極論・暴論

2021年9月28日 (火)

山本寛の脚本「魔法少女たち(仮)」を読む

山本寛の脚本「魔法少女たち(仮)」を読む。ネットに掲示されたものをコピペしたもので序盤など欠けている部分もある。また、精読した訳ではない。

読んだ感想として、この人は変身ヒーロー/ヒロインもののセオリーを知らないのではという疑問である。「魔法少女たち」では超能力に覚醒したヒロインたちが顕名で活動する。アイドルものの様な展開である。そしてネットでアンチが発生する。まるで自身の体験と重ねたかの様だ。ここが他の作品と違う。

普通ならヒーロー/ヒロインたちは自らの正体を隠している。なぜ隠すのかと言うと、例えば家族や周辺の人間に危害が加えられない様にするといった理由が挙げられるだろうか。

このセオリーは作中で明示されないこともある。しかし大抵の場合、このセオリーに準拠した形で物語は展開する。

それ以前に「正体が知られたら居られなくなる」という掟は昔話の異類婚姻譚と重なる構造を持つ。なぜそうなっているのかは明確にされていないが、おそらくそのことについても無知だろう。

セオリーを外すなら外すで工夫を凝らさなければならない。ところが作品の序盤でいわゆるマスコットキャラが自らの目的を解説してしまう。これは他の作者なら隠して物語後半で明らかとしてヒロインたちをどん底に突き落とすだろう。

山本寛が自身の幼少期に見た作品に言及することは少ない。ジブリ作品やエヴァンゲリオンが語られるくらいである。受験で忙しかったのかもしれないが、ひょっとすると「まんが日本昔ばなし」ですら見ていないのではないか。

これは初稿とのことなので、いずれ第二稿が出てくるかもしれない。ネットでは有志たちによって改善案が提起されたとも聞く。

この脚本を元にしたPVがネットに流出したのを見たが、たとえば少女をレイプする影のピストン運動、これならエロゲの広告の方が遙かに出来がいい。

一事が万事この調子だから、この後も期待できそうにない。というより、アニメ的無能力者であることが知れてしまったから無駄な努力である。

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2021年6月 8日 (火)

オタクとZ世代

「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由 生存戦略としての倍速試聴
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83898

という記事を読む。映画やドラマの倍速再生については省略するが、今のZ世代と呼ばれる若者たちはスマホで常に仲間と繋がっているので話を合わせるために大量の映画やドラマを視聴するのだそうだ。

今の若者は「個性を大切に」という教育を受けているとのこと。ナンバーワンよりもオンリーワンが求められるらしい。それはありのままの自分を肯定することだと思うが、若者自身にとっては何か突出したものが求められるという脅迫観念となってしまっているそうだ。要するに就職活動のエントリーシートでアピールする様な何かが欲しい。そのためにオタク的な人たちのあり方を志向するのだそうである。ただ、従来のオタク像と違うのは、長い時間をかけて知識を深めていくことではなく、手っ取り早く結果が欲しいということである。

気持ちは分からなくもない。僕自身、若い頃は読書や音楽鑑賞といった趣味はあったが、能動的に自分から動く趣味は無かった。先輩社員に「君も何か趣味を持ちなよ」と諭されたことがある。

今感じているのは何かに興味関心をもって掘り下げていくと、芋づる式に知識が得られること。そうして掘り下げることで広がっていくのである。オタク的な知識の持ち主はこういうプロセスを経ることでオタク化していくのではないか。

そもそも僕自身、既に老化で大量のドラマや映画、アニメを見ることが難しくなっている。映画館が近いので月2回くらいは劇場で見ているけど、それでも年24本くらいである。映画好きの人が一ケ月に見る量と変わらない。

また、スマホを持っていないので常に人と繋がっているということもない。

思ったのは分からないから面白くないという反応。よく分からないけど(映像の迫力で)面白いという感想もあり得るのではないか。僕の場合、「シン・エヴァンゲリオン」がそうだった。

説明セリフが多い傾向には辟易している。「俺はお前を許さなーい」なんて見たくない。

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2020年3月 8日 (日)

片渕監督インタビュー:日本アニメは世界の潮流から外れている

日本アニメは世界の潮流から外れている 片渕須直監督が本気で心配する、その将来
https://globe.asahi.com/article/13185352

「この世界の片隅に」の片渕監督の朝日新聞インタビューを読む。タイトルに日本のアニメは世界の潮流から外れていると衝撃的な見出しである。僕は国際アニメ映画祭には全くの門外漢だから知らないが、アニメでポルポトの大虐殺やイスラム原理主義の問題を描く意味があるのだろうか。それは実写でやればいいじゃないかという気がする。

カンボジア出身の作家ならポルポトの大虐殺がなぜ起きたか描かずにはいられないだろう。それはそのお国の人がやればいいことである。インタビュワーは日本に「対馬丸 さようなら沖縄」という映画があるのを知らないだろうか。アニメに大人向けと称して政治的社会的視点を持ち込むのが世界の潮流だとしたら、それはアニメの正道から外れていると思う。アニメは自由自在な表現が生命線である。いずれ揺れ戻しが来るだろう。

他、現代では後期思春期といって四十代までを含むとのこと。四十代であっても高校生が主人公の作品に共感できる世の中になっているという。僕自身五十代なので耳の痛い話であるが、僕の世代は漫画、アニメで育った世代である。一回り年上の現在六十代くらいの世代からはそうである。だから、シニアをターゲットにしたアニメ作品があってもおかしくはないのだ。映画「はいからさんが通る」は当時のファンに向けた作品だろう。

僕自身は「マイマイ新子と千年の魔法」を見て、映像のクオリティは劇場作品だと思ったが、ストーリー的には弱いものがあると感じた。「マイマイ新子」は思うような興行成績を上げられず、一部の人の高評価に留まった。それはそれで正しい結果であると思う。

子供向けの作品が「ドラえもん」等一部のタイトルに固定化されているという指摘もあった。残念なことにテレビのゴールデンタイムの子供向けアニメ番組はなくなったが、現在の主戦場は土日の午前である。

 

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2019年3月21日 (木)

非実在青少年で未だ頑張る人

渡辺真由子というジェンダー学者が剽窃で博士論文を取り消されたとの報道。非実在青少年に関しては絵の中のキャラクターには守られるべき法益がないということで決着がついていたと思っていたのだが、まだ頑張っている人がいたのか。

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2014年10月19日 (日)

主人公を主人公たらしめる必然性があるか?

フラガール型の作品は高校生主人公と食い合わせが悪いと感じる。極論すると、主人公が主人公である必然性がないから。

これは「ライトノベルは中高生が主人公でないと売れない」という思い込みをどうにかしないといけない。

無意味な枷に縛られて設定に無理がでるから、別に彼が主人公でなくてもいいじゃないかとなる。

自分が高校生の頃だと井上ひさし「吉里吉里人」なんかを読んで腹をよじらせていた。

 

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2013年12月24日 (火)

もしもマイケル・ポランニーが「魔法少女まどか☆マギカ」を観たら

映画「魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語」を二度目の鑑賞。前回見たのは10月頭だったので結構忘れていた。いい年して何やっているんだろうなと思いつつ、またつらつら書くことにする。

大学生のとき、法社会学の講義でマイケル・ポランニーという科学哲学者が提唱した「暗黙知(tacit knowing)」という概念に触れたことがある。言語化できない知、その働きについて述べたもの。

実は最初は超能力か、それとも神秘的な何かかと期待して「暗黙知の次元」という本を読んでみたのだけど(恥ずかしい記憶)、オカルトでは全くなく、主に科学者が「発見」する際、頭脳がどのような働きをしているか、その動態について図式化した、という印象だった。

発見するだけではなく理解するということ、体得するとはどういうことかでもある。たとえば医師はレントゲン写真を見て患部がどこか一目で認識する。もちろん初めからそうできた訳ではない。

「暗黙知」の中でも重要なのが「創発」という概念。ピラミッド型の階層構造を想起する。ピラミッドを上下に二分割する。下位に幾つかの概念がある。それまではバラバラだった下位概念が何らかのきっかけで結びつく。すると一つのまとまりとなって新しい上位概念が生まれる(※正確に言えばこの瞬間にピラミッド構造となる)。この瞬間が創発。

この上位概念は下位の概念を包摂したものだけど、上位概念を得ることでこれらの下位概念をコントロール・ハンドリングすることが可能となる。……くらいのニュアンスだろうか。上位概念と下位概念の相互作用が随時行われつつ展開する動態を概念化したものか。"knowing"であって"knowledge"ではない。あるとき突然パッと視界が開けた、そんな体験が近いか。

ここが肝だと思うが、「暗黙知」という概念が難しいとされるのは、この創発が起きる瞬間・過程を観測すること自体が困難だから。それは極めて個人的な経験で、誰にでも同じように起きるとは限らない。

で、「魔法少女まどか☆マギカ」に話を戻すと、まどマギのプロットはこの創発を下敷きにしているのではないかと思える節がある。

作中、魔法少女はやがて魔女となっていく。これは当人たちにとっては途轍もない苦痛で外部から見てもとんでもない悲劇である。そして、ほむらが何度もループを繰り返す中で途方も無い潜在力を得たまどかは、円環の理=概念となることであらゆる世界の全ての魔法少女たちを救済すべく裏で奔走することとなる。

 魔法少女から魔女へ:これは同じ次元の中での相転移と考えればよいか。

一方、まどかは究極の決断を下すことで、魔法少女・魔女より高次元の存在となり、見えないところで彼女たちを救済するという結末を迎える。

「創発」という概念をいかに分かり易く解説するかは難しい課題だ。人によっては「それで?」としか思わないかもしれないし、学生時代の自分もそれに何の意味があるのか今ひとつピンと来なかった。

そんな中まさにポコッとした感じでまどマギというアニメが突如登場した。見方によってはまどマギは「創発」がいかにして起きるか、アナロジーではあるけれど、誰にでも観測可能としたと言えるのではないか。

「魔法少女まどか☆マギカ」の原作者たちが「暗黙知」の概念を知っていたのかどうかは分からない。ピラミッド型の図式で概念を説明するものは珍しくない。

それはともかく驚くべきことに、まどマギの原作者たちは「発想の飛躍」そのものを基本プロットとしてお話を作ってしまった。ちなみに、SFだと飛躍感・ジャンプ感と呼ばれるものがそうか。

……という訳で、もしもマイケル・ポランニーがこの「魔法少女まどか☆マギカ」を見たら、案外好評なのではないか……という気がしないでもない。

余談。
講談社ブルーバックスの記号論の本だったが、閃きは思考が煮詰まった状態下で、あるときふとしたきっかけで生まれるという様なことを読んだ記憶もある。パソコンやデータベースでもバックグラウンドで色々と動いている(※パソコンやデータベース自体は創造的な働きはしないけれど)。

なぜ法社会学の講義で暗黙知という科学哲学用語が取り上げられたかというと、その講義は実質的に経済人類学だったから。マイケル・ポランニーの兄がカール・ポランニーという経済人類学者だった。兄弟つながりだった訳。

もう一つ、その先生は若い頃学生運動に参加していて後に転向したと公言していた。唯物史観の「下部構造が上部構造を規定する」という命題に対抗する狙いがあったのかもしれない。

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2013年11月 8日 (金)

「響鬼の事情」を読んで

片岡力『「仮面ライダー響鬼」の事情 ドキュメント ヒーローはどう<設定>されたのか』(五月書房)を読んでの感想。

「仮面ライダー響鬼」の売りは音で戦うこと(音撃)。聴覚で戦うヒーローとして「デアデビル」などが挙げられている。当初の構想では敵は様々な姿に擬態して姿を隠しているが、発する音は隠しようがないとされていた。

◆索敵からはじまる一連のシークエンス
擬態するというコンセプトは結局のところ劇中では用いられなかったけれど(※翌年の「カブト」に登場するワームは様々な姿に擬態する)、ディスクアニマル(※CDと同じサイズの円盤が変形、動物の形となる)による索敵シークエンスはある。式神モチーフのディスクアニマルが持ち帰った音を再生して今度の敵は何ものか探る。ただ、当初想定されていた、敵が発する音から判別、敵の特性に応じた攻略法を取るという知略的な側面はテレビ本編中では薄れている。

本書では触れられていないが、音・聴覚で戦う作品として「沈黙の艦隊」「マーズ・アタック」なども挙げられるか。「沈黙の艦隊」では潜水艦は基本的にパッシブソナーを使い、リスクのあるアクティブソナーはここぞという場面でしか用いられない。「マーズ・アタック」は「宇宙戦争」のパロディ。

◆根底にあるのはリズム感
響鬼は太鼓を用いる戦士。他、エレキギターを用いる斬鬼と轟鬼(両者は師弟関係)、トランペットを用いる威吹鬼が登場する。

太鼓で戦うアイデアは、ゲーム「太鼓の達人」のヒットなども背景にあり、スポンサーのバンダイ(玩具メーカー)と子会社のプレックス(玩具のデザイン・設計を担当)にもすんなりと受け入れられた。

根底にあるのは「リズム感」。子供たちが思わず身体を動かしたくなる、そういう狙いが込められていた。

◆太鼓で戦う/敵の巨大化
ただ、太鼓で戦う、バチで敵を攻撃するとなると、ヒーローよりも敵の方が数段大きくないとヒーローが敵を虐待しているように見えてしまう。結果、必然的に敵の巨大化を招いた。着ぐるみの怪人ではなく、怪獣・怪物(モンスター)となっていき、最終的には妖怪モチーフに落ち着く。

巨大な敵の有り様は、人間を捕食する怪物という根源的な恐怖感を演出する上では有効に機能したと思う。

ちなみにエレキギターで戦う鬼の場合、劇中ではギターのボディの鋭角な部分を敵に刺し、それからギターをかき鳴らす(一種のエアギター)という構図だった。敵に背を向けることになるが、これが格好良かった。今思うに、ギターで戦うなら敵は着ぐるみの怪人でも違和感なかった。

ただ、玩具の安全性を確保するため設計・制作には時間を要し、一度決めたら容易にスケジュールを動かせない。また、作品の核となる「リズム」というコンセプトを外したくなかったとも考えられる。

最終的に敵は魔化魍(まかもう)という妖怪モチーフの巨大な怪物となり、2話に1話のペースで登場した。3DCGで描かれた魔化魍は旧「タイタンの戦い」を想起させた。途中、制作スケジュールの逼迫か、着ぐるみの怪人に置き換えられた回もあった。

◆公然性
ヒーローと敵の戦いは社会から認知されているのか/いないのか、いわばリアリティのレベルをどう設定するかも検討されている。「クウガ」では極力「お約束」感を排除してリアリティを高める方向性だったが、響鬼では最終的にほどほどといった水準で落ち着いた。ゾーン、結界、異世界といった設定を利用して外界から遮断するアイデアは採用されていない。

当初のプロット案では、人々が次々と行方不明となっていくが、原因不明とされるだけで皆無関心とされている。これは現代日本のコミュニティのあり様を踏まえたものだ。ニュータウンの核家族化した社会は典型だろう。

◆鬼と敵
ヒーローは鬼というモチーフはすんなりと採用されたが、鬼と敵の関係については二転三転している。「同族殺し」というモチーフ(※仮面ライダーとショッカー怪人の戦いは改造人間同士の戦い)は一旦見送られたが、ディスクアニマルを使役するヒーロー像は桃太郎を連想させる。鬼がイヌ・サル・キジを使役するという一見すると逆転現象が起きるのだが、「逆-桃太郎」というアイデアが出て矛盾が一旦解消された。

が、これで鬼と敵が同じルーツを持つという流れに変わる。作中用語だと「プソイドDNA」(※"pseudo"プソイドは偽ものの意味とのこと)というウイルスに似たふるまい・性質を持つ設定が提出される。おそらくウイルス進化説に着想を得たものだろう。

結局、鬼と敵の関係は棚上げ状態となり、敵は妖怪モチーフの怪物、そして和風コンセプトに集約されていく。「和」のコンセプトは「番組全体のパッケージ感」を高めるのに効果的だったと言える。

なお、鬼の他、昔話・伝説からモチーフを得ようという試みも行なわれたが、プロデューサーの関心を惹かなかったとのこと。

◆バイクと聴覚
音で戦うコンセプトは意外な弊害ももたらした。企画スタートの時点では新番組は「変身忍者 嵐」のリメイク・リファインが想定されていた。途中で「次も仮面ライダー」とロールバックを余儀なくされたが、バイクに乗って戦うライダーのイメージは、聴覚を研ぎ澄まして索敵するコンセプトとバッティングした。

その辺りの迷いは実際に放映された番組でも現れている。当初、響鬼は自ら運転せず、サポート役の女性が運転する乗用車で移動する。もっとも、途中からバイクも登場する。

この辺りのエピソードを読むと、ホンダに取材しなかった?という疑問も湧く。ホンダは「仮面ライダー」シリーズのサブスポンサーでもあり、おそらくエンジンと電動モーターとのハイブリッド式バイクも先行開発しているのではないか。電動モーターならエキゾースト・ノートとは無縁で走行できる。それらしい外見に改造して、走行中の効果音を差替えることで対応できる様に思えるのだが。

◆ジュブナイル×バディもの
「響鬼」のジュブナイルかつバディ(相棒)ものというコンセプトは、紆余曲折はあったものの最後まで守られた。バディものは幾つかのパターンが挙げられるが、「響鬼」では師弟関係として描かれている。

参考にした映画として「薔薇の名前」が挙げられている(※ショーン・コネリー主演)。弟子の視点から見た響鬼像が想定されていたが、テレビ本編中では若干薄くなった。

響鬼は少年にとって師匠に当たる存在で、細川茂樹がキャスティングされた。三十路の主役ライダーは初めてで、中堅俳優のもたらす安定感が「響鬼」の特徴となっている。

本書ではジュブナイルは物語のスタンダードの一つとされている。パターンとして、

(1) 青少年が、
(2) 大切なパートナーと出会って、
(3) そのパートナーと一緒に非日常的な冒険や経験をし、
(4) そのことを通して精神的に成長するが、
(5) 最後にはパートナーと別れる。
と列記されている(74-75P)

パートナーとの別れが「せつなさ」をもたらす、これが狙いだった。ただし、テレビ本編では当初の想定とは異なる結末となった。

弟子の少年と学園という場の有り様については高寺プロデューサーと片岡氏の間で意見の相違があったようだ。

なお、ロードムービーも構想されたが、ロケの難しさで採用されなかった。とはいえ、自然の中で戦う場面は多く、当初のコンセプトは活かされていると言える。

◆プロデューサー降板
本書では触れられていないが、番組中盤で高寺プロデューサーが降板、代わりに白倉プロデューサーが急遽登板する。白倉Pは当時、次番組「カブト」の企画を進めていた。降板の詳細な理由は明らかにされていない。

プロデューサーの交替に伴い文芸チームも一新された。これは番組の作風の変化をもたらし、前期/後期でファンが分裂してしまう結果となった。僕自身の印象だと前期は各駅停車/後期はジェットコースターで、両者の中間くらいが良かったのに、くらいの感想。

◆響鬼のその後
当初、高寺プロデューサー(当時)が掲げた「東映/石ノ森ヒーローのリメイク・リファイン構想」は数年後「ディケイド」でリ・イマジネーションとして、更に劇場版で歴代のヒーローたちのクロスオーバーが実現、花開いた。この辺り、白倉Pの用意周到さが窺える。

◆余談
本書の出版は2007年。発表当初、響鬼ファンの間でも話題になった。書店でみかけたことがあり、手にとってみようと思いつつ、時間が経ってしまった。ただ、読んだのが今で良かったという気がする。

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2013年11月 4日 (月)

キッズ向け番宣

テレビ東京でやっていた魔法少女まどか☆マギカの総集編的な2時間番組を観る。映画の宣伝番組。セカイ系であり、ループものでもあり、00年代を総括した印象。映画を鑑賞した観客インタビューでもあったのだけど、掌の上で踊らされているのが楽しい。

学生時代、法社会学の講義を履修した際(※内容的には経済人類学だった)、文化人類学の「中心と周縁」論に触れたことがある。

サブカルチャーというくくりだと一括りできるかもだけど、脚本家の虚淵玄はノベルゲームという周縁からやって来て、アニメに多大な刺激を与えた人という図式か。

余談。
たまたま今、「語ろう! クウガ アギト 龍騎 永遠の平成仮面ライダーシリーズ」(株式会社カンゼン)という本を読んでいる。「仮面ライダークウガ」「仮面ライダーアギト」「仮面ライダー龍騎」と平成初期三作を取り上げたインタビュー集。その中で虚淵氏に対するインタビューも収録されている。

虚淵「『龍騎』は度肝を抜かれましたね。」(75P)

とあるのが面白い。「龍騎」は確か「バトルロワイヤル」を踏まえて作られた作品だった。因果は巡り巡って……円環の理か?

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2012年10月 8日 (月)

スピンオフがオリジナルを超えることはまず無い

時折映画のノベライズを読むことがある。全く内容を知らないより、ある程度分かっている方が手を出し易い。

小説「スターウォーズ ジェダイの復讐」が好きだった。ノベライズされたそれではジェダイとして成長したルークの心境が感傷的な筆致で描かれている。皇帝とルークの心理的な駆け引きも映画を十二分に補完していた。実際、世界観の解釈などで後続の作品群に大きな影響を与えたと評されている。

で、90年代に「スターウォーズ」旧三部作から派生したいわゆるスピンオフ小説が邦訳されて出版されだした。「ジェダイの復讐」以後の世界を描いた作品群で、ティモシー・ザーンの書いた三部作は評判もよくベストセラーとなった。

……のだけど、色々な作家が参入(※まとめ役の作家はいる)していく内に玉石混淆となってしまった。ザーンの書いた作品は定評があって外れ無しと言っていいけれど、それ以外は人それぞれだと思う。僕自身「ニュー・ジェダイ・オーダー」シリーズで手が止まってしまった。

「ニュー・ジェダイ・オーダー」シリーズで新たに設定された敵はフォースの通じない相手(ある意味世界観クラッシャー)で、グリーバス将軍みたいなのがゾロゾロ飽和攻撃を繰り返すだけ。善悪の間で揺らぎながら戦うジェダイとシスの関係から明後日の方向へと突き進んでしまった。

当時はプリークエルと呼ばれる新三部作が公開される前もしくは途中だったので、設定の整合性がとれていなかったりする。たとえば当時はシスが師と弟子の二人制だと明確に設定されていなかった(※ジェダイの復讐を読み返すと、皇帝とルーク、ヴェイダーの三角関係となっているが)。つじつまが合わない、それ自体は別にいい。スターウォーズは謂わば現代の神話なのだから異伝があっても構わない。

しかし読んでいて、こういう展開ならルークたちの時代から数百年は離してやるべきと感じた。所詮スピンオフ、それなら無かったことにできるから。

最近だと、EP2からEP3の間を補完するアニメ「クローン・ウォーズ」を観て、よく出来ているとは思ったけれど、映画がまとっていた神話・伝説的なテイストは吹き飛んでしまっていた。現代戦をスペースオペラに置き換えただけの様な印象(全部観た訳ではないのですが)。

要するに、旧三部作を観て育ったファンたちが成長して新作を手がけるようになったのだけど、何というかオタクの悪弊で設定やストーリーの整合性に拘る反面、視野狭窄に陥って肝心な何かが欠落してしまう、そういったがっかり感がぬぐえない。

「スターウォーズ」に限らないけれど、スピンオフがオリジナルを超えることはまず期待できない。新三部作もルーカス自身の手になるスピンオフと言えるかもしれない。

いやほんと、スピンオフを手がけるときは徹底的に換骨奪胎して再構築しないと……それでもなお、というのが正直な感想。

<追記>
スピンオフで陥りがちな間違いは、オリジナルにあった謎や空白をオリジナルスタッフと異なる若い世代のスタッフが補完してしまうことだ。すると、解釈の余地が消えてしまう。あーだこーだといいながら謎や空白に想像を巡らせるのが楽しいのに、「そこはこうです」と解釈の基準が後付けで提示されてしまう。なので、出来の悪い作品だと「余計なことをするな」と文句を言いたくなることもある。

もちろん、オリジナルの何がオリジナルだったのか、その成り立ちを考察する際に何か新しい視点や発想が生まれるかもしれないので、一概には否定できないのも確か。

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2012年9月16日 (日)

なぜ正体がバレたら居られなくなるのか

「おおかみこどもの雨と雪」。細田守監督の作品を劇場で観たのは初めて。幼い子供が夜、高熱を出して苦しんでいる。こういうのは女性の方が感情移入し易いだろう。

僕自身は独身なので、そういう状況に遭遇したことはないけど、幼年期を振り返ると、あるとき突然病院に連れて行かれて、注射を何本も打たれて数日間入院ということがあった。当時のことを聞いてみると、熱を出したからとの答えだったのだけど、苦しいという記憶がない。

僕個人は家庭菜園を作ろうとして上手くいかないところに見入った。家庭菜園を復興したいという願望があるのだけど、生来のズボラ。こういうのは実際やってみないと本当のところが分からないよなぁと痛感。

物語後半、成長した雨と雪はそれぞれの道を歩み始める。姉は人として生きることを、弟は狼として生きることを選んでいく。父親は狼男なのだから、満月の夜が来ると抗えない衝動に突き動かされるのではと思ったりしたが、そういう要素は薄れている。

お話としては異類婚姻譚がベース。雪女だったり鶴女房だったり。昔話だと嫁が異界の住人で、正体がバレたため去っていくというパターン。「おおかみこどもの雨と雪」では父親の狼男が死に、人間の母が子供を抱えたまま奮闘するかたちで描かれている。

正体がバレたら居られなくなる、なぜ正体がバレたらいけないのか? 個人的には「よそ者はどこまでいってもよそ者」なのかなと思っている(※場合によっては英雄や神として受け入れるので絶対ではない)。よそ者を認めない日本の旧来の社会の排他的な偏狭さを示しているのではないだろうか。

雪女の伝説を読むと、子供が生まれるパターンもある。雪女が去る際、子供は残しておく。つらつら考えるに、子供は自分たちの価値観で育てられるというところか。しかし、雪女自身は別。価値観が根本的に異なる相手とは共存できない、そういうことを婉曲的に語っているのかもしれない。

宮崎駿監督の「未来少年コナン」でハイハーバーの人たちが荒くれ男たちを受け入れる展開となるけれど、あれはきれい事だと思う。そういう意味では雪女など昔話の方が真に迫っているというか本音を語っている気がする(昭和の時代だと、そういう閉鎖的な村社会が批判的に描かれることが多い)。

<追記>
正体がバレる。それは単に「約束を破ってはいけない」という教えも含んでる。

正体を知られた者(鶴女房や雪女たち)はあちらの世界に帰って再び戻ってくることはない。それは死の暗喩でもあり、死の概念のない幼児に分かり易く伝えるためのものでもあるだろう。

たとえば、日本の昔話を考えてみると,「恩」という観念を抜きにしてストーリーを展開させることはできない。実際,「恩」をその語源から考えると,「因」と「心」という漢字から構成されている。「因」には「わけ,もと,ちなみ」の意味があり、それに「心」が加わると,「原因を心にとどめる」というような意味になるのである。(『ニューモラル』2006:5)。「恩を受ける」,「恩に着せる」,「恩を仇で返す」,「恩を売る」など,「恩」に関する表現は、われわれの日常にあふれている。「鶴の恩返し」を例に取ると、昼間、罠にかかっていたのを助けられた鶴が,夜,人間の娘の姿になって老夫婦の許を訪れる。そこでは,あえて自分の羽を犠牲にしても反物を織り続けた鶴の行動には,「受けた恩は返す」ということが前提となっている。しかしながら,「機織りをしているところを覗いてはいけませんよ」という約束が破られる時,「恩」のもう一つの前提条件である個人同士の「信義(fidelity)」が破られることで,鶴は老夫婦とは一緒に暮らせなくなってしまう。ところが,「無償の愛」であるアガペー(agape)を至高の愛とみなすキリスト教を信奉する西洋人には,「返すことが前提になっている好意」など欺瞞にすぎないため,「恩」という概念は説明することがむすかしい。
「パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門」(高橋雄一郎, 鈴木健/訳, 世界思想社, 2011)pp.59-60

という文章があった。信義が崩れたから居られなくなるという解釈である。

◆余談

 ジブリの宮崎駿監督の後継者と目されるアニメ監督は何名かいるけれど、細田監督の作品には子を持った親の視点が盛り込まれている。そういう点で評価できるのではないかと思っている。

 少子高齢化を受けて日本の長期的な人口減少が避けられないものとなってきた。これを解決する方策として移民政策が挙げられている。しかし、こうして昔話を読み解くと、よそ者とは分かり合えないという想念が根強く残っていることが窺える。分かり合おうとしたのが戦前の結末であり、将来においてもあまり好ましい結果にはならないのではないかと考える。

◆参考文献

・『パフォーマンス研究のキーワード 批判的カルチュラル・スタディーズ入門』(高橋雄一郎, 鈴木健/訳, 世界思想社, 2011)
・飯塚聡「ウルトラマンの構造分析―プロップの手法の応用による異類婚姻型昔話との比較―」『工学院大学共通課程研究論叢』(通号36-1)(工学院大学/編, 1998)pp.131-139

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