« 2015年8月 | トップページ | 2016年7月 »

2016年2月

2016年2月27日 (土)

迦具土――火の神の異伝

◆迦具土

山本熊太郎「江津市の歴史」では序説として「(前略)うち出雲風土記に国来(くにこい)国来と三つよりの大綱を三瓶と大山にかけて北山をひきよせ素尊水道をつくった神話がある。これに対して石見では『狭姫と巨人』『迦具土(かぐと)』などの代表的伝説がある」(1P)とある。

石見を代表する伝説として『狭姫と巨人』『迦具土』の二つを挙げているのだけれど、『江津市の歴史』では『狭姫と巨人』しか触れていない(3-6P)。

石見を代表する伝説といいつつ、他の書籍で見かけないので、一体どのような伝説だろうかと思っていた。

◆記紀神話

迦具土は記紀に登場する神。古事記ではイザナミ命が最後に産んだ神で、その炎で陰(ほと)を焼いてしまい、イザナミ命は命を落としてしまう。怒ったイザナギ命が迦具土を斬ったが、その血と死体から何柱かの神が生じたとされている。

炎

◆那賀郡誌

あるとき「那賀郡誌」第二編(人文)第一章(歴史)第二節(神代)ー(用火紀)に迦具土(かぐつち)に関する記述があるのに気づいた。この伝説は記紀神話とは明らかに異なっている。また、注釈で二宮村、跡市村、有福村に触れているので現江津市の伝説であると思われる。

内容を紹介すると、

(前略)
 要するに、日神の勢力を分け持ちて天下った天使の前には、先住権ある土蜘蛛も容易くひれ伏した。食物は充足され、猛獣襲来の患いも除かれたので、感謝こそすれ、決して敵意を挟まなかった。

 されども、この平和は永久の平和ではなかった。豊葦原!!榛莽(しんぼう:草の乱れ茂ったところ)山野を塞ぎ、蘆(あし)と葦(あし)が水辺に生い茂った地がまさに瑞穂の国と化さんとした時、姫彦族と土蜘蛛族の大衝突が起こった。
 火を神聖視するは、土蜘蛛のみならず、姫彦族自身も、火種を絶たないよう、部族中にひつぎ(傍点)の家を定め、また室外にて火を焚く時は、既に消すのも消す式を行うこと、あたかもも文字を敬う人が宙に指で文字を書いた文字を指で消しおくことのようであった。

 姫彦族は土蜘蛛に対して、煮焼した物を与えども、決して火を与えなかった。それゆえ彼等は火種を得ることに努めた。後に殊勲あった土蜘蛛に火を与えたことはあった。土蜘蛛にとっては火を受けることは現代の爵位を受け華族に列せられるが如くであっただろう。けれども燧石(ひうちいし)でうち出す点火の器具及び方法を授けられることはなかった。さて、姫彦族の大なる主、伊弉諾尊(いざなぎ)、伊弉册尊(いざなみ)の寵を得た土蜘蛛に迦具土(かぐつち)があり、密に婦尊(つまのみこと)に懇請して、遂に打ち火の法を得たが通りだ。

 古書には、迦具土を二尊の子とせり。国土山川を皆二尊の子と書く例だから、今の実子の意と同じか。カク ツチ神は、アイヌ語のケウク トンチ カモイにて、人を殺す穴居神の意味である。(中田薫)
 姫彦族は、土蜘蛛に対して、殊更に迫害は加えなかったけれど、開化の程度が優れていると、続々新来者があると、人口増加率の勝れることから、自然彼らをして、自ら劣敗者として深山幽谷不便の地に退くべく余儀なくさせたが通りだ。

 ここに於いて、迦具土は同族を率いて反抗を企てた。雷名は轟き渡った。彼等は燧火(打ち火)の法によって、火を放って焼き打ちを計ったので、屋内に居を構える人々である姫彦族の狼狽はいかばかりだったろうか。幸いに、姫彦族中、幾分穴居する者があったこと、伊弉諾尊の東奔西走、櫛風沐雨(しっぷうもくう:風雨にさらされて辛苦奔走すること)、ともに艱難と苦労を嘗めてこれを救い給うたことによって、辛くも姫彦族の滅亡の悲運を免れることができた。

 せっかく発達しようとした家屋に起居する風習は、ここから衰え、穴居が再び盛んに行なわれた。郡内二宮村・跡市村、有福村などに火塚と称える穴がある。太古、火雨(ひのあめ)・火風(ひかぜ)が吹いた時、入って難を免れた穴だという。これは迦具土の猛り荒ぶる折のことを指すものだろうか。まことに火風吹いたとしたら、穴の中とて何の効(かい)があろうか。

 伊弉諾尊は、婦尊が、女の口さがなくうっかり秘密をもらし給うたことで、しかる一大事が発生したと思い給うたのだろうか(我々凡人の考えの図るべき限りではないけれど)、涙を呑んで、最愛の婦人を絶妻(離縁)し、憤然と剣を抜いて迦具土と戦い、自らその頭を斬り給うた。

 ああ迦具土! 同族の悲運を座視するに忍びず、朝日が昇るように東天に勢力を伸ばした姫彦族に反抗し、身と首、所を別にするに至ったけれども、その犠牲的精神に感じたのか、積もれる憤りが発したのか、時代思想ともいうべきか、迦具土一人が死して八の迦具土が生じ、火攻(焼き打ち)は土蜘蛛が姫彦族に対する攻撃の慣用手段となった。姫彦族の伝えた火が今ではその患いの種となった。

 されども、ここまで土蜘蛛に対しては真に秘密、姫彦族同族中においてもひつぎの家の外は自ら打ち火せず、公然の秘密だった燧火(打ち火)の法は是より全く開放されたので、後に迦具土と火の神として祀るに至った。(後略)

◆弥生人と縄文人

姫彦族と土蜘蛛の対立は弥生人と縄文人との対立を連想させる。ただ、最近の研究では縄文人と弥生人が互いに協力して国を拓いた事例も見受けられるとのこと。もちろん対立、戦になった事例もあるようだ。

◆余談

那賀郡誌に記載された伝説は禁忌とされた火を与えることで問題が生じるという点でギリシア神話のプロメテウスの神話に似ているかもしれない。
山本熊太郎は島根県出身の地理学者。「伝説や神話を正統な歴史とは勿論思わないが、国土的意識や民族的感情からこれらを捨て去る必要はない。従って石見固有の伝説伝承はこれを書中に収めることにする。」(1P)とあり、大島幾太郎の「那賀郡誌」とのスタンスの違いが見てとれる。

◆参考文献

・「江津市の歴史」(山本熊太郎/編著, 1970)p.1
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覧会協賛会/編, 臨川書店大正5年発行, 1986)pp.69-71

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

|

2016年2月21日 (日)

神上の浜と神別れの坂――五十猛命と大屋津姫命と抓津姫命

◆神上の浜

 島根県大田市五十猛町には須佐之男命が渡来、上陸したという伝説がある。和田珍味本店から見下ろす浜辺が神上(しんじょう)の浜と呼ばれており、ここから須佐之男命と息子の五十猛命(いたける、いそたけるのみこと)が上陸したとされる。

和田珍味本店の神上の浜案内図
和田珍味本店から見た神上の浜
大田市五十猛町の神上の浜
神島
神上の浜より神島を望む
神島
神上の浜

 古事記に登場する大屋毘古神は五十猛命と同一視される。

 猛(たける)の名を持つ神様で、荒々しい印象があるが、日本書紀の一書によると、日本に上陸した五十猛命は日本の各地に木々を植え青々とした大地とした優しい神のイメージがある。

◆韓神新羅神社

 大田市五十猛町の大浦漁港のある入江の西側に韓神新羅神社がある。日本書紀の一書では、新羅から須佐之男命が渡来したという伝説とは逆に、日本から新羅に出かけていく舟を作るための木を生み出す神話も採録されている。
社伝によると、須佐之男命が五十猛命と大屋津姫命・抓津(つまつ)姫命を連れて新羅国に天降り、そこから埴舟に乗って日本に帰るとき、大浦海岸近くの神島に上陸、さらに須佐之男命のみがここに社を作って留まったが、のちに姫神二柱をも併せ祀ったという。
「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」170P
韓神新羅神社・鳥居と拝殿
韓神新羅神社・拝殿
韓神新羅神社・拝殿
韓神新羅神社・ご由緒
スサノヲ神話のあるこの大浦地区には「グロ」という特殊な正月の伝統行事がある。千木と呼ばれる大竹を立て周りに木や、竹や、むしろで円形の仮屋をつくり、その中で火にあたり餅などを焼いて食べると病気をせず豊漁になるという言い伝えがあり、今も守り伝えられている。
標識・グロ国指定重要無形民俗文化財

◆神別れの坂

 JR五十猛駅から西に数百メートル、国道9号線と旧道が交わる交差点に神別れの坂を記念した石碑がある。兄の五十猛命と妹の大屋津姫命(おおやつひめのみこと)、抓津姫命(つまつひめのみこと)とここで別れたという伝説がある。五十猛命は最終的に紀の国に入ったと日本書紀にある。

神別れの坂・国道9号線と旧道が交わる交差点
神別れの坂
神別れの坂
交差点付近の石碑
神別れの坂・石碑
神別れの坂・石碑

 大屋津姫命と抓津姫命とは樹木の神、林業の神とされている。機織りの神様ともある。

 Wikipedia「オオヤツヒメ・ツマツヒメ」の項目によると、「五十猛命と共に素盞嗚尊の命により全国の山々に木種を撒き、紀の国(現在の和歌山県)に戻って住んだとされる。」ともある。日本書紀の記述だと大屋津姫命と抓津姫命も紀の国に入ったと解釈ができるようだ。実際、和歌山県和歌山市に大屋都姫神社がある。

◆神社

 JR五十猛駅から東南に数百メートルのところに五十猛神社がある。五十猛神社は五十猛命と応神天皇を祀り、大屋津姫命と抓津姫命を配祀する。
社伝によると、須佐之男命が五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命と朝鮮半島からの帰途、この地に上陸、五十猛命はここに残って木種を播き殖産につとめ、湊の宮山に祀られたという。また須佐之男命は大浦に留まって韓神新羅神社に祀られ、湊の近くの坂(神別れ坂)で須佐之男命と分かれた姫神二柱はそれぞれ造林や機織などの業をひろめ、大屋津姫命は大屋の大屋津姫命神社に、抓津姫命は川合の物部神社の境外社漢女(からめ)神社に祀られたという。
「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」171P
島根県大田市の五十猛神社・鳥居と拝殿
五十猛神社・拝殿
横から見た五十猛神社
五十猛神社に入る入口
 また、県道289号線を南下していくと大屋町に大屋姫命神社があった。
大屋姫命神社・鳥居
大屋姫命神社・鳥居
階段から見上げた大屋姫命神社
斜め横から見た大屋姫命神社
 抓津姫命を祀る漢女神社(からめじんじゃ)は物部神社の境外社としてあるとのこと。

◆余談

 県道289号線もジャスト一車線の区間が長く、ドライブしていて対向車が来ないか緊張した。一部拡幅工事が行われている区間もあった。

兄と妹が別れるというロマンチックな伝説である。同じ兄妹でも古代だし、同母と異母妹で感情が異なるのではないだろうか。

 2016年夏に物部神社にお参りしたが、漢女神社はどこか分からなかった。

◆参考文献

・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.170-171

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

|

よずくの里と水上神社

◆水上神社

水上神社は島根県大田市温泉津町の式内社である。

島根県大田市温泉津町の水上神社・鳥居と拝殿
階段から見上げた水上神社・拝殿
水上神社・ご由緒
水上神社
 当神社は延喜式内社であり、御祭神は上津綿津美神と上筒男神二柱の海を司る神様が奉斎されております。
 何故海辺でもないこの地にお鎮りなされたのか。伝説によると神代の昔二柱の大神様を始め大勢日本海に船を乗り入れられましたが暴風雨で海上は大荒れとなり、漂着の地が日祖の殿島であったと伝えられております。
 それ以来暫くの間日祖から小浜の浜辺などで製塩や稲作の技法を教えられ、さらに奥地に進まれ上村、飯原を通って、この西田の地に辿り着かれそこに聳える、水上山の姿が気に入られここにお鎮りになりました。
 今日の「よずくはで」はその名残りであり西田や周辺の人々に漁網を干すやり方を取り入れた稲はでの作り方を指導されました。
 秋の稲の収穫期になると「秋の風物詩」として「よずくの里」を訪ねる人は今も絶えません。
ご祭神は上津綿津美神と上筒男神とある。上津綿津美神はワダツミ神、上筒男神は住吉三神の一柱だろう。
然るに伊弉諾神日向の橋の小戸に滌し玉ふ時に坐せる神數多と御子等と共に、御舟にて温泉津日祖浦殿島に上陸し給ひ、小高き所に登り、伊弉諾神其地に鎭座し給ふ。故に地名日祖といふ。祓戸になる神たちとその地にて別れ給ひしにより、其地を今に神別坂といふ。祓戸に生る神たちは、それより小濱村に移り給ふ。時に日暮に及びければ、假りに宿り給ふ。その地を今に假り屋、又假り谷といふ家あり。それより飯原村に至り、饗上げ給ふ故に飯原と云ふ。同村のうちにてこの里に鎭座しては如何といふに、イヤイヤと宣ふ。その地を今にイヤといふ。夫より西田村に至り水上山に二神鎭座し給ふ。これすなはち水上神社なり。
「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」852-853P

◆祭神

wikipedia「ワタツミ」の項によると、イザナギ、イザナミ二神の間に生まれたのがオオワタツミ(大綿津見神・大海神)であり、イザナギ命が黄泉の国から帰って禊をした際生まれたのがソコツワタツミ(底津綿津見神)、ナカツワタツミ(中津綿津見神)、ウワツワタツミ(上津綿津見神)の三神とのことで、総称して綿津見神と呼んでいるとのこと。

この時、ソコツツノオノミコト(底筒男命)、ナカツツノオノミコト(中筒男命)、ウワツツノオノミコト(表筒男命)の住吉三神(住吉大神)も一緒に誕生している。上筒男神は表筒男命のことか。

◆稲はで

よずくはでは稲はでの一種。「よずく」とはフクロウとのこと。刈り取った稲穂をぶら下げて乾燥させる。

横からみた水上神社
銀山街道・よずくの里と張り紙が
こちらのサイトによると、木を三角錐状に立てる方法で、材料が少なくて済み、面積も狭く、短時間で組み立てることができ、風で倒れる心配がほとんど無いとのこと。

◆余談

行ったときは湯里方面から入ったが、道がジャスト一車線しかない道で不安に感じつつドライブした。後で地図を確認すると、石見福光方面から整備された道路が伸びていることに気づいた。

水上神社前の道路
地図で確認したが、水上山がどの山なのか確認できなかった。神社のある辺りでしょう。

 

標識・西田ヨズクハデこれより4㎞先
湯里・霹靂神社近くで撮影。「これより4km先」とある。ここからだと、県道201号線を南下することになる。車幅がジャスト一車線なので要注意。

「よずくはで」の写真はない。できればいつか撮影したいと思うが、機会があるだろうか。秋になると稲はではよく見かけ、よじ登って遊んだりしたが、浜田市内では田んぼがほとんどなくなり、見かけることもなくなった。

◆参考文献

・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.850-853

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

|

« 2015年8月 | トップページ | 2016年7月 »