ビジュアルファンブックがあれば――薫る花は凛と咲く
『TVアニメ 薫る花は凛と咲く ポストカードブック』を買う。アニメの和栗さんが可愛いと思ったので。ビジュアルファンブックの類があれば買っていたのだけど。実際にはあんな感じの笑顔をみせる女子高生はいないと思うけど。昴の方が年頃の女の子っぽさがある。
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『TVアニメ 薫る花は凛と咲く ポストカードブック』を買う。アニメの和栗さんが可愛いと思ったので。ビジュアルファンブックの類があれば買っていたのだけど。実際にはあんな感じの笑顔をみせる女子高生はいないと思うけど。昴の方が年頃の女の子っぽさがある。
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筒井康隆『大いなる助走』を読む。架空の郊外を舞台にした文芸同人界隈の群像劇。僕が読んだ筒井作品の中では一番面白い。これは作家でないと書けない部分が多々含まれるからだろう。下手な創作論よりよほど役に立つのではないか。
時代は1970年代。50年くらい前の話となる。当時は地方の文芸同人誌が作家へのルートを担っていたように見受けられる。ただ、その時点で趨勢は公募コンクールにシフトしつつあったようだ。作中の登場人物も同人誌での活動に見切りをつけようとしていたりする。ただ、作中の記述によると発行部数は600部とあり、かなり規模の大きな同人誌ということになる。
今は原稿をPDF化すればオンデマンド出版することも可能となった。個人レベルでひっそりと好きなようにやれるという点ではいい時代になった。
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村田沙耶香『コンビニ人間』を読む。第155回芥川賞受賞作品。普通の人とは少し違う世界が見える人の視点から描かれているとでも言えばいいか。
物語は白羽さんの登場から動きだす。白羽さんと古倉さんの会話は嚙み合っていないが、お互い言いたいことを言い合える点では相性がいいのかもしれない。
……リアリズム小説は自身の暗部と照らし合わせながら読む形となるので、やはりしんどいとなる。
というか、軽度のパーソナリティ障害か、よく知らないが、抱え込んで苦悩しなければならない類のものだろうか。それはそういうものとして受け止められるのではないか。古倉さん自身、内面に土足で踏み込まれるのは極度に嫌っているのだが普段は何とも思っていない。むしろ妹の方が抱え込んでしまっている。
僕なんか、現代なら神経が上手く協調しない類の発達障害(※要するに極度の運動音痴で不器用)と診断される可能性が高い。
まあ、僕自身、同類が寄って来るからネットで病気について公言するなと釘を刺されたことはあるが。
<追記>
古倉さんが抱えている問題をある程度解決するには店長に昇格する他ないのかもしれない。古倉さん自身はコンビニというシステマチックに規格化された環境には完全に適応している。コンビニの雇用形態的に老後の社会保障に脆弱性を抱えているという問題はあるが、別段、他人に迷惑をまき散らしている訳ではない。スキルに見合った報酬を得られていないと思われるが、それは本作の主眼からは外れるだろう。店長だとカスタマーハラスメントといった暴力が伴う事態にも関与しなければならないので女性向きでないのかもしれない。
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筒井康隆『創作の極意と掟』を読む。指南書として書かれたものではないそうだが、大御所の手になるものなので説得力は段違いである。
僕自身は熱心な読者ではなかったのだけど、通読すると、筒井氏が文学上の実験に心を砕き続けてきたことが分かる。ただ、その実験に面白さが伴っていたから現在まで読み継がれているのが本当のところだろう。実験するだけでは一時的にはともかく長期的には忘れ去られてしまうはずだ。
「作家は何も書くことがなくなってからが勝負」というフレーズになるほどと思う。僕自身、創作は試みた時期があって、結局ネタ切れを起こしてそれ以降書けなくなってしまった。創作以外の書き物は続けているので虚無に陥った訳ではないし、インプットもできる範囲で心がけてはいるのだけど、それらしきお話は未だに思いつかない。
筒井康隆『着想の技術』を読む。本書に収録されている記事の初出はいずれも昭和。僕は小説読みではないのでよく知らないが、実際に実現可能な実験的手法は筒井氏辺りの世代がやり尽くしてしまったのかもしれない。
筒井氏は大学で美学を専攻されたようで、卒論は美学と精神分析とを絡めて論じたものだったそうだ。美学はアートへ、心理学はフロイトやユングからは離れてしまったようだけれど、文学の解釈という面ではあまり変化していないかもしれない。
昭和の時代の大御所の話らしく豪快だなと思ったのは、ミレーの画を個人で購入したというエピソード。僕の実家には昔「落穂拾い」の複製写真が額縁に入れられて飾られていた。子供の頃の僕はそれを見て、その絵が最高のものだと何故か思い込んでいた。
夢分析のくだりは長く面白くないと感じた。本来はちょっとずつ連載されていたのだろうけれど、まとめて出されると、他人の夢というものは筒井氏ほどの手練れの作家でもそのままでは面白くはならないようだ。
ハイライトでメモしたのは、「バルザック的細密描写が写真や映画にとって替られて以来、」という箇所。たまたまちょっと前に「サラジーヌ」という中編を読んであまりの描写の濃さに却ってストーリーを追う阻害要因となってしまっているように感じたから。
あと、「この某中村とうようという人は文章には平気で他人の悪口を書き、その人と会ってもまるで悪口など書かなかったかのようにやっぱり平気、やあやあという調子で話しかけるというので有名な人である。」という箇所。少々分析した後で田舎者と切り捨てている。音楽評論家の中村氏はミュージックマガジンという自分の媒体を持っていたし、何か書いたからといって今と違って炎上する時代ではなかったから、無頓着でいられたのだろう。
樋口恭介『生活の印象』を読む。兎野卵氏のKindle本(随想集)で紹介されていたもの。樋口氏はSF作家らしいが、若い頃からTwitterにのめり込んで炎上を繰り返した。で、それに嫌気がさして日々生まれる断章を河岸を変えてGoogleドキュメントに綴っている……といった経緯らしい。
面白いと思ったのは作家の佐川恭一氏のエピソード。佐川氏はプロの作家であるが、公募コンクールへの投稿も続けているとのこと。作風もあって一次か二次で落ちてしまうらしいが、構わず続けている。無駄になる原稿なのだが、それでも書き続ける姿勢がパンクなのだ……といったところだろうか。
僕自身はパンクはよく知らない。最低ゆえに最高となる。転倒である。
……僕がTwitterのアカウントを取得したのは2010年、サービスの存在が知られるようになって二、三年といった頃合いだった。なのでアーリーアダプターという訳でもない。それから長らく使っていなかった。どう使えばいいかよく分からなかったから。まともに使うようになったのは去年から。今は距離を置かなければ……と考えている。ネットの世界で数字を追求するようになると、手応えのある人ならともかく、そうでもない人間が必死になることはないと考えている。
<追記>
樋口氏はディスコードで自分の「部屋」を運営する方向性に行っているようだ。部屋なら自分の意思で統制が効くかららしい。昔の個人運営のホームページには大抵の場合掲示板が設置してあって交流が見られたのだけど、掲示板という仕組みはスパムにからきし弱くやがて廃れていった。SNSがその受け皿となったという見方もできるか。ただ、ホームページの時代から大幅にユーザー数が増え、有名人だと見知らぬ人に絡まれることも増えたようだ。
兎野卵というKindle作家の創作に関する随想集『TXT01』~『TXT05』までを再読する。約70万字の大ボリューム。
兎野氏は漫画で商業誌に掲載された経験がある。連載には至らなかったそうだが、短編を収録した単行本は刊行されており、れっきとした商業作家である。ただ、現在は成功を目指す競争のステージからは下りていると明言している。
現在ならアプリで連載という形式も普及して、そこからヒット作も出てきているので、時代のめぐり合わせが悪かった面もあるかもしれない。
一気に読み返して思ったが、著者氏は突出こそしていないかもしれないが、結構なハイスペックの持ち主なのである。一流大学の建築科を出ている。建築科ではデッサン必須だろう。絵に対する技能は高いと推測される。デジタルの描画ツールも問題なく使いこなせるだろう。一眼レフを所有しており、そちら方面の知識とスキルもある。写真趣味があるということは、作画のための資料収集の側面もあるかもしれないが、外出する動機も持ち合わせている。音楽についても、楽器が弾け作曲もできるそうだ。文章についても自己を客観視できており、中庸さを維持するよう自己抑制しつつ、大量にアウトプットし続けている。背景にある知識量も相当なものと推測される。プログラミングもできるらしい。料理もできる。マルチな才能とまではいかなくとも、並みの人よりできる幅が広い。現代社会で有利なスキルは十分以上に持ち合わせている。現在は都市に在住しているそうだが、実家は別にあるらしい。そこが田舎なのかまでは分からない。単に関西圏というだけかもしれない。
著者氏の目下の悩みは、自身で納得のいく作品が描けていないことのようだ。何か欠落がありそれが原因ではないかと考えているのかもしれない。生涯のモチーフ、人生の杖、メタファーといったキーワードがそれらを示唆している。そういった指針となるものを渇望している。
非才の僕からすると、むしろ才能、スキル、知見、人脈とも他人より恵まれている。使いこなせるツールもあるし、インドア派ではあるもののアウトドアにも出かけている。思いつく限りの要素を考慮し、自身でほぼ解答にたどり着いている。穴となっているジャンルはあるかもしれないが、それは誰にでもあることで問題とはならないだろう。
こうなると運か偶然の要素が大きいのかもしれないが、運を引き寄せるための努力も欠かしていないようだ。これ以上何をすればいいのかと傍目からも思う。
むしろ、本人の資質と人生の指針となるメタファーが上手くマッチすることが稀なのかもしれない。ちなみに、偶然は案外馬鹿にならない。
創作の才能とハイスペックさにどこまで相関関係があるのか。ある程度はありそうだが、強い相関関係ではないのかもしれない。僕の義兄は専業の漫画原作者/小説家で、マイナー誌ではあるが週刊連載1000回を達成した。そういう意味で代表作はある。だが、特にハイスペックという訳ではない。
また、義兄は漫画原作では医療ものを書いていたのだが、現在は時代小説にシフトしつつある。これは本人が歴史好きだからだが、時代小説は年配の作者でも読者に受容され易いという理由もあるだろう。人生のステージに応じてジャンルをシフトしていくことも時に必要だろう。
<追記>
ルーチンワーク、
・ルーチンワークに落とし込むことで手順を確立させる
・ルーチンワーク化させる過程で努力していることを意識させなくなる
……といった方向性にもっていける。その過程で試行錯誤することでTipsというかちょっとしたノウハウが身についていくし、漠然とした想いが浮かび、それを膨らませていくことも場合によってはできる。
ハヤカワ文庫のSFの電子書籍がセール中なので何冊か買う。僕はSF読みではないので「こんな基本中の基本も読んでないの?」と呆れられるかもしれない。人間、可処分リソースというものがあって、更に本の場合、保管スペースという問題もあったので。
高校生のとき、夕方に「火星年代記」のドラマを再放送していて、気に入ったのでブラッドベリの原作小説を読んでみたのだが、合わなくて途中で手が止まってしまったことがある。
兎野卵『「好き」を言語化する:フィクション編』を読む。本書で挙げられる作品、筆者はタイトルこそ知っているものの、読んだことのないものが多い。ジェネレーション・ギャップかもしれない。漫画読みと呼ばれるためには一万冊くらい読破しなければならないのだろうかと考えたことはある。
著者は作品の構造分析を行っていた時期があるものの、それは骨格に過ぎず、自分の「好き」を言語化、そしてその解像度を上げる必要があると考えるに至った。それで実際にどんな要素が好みか列挙していったのが本作である。
仮に好きだと思う作品に出会ったとして、そこから得たものが一滴のエッセンスとなって降りてくるまでには数年以上かかる。それだけ待ってようやくオマージュしたと胸を張って言える作品が書けるようになる。焦って書き急ぐと影響されたのが露骨に分かる不出来さとなってしまうのである。余計なことは忘れるのも大事なのである。
市川沙央『ハンチバック』を読む。僕は近現代の自然主義小説はほとんど読まない。芥川賞受賞作くらいは読まねばと思いながら結局読まずにこの年まで来た。まあ、直木賞作品も読んでいないが。直木賞作家の本なら読んだことはあるが。
で、この作品の主人公および作者さんは常に苦痛にさいなまれ、呼吸器を外せば即死の危機に瀕する。自室から出ることも叶わない。リアルな世界が広がることもない。極限状態に置かれている訳で誰もケチをつけることができない。が、読んだところ、主人公も作者さんも精神の明晰さは保ち続けている。それは素晴らしいことではなかろうか。もちろん、身体が徐々に壊れていくのに精神は平常であるという恐怖もあるだろう。だが、不幸のあり方は人それぞれである。
僕自身は他人の不幸に興味関心がないので私小説の類は読んでいなかったのだが、まあ、純文学がそういう作品ばかりという訳でもないし、これからはもう少し意識して読んでみようとは思っている。