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2013年12月 8日 (日)

抱月先生の現代的意義(?)

島村抱月先生旧居
「島村抱月先生旧居」とある。

島村抱月は近代演劇の黎明期に活躍した文学者。女優・松井須磨子との関係や「カチューシャの唄」で知られている。

おそらく(旧制)中学時代にここで起居して通学していたのだろう。紺屋町商店街の中にある民家で、町に出かけた際はよくこの前を通っていた。郷土の偉人で一世を風靡した人なのだけど、人生の折り返し地点をとうに過ぎた段階でようやく……といったところ。

演劇のことがよく分からない、よく知りたいと思って劇作家・演出家である平田オリザ氏の著書(講談社現代新書)を何冊か読んでいるうちに意識することとなった。

平田オリザ「わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か」(講談社現代新書)という本では名指しはしていないが、「少数の留学生」(82P)の一人が抱月だ。

同じく平田オリザ「演劇のことば」(岩波書店)。なぜ日本の演劇(新劇)は暑苦しいのか? 日本が西洋演劇を新劇として受容する初期の段階でボタンの掛け違えがあったのではないか、近代演劇史を紐解きながら考察している。

平田氏の論が妥当なものか門外漢の自分には判断しかねる。そもそもセリフに起こす段階で考慮すべきものではないかと思うが、日本語だけに限っても標準語と方言の問題も孕んでいる。

また、演劇に関しては国家として体系的に取り入れることはされなかった。どうしてそうなったのか(必要なしという判断か)、これは日本教育史の問題だろう。問題は多岐にわたり、且つあまりに深い。

平田氏は対論(ダイアローグ)を望んでいる。地元に抱月や演劇に詳しい先生がいらっしゃるし、早稲田大学にもいらっしゃるだろう。地元浜田でシンポジウムを開いて、抱月の現代的意義について語り合う場を設ければよいのではないか。

自分は「人前でのパフォーマンスは絶対に避けるべし」な人間で、演劇の世界を体感することはできないのが残念。

余談。
大学生のとき、英語の授業では翻訳家の先生が講師を務めていた。その先生曰く「コンピューターは行間を読めない」。できないと言われると実はできるのではないかという気もしないではない。

それはともかく演劇につきまとう「翻訳調」の問題、既に一世紀近く時代が離れていて、明治末期~大正時代の行間を読む能力は今と同列に論じられないのではとも思える。

島村抱月・序文
手ぶれしていますが。粟島公園にて撮影。

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