(番外編)備中松山城と大石内蔵助の腰掛け岩
正月の帰省。帰りは伯備線経由。備中高梁市で途中下車。頼久寺には寄れなかったが、武家屋敷通りを通って臥牛山の登山道に入り備中松山城へ向かう。学生のとき以来、今回二度目になる。
登山口
登山道の中程(遊歩道登城口から700m、備中松山城まで900mほど)に元禄赤穂事件で知られる大石内蔵助が腰掛けたとされる岩がある。江戸城・松の廊下事件の七年前(八年か?)、水谷(みずのや)家が改易となり、松山城の収城に赴いたときのこと。
播州赤穂藩家老
大石良雄腰掛岩
元禄六年十月藩主水谷勝美歿して家嗣がなく御家断絶領地を召上げられたので播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩に城請取りを仰付けられた
翌元禄七年二月二十一日先発隊として大石内蔵助良雄が松山城に到着した
城請渡しについては水谷家家老鶴見内蔵助と会見して平穏裡に折衝を了へ 元禄八年八月六日(一六九五年)まで一年七ヶ月この城に在藩した
その間大石良雄は城地を調査に登城の際此の岩に腰を掛けて休息したと伝えられている
うまく話をまとめた内蔵助だが、数年後に自身も赤穂城を明け渡す立場になるとは思わなかったのではないか。運命の皮肉の様なものを感じる。
浅野内匠頭と正室の間に子が無かったので、全くということもなかったとは思う。松の廊下事件の後、内匠頭の弟の大学を立て、お家再興を図るも叶わず、吉良邸へ討入りを決行することになる。
本丸に入るところで音声解説のついた案内図があるが、このときの経験が後に役立ったと解説していた。それは確かにそうだろうが、望んでそうなった訳でもなく、何とも言えないだろう。ちなみに水谷家家老の名が鶴見内蔵助で「二人の内蔵助」として知られているとのこと。
大手門前と音声付き解説図
確か、学生のときは腰掛けなかったと思い出しつつ、腰掛けてみる。運命という程でもないが、生きていれば色々ある。
備中松山城。天守閣は創建当時のものが現存している。
中写真が装束の間。中二階に当たるか。床下には人が入れないようになっており、いざというときは城主はここで自決する場であるとのこと。
装束の間
籠城時の城主一家の居室床下に石を入れ隙間のないようにし、忍びの者でも侵入できないように工夫がされている.
戦に敗れ、落城の時は城主一家の死に場所でもある.
帰り道は舗装された道路を徒歩で戻る。高所恐怖症なので下りの遊歩道は敬遠。歩いていると、どうも背後で物音がする。が、振り向いても何も無い。もしかしたら猿なのかもしれない。
<追記>
アップロードしようと思っていたら、東北~北関東にかけて激甚な災害が起きてしまった。生死について考えさせられる。
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