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2009年3月12日 (木)

聖なる空間

「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(編者・谷川健一, 白水社, 1985)。全ては読めなかったが、石見地方の神社を中心に読む。
今回印象に残ったのは、出雲地方の神社で熊野大社と出雲大社。歴史の変遷の中で両大社の立ち位置が浮き彫りにされていく。
熊野大社の祭神、櫛御気野命(くしみけつのみこと)。櫛は「奇し」で尊称。「気」は「ケ(食物)」で食物神とされている。古事記に登場するオホゲツヒメ命(「ゲ」は「ケ」)や日本書紀に登場する保食神(うけもちのかみ)を連想したが、櫛御気野命は古くから須佐之男命と同一視されているようだ。
地質調査から創建当時の出雲大社周辺は沼沢地が広がっていたという見解で、そういえば周辺より少し高い位置に立地しているはずだ。何となくすがすがしさを覚える聖地らしい空間だが、創建時は中心から離れた僻地だったようだ。現在みているのは、その後開拓され発展した出雲平野ということだろう。
他、出雲大社信仰が全国に広まっていく中で、上方からもたらされた能楽だったか、神楽の舞を洗練させたというような記述があった。石見神楽もその延長上にあるのだろう。
米子市の宗像神社の項、元々は吉備の影響が強かったが、その後北九州の勢力が伸びたようだ。関連して安曇という地名が目にとまる。石西地域、益田市周辺の郷土史で安曇族について触れた記述があったが具体的なことが分からなかった。海人系の安曇族が日本海を遡上して移動、移住したという解釈のようだ。伯耆地方に到るまでに石見、出雲地方も経由しているはずで、ようやく腑に落ちたという感じ。
丹波の櫛岩窓神社、江戸時代の地誌「石見八重葎」では浜田市の石見天豊足柄姫命神社は櫛岩窓神社から豊岩窓命と櫛岩窓命を勧請したという記述があって目にとまる。
石見地方の民俗神として大元神とサンバイ(三祓)が取り上げられていた。大元神楽は邑智郡を中心にして古い神楽が継承されている。神がかりによる託宣が明治以降禁止されたことにより、神職から民間へ神楽の担い手が替わり、神事的な儀式舞から能舞的なものに興味が移ったとのこと。派手で娯楽性を強めた石見神楽の隣で古くからの原型をとどめた大元神楽が息づいているのが石見地方らしいのかもしれない。他、神がかりは事前に長く潔斎することもあって非常に体力を消耗するそうだ。

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