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2010年10月

2010年10月23日 (土)

長寿で怪力――浜田の千年比丘

※「千年比丘尼」を「千年比丘」に改めました。

◆はじめに

 Google Earthで見ると分かり易いが、JR下府駅から弧を描いて東に延びていく道がある。この道は浜田と広島を結ぶ予定だった今福線という未成線の跡である。
 この道を5~600メートル程東に向かうと下府廃寺跡がある。この道の建設中に発掘されたもの。

浜田市下府町の下府廃寺跡
下府廃寺跡
下府廃寺跡・解説
下府廃寺跡・解説
下府廃寺跡・解説
下府廃寺跡・解説
下府廃寺跡・解説。7世紀末~8世紀初め頃のものと推定。
浜田市下府町の未成線跡と田んぼ
浜田市下府町の未成線跡と田んぼ
未成線跡の道路。下府・今福線。写真、道路奥辺りに下府廃寺跡がある。

 更に500メートル程東に向かうと上府と下府をつなぐ仕切橋という名の橋がある。そこから東に数十メートル程先に片山古墳入口と書かれた標識が立っている。

浜田市下府町の片山古墳前の道路
片山古墳入口の標識
片山古墳案内の標識と祠
片山古墳入口。左写真の右側、白いガードレールの先に白い標識が立っている。写真真ん中辺りに道祖神の祠があり、右へ誘導する標識がある。

 北に向かうと道祖神と標識がある。その案内に従って進むと山の中に金属製のパイプで組まれた手すりが上方へ伸びている。登っていくと山腹に石室の穴が開いている。

片山古墳に至る道
片山古墳に至る坂道
片山古墳に至る坂道
片山古墳へ続く道。左写真の標識付近から山腹を登っていく。突き当たりに古墳の解説が。

 解説文によると片山古墳は7世紀頃のものとされており、下府廃寺と関連づけされている。

片山古墳・石室
片山古墳・石室・石室の口は開いている
片山古墳。石室の口は開いている。
片山古墳・解説
片山古墳・解説
片山古墳・解説
 なお、片山古墳の石室には、人魚の肉を食べ、長寿と怪力を得たという「千年比丘尼」が住んでいたという伝説があります。その石室の扉を「千年比丘尼」が山麓に投げたと伝える大盤石(6世紀後半に築造された半場口2号墳の石室奥壁石)もあります。
片山古墳近くから見た下府平野
片山古墳近くから見た下府平野。

◆あらすじ

 唐鐘に豪族がいた。積善の報いか、豪族の主は竜宮城へ招かれた。竜宮城では山海の珍味でもてなされていたが、あるとき、ふと板場を覗くと人がさばかれている。その恐ろしさに男は竜宮城から逃げ出した。気づいた竜宮の人たちが追いかけてきた。これは人ではない、人魚の肉だと言うが男は聞かない。とうとう姉ヶ浜までたどり着いた。竜宮の人は陸には上がれない。せめて土産にと人魚の肉を投げたところ、男の袴の腰板にくっついた。
 地上では数年が経過していた。主の帰還を家族たちは喜んだ。家族達の中に幼い娘がいた。娘は男の袴の腰板から落ちた肉を土産と思って食べてしまった。
 すると、娘は長寿と怪力を得た。やがて出家して諸国を巡ったが、遂に生きているのに飽いてしまった。若狭の国で「線香の煙が出ている間は生きていると思え」と穴にこもってしまったという。後世、この女を千年比丘と呼んだ。

 浜田の伝説では「比丘尼」でなく「比丘」という呼称が用いられている。呼称自体はありとのこと。

◆大盤岩

 千年比丘が投げ捨てたという大盤石。片山古墳入口から西へ二、三十メートル行ったところに民家への私道があり、畑の中になるがその奥にあった。「浜田市誌」下巻にもその写真が載っている。

千年比丘が投げ捨てたという大盤石
千年比丘が投げ捨てたという大盤石
大盤石のある民家の入口

 また、山陰中央新報の記事によると
開墾で古墳が削られて石だけが残ったと推測している。

 また、旧国分村役場の隣にも千年比丘が持ってきたと伝えられる岩があるとのこと。

◆類話

 みずうみ書房「日本伝説大系」第11巻・山陰編では鳥取から島根にかけての八百比丘尼の伝説が収録されている。同じような筋だが、浜田の伝説では長寿のみならず怪力を得たということが特徴として挙げられるか。これは古墳の石室に用いられた岩から連想したものだろう。
 他、細かい違いとしては人魚の肉を持ち帰った男の娘が幼い年齢かもしくは十八歳の娘というところか。十八歳だと得体の知れない肉をうかつに口にするという印象を与える。幼かった場合は十八歳までは成長し、以降は成長しなかったと解釈できるか。
 比丘尼は若狭の国へ行ったという結末のものが多く、元々は若狭の国の伝説が広がったものだろうか。

◆朝日夕日の伝説

 角川書店「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」とみずうみ書房「日本伝説大系」第11巻・山陰編では浜田の伝説に続いて江津市都野津の伝説が紹介されている。
 なお、この尼は江津市都野津町にも来て、「朝日さし、夕陽あたるところに黄金千両のものがある」と言ったとも伝えられる。
 「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)p.96

 これだけだとやや分かりにくいかもしれない。「益田市誌」上巻「乙吉地区の古墳」小丸山前方後円墳の項で朝日夕日の伝説が紹介されている。
 (前略)また付近に住む古老の言によると、この丘(※小丸山)には次の歌に示すような朝日夕日の長者伝説が語られて、この丘が古墳であることを暗にほのめかしている。
 朝日さす夕日輝く南天の下黄金千両朱千両
 この南天樹下宝物の埋蔵伝説は、古墳だけでなく古城址にも物語られている。例えば当市高城地区高波(こうなみ)山と小杉山にも南天云々の物語が言い伝えられ、浜田市国分町の「姉ヶ浜薬師如来」伝説には、「朝日さす夕日輝くその下に、漆万倍、黄金が船に八艘ほどある」とある。古墳が今日までこうした神秘的な伝説に包まれて保存された例は珍しくない。(以下略)
「益田市誌 上巻」(益田市誌編纂委員会/編, 1975)pp.238-239
 「浜田市誌」では「姉ヶ浜の薬師如来」伝説に続いて「千年比丘」伝説が紹介されている。

夕日・石見海浜公園
夕日。石見海浜公園。姉ヶ浜はここの西側になります。

◆石見国分尼寺跡

 直接言及はされていないが、国分町の石見国分尼寺跡も下府に近く、千年比丘と結びつけて語ることができるか。

浜田市国分町の石見国分尼寺跡
石見国分尼寺跡
石見国分尼寺跡・礎石
石見国分尼寺跡・礎石
石見国分尼寺跡・解説

◆余談

 上府に親戚が住んでいて、よく遊びに行ったのだが片山古墳のことは知らなかった。ほんの数百メートルの距離だったのだが。上府は田んぼが埋め立てられて住宅地に変わった。今は堤防と同じ高さだが、昔は一階分くらい低かった。聞いた話によると田んぼからお寺の跡が出てきたとのこと。
 自分も食い意地の張っている方なので、娘が思わず食べてしまったという話の展開には微苦笑してしまう。
 生きることに飽きてしまうというのは吸血鬼ものに通じるアンニュイさがあるか。
 人魚の肉を食べ不老不死にという伝説をモチーフにした漫画に高橋留美子「人魚の森」シリーズがある。作中では誰もが不老不死になるのではなく、ほとんどの人間が「なりそこない」と呼ばれる怪物と化してしまう猛毒として設定されている。

 大盤石を撮った際、その家の方とお話できた。市の教育委員会のお手伝いをされたそうで、この辺りは大体掘ったとのこと。離れた場所になるが、山陰道の陸橋付近からは銅鐸が発掘されたとか。看板が立っているそうだ。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.95-96.
・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.236-240.
・「日本伝説大系 第11巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.112-120.
・「浜田市誌 下巻」(浜田市誌編纂委員会/編, 1973)pp.763-764.
・「益田市誌 上巻」(益田市誌編纂委員会/編, 1975)pp.238-240.
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.251-252.

記事の転載先 →「広小路

 

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2010年10月11日 (月)

写真追加しました

今年撮影した写真をブログ、サイトの両方にアップロード。狭姫、胸鉏比売はフルコンプ? 新規記事はいずれまた。

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2010年10月 5日 (火)

三瓶の地下世界

三瓶山小豆原埋没林

縄文時代、三瓶山の噴火で谷が埋まった跡から出てきた埋没林。

島根県大田市の三瓶小豆原埋没林公園・縄文の森発掘保存展示棟

地上部分。

縄文の森発掘保存展示棟・内部・埋没林

右上が入り口。螺旋状の階段を下りていきます。

縄文の森発掘保存展示棟・内部・埋没林

地下十数メートルの底には倒木が並んでいます。

縄文の森発掘保存展示棟・内部・埋没林

真ん中右寄りに人が写っていて、縄文杉の巨大さと良い対比になっています。

三瓶小豆原埋没林・地層

地層。土砂の堆積の仕方が上下で全く異なります。

三瓶小豆原埋没林・巨木

巨木。

百聞は一見にしかず。まさに地下世界という印象でした。

※画像はレベル補正かけています。

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