浜田市における和泉式部の伝説
◆和泉式部
その昔、身重の和泉式部が九州にいる父に会うために西を目指し山陰道は石見路を下った際のお話。下府まで来て急に産気づいた和泉式部。宿を請うが、お産の穢れを嫌う村人に追い出されて、今の生湯町で出産、産湯をつかわしたという伝説がある。生湯町の地名説話でもある。
多陀寺
そのとき詠んだのが
「憂き時は思ひぞ出づる石見潟 袂の里の人のつれなさ」
という歌。
里人の無情を詠んだものとされているが、浜田市誌によると「国歌大観」には見当たらない(758P)、後世の人の戯作ではないかとされている(759-760P)。
また、
「鳴けや鳴け高田の山の時鳥 この五月雨に声な惜しみそ」
という歌も詠んでいる。産後、辿りついた高田山で詠んだ歌とされている。高田山がどこの山か不明。この歌は作者未詳とのこと。
◆三隅町の子落
石見八重葎では
子落の橋
昔和泉式部歌枕修行之時、生湯之里にて子を産ミ此里二落し置九州へ行、其帰る節又此里にてめくりあひ伴い帰りたると云傳ふ。
「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編)119ページ
とある。
子落の地名は現在の三隅町に残っていて、バス停の停留所名ともなっている。産んだ子供を子落で捨て、九州からの帰り道に拾ったという伝説も残されている。
子落の交差点。佐々木桜と三角神社が目印。
子落のバス停。
和泉式部にちなんだ句碑。
和泉式部と子落の由来
平安時代の女流歌人 和泉式部は身重の体で九州肥前に住む 父 藤原資高を訪ねる為 山陰路を下って来ましたが 途中で子供が産まれ 頼る人もなく思い余ってその子を橋の袂へすてて行きました それが 子落の地名となったと伝えられています 捨てた子供の事が気になり再び立ち寄って探し 育ててくれていた人に事情を話して引き取り 京に帰る事が出来ました その子が 小式部です
摂取(とりたて)て 捨てぬ盟(ちかい)は ありと聞けど
吾子をみすみの 今日ぞうれしき
和泉式部がその時のよろこびを歌で残したものです
大江山 いく野の道は 遠けれど
まだふみも見ず 天の橋立
小式部が十二才の時の歌だと伝えられています
実際には、
式部の旅行先きは、和泉・摂津、播磨、丹後の域を出ないとされている。
「浜田市誌 下巻」(760P)
◆余談
伊甘神社や多陀寺にゆかりの伝説でもある。
下府町の伊甘神社
三隅町の佐々木桜
子供の頃は生湯町まであるいて行くこともあったのだけど、産湯をつかわしたという池の存在はしらない。池のようなものの記憶はあるけれど、溜池かもしれない。
和泉式部腰掛岩と言い伝えられるものが現存しているらしく写真も残っているが、場所は知らない。民家の中とのこと。下府の辺りだろうか。
◆参考文献
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.102-105
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)
・「浜田市誌 下巻」(浜田市誌編纂委員会/編, 1973)pp.757-761
・「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.104-111
・「桃太郎の誕生」(柳田国男, 角川書店, 1974)
・『日本の民話 三四 石見篇』(大庭良美/編、未来社、一九七八)二四七―二四九頁。
・『日本の民話 三四 石見篇』(大庭良美/編、未来社、一九七八)二四七―二四九頁。
記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)
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