エイヤッ
久しぶりに記事を8件ほどアップしましたが、この写真を撮ったのは多くが4年前のことです。長い間書こうと思っていたのですが、カード容量を気にせずに撮れる時代になって、写真の整理が追いつかなくなり、その他(ファイルのリサイズ、リネーム)等も面倒で放置していたのを、エイヤッで書きおろしました。
まだ何件か記事を書けるはずなのですが、これまでコピーした資料をPDF化する方を優先させるべきかもしれません。段ボール一杯分くらいになって探すのに手間取るようになってきました。
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久しぶりに記事を8件ほどアップしましたが、この写真を撮ったのは多くが4年前のことです。長い間書こうと思っていたのですが、カード容量を気にせずに撮れる時代になって、写真の整理が追いつかなくなり、その他(ファイルのリサイズ、リネーム)等も面倒で放置していたのを、エイヤッで書きおろしました。
まだ何件か記事を書けるはずなのですが、これまでコピーした資料をPDF化する方を優先させるべきかもしれません。段ボール一杯分くらいになって探すのに手間取るようになってきました。
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頼太が淵に入ると、大蛇は精気が通い頼太を一呑みにし、水を呼び大雷雨になり、山津波もおこし、布部は大海になり、能義平野の地形は一変したと伝える。世人、大水を頼太水という。歴史学者は、寛文六年、あるいは寛文十三年というが、布部の郷土史では享保十二年といっている。(『安来の歴史』)
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【石光山浅利寺(曹洞宗)】
聖武天皇の治世(724~749)行基菩薩諸国巡歴の際、浅利村に宿り高丸山の山腹に毎夜異様な霊光を認めた。菩薩自ら本尊の薬師如来を刻みこの石の上に安置した。その信仰が四方に広がり行基の没後、天平宝字2 年(758)大檀那浅利姫によって堂宇が建立され、石光山浅利寺と名付けられた。
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今の益田市染羽は実は尊場と書くのが正しい。というのは、この土地は初め岩石がそびえており、住むに住めないので皆困っていた。そこで村人たちはより集まって相談、手力男命のお助けに預かろうということになった。村人は一つ所により集って、一心に命を祈念して開削にかかった。すると、その固い岩が易々と穿たれて、仕事が思いの他はかどって一帯の地ができ、村人は大喜びでそこに住むことにした。そして命の御恩を忘れないために、その村を尊場と命名した。尚、そこに命を祀って岩勝神社を建立した。それがいつの間にか染羽となったというお話。
千代延尚壽「石見に頒布せる石神について」に収録された伝説(9-10P)。
天手力男命は記紀神話・天の岩戸伝説に登場する神。天の岩戸に隠れた天照大御神だったが、外の様子をよく見ようと岩戸をわずかに開けたところ、天手力男の命が天照大神の手をとって岩戸から引き出したとされている。
石見地方に鎮座する式内社の一つ。主祭神は天石勝命。別当寺として勝達寺が附設・建立された。
益田市誌では当社は元来石神であった(335P)としている。社殿の側に大盤石(注連岩)と呼ばれる巨岩があり、このシメイワが転訛してシミハ(染羽)となりソメハ、ソメバとなったと説明している。元々は巨岩に対する自然崇拝から発したもの。
染羽天石勝命神社
染羽はソメバと唱ふ、但しシバと訓むも惡からず、祭神は天石門別神ならむと思ふ由あり、但しこ(?)は人の曾ていはぬ事にて、信がたく思ふも有べけれど、文字の似たるのみならず、古く額田部の住しも、近く朝倉村の有も、由ある事なり、在所は上本郷村にて、染羽といふ處の瀧藏大件權現という社なり、
藤井宗雄『石見国式内神社在所考』 「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)p.353
額田部氏とも繋がりがあるようだ。
(参考)
大祭天石門彦神社
祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348
とあり、藤井宗雄は天石門別命を手力男命と同じ神と見なしていることが窺える。
境内には米原恭庵頌徳碑も建っていた。石西地方で種痘を導入して医療に貢献した人物。
益田東高校が隣接している。
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)pp.339-356
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.910-913
・「益田市誌 上巻」(益田市誌編纂委員会/編, 1975)pp.335-336
・千代延尚壽「石見に頒布せる石神について」雑誌「島根評論」第4巻上 第6号[通巻第33号] (島根評論社, 1936, 2-13P)
記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)
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子落の橋
昔和泉式部歌枕修行之時、生湯之里にて子を産ミ此里二落し置九州へ行、其帰る節又此里にてめくりあひ伴い帰りたると云傳ふ。
「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編)119ページ
和泉式部と子落の由来
平安時代の女流歌人 和泉式部は身重の体で九州肥前に住む 父 藤原資高を訪ねる為 山陰路を下って来ましたが 途中で子供が産まれ 頼る人もなく思い余ってその子を橋の袂へすてて行きました それが 子落の地名となったと伝えられています 捨てた子供の事が気になり再び立ち寄って探し 育ててくれていた人に事情を話して引き取り 京に帰る事が出来ました その子が 小式部です
摂取(とりたて)て 捨てぬ盟(ちかい)は ありと聞けど
吾子をみすみの 今日ぞうれしき
和泉式部がその時のよろこびを歌で残したものです
大江山 いく野の道は 遠けれど
まだふみも見ず 天の橋立
小式部が十二才の時の歌だと伝えられています
式部の旅行先きは、和泉・摂津、播磨、丹後の域を出ないとされている。
「浜田市誌 下巻」(760P)
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現代流にこの伝説を介錯すれば、帰化僧と日本僧侶の間に法論があり、何か事件が起こったのではないかとも考えられる。
仏像は塔跡の北方60mの溝内部より出土しており、頭部と両腕先端を欠き火災を受けた痕跡がある。
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◆あらすじ
益田の向横田(むかいよこた)という町に三角山(さんかくやま)(忠魂山[ちゅうこんざん])という山がある。元弘(げんこう)三年(一三三三年)、三角山には片木(かたぎ)城という城があった。城主は領家対馬守恒正(りょうけつしまのかみつねまさ)であり、正利(まさとし)、恒利(つねとし)という二人の子供がいた。兄は片木城を継ぐために城に残り、弟は三星(みぼし)城の城主として、辺りを治めていた。
ある年のこと、父の恒正が六十一歳になったので祝いの席が設けられた。親族もあつまりにぎやかや祝い事となった。ところが、些細なことから兄弟は言い争いを始めた。一座の者が両者に分かれて祝い事どころではなくなってしまった。父の恒正は喧嘩を止めようとしたが、一向に収まらず、席をたってしまった。
このことがあってから兄弟はめっきり仲が悪くなってしまった。そのうち父はこの世を去ってしまった。父が亡くなると兄弟の間の溝は深くなっていった。
兄の正利は片木城主となった。三星城を攻めることを勧める家来もいたが、すぐさま攻め入ることはなかった。しかし、いくら待っても弟の方からは何も言ってこなかった。それどころか三星城の砦を固くして、却って手向かいする様子だったので、とうとう戦(いくさ)になってしまった。
兄は度々三星城を攻めたが、中々落とせなかった。ある日、正利の妻の直(なお)の方が三星城に伝わる不思議な枕のことを話した。この枕をして休むと三日先のことまで分かるという。城を攻め落とせないのはこちらの策を前もって知られてしまうからだと告げた。
正利はその枕を手に入れたいと思ったが、たやすくは入らない。三星城では毎年七月の天気のよい日に馬具や鎧を干す。その隙に直の方が持ち帰ろうといった。
直の方は薄原(すすきはら)城主である斎藤隠岐守(さいとうおきのかみ)の娘だったが、事情があって弟恒利の養女として育てられ、後に兄正利の妻となっていた。
七月になった。三星城では馬具や鎧を干しはじめた。直の方はこのときばかりと三星城に向かった。恒利の養女であっても今は正利の妻である。心を鬼にして行った。
恒利と面会した直の方は兄が仲直りしたいと言っていると告げた。それで気を許した弟恒利は、直の方に二三日逗留するよう勧めた。
虫干しの最中に直の方は床の間に入った。ちょうどそのとき恒利は城中を見回るために座を立っていた。直の方はこのときとばかり、何気ない振りをして、枕を取って袂に入れた。そして枕を自分の荷物の中に入れておいた。直の方は長居は迷惑だろうと断って恒利が城中を見回っている間に帰ってしまった。
不思議な枕を手にした正利は喜んだ。その枕で休むと、三星城の様子が手に取るように分かった。
正利はしばらくは三星城を攻めなかったが、年が明けると攻めに掛かった。三星城では驚いた。先手、先手と弱みにつけ込んで攻めてくるので、とうとう三星城は落城してしまった。あの不思議な枕の力があったからだという。
延文四年(一三五九年)片木城主正利は弟の三星城主恒利を攻めこれを殺したが、このとき邯鄲夢の枕奪取について有名な物語がある。
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