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2008年3月

2008年3月16日 (日)

いわがみさん――天豊足柄姫命

◆はじめに

 浜田警察署の隣に石神社という神社がある。浜田藩歴代藩主を偲ぶ石碑が神社の裏にあるが(亀山神社)、ここの祭神は天豊足柄姫命(あめのとよたらしからひめのみこと)という石見を開き、衣食の道を授けたとされる女神である。「いわがみさん」と地元では呼ばれているそうだ。
 「トヨタラシ」は豊かに足らすという意味。江戸時代の文献では「トヨタリ」と読んでいるので、どこかの時点で変わったようだ。「カラ」は唐、韓の「カラ」とする説や「栖」の誤写(タラスと読むか)という説がある。

島根県浜田市の石神社
石神社・石碑
石神社・碑文の解説

 碑文で石と化したという伝説に触れている。信じがたいと内容には言及していない。調べてみると、伝説の変遷がうかがえた。祟りをなす岩を神が剣で叩き切った、それで祟りが止んだという説話が、岩が大蛇と化し、天豊足柄姫命と思しき女神が登場するように変化していく。更に時代が下ると、女神自身が大蛇退治に乗り出すという勇壮な女神像へと変化し、新作神楽の題材ともなっている。

◆石神社

 石碑によると、天豊足柄姫命神社は式内社だが中世以降衰えていたのを明治期に現在の形に復興。江戸時代の地誌「石見八重葎」を読むと、浜田藩時代は藩士の屋敷内にあったようだ。
碑文の解説
石神は石見の天豊足柄姫命を御祀りしてある神でありその伝によると神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない推測する処では神は石見国をお開きになって民に功徳を与えられたので民はその徳をお慕い尊んで御殿を造ってお祭りしたものであったその位式内にのっているのを観ると当時の御殿がいかに大きくしかもお祭りが厳粛で栄えたことを知る中古以来禍乱が相続いてお祭りも出来ず廃れたことが数百年明治の世になって藩を廃し県が置かれ信寛この地方を治める事になって朝廷に敬神の念あるを申し上げ石神の由縁のある処となってその後復興に萌え茲に新しく御殿を造ってお祭りをし県社とすることを議り県民をして末永く尊崇するようにしむけた
この事をしるす為に石に刻みつけた
碑文の解説。
「岩上は今の石神にて岡田氏の邸やかて其舘の跡ならんと想はる。此の邸内に式内の石見天豊足柄姫命神社あり今は懸社にて郷社を兼ぬ是は穀麻に就て大麻三宮と同時に祀られ給ふ」
「濱田鑑」(藤井宗雄, 安達共栄堂, 1905)p.7
 ※大麻三宮は大麻山神社と大祭天石門彦社(三宮神社)。

 この三社について、「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)に収録された藤井宗雄「石見国式内神社在所考」から引用。
大麻山神社
 祭神天日鷲命にて、天石門彦神社と由緒ありて、同時に祀られ賜ひし社なるべし。在所は室谷村にて、大麻山といふ是なり、

石見天豊足柄姫命神社
 石見は地名なり、祭神世襲足媛命といふは採らず、是は天石門彦神社の攝社ともいふべき社にて、彼神に由緒ある神に坐す、在所淺井村にて、濱田郭内に鎭座す、世に石神と稱する社なり、

大祭天石門彦神社
 祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348
 藤井宗雄は明治期に活躍した浜田出身の国学者。

◆伝説

 戦前のものであるが「島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)」(島根評論社, 1936)所収の「石見に頒布せる石神について」(千代延尚壽,)が網羅的で、ほとんど言い尽くされているのではないか(2-13P)。島根県立図書館・郷土資料室で閲覧可能。

 邑智郡邑南町の龍岩神社の伝承も紹介されている。姫の名はないが、龍岩神社に掲示された由緒書(「古時抜粋」からとある。おそらく「浜田古時抜粋」かと)では天豊足柄姫命と明示されている。

島根県邑智郡の龍岩神社
龍岩神社・ご由緒(古事抜粋)
横から見た龍岩
正面から見た龍岩
龍岩神社と古事抜粋(由緒書)、および龍岩(※クリックすると画像が拡大します)。確かに蛇の頭のよう。

 碑文の「石と化した」という件は「石見海底の伊久里」という本で引用・紹介されてる。
浜田古事抜粋に曰、八束水臣津野命あもりましゝ時、ひとりの姫神[御名ハ石見天豊足柄姫命]あらはれて、告げていはく、此国ニ八色石あり。山をから山となし。川を乾川となし。蛇と化て、常に来て民をなやますと、命国蒼生の為に之を亡さばやと、おもほして、姫神のたつきのまにまに(※くりかえし)、其所に到り、其石を二段に切たまへば、其首、飛去て邑智の郡龍石となり、其尾は裂て、這行美濃郡角石となる。是より国に禍なしとて、姫神いたく喜悦て、やがて吾廬にいざなひて種々に、もてなしつ。かれ命いなみあへで廬にやどりて、夜明て見たまへば、其姫神忽然にかはりて、一の磐となりき。命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき。かれいはみといふと。
独酔園独醒「石見海底能伊久里」(『石見国名所和歌集成』収録, 工藤忠孝/編, 石見地方未刊資料研究会, 1977)p.53
 おおざっぱに訳すと……八束水臣津野命(出雲風土記に登場する神)が天下ったとき、ひとりの姫神が、八色石のため石見の国の山は枯れ川は干上がり、蛇と化して民を悩ましていると告げた。命は国と青民草のためにこれを亡ぼそうと思し召し、姫神の手引きのままに赴き、八色石を二段に斬ると、その首は飛んで邑智郡の龍岩となり、その尾は美濃郡の角石となった。これで災いがなくなったと姫神は喜び八束水臣津野命をもてなした。命はどうにも否むことができず、庵に宿をとったが、夜が明けると姫は忽然として一つの磐となっていた。命は訝しくお思いになって、これは不思議な岩を見たことだなあとおっしゃった……という内容。「いはみつる哉」を石見の語源とした地名説話的なものか。姫の名を石見の語源とする説もある。
「(前半省略)
 命訝しくおもほして、此はあやしきいはみつる哉と、のりたまひき、かれいはみといふ龍石といへるは、邑智郡に八色石村といふ駅ありて、その所の荘屋野田鹿作が家の上なる山に、八色の石のあなるを、やがて神体として祭れるなん龍石なりき。其祭れる事の基を聞くに、此石ともすれば、人に祟りて、えならぬ。蒼生の歎ともかくも、しのびがたかりしを、公のきこしめして、素佐嗚尊を祭りそへたまひしより、祟らずなりしとかや。
三月三日祭日也。上ること八丁、岩の形よく観に、うへも蛇の頭の如し。山を下て、鳥居の前なる田中に一つの岩のあなるをば切まゝ時たばしりし血の、化れりし也といふ。また一丁上て川中に夫婦石とて二つあなる、是も血の飛散て化りしと語伝えたり。」
龍岩神社由緒書の後半部分。

 「石見八重葎」でも同様の伝説が収録されている。
又有説に邑智郡神稲の郷雲州の八岐大蛇の末葉出て山ハ枯山となし、川ハ干川となして、民を苦む故大穴持命、是を三段(キタ)に切給ふ。頭同郡邑智郡之内八色石村へ飛て、人馬を苦む。依て村民須佐能男命を祭りて鎮之ハ其霊八色の石となり、須佐能男尊と一所に祭り込、八色大明神と申スよし、村老人の傳にいへり。此所より石見と申由。(以下略)。
(「角鄣経石見八重葎」石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)pp.5-6
 と、八岐大蛇と関連づけされている。ここでは姫神が石と化したという記述はない。石と化したという結末は後に挿入された可能性もありえるか。

 ちなみに、鹿足郡の奇鹿神社にまつわる八畔鹿の伝説でも八岐大蛇と関連づける内容のものもあり、共通性が見受けられる。

 「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覽会協賛會/編, 臨川書店, 1986)に掲載されたものでは、
 茲に又石見にては、石見天豊足柄姫命によりて、開拓豊足(ひらきたら)され、民皆皷腹せる時荒ぶる神あり、東西呼應蜿蜒(えんえん)長蛇の形となりて民(中略)を襲ふ。今ぞ危急といふ秋、姫神出雲朝廷より八束水臣津野命(やつかみづをみつぬのみこと)の來援を得大に撃つて之を三分し遂に衰亡に終らしめきといふ。かくて凱旋(かちいくさ)の宴(さかもり)に八束水臣津野命以下の將士を慰勞(ねぎらひ)し、夜姫はみまかりて、石となりたまひぬと傳ふ。
 (略)
 姫命の身は、まかり給ひぬとも、其功績は常磐堅岩に石となりて傳はるべし(71P)。
 これを大ざっぱに要約すると、天豊足柄姫命によって石見の国は開き豊かに満ち足りた。腹鼓を打つように民は平和を謳歌していたが、そのとき荒ぶる神が現れ東西に呼応、蜿蜒たる長大な蛇と化して石見を襲った。今ぞ危急の秋、天豊足柄姫命は出雲の国・八束水臣津野命の救援を受けてこれを迎え撃ち、大蛇を三つに断ち切って滅ぼした。その労をねぎらう宴が催されたその夜、天豊足柄姫命はみまかって石となってしまった。姫はお亡くなりになったながらも、その功績は盤石のものとなって伝わるだろう……という筋になっている。

 「那賀郡誌」が執筆された大正時代まで下ると、石見の気風に合わせてか勇壮な筋立てとなっている。

 新作神楽としてこの伝承が取り上げられていて、そこでは姫は大蛇の瘴気に当って亡くなり、石と化して見守るという筋となっているそうだ。

 「石見に頒布せる石神について」では更に原型に近い話も紹介されていて、祟りをなす岩をスサノオ命が断ち割り、その結果祟りが止む、というものである(8P)。「昔、淺井の岩神社の境内に……」とある。現在は殿町だが、「那賀郡誌」に「石見天豊足柄姫命(郡内濱田町淺井式内神社祭神)」とあるので石神社のことだろう(68P)。

 「石見海底能伊久里」では後段で、
こにも猶三段に切たまひき、とあるに付て、大士三段の中、尾と首の伝はありて、中身の伝なきは浜田の城山に祟石とて、人さはれば、必祟、石のあなる。是其中身の化れるにやと。[古田殿、此城を築れし中ニ、かにかく、人に祟りてせんすべなかりを宮柱たてゝいつきまつりしより祟止しとかや。されど其程ハいまだ古学といふ事のいさゝかも開けざりし頃なれば、たゞ祟るを恐るるのみニて、かゝる古の謂をしらざりしことあぢきなき事なれ。殊に祭主も観音寺といふ禅寺也とかや。こもほいない。]
独酔園独醒「石見海底能伊久里」(同)p.53
 おおざっぱに訳すと……ここにもやはり三段に切り給うたとあるのについて、大士(※すぐれた人)曰く、三段の中、尾と首の言伝えはあって中身の言伝えがないのは、浜田の城山に祟石といって人が触ると必ずや祟る石があるという。これはその中身の化けたものか。[古田殿、この城を築かれた中、いろいろと人に祟ってなす術がなかったのを宮柱を建て潔斎し祭ってから祟りは止んだとか。だが、その頃は未だ古学(※儒学)が少しも開化していなかった頃なので、ただ祟るのを恐れるだけで、かような古の謂れを知らなかったことは味気ない事だろう。その上祭り主も観音寺という禅寺だとか。これも本来の趣旨ではない(※本意ない)。
社後の石神は概五千年の昔し穴門國たりし時に恠(※怪の俗字)石あり迦杼田命こを八束水臣津野命に訴ふ命これを阿麻杼命久麻杼命に令て八段に割裂しめ給き故れ其地を石見と謂ふとあり其石いまも現然たり阿麻杼と濱田と音通ふ
(「濱田鑑」藤井宗雄著, 安達共栄堂, 1905)p.8
「濱田鑑」では神の名が一部異なっている。杼はドと読むようだ。

 邑智郡の龍石や美濃郡の角石だけでなく、浜田城・亀山(浜田城創建以前は鴨山)にも祟る石の伝承があったようだ。ただし、江戸時代初期くらいまで遡るのはともかく、神社創建時代からこのような石の伝説があったとまでは言えないだろう。姫神の荒御魂という見方もできるかもしれない。
 思うに、石の祟りとされる出来事があって、須佐能男命もしくは八束水臣津野命を祀ったところ、祟りが止んだ。そこから神が石を切ったという伝説となったのではないか(というか龍岩神社の由緒書の後段に書いてあります)。

第1回浜田城周辺整備検討会
城山の下の広場に大きな岩があるが、これは元々は石神神社にあった信仰の岩なので、大切にしてほしい。
 浜田市のサイトに上記のようなコメントがある。具体的にどこの岩か分からないが、もしかすると祟る石とはこの岩のことなのかもしれない。現在も本殿裏に砕けたような岩があるが、元々はこちらの岩のことなのかもしれない。

◆大祭天石門彦社

 同じく市内相生町にある大祭天石門彦社(浜田川を遡ったところ、バイパス出入口付近)。三宮神社(さんくうじんじゃ)とも。
 祭神の手力男命、天石門別命は天の岩戸、天孫降臨に縁の神。また、諏訪から建御名方命を勧請している。

島根県浜田市の三宮神社・拝殿
三宮神社・本殿
三宮神社・ご由緒
三宮神社・特殊神事について
大祭天石門彦神社(三宮神社とも)。
詳しい社伝は焼失したが、贄狩祭神事に特徴があるとのこと。
三宮神社・本殿裏の巨岩
三宮神社・本殿と烏帽子岩
烏帽子岩
本殿が修築中で本殿裏の巨岩が見やすくなっています。写真右は烏帽子岩。

 天石門別命の別名は櫛石窓命・豊石窓命。天孫降臨の際ニニギ命に従ったとされる。御門(みかど)を守る神(「日本神名辞典」神社新報社, 2001)とされる(24-25P)。

◆世襲足媛命

国立国会図書館・近代デジタルライブラリーで江戸~明治期の資料が閲覧できる。
・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録(かくろく)」
・栗田寛「神祇志料」
 天豊足柄姫命を世襲足媛命に比定する説が通説か有力説のようだ。

 世襲足媛命は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の母。天足彦国押人命は浜田市下府町の伊甘神社の祭神である。
 石央から石西にかけて春日族系(小野族や櫛代族など)の祖霊を祀った神社が多くある。氏族の祖に当たる天足彦国押人命が解釈の基準となっているのだろう。櫛色天蘿箇彦命や櫛代賀姫命もそうだ。

 浜田出身の藤井宗雄が「祭神は世襲足媛命といふは採らず」としているのが興味深い。
 「石見に頒布せる石神について」では誣言としているが天石門彦命の后神としているものもある(6P)。天石門別命の「別(わけ)」は上代の天皇の名にも見受けられる。

◆斉明天皇

 そもそも、天豊足(あめのとよたらし)は斉明天皇(皇極天皇)のおくり名が天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)であることに由来するのではないか。なので、斉明天皇の時代まで遡れるだろう。

◆石見八重葎

 江戸時代の地誌・石見八重葎では石神社の祭神は豊岩窓命、櫛岩窓命としている。
式内正五位上
石見豊足柄姫命 [但し高八尺、廻り壱丈六尺]
    豊岩窓[※旧字体。しょうへん爿]命
 祭神 櫛岩窓[※旧字体。しょうへん爿]命  岡田御氏境内ニ有り
    太玉命ノ御子也
  本居ノ作神代正語ニハ天ノ石戸別神
  又櫛石真門神、又ノ名豊石真門神
丹波多記(紀)郡石窓神社鎮座 宇多御代寛平四壬子十ニ月昌泰[※異字か]二年己未二月授位云 豊岩窓ハ陰神ニテ又ノ御名ハ豊足柄姫命ナリ。此地在山陵石見守護神故称セリト鎮座記ニ曰リ。又諸臣姓傳ニモ祥(詳)ナリ。神形丈余ノ盤ニテ世俗岩神明神ト云。此櫛岩窓御神又ノ名天石戸別命(ト)モ云。古事記ニ見ヘタリ。右ニ名 人皇七代孝霊天皇ノ御神号此子孫ヲ石神朝臣ト云、其後大水口宿祢ト御改又此御方ヨリ六世ノ孫采女朝臣ト申タテマツル。委ハ新撰姓氏録ニ見ヘタリ。(以下略)

(「角鄣経石見八重葎」(同, 1999)p.94
 同じ頁で「(前略)此豊岩窓命を丹波より奉観(勧)請是に依テ表向ハ石見豊足柄姫命と延喜式にハ出ル。」(同 94P)とある。この段は後述する七条村(金城町)の伝説として語られているようだ。

 「太玉命ノ御子也」とあり、大麻山神社や大祭天石門彦社との関係がそれとなく示されている。

◆三代実録

 日本三代実録の清和天皇・貞観十六年(874年)に、
八日癸巳。石見國上言。石神二自出雲國來。是日。並授從五位下。
(「國史大系 第4卷 日本三代實録」黒板勝美/編, 吉川弘文館, 2000)p.349
 と石神の記述がある。これを天豊足柄姫命と解釈する説もあるようだ(「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)p.871。

◆旧島根県史

 旧「島根縣史」では「石神は畢竟一代の御靈代に過ぎずして祭神は天豊足柄姫命なり」と論じているとのこと(「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」p.871。天豊足柄姫命は天豊足柄姫命ということか。

◆七条村と孝霊天皇

 「石見八重葎」では下記のような伝承も記されている。
石見郷之内
 七条村
抑七条村と号以所ハ昔考(※原文ママ)霊天皇此里を帝都にせんとひらき七条迄調、今二条不足に付留り玉ふ故名とす。此天皇陵ハ今吉野にあり。然共実は濱田浅井村の岩神則此御神なり。
高弐百六拾壱石五斗
東上來原村、南ハ長見村、西ハ細谷村、北は伊木村隣り。民業農事を勤。
「角鄣経石見八重葎」(同)p.108
 孝霊天皇はいわゆる欠史八代の天皇。後世の創作だろう。
 孝霊天皇の母は押姫で天足彦国押人命の娘。

 石見を開いたという石見は石見国というより石見郷か。「那賀郡誌」によると石見(いはみ)郷を「石見、濱田、長濱、三階の一部」周布(主不)郷を「周布、大内、漁山、三階の一部、大麻の東部、井野の一部」としている(91-92P)。浜田川流域から周布川流域、大麻山周辺となる。

◆伊甘神社

島根県浜田市の伊甘神社・拝殿
伊甘神社・ご由緒

 「石見八重葎」伊甘神社の条では祭神を御衣織姫命で天豊足柄姫の妹としている。
式内正五位
 伊甘神社 [除地三石 社司(略)]
清和ノ御宇貞観三年辛巳五月五日鎮座即授位。本朝水土記ニ曰、伊甘ハ川ノ名ナリ。豊足柄姫妹御衣織(ミゾオリ)姫命
「角鄣経石見八重葎」(同)p.109
 孝霊天皇や御衣織姫命は俗説の類か。面白いので残しておく。

◆染羽天石勝神社

 益田市染羽町の染羽天石勝神社。ここも岩石への自然信仰が石神信仰となったものだ。

島根県益田市の染羽天石勝神社・鳥居
染羽天石勝神社・神門
染羽天石勝神社・本殿
染羽天石勝神社・ご由緒
益田東高校のグラウンド奥に鎮座。
注連岩
注連岩と祠
右写真は注連岩(しめいわ)。湧き水で岩肌が濡れている。

◆余談

 石神社の碑文の解説に「復興に萌え」とある。これは「萌え」の現代的用法最古の事例で……というのは冗談で心に萌(きざ)すというニュアンス。碑文には「可興復」の字はあるが、「萌」はないようだ。

 「那賀郡誌」で天豊足柄姫命は石見を開いた神として取り上げられている。豊饒をもたらし充足させることで諍いを鎮め融和を図るという思想が――島国的なものかもしれないが、根底にあるのかもしれない。

 龍岩神社に行ってみたが、400段以上の階段を一気に上るかたちになるので脚が痛くなった。蜂なのか大きな虫にまとわりつかれる。雨で傘をさしていたので、それで防ぐ。虫も警戒しているだけで攻撃まではしてこなかった。
 訪問時は雨で気づかなかったが神社裏から湧き水が出ているそうだ。階段のかなり上の方にカエルがいたので、どうして山頂近くまで上がってきたのだろうと思っていた。

◆参考文献(五〇音順)

・「石見国名所和歌集成(※『石見海底の伊久里』収録)」(工藤忠孝/編, 石見地方未刊資料研究会, 1977)
・「角川日本地名大辞典 32 島根県」(角川書店, 1979)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)
・「國史大系 第4巻 日本三代實録」(黒板勝美/編, 吉川弘文館, 2000)
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)
・「島根縣史 第2巻(国造政治時代)」(島根県史編纂掛/編, 名著出版, 1972)
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)」(島根評論社, 1936)pp.2-13
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・「神社辞典 」(白井永二,土岐昌訓/編, 東京堂出版, 1979)
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覽会協賛會/編, 臨川書店, 1986)pp.65-74
・「那賀郡史」(大島幾太郎, 大島韓太郎, 1970)pp.120-121
・「角鄣経石見八重葎」(編集・発行者 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「日本神祇由来事典 」(川口謙二/編著, 柏書房 , 1993)
・「日本神名辞典」(神社新報社, 2001)
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)
・「濱田鑑」(藤井宗雄, 安達共栄堂, 1905)pp.7-8

※「濱田鑑」「石見海底の伊久理」は島根県立図書館に所蔵。
 「石見海底の伊久理」は県の支援で活字化されている。

国立国会図書館・近代デジタルライブラリー
・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録(かくろく)」
・栗田寛「神祇志料」

藤井宗雄「濱田鑑」も収録されており、閲覧可能です。

国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース
こちらに「石(イシ)」として分類されている。

出典の「旅と伝説」(9巻8号/通巻104号)は国会図書館に所蔵されている。
欠巻のようだ。

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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2008年3月13日 (木)

大麻山と高山の石合戦――再話で上書きされる伝説

◆はじめに

 中学生時代、地理の授業で浜田市内に四国にあるのと同じ神社があるという話を聞いた憶えがある。どこなのか判らないまま時間が過ぎてしまったが、大麻山という標高560メートルほどの山にある大麻山神社と市内相生町の大祭天石門彦神社(三宮神社)のことらしい。

JR周布駅から見た大麻山
浜田市三隅町の大麻山神社
大麻山神社・ご由緒
周布から見た大麻山と大麻山神社
大麻山神社の由来
 当山は天平年中(七二一―七八一)双子山と呼んでいた。仁和四年(八八八)御神託により大麻山と改め、朝廷に奉聞す。寛平元年(八八九)阿波国(徳島県)板野郡大麻山鎮座の大神を勧請し、宇多天皇の勅許により社殿を建立す。
 御祭神 天日鷲命・猿田彦命・大麻彦命(太玉命) 蔵王権現・熊野権現・走湯権現・山王権現・白山権現 いつのほどにか五社権現と呼ばれるようになった。
大麻山尊勝寺庫裏跡・解説
尊勝寺・礎石
大麻山・庭園
神宮寺だった尊勝寺跡の礎石。明治期の大地震で倒壊。廃仏毀釈の時代でついに再建されなかったとある。
(※クリックすると画像が拡大します)

◆伝説

 大麻山にまつわる伝説として、古代、阿波の忌部族が現在の島根県浜田市西部に植民してきた。その際、大麻山周辺に住んでいた小野族(春日族に連なる)と衝突、岩を投げ合ったというものがあるそうだ。

 「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)に、大麻比古(おおあさひこ)命に率いられた阿波忌部族が折居海岸から上陸、三隅の小野の原に住む小野族めがけ大麻山から大石を投げて追い出す。小野族は一時山口県須佐まで押されるが反撃、大石を投げあった。結局、小野族は小野に帰り、忌部族は山を領分とすることとなった(99-100P)という伝説が収録されている。

 ちなみに大麻比古命は馬に乗って海を渡り、折居の浜につくと、これからは陸を舟で行くというつむじまがりな神として描かれている。
 また、この伝説は大麻山と高山の周辺に岩石が多いことの説話ともなっている。

 類話として、益田市に乙子の権現山(比礼振山)と大麻山が高さくらべをして岩を投げ合ったという民話がある。

 「神祇全書 第5輯」(思文閣, 1971)に収録された藤井宗雄「石見国式内神社在所考」から引用。
大麻山神社
 祭神天日鷲命にて、天石門彦神社と由緒ありて、同時に祀られ賜ひし社なるべし。在所は室谷村にて、大麻山といふ是なり、

石見天豊足柄姫命神社
 石見は地名なり、祭神世襲足媛命といふは採らず、是は天石門彦神社の攝社ともいふべき社にて、彼神に由緒ある神に坐す、在所淺井村にて、濱田郭内に鎭座す、世に石神と稱する社なり、

大祭天石門彦神社
 祭神は天石門別命にて、手力男神と同神なり、此所に祀られ給ふは、大麻山神社と共に、穀麻に由緒ありてなり、在所は黑川村にて、世に三宮という社なり、
「神祇全書 第5輯」(同)pp.347-348
 藤井宗雄は明治期に活躍した浜田出身の国学者。浜田市内のこの三社の結びつきは強いとしている。

島根県浜田市の三宮神社・拝殿
三宮神社・本殿
三宮神社・ご由緒
三宮神社・特殊神事について
浜田市相生町の大祭天石門彦神社(三宮神社とも)。本殿裏に巨岩が。
三宮神社・本殿裏の巨岩
三宮神社:本殿と烏帽子岩
三宮神社・烏帽子岩
本殿が修築中で本殿裏の巨岩が見やすくなっています。右写真は烏帽子岩。

 祭神の手力男命、天石門別命は天の岩戸、天孫降臨に縁の神。元は素朴な岩石信仰だったのが後に天岩戸神話と結びついたのだろう。
 詳しい社伝は焼失したが、贄狩祭神事に特徴があるとのこと。諏訪系の神事のようだ。
 由緒書では「石見の国三宮にして創立年代不詳なるも阿波忌部族が第十五代応神天皇の朝石見の山守部となった時に勧請と伝えられ……(以下略)」とある。古くから本殿裏の巨岩信仰はあって、実際に神社が築造されたのは大麻山神社と同じ時期だろう。

◆再話を超えた何か

 「三隅町誌」(三隅町誌編さん委員会, 1971)を閲覧。第二編 歴史(古代) 序章「国造の時代」に続いて「大麻山と高山の石合戦」という題で上記の伝説が収録されていた。
 次の「三隅地方の神話と伝説」(三隅時報社/編)に掲げられている「大麻山と高山の合戦という一文は著者の故寺井実郎氏が史実を系統づけ乍ら実地踏査をして書いたものであって、神話をうまく歴史に織りこんで書かれているので、故人の冥福を祈りつつここに掲載することにする。(84P)
 とあり、単に昔からある伝説を再話しただけではないようにも思える。

 投げ捨てた鞍が島となった。山と山が争い石を投げ合った。近隣住民同士の諍い。海を馬で渡り、舟で陸を行くという不条理さ。いかにもありそうだ。
 こうした移住族間の伝説で、一般によく知られているのが、大麻山と高山の石合戦でありますが、実はこれも忌部族と小野族とのいざこざであります。(85P)
 もしも手が加えられているとしたらこの辺りではないかと考える。石央、石西部には春日族とその同系の小野族・櫛代族などの祖霊を祀った神社が分布する。その中で大祭天石門彦神社・石見天豊足柄姫命神社・大麻山神社といった神社が浜田川・周布川流域に点在するのが異彩を放ち、そこから想像力を働かせたのかもしれない。

 ちなみに「島根縣史」国造政治時代編に下記の近隣騒動の伝説が収録されている。
太古井野村と大麻村とに戰ひが始まつて天馬が馳せ廻つた其の跡が印しつけられた石といふのが大麻山の中腹に今でも残って居る
「島根縣史」(国造政治時代編)742P ※マイクロフィッシュで確認。

島根県益田市の小野神社・鳥居
小野神社・拝殿
小野神社・ご由緒
益田市戸田町の小野神社。
小野神社・解説
 古代大和から春日族の流れをくむ小野族がこの地に移住し、宇多天皇の891年に鎮座した、格式ある延喜式内社で、祭神には小野天大神之多初阿豆委居命ほか13柱が合祀されている。
 また、大田市の物部神社は出雲牽制のためと言われるが、そこから石央、石西の神社にみられる氏族へ敷衍したのかもしれない。なお、出雲の牽制云々について「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)では史的証拠に乏しいとしている。

 「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」では特に断りなく収録されているが、現在のかたちになったのは現代からそれほど離れていない時代なのかもしれない。

 仮に再話・改変された伝説だとしても抵抗なく受け入れられるのは何某かのリアリティがあるからかもしれない。改変されてリアリティを失った伝説を読んだことがあるので余計にそう思う。

◆旧島根県史

 桜井貞光「石見の神々 石見国式内社研究の歴史と問題点」(雑誌「郷土石見」4号, 石見郷土研究懇話会, 1977)を読んでもう少し詳しい背景が見えてきた(2-8P)。
 「石見の神々 石見国式内社研究の歴史と問題点」では石見国所在の式内社に関する文献がいくつか挙げられており、明治から大正期のものとして清水真三郎「石見神祇史稿」が紹介されている。

 「石見神祇史稿」自体は島根県立図書館にも所蔵されていない文献だそうだが、氏族分布からみた石見国式内社の研究と呼べるものとあり、戦前の旧島根県史で大きく取り上げられていることが紹介されている。

 国立国会図書館で旧島根県史「国造政治時代編」を確認(※マイクロフィッシュに収録されているのは3巻。復刻版では2巻となっている)。まだ目を通していないが、鞍島の伝説や大麻山近隣住民の騒動に関する伝説は元々あったようだ。ただし、忌部族・小野族とは言っていない。

 なお、戦後の「新修島根県史 1 考古・古代・中世・近世」(島根県/著, 臨川書店, 1984)では物部氏の部の民として組み入れられたという見解である。
(前略)ただ大田市にある物部神社はもっとも明瞭に氏族名をあらわしており、後世のこの神社の地位から推しても、この附近に相当規模の物部氏配下の部民たる「物部」の集団があったことが察せられる。ただし、それはかつて想像されたように物部氏宗家の分派がこの地方に入植開拓したといったものではなく、古くから集落をなしていたこの地方の住民が、物部氏の部民に編成され、中央豪族たる物部氏に対して貢租や労力を徴収される体制に組み入れられたということである。…(中略)…物部神社の周囲の如きは、石見の国の中でももっとも早く農村の成立する条件をそなえた地域であって、おそらくは弥生前期には集落ができていると思われ、物部氏が入植してはじめて開拓されるといったところではない(169P)。
 出雲の牽制云々については言及されていない。戦後は唯物史観が強くなり、戦前のように歴史と神話を一体のものとしては取り扱っていない。一度別のものとして切り離すことは必然だったのだろう。
 仮に氏族移住的史観とするが、出雲の牽制を中核とした各氏族の石見植民という壮大なスケールの視点・観点は戦後、フェードアウトしていったと思われる。

 三隅町誌が刊行されたのは昭和30年代で、大麻山周辺の伝説を再話する際に戦前の氏族移住史観的なものが織り込まれた。さらに角川書店の「出雲・石見の伝説」に収録されたことで装いを新たにした伝説となったと言えるかもしれない。

 また、伝説として受け入れられた背景に氏族移住的史観の持つリアリティも依然としてあるのではないか。忌部族に関してはよく分からないが、実際神社を訪ねることで小野族や櫛代族にはリアリティを感じた。ワンクッション置くスタンスと言えばいいだろうか、「新修島根県史」でも全面的に否定している訳ではない。

 また、訪問していないが邑智郡の田立神社を地図上で確認して、素人考えだがたたら製鉄と関わりがあるのではないかと思った。ちなみに瑞穂町には現在発見されている中で最古クラス、6世紀頃の遺跡(今佐屋山製鉄遺跡)がある。

◆三隅町の資料より

http://www.u-shimane.ac.jp/t/a-inoue/taimasan/contents/contents_image/4-houkoku-rekisi.pdf
 島根大学の資料によると大麻山神社は大麻彦命、猿田彦命、天日鷲命、少彦名命を9世紀に勧請した(説1)ようだ。
 また、「Ⅴ-1 三隅の創成神話」として「三隅町史」から紹介されている。出雲を牽制するため石見地方に入った諸族(小野族、和邇〔鰐〕族、物部族、忌部族、鬼刀禰族)がおり、互いに争うこともあったとしている。忌部族と小野族の争いの他、鬼刀禰族と物部族の争いと物部族と和邇族の争いが紹介されている。

◆たたら製鉄

 上記島根大学の資料によると三隅町は大正時代までたたら製鉄が盛んな地域だったとのことで、金屋子神の信仰についても触れられている。
 三隅には大糞山といって巨人の大便が山となったという伝説があるが、たたら製鉄と関わりが深いのかもしれない。
 個人的には石見地方への氏族移住をたたら製鉄の観点から見られないかと考える。三瓶山の旧名が佐比売山だが、「サヒ」は鋭いものを意味し、農耕だけでなく製鉄との両義的なものとして考えられないだろうか。

◆多陀寺の伝説

 こちらのサイトでは大麻山と下府(しもこう)町多陀寺(ただじ)の関連について触れている。多陀寺は初午祭で賑わう古刹。大麻山から石が飛んできたという伝説があり、実際に大麻山付近で採取された岩石だとか。
http://fish.miracle.ne.jp/maygreen/photo.files/tadajido2.htm
※アドレスコピペしてください

島根県浜田市の多陀寺・山門
多陀寺
浜田市生湯町の多陀寺

◆余談

 あまり深く考えずに記事をアップしたのだが、おそらくこの記事を読んだのだろう、違和感ありとするブログがあった。阿波忌部族が先住民の小野族を浜田から駆逐したというニュアンスで受取られるおそれがあったようで、また、そもそも阿波忌部族が本当に浜田に入植したのか? と疑問を呈するものであった。で、泥縄式というか、現状の認識が上記のような感じ。

 旧「島根縣史」は国立国会図書館でマイクロフィッシュを閲覧、コピーした。申込用紙に1コマずつ記入するかたちなので手間であった。数年のうちに近代デジタルライブラリーに収録されネット上での閲覧が可能になるはずだ。

 室谷地区へは三隅町石田口から向かう道路が整備されている。折居から入るルート・県道303号線は道が細く対向車が来てもすれ違いできそうにないので、入らないのが無難。

 大麻山山頂まで自動車で上がれる。テレビ局の電波塔が立ち並んでいる。展望台が整備されていて、眺めが素晴らしい。

大麻山からみた折居海岸

 大麻山からみた折居海岸。鞍島が見える。伝説では大麻比古が馬の鞍を投げ捨てたのが島になったという。「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(99P)

 山を舟で行くは、一つは川を遡るということだろう。海を馬で行くは何を含意するのだろうか。船を鞍に見立てたのだろうか。

 三隅町誌について、狭姫伝説を調べる際、伝説の前書きは目にした記憶がある。当時はアンテナというか意識に引っかからなかったのだろう。

 益田市の小野神社を訪ねる。JR戸田小浜駅から歩いていける距離にある。国道9号線からは見えにくいが、「宮田」のバス停を南に下りて行くと鳥居がある。
 (※直線距離だと)それほど離れていない所に戸田柿本神社もあった。水は豊富にあるらしく田んぼが広がる風景の中を南に進んでいく。帰り道、海が見えたので丘陵地か。早くから人が住み着き、開かれた土地かもしれない。デジカメごとデータを紛失したため写真は無し(痛し)。

◆参考文献

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.99-100
・「島根縣史 第2巻(国造政治時代)」(島根県史編纂掛/編, 名著出版, 1972)※マイクロフィッシュで確認した国造政治時代編は第3巻だった。
・「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)p.107
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「新修島根県史 通史篇 1 考古・古代・中世・近世」(島根県/著, 臨川書店, 1984)
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・「神道大系 神社編 36 出雲・石見・隠岐国」(神道大系編纂会/編, 1983)
・「角鄣経石見八重葎」(石見地方未刊行資料刊行会/編, 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)p.13
・「那賀郡誌(復刻版)」(那賀郡共進会展覧会協賛会/編, 臨川書店, 1986)pp.76-82
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一・編, 白水社, 1985)pp.179-181
・「三隅町誌」(三隅町誌編さん委員会, 1971)pp.79-86
・「三隅地方の神話と伝説」(寺井実郎/編, 三隅時報社, 1960)pp.19-22

・桜井貞光「石見の神々 石見国式内社研究の歴史と問題点」(雑誌「郷土石見」4号, 石見郷土研究懇話会, 1977)pp.2-8

・司馬遼太郎「生きている出雲王朝」 「歴史の中の日本」(司馬遼太郎, 中央公論社, 1994)所収 ※初出は昭和三十六年三月「中央公論」

記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

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