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2009年12月

2009年12月27日 (日)

狼が猫に――千匹狼

 「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)に収録された「がいだが婆」という伝説(150-164P)。

◆粗筋

 あるとき、旅の者が夜峠越えをしなければと、とある家に灯りを求めた。家の者は今夜はここで泊まるよう引き留めたが、男はどうしても今夜中に峠越えしなければならないと言った。そこで家の者はそれならと、薪の中から太いのを一本持たせて、もし化け物が出たらこれで力一杯殴りなさいと告げた。
 さて、夜道を歩いて峠に差し掛かった男だが、何かの気配に気づいた。ギラギラ青光りするものが二つ、じっとこちらを見ている。狼だ。薪を持って身構えたところ、周囲に何匹もの狼がいることが分かった。
 これは敵わんと、男は大きな木によじ登った。一番高いところまで登って下を見ると、狼が次々に肩車をして、今にも手が届きそうなところまで近づいている。そこで男は一番上にいる狼を薪で力一杯殴りつけた。
 と、ギャアと一声吠えるとバタバタと崩れて、狼の群れは姿を消してしまった。
 旅の者は木から降りると、一目散に走った。ようやく灯りが見えてきた。戸を叩くと、若い嫁さんが出てきた。話を聞いた嫁さんはそれは大変な目に遭いましたなぁと、男を家に上がらせた。
 すると、納戸からウーン、ウーンと病人のうめき声が聞こえてくる。男が聞くと、嫁さんはうちの婆さんがこけた拍子に大石で眉間を割って痛がっとると答えた。それで嫁さんが席を外した隙に納戸を覗くと、大きな古狼が頭をくくって唸っていた。旅の者はびっくりして下の村まで逃げたという。
 この一軒家の婆さん――人食い狼を人々がいだが婆と呼んだ。

◆千匹狼

 「がいだが婆」は但馬地方の話だが、類話が数多く収録されており、鳥取から島根まで幅広く収録されている。狼だけではなく、狐、狸、猫のものもある。島根県は怪猫、猫またとなっているものが多く収録されているので、地域性もあるのかもしれない。

 基本パターンとして
・樹上の旅人を狼が次々と肩車をなし、梯子状になって襲ってくる
・旅人に迫るが一匹足らず、狼が頭領を呼ぶ
・頭領はどこそこの婆に化けていた

 この昔話の見所は、狼が肩車をして樹上に迫ってくる構図だろう。絵にしても映える。狼だと恐ろしいが、猫だとどことなくユーモラスかもしれない。

 島根県の民話」(日本児童文学者協会/編, 偕成社, 2000)によると、
「ばけネコばば」
 隠岐島とくに島前には、キツネやタヌキがばけるという話はありません。ばけるのはきまってネコです。これは、隠岐にかぎらず、本土からはなれた島には共通していることです。この話は「鍛冶屋の婆」という、全国的にある昔話ですが、伝説として語られることも多く、松江市の川津町では「小池の婆」という話になっています」
 とある。

◆モチーフ

 「日本昔話通観 第18巻 島根」「千匹猫」ではモチーフ構成として、外国の例を援用して
・魔法の猫
・変身―猫から人間へ
・猫の姿をした魔女が手を切りおとされる―翌朝、手がないためわかる
・肉体からぬけ出た魔女が旅行中に傷つく―彼女の肉体は家にあって傷つく
と分析している。

◆アニメ

 「まんが日本昔ばなし」では「かじ屋のばばあ」(演出:小林三男, 文芸:沖島勲, 美術:内田好之, 作画:白梅進, 出典:クレジットなし)というタイトルでアニメ化されている。
 殿様の手紙を預かった飛脚が長い峠に差し掛かった。上るも十里、下りるも十里という長い峠。途中で日が暮れてしまい、飛脚は木に上って一夜を明かすことにするが、そこに無数の狼たち(千匹狼)が現れる……という内容。飛脚は刀で応戦、最後にかじ屋の老婆に化けていた白狼を退治するという粗筋。

 また、「狼ばしご」のタイトルで類話が放送されている。演出・作画:前田こうせい, 文芸:沖島勲, 美術:なかちか東。出典として未来社の「茨城の民話」(※1巻・2巻のどちらか不明)がクレジットされている。
 旅の僧侶二人が山の中の一軒家に泊まるが、どうも様子がおかしい。逃げ出して樹に上り、一心にお経を唱える。狼たちは肩車して梯子状になって襲いかかってくるが、後一歩距離が足らず、崖下に転落していくという粗筋。僧侶たちはお経を唱えるだけで、迫ってきた狼の頭領を思い切りぶん殴ることはしない。
 個人的にはぶん殴るのが面白いところだと思うが、地方によって色々バリエーションがあるということだろう。

◆物語の伝播

 「畑作の民俗」(白石昭臣, 雄山閣出版, 1988)第五章第二節で千匹狼が取り上げられている(233-237P)。
 これによると、南方熊楠が高知県の「鍛冶屋の姥」「鍛冶屋の嬶」と呼ばれる伝承について、宮武省三と寺石正路の報告を元に昭和5年(1930年)『民俗学』第二巻五号で紹介したのが「千匹狼」の話が全国的に広く知られるきっかけとなったとしている。また、翌6年10月に柳田国男が『郷土研究』で論考を発表しているとある。

 Wikipedia:「千疋狼」の項目によると、江戸時代の「絵本百物語」では、狼が梯子状に肩車を組む様子が挿絵に描かれているとのこと。「鍛冶が嬶」という題だが、現在のものとやや異なる粗筋。が、江戸時代に既に狼が肩車するイメージはあったことになる。

◆山の神~狼のイメージ

 「畑作の民俗」では、狼は畑を荒らす猪、鹿、兎、雉などの鳥獣を獲物とする獣で山の神でもあり、人に危害を加える恐ろしい動物とされるようになったのは近世以降、焼き畑耕作の衰退や鉄砲の伝来による狩りの技術の発達による。また、狼の頭領が老婆であったのは山姥の零落した姿であると考察している。
 他、狼に喰われた人達の人骨が散乱する場所と菖蒲の地名を関連づけた考察も行なっている。菖蒲のつく地は古葬地のひとつであるとのこと。

 調べてみると、ニホンオオカミのサイズは中型犬くらいのようだ。それで人に危害を及ぼすことが少なかったのだろうか。タイリクオオカミ(ハイイロオオカミ)は犬種の中では最大で、北欧神話のフェンリル(ラグナロクで登場)や太陽を追いかける狼のように怖ろしい存在として描かれていることも多々ある。

◆送り狼――邑智郡

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)に「送り狼」の話がいくつか収録されていた(116-118P)。
 送り狼ではこけてはいけないとされている。まくる(転がす)まくれる(転がる)と殺されるというので、「まくれんように、まくれんように」と帰るのだそうだ。もし、こけた場合は「やれ休もうか」と言えば「せやなかった(大丈夫だった)」としている話もある。
 家に戻ったら、たらいで足を洗って、たらいをぴしゃっと伏せると狼は去っていくとされている。

◆牛鬼・魔物

 上記の邑智郡の昔話は送り狼の基本パターンではないかと思うが、牛鬼や魔物と送り狼を関連づけた話もある。
 「日本伝説大系 第12巻 四国編」(みずうみ書房, 1982)で紹介された「杖立山の送り狼」(202-203P)では、送り狼が男の袂をくわえて、道から少し離れた平らな場所に引き込み「坐れ坐れ」という仕草をする。従うと今度は「寝ろ」と仕草をする。寝ると狼は男に覆い被さった。男はいったいどうなるのかと縮こまって声も出なかったが、しばらくすると、魔人がやってきて、美味そうな肴がいるが、狼さまが取っているのでどうにもならんと通り過ぎていったという粗筋である。これは杖立山ではどんなことがあっても狼に鉄砲を向けるなと説諭する話でもある。

 「日本伝説大系 山陰編」でも「牛鬼」の類話として桜江町の同様の話が収録されている(226P)。

◆余談

 子供の頃から犬に吠えられるのが苦手だった。あるとき、とあるお寺の前を通りかかったとき、鎖に繋がれていない犬が吠えてきた。それで駆けて逃げ出したのだが、犬は走って逃げるものを追いかける習性があるので、却って逆効果であった。その犬はあるところで引き返したようだ。私ゃ、今でもシェパード(大型犬)に吠えられただけで縮みあがってしまいます。

◆参考文献

・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)pp.116-118
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.150-164, p.226
・「日本伝説大系 第十二巻 四国編」(みずうみ書房, 1982)pp.202-203
・「日本昔話通観 第18巻 島根」(稲田浩二, 小沢俊夫/編, 同朋舎, 1978)pp.202-207, pp.308-310
・「畑作の民俗」(白石昭臣, 雄山閣出版, 1988)pp.233-237
・「桃太郎の誕生」(柳田国男, 角川書店, 1974)
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.431-432.

・邑智郷の言葉

Wikipedia:ニホンオオカミ
Wikipedia:千疋狼
Wikipedia:絵本百物語

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多鳩神社と石見王

◆石見王

 江津市二宮町の多鳩神社。鳥居の手前脇に石像が建っている。

石見王と太宰媛の像
石見王と太宰媛の像・解説

 碑文をテキストに起こしてみた。
石見王と太宰媛の像
 西暦七二九年左大臣長屋王は、皇位継承を巡り藤原氏の策謀による無実の罪で一族と生涯を閉じた。二宮村史によれば、孫の石見王は生母太宰媛とこの地に逃れた。
日夜多鳩神社に帰参を祈り、後子孫大いに栄えたという。
この伝承を後世に伝え、顕彰する。
 という内容。
 「二宮村史」(二宮村/編, 1931)は島根県立図書館に所蔵されているのを確認。

 伝説が史実かどうかは分からない。後世の創作っぽい気がするが、よく調べたら……ということがなきにしもあらず。
 石見王と名があるので、石見に何らかの所縁があった人だったのだろうか。ネットでざっと調べただけだが、石見王は臣籍降下した高階氏の祖で、子孫が栄えたというのは確かだ。
 まぁ、そがぁなこと言わんと、ゆっくりしていきんさい。

◆追記

 「二宮村史」がネットに公開されていた。その中に石見王に関する記述があった。62P。
そこで、いよいよ、二ノ宮明神號勅許の話に歸るが、時は平安朝の末頃、高倉天皇の嘉應二寅の正月に高階(タカシナ)經仲といふ人が、石見守となり、翌、承安元卯の十二月まで、まる二年。石見に居られた。其の人が多鳩の宮に参って云はれるには、我が先祖石見王の父桑田王は、祖父長屋王と共に無實の罪で、自害なされた。其の時石見王は、生まれた許りの子で、生母大炊王女太宰媛や乳母につれられ、つてをもとめて、難を、此の里(神主)に避け、朝夕歸参を神に祈り、後ゆるされて歸った。其子峯雄が仁明天皇の承和十一年に高階眞人(タカシナノマヒト)の姓を賜はった。此の様に我が祖宗は、此の地此の宮と深い因縁があるから、是非二宮明神號勅許に力を致さう。と誓はれたが、實現せぬ中に常陸介に轉任した。翌承和二辰の春、女御平徳子の方が、中宮にお立になったお悦びに、石見介祝部(はふりべ)成仲が上京して、さきの願いの件を懇懇請した。平相國入道のお詞も添うて、とうとう勅許になった。

◆多鳩神社

 石見国二の宮。祭神は積羽八重事代主命。

多鳩神社・山門
島根県江津市の多鳩神社
多鳩神社・ご由緒

 由緒書には事代主命(エビスさん)は神代の昔石見の国開拓のため当地に留り給いその御終焉地と伝えらるとある。出雲系の人たちが開拓したのだろうか。
 浜田市下府町の伊甘神社の祭神を事代主命の后神である溝咋姫命(みぞくいひめのみこと)とする説もある。それほど離れてはいない。

◆恵比寿信仰

 雑誌「亀山」第13号(浜田市文化財愛護会/編, 1984)に掲載された児島俊平「会津屋八右衛門・竹島密貿易事件の真相」(66-75P)という論文に多鳩神社関連の記述があった。
江津市の多鳩神社には地元船の北前船絵馬が九枚(文化二~元治一年)あり、廻船業の盛んであったことが分かる。(67P)

 とある。船乗りの信仰として神社に絵馬を奉納して航海安全を祈願するもの。

◆八咫烏

 多鳩神社は八咫烏とも所縁が深いとのことであるが、下記の写真にサッカー日本代表のエンブレムが飾られている。

多鳩神社・社務所
多鳩神社・社務所とサッカー日本代表のエンブレム
トリミング

◆余談

 多鳩神社へは、国道9号線都野津町西の信号から県道297号線へ南下。山陰道の陸橋を過ぎた辺りに宮谷の集落へ入る道へ。案内標識に従って進むと鳥居がある。鳥居をくぐりその先へ。しばらく進むと神社が見えてくる。奥に駐車スペースがある。
 神社へ行く道は一車線分しかなく、すれ違い不可能。人で混雑する時期は車で行かない方が無難かと。

◆参考文献

・児島俊平「会津屋八右衛門・竹島密貿易事件の真相」雑誌「亀山」第13号(浜田市文化財愛護会/編, 1984)pp.66-75

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敬川の水騒動――お鶴さん

◆水騒動

「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録された「敬川を救ったおつるさん」(97-101P)。江津市の敬川(うやがわ)流域の水騒動を巡るお話。

島根県江津市の敬川と山陰道の陸橋
敬川

 「今からおよそ二百五十年ほど前のことである。」(97P)とあるので享保年間だろう。田植えが終わった頃から日照りが続き、作物がしなびて枯れてしまった。
 敬川上流の有福村では川に堰を築き水を溜めていたが、下流の敬川村では飲み水にも困るほどになった。
 水を分けてもらうよう敬川村の者たちが有福村に頼みに行ったが、聞き入れてはくれなかった。
 敬川出身で有福村で働いている娘がいた。つるである。つるも有福村の人たちに水を分けるよう頼んでいたが、聞き入れられなかった。
 ある晩のこと、つるは堰を壊して敬川村に水が流れるようにした。驚いた有福村の者たちはそれから見張り番を置くことにしたが、つるは見張りの目を盗んでは堰を壊し、水を敬川に流した。
 敬川の者が堰を壊しているという話になって、有福村の者たちと敬川の村の者たちで言い争いになった。有福村ではとうとう道に見張りを置いて敬川の者が近づけないようにした。
 つるはそれでも堰を壊しては水を流していたが、ある夜、とうとう見張りに見つかってしまった。つるは走って敬川村へと逃れようとしたが、村境で捕まってしまった。見張りたちにめった打ちにされたつるはとうとう息を引きとってしまった。
 そのことを知った敬川村の者たちは有福村に押しかけ、大騒動となった。浜田藩の役人が仲介して、ようやく騒動は収まった。
 敬川村の人たちはつるを丁寧に葬り、黒木神社の境内に祀ったという。

「神話・伝説・史跡巡り・人物伝の一端 川平・松川地区および江津市内各地の歴史」(佐々木春季/編著, 1988)に人物伝「烈女 川上おつるの話」として収録されている。目次のみで本文は未読。島根県立図書館・郷土資料室で所蔵を確認。おそらく江津市立図書館にも所蔵されているだろう。これでもう少し詳しい背景が分かるのではないか。

「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)もお鶴の伝説を取り上げていた(79-80P)。享保10年(1725年)とある。川上つるはこのとき19歳。敬川を南に下った妙見山の辺りでおつるの首を取り戻したとある。おつるの殺された場所をお鶴が畷、お鶴が森と呼ぶとのこと。
(前略)人々はおつるの心情に感激し、鶴が明神として祀り、毎年十二月十七日から祭典を行なっていた。昭和七年からは七月十一日の泥落とし(田植え終了)の夜に変更され、今日に至っている。
 この祭りの際、おつるの針箱に二枚の半紙を納め、外を元結(もとゆい)一二本(閏年は一三本)で結んでいるが、これはつまり、彼女が農業神になったことを示すものとして注目しておきたい。
 「出雲・石見の伝説」(同)p.80

◆敬川八幡宮

島根県江津市の敬川八幡宮・鳥居と拝殿
敬川八幡宮・拝殿
敬川八幡宮・ご由緒

玄松子の記憶
http://www.genbu.net/data/iwami/uyagawa_title.htm
(※アドレスコピペしてください)
 このサイトによると、黒木神社は敬川八幡宮の境外社のようだ。「川上鶴女」とある。それほど離れてはいないはずだが、訪問時はどこに黒木神社があるか分からなかった。実際に水騒動があって犠牲者が出た、それを元にした伝説だろうか。「島根の伝説」では黒木神社の写真が掲載されている。

 敬川八幡宮の沿革によると、黒木神社も境内社となっている。御霊神社と客大明神神社は確認できたが、黒木神社は分からなかった。

◆気候

 この伝説は享保年間の時代のものと思われるが、江戸の浜田藩邸でいわゆる鏡山事件が起きたのが享保9年(1724年)で、時期的に近い。「出雲・石見の伝説」によると享保10年(1725年)とあるので鏡山事件の一年後になる。
 岩町功「異説 鏡山事件―お初は烈女であったか―」雑誌「亀山」2号(浜田市文化財愛護会, 1973, 9P)によると、享保6年(1721年)から享保8年(1723年)にかけて飢饉が続き、農民の強訴が起きる寸前だったとしている。
 児島俊平「龍神さんと石見漁民 ―文化年代の異常海象について―」雑誌「郷土石見」第11号(石見郷土研究懇話会/編, 1981)、これは文化年代(1807年~1814年)を対象にしており、享保年間については触れていないが、文化年代の頃は気候が寒冷化、石見地方でもアシカが見られた。また、アシカによる漁業の被害があったとしている。
 また、文中、「飛騨のヒノキ老木の年輪の巾の経年変化」の図(30P)が載っている。大規模な飢饉のあった時期は年輪の成長幅が落ち込む傾向にあるようだ。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.79-80
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.97-101
・岩町功「異説 鏡山事件―お初は烈女であったか―」雑誌「亀山」2号(浜田市文化財愛護会, 1973)pp.1-10
・児島俊平「龍神さんと石見漁民 ―文化年代の異常海象について―」雑誌「郷土石見」第11号(石見郷土研究懇話会/編, 1981)pp.23-33

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ヤクロシカ――八畔鹿

◆八畔鹿伝説

 「塵輪」に関する論文を読んでいて鹿足郡吉賀町に八畔鹿(やつぐろのしか, やくろしか)という悪鹿の伝承があることを知る。吉賀町の地名説話(良鹿から吉賀)でもある。山を隔てた岩国市の二鹿神社にもほぼ同じ内容の伝承が残されているそうだ。

鹿足郡吉賀町柿木村の奇鹿神社
鹿足郡吉賀町柿木村木部谷・奇鹿神社
鹿足郡吉賀町七日市の奇鹿神社
七日市の奇鹿神社・拝殿
七日市の奇鹿神社・ご由緒
鹿足郡吉賀町七日市・奇鹿神社

 「六日市町史 第1巻」(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)の第二章第七節「鹿伝説と鹿大明神」で八畔鹿の伝説が紹介されている(324-328P)。幾つかバリエーションがあるそうだが、「吉賀記」という江戸時代の地方誌に収録されたものを中心にした内容である。

◆粗筋

 第42代文武天皇の代(在位697~707年)に九州は筑紫の国で悪鹿の害が横行した。その鹿は足が八つあり、その角は八又に分かれている。赤毛は一尺余り、眼は鏡のように輝き、天を駆け地を走り、鳥や獣を喰らい、人々の命を奪った。八畔鹿(やつぐろのしか)といい、庶民は怖れ農事を止めてしまった。
 幾ばくもなく天皇の御耳に入り、藤原為実、藤原為方へ猛獣退治の宣旨を下された。北面の強士・江熊太郎を引き連れ進発、深山幽谷に入り悪鹿を追った。
 悪鹿は小倉から防長へ渡り、彼部(かべ)郡鹿野庄を過ぎ、石州奥の吉賀庄鹿足河内大鹿(おおか)山に馳せ籠もり大鹿山の西面の三ツ岩に蛇がとぐろを巻くようにして居座った(蟠留した)。
 江熊太郎は屈せずに金五郎岩に迫り、毒矢を射ると悪鹿に当たった。悪鹿は直ちに飛龍のかたちとなって江熊目がけて金五郎岩に迫った。江熊太郎は次の矢で悪鹿を射止めた。
 この鹿は天下の央獣で、忽ち四方に雲と霧を起こして天を覆い、天地は震動した。江熊太郎はこの悪しき働きによって倒れてしまい、亡くなってしまった。
 よって防州山口の藤原両卿へ悪鹿を訴え挙げて骸骨を曳き出した。特に両足は日に向かい悪鹿の形勢を点検し、兵たちの名目を記し件の悪鹿を墓に埋めた。直ちに八畔(八また)の角を落として骸骨をこちらの田と畦に封じた。この鹿の古墳を後世の人は七福神に祭る。抜舞にあり。
 また、悪鹿を解体した所を骸崩(からだくずし)と言う。また、両卿は悪鹿を描かせ訳を記し余った墨をこちらがわの滝に流した。今墨流れといってことごとく滝の水が黒い。また、柚子の木の元で悪鹿を郷の民たちが解体した。よって後世ここに柚子の木が生じないと言う。
 郷の民は江熊太郎を神に祭り荒人明神と祝し、また鹿の霊を神として祭った。
 魂を神として祀ったところ霊験あらたかで、悪鹿を賀して吉賀と号し荘名となった。

 鹿は古来、霊獣とされていたそうで(もちろん害獣でもあるが)、勅命で退治される悪鹿の伝説は異彩を放っている。

 「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)でもこの伝説が紹介されている(121-122P)。ここでは八畔鹿は八岐大蛇の化身とされている。文武天皇の代という時代設定は同じであるが、鹿を討つのが藤原両郷と江熊三郎となっている。
 また、大鹿山は柿木村の大鹿山、あるいは六日市町立戸(たちど)の大岡山とされている。

 なお、文武天皇の在位は697~707年で飛鳥時代の天皇。「六日市町史」では藤原為実は藤原定家の曾孫で鎌倉時代の人。北面の武士は白河院の時代で平安末期と解説している。

◆八岐大蛇伝説との関わり

 この地方の地形を見ると、吉賀川と支流はちょうど八岐である。したがって、洪水や野獣の暴威によって、昔は農耕の妨げとなっていたことをこの話は示すもので、まさに八岐大蛇の神話と非常によく似た構造を持っている。
「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(同)p.122
 とある。邑智郡邑南町の八色石伝説も大蛇は八岐大蛇の末葉という解釈があり、似た側面がある。
抜月橋
抜月橋から見た高津川
抜月橋と高津川

◆神楽

 「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)に「八久呂鹿(やぐろじか)」の口上台本が収録されている(94-95P)。この演目では悪鬼とされているようだが、やはり八岐大蛇の一族と名乗る。他、石見の国の長野四郎が登場する。

◆水上論文

 水上論文が主に考察しているのは播磨の「伊佐々王」という悪鹿伝説。
 「塵輪」の水上論文は先ず八畔鹿伝説を枕にして「塵」の字の語源(鹿のたてる土煙)の連想から塵輪の考察へという構成となっている。

◆奇鹿神社

・鹿足郡吉賀町柿木村木部谷・奇鹿神社
 国道187号線・津和野街道。木部谷橋の近くに東へ木部谷村へと入る道がある。道なりに進むと神社がある。

・鹿足郡吉賀町七日市・奇鹿神社
 神社は国道187号線・津和野街道に面している。抜月橋付近。
 訪問時は一旦七日市の中心街に入り、七日市小学校近くの道路脇に車を停めた。

◆類話:まんが日本昔ばなし

 八畔鹿そのものの伝説ではないが、「奇しき色の大鹿(くしきいろのおおしか)」というタイトルで九州の民話がアニメ化されている(演出・作画:辻伸一, 文芸:沖島勲, 美術:下道一範)。出典は「比江島重孝(未来社刊)より」とクレジットされていて、宮崎県のお話のようだ。
 九州のとある山国。長者の娘が美しいと評判を呼び、娘を一目見たさに大勢の男がやってくる。が、あるときから娘は姿を見せなくなった。とある若者は娘が重い病で伏せっていると知る。それからまもなく若者は大雨で増水した川に流されてしまう。滝に落ちかけたところを奇しき色の大鹿が若者を救った。若者はこのことは決して誰にも漏らさぬと鹿に約束する。が、奇しき大鹿の生き血を飲めば長者の娘の病が治ると知った若者は鹿の居場所を長者に知らせてしまう。長者は鹿を撃ちに出かける。が、ここを教えたのは誰か? のという鹿の問いに若者は自分が知らせたと白状する。長者は鹿を撃たずに引き返した。その後、娘の病はすっかり良くなったが、若者は己を恥じたのか姿を消してしまった……という粗筋。
 悪鹿ではないが、奇しき色に輝く大鹿という点は共通している。

◆余談

 鹿足郡を代表する伝説のはずで、知らなかったのは不覚。結局「出雲・石見の伝説」の古本を購入。
 八つ足の姿は北欧神話の神馬スレイプニルを想起させるかもしれない。
 連想したのは手塚治虫の漫画「ブラックジャック」の一エピソード。牡鹿の脳を腹部に移植するが、サイボーグ化した鹿の脳が異常に発達、凶暴化したため銃殺するという筋だった。おそらく「子鹿物語」を下敷きにしたものだ。
 兵庫県播磨地方には数年間住んでいたことがあるのだが、伝説の類は読んでいなかった。今もしていないのだが、自分の住んでいる地域の歴史や伝説を調べることも必要だと感じた。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.121-122
・「抜月神楽 島根県古代文化センター調査研究報告書 11」(島根県古代文化センター/編, 島根県古代文化センター, 2002)pp.94-95
・「六日市町史 第1巻」(六日市町/編, 六日市町教育委員会, 1981)pp.324-328
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.346-347.

・水上勲『播磨の巨鹿「伊佐々王」の原像を追って―中国山地の「悪鹿」伝承考―」(帝塚山大学人文科学部紀要 第十六号, 2004)pp.31-45
・水上勲「《塵輪》《牛鬼》伝説考―「新羅」来襲伝説と瀬戸内の妖怪伝承―」「帝塚山大学人文科学部紀要」第十八号(帝塚山大学人文科学部紀、二〇〇五)一九―三七頁。
伝説「ヤクロシカにゆかりの樹――ケヤキを伐った話」はこちら

記事の転載先 →「広小路

 

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2009年12月13日 (日)

ちぃと開けちゃんさい――瓜子姫

◆語り口

 雑誌「郷土石見」8号(石見郷土研究懇話会, 1979)に収録された、大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」という論文(58-71P)。石見弁の語り口の巧みな事例として幾つか民話が取り上げられている。

◆瓜子姫

 その中の一つが「瓜姫」。瓜子姫(瓜姫)のお話はひろく全国に伝播した昔話で、桃太郎と同じ様に瓜の実から生まれたお姫さまである。
 爺さん婆さんに大事に育てられた瓜子姫だが、年頃になったのだろう、天の邪鬼(あまのじゃく, あまんじゃく)が姫に近づこうとしてくる。
 爺さん婆さんは瓜子姫にあまのじゃくが来ても決して戸を開けてはいけないと言い含めて出かけていく。これ幸いとあまのじゃくが訪ねてくる。

 「石見の民話」(64-65P)で紹介されたやり取りを脚本風に再構成してみる。
○ 瓜姫の家
  瓜姫が独りでキーリスットンバットントンと機を織っている。
  あまんじゃくがやって来る。
  あまんじゃく、トントンと戸を叩く。
あまんじゃく「姫さん、姫さん、ここ、ちいと開けちゃんさい」
瓜姫「戸を開けりゃじいさんばあさんに叱られるけぇやぁんだ」
あまんじゃく「あがぁ言わんと、ちいと、指の入るほど開けちゃんさい。
 叱られりゃあ、わしがことわり言うたげるけぇ」
瓜姫「ほんなら」
  瓜姫、戸を指の入るほど開けてやる。
あまんじゃく「こんだ手の入るほど開けちゃんさい」
瓜姫「叱られるけぇ、やぁんだ」
あまんじゃく「叱られりゃ、わしがことわり言うたげるけぇ、
 どうでも手の入るほど開けちゃんさい」
  瓜姫、また手の入るほど開けてやる。
あまんじゃく「こんだ、頭の入るほどあけちゃんさい」
  瓜姫、とうとう、頭の入るほど開けてやる。
あまんじゃく「こんだ、身がらの入るほど開けちゃんさい」
瓜姫「やんだやんだ。叱られるけぇやんだ」
あまんじゃく「叱られりゃわしがことわり言うたげるけぇ、どうでも開けんさい」
  とうとう、あまんじゃくは中に入ってしまう。
※セリフの一部、漢字表記や語尾を小文字に変更した箇所があります。
 これ自体、余計な手が加わっているとも言えます。
※「~しちゃんさい」は「~してやんさい」の転訛だろうか、「~してください」という意味。
 「~だけぇ」は「~だから」
 「あがぁな」は「あんな」
 「ちいと」は「ちょっと」
 「~すりゃあ」は「~すれば」
 「言うてあげる」は「言ってあげる」という石見弁。

 あまのじゃくが言葉巧みに戸を少しずつ開けさせていく描写が見事である。

◆お話の続き

 「石見の民話」で紹介されたのはここまで。未来社の「石見の民話」に収録されたものは未読だが、

石見国・邑智郷の民話と言葉
というサイトがあった。
瓜子姫

 こちらで後の展開を追うと、まんまと中に入ることに成功したあまんじゃくは自分の着ていた着物を瓜子姫に着せ、自分は瓜子姫の服を着て姫に成りすます。瓜子姫は大きな柿の木のてっぺんに縛りつけられてしまう。
 カゴに乗せられ嫁ぐことになったあまんじゃく。大きな柿の木の下までやってきたところ、トンビが瓜子姫が柿の木につるされていると鳴いて爺さん婆さんに異変を知らせる。
 これは、あまんじゃくが瓜子姫に化けているということになって、あまんじゃくは三つに切られて、そば、きび、かやの根元に埋められた。それで、そばときびとかやの根元は今でも赤いという。瓜子姫は無事助けられてお嫁に行った。

 という粗筋。瓜子姫の民話は多くのバリエーションがあって、姫が殺されてしまう結末のものもある。ここでは無事助けられる筋立てとなっている。
 また、そば(蕎麦)きび(黍)かや(茅)の根本が赤くなった由来譚ともなっている。

◆モチーフ

 「日本昔話通観 第18巻 島根」では外国の例を援用して、モチーフ構成を
・魔法のかぼちゃ
・果物からの誕生・異常出産児が並みはずれた力を持つ
・超自然的成長
・しつけのよい子山羊は狼に戸を開けない
・植物の色
と分析している。

◆活字・テキスト化された民話集

 上記サイトは島根大学教育学部国語研究室・島根大学昔話研究会の『島根県邑智郡石見町民話集(Ⅰ)「昔話」』『島根県邑智郡石見町民話集(Ⅱ)「妖怪譚」その他』に収録された民話をテキスト化したものとのこと。石見町は合併で邑南町となった。

 元の本は島根県各地の図書館で所蔵されているが、採録した語り手の言葉を録音テープから忠実に文字に起こしたもので、類話も多く収録されている。その点で生に近い状態で記録された民話集である。手書き文字を印刷・製本したものだったが、今回一部がテキストに起こされ、ネット上で読むことが可能となった。

◆安国寺の天邪鬼堂

 浜田市上府町の安国寺の禅堂は天邪鬼堂とも呼ばれているのだとか。『伝 御神本三代の墓』の解説文の末尾に『尚、この寺にある「天邪鬼」は地方住民の信仰があつい』とある。

安国寺・山門
浜田市上府町の安国寺・本堂
伊甘山 安國禅寺
伊甘山・安国寺の沿革
伝・御神本三代の墓・解説
安国寺の沿革と御神本氏の墓の解説
伊甘郷に土着した御神本氏がその後益田に移り、益田氏を名乗ったという内容
安国寺・禅堂
安国寺・禅堂・鬼瓦
禅堂と鬼瓦

◆余談

 大人になって読み返すと、瓜子姫の民話は「赤ずきん」と同じで危ない人には気をつけなさいと女の子に教え諭す意味が込められているのだろう。上のやり取りを読んでいると、何となくだが、瓜子姫もやり取りを楽しんでいるのではとも受け止められるように思える……と天の邪鬼視点になっている自分に気づく。箱入り娘で外の世界を知らないのかもしれない。
 まんまと中に入ると姫とすり替わって嫁に行こうとするのがまた面白味がある。中に入るまでは男の行動原理そのものだが、すり替わって嫁に行く。この辺は女性的でもあり、嫁に行ったらどうするのか分からないが、ひょっとすると中性、性がない、もしくは両性具有なのかもしれない。

 戦後の本なので新字体で、その点は問題ないはずだが、語尾は「~だけぇ」と「え」を小文字の「ぇ」にした方が巧くニュアンスを伝えるのではないか等々思うが、そういう余計な手を入れることで原話の持ち味が段々薄れていくのかもしれない。

◆参考文献

・「日本昔話大成 第3巻 本格昔話」(関敬吾, 角川書店, 1978)pp.86-121
・「日本昔話通観 第18巻 島根」(稲田浩二, 小沢俊夫/編, 同朋舎, 1978)pp.123-137, 168-174
・「桃太郎の誕生」(柳田国男, 角川書店, 1974)
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.123-128.

・大庭良美「石見の民話 ―その特色と面白さ―」(雑誌「郷土石見」8号, 石見郷土研究懇話会, 1979)pp.58-71

石見国・邑智郷の民話と言葉

記事の転載先 →「広小路

 

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