門外漢の感想――平田オリザ「演劇のことば ことばのために」
平田オリザ「演劇のことば ことばのために」(岩波書店)を読み終える。180ページほどなので一気に読み終えた。内容の是非はともかく、主観的な立場で書かれた方が読みやすいのも理由の一つかもしれない。 明治時代の近代演劇黎明期から戦後まで演劇史を中心して構成されている。タイトルが「演劇のことば」なのは「どうして演劇は暑苦しいのだろう」という問いから始まっているから。 近代演劇(新劇)の黎明期に活躍した先人として坪内逍遥、島村抱月、小山内薫らが挙げられている。抱月が亡くなるのが55ページ。 演劇のことは全く分からないので、Wikipediaで抱月と小山内薫のページを並べてみた。抱月はスペイン風邪で突然亡くなるのだけど、もう10年長生きしたらどうだったのだろう? と感じる。10歳ほど歳が離れていて小山内の方が若いのだけど、亡くなったのは40代後半でほぼ同じ。小山内の人脈は映画やラジオドラマにも受け継がれていく。 抱月と小山内だと商業性と芸術性という対比で語られるかもしれない(※本著では劇団・劇場名で対比されている)。個人的には俗なものに磨きをかけていってはじめて芸として昇華されるのではという気がして、「商業性/芸術性」という二項対立の図式に持ち込むのがかならずしも正しいと言えない気がする。 翻訳劇のセリフが翻訳調になってしまって日本語としてどことなくこなれていないのは、そもそも文法が異なるからで、これは10年や20年で解決しないのでは。一世紀も前に洋行して帰国、演劇界を主導した先人たちのボタンの掛け違えにしても不毛なのではという感想。 リアルなセリフ、しゃべり方がよいかというと、そうでもない気がする。映画「松ヶ根乱射事件」をDVDで鑑賞した際、何を言ってるのか聞き取りづらくて字幕をオンにした。 日本の教育史とも関わるのだろうけど、音楽・美術と違って演劇ではお抱え外国人教師を雇うことはなかったことが指摘されている。既に歌舞伎・能・狂言がジャンル/興行として確立されていたこと(そのため歌舞伎の改良からスタートした)、また西洋演劇も当時は体系的なメソッドが確立されていなかったこともあるようだ。 また、演劇はプロパガンダと相性がよく、時の政府に危険視されたことも挙げられている。演劇が未だに公教育に組み込まれていないのは、そういう理由もあるのかもしれない。
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