊野の[山]崎に行き、とうとう常世郷(とこよのくに)にまっすぐに行った。またはいう、淡島に行って、粟の茎によじのぼったら、はじかれて常世郷に行ってしまった、と。
「<原本現代訳>日本書紀(上)」58P
 国造りには上手くいったところと上手くいかなかったところがある。この文章を読んで、昔、竹下元首相が過去の植民地支配に関して「良いことも悪いこともあった」と述べて物議を醸したことを思い出した。竹下首相は上記の言い伝えを念頭に置いていたのかもしれない。
 戦前の日本人は威張っていたらしいが、別に苛烈な支配をした訳ではない。日本の領土だったところは韓国にしても台湾にしても旧満州にしても栄えている。国民皆教育が大きかったのだろう。

◆余談

 邑南町の志都岩屋神社の裏山である弥山は登山コースになっているが、訪問当時、酷い足首捻挫で登るのをあきらめた。
邑南町の志都岩屋神社・弥山の登山コース
 大田市静間町の静之窟に行こうとしたのだが、静之窟周辺には駐車場が無く、近所の住宅の人に「ここは駐車場がありません」と怒られた。次回行くときはどうしよう。
<追記>
 大田市静間町の静之窟だが、坂はきついが静間神社から歩いていける距離だった。静間神社前に車を停めていった。
 邑南町の志都岩屋神社は、浜田道・大朝ICから国道261号線を旧瑞穂町方面に向かって走る。県道6号線に入る。そこから更に右折する(※6号線を進む)。神社前に鳥居と看板があるので、鳥居をくぐる。しばらく進むと神社の方向を示した杭がある。民家があり狭いが、そこを上がると駐車スペースがある。
 静間神社は国道9号線から静間方面へ入る道、県道287号線に入って、静間小学校方面へと曲がる。そのまま道なりに進むと、「静間神社」と書かれた標識があるので、そちらに曲がる。しばらく進むと静間神社がある。神社前に車を停めるスペースがある。神社から道を下ると静之窟(しずのいわや)へ行ける。歩いていける距離(※岩屋周辺には駐車スペースがない)

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.169-170
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)
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「大工と鬼六」と物語の伝播

◆はじめに

 「大工と鬼六」という民話がある。
大工が橋をかけようとするが流れが早いので困っていると、川の中から鬼が現われ、目玉を寄こしたら橋をかけてやろうと言う。三日のうちに橋は出来上がり、目玉を要求されて山へ逃げた大工は、子守歌を聞き、その名が鬼六と分かる。鬼が名前を当てたら目玉はいらぬというので、大工が二度目に「鬼六」というと、鬼はぽっかり消える。
櫻井美紀「昔話と語りの現在」67P
 真の名を知られたら呪力が失われる、相手に支配されてしまうというモチーフの話はファンタジーでも見られる。「ゲド戦記」などがそうだろう。これは名には呪力が宿るから隠さなくてはいけないという信仰に基づくものである。
 真の名を知られてしまったから、力は通じなくなる。鬼が消えた由縁である。

◆外国の翻案もの

 この「大工と鬼六」に関する論考が櫻井美紀「昔話と語りの現在」の「あらかると『大工と鬼六』」という章で展開されている。(67-74P)

 「大工と鬼六」は北欧のオーラフ王の教会建立伝説を源流とし、大正時代の女性研究者・水田光(みつ)が発表した「お話の実際」(大正6年)というアメリカのストーリーテリングの手法を紹介した本に収録された「鬼の橋」が基となり、その後「聴聞草紙」や絵本「だいくとおにろく」(松居直再話・赤羽末吉絵)などで広く日本国内に伝播したとする研究がある。

 この「あらかると大工と鬼六」の中で興味深いエピソードが紹介してある。それは酒井董美氏が米子の昔話採集に携わっていたときのもので、米子でも「大工と鬼六」の話は採取されたのだけど、
 全く、とんでもない失敗をしでかしました。話者のOさんと今、話をしたところなんですが、あの「大工と鬼六」は、本を読んで覚えて語ったということです。私は前にOさんを稲田和子さん(岡山県在住の昔話研究者)に紹介したことがあるのです。Oさんは稲田さんから贈られた『日本昔話百選』を読み、その中の「大工と鬼六」が気に入ったので覚えておいて、あの日語ったのだと、今、言われました。
櫻井美紀「昔話と語りの現在」73P
ということである。昔話は口伝だけで伝わっていくものでは決してなく、読書を通じても広がっていくという事例が示されている。書承から口承への転換である。明治時代に学制が発布されて以来、識字率100%なのだから当然と言えば当然のことなのだろう。語り口のテクニックとはまた別の話である。
書物に収められた昔話が語り手の持ち話の中に入り、それを採訪調査の作業中に調査者が収録し、資料集に記載されるという過程を目のあたりにし、私も少なからぬ感慨を抱いたのであった。
櫻井美紀「昔話と語りの現在」73P
 ちなみに、話中のOさんは明治40年生まれであるとのこと。既に学制が発布され国民皆教育が始まって久しい時期の生まれだ。

◆味噌買橋の研究

 櫻井美紀「昔話『味噌買橋』の出自―その翻案と受容の系譜―」を読むと、昔話の伝播には口承→書承、書承→口承のサイクルを繰り返すとある。
 日本のみならず外国の場合でも、昔話の伝播は「口承から書承、書承から口承」という道を繰り返して今日に至ったと考えられている。
 これに類することを、他の本の場合でも、語られた話の場合でもよく見かける。土地の語りと思って聞いた話が、実はつい最近、話者が読んだばかりの話だということも多い。採訪に行き、そこで語って下さった話者にあとから尋ねたところ、「本を読んで気にいった話を土地のことばで語った」といわれることは、何回も経験している。しかしそこに、書く人の、あるいは語る人の「書き換えたい」「つくり替えたい」という気持ちが強く働いているのを感じるのである。それを裏返せば、自分がその話に強く魅かれた感動の表現なのだろうか、とも思う。
 拍子抜けするような印象であるが、繰り返すと、国民皆教育で下地が整っているからだ。学校教育の場での影響も大きく、教科書に採用された昔話を読んで地元の言葉で再話することもあるそうだ。

◆益田市乙子町の事例

 これは神話カテゴリーで紹介した乙子狭姫の事例であるが、田中瑩一「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち」の「比礼振る山を語る―島根県益田市乙子町フィールドノート抄―」という章に次のような一節がある。
 口火っを切ったのは矢富寿信氏(一九二五年生)でした。矢富氏は郷土史に関心があり、この日のためにいろいろな資料を用意して参加してくださっていました。氏は手元の紙片に目をやりながら、比礼振山にかかわる農耕起源神話から語りはじめました。(4P)
 矢富氏は続いてもう一つ、これも文献からのメモに目をやりながら次のような伝説を語りました。(6P)
 実際の伝承や記憶を紹介した後に、調べたことをもとに自身の意見を付け加えて語っています。城市氏が直ちに反論しました。(8P)
 さて、こうして同席の人々の間で伝承についての異なった受け止めがやりとりされるようになってくると座も和み、以後こもごも次のような話が続きました。(8P)
 城市氏が話の後に「葉っぱの葉緑素が出てそれが効く」のだとする解釈を添えたところには、矢富氏が「飛ぶ船」の伝説を「権力者への順応」の表現として解釈したのと同様、語りに対する合理化の態度がうかがえます。(14P)
 これは益田市乙子町の公民館で伝承説話を採取した際の模様である。必ずしも記憶のみに頼るのではなく、ときにはメモを参照し話者自身の見解も交えつつ語られている、ときには話者同士の交流があることが分かる。

◆アニメ

 「大工と鬼六」はまんが日本昔ばなしでアニメ化されている。演出:小華和ためお、脚本:沖島勲、美術:古谷彰、作画:川島明。出典は記載されていないので、一般的な昔話という扱いなのだろう。内容は上記で紹介した粗筋と変わらないものと思われる。

◆参考文献

・「昔話と語りの現在 日本児童文化史叢書20」(櫻井美紀, 久山社, 1998)pp.67-74
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.4-15
・櫻井美紀「大工と鬼六の出自をめぐって」『口承文芸研究・11号』(日本口承文芸学会、1988年)
・櫻井美紀「昔話『味噌買橋』の出自―その翻案と受容の系譜―」『口承文芸研究・15号』(日本口承文芸学会, 1992年)

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人丸神社:江津市・高角山公園

江津市の島の星山を登っていくと、ゴルフ場があり、近くに高角山公園がある。そこに人丸神社が鎮座している。
島根県江津市の高角山公園・入口
高角山公園へはたかつのグランドゴルフ場が目印
島根県江津市の人丸神社・鳥居
人丸神社
凡そ千三百年の昔、天武、持統、文武三朝の頃、役人且つ宮廷歌人として、都で名をなした万葉歌人柿本人麿は、晩年石見の国の役人として、慶雲三年(七〇五)角の里(現江津市二宮町)の仮国庁に来た。やがて近くの豪族の娘依羅娘子(里名恵良媛)を妻に迎えた。
万葉銅像建立の由来
萬葉銅像建立記念碑
な思ひと 君は言へども 逢はむ時 いつと知りてか 我が恋ざらむ
依羅娘子(2・一四○) は好きな歌である。
人麻呂像と依羅娘子像
柿本人麻呂像
依羅娘子像
江津市波子町・大崎鼻灯台から見た江津市内。角の里、恵良の里の位置がよく分かる。
島根県江津市波子町の大崎鼻灯台から見た高角山(島の星山)
石見相聞歌の世界・解説

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鵜の鼻古墳群:益田市遠田町

鵜の鼻古墳群は島根県益田市遠田町にある石見地方最大の群集墳で、日本海に突き出した丘陵に約50基あまりの古墳があったと言われている。明治時代の国道建設や大正時代の山陰本線の建設で、その幾つかが失われている。

標識・鵜の鼻古墳群

標識・鵜の鼻古墳群入口・遠田町の港から

古墳時代後期(6世紀~7世紀)にかけて築かれたもので、群集墳のうち保存状態のよい19基が県指定となっている。うち2基が前方後円墳である。

古墳・石室

古墳・石室

古墳・石室

古墳時代の後期(六世紀~七世紀)に入ると、社会構造が大きく変化し、それまでは首長やそれを支えた有力な家筋の戸主だけに認められていた古墳の築造がさらに広い範囲の家筋や家族にまで及び、古墳に葬られる人が急激に増えて群集墳や横穴群が盛行しました。

鵜の鼻古墳群・解説

鵜の鼻古墳群・解説

史跡・鵜の鼻古墳群・解説

◆余談

鵜の鼻古墳群に行った日は台風一過の翌日で、まだ海が荒れていたことを憶えている。長居はしなかった。

鵜の鼻古墳群・港への入口

遠田町の小さな港

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高感度に弱かった――岸静江の墓

岸静江国治は群馬県館林出身の浜田藩士。慶応二年(一八六六)六月に第二次長州征伐・石州口の戦いにまつわる逸話で知られる人物である。

岸は津和野藩との藩境であった益田市多田地区の扇原関門を僅かな部下と急募の農民とで守護していた。村田蔵六(後の大村益次郎)率いる長州軍一千五百名が迫り、部下と農民を逃した岸はただ独りで扇原関門を守ることになった。

標識・扇原関門跡へ

扇原関門跡

岸静江戦死之地・石碑

石碑・従是北濱田領

「従是北濱田領」とある。

扇原関門跡・解説

開門を要求する長州軍に対し、岸はこれを拒絶、銃弾を受けた岸は三十一歳の若さで戦死を遂げた。ここに石州口の戦いの火ぶたが切って落とされた。

その勇敢な死に感服した長州軍が費用を出し、岸静江の墓が建立された。

岸静江の墓へ向かう道

岸静江の墓

岸静江の墓

史跡・岸静江国治の墓・解説

浜田市真光町の観音寺にも岸静江の墓があった。どういった経緯によるものかは記されていなかったが、他に岸の名が見える墓があった。

浜田市真光町の観音寺・山門

観音寺・岸静江の墓

◆余談

岸静江の逸話は司馬遼太郎「花神」で読んだ。実は「花神」は浜田藩関連の部分しか読んでいない。石州口の戦いで浜田藩と福山藩は苦戦、退却を余技なくされるが、その中で気を吐いたという印象である。

以前に扇原関門跡を訪れた際使用したデジカメはパナソニックFH5で、これは高感度に弱く、暗い場面だとISO感度が上昇しやすく色褪せた画像となってしまった。今は明るいレンズと比較的高感度に強いデジカメを所有しているので、再訪したいと思っている。

扇原関門跡は多田温泉から近い。訪問時は近くの大元神社前に車を停めて、歩いていった。

益田市の多田温泉

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倒れた海老谷桜:浜田市三隅町

海老谷桜は浜田市三隅町の桜として知られるヤマザクラ。平成20年4月1日に突然倒木し、再生に向けた努力が払われている。
再生中の海老谷桜
写真は2011年に撮影したものです。
倒木した海老谷桜の幹
倒木した海老谷桜の幹
倒木した海老谷桜の幹
倒木した幹。非常に太く、大きな桜だったことが偲ばれます。
海老谷桜・解説

◆余談


海老谷桜が倒れたという報道、祖母が亡くなって葬式でバタバタしている合間に新聞で読んで知った。なので印象に残っている。残念ながら樹勢が盛んだった頃の姿は知らない。

海老谷には他に茶臼山があり、そこに茶臼山城という山城があって、現在ではハイキングのコースとなっている。
茶臼山城跡登山道案内図
茶臼山・登山口

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最初の四隅突出型墳丘墓――順庵原一号古墳

邑智郡邑南町瑞穂にある順庵原一号古墳は四隅突出型墳丘墓として初めに発見されたもの。弥生時代後期(1~2世紀頃)のものとされている。その後、出雲地方で四隅突出型墳丘墓の発見が相次ぎ、全国的に注目されることとなった、その一号墳である。
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳
順庵原一号古墳・解説
四隅部が突出し、葺石で覆われているのが特徴か。規模的に出雲弥生の森・西谷墳墓群でも一号墓と対比できるか。
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
西谷墳墓群・一号墓
また、横浜市にある方形周溝墓とも形がよく似ている。四隅突出型墳丘墓では墓の四隅を掘ることはしていないが、四隅部はそこから祭祀のため墓に立ち入ったのだろうか。
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の歳勝土遺跡の方形周溝墓
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡
横浜市の大塚遺跡

◆余談


瑞穂町にある瑞穂ハンザケ自然館を見物、駐車場に車を置いて道路を南下、順庵原の交差点(信号か?)近くにある。

順庵原方面へ向かう道
順庵原方面へ向かう道

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ノアの洪水の死者――瑞穂ハンザケ自然館

邑智郡邑南町の瑞穂ハンザケ自然館では体長一メートルを超えるオオサンショウウオが飼育されている。
オオサンショウウオ2匹
他、瑞穂町周辺の自然を示した剥製などが展示されている。その中にオオサンショウウオの化石(模型か?)が興味深く展示されていた。
オオサンショウウオの化石
ノアの洪水の死者・解説
1726年、ショイツェルはドイツのエニンゲンにある3000万年前(大三紀中新世)の地層から、オオサンショウウオの化石を発見しました。しかし、彼はそれをノアの洪水で死んだ罪人の骨と考え、化石に「洪水の証拠となる哀れな人」と名付けて発表しました。
旧約聖書にノアの洪水は記されているが、ドイツもその被害を蒙ったと考えたのだろうか。
最大クラスのオオサンショウウオの模型
最大クラスのオオサンショウウオの模型
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館
瑞穂ハンザケ自然館

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(番外編)天狗がいた――太郎坊:滋賀県東近江市

太郎坊こと阿賀神社は滋賀県東近江市(八日市)にあるお宮。太郎坊という天狗がいたとされる。
滋賀県東近江市の太郎坊・階段
太郎坊
伝教大師が太郎坊山に社殿を建てようとした時には、山奥から現れて手助けしたといいます。
巨岩が並ぶ峻険の峰であり、古くから修験の場としてあったことは疑いようがなく、太郎坊天狗の伝説もそこから出てきたものだろう。
ご祭神は正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神―マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノオオカミ―で天照大神の第一皇子神である。勝運を司る神様で、信仰が厚い。太郎坊は祭神・天忍穂命の守護神であるとのこと。
夫婦岩は二つの巨岩からなるが、「この間を通って参拝するものには、即座に病苦を除き諸願が成就されるが、悪心あるものは『岩にはさまれる』と言われ」とのこと。
太郎坊・夫婦岩
太郎坊・夫婦岩

◆余談


滋賀の八日市に姉夫婦が住んでいる。姉の許に遊びに行ったとき、義兄に連れて行ってもらったもの。このときは車で山麓に向かい、参集殿前の駐車場に車を停めた。眺めもよく湖東平野が一望でき、歴史ものが好きな義兄が「あの辺りでちょうど一キロメートル離れている」と教えてくれた。

湖東平野
勝運の神さまだけど、勝ちには恵まれない。天祐によるところはほんの僅かで、実力が不足しているということだろう。

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(番外編)月読神社:川崎市麻生区

 川崎市麻生区上麻生の月読神社。月読命の神名を冠する神社は全国でもそう多くはないのではないか。月読命は天照大神、須佐之男命と並ぶ三貴神の一柱。

 約450年前に伊勢皇大神宮別宮月読宮から勧請したとある。天文三年(1534年)とのこと。大正時代に周辺の神社を合祀し、麻生神社となったが、全国的にも月読神社の社号は珍しく、昭和8年月読神社と称することになったとのこと。

川崎市麻生区の月読神社
月読神社・拝殿

◆三貴神

 「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳)によると、
 つぎに月神を生んだ。(一書はいう、月弓尊、月夜見尊、月読尊)。その光の色は日についでいた。日に配して〔天を〕治めるのがよいと、また天に送った。(17P)
 右手に白銅鏡を持ったさい、化して出た神があった。月弓尊という。(32P)
 さて、オオヒルメ尊にツクユミ尊は、ともに性質が明るく麗しいので、天地を照らし治めさせた。(32P)
 また、右の眼を洗ったが、これによって生じた神を、月読尊とよぶ。(38P)
 さてイザナギ尊は、三子に命じて、「アマテラス大神は、高天原を治めよ。ツクヨミ尊は、潮が八百(やお)になる青海原を治めよ。スサノオ尊は天下を治めよ」と委任した。(38P)
 伊弉諾尊は、三子に命じて、「天照大神は、高天の原を統治せよ。月夜見尊は、日に配して天の事を治めよ。素戔嗚尊は青海の原を統治せよ」と委任した。(42P)
 ……などの記述がある。

◆死体化生神話

 また、保食(うけもち)神との間に死体化生神話が残されている。殺された女神の体から穀物の種が生じるパターンの神話である。

 葦原の中つ国に保食神がいると聞いた天照大神が月読尊にその許に行くよう命じる。天照大神の命をうけて地上に降りた月読尊は保食神に会った。保食神は頭を回して陸に向かうと口から飯が、海に向かうと魚が口から出てきた。山に向かうと獣の肉が出てきた。保食神はこれらの品々を料理して盛大に月読尊をもてなした。ところが月読尊は「きたない」と言って怒り、保食神を斬り殺してしまった。
 帰って事情を報告すると、天照大神は怒り、「もうお前とは会わない」と言った。それで太陽と月は昼夜を隔てて住んでいる。
 その後、天照大神は様子を見に天熊人(あめのくまひと)を遣わした。すると保食神の体から牛馬、蚕が生じ、粟、稗、稲、麦、豆が生えていた。天熊人はこれらを採取し、高天原に献上した。天照大神はたいそう喜び、「これらのものを人は食べて生きて行け」と言った。また、粟、稗、麦、豆を畑の種子とし、稲を水田の種子とした。
 そして天邑君(あめのむらきみ)を定め、天狭田(あまのさだ)と長田に稲を植えた。また保食神から生じた蚕が養蚕の始まりともなった。

 古事記では須佐之男命と大宜都比売(おおげつひめ)命との間との神話となっている。須佐之男命は既に高天原を追放されているからか、大宜都比売を殺したこと自体は特に咎められていない。

 また、日月離反の起源説話でもある。

◆余談

 川崎の月読神社へは県道12号線横浜荏田線を北上、トヨタのディーラーが見えた先に団地入口の交差点があるので、そこを右折。上がると月読神社の看板が立っているので、そこに入る。住宅地の中を進んでいくと、突き当りに駐車場がある。

月読神社・神社脇の駐車場から境内に入る・鳥居
月読神社・鳥居と参道

 何度も行っている場所なのだけど、ご由緒の写真がうまく撮れておらず、記事に掲載できない。

◆参考文献

・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦/訳, ニュートンプレス, 1992)

記事を転載 →「広小路

 

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(番外編)大塚・歳勝土遺跡の模型:横浜市都筑区

横浜市営地下鉄センター北駅が最寄り駅の大塚・歳勝土遺跡公園。その一角に遺跡の模型が展示されている。こうしてみると、弥生時代にも大規模な土木工事が行われていたのだろうか。

大塚・歳勝土遺跡の模型

模型・大塚遺跡

大塚遺跡

模型・歳勝土遺跡

歳勝土遺跡

大塚・歳勝土遺跡の模型・谷あい

大塚・歳勝土遺跡の模型・谷あい

模型・大塚遺跡と歳勝土遺跡

大塚遺跡と歳勝土遺跡

横浜市の大塚遺跡

大塚遺跡

歳勝土遺跡の方形周溝墓

歳勝土遺跡の方形周溝墓

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(番外編)早渕川の民俗:横浜市

 早渕川は鶴見川水系の河川。港北ニュータウンはロードサイド型郊外店のモデル地区だったように、いわゆるファスト風土化した土地柄だが、早渕川流域のニュータウン造成以前からあった土地にはかつての都筑区を忍ばせる民俗が点々と残されている。

横浜市の早渕川
早渕川

◆塞の神

 写真の辺りでは早渕川が都筑区荏田東と中川町の境界となっている。その早渕川のほとりに塞の神の祠がある。
早渕川・塞の神祠
早渕川・塞の神祠
 最初、存在に気づいた時、開けたこの辺りに峠のような境界になりそうなものが無いなと思い(塞の神=峠という先入観があった)、よくよく考えると川が境界だった。

◆水神様

 上流に何百メートルか遡ると、今度は水神の祠がある。田の神様とのこと。
水神様
 早渕川の神様を祀る小さなお堂が中崎橋の近くにあります。田植えの時期には大棚堰と呼ばれる堰が築かれ、用水路を通じて、水田に利用されていました。関東大震災で木製の堰が壊れ、コンクリート製の改修されましたが、現在は築造記念銘だけがお堂の脇にひっそりと残っています。
早渕川・水神様
早渕川・水神様
水神宮
バクの案内板・水神様

◆荏田宿・庚申塔

 更に数百メートル遡ると、大山街道荏田宿があった辺りに出る。そこに庚申塔が建っている。

荏田宿
大山街道・荏田宿・大山詣の宿場町
大山街道・荏田宿・大山詣の宿場町
大山街道・荏田宿・大山詣の宿場町
荏田宿・庚申塔
荏田宿・庚申塔
荏田宿・庚申塔・いわれ(由来)

 庚申(かのえさる)の日に講中の婦人たちが集まって厄払いを祈願、眠らずに一夜を過ごす風習があった、また、交通安全、幼童安穏の神としても知られていたとのこと。

◆矢羽根不動尊

 早渕川のほとりではないが、荏田東の近くに矢羽根不動尊もある。早渕川流域にある「バクの案内板」によると、
矢羽根不動尊
 戦国時代末期に矢羽根付近に住んでいた人によって建立されました。むかし、荏田城(田園都市線江田駅付近)から弓を射ったところ矢が2つに折れ、矢の先が落ちたところが「矢先」「矢崎」に、矢の羽が落ちたところが「矢羽根」という地名になったと伝えられています。
バクの案内板・矢羽根不動尊
矢羽根不動尊・入口
矢羽根不動尊
矢羽根不動尊
矢羽根不動尊・庚申塔

◆子育地蔵

 横浜市営地下鉄センター南駅からセンター北駅方面へ数百メートル進んだ川辺に子育地蔵がある。

子育地蔵
子育地蔵
堰の元地蔵尊(子育地蔵)・解説
子育地蔵・庚申塔
 通称「堰のお地蔵さん」と呼ばれてきた。この辺りに早渕川から取水をする堰があったので堰の地名が付いたとのことである。
 地蔵菩薩は、お釈迦様が没した後、弥勒仏が出世するまでの無仏世界において、この世に現れてすべての人間を救うことを仏に委ねられた菩薩である。お姿は僧形で左手に宝珠、右手に錫杖を持つ。
 「子育地蔵」とも呼ばれ、二十四日は地蔵縁日として仏前に花や果物を供えて祀り、お宮参りや七五三のお参りの際に家族一同で参詣するなど、土地の人々の信仰を集めていた。

◆余談

 早渕川は自然が豊かでカワセミもいるとのこと(一度ちらっと見ただけ)。春先にはカルガモの子育てが行われる。カルガモの雛は岩についた藻か何かを食べるらしく、水深の浅い上流域が格好の子育ての場であるようだ。
早渕川・バクの案内板
バクの案内板・周辺地図

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(番外編)茅ヶ崎杉山神社:横浜市都筑区

横浜市都筑区茅ヶ崎の都筑中央公園の中に鎮座する杉山神社。

横浜市都筑区の茅ヶ崎杉山神社・鳥居

茅ヶ崎杉山神社・拝殿

茅ヶ崎杉山神社・拝殿・社務所

杉山神社は鶴見川水系に三十数社存在いるとされるが、その中でも式内社の論社として有力視されているとのこと。境内裏に貝塚が存在しており、縄文時代から人が住んでいたことが窺える。また、比較的近くに大塚・歳勝土遺跡があり、弥生時代にもこの辺りで人の営みがあったことが分かる。

ご祭神は五十猛命。日本の国土に樹々を植えた神様として知られている。

神社によっては日本武尊(ヤマトタケル)も併せて祀られているとのこと。五十猛命は須佐之男命の息子でいわば出雲系の神さまと言えるだろうか、その五十猛命が大和系のヤマトタケル命と共にお祀りされているという図式である。

また新編武蔵風土記稿によると、阿波忌部族とも関わりがあるようだ。都筑周辺を忌部族が開拓したのだろうか。

横浜市都筑区中川町の杉山神社

都筑区中川町の杉山神社。

港北ニュータウンの造成によって遷座したとのこと。こちらも大塚・歳勝土遺跡に近い。こちらは五十猛命と日本武尊を併せて祀っている。

◆余談

横浜市営地下鉄センター南駅~センター北駅にかけては茅ヶ崎城址公園、大塚・歳勝土遺跡、横浜市歴史博物館と、横浜の歴史体験ゾーンになっている。

現在までお参りしたのはこの二社のみ。地図で他の杉山神社も数社確認しているが、出不精で未だにお参りしていない。

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2017年1月14日 (土)

三隅神社の厄よけ石

◆厄よけ石の伝説

 浜田市三隅町の三隅神社は南朝の忠臣・三隅兼連(かねつら)を祀る神社だが、境内に厄よけ石と呼ばれる岩がある。

島根県浜田市三隅町の三隅神社・拝殿

浜田市三隅町の三隅神社・厄よけ石

浜田市三隅町の三隅神社・厄よけ石の由緒

元亀元年(一五七〇)三隅城落城の時、城主隆繁は幼少の愛児梅千代を郎党惣蔵、乳母お房に守らせ、真言の霊場大麻山尊勝寺へ逃がした 夜陰にまぎれて城を脱出したが、正法寺谷で敵に発見され 惣蔵は敵と渡り合って討死に その間にお房は、梅千代を抱き 谷川の石橋の下に隠れて難を逃れた そのとき石橋に使用されていたのがこの石で、以後、人は厄よけ石としてあがめている その後 東平原を通って尊勝寺に駆け込んだお房は、梅千代を法印に頼み、直ちに引き返し われ一人なりと追っ手の中に果てた 乳母が塚が室谷地内の旧道のそばにある 梅千代は大成して 尊勝寺中興の祖良海法印と仰がれ 彼が描いた大麻山諸伽藍坊中絵図は 県の重要文化財に指定されている

◆三隅氏

 三隅城落城とあるので、三隅氏が滅んだ際のお話だろう。三隅隆繁は尼子方について毛利方と戦った武将とのこと。浜田市の伊甘郷を拠点とした御神本(みかもと)氏から益田氏、三隅氏、福屋氏と分かれ、三隅氏と福屋氏は後に滅亡している。

浜田市三隅町の三隅神社・ご由緒

◆大麻山

 大麻山の尊勝寺は廃仏毀釈の時代に倒壊して再建されず現存しないが、現在そこに庭園が設けられている。

島根県浜田市三隅町の大麻山・庭園

島根県浜田市三隅町の大麻山・庭園

◆三角神社

 三隅町三隅の三角神社は佐々木桜で知られるが、御神本氏所縁の神社なのだろうか。写真に「御神本大明神」とある。三柱の石は御神本氏三代を示しているのだろうか。ネットで検索しても分からないこともある。

島根県浜田市三隅町の三角神社・遠景

浜田市三隅町の三角神社・拝殿

浜田市三隅町の三角神社・本殿
御神本大明神とある。
浜田市三隅町の三角神社・三柱の石

島根県浜田市三隅町の佐々木桜
佐々木桜

◆太平記
 太平記で三隅氏(三角氏)に言及した箇所をピックアップしてみる。太平記は現代語訳で楠正行の死のところまでしか読んでいないので、後半にも三隅氏の活躍する場面はあるかもしれない。

 そうした間に帝は舟上山にいらして、軍勢を召すと聞こえたので、国々の兵どもが引きも切らず馳せ参じた。まず一番には出雲の守護佐々木塩治(えんや)判官高貞(たかさだ)が一千騎で馳せ参じた。二番には冨士名三郎が二百騎で馳せ参じた。三番には朝山(あさやま)二郎景連(かげつら)・金持(かなち)大和守、大山(だいせん)の衆徒に至るまで、数を尽くして参上した。これを聞いて、石見国には武田十郎義政(よしまさ)・沢・三角(みすみ)、安芸には熊谷(くまがや)・小早川(こばやかは)・美作(みまさか)には菅家(くわんけ)・江見(えみ)・渋谷・垪和河(はがかは)、備後には江田・広沢・宮・三吉(みよし)、備中には新見(にいみ)・成合(なりあひ)・那須(なす)・三村・小坂(こさか)・川村・庄(しやう)・真壁、備前には今木(いまき)・大冨(おほとみ)・和田・射超(いぬこし)・藤井・児嶋(こじま)・和気(わけ)・石生(をしこ)、この外(ほか)四国・九州の兵どもが聞き伝え聞き伝え、我先にと馳せ参じた。
・「太平記1 新編日本古典文学全集54」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1994)pp.367-368

 現代語訳太平記では以下の通りである。

 これだけではない、石見(いわみの)国では、沢・三角(みすみ)の一族、安芸(あきの)国では熊谷(くまがえ)・小早川(こばやかわ)、美作(みまさかの)国では菅家の一族・江見・方賀(はが)・渋谷・南三郷(みなみさんごう)、備後(の)国では江田(えた)・広沢・宮・三吉(みよし)、備中では新見(にいみ)・成合(なりあい)・那須・三村・小坂・河村・庄・真壁、備前では今木、大富(おおどみの)太郎幸範(よしのり)・和田備後(の)二郎範長(のりなが)・知間(ちまの)二郎親経(ちかつね)・石生(おしこ)彦三郎など。
「太平記 上 新装版日本古典文庫14」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)p.137 巻七

またそのほかの軍勢では、筑紫に菊池・松浦鬼八郎・草野・山鹿・土肥・赤星があり、四国には土居・得能・江田・羽床(はねゆか)、淡路に阿間(あま)、志知(しうち)、安芸に有井、石見には三角(の)入道・合四郎がおります。
「太平記 下 新装版日本古典文庫14」218P 巻21

◆余談

 三隅神社はツツジの名所。三隅公園には子供の頃行った記憶がある。

浜田市三隅町の三隅神社・鳥居

 また、三隅神社は映画「天然コケッコー」のロケ地ともなった。ヒロインのそよがキスするシーンは確か三隅神社の境内でなかったか。他、神楽を見物するシーンも三隅神社の神楽殿だと思われる。

浜田市三隅町の三隅神社・神楽殿

 太平記は読んだことがない。平家物語は小学館の子供向け文学全集に収録されていたので何度も読んだのだけど、太平記はそういうことがなくて、ここまで来てしまった。「大楠公」や三隅兼連を取り上げた神楽の創作演目もあるので、いずれ読んでみたい。

◆参考文献
・「太平記1 新編日本古典文学全集54」(長谷川端/校注・訳, 小学館, 1994)pp.367-368
・「太平記 上 新装版日本古典文庫14」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)
・「太平記 下 新装版日本古典文庫15」(山崎正和/訳, 河出書房新社, 1988)
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.101-102.

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城上神社の亀石――大田市石見銀山

◆はじめに

 石見銀山(大田市大森町)の城上神社の境内に亀石と呼ばれる岩がある。

島根県大田市の石見銀山の城上神社
城上神社の亀石
亀石の伝説

◆亀石の伝説

 その昔、延喜年間(一〇〇〇年くらい前)城上神社が仁摩町馬路の城上山に有った時、海防の神と崇められ崇敬者から珍しい貝の化石の有る石と海亀の姿の石を奉納して海の安全を祈った。
 永享年間当神社を愛宕山へ遷座したときはこの二つの石は運ばれたが、その後、天正年代現在地に遷座したときに亀石を運ぶことを忘れられた。
 亀石は「自分の甲(亀甲)は、城上神社の紋所だ、行かなければ」と山を下ったが、自らの重さに山の麓の川底へ沈んでしまってどうすることも出来なくなった。
 それからは、その川岸を通ると川の中から不思議な音が聞こえるようになった。
静かな夜だとちょうど小豆をとぐような音に聞こえた。物好きな人々で道端まで上げてみたら亀の形をした石であった。それからは小豆石の名で大正年代まで道端に置かれた。
 この石が或る夜、敬神家である田中某氏の夢の中に出て事の次第を打ち明けて、某氏は早速そのことを宮司に告げて、此処に落ち着くことになった。(城上神社伝記より)

◆城上神社

 城上神社は延喜式内社だが、元は仁摩町馬路に鎮座していたものを十五世紀に大内氏が愛宕山に遷座、その後十六世紀になって毛利氏が現在地に遷座したとのこと。

城上神社・鳥居
城上神社・ご由緒

 主祭神は大物主命。大国主命の幸魂奇魂であり、同一視される。大三輪の神である。

 拝殿内の天井絵が「鳴き龍」で、柏手を打つと天井が共鳴するとのこと。訪問時は気づかず試さなかった。

城上神社・鳴き龍

◆余談

 石見銀山・大森町内にはバスで行けるが、訪問時は世界遺産センターの駐車場に車を停め、遊歩道経由で歩いて町内に向かった。遊歩道なので照明がなく、暗くなると道が見えなくなるので明るいうちに引き返さないといけないが、町内まで約1.5キロメートル、20分ほどの道程なので歩いていけないことはない。城上神社から龍源寺間歩まで約3キロ。石見銀山を往復すると合計約9~10キロメートルほど歩くことになるだろうか、ゴルフをプレイするのと同じ程度に歩くことになる。

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)

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テキストエディタ談義とドキュメント・スキャナ

◆テキストエディタ


 テキストエディタは秀丸エディタを使っている。シェアウェアだけど(Amazonでライセンスキー購入可能)、高機能なので使っている人が多い。Windows標準のメモ帳に比べると遥かに高機能。操作性も良い。HTMLの編集もテキストエディタで行っている。サポートの対応が丁寧なのも高ポイント。

 縦書きにも対応しているが、便利なのはgrepだろう。検索したキーワ―ドで結果が別タブに一覧でずらずらっと表示される。そこからタグジャンプで該当する行に飛べる。
 同一フォルダ内のテキスト検索が可能で、検索性が高く高速なので便利。正規表現も利用可能。乱雑な情報を適当にテキストファイル、フォルダにまとめておくと後で検索が楽。
 アウトライン機能も便利。任意の記号を指定して記事を階層化。文章構造の把握が可能。階層間の移動(カット&ペースト)もできる。
 フリーウェアでgrepのできるのというとサクラエディタか。縦書きには対応していないが、横書きする分には十分な性能である。

◆ドキュメント・スキャナ


 ドキュメント・スキャナは富士通のSCANSNAP S1500を買った。いわゆる自炊(書籍を裁断してドキュメントスキャナで読み込む)用のスキャナとして定番商品だそうだが、実際に使ってみて確かに使いやすいと実感。同梱されたAdobe Acrobat9も便利だ。

 これで図書館巡りして収集した郷土資料のコピーをPDF化した。既に段ボール一杯分あるので探すのが手間になっており、PDF化で効率化を図っている。残念ながらS1500はA4までしかスキャンできない。これからドキュメント・スキャナを買う人がいたら、A3対応のモデルを買うことをお勧めする。

◆モバイル


 モバイル端末としてはノートパソコンではなくポメラDM100を使っている。テキストファイルとCSVファイルしか使えないし、ネットに接続する機能もない。スタンドアロンの機種だけど、ネットに繋がらない環境などで作業する分にはこれで十分なのだ。

 たしか昔一部で人気があったモバイルギアではテキストエディタがインストールされていたはずである。モバイルギアの後継機の様な立ち位置なのだ。
 テキストファイル専用モデルなのだけど、却って汎用性が高いのである。以前WindowsCE機であるカシオのカシオペアを使っていたけれど、ポケットWORDだったか、WORDのサブセット版を使っていた。それで書いた文章はパソコンに取り込む際に一旦変換しなければならず、現在ではもう読むことができない。
 テキストファイル専用モデルということもあり、電池の持ちはいい。DM200では専用バッテリーに変わったそうだけど、DM100は乾電池モデルである。エネループを使っている。乾電池仕様なので、いざというときは近くにコンビニでもあれば容易に調達できる。
 ネットに繋がらないテキストファイル専用モデルだから、セキュリティ機能はなく、DM100本体が盗難されたらアウトである。その辺は用心する必要がある。

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2017年1月12日 (木)

太宰治「葉桜と魔笛」の城下町はどこ?

太宰治の短編「葉桜と魔笛」
 姉である主人公(語り部)の妹は腎結核を患い余命いくばくもない。そんな妹の文通相手の手紙を読んでしまうことで物語が始まるのだけど、この作品、舞台が島根なのである。
父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿った人口二万余りの或るお城下まちに、中学校長として赴任して来て、恰好の借家もなかったので、町はずれの、もうすぐ山に近いところに一つ離れてぽつんと建って在るお寺の、離れ座敷、二部屋拝借して、そこに、ずっと、六年目に松江の中学校に転任になるまで、住んでいました。
島根県の城下町というと松江と浜田と津和野だろうか。松江には言及されているので松江ではない。
あとで知ったことでございますが、あの恐しい不思議な物音は、日本海大海戦、軍艦の大砲の音だったのでございます。
あの海岸の城下まちにも、大砲の音が、おどろおどろ聞えて来て、まちの人たちも、生きたそらが無かったのでございましょうが、
日本海海戦の砲撃音が聞こえたとあるので、津和野ではない。すると浜田だろうか。浜田なら聞こえたはずだ。「日本海に沿った」「海岸の城下まち」だし。ただ、当時の浜田が人口二万人程度だったのか不明。
作品の舞台が島根のどこであろうと、この作品の本質とは関係ないのだけど、魅力的な短編でもあり、舞台が具体的にどこと想定されるのか探りたくなる。
『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』(光文社・松本侑子著)が新田次郎文学賞を受賞!!
http://www.zasyo.jp/KOINOHOTARU.HTM
因みに太宰の妻石原美知子は、石原初太郎・くらの四女として島根県那賀郡浜田町(現在の浜田市)で生まれている。父の初太郎は山梨県出身の地質学者で、当時島根県の中学校で校長を務めていた。短編『葉桜と魔笛』は島根を舞台に書かれている。美知子は良妻賢母型の女性として太宰を支えた。
とある。なので浜田がモデルというところだろうか。地元の人なら日本海海戦の砲撃音を聞いていただろうし、それを太宰に伝えていたとしても不思議ではない。
この作品は「能登麻美子おはなしNOTE」という文化放送のネットラジオで朗読されたことがきっかけで知った。太宰の作品に触れるのは高校生以来。面白いとは分かっているのだけど、中々手がでなかった。今はこうして青空文庫で読むこともできる。便利な時代だ。
ちなみに、東京都の「教育研究心研究報告書・国語」(高等学校・平成10年度)という資料には
教材の「葉桜と魔笛」はよく知られた作家の手になる短編小説であり、読書量の少ない生徒でも関心をもちやすいと考えた。(12P)
とある。読書量のめっきり減った自分には耳が痛い。

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大達茂雄とかわいそうな象

土家由岐雄「かわいそうなぞう」という有名な童話がある。太平洋戦争下の猛獣の殺処分を題材にしたものだけど、この殺処分の命令を出した初代東京都長官である大達茂雄は浜田出身の人である。

「かわいそうなぞう」の粗筋は、太平洋戦争時、米軍の空襲が危惧されるようになった。空襲時に猛獣が逃げ出さないよう殺処分が命令された。それに従って猛獣の処分が進められていったが、三匹の象は毒の入った餌を食べなかった。このため餌を与えず餓死させることにした。飢えた象たちは芸をして餌をねだったが与えられなかった。とうとう象たちは餓死してしまったという内容。

僕自身、小学校の授業で取り上げられた記憶があるが、そのときはまさか浜田出身の人が関わっているとは思いもしなかった。

Wikipedia戦時猛獣処分の項によると下記の通りである。
大達は、都長官着任前には日本軍占領地のシンガポールで軍政を担当していたため、戦況の悪化を熟知しており、疎開などの本土空襲対策に熱心であった[5]。猛獣処分を命じた大達の真意について、上野動物園長だった古賀忠道は、被害予防というよりも国民の危機意識を高めることにあったのではないかと推測しているが[6]、明確な史料が無く真相は不明である[7]。
飼育係の菅谷吉一郎は、気性の荒いジョンは処分は仕方ないと思っていたが、気性が穏やかで性格も優しかった「トンキー」と「ワンリー」(別名「花子」)は何とか救ってやりたいと、福田園長代理に懇願したという。後述のように福田も、トンキー達を救う為に他の動物園への譲渡を検討したが、大達の反対で潰える事となった。
大達茂雄 | 近代日本人の肖像 - 国立国会図書館
大正5年(1916)東京帝大法科大学卒。内務省に入り、医務課長、行政課長等を経て、昭和7年(1932)福井県知事。11年満洲国総務庁長に就任したが、関東軍と対立して辞任。北支方面軍付となり、内務次官、昭南特別市(シンガポール)長、初代東京都長官などを歴任。19年小磯内閣内相。戦後戦犯容疑者として巣鴨に収容、22年釈放。28年参議院議員に当選。29年第5次吉田内閣の文相として、反対運動の中、教育二法(「教育公務員特例法の一部を改正する法律」、「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」)の成立に全力をあげた。
大達茂雄の経歴を見ると、要職を歴任していて有能な官僚だったことが窺える。その経歴の中で特に注目されることが、戦後、文部大臣を務め、教育二法を成立させていることである。

Wikipediaによると教育二法の概略は以下の通りである。
政治色を帯びるデモ行進や集会に公立学校の教育関係職員が参加する事、また生徒学生に参加を呼びかける事を規制し、これに抵触した場合は懲戒処分する旨定めた規定である。
このことからして、当時の文部大臣たる大達茂雄は日教組の仇敵と呼んでもよい存在だったことは疑いようがない。評価の難しい人だが、この人が悪く言われるのは、そこら辺も大きく関係しているのではないか。

◆余談

学生時代、教職課程を履修した。教育史も履修したのだけど、参考書は日教組寄りの立場で書かれたもので、明治暗黒史観とでも言うようなものだった。実際、10年おきに戦争をしていたのだから苦しい時代だったことは疑いようがないが、明治暗黒史観では戦後の躍進が説明できない。

戦後教育史は文部省と日教組の暗闘史。戦後教育史を読むと、どうしてこんなことで争っているのかと首を傾げるような事例が結構ある。教員の政治的中立もそうだろう。それがそうでなかった時代もあるということである。

政治的な内容なので、アップロードするか否か考えた。が、負の歴史にも触れておくべきだろうか。

大達茂雄の痕跡は現在でも残っている。校訂石見神楽台本に「敬神」と文部大臣の肩書で書を残しているのだ。

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2017年1月10日 (火)

ロケ地探訪:呉の場合

住宅地の聖地巡礼やめて 「この世界の片隅に」監督、異例のお願い
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-287665/

アニメ映画「この世界の片隅に」では戦中、広島から呉に嫁いだヒロインの物語がほのぼのと繰り広げられるのだけど、そのロケ地訪問について注意が喚起されているという話。舞台のモデルとなった地区は観光地ではなく住宅地で無用のトラブルが発生するかもしれないから避けて欲しいとのこと。

実際行くなと言われても、あの景色を眺めたい(山の中腹から呉の港が一望できる)という誘惑に駆られてしまいそうではある。

「この世界の片隅に」ポスター

「この世界の片隅に」は緻密な時代考証がベースになっている。父が終戦間際、呉にいたらしいのだが、実際どうだったのだろうと思っている。何でも手を怪我して出征しなかったとか。なお、広島の原爆で大叔父が亡くなっているとのこと。

「この世界の片隅に」は良い映画なので、一見の価値あり。もう島根県には映画館が数か所しかないけれど、広島で上映しているだろう。

映画やドラマ、アニメ等のロケ地訪問は聖地巡礼と呼ばれて、重要な観光資源となっている。島根県石見地方だと「天然コケッコー」や「砂時計」がそう。

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2017年1月 7日 (土)

宝珠院と古田騒動

◆はじめに

浜田市蛭子町の広小路に宝珠院というお寺がある。そこに浜田藩・古田家の第二代藩主・古田重恒の墓がある。

浜田市蛭子町の広小路・写真奥が宝珠院
浜田藩第二代藩主・古田重恒の墓
浜田藩第二代城主古田重恒侯墓所と宝珠院・解説

◆古田騒動

「新編物語藩史 第9巻」(新人物往来社)浜田藩の欄によると、重恒は結核を病んでから引きこもり、重臣にも姿を見せず、ただ近習の山田成高(なりたか)だけが身辺にはべっている状態だった。成高が重恒の身辺を独占、重臣たちは成高の進言を拝するだけで重恒の病状については知らされていなかった。

あるとき山田成高は重臣たちを呼んで、重恒が乱心したと告げた。そこで重臣たちは諌止のため翌日登城することにした。ところが成高は一方で重恒に重臣たちが重恒の廃立を企てているとして誅殺すべしと吹き込んだ。成高の讒言を入れた重恒は賛意を表し、成高は武士数人を邸内に待ち伏せさせた。

登城した重臣四人のうち三人が凶刃に倒れたが、一人が難を逃れた。この日に重恒は死んだとされている。重恒に嗣子がいなかったことと、この事件が明るみに出たため、古田家は二代で改易となった。

山田成高は重恒の寵臣であり一千石の禄を拝していたことから、重恒の死で殉死すること、高禄を失う事を恐れて、この挙に出たとされている。

……といった内容が古田騒動の概略である。これは異説のようでWikipediaには40歳を過ぎても重恒の跡継ぎがいないため改易を恐れた家老が同じ古田一族の万吉を養子に迎えようと画策したが、それを知った重恒が激怒し家臣らを誅殺したものとされている。

当時は末期養子が認められておらず改易の嵐が吹き荒れていたはずで、Wikipediaの説の方が実態に近いのではないだろうか。

◆余談

寵臣が主君の身辺を独占する、これを読んで司馬遼太郎「項羽と劉邦」で秦の始皇帝が亡くなったあと宦官が実権を握ったことを連想した。嗣子なくして死すれば改易の状況下で死に瀕した主君から家臣たちを遠ざけるといったことが実際あったのだろうか。

◆参考文献

・「新編物語藩史 第9巻」(新人物往来社, 1976)※浜田藩の執筆者は矢富熊一郎。

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蟹淵と淵の主

◆はじめに

 深い淵に住む魔蟹の伝説が隠岐の島にある。「離島の伝説」(角川書店)では「年老いた木樵りと魔蟹」というタイトルで再話されている。

◆あらすじ

 西郷町中村の元屋地区の話。この地区を流れる安長川が元屋川に合流する手前に蟹淵と呼ばれる深い淵があった。蟹淵の周囲は深い森で覆われていたが、誰一人そこに近寄ろうとはしなかった。
 一人の年老いた木こりがいた。彼は島後の誰よりも森に詳しかったが、蟹淵に近づいたことはなかった。それは何時からか、淵に魔物が住み着き、人が近づくと引き込んで二度と帰さないと言われているからである。実際、木こりの幼ない頃、元屋の富豪の娘が蟹淵で行方不明になっていた。その娘は幼い木こりを可愛がってくれた人で、木こりはよく憶えていた。
 ところが、蟹淵周辺の大木を自分の手で伐りたい。あの淵に魔物がいるなんて誰が信じるものかという欲求が湧いてきた。そこで木こりはこっそり蟹淵に出向いて、そこの木を伐ろうとした。
 誰にも内緒で蟹淵に赴いた木こりであったが、意を決すると、杉の大木を斧で伐りはじめた。ところが、手が滑って斧を淵の中に落としてしまったのである。困っていると、水の中から水煙と共に泡が湧いてきて大きな蟹の爪が浮かんできた。本当に魔物がいたか、恐ろしくなった木こりは引き返そうとしたが、そのとき「お待ちください」という美しい声がした。振り返ると、美しい娘が水面に立っていた。
 娘は淵の主であったが、魔蟹に悩まされている。今、木こりの投げた斧で片腕がとれた。もう一度投げて欲しいといって木こりの斧を返した。
 そこで木こりがもう一度斧を投げ入れると、水煙が起こり水の泡が浮いた。果たせるかな、魔蟹のもう片方の腕も切り落としたのである。
 これで魔蟹は力を失ったと喜んだ娘はお礼に木こりの斧と共に巻物を手渡した。数日後、河口に大きな蟹の死骸が打ち上げられた。それで人々は淵を蟹淵と呼ぶようになった。
 娘は水神様に違いない、それで人々は淵の周辺の木々を伐ることを遠慮した。
 木こりがもらった巻物を困ったときに読むと解決法が記されており、木こりの家は段々と裕福になっていった。木こりは長生きしたという。
 木こりが会った淵の主は昔蟹淵で姿を消したあの娘に違いないと思ったが、確かめる術はなかった。

◆ほのかな想い

 蟹淵の主は美しい娘だが、もしかすると木こりが幼い頃可愛がってくれた娘の生まれ変わりかもしれない。幼い男の子が年上の娘に抱くほのかな憧憬が感じられる。

◆金の斧

 木こりが手を滑らせて斧を泉の中に落としてしまう。すると泉の主が現れて金の斧を差し出すが、「それは自分の斧ではない」と答えると、「お前は正直者だから」と斧を返してくれるばかりでなく金の斧もくれたという話はイソップ寓話などで知られている。「蟹淵」もそのバリエーションの一つであると考えられる。

◆零落した姿

 魔蟹も元は神であったが、零落して今の姿となったという解釈もあるようだ。

◆アニメ

 隠岐の島の蟹淵の伝説は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:山田みちしろ、脚本:沖島勲、美術:海老沢一男、作画:山田みちしろ。

 昔々、隠岐の島は西郷町の中村に一人の年取った木こりの頭がいて、島後地区の森林については誰よりも詳しかった。そんな木こりにもまだ行ったことのない場所が一か所あった。そこには杉の大木が林立しているのに誰もが恐れて近寄らなかった。杉林の周辺に深々と満面に水を湛えた淵があったが、いつの頃からか魔物が住み着き、近づく人を淵に引きずり込むと言われていたからだ。
 齢六十を超えて、木こりの心境に変化が訪れた。あの深い杉林の大木を自分の力で伐りたいと思うようになっていた。
 ある日、木こりは誰にも内緒で杉林へと出かけていった。一本の杉の大木に目をつけ伐りはじめたが、木は固く、思わず手を滑らせてしまった。そのとき何者かの悲鳴と思しき大音響とともにぐらぐらと水面に泡がたちはじめた。そして馬鹿でかい蟹のハサミの様なものが浮かび上がってきた。
 逃げ出そうとした木こりだったが、「お待ちください」と美しい声が呼び止めた。振り返ると、水面にうら若い美しい娘が斧を抱きかかえながらたっていた。娘はこの淵の主だというが、いつからかこの淵に住み着いた蟹によって囚われの身となっている。今木こりが投げた斧で蟹の片腕が切り落とされた。もう一度斧を投げて蟹のもう片腕も切り落として欲しいと頼んだ。
 ところが怖れをなした木こりは家に逃げ帰ってしまった。が、娘のことを哀れに思った木こりは翌朝再び淵へと出かけていった。そして娘から斧を受け取ると、淵の中に入っていった。とうとう巨大な蟹が現れた。思わず逃げ出したきこりだったが、大蟹が岩の間に爪を挟んでもがいているのに気づくと、斧を一閃した。見事蟹のハサミを切り落とした木こりだった。すると娘が現れて、蟹は退治された。もう人を襲うものはいないから安心して木を伐ってよいと告げた。数日後、安長川の河口にハサミの無い大きな蟹の死体が打ち上げられた。
 頭の話を聞いた木こりたちはそれから淵近くの杉林の木も切るようになった。ただし、淵の主に失礼があってはいけないと淵の周りだけは切らないようにした。それで今でも鬱蒼とした杉林が淵の周りを覆っている。人々はその淵を蟹淵と呼ぶようになった。

 ……という内容。淵の主が昔行方不明となった娘かもしれないということには触れられていない。

◆柳田国男「桃太郎の誕生」

 柳田国男「桃太郎の誕生」(角川文庫)に、
 たとえば何心なく斧を淵に取り落としたところが、それは水の神のこの上もなく感謝することであり、日ごろ水底にあって暴威をふるう大蟹の足を斫り、退治してくれたのはまことにありがたいと、出てきて礼を言ったという話などでも、その主は若い女性であった。(63-64P)
 とあり、これは隠岐の蟹淵伝説のことと思われる。少なくとも昭和初期には採録されていたようだ。

◆余談

バケツの中の沢蟹

 写真の蟹は沢蟹。家の片隅で泥だらけになってじっとしていたのを家族が拾った。もと居た川に返したが、果たして生き延びたか。そのとき、すぐ近くに数センチはあろうかという蟹の姿が見えた。そこら辺の主かもしれない。

◆参考文献

・「日本昔話大成 第6巻 本格昔話 五」(角川書店, 1978)pp.41-47 ※黄金の斧収録
・「日本昔話通観 第18巻 島根」(稲田浩二, 小沢俊夫/編, 同朋舎, 1978)pp.416-417
・「離島の伝説 日本の伝説50」(福田清人・諸田森二/編, 角川書店, 1980)pp.187-194
・酒井董美「隠岐島の伝説『蟹淵の主』を考える ―横路満治氏収録本と茶山儀一氏の語りの比較を中心に―」「島根大学法文学部紀要 文学科編」(島根大学法文学部/編, 1991)

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城を守った鶴と山吹城――石見銀山の伝説

◆はじめに

 大田市大森町にある石見銀山は世界有数の銀山である。十六世紀になると銀山を巡って山口の大内氏、広島の毛利氏、島根の尼子氏などが争った。

◆あらすじ

 大森銀山の近くには尼子氏が守る山吹城があった。この山は要害山とも呼ばれ、天然の要害の地であった。この山吹城にいつからか一羽の鶴が住み着いた。鶴は可愛がられ、人懐こくなっていた。
 ある年のこと、毛利氏が銀山を奪おうとして大勢で山吹城を攻めた。しかし天然の要害でもある山吹城は容易には落ちなかった。戦いは長期戦になり、毛利氏は尼子方の疲れるのを待っていた。
 五月五日のことである。城の高い松の木のてっぺんに一羽の鶴がとまっていて、その鶴が羽ばたく度に城が高くなったり低くなったりした。城を守ろうとする鶴に毛利方は驚きざわめいた。
 城を攻め落とそうとしていた毛利方は不気味になってしまい右往左往した。困った毛利方は毛利軍中で一番の弓の名人を呼び寄せて鶴を射ることにした。弓の名人は二、三人がかりでようやく引けるような弓を引き絞った。
 矢は狙いを過たずに鶴に命中した。それが合図となって毛利方が攻め上り、とうとう城を落としてしまった。
 その後、五月五日の節句の日に山吹山に登ると、刀で切り合う音や武士の争う声が聞こえるようになったという。そしてその声や音を聞いた者は生きて山から帰れなかったという。
 命をかけて城を守ろうとした鶴は手厚く葬られたということだが、どこに墓があるか分からないとのことである。

 石見銀山の支配権を巡って多くの戦国大名たちが争った。この伝説は十六世紀の話らしい。石見銀山から算出した銀は世界を巡り、世界経済に大きな影響を及ぼした。この伝説は銀山を守る山城にまつわる伝説である。

標識・山吹城跡へ
山吹城跡・登山道
山吹城跡登山口・解説
山吹城・休役所跡
山吹城跡・登山道
山吹城跡・登山道
山吹城跡・登山道・階段
山吹城跡・本丸跡への階段
山吹城・本丸跡・史跡・山吹城址・石碑
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・解説
山吹城・長い階段を下りる
長い階段を下りる
石見銀山の模型
山吹城の模型

◆余談

 落城した五月五日に城に登ってはならないというのは実際現地で言い伝えられているらしい。

 石見銀山を訪れた際に山吹城に登った。途中から長い階段が続き、足の筋肉が痛んでヘトヘトになる。途中、通り雨にも降られて慌ててデジカメをリュックにしまった。足場の悪い処もあり高所恐怖症なので頂上につくとロクに見物しないままに下山した。もうそれだけで体力を使い果たしてしまい、龍源寺間歩や佐比売山神社に行くつもりが途中で引き返してしまった。夏場で汗だくだくとなり、蚊にも悩まされた。真夏に山城に登るのは控えた方がいいのかもしれない。

◆参考文献

・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1978)pp.25-27
・「それぽっちり物語 石見銀山昔話伝説集」(大崎雪枝, 1976)pp.11-14

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長安寺の身がわり地蔵

◆あらすじ

 昔、浜田にとても我がままで贅沢な殿さまがいた。家来たちも始末がつかないので困っていた。ことに女中たちはとても勤めができず、来る女中も来る女中も皆暇をとって帰ってしまった。
 そこで殿さまは門番を呼びつけて「また女中が一人いるから探してこい」と命じた。殿さまの我がままは知れ渡っていたので、誰も女中になってくれず、門番は困ってしまった。
 仕方がないので町をぶらぶら歩いていると、橋の上に十六歳くらいの娘がいた。話を聞くと、田舎から出てきたがなかなか雇ってくれるところがないというので、話をすると喜んで承知したので城に連れ帰った。
 城に連れて帰ると殿さまは娘に「城へ入ったからには決して勝手に城外へ出てはならないぞ」と固くいいつけた。
 娘は人一倍よく働いた。ところがある晩台所の方で物音がするので家来が行ってみると、娘が外へ出るところだった。娘は殿さまの前に呼び出された。
 「勝手に城外へ出てはいけないと言いつけたのに、どうして言う事が聞かれないのか」と詰問すると、娘は「私は殿さまがよい殿さまになられるように毎晩地蔵さまにお願いにいったのでございます」と答えた。
 だが、そんな願いも耳に入れず、殿さまは娘を手討ちにしてしまった。そして家来たちに言いつけて山の中へ埋めさせた。
 ところが翌朝、台所の方で音がするので行ってみると、娘が何事も無かったように働いていた。
 びっくりした家来たちは殿さまに報告、娘を埋めたところを掘り返したところ、そこには何もなかった。ところが近くの長安寺の地蔵さまが頭から斜めに切られて血がたらたらと流れていた。それを聞いた殿さまははじめて娘が地蔵さまであったことに気づいた。
 それからは殿さまはとても良い殿さまになったという。

 浜田藩のお話であるが、誰に相当するのだろうか。長安寺は長安院のことだろうか、現存しないが、松平周防守家墓所が残されていて、遺髪が収められているとのこと。長安院の名は第二代・康重の法名・長安院に由来するとのことで、松平周守家の誰かだろうか。実際には松平周防守家からは幕府の老中を輩出、筆頭老中になった人もいるとのこと。現代の内閣総理大臣に相当する。

◆長安院

 長安院(浄土宗 京都黒谷金戒光明寺末)は浜田藩主松平周防守家の菩提寺であった。長安院の称号は第二代康重の法名「長安院殿」に由来し、同家の転封地宍粟、浜田、棚倉、川越の各地にその菩提所として建立されている。

浜田市蛭子町広小路の奥・階段を上がると久光山八幡宮
蛭子町広小路の奥。階段を上がると久光山八幡宮
標識・松平周防守家墓所
写真奥が松平周防守家墓所
写真奥が松平周防守家墓所
長安院と松平周防守家墓所・解説
 長安院の建物は三隅の龍雲寺に移築されたとのこと。
浜田市三隅町の龍雲寺
龍雲寺・山門
龍雲寺・本堂
龍雲寺
龍雲寺・ご由緒
 長安院は周防守家とともに棚倉に移ったが残された伽藍のうち本堂は三隅の龍雲寺本堂として移築され、今日その遺構を偲ぶことができる。

◆余談

 松平周防守家墓所は蛭子町の広小路、久光山八幡宮の奥に位置する。はじめ松平周防守家墓所の写真をキヤノンIXY DIGITAL 200aで撮ったが、新幹線の中で落としてしまい、再撮影となった。

◆参考文献

・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.273-275

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牛鬼と影ワニ

◆はじめに

 大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(「郷土石見」8号)に「うしおに」「影ワニ」が紹介されている。
 次に同じ石見でも地域によって特色のあることである。石見は日本海に沿った海岸線と中国山地の細長い国である。東部の海岸には「うしおに」「影ワニ」といった海の怪物がいるが、これから西にはいない。
 「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」でも大田から江津にかけての牛鬼伝説が収録されている。

◆牛鬼

 波路浦に一人の漁師がいた。ある日漁に出たが、その日は大漁だった。喜んで帰ろうとすると、海の中から大きな牛の様な怪物が「魚をくれ」と叫ぶのに出くわした。恐ろしくなった漁師は魚を投げてやったが、またしても怪物は「魚をくれ」と叫ぶ。そこで少しづつ魚を投げてやった。そうして港へつくと、急いで家に戻ったところ、怪物は家にまで押しかけて来て「魚をくれ」と叫んだ。困った漁師が「では家の中へ入れ」と言うと、怪物は「お前はお仏飯を食べているから中には入れん」と言って去っていった。これは昔から言われている牛鬼だろうという話になった。

◆濡れ女

 昔、大田の染物屋の主が魚釣りをしていると、魚がよく釣れた。こんなときは濡れ女と牛鬼が出るという言い伝えがあり、それを思い出して帰ろうとすると、濡れ女が出て「赤ん坊を抱いて欲しい」と言って差し出した。前だれで抱くと石の様に重いので、赤ん坊ともども投げ捨てて逃げ帰った。そこである家に飛び込むと、「もう少しだったのに、逃して残念だった」と牛鬼は言い残して去った。

◆徳左衛門のウシワニ退治

 昔、大田市の西の方に五十猛(いそたけ)という町があり、近くに大浦(おおうら)の浜という綺麗な浜がある。ところが、いつの頃からか、この浜にウシワニという化け物が現れ、夜になると人を驚かしたり、干してある網を破ったりして困らせていた。

 その頃、五十猛の大浦に和田徳左衛門(とくざえもん)という男がいた。徳左衛門は身体が大きく力が強く、三度の飯よりも相撲が好きだった。周辺では徳左衛門に敵う者がいなかった。

 ところがウシワニがそのことを聞きつけた。徳左衛門と相撲が取りたいと言い出したのである。このことを伝え聞いた徳左衛門は見たこともないウシワニと相撲を取るのは嫌だと断った。

 するとウシワニは相撲を取らないなら、一生、徳左衛門を困らせてやる。そればかりか五十猛の浜をもっと荒らしてやると暴れまわった。徳左衛門は嫌々ながらも承知しなければならなくなった。

 その日から徳左衛門はウシワニが怖くなって夜も眠れず、食事も喉を通らなくなった。

 そのことを聞いた和尚が心配することはない。正定寺(しょうじょうじ)本尊の阿弥陀如来がきっとお前を守ってくださると教えた。さっそく徳左衛門は阿弥陀如来を信心した。するとあれほど怖れていたウシワニのことが気にならなくなった。

 そしてある日、徳左衛門は和尚にウシワニと相撲を取る自信ができたと告げた。満月の夜に勝負することになった。

 やがて満月の夜となった。徳左衛門は身体を清めて本堂に参り、心を込めて阿弥陀如来を拝んでいると、ウシワニは頭の上がどんぶり鉢のようになっている。この中に海水が入っている。鉢の中に水があるときは力が強いが、水が無くなってしまうと力が抜けてしまう、何とかして水を無くすようにすれば、勝負に勝てるだろうというお告げがあった。

 徳左衛門は和尚と浜辺に行き、静かに待っていた。やがて海の底から湧きたつように波が押しあがると、ウシワニが姿を現した。頭の大きな得体の知れない化け物である。

 徳左衛門はウシワニの前に進み出ると、首を左右に何回も強く曲げた。ウシワニは人間のする挨拶と思ったのか、真似をして首を大きく丁寧に曲げた。曲げている内に頭の水が少しずつこぼれていった。この調子だと身体も大きく曲げてみせると、ウシワニも真似をした。とうとうウシワニの頭の水が無くなった。

 今だと徳左衛門はウシワニに飛び掛かり、足を掴んで投げた。ウシワニはどっと後ろにひっくり返り、起き上がることができなかった。やがて這うようにして海の中へ逃げ込んでしまった。

 徳左衛門は和尚に礼を言って、正定寺の方に向かって手を合わせた。それからというもの、ウシワニは二度とこの浜に現れなくなった。

 ……という内容である。河童と相撲を取る話と同じやり方でウシワニを退治する。

大田市五十猛町・神上の浜

 五十猛の浜は神上(しんじょう)の浜とも呼ばれていて、古代、スサノオ命が息子の{五十猛|いそたける}命らと上陸した地だとされている。

◆アニメ

 牛鬼伝説は「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:芝山努、脚本:沖島勲、美術:亀谷三良、作画:海谷敏久。

 昔、浅利に侍夫婦がいた。元は名のある武士に仕えていたが、今は浅利で読み書きを漁民の子供たちに教えて暮らしていた。ある日米が底をついた。侍は家に伝わる刀を売ってしまおうと考えたが、妻が制止する。そこで米を借りに浅利の村へいくと漁民たちが牛鬼に船が襲われた、退治して欲しいと頼まれる。どうせ思い過ごしだろうと侍は引き受けてしまう。嫌なことを引き受けてしまったと侍は釣りに出かける。その日は魚がよく釣れた。そうしていると日が暮れた。すると赤子を抱いた女が現れ「この子に一尾恵んで欲しい」という。魚を渡すと赤子は生のままあっという間に食べ尽くし「もう一尾恵んで欲しい」と繰り返す。魚が尽きると、今度は腰に挿した脇差を食べてしまった。ようやく侍は女と赤子が人でないと気づくが、女は赤子を侍に抱かせると海に飛び込んでしまう。すると海の中から牛鬼が現れた。女は牛鬼だった。気づくと赤子は石になっていた。と、侍の家にあった刀がカタカタと揺れ始め飛んでいった。間一髪、飛んできた刀が牛鬼の眉間に刺さり、牛鬼は海へと沈んでいった。

 ……という内容。クレジットでは大庭良美・未来社刊とあり「石見の民話」らしいのだが、「石見の民話」に類話は収録されていない。「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」には類話が収録されており、刀が飛んで牛鬼を退治するというモチーフは確認される。

浅利富士と浅利海岸と風車
浅利海岸と風車
浅利町の海岸

 貉工房のまんが日本昔話データベースによると、「牛鬼」の放送年月日は平成1年5月20日。「日本伝説大系」は昭和五十九年発行なので、「日本伝説大系」の方が先となる。もしもアニメ「牛鬼」の方がかなり先だったら、アニメオリジナルの話の展開が牛鬼伝説に影響を及ぼしたかもしれない。しかし、脚本家の沖島氏は既に亡くなっている……などと妄想したのだが、さすがにそれはなかった。
 未来社『日本の民話 34 石見篇』を通読したところ、『石見の民話』第二集の那賀郡の項に「牛鬼」として収録されていた。脇差しがひとりでに抜けて濡れ女の頭に刺さるという展開である。舞台は浅利だが侍ではなく神主であった。つまり大まかな粗筋は民話集に沿いつつ、登場人物の造形を神主から浪人の侍に置き換えているのだ。

◆影ワニ

 温泉津の辺りでは鮫のことをワニという。影ワニがいるという。船が海を走っていると、海に映った船乗りの影を影ワニが呑んでしまう。影を呑まれた船乗りは死んでしまうという。もしも影ワニに見つかったときは、むしろでも板でも海に投げて自分の影を隠さなければいけないという。
 あるとき、ある漁師が影を影ワニに呑まれそうになって、逆に影ワニを撃ち殺してしまった。ところが、その漁師は足に刺さった魚の骨で出来た傷が原因で死んでしまったが、その魚の骨は影ワニのものだという。

◆アニメ

 影ワニ伝説も「まんが日本昔ばなし」でアニメ化されている。演出:白梅進、脚本:沖島勲、美術:門屋達郎、作画:白梅進。

 昔々、石見の国の温泉津辺りでは鮫のことをワニと呼んでいた。ある嵐の晩、村の衆が村長を囲んで酒を飲んでいると影ワニの話になった。海の凪いだ日は船乗りの影が海に映ると、その影を影ワニが食べてしまう。すると船乗りは死んでしまう。だから海の凪いだ日には漁には出てはいけないと村長が諭す。
 その話を迷信だと鼻で笑ったゴンゾウという漁師がいた。この中で誰か影ワニに遭ったものはいるかと訊くと誰も答えない。それは影ワニに遭った者は助からないからだと村長が宥めるのも無視する。
 嵐が去った翌日は海が凪いでいたが、村人たちは村長の言いつけを守り、浜で魚やワカメを干していた。漁師は村長たちが制止するのも聞かず、船を海に漕ぎ出した。村長は影ワニに出会ったら、むしろでも板でも海に投げ込んで自分の影を消すのだと声をかける。
 漁をはじめると、面白いように魚が釣れる。夢中になっていると海の中から大きな影が現れた。影ワニが漁師の体をかじると、そこから血が噴き出た。慌てた漁師は釣った魚を海に捨てはじめた。魚を投げ尽くすと、船底にむしろがあった。村長の言葉を思い出した漁師はむしろを海に投げ入れた。ところが影ワニは去ろうとせず、むしろを食いちぎりはじめた。意識朦朧となった漁師だったが、日が暮れて影が海に溶け込んでしまうと影ワニはついに立ち去った。九死に一生を得た漁師はそれからは村長の言いつけを守り、二度と凪いだ日には漁に出なかった。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.222-231
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.32-38, 271-272.
・大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(雑誌「郷土石見」8号, 石見郷土研究懇話会, 1979)pp.58-71
・平賀英一郎「牛鬼考」「山陰民俗」第55号(山陰民俗学会, 1991)pp.1-14
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.203-214
・『島根の伝説』(島根県小・中学校国語教育研究会/編、日本標準、一九七八)一七七―一八一頁。

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七尾城悲話――益田市の伝説

◆あらすじ

 大谷町野坂村に右田四郎左衛門という分限者がいた。彼の家には大変器量よしの一人娘がいた。また城下第一の呉服屋にも四郎左衛門の娘にも劣らないと評判の娘がいた。呉服屋の娘もこれまた自慢の娘であった。
 当時、お城の殿様に奥方を迎えたいとの沙汰が出て、四郎左衛門の娘と呉服屋の娘が候補となった。奥方は一人であるから殿様に目通りして決めることになった。殿様が気に入ったのは四郎左衛門の娘であった。右田家ではあれこれと調度品を整えたが、衣装だけは城下町一の呉服屋に頼まなければならなかった。
 家臣たちの見守る中、披露宴が行われた。色直しに立ったとき、丸帯から下の晴れ着がバサッと畳の上に落ち、皆があっけにとられた。実は呉服屋の親子が選ばれなかったことを恨み、大恥をかかせようと帯の下を紙で縫い合わせたからであった。
 人前で恥をかかされた娘はいたたまれなくなって城から走り出した。そして気づくと城下にある金山淵のそばに立ち尽くしていた。娘は入水した。すると、竜が現れぐるぐると三、四回淵を巡って天へと昇っていった。
 娘の亡骸はあくる日金山淵に浮かび上がった。悲しんだ四郎左衛門夫婦は淵に近い山際に娘を葬った。娘の墓は五輪の塔のうち幾つかが大手口に近い所に残っている。

 ……という内容。タイトルが「七尾城悲話」なので益田氏が益田を治めていた時代のお話だろう。七尾城には行ったことがあるが、そのような五輪の塔が建っているのだろうか。気づかなかった。

七尾城・水源地
七尾城跡・解説
七尾城・案内図
住吉神社・鳥居
住吉神社・山門
住吉神社・拝殿
住吉神社
益田氏城館跡・解説
標識・本丸跡へ
七尾城・本丸跡へ登る坂道
七尾城・広場
標識・本丸跡と馬釣井
七尾城・本丸跡
七尾城・本丸跡
七尾城・本丸跡へ登る階段
七尾城・馬釣井
七尾城跡・大手の帯曲輪・解説
七尾城跡・本丸・解説
七尾城跡・西尾根曲輪群

◆余談

 益田市の七尾城跡に行く。麓の駐車場(鳥居をくぐると駐車場がある)に車を停めて山に登る。中腹に住吉神社があり、そこの参道がコンクリートで舗装されているのだけど、地面と10センチ近く高低差があって、急に思い立って走ろうとした瞬間に足を滑らせてしまい、空足を踏んでしまった。それで酷い捻挫となって、未だに完治していない。
 2016年の夏に再び七尾城に登る。今度は大丈夫だった。

◆参考文献

・「夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ1」(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.76-78

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蟠龍湖と長者伝説

◆はじめに

 千代延尚壽「石見に頒布する長者傳説」に幾つか石見地方の長者伝説が紹介されている。

◆蟠龍湖の斉藤長者

 万寿年間、高角における当時の長者は斉藤忠右衛門といい、益田に数十町の田畑を持っていた。さて、田植えの季節、斉藤長者の田んぼは一日で田植えを終わらせるのがならわしであった。その年も多くの早乙女たちが田植えに勤しんでいた。と、そこに猿回しの一行がやって来て猿芝居をはじめた。あまりの面白さに早乙女たちは思わず田植えの手を止めてしまった。しばらく後斉藤長者が様子を見にやってくると日が沈もうとしているのにまだ田植えが終わっていない。斉藤長者は大いに怒った。何としても一日で田植えを終わらせねばならに。そこで長者は扇を手にして太陽を二度三度と招いた。すると沈みかけた日が再び戻って田植えを終わらすことができた。ところがその夜、嵐が襲った。大雨に大風に雷、ついには津波が襲ってきて、斉藤長者の田は一面の湖水と化してしまった。それが今の蟠龍湖であり、辺り一帯を長者ヶ原と呼ぶ。

 ……というお話。これは勢威を誇った長者が天の怒りに触れて没落してしまうというモチーフの伝説で、鳥取県の湖山池にも湖山長者の伝説として類話が残されている。

蟠龍湖・ボート乗り場・ボート乗り場
島根県益田市の蟠龍湖
蟠龍湖
蟠龍湖
蟠龍湖県立自然公園・案内図

 万寿三年五月二十三日、地震が起きたとされる。地震の被害は山口県阿武郡から江津市辺りまで及んだとされている。また、この地震の際、柿本人麿の終焉の地と伝えられる鴨嶋が海底に没したとされている。

鴨島(鴨山)遺跡海底調査状況・解説
柿本神社にある鴨嶋と万寿地震の解説

◆浜田市長沢町の長者伝説

 今市から出た大屋氏は下府から浜田まで広い土地を有していた。ところが大屋氏は強欲で、召使い達には菜っ葉の粥しか食わせなかった。あるとき菜っ葉を水に浸していると、誰かがザルを覆してしまった。こんなことが数日続き、長者は怒った。そこで悪戯をしているのは誰かと待ち構えていると、仙人の様な白髪の老人がやってきて、菜っ葉を覆した。そこで長者は弓矢で老人を射た。確かに胸板に命中した手ごたえがあったが、老人は忽然と姿を消してしまった。それから後、老人が長者の夢枕に現れ、我はお前と共に今市からやって来た金神であるが、もうお前とともにあることはできなくなったと告げた。それから家は日ごとに衰え、長者は亡くなってしまった。

浜田市長沢町
浜田市長沢町とJR山陰本線
望遠レンズの圧縮効果で密集しているように見えるけど、長沢町

 この他、「石見に頒布する長者傳説」では餅の的伝説も紹介されている。原典は山城国風土記とのこと。

◆余談

 蟠龍湖に行った際、蟠龍湖の成り立ちを解説した由緒書きがあったと記憶しているが、再び訪れてみると無かった。記憶違いか。益田市誌に掲載されていたのかもしれない。

 長沢町の出であるが、読んで字のごとく長い沢である長沢に長者がいたというのは信じ難い。地主さんはいるが。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.107-108, 150-155
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語研究会/編, 日本標準, 1978)pp.50-56
・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.71-75
・「日本の民話 34 石見篇」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.341-342
・「夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ1」(民話の会「石見」, ハーベスト出版, 2013)pp.154-157
・千代延尚壽「石見に頒布する長者傳説」「島根評論 第六巻上四号(通算五十五号)」(島根評論社, 1929)

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浜田連隊と安来のキツネ

◆はじめに

 「島根県の民話」(偕成社)に「日露戦争にいったキツネ」という現代民話が収録されている。安来のお話であるが、これは旧陸軍浜田連隊のお話でもある。

◆あらすじ

 安来の城山には源太郎ギツネが住んでいる言われていた。相当の年を経た古ギツネで化けるのが上手く、近くのキツネたちの大将だったという。いたずらもしたが、金に困っている人がいると助けたりして「源さん」と親しまれていた。
 さて、明治も終わりに近い頃のことである。日露戦争(1905~1906年)では浜田二十一連隊の兵士たちも満州に出征した。物量ともに勝るロシア軍を相手に日本軍は苦しい戦いを強いられていた。
 ある日、浜田連隊がロシア軍に取り囲まれてしまった。多勢に無勢。全滅は時間の問題と思われた。死を覚悟した部隊の兵士たちだったが、夕闇が降りてきた。ロシア軍の陣地は夕食なのかひっそりとしている。
 そのとき、突然日本軍の後方から勇ましい突撃ラッパが鳴り響いた。驚いた浜田連隊の兵士が振り返ると、馬に乗った部隊を先頭に数知れぬ日本軍がロシア軍めがけて突撃していった。浜田連隊の兵士たちも部隊長の号令で突撃していった。
 ロシア軍を追い払い小高い丘まで来た頃には夜が白々と明けはじめていた。
 部隊の兵士を集めると、命を落とした者はおらず、傷ついた者さえいなかった。連隊長はお礼に行くことにしたが、昨夜の部隊は忽然と姿を消していた。後方にいる本部に問い合わせても、昨夜はそのような部隊は出していないとのことだった。夢でも見たのかと不思議がったが、訳は分からず仕舞いだった。
 安来に戻った者がその話をすると、去年の夏、源さんギツネが城山から姿を消した。おそらく家来たちを引き連れて満州へ渡ったのではないかとのことだった。それで、その兵士は源さんギツネが住むという城山の洞穴に行って沢山のお供え物をしたということだ。 今では源太郎ギツネが出たという話も滅多に聞かれなくなったが、安来の人たちは源さんギツネはどこかで生きていると噂し合っているとのことである。

 明治時代の話なので現代民話に分類されるようだ。明治になってもキツネに化かされる話ではある。この様に説明のつかないことをキツネの仕業とする考えは明治時代でも残されていたようだ。

◆浜田連隊

 浜田二十一連隊は現在の浜田市立第一中学校と島根県立浜田高等学校の敷地等に駐屯していた。当時を偲ぶ石碑が建てられており、浜田連隊の事績も確認することができる。

歩兵第二十一連隊跡・石碑
歩兵第二十一連隊歴史・石碑
歩兵第二十一連隊・石碑
哨舎

◆旧陸軍練兵場

 浜田市立第一中学校には旧体育館と呼ばれる赤レンガの建物があり、元は陸軍の練兵場であるとのこと。現在は卓球部と体操部が練習場として使っている。
旧陸軍練兵場・浜田市立第一中学校
旧陸軍練兵場・浜田市立第一中学校

◆長沢公園

 浜田市長沢町には長沢公園といって主に日清・日露戦争で亡くなった兵士たちの墓がある。周辺の人たちは陸軍墓地と呼んでいる。墓には名前と出生地が刻まれていて、どこの人だったのか分かる。島根だけでなく広島の人もいたようだ。

浜田陸軍墓地(長沢公園)
長沢公園・鎮魂の碑
長沢公園・ドーム
日清日露戦役陣没将卒之碑

◆余談

 浜田市立一中と浜田高校は母校である。長沢公園は幼い頃に遊んだ遊び場であるある。安来とは縁がないが、意外と身近な話に感じられる。

◆参考文献

・「島根県の民話」(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 1981)pp.197-201
・「浜田市誌 上巻」(浜田市誌編纂委員会/編, 1973)pp.345-349

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キュウリの神さまと山辺神社

◆はじめに

 江津市は赤瓦の街並みが美しい町であるが、その中に山辺神宮がある。その山辺神宮にまつわるお話である。

島根県江津市の赤瓦の民家
天領江津本町甍街道・案内図

◆あらすじ

 江川の河口に近い郷田の里に一人の男が病気の母親と二人で暮らしていた。ある日男が江川へ釣りに出かけると、魚がよく釣れた。あまり獲ると川の神さまが怒るのでこれくらいにしようと、釣り道具を片づけはじめていると、川上からキュウリが一本流れてきた。ただのキュウリではない。何かピカピカ光るものが乗っている。
 おや、と思った男がキュウリを拾いあげると、キュウリの上に小さい宮さまの形をした箱があり、中を開けると神さまがお祀りしてあった。
 どうして流れてきたかは知らないが、とにかく家へお連れしましょうと男はキュウリと一緒に神さまを懐に入れ、家に帰った。
 神さまをお祀りして一心に祈った男と母だったが、御利益があったのか、母親の病気がすっかり良くなった。これは神さまのおかげだ。自分たちだけで拝んでいるのではもったいないと庄屋に相談することにした。
 話を聞いた庄屋はそれではと郷田の村の小高い山の上にお宮を建てることにした。村中の者たちが力を出し合って働き、立派なお宮が出来上がった。
 お祭りの日が決まった。その日庄屋が「この神さまはキュウリに乗って来られた。キュウリは神さまの足だ。キュウリをお祭りの日だけは食べないようにしよう」と言った。皆、賛成してお祭りの日にはキュウリを食べないことにした。
 山辺神社がそのとき作られたお宮だという。そして、お祭りの日には今でも辺りの人たちはキュウリを食べないと言われている。

JR三江線から見た江川
JR三江線から見た江川

 江津市の山辺神社(山辺神宮)は式内社の論社の一つとのこと。浜田市旭町和田の八幡宮にも山辺神社があり、類社の一つだとのこと。

島根県江津市の山辺神社・鳥居
山辺神社・山門
階段から見上げた山辺神社・拝殿
山辺神社・拝殿
山辺神社・願い石
願い石

 山辺神社は昭和の時代に大水害に見舞われたとのことで、その所為か建物はコンクリート製である。境内に災害保存太鼓という破れた太鼓が飾られていて、当時の水害の激しさを物語っている。

山辺神社・災害保存太鼓

 「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」によると、「また祇園信仰と習合してゐたため、例祭を挟んで七月一日から十七日までは胡瓜を食べないという風習がある」としている(885P)

 また、特殊神事としてホーランエーがあり、山辺神社の江津祇園大祭礼に合わせて四年に一度執り行われるとのこと。

◆余談

 浜田市旭町の八幡宮周辺は映画「天然コケッコー」のロケ地だったようである。

浜田市旭町の山辺神社・鳥居と拝殿
浜田市旭町の山辺神社・拝殿
浜田市旭町和田の山辺神社。八幡宮の隣に鎮座する。

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.883-885
・「島根県の民話」(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 1981)pp.93-98

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解釈が分かれる――山邊八代姫命

◆はじめに

 大田市には久利町久利と大代町新屋に山邊八代姫命神社があり、共に式内論社とされている。久利町の方が有力。玄松子の記憶という式内社を取り上げたサイトによると、祭神の解釈が幾つかに分かれているようだ。

大田市久利町久利の山邊八代姫命神社・神社前の道路
山邊八代姫命神社
階段から見上げた山邊八代姫命神社
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・ご由緒
久利町久利の山邊八代姫命神社
大田市大代町新屋の山邊八代姫命神社
階段から見上げた山邊八代姫命神社・鳥居と拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
山邊八代姫命神社・拝殿
大代町新屋の山邊八代姫命神社

◆祭神の解釈

 現在のご祭神は天照大神だが山邊八代姫命の解釈が
・単に氏神とするもの
・大己貴命の后神とするもの
・武田折命
 などと分かれるようだ。
社号から、山邊八代姫命であることは明らかだが、山邊八代姫命とはどなたなのかという点で異なるようだ。
 久利町の山邊八代姫命神社の由緒書きでは「山辺八代姫命と申すのは、天照大神の別名で」としている。思うに山邊八代姫命は太陽を祀る巫女で、その神格が天照大神に吸収されたのではなかろうか。

◆二つの社

 神社が久利町久利と大代町八代に分かれているのは、朝山晧「石見國式社考」によると

けれども傳ふる所によれば、この社はもと大江高山の嶺上にありしものだが、山高峻にして登山に不便であつたので、西麓も氏子は里宮を作つて次第に御鎭座地を改めた。八代村新屋の御社が即ちその最終の御鎭座地で、これを前者とする。ところが大江高山の東麓にゐた氏子はいよいよ峻険を越えねばならぬこととなつたので、これは東麓に里宮を作つた。而して此もまた轉々御鎮座地を移して遂に安濃郡久利にまで移つてしまつた。というやうに傳へている。
朝山晧「石見國式社考」(三) 雑誌「神光」第十号所収 48p.


ということの様だ。
 藤井宗雄「石見国式内神社在所考」によると、
祭神はくさぐさあれど信がたし、是は大己貴神の后神ならむ、在所は鬼村といふに在りしが、いつの頃か久利村に移すといへり。小社にはあれど、慶長十三年戊申年三月の棟札あり、元禄年中なるも同銘なり、今の社地はいさゝかにて疑へるもあれど、風土記に姫社とある、正しく是にあたり、其外大己貴神にも由縁ありて此あたりならでは、得あらずおぼゆればなり、類社新屋村の高山といふにあり、是は享保六丑年十月の棟札に、始て山邊八代姫命神社と見えしかど、尚寶暦の頃までも、高山明神と称したり、外に據とすべき事もなく、社は山腹にありて樹木生茂りたるが、彼の山邊の二字と好景とに心ひかれて、誰も此處ならむといへど、無稽の論といふべし。
とある。

◆余談

大代町八代の山邊八代姫命神社は本殿が簡略化されているというのか省略されているのか分からないが、
実は参拝時には気付かなかったが、どうやら、僕が参拝した社殿は拝殿だけらしく、本殿は、山腹にあるらしい。
と玄松子の記憶にある。

山邊八代姫命神社・省略された本殿

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.839-845
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・朝山晧「石見國式社考」(三) 雑誌「神光」第十号所収 48p.

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(番外編)剣神社と大蛇伝説

◆はじめに

 横浜市青葉区荏田町に剣神社というお社がある。「新編武蔵風土記稿 三」(歴史図書社)に寄ると、以下のような伝説が残されている。

横浜市青葉区荏田町の剣神社・鳥居
剣神社・拝殿
剣神社・拝殿

◆剣神社

劔社
村ノ中央字榎木谷ニアリ劔明神と號ス當所ノ惣鎮守ナリ社傳アリ奇怪ノ説ナレトシハラクコゝニノス昔陸奥國ヨリ炭ヲ商フモノ鎌倉へ往来シテ鍛冶ノモトヘカノ炭を賣ルコト年久シケレハ鍛冶モカノ商人カ来ルコト年ヲヘテオコタラサルコトヲ謝シテ己カ作リタル刀一口ヲ贈レリ商人ヨロコヒテコレヲ携ヘ國ヘカヘラントシテ此所ヲスキ泉谷ノ邊リニトゝマリテ路ノツカレヲシハシヤスメントイコヒシニ喉ノカレタリシカハアリアフ泉ヲ掬シテ呑ケルニ酒二酔ヒシカコトク覺ヘス倒レ臥シタリシヲ側ナル松ノ木ノ上ヨリ大蛇ネラヒヨリテ呑ントス時ニ携ヘシ刀自ラ抜出テ蛇ヲ斬殺シケルニソカノモノ危キ命ヲタスカリシトナランヨリテ劒ヲ祀リテ劔明神ト號スト云々コノコト世ニマゝツタフル話ニテイトオホツカナキコトナリ本地不動ノ像今ハ別當観福寺ニ安置セリ本社ニ上屋ヲ設ク五間ニ四間半東向ナリ前ニ石ノ鳥居ヲタツ又水田ノ間二三丁ヲヘタテゝ木ノ鳥居アリ古ハコゝマテモ大門前ノツゝキナリシト云此等ニテモ境内ノ廣カリシコトシラル例祭ハ九月二十七日橘樹郡平村ノ神職来リテ祭事ヲ行フヲ定式トス
 おおざっぱに訳すと、村の中央榎谷にあり剣明神と号す。当所の惣鎮守である。奇怪の説なれどここになす。昔、陸奥の国より炭を商う者、鎌倉へ往来して鍛冶の許へかの炭を売ること年久しかったので、鍛冶もかの商人が来ること、年を経て怠らなかったことを謝して、己が作った刀一口を贈り、商人喜んでこれを携え国へ帰ろうとしてここを過ぎ、泉谷の辺りに留まりて路の疲れをしばし休めようと憩い、喉がかれたのでそこにある泉を掬って飲む。酒に酔ったがのごとく覚え倒れ伏したのを側の松の木の上から大蛇が狙い寄りて呑まんとした。そのとき携えた刀が自ら抜き出て蛇を斬殺した。彼の者危うき命を助かったとなったであろう、よって剣を祀って剣明神と号したと云々。このこと世にまま伝える話であってとても覚束ないことである。本地不動の像は別当観福寺に安置し、本社に上屋を設け五間に四間半は東向きである。前に石の鳥居を建てる。また水田の間に二、三丁を隔てて木の鳥居がある。古くはここまで大門前の続きであると云う。これらでも境内の広かったことが知られる。例祭は九月二十七日。橘樹郡平村の神職が来て祭事を行なうのを定式とする。

剣神社社誌
剣神社社誌

 剣神社の由緒書きでは「この伝説は八俣の大蛇退治の伝説に類似し草薙剣を彷彿せしめるとともに祭神を素戔嗚尊として崇めていることなどからして開拓神ないし農業神として祀られ鎌倉時代の創建になるものと云われている」としている。

◆バクの案内板

早渕川流域にある「バクの案内板」に剣神社の伝説が簡潔に書かれている。
 むかし、鎌倉の刀鍛冶へ炭を売り歩く商人がこの付近を通りかかり、泉の水をひと口飲むとなぜか眠ってしまいました。すると木の上から大蛇が飲み込もうと近付いてきました。そのとき、懐から刀がひとりでに抜き出て大蛇を切り殺したのです。命の助かった商人は、ありがたいこの刀を荏田の村に祀ることにしました。そして、この地に剣神社を建てたということです。
早渕川流域のバクの案内板
バクの案内板・剣神社・解説
バクの案内板・周辺地図

◆余談

 港北ニュータウンには剣神社の他に、杉山神社が鎮座している。杉山神社は五十猛神を祀る社で、鶴見川水系の周辺に三十数社あるとされている。

◆参考文献

・「新編武蔵風土記稿 三」(歴史図書社, 1969)

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2017年1月 4日 (水)

(番外編)小机城址市民の森:横浜市港北区

小机城(小机城址市民の森)は横浜市港北区小机にある中世の城跡。JR横浜線小机駅から徒歩15分ほど。

小机城址・全景

全景。JR横浜線小机駅から徒歩15分ほど。

小机城址市民の森・案内図

小机城址・階段を上る

小机城址・本丸広場へ向かう道

小机城址・本丸広場・標識

小机城址・本丸広場

本丸広場

小机城址・本丸広場

小机城址・本丸広場

小机城址市民の森・案内図

小机城址市民の森・案内図

小机城址・階段を下りて二の丸へ向かう"

小机城址・空堀・竹林の中、二の丸へ向かう

小机城址・空堀・解説

空堀・解説

小机城址・孟宗竹・解説

孟宗竹・解説

小机城址・標識

小机城址・竹林の中を進む

小机城址・二の丸

二の丸

小机城址・二の丸・解説

二の丸・解説

小机城址・井楼跡

井楼跡

小机城址・井楼跡

小机城址・標識

小机城址・櫓台・解説

櫓台・解説

小机城址・櫓台(天倉台)・解説

櫓台(天倉台)・解説

小机城址・櫓台

櫓台

小机城址・土塁・解説

土塁・解説

小机城址・空堀

空堀

小机城址・空堀・解説

空堀・解説

中世の城について・解説

小机城・解説

中世の城について・解説

中世の城について・解説

小机城址・空堀

空堀

小机城址・空堀脇の細い道を行く

小机城址・空堀

空堀

小机城址・広場と祠

小机城址・本丸方面へ向かう道を行く

小机城址・標識

小机城址・根小谷に向け階段を下りる

小机城址・根小谷広場はトイレに

根小谷広場はトイレに

小机城址・富士仙元

富士仙元

小机城址・富士仙元・石碑

パナソニックGX1+ズイコーデジタル14-54mmF2.8-3.5Ⅱで撮影。

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2017年1月 3日 (火)

(番外編)雪の茅ヶ崎城址公園:横浜市都筑区

雪が積もった茅ヶ崎城址公園の写真もアップロードしてみる。雪が積もった方が土塁の形など分かり易いようだ。

雪の茅ヶ崎城址公園・入口

入口

雪の茅ヶ崎城址公園・腰郭と東郭

腰郭と東郭

雪の茅ヶ崎城址公園・北郭

北郭

雪の茅ヶ崎城址公園・北郭から見た中郭の土塁

北郭から見た中郭の土塁

雪の茅ヶ崎城址公園・北郭から中郭へ上がる階段

北郭から中郭へ上がる階段

雪の茅ヶ崎城址公園・虎口

虎口

雪の茅ヶ崎城址公園・空堀

空堀

雪の茅ヶ崎城址公園・西郭

西郭

雪の茅ヶ崎城址公園・西郭

西郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭の土塁

中郭の土塁

雪の茅ヶ崎城址公園・左:中郭へ、右:東郭へ

左:中郭へ、右:東郭へ

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭土橋

中郭土橋

雪の茅ヶ崎城址公園・東郭

東郭

雪の茅ヶ崎城址公園・東郭から見た中郭

東郭から見た中郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭へ

中郭へ

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭

中郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭から見た東郭の土塁

中郭から見た東郭の土塁

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭

中郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭から見た北郭

中郭から見た北郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭から見た北郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭から見た腰郭

中郭から見た腰郭

雪の茅ヶ崎城址公園・中郭の土塁

中郭の土塁

雪の茅ヶ崎城址公園・北郭土橋

北郭土橋

※写真は2014年2月に撮影したものです。リコーGRD3で撮影。

※茅ヶ崎城址公園は横浜市営地下鉄センター南駅から徒歩5~10分。

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(番外編)茅ヶ崎城址公園:横浜市都筑区

横浜市営地下鉄センター南駅沿線には茅ヶ崎城址公園、センター北駅には横浜市歴史博物館と大塚・歳勝土遺跡公園と歴史体験ゾーンとなっている。

茅ヶ崎城址公園は中世の城跡を公園として整備したもので、土塁や空堀など遺構がよく残されている。横浜市営地下鉄センター南駅から徒歩5~10分。

茅ヶ崎城址公園・入口

入口

茅ヶ崎城址公園・中郭の土塁

中郭の土塁

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・解説・全体図

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・年表

茅ヶ崎城址・解説

茅ヶ崎城址公園・北郭

北郭

茅ヶ崎城址公園・北郭から中郭へ上がる階段

北郭から中郭へ上がる階段

茅ヶ崎城址公園・井戸・解説

井戸・解説

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・解説

茅ヶ崎城址公園・虎口

虎口

茅ヶ崎城址公園・虎口

茅ヶ崎城址公園・虎口・解説

虎口・解説

茅ヶ崎城址公園・空堀

空堀

茅ヶ崎城址公園・空堀・解説

空堀・解説

茅ヶ崎城址公園・西郭

西郭

茅ヶ崎城址公園・中郭の土塁

中郭の土塁

茅ヶ崎城址公園・生活・解説

生活・解説

茅ヶ崎城址公園・左:中郭へ、右:東郭へ

左:中郭へ、右:東郭へ

茅ヶ崎城址公園・根小屋・解説

根小屋・解説

茅ヶ崎城址公園・中郭土橋

草で覆われていますが、中郭土橋

茅ヶ崎城址公園・中郭土橋

写真を撮影した時期が異なりますが、中郭土橋

茅ヶ崎城址公園・中郭土橋・解説

中郭土橋・解説

茅ヶ崎城址公園・東郭

東郭

茅ヶ崎城址公園・東郭・解説

東郭・解説

茅ヶ崎城址公園・燃料・解説

燃料・解説

茅ヶ崎城址公園・中郭へ

中郭へ

茅ヶ崎城址公園・中郭

中郭

茅ヶ崎城址公園・郭・解説

郭・解説

茅ヶ崎城址公園・遺構

遺構

茅ヶ崎城址公園・遺構・解説

遺構・解説

茅ヶ崎城址公園・土器・解説

土器・解説

茅ヶ崎城址公園・中郭

茅ヶ崎城址公園・中郭

茅ヶ崎城址公園・土塁・解説

土塁・解説

茅ヶ崎城址公園・中郭から見た北郭

中郭から見た北郭

茅ヶ崎城址公園・腰郭

腰郭

茅ヶ崎城址公園・北部土橋

北部土橋

茅ヶ崎城址公園・北部土橋・解説

北部土橋・解説

パナソニックGX1+14mmF2.5で撮影。

解説類はパナソニックGF2+17mmF2.8で撮影。

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2017年1月 1日 (日)

今年の目標?

あけましておめでとうございます。昨年は神楽の演目「五神」について何か書けないかなと思って資料を読んでいたのですけど、資料を整理していなかったため再度読み直しとなりそうです。今年中に記事が出せればと思っています。

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