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2015年6月

2015年6月30日 (火)

エイヤッ

久しぶりに記事を8件ほどアップしましたが、この写真を撮ったのは多くが4年前のことです。長い間書こうと思っていたのですが、カード容量を気にせずに撮れる時代になって、写真の整理が追いつかなくなり、その他(ファイルのリサイズ、リネーム)等も面倒で放置していたのを、エイヤッで書きおろしました。

まだ何件か記事を書けるはずなのですが、これまでコピーした資料をPDF化する方を優先させるべきかもしれません。段ボール一杯分くらいになって探すのに手間取るようになってきました。

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2015年6月14日 (日)

全国に伝播した龍の淵伝説と頼太水伝説

◆頼太水

「島根の伝説」(日本標準)に収録された頼太水という能義郡広瀬町(現・安来市)の伝説がある(135-139P)。

 寛永十二年(1635)、今の能義郡広瀬町布部に頼太と頼次という兄弟が住んでいた。二人は漆の汁をとることを生業としていたが、兄の頼太は怠け者だった。
 布部川の上流には雄渕、雌渕という二つの渕があった。この二つの渕は布部ダムができたため、湖底に沈んでしまった。
 雌渕には漆の木から自然に流れ出た漆が渕の底に沈んでいるという言い伝えがあったが、渕には竜が住んでいるということで誰もとりに行く者はいなかった。
 あるとき、この雌渕の漆をとってやろうと思い立った兄の頼太は、雌渕に出かけていき、潜った。果たせるかな、湖底には大量の漆がたまっていた。それで頼太は大量の漆を集めることができた。
 そのことを知った弟の頼次は竜の祟りを恐れ、頼太に危険なことを止めさせようと考えた。そこで藁で大きな竜の形を作り、湖底に沈めた。
 そのことを知らない頼太は再び雌淵に出かけると、潜った。ところがそのとき、急に天気が悪くなり、大雨が降りだしてきた。三日三晩雨は降り続き、渕の水は布部川に流れ込んでいった。頼太のその後を知る者は誰もいない。
 時が経つうちに、藁の竜が雨を呼び起こし大水を出させたのだろうと語り伝えられるようになった。それ以降、この地方では大水のことを頼太水と呼ぶようになったという。

旧JR浜田駅に展示されていた石見神楽の大蛇
旧JR浜田駅に展示されていた石見神楽の大蛇
これは旧浜田駅舎に展示されていたもの

◆まんが日本昔ばなし

 この伝説は「まんが日本昔ばなし」でも「龍の淵」というタイトルでアニメ化されている。ナレーションで「米良の荘」とあり、宮崎県の伝説が元となっていると思われる。「宮崎県の民話 ふるさとの民話23」(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 1981) に「蛇淵の生うるし」という民話が収録されているとのこと。

 なお、youtubeで動画を視聴した際、コメント欄に国語の教科書に収録されていたというコメントがあったことを記憶している。

◆広く伝播した伝説

 この伝説は能義郡広瀬町(現・安来市)の伝説であるが、これとほぼ同じ内容の伝説は日本各地に伝えられている。「日本伝説大系 第十一巻 山陰編」(みずうみ書房)でも「頼太水」の伝説が収録されている(276-279P)。参考として福井県福井市の同様の伝説が紹介されている。漆器の生産地ということで福井県の伝説が参考例として取り上げられたのかもしれない。

頼太が淵に入ると、大蛇は精気が通い頼太を一呑みにし、水を呼び大雷雨になり、山津波もおこし、布部は大海になり、能義平野の地形は一変したと伝える。世人、大水を頼太水という。歴史学者は、寛文六年、あるいは寛文十三年というが、布部の郷土史では享保十二年といっている。(『安来の歴史』)

 思うに、寛永の頃の大洪水が頼太水の名で記憶され、それに後から藁の竜にまつわる伝説が付け加えられたのではなかろうか。そうすると、どうして頼太水と呼ぶのか別の問題が生じるが。

◆参考文献

・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.135-139
・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.276-279

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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井野と弥九郎霧

◆弥九郎霧

「島根の伝説」(日本標準)に収録された「弥九郎霧」という伝説がある(28-35P)。

 三隅町井野に「弥九郎霧」という伝説がある。紙漉き職人の弥九郎が義憤から庄屋の不正を訴えるが、いざ代官の前で申し開きというときに大麻山の坊さんの法力で口封じをされてしまう。結果、讒言として火刑に処せられてしまうというお話。
 弥九郎の死後、井野は深い霧に覆われるようになり、庄屋たちは家が絶えてしまったという。

浜田市三隅町井野の棚田
井野の棚田
井野の棚田
井野の棚田
井野の棚田

 大麻山の寺はおそらく尊勝寺だろう。碑や墓の写真があるので史実に基づいているようだ。

大麻山の庭園
大麻山・尊勝寺庫裏跡・解説
大麻山・尊勝寺庫裏跡の庭園

「石見の民話」(未来社)に収録された「弥九郎霧」では庄屋が狐をつけて舌を動かせなかったからと説明されている。「島根の伝説」では大麻山に不思議な力を持った僧侶がいたことになっている。

「島根の伝説」では女の髪を漉き込んだ和紙を作り、津和野藩から咎められるといったくだりがある。

 「出雲・石見の伝説」(角川書店)に「石見の和紙哀話」(156-170P)という類話があり、日原の話だが、そこでは和紙に白髪を入れて漉くという内容となっている。いずれも津和野藩の話となっている。

◆余談

 碑や墓の在処が分からないまま記事にする。車で三隅町室谷~井野にかけてぐるっと一周したので、近くは通っているのではないかと思う。
※「石見の民話」(未来社)によると、井野村小原の柚ノ木郷とあるので違うかもしれない。

 浜田市教育委員会に問い合わせれば、碑や墓の位置が分かるかもしれない。
 寺井実郎「三隅地方の神話と伝説」に依ると、弥九郎の実在は定かではないようである。「三隅地方の神話と伝説」では井野の小原にある墓にかかれている柚ノ木役労の名をつかったとある。また、小原小学校裏の高手に役労の墓があるが近年に建てられたものだとしている。戒名は「大道無心大居士」とのこと。(66-67P)

 実際には激しく緊張してしどろもどろになってしまったというところだろうか。そういう経験は何度もしている。なので、最近は電子メールで済ませることが多くなった。そればかりでもいけないのだけれども。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.28-35
・「三隅地方の神話と伝説」(寺井実郎/編, 三隅時報社, 1960)
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.256-258.

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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島の星山と隕石

◆島の星山

 江津市の島の星山(高角山)の中腹に冷昌寺という寺院があり、そこに隕石大明神として貞観十六年(874年)に落下してきたという隕石を祀っている。島の星山の地名の由来ともなっている。

江津市波子町大崎鼻灯台から見た高角山(島の星山)
石見相聞歌の世界・解説図
高角山(島の星山)。大崎鼻灯台より撮影。

「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(みずうみ書房)で「星高山」として収録されている(257-259P)。参考文献として示されており、石見八重葎にも記述があるようだ。

冷昌寺入口から見た島の星山・雲で山頂が見えず
冷昌寺登山口
この日は山頂が見えず。
楽寿観音
楽寿観音が目印。
島の星山と隕石・案内図
隕石落下跡池
隕石落下跡池
隕石落下跡池
隕石落下の池
島根県江津市の冷昌寺
冷昌寺・ご由緒
冷昌寺
隕石大明神
隕石大明神
隕石大明神

「読み下し 日本三代実録(復刻版)上巻 清和天皇」(戎光祥出版)で確認したところ、貞観十六年に隕石が落下したという報告は無かった。残念。

隕石と伝えられる石
隕石と伝えられる石
i隕石と伝えられる石。

 隕石は胃袋の様にも見える。記憶では心臓の様と思っていたのだけど、ちょうど袋の様なかたちをしていたので、記憶違いしたのだろう。

◆余談

 日本三代実録は異体字が多いので、読み下し版を購入した。

◆参考文献

・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.257-259
・「読み下し 日本三代実録(復刻版)上巻 清和天皇」(武田祐吉, 佐藤謙三/訳, 戎光祥出版, 2009)

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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浅利町と浅利姫

◆浅利姫

 今から1000年以上昔、文徳天皇の頃、ある国司が領内を巡察中に近くの海士たちの娘をはべらせたことがあった。その中で歌と舞に秀でた美しい娘がいた。感心した国司が紫の衣一重を与えたところ、

「紫の雲の上衣を何かせん かつぎみのする海士の子なれば」

と詠んだ。感心した国司が都へ連れ帰ろうとすると

「もろともに あさりしものを浜千鳥 ひとり雲井に立ちやのぼらん」

と詠んだ。そこで国司は父母共々娘を都へ連れていき、娘は宮仕えをすることになった。

 浅利神社前近くに江津市農協浅利出張所があり、その裏手の藪に浅利姫の墓と言われる五輪の塔が三個建っているとのこと。
※現在のJAと同じ場所か不明。
※旧浅利保育園の后藪にあるとも。

浅利海岸と風車
浅利海岸と浅利富士

 我が町再発見「海岸宿場町 浅利町を巡る」(建築士会江津支部)というPDF資料によると、
【石光山浅利寺(曹洞宗)】
聖武天皇の治世(724~749)行基菩薩諸国巡歴の際、浅利村に宿り高丸山の山腹に毎夜異様な霊光を認めた。菩薩自ら本尊の薬師如来を刻みこの石の上に安置した。その信仰が四方に広がり行基の没後、天平宝字2 年(758)大檀那浅利姫によって堂宇が建立され、石光山浅利寺と名付けられた。
と、浅利姫の名を見ることができる。ただ、文徳天皇の治世は850-858年までで、時期が合わない様だ。

島根県江津市浅利町・遠景

◆浅利町の歴史

 「海岸宿場町 浅利町を巡る」によると、大国主命が魚貝をこの地に求められ、あさり買が豊富だったところから「あさり」の地名となったとの言い伝えがある。

 江戸時代にはたたら製鉄が盛んになり、享保年間には海岸宿場町として栄えた。また、明治維新後は浅利村となった。大正7年には山陰本線が浅利まで開通、乗り継ぎ客で活気に満ちていたという。大正9年に都野津まで開通するまで、山陰本線の終端であった。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.78-79
・「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)p.1401

・我が町再発見「海岸宿場町 浅利町を巡る」(建築士会江津支部, 2007)※PDF資料、リンク元は失念。

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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染羽天石勝神社と手力男命

◆手力男命

 今の益田市染羽は実は尊場と書くのが正しい。というのは、この土地は初め岩石がそびえており、住むに住めないので皆困っていた。そこで村人たちはより集まって相談、手力男命のお助けに預かろうということになった。村人は一つ所により集って、一心に命を祈念して開削にかかった。すると、その固い岩が易々と穿たれて、仕事が思いの他はかどって一帯の地ができ、村人は大喜びでそこに住むことにした。そして命の御恩を忘れないために、その村を尊場と命名した。尚、そこに命を祀って岩勝神社を建立した。それがいつの間にか染羽となったというお話。

千代延尚壽「石見に頒布せる石神について」に収録された伝説(9-10P)。

 天手力男命は記紀神話・天の岩戸伝説に登場する神。天の岩戸に隠れた天照大御神だったが、外の様子をよく見ようと岩戸をわずかに開けたところ、天手力男の命が天照大神の手をとって岩戸から引き出したとされている。

◆染羽天石勝神社

 石見地方に鎮座する式内社の一つ。主祭神は天石勝命。別当寺として勝達寺が附設・建立された。

島根県益田市の染羽天石勝神社・神門

染羽天石勝神社・本殿

染羽天石勝神社・横から見た本殿

染羽天石勝神社・ご由緒

 益田市誌では当社は元来石神であった(335P)としている。社殿の側に大盤石(注連岩)と呼ばれる巨岩があり、このシメイワが転訛してシミハ(染羽)となりソメハ、ソメバとなったと説明している。元々は巨岩に対する自然崇拝から発したもの。

注連岩と祠

注連岩

染羽天石勝命神社
染羽はソメバと唱ふ、但しシバと訓むも惡からず、祭神は天石門別神ならむと思ふ由あり、但しこ(?)は人の曾ていはぬ事にて、信がたく思ふも有べけれど、文字の似たるのみならず、古く額田部の住しも、近く朝倉村の有も、由ある事なり、在所は上本郷村にて、染羽といふ處の瀧藏大件權現という社なり、
藤井宗雄『石見国式内神社在所考』 「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)p.353

 額田部氏とも繋がりがあるようだ。

(参考)

大祭天石門彦神社
祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348

とあり、藤井宗雄は天石門別命を手力男命と同じ神と見なしていることが窺える。

◆余談

 境内には米原恭庵頌徳碑も建っていた。石西地方で種痘を導入して医療に貢献した人物。

米原恭庵頌徳碑

米原恭庵頌徳碑・解説

 益田東高校が隣接している。

染羽天石勝神社・鳥居

◆参考文献

・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)pp.339-356
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.910-913
・「益田市誌 上巻」(益田市誌編纂委員会/編, 1975)pp.335-336

・千代延尚壽「石見に頒布せる石神について」雑誌「島根評論」第4巻上 第6号[通巻第33号] (島根評論社, 1936, 2-13P)

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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浜田市における和泉式部の伝説

◆和泉式部

 その昔、身重の和泉式部が九州にいる父に会うために西を目指し山陰道は石見路を下った際のお話。下府まで来て急に産気づいた和泉式部。宿を請うが、お産の穢れを嫌う村人に追い出されて、今の生湯町で出産、産湯をつかわしたという伝説がある。生湯町の地名説話でもある。

多陀寺・階段
浜田市生湯町の多陀寺・山門
多陀寺・本堂
多陀寺

 そのとき詠んだのが

「憂き時は思ひぞ出づる石見潟 袂の里の人のつれなさ」

という歌。

里人の無情を詠んだものとされているが、浜田市誌によると「国歌大観」には見当たらない(758P)、後世の人の戯作ではないかとされている(759-760P)。

 また、

「鳴けや鳴け高田の山の時鳥 この五月雨に声な惜しみそ」

という歌も詠んでいる。産後、辿りついた高田山で詠んだ歌とされている。高田山がどこの山か不明。この歌は作者未詳とのこと。

◆三隅町の子落

 石見八重葎では
子落の橋
昔和泉式部歌枕修行之時、生湯之里にて子を産ミ此里二落し置九州へ行、其帰る節又此里にてめくりあひ伴い帰りたると云傳ふ。
「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編)119ページ
とある。

 子落の地名は現在の三隅町に残っていて、バス停の停留所名ともなっている。産んだ子供を子落で捨て、九州からの帰り道に拾ったという伝説も残されている。

浜田市三隅町の子落交差点付近
子落の交差点
子落の交差点。佐々木桜と三角神社が目印。
子落のバス停
子落のバス停。
和泉式部にちなんだ句碑
和泉式部にちなんだ句碑
和泉式部と子落の由来
和泉式部にちなんだ句碑。
和泉式部と子落の由来
平安時代の女流歌人 和泉式部は身重の体で九州肥前に住む 父 藤原資高を訪ねる為 山陰路を下って来ましたが 途中で子供が産まれ 頼る人もなく思い余ってその子を橋の袂へすてて行きました それが 子落の地名となったと伝えられています 捨てた子供の事が気になり再び立ち寄って探し 育ててくれていた人に事情を話して引き取り 京に帰る事が出来ました その子が 小式部です

摂取(とりたて)て 捨てぬ盟(ちかい)は ありと聞けど
 吾子をみすみの 今日ぞうれしき
  和泉式部がその時のよろこびを歌で残したものです
大江山 いく野の道は 遠けれど
 まだふみも見ず 天の橋立
  小式部が十二才の時の歌だと伝えられています
 実際には、
式部の旅行先きは、和泉・摂津、播磨、丹後の域を出ないとされている。
「浜田市誌 下巻」(760P)

◆余談

 伊甘神社や多陀寺にゆかりの伝説でもある。

浜田市下府町の伊甘神社
伊甘神社・ご由緒
下府町の伊甘神社
浜田市三隅町の佐々木桜
佐々木桜・解説
三隅町の佐々木桜

 子供の頃は生湯町まであるいて行くこともあったのだけど、産湯をつかわしたという池の存在はしらない。池のようなものの記憶はあるけれど、溜池かもしれない。

 和泉式部腰掛岩と言い伝えられるものが現存しているらしく写真も残っているが、場所は知らない。民家の中とのこと。下府の辺りだろうか。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.102-105
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)
・「浜田市誌 下巻」(浜田市誌編纂委員会/編, 1973)pp.757-761
・「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.104-111
・「桃太郎の誕生」(柳田国男, 角川書店, 1974)
・『日本の民話 三四 石見篇』(大庭良美/編、未来社、一九七八)二四七―二四九頁。

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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火事の記憶か――犬島・猫島

◆犬島・猫島

 畳ヶ浦の入口近くに二つの小島がある。近い方が犬島。遠い方が猫島という。

 昔、石見国分寺があった頃、往時の国分寺はとても見事なものだったが、その甍の陰が唐の国まで達して日あたりが悪くなってしまった。また香煙が空を覆い、作物が実らなくなってしまったため、唐の人たちは大いに難渋した。
 そこで石見国分寺を焼き払ってしまおうとやってきたのが唐の国から来た猫だった。
 対する日本側は国分寺を焼かせてはならじと犬を出した。争いになった犬と猫だったが、中々決着がつかず、終いに崖の上から落ちて寒い海の中に落ちてしまった。そのまま凍死した犬と猫は島となってしまったというお話。

 犬島・猫島はちょうど唐鐘漁港の沖合にある。唐の字があるので唐の国とつながりがあったのかもしれない。

唐鐘漁港から見た犬島
畳ヶ浦から見た犬島と猫島・写真手前は節理
犬島と猫島

 浜田市誌では、
現代流にこの伝説を介錯すれば、帰化僧と日本僧侶の間に法論があり、何か事件が起こったのではないかとも考えられる。
としている。ただし「あまりに穿ちすぎた説明で」ともある。往時の石見国分寺の壮麗さを称えた伝説とも言えるか。

石見国分寺は現在の金蔵寺境内にあったとされている。石見国分寺跡を解説した図が建てられているが、その中で

浜田市国分町の金蔵寺
石見国分寺跡・解説
金蔵寺と石見国分寺跡・解説
仏像は塔跡の北方60mの溝内部より出土しており、頭部と両腕先端を欠き火災を受けた痕跡がある。
と解説されており、火事があったことが窺える。この火事の記憶が元で犬島・猫島の伝説が生まれたのかもしれない。

◆畳ヶ浦

江戸時代の地誌・石見八重葎では「床の浦」としてその名が見える。

浜田地震と石見畳ヶ浦・解説

1872年(明治5年)、浜田で大地震が起きた。マグニチュード7.1と推定されており、大きな被害をもたらした。この地震で国分海岸一帯が隆起し、畳ヶ浦は現在の姿となったとされている。

ノジュールという団塊が有名で猿の腰掛岩と呼ばれている。また、節理という規則性のある地面の亀裂などがあり、貝殻・フナクイムシの巣の化石等も多く含まれている。

畳ヶ浦のノジュール
畳ヶ浦のフナクイムシの巣の化石

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.94-95, 140-144
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)
・「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「浜田市誌 下巻」(浜田市誌編纂委員会/編, 1973)pp.761-762
・「夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ1」(民話の会「石見」/編, ハーベスト出版, 2013)pp.125-127
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.250.

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2015年6月 5日 (金)

向横田城の邯鄲夢の枕

◆向横田城

「島根の伝説」(日本標準)に向横田城の邯鄲の枕の伝説が収録されている。「ふしぎなまくら」という題で、話中では片木城と呼ばれている。

島根県益田市の向横田城・本丸跡
向横田城から見た風景
本丸跡とそこから見た風景。

◆あらすじ

益田の向横田(むかいよこた)という町に三角山(さんかくやま)(忠魂山[ちゅうこんざん])という山がある。元弘(げんこう)三年(一三三三年)、三角山には片木(かたぎ)城という城があった。城主は領家対馬守恒正(りょうけつしまのかみつねまさ)であり、正利(まさとし)、恒利(つねとし)という二人の子供がいた。兄は片木城を継ぐために城に残り、弟は三星(みぼし)城の城主として、辺りを治めていた。

 ある年のこと、父の恒正が六十一歳になったので祝いの席が設けられた。親族もあつまりにぎやかや祝い事となった。ところが、些細なことから兄弟は言い争いを始めた。一座の者が両者に分かれて祝い事どころではなくなってしまった。父の恒正は喧嘩を止めようとしたが、一向に収まらず、席をたってしまった。

 このことがあってから兄弟はめっきり仲が悪くなってしまった。そのうち父はこの世を去ってしまった。父が亡くなると兄弟の間の溝は深くなっていった。

 兄の正利は片木城主となった。三星城を攻めることを勧める家来もいたが、すぐさま攻め入ることはなかった。しかし、いくら待っても弟の方からは何も言ってこなかった。それどころか三星城の砦を固くして、却って手向かいする様子だったので、とうとう戦(いくさ)になってしまった。

 兄は度々三星城を攻めたが、中々落とせなかった。ある日、正利の妻の直(なお)の方が三星城に伝わる不思議な枕のことを話した。この枕をして休むと三日先のことまで分かるという。城を攻め落とせないのはこちらの策を前もって知られてしまうからだと告げた。

 正利はその枕を手に入れたいと思ったが、たやすくは入らない。三星城では毎年七月の天気のよい日に馬具や鎧を干す。その隙に直の方が持ち帰ろうといった。

 直の方は薄原(すすきはら)城主である斎藤隠岐守(さいとうおきのかみ)の娘だったが、事情があって弟恒利の養女として育てられ、後に兄正利の妻となっていた。

 七月になった。三星城では馬具や鎧を干しはじめた。直の方はこのときばかりと三星城に向かった。恒利の養女であっても今は正利の妻である。心を鬼にして行った。

 恒利と面会した直の方は兄が仲直りしたいと言っていると告げた。それで気を許した弟恒利は、直の方に二三日逗留するよう勧めた。

 虫干しの最中に直の方は床の間に入った。ちょうどそのとき恒利は城中を見回るために座を立っていた。直の方はこのときとばかり、何気ない振りをして、枕を取って袂に入れた。そして枕を自分の荷物の中に入れておいた。直の方は長居は迷惑だろうと断って恒利が城中を見回っている間に帰ってしまった。

 不思議な枕を手にした正利は喜んだ。その枕で休むと、三星城の様子が手に取るように分かった。

 正利はしばらくは三星城を攻めなかったが、年が明けると攻めに掛かった。三星城では驚いた。先手、先手と弱みにつけ込んで攻めてくるので、とうとう三星城は落城してしまった。あの不思議な枕の力があったからだという。


向横田城址公園・駐車場兼公園
向横田城・高いところから見た駐車場兼公園
向横田城・西屋敷跡
向横田城・本丸手前の広場
向横田城址の由来
史跡・向横田城跡・解説
向横田城址遺跡案内図
延文四年(一三五九年)片木城主正利は弟の三星城主恒利を攻めこれを殺したが、このとき邯鄲夢の枕奪取について有名な物語がある。
向横田城址の由来
向横田城址の由来

「邯鄲の枕」で検索してヒットするのは中国の伝説で、向横田城の伝説はヒットしない様だ。

 直の方は薄原城主、斎藤隠岐守の娘だが訳あって恒利の養女として育てられ、後に正利の妻となったとある。この複雑な人間関係が興味深い。

◆余談

 あるブログによると、向横田城の伝説は南北朝の時代が背景にあるとのこと。勝った兄は誅殺(亡くなって家督を継いだと思っていた)。父は生きていたものの、その後謀殺と展開を教えてくださった。イメージがパッと広がる思いだった。

向横田八幡宮・鳥居と横から見た拝殿
向横田八幡宮・拝殿
向横田八幡宮・ご由緒
向横田八幡宮

 向横田八幡宮が目印。八幡宮まで行くと行き過ぎで、数十メートル手前に入口がある。一車線分しか幅がないが、城跡まで車で上ることもできる。訪問時は途中で車を停めて、そこから歩いていった。夏だったので、蚊が酷かったことを記憶している。

向横田城跡入口
Iriguchi_mukaiyokota02
入口。入口から約700メートル進んだところに本丸入口がある。
向横田城跡登山道
向横田城跡登山道
最奥部が城跡公園駐車場になっている。

◆参考文献

・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.42-48
・「夕陽を招く長者 山陰民話語り部シリーズ1」(民話の会「石見」/編, ハーベスト出版, 2013)pp.136-137
・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.110-111.
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.343-345.

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2015年6月 4日 (木)

写真を追加

ブログとホームページ、幾つかの記事に写真を追加。4年前に撮ったもの。もうそんなになるのかとため息をつく。この頃からだったかメモリーが安価になって、いくらでも撮れるようになった。反面、どれを選べばいいのか選定と、ファイルのリサイズ・リネームが面倒になって手をつけていなかった。


ホームページは100MBを超えたので有料オプションを入れて容量300MBまで上げる。ラクーカンの方が安価なのだけど、新たにアドレスを取り直すよりは良いかと考えてのこと。

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