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2009年1月

2009年1月10日 (土)

だらじむこ 漬物と風呂

もう一つ、“だらじむこ”。出雲の昔話。

 とんとん昔。あるところに、“だらじ”な婿がおったそうな。
 飯を食った後で、嫁さんがお茶をついでくれたけれど、熱いの何の。
「やれ、熱いことだ。飲めんがな」
 と、ふうふう吹いたそうな。
 それを見た嫁さんは、
「まあまあ、お前さん。そんなにふうふう言うものじゃありません。みっともない。熱いときは漬物で茶碗の湯を混ぜれば冷めるものです」
 と教えたそうな。

 嫁さんの家に婿入りしたある日、
「風呂が沸いたから、お入りなさいな」
 と言われて風呂場へ行ったそうな。
 蓋をとって開けて手をつけたら熱いの何の。
「やれ、熱い熱い。おい、嫁さん、漬物だ、漬物だ」
 と漬物をとってもらい、それで風呂桶をまぜたそうな。
 だけど中々ぬるくならなかったそうな。それでこっぽし。

 …という内容。「島根のむかし話」島根県小・中学校国語教育研究会/編著者 , 日本標準, 1976)。
 出雲弁を標準語風に直した。

 東北地方辺りだとお茶請けに漬物がよく出るそうだが、漬物で湯を冷ましたりするのだろうか?

 「日本昔話通観 第18巻 島根」では、モチーフ構成として「言葉どおりに従うこと」「行為について教えられたことをその言葉のとおりにする」としている。(490P)

◆余談

 近所の家に昔風の風呂釜があった。下は鉄製で熱いので丸い木製の板を敷いて風呂桶に入る。湯が冷めにくいのがメリット。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著者 , 日本標準, 1976)pp.147-148
・「日本昔話通観 第18巻 島根」(稲田浩二, 小沢俊夫/編, 同朋舎, 1978)pp.486-490

記事の転載先 →「広小路

 

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だらじむこ カニとふんどし

出雲の昔話。

 とんとん昔。
 あるところに“だらじ”の若者がおったそうな。
 それが婿入りすることになったところ、若者の母が
「嫁さんのところへ行ったらカニがごちそうで出るかも知れん。そうしたら、ふんどしを外して膳の先へやって食え」
 と教えたそうな。

 さて、婿入りすると大きなカニが膳に出たので、
「ふんどし外して食うもんだ」
 と、婿はごそごそ自分のふんどしを外して膳の上へ据えてよばれた(食べた)そうな。
「お前さん、何してるの?」
 嫁さんが訊くと、
「カニを食うときはふんどし外して食うもんだげな」
 と婿は答えた。
「まあ、お馬鹿さん。そりゃ、お前さんのふんどしじゃなくてカニのふんどし(腹)のことだがね」
 それで婿はまたふんどしをごそごそと履いて、今度はカニのふんどしを外して食ったそうな。それでこっぽし。

 ……という内容。「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1976)。他にも幾つか「だらじむこ」の話が収録されている。

 出雲弁の語り口が面白いのだが、標準語風に直してみた。石見の話でないのだが、「島根のむかし話」は出雲地方の話の方が好みかもしれない。

◆モチーフ

 「日本昔話通観 第18巻 島根」ではモチーフ構成として、
・ある食物を知らないこと
・愚かな夫
・教えられたことを誤解してやったために災害にあう
・主人公としての愚か者
と分析している。(580P)

◆だらじ

 “だらじ”は怠け者の意味でなかったかなと思い調べてみると、該当する石見弁は“だらず”(怠惰な)だった。出雲弁の“だら”“だらじ”は「おばか、阿呆、間抜け」なのだとか。
Wikipedia日本語の方言の比較表によると雲伯方言、鳥取弁、但馬弁が当てはまる。

 「足らず」が「だらじ」「だら」の語源のようだ。「だらじ」も「だらず」も語源は同じように思えるが出雲と石見でニュアンスが異なるのはどうしてだろう?

 英語だと innocent が「純真な」「間抜け」の両義的に使われる。用法が違うが、静岡弁では「~だら?」と語尾につける。同意を促すニュアンス。

◆余談

 昔、山陰本線・出雲市~京都を結ぶ鈍行の夜行列車「山陰」があった。夜、出雲市駅で乗り換えて発車を待っていたのだが、周囲の人達の会話が出雲弁で、あ、こういう感じなのかと思った。ブルートレインはほとんど姿を消したし、そういう情緒ある空間は今は少なくなったかもしれない。

◆参考文献

・「島根のむかし話」(島根県小・中学校国語教育研究会/編著, 日本標準, 1976)pp.140-142
・「日本昔話通観 第18巻 島根」(稲田浩二, 小沢俊夫/編, 同朋舎, 1978)pp.579-580

記事の転載先 →「広小路

 

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2009年1月 2日 (金)

浜田帝都化計画

新年第一弾の記事。暗い世相なので大きく出よう。
石見郷之内  七条村 抑七条村と号以所ハ昔考(※原文ママ)霊天皇此里を帝都にせんとひらき七条迄調、今二条不足に付留り玉ふ故名とす。此天皇陵ハ今吉野にあり。然共実は濱田浅井村の岩神則此御神なり。 高弐百六拾壱石五斗 東上來原村、南ハ長見村、西ハ細谷村、北は伊木村隣り。民業農事を勤。 (「角鄣経石見八重葎」編集・発行者 石見地方未刊行資料刊行会, 1999, 108P)
という一文が目に留まる。七条村は金城町七条辺りだとか。確かに金城は開けた土地も多いが、しかし帝都になんて思いもよらない発想だ。しかも紀元前。いいところまで進んで頓挫するのがお話の原型か。「石見八重葎」は江戸時代の地誌。
「濱田浅井村の岩神」は浜田警察署の隣、石神社だろう。他の段落を読んでいて、どうも意味がとれないなと思っていたのだが、これでようやくある程度は呑み込めた(要するに、拾い読みなので見落としてました…)。
孝霊天皇はいわゆる欠史八代、系図上のみの存在で事績が残されていない。出雲の日御碕神社に残る伝説で孝霊天皇の御世に天竺月氏の鬼が来襲したというものがある。こじつけだが、それに備えたという解釈もできるかもしれない。
そういえば浜田城跡の西側に御便殿という明治期の建物があるのをつい最近まで知らなかった。天皇行幸の折に建設されたものだとか。

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