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2008年11月

2008年11月24日 (月)

雲と蜘蛛――山城にまつわる伝説

◆山城の伝説

 「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録されていた「雲とクモ」という伝説(36P)。

 島根県邑智郡邑南町(旧石見町)にある雲井山。標高430メートルほど。山城があったという伝説がある。

 戦国の世の話。井原(いはら)に雲井(くもい)城という山城があった。山が急で攻めにくく、その上、雲と蜘蛛(くも)が出てどこに城があるやら道があるやら迷ってしまう。また、蜘蛛は粘り強い糸で敵兵の身体を巻いてしまう。その隙に城中の兵が斬りこんでくるので、どうしても城は落ちなかった。

 雲井城の下を流れている川は大事な飲み水であった。ところが、水を汲みに降りる娘が時々消えることがある。これはこの山の蜘蛛が娘をさらっていくからだった。これには城中の兵も村人たちも困ってしまった。

 蜘蛛を退治しようと若者が言った。老人は蜘蛛と雲には深い関わりがあると制止した。が、若者はそれを聴かずに蜘蛛を皆殺してしまった。

 果たして敵が攻めてきたとき、雲は湧いてこなかった。寄せ手の兵はこのときばかりと攻め寄せたので城はとうとう落ちてしまった。

http://iwami.web.fc2.com/ibara.htm

島根県邑南町(旧:石見町)の城 ←こちらのサイトで雲井城が紹介されていた。

 石見町の要衝地で山頂に遺構が残されているそうだが、登山道は整備されていないとのこと。蜘蛛の伝説も紹介されている。地図上に記されていないのは山頂まで登る道がないからなのだろう。

島根県邑智郡邑南町の雲井山
雲井山
島根県邑智郡邑南町の天蔵寺
天蔵寺

 夏にドライブしたとき、その山とは知らずに通り過ぎていた。地図で確認すると、邑南町にはいくつか山城跡が記されているが雲井山にはない。

 記憶では蜘蛛が吐いたのは霧だと思っていた。読み返すと、雲を吐いたと記されている。蜘蛛と雲を引っ掛けた伝説でもある。夏にドライブしたときは雨だった。雲井山ではなく火室山(標高652メートル)もしくは冠山(標高859メートル)だと思うが、ちょうど山頂あたりに雲が掛かっているのを見た。蜘蛛が吐いたのが霧やもやではなく雲としたのはそうしたイメージからかもしれない。

雲井山と清流
清流

◆類話

 「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)に雲井城の伝説がいくつか収録されていた(74-78P)。雲井山の山麓には天蔵寺川と岩井谷川と二つの川があり、どちらが伝説の舞台かはっきりとは分からない。
 類話の中には「天蔵寺」という寺院の他、「天蔵(あまくら)谷」「天蔵川」「天蔵谷」「雲井淵」という地名が見受けられるので、天蔵寺川側かもしれない。未確認。

◆蜘蛛淵伝説

 蜘蛛に関して似た話も収録されている。
 蜘蛛淵のほとりで一服しようとキセルを吸ったとき、大きな蜘蛛ではないが、足許に来ては、はばき(脚絆)もしくは草履にえぎ(蜘蛛の糸)を引っかけて淵の水の中へ入っていった。何度も繰り返すので、これはおかしいと蜘蛛の糸を傍らの木の株にかけ直した。蜘蛛は気づかずに糸を掛け続けていたが、しばらく後、太くなった糸がピーンと伸び引き締まった。すると、木が淵に引きずり込まれてしまったという話。

 日本標準『島根の伝説』に「千八尋渕(せんやひろぶち)と長九郎(ちょうくろう)」というタイトルで類話が収録されている。これは詳細な話が未来社『石見の民話』第二集にも「千八尋渕」のタイトルで収録されている。

◆アニメ

 アニメ「まんが日本昔ばなし」で放送された「浄蓮の滝の女郎ぐも」(出典:岸なみ「未来社刊より」, 演出:若林常夫, 文芸:沖島勲, 美術:門屋達郎, 作画:若林常夫)の回がほぼ同じ内容だった。舞台は天城山中の浄蓮の滝(静岡県伊豆市湯ヶ島)。蜘蛛が木こりの足に糸を掛け、それを切り株に移すと、切り株が滝壺に引きずり込まれるくだりはほぼ同様である。
 このエピソードでは木こりが二人登場、一人はそのまま逃げ去る。もう一人は斧を追って滝壺に飛び込む。と、水中に女人(蜘蛛の化身)が現れ、浄蓮の滝の古木は斬ってはならない。約束を守るなら斧は返すが、決して他言してはならない。もし、誰かに話せばお前の命を奪うと言って姿を消す。無事帰った木こりだが、あるとき酒に酔ってふと漏らしてしまう。と、たちまちのうちに木こりは倒れ絶命してしまったという粗筋となっている。

◆蟹が迫城の竜――江津市渡津町

 「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)第10章口承文芸の節に「蟹が迫城の竜(渡津)」という昔話が収録されている。話の筋は上記伝説とほぼ同じだが、ここでは雄と雌の竜が霧を城に張りつけていたとされている。あるとき雄の竜が城の姫を呑んでしまったため、城兵によって射殺される。雌の竜だけでは城を全部隠すことはできず落城。雌の竜は江川へ逃げてしまった。そのため水の涸れることのない池だったが、ただの堤になってしまったという内容。

◆余談

 昔読んで印象に残っていたのだが、はて、どの本に収録されていたのかと思っていた。通読していなかったため見落としていた。それはともかく、やはり「島根の伝説」は暗い話が多いと再認識。
 城郭ファンにとって山城の遺構を探すのも楽しみの一つだそうだが、僕がやると遭難するオチだろう。ちなみに横浜市の茅ヶ崎城址公園は市営地下鉄・センター南駅から5分少々で中世の城郭の遺構をお手軽に観察することが可能。
 小学生のとき担任だったO先生、確か江津のお寺さんの出だった。又聞きなのだが、ご先祖は戦に敗れて仏門に入ったとのことで、邑智郡の歴史と深い関わり合いがあるのではないかと思う。

 学生だった頃、はじめて上京して一月か二月が過ぎた。快晴の日が続いて、日本晴れとはこういうことかと実感した。無論山陰でも快晴の日はあるけど、関東に比べればやはり天気の変わりやすさはあると思う。
 日本海側の空は雲が低く流れていく印象。雲の高さが違う。関東では空の高みに雲がある。個人的には関東の青空に解放感を覚えたが、人によっては山陰の低く垂れ込めた雲に圧迫感を感じるのだろうか。
 正月に帰省時、朝目ざめると薄暗いまま。何時だろうと思って時計をみると7時を過ぎている。少年時代の記憶をたぐり寄せる。冬の朝は日が昇るのが遅いこともあるが、曇り空で薄暗さがしばらく続く。関東だと朝6時台でかなり明るくなるので違いを認識。
 山陰の気候を疎ましく思う人もいる。暗いイメージを嫌う人もいる。実は少年時代はピンとこなかったのだが、山陰から外に出てようやく気づいた次第。

◆参考文献

・「江津市誌 下巻」(江津市誌編纂委員会/編, 江津市, 1982)
・「島根県邑智郡石見町民話集 2『妖怪譚』その他」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学教育学部国語研究室, 1986)pp.74-78
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)p.36, 143.
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)pp.149-158
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.366-368.

・邑智郷の言葉
記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2008年11月22日 (土)

出雲からそれるが…

出雲学通信・第4号 第3回出雲学フォーラム「出雲が存在した謎」

を読む。学説の別れる細かいところは判断できないが、一応読めた。ちょっとは知識がついてきたのかもしれない。

考古学的には大まかに出雲、吉備、大和、北九州、越(北陸)、東海と勢力範囲が分かれる。出土品から各勢力の関係がどう変遷していったか推論していく内容。

奈良の纏向(まきむく)にはいつか行ってみたい。倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は卑弥呼や天照大神とどこかイメージ的に重なる部分があるように思える。といっても陰(ほと)を突いて亡くなった――天照大神に仕える巫女が――とかだが。巫女的存在であったのは間違いなかろう。

邪馬台国畿内説では箸墓古墳が築造時期や規模から卑弥呼の墓と有力視されているとのこと。昼夜休むことなく塚が築かれたというのは急な死を暗示しているのか。古事記では百襲姫にはあまり触れていないようなので、記紀の対比としても興味深い。

でも、生き埋めにされた生口の骨が出てきたりしたら嫌だ。ただ、魏志倭人伝の記述は伝聞によるものだろうから必ずしも正確な姿を伝えているとは限らない。

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2008年11月16日 (日)

島根における名馬池月伝説

◆洗足池

 東京都大田区南千束の洗足池公園。周囲約1.2キロメートルほどの公園。日蓮上人が足を洗ったという伝承があり、勝海舟ゆかりの地でもある。

東京都大田区南千束の洗足池公園
千束八幡神社
池月発祥伝説の由来
洗足池。千束八幡神社と池月伝説

 池のほとりにある千束八幡神社に池月という名馬の伝説がある。再起を図り洗足郷で陣を構えた源頼朝の前に一頭の野生馬が現れた。捕らえたところ、青い毛並みに白い斑点が池の水面に映る月影を思わせたので池月と名づけられた。その後、源義経が宇治川の戦いで木曽義仲を攻めた。宇治川先陣争い、佐々木高綱に下賜された池月は梶原景季操る麿墨と先陣を競い、見事勝ったとされている。

池月の絵馬
池月像

◆島根に残る池月伝説

 池月の伝説は全国に伝播したようだが、島根県にも伝説が残されている。現在の雲南市掛合町の龍頭滝(りゅうずがたき)に母馬を亡くした子馬がいた。子馬は水面に映る己の姿を母馬と思い滝壷に飛びこむことを繰り返す。やがて子馬は泳ぎの得意な馬へと成長した。

 邑智郡邑南町阿須那(あすな)(※旧羽須美村)の牛馬市に出されたその馬だが、都賀本郷で江川にさしかかった。雪解けで江川は増水していた。いかだに馬を乗せて渡そうとしたとき、馬は川に飛びこむと、増水した急な流れをものともせず向こう岸まで渡ってしまった。馬はかつてない高値で阿須那の博労に落札、その後、馬は阿須那城主に売り渡されたという(「島根の伝説」島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)。

邑智郡邑南町阿須那の賀茂神社
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
阿須那・賀茂神社と池月を繋いだとされる枯木
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の神馬図
賀茂神社の文化財・解説
神馬図
江川・江津市松川町付近
江川・江津市松川町付近
江川とカヌーをする人

江川。江津市松川町付近で撮影。池月が泳いだとされるのはもっと上流ですが、とりあえず。アンテナ塔の建っている山は島ノ星山。カヌーを楽しむ人も。

 「随筆 石見物語」(木村晩翠, 白想社, 1993)にも池月の伝説が収録されている(93-94P)。買い手の博労が指を六本だしたので持ち主は六百文と思い承諾したところ、買い手の博労はこの馬は名馬の相があるので六百両でもまだ安いと言った。果たせるかな、鎌倉に引き出され頼朝に買い上げられた馬は宇治川先陣の誉れを残した、とある。
 「石見物語」では名馬池月の伝説は阿須那の他、邇摩郡馬路村、隠岐国に残っているが、話の筋が大同小異でいずれが真の出生地であるか不明であると結んでいる(94P)。

 「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)にも池月の伝説が収録されている(187-192P)。馬路の伝説の他、類話として隠岐、邇摩郡、邑智郡などのものも収録されている。逃げた池月に「駄駄」と声をかけると立ち止まったという。

 広く日本各地に伝播した伝説、島根県では邑南町阿須那(旧羽須美村)の賀茂神社に池月を繋いだとされる柏の木(現在は枯れている)が残されているとか。龍頭滝は奥出雲。

◆鹿児島県指宿市・池田湖の池月――まんが日本昔ばなし

 「まんが日本昔ばなし」では「池月」のタイトルでアニメ化されていた [※鹿児島の伝説(角川書店刊)より, 演出:芝山努, 文芸:沖島勲, 美術:千葉秀雄, 作画:藤森雅也]。
 鹿児島県指宿市の伝説で、池田湖周辺が舞台となっている。島根の伝説とは内容が異なっている。不気味な池田湖を怖れ、近寄らない人々を余所に子馬の池月と母馬は毎日のように池田湖で泳ぐようになる。その見事さが評判となり都にまで伝わる。源頼朝の命で池月は鎌倉へと送られることとなる。池月と引き離された母馬が池田湖に飛び込むと、大きな渦が母馬を呑み込んでしまったという粗筋。
 最後に鎌倉に送られた池月はその後活躍したことがナレーションで語られる。母馬は湖に姿を消してしまいました。その後、池月は活躍したそうです……と哀しいのかめでたいのかよく分らない締めくくり方をしている。
 物語冒頭で源氏の許で活躍した池月という馬がいたことを紹介し、それから伝説に入っていく構成にすればその辺の違和感は抑えられるのではないか。が、敢えてそういう構成にしたのかもしれない。いずれ出典の「鹿児島の伝説」に収録されたお話を読んでみたいと思う。

◆鹿児島の伝説

 角川書店「鹿児島の伝説 日本の伝説11」に池月の伝説が収録されている。「まんが日本昔ばなし」の原作である。

 指宿(いぶすき)と開聞(かいもん)の境目にある池田湖は九州一の湖だ。この湖では不思議なことばかり起きる。日照りが長く続いて、里の者は天を仰いでは嘆いているのみ、湖の水がどんどん増えて近くの田んぼや畑を水浸しにしてしまう。百日もそんな状態が続いて、やがてじりじりと水が退いていく。風もない穏やかな日なのに突然湖に大きな波がたってゴーゴーと一日湖は鳴り続ける。この底の知れない深い湖の底には竜がひそんでいて湖の不思議な出来事はみな竜の仕業だというのだ。本当に竜を見た者もいた。のっぴきならない用事ができて湖の側を通らなければならない場合はアビラウンケンソワカと呪文を唱えながらおっかなびっくりで急いで通るのだった。里人は恐れて池田湖には寄りつかなかった。人間だけでない。山に囲まれた湖なのに水鳥の浮かんでいるのも見かけなかった。人にも鳥にも恐れられた湖だった。

 ところが、この湖を恐れないものがいた。二頭の馬だった。雪より白い馬だった。開聞の牧場で育った馬だったが、岡越え、峠を越えて駆けてくると、不気味に静まりかえった湖の中に水しぶきをたてて飛び込むのだった。この馬は母と子の親子の馬だった。湖に飛び込むと、頭をついと水の上に出し、タテガミをふりふり、彼方の岸めがけて一直線に泳いでいくのだった。二頭の白馬は毎日湖にやって来て、こちら岸から向こう岸へ、向こう岸からこちら岸へと往復するのだった。こちら岸に泳ぎつくと、二頭の白馬は肩を並べて、いかにも睦まじそうに水際の草を食べるのだった。牧場の岡の上に二頭並んで立っている姿はほれぼれするほど美しくみごとなものだった。里の人々は遠い昔にヤマサチ命が竜宮から連れ帰った竜馬の子孫だと噂するのだった。

 この噂が遠い鎌倉まで聞こえた。頼朝公はその噂を聞くと、噂の白馬を手に入れたいと思った。子供の白馬を差し出すようにとの命が開聞の長の許に届けられた。開聞の里人は頼朝公の命を受けて、この上ない名誉と大喜びだ。早速その日の内に白馬をつれて鎌倉に旅立つことにした。子馬を連れて池田湖の見える辺りまでやって来ると、高いいななき声をあげて母馬が走ってきた。子馬の手綱を持っている男に近づくと、いきなり噛みつき蹴飛ばして荒れ狂う。驚いた牧夫たちは必死になって母馬を押さえつけた。その隙に子馬を連れた者たちはとっとと走った。母馬は去って行く子馬を見つめてヒヒンといなないた。峠の彼方に子馬が消えていってしまうまで、いななき続けた。それきり母馬は草も食べなくなってしまった。牧場の岡の上に朝から晩まで立ち尽くして子馬の去った峠をじっと見つめるのだった。思い出したように悲しげないななき声を立てるのだった。何日もそんな日が続いた。さすがに里人は哀れに思った。子馬に別れて七日目のことだった。母馬は池田湖に駆けていって湖に飛び込んで泳ぎだした。湖心までいくと、ぐるぐる激しく輪を描いて泳いだ。白馬の周りに大きな渦ができた。母馬はその渦に巻き込まれるように湖深く沈んでいった。それきり二度と再び母馬は姿を表すことはなかった。鎌倉に着いた子馬は頼朝公からひどく可愛がられ、池月と名づけられた。宇治川の合戦の折、佐々木四郎高綱が白馬に乗って一番乗りの手柄を立てた。あのときの白馬は、この池月だったのだ。

◆余談

 「日本伝説大系」の目次をみると、池月はなぜか妖怪の項目に分類されていた。

 「島根の伝説」のあとがきで
「この深さ、広さなら、馬がいくらでもとびこめますね。」と、同行の人も納得しました。大きくて広い滝つぼでした。(254P)
とあったので永く島根独自の伝説と思い込んでいた。で、疑うことなく今に至った次第。インターネットで検索して全国に広く伝播していることを知る。知らぬは我が身ばかりなりけり。

 邑智郡に池月酒造という蔵本がある。

池月酒造
池月酒造
誉池月・特別本醸造
誉池月・特別本醸造

「誉 池月」という銘柄。日本酒には全然詳しくなく、ピンからキリまで落差が激しいという程度の認識だが(普段は剣菱をときたま飲む程度)、これなら自信をもってお薦めできるのではないか。偶々近所のスーパーに在庫があったが、余所を覗いてみると置いてないようで浜田市内にはあまり出荷されていないか? バイヤーさん、GJ!

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.64-65, pp.89-90
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.198-202
・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)pp.93-94
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.187-192
・『日本の民話 34 石見篇』(大庭良美/編, 未来社, 1978)pp.91-92.
・『鹿児島の伝説 日本の伝説11』(椋鳩十, 有馬英子, 角川書店, 1976)p.95, pp.162-166.

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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2008年11月 8日 (土)

高島のお伊勢さん

◆はじめに

 高島は益田市の沖合いにある島。現在は無人島。

島根県益田市沖の高島
石見舟歌に生きるおイセの物語
石見舟唄に生きるおイセの物語

ハア どんと どんと と エー
波 高島で ヨーソレホイ
おイセよぶ声 なつかしや ヨートコホイ
トノエ ナニオエー ソレソレ

 昔 津田村の娘おイセが高島の若者に嫁いだ。始めの幸せな気持ちは単調>な島の生活にあき やがて望郷の思いに変わった。しかし三里(十二キロ)の海に隔てられ帰るすべもなく対岸を眺めては涙した。ある日、島の周囲は一里(四キロ)あり、三周できると対岸に泳ぎつけることに気づいた。波静かな日、おイセは試みに泳いだところ、島を三周することができた。
 「これで帰ることができる」という喜びに疲れも忘れ、そのまま対岸を目指し泳ぎ始めた。荒磯へ半里(二キロ)の小島に泳ぎ着きあと少しで着くとほほえんだ。
安堵で気がゆるんだのかそのまま息絶えてしまった。
これを知った浦人たちはおイセの心ねを哀み涙を流した。以来この小島を「伊勢島」と呼び「石見舟唄」に歌い継がれている。

鎌手地区連合自治会
山陰道鎌手保存会

◆高島にまつわる伝承

 「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)に収録された「高島のおいせ」(122-126P)という民話。

 対岸の津田から高島に嫁に入ったおいせ。はじめはもの珍しかったが、やがて故郷が恋しくなった。三里(約12キロメートル)の距離と聞いたおいせは島の周り(約4キロメートルで一周)を泳ぎはじめる。なんとか3周できるようになったおいせはある日、対岸を目指し日本海を泳いで渡ろうと試みる。が、荒波で疲れたおいせは対岸から約2キロメートルの地点にある小さな暗礁にたどり着くと休む。が、天候が悪化。やむなく再び対岸を目指し泳ぎはじめたおいせを波が呑みこんでしまう。おいせの遺体は鎌手の浜に打ち上げられたという内容。

 浜田市でも粟島の鶴という娘の名で伝承されているようだ(同248P)。

 海上保安庁のサイトで高島について詳しく紹介されており、お伊勢の伝承も掲載されている。

高島灯台について/浜田海上保安部沿岸域情報提供システム

 高島は「ちび姫さん」(234-238P)でも舞台の一つとなる。赤雁の背に乗った乙子狭姫が一休みしようと高島に降りたとうとしたところ、大山祇神の遣いである鷹に我は肉食ゆえ五穀はいらぬと拒まれてしまう。このため島で作物があまり獲れないという説話になっている。「石見鎌手郷土史」(矢冨熊一郎, 1966)によると実際鷹や雁がいたようだ。

唐音海岸から望む高島
唐音から望む高島

◆アニメ

 まんが日本昔ばなしでアニメ化されていた。youtubeにアップロードされていたのを鑑賞。タイトルは「お伊勢物語」。演出:大橋六郎, 演出:沖島勲, 美術・作画:なべしまよしつぐ とクレジットされている。出雲・石見の伝説(角川書店刊)よりとある。「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)だ。
 元となった伝説より更に暗いトーンの演出となっている。お伊勢たちの貧しさが強調されており、東北の寒村のようなイメージすらある。
 一方、島を三周するくだりはない。島を三周して……というのは、お伊勢の浅はかさでもあり、アニメではただひたすら故郷に帰りたいと願うお伊勢像になっている。
 アニメで先ずお伊勢の伝説に触れ、それから出典に収録された伝説を読んだら拍子抜けする人もいるかもしれない。
 伝説を約10分程のボリュームに膨らませるため脚本家の手が加えられているはずだが、どうやっているか比較できた。コメントを読むとトラウマと書いているものが幾つかあった。
 アニメとして放映されたとき、新たなお伊勢像に基づく伝説のバリエーションが生まれたと言えるかもしれない。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.108-109, pp.144-149
・「石見鎌手郷土史」(矢冨熊一郎, 1966)
・「石見高島の秘話」(矢富熊一郎, 益田史談会, 1960)pp.45-48
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.122-126

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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八咫烏=石見弁説???

益田市の方言を収録したサイト

訛懐かし、益田の標準語
http://members3.jcom.home.ne.jp/do_inakaka/language.html

カア = 意味なく、発句の時、言葉のつなぎに多用。石見国から東征軍に加わった神が「カア、カア」と言葉を連発するので、これを東征軍の神々がおもしろがり「石見のカラス」というニックネームを与え、これが「八咫烏」の語源になったそうだ。もっとカアカア云おう。

「はぁ」「まぁ」「かぁ」など確かによく使う。「かぁ」は怒ったり呆れたりしたニュアンスか。神代の昔に石見弁が存在したかどうかよく知りません(笑)

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