2025年11月 6日 (木)

アニメの構造主義的分析――川﨑瑞穂「百合の神話論理序説―アニメ『明日ちゃんのセーラー服』第9話の範列分析―」

・川﨑瑞穂「百合の神話論理序説―アニメ『明日ちゃんのセーラー服』第9話の範列分析―」『比較文化研究』149(日本比較文化学会, 2022)pp.123-136.
・川﨑瑞穂「百合と紫陽花―アニメ『やがて君になる』第8話の範列分析―」『比較文化研究』145(日本比較文化学会, 2021)pp.39-52.

という論文を読む。ここでいう範列は言語学の範列とは若干異なり「範列的」とした方が正確なようだ。双方の論文とも紫陽花が作中の重要なモチーフとして登場するが、それらの連鎖を範列的とみることで分析を進めていっている。その点で、(花言葉といった)象徴分析より一歩進んだとしている。

「神話論理」とはレヴィ=ストロースの同名の本からで、レヴィ=ストロースの分析手法が映像作品の分析に援用されている。

社会学者の橋爪大三郎氏はレヴィ=ストロースの分析を「名人芸的」と形容したが、本論文ではマトリクス形式に落とし込む形で自家薬籠中のものとしている。ただ、もう少しかみ砕いて分析手法を解説してくれれば……と思わないでもないが、それは論文の目的とするところではないので仕方ない。

百合は女性同士の恋愛感情を含んだ関係性を描いた作品を指す。「明日ちゃん」は女子校が舞台だけど主な登場人物は中学一年生で恋愛要素は無いに等しい。ちなみに、検索したところ、著者は男性だった。まあ、男性が百合作品を好むことは珍しくはない。BLを好むことは少ないだろうが。

読んでいて、コードという用語がピンと来ないなと思う。音楽だとコード進行、プログラミングだとソースコードといった風に用いられるが。

マトリクスでは心理的コード、社会的コード、身体的コード、植物的コード、気象的コード(明日ちゃん)、身体的コード、言語学的コード、社会学的コード、気象学的コード(やがて君)という風に列を設け、それぞれの項目を埋めていく(※空白になる行もある)。気象学とあるのは紫陽花が梅雨時に咲く花で雨と深い関わりがあるからだと推測される。

両作とも漫画からアニメ化されることとなったのだが、媒体の違いもあってアニメ化の際に改変が施されることはままある。本論文ではそれをヴァリアントと呼んでまさに神話的な異伝的なものとして比較考察の対象としている。

「明日ちゃん」の原作者は男性で監督はおそらく女性だが、こういった象徴的なモチーフの連鎖は自家薬籠中のものとして「こうすればこうなる」とほとんど無意識的に構成しているのではないか。そうした方が収まりがよくなるからそうするのだと思う。

余談。
去年の今頃、有楽町に「明日ちゃん」の原画展を見にいった。銀座から一駅歩く程度だったのだけど、それで息切れしてしまう有様だった。引っ越しの準備で疲弊していてそれがピークに達していた時期だった。

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いわみ文化振興センターで大学生の神楽が開催されます

11月16日(日)、浜田市下府町のいわみ文化振興センターの抱月会館で島根県立大学・石見神楽舞濱社中と比治山大学・神楽部の合同公演が開催されるとのことです。開場は10:00~、開演11:00-16:30の予定。入場料は無料。写真撮影可(※フラッシュ禁止)、動画撮影禁止。

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2025年11月 5日 (水)

合区では格差三倍がおおよその目安か

7月参院選「違憲状態」 高裁松江 1票の格差3.13倍 全国4例目
山陰
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/889924

7月に実施された参院選、一票の格差が3.13倍を松江高裁は違憲状態としたという報道。添付された図によると、島根鳥取が合区となって以降、合憲とされてきたが今回違憲とされた。格差三倍前後がおおよその目安となるようだ。

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浄土真宗の「神棚降ろし」運動と呪術的思考の排除について

市川訓敏「安芸門徒と『神棚降ろし』」という論文を読む。江戸時代末期に起きた浄土真宗を巡る宗教運動である。

神棚降ろし、具体的に神棚を降ろした後どう処分するのかまでは分からないが、他に大麻(天照大神の護符)を家から取り除く、加えて位牌までも取り除く、更には墓所すら軽視するものであったという。遂には神棚が安置されているか町役が一軒一軒見廻りを行う事態にまで発展した。

この運動は真宗が組織した講における説法で広まっていったものと考えられる。

真宗の主な指揮系統は、

西本願寺――光照寺(現福山市)/仏護寺(現広島市)・十二坊――各末寺

といった感じか。光照寺はおそらく福山藩領なので広島藩では仏護寺とその十二坊と呼ばれる寺院が中心となったと思われる。芸北だと現在三次市にある照林坊の末寺が多いはずだが、照林坊が当時どこにあったかまでは分からない。

広島藩から咎を蒙った(処罰された)とする記録が残されているが、それに屈することなく神棚降ろしは継続していく。

これに対しては神道関係者からの反発もあったようだ(神道講談事件)。広島藩自体が厳島信仰を奨励していたことも背景にあるとのこと。

運動は広島にとどまらず真宗地帯に広がったと推測されているが、本論文では広島県に限った考察となっている。

広島で神棚降ろしを主導していたのは十二坊の一つ報専坊の慧雲という学僧とされる。慧雲は芸轍(げいてつ)と呼ばれる安芸国が輩出した真宗の学僧の一派の祖とされる人物である。芸轍は本願寺の学林との論争に勝利する、つまり地方の学派が中央に勝利するといった華々しい実績も挙げている。

背景の一つとして大阪で大塩平八郎がキリシタンを摘発したが、実際には祈祷師でキリシタンではなかったことが判明したという事件が挙げられている。誤認捜査で本来なら幕府の失策であるが、振り上げた拳を降ろす訳にもいかず、関係者は断罪されたとのことである。加えて幕府は宗門改めを実施する寺院の怠慢と責任転嫁し、破戒僧の取り締まりも強化した(※真宗は肉食妻帯を許容している)。これは真宗にとって圧力となり本願寺は傘下の末寺に対する統制を強化していくことになったとしている。結果、備後国の光照寺では傘下の三百を超える末寺に対して神棚降ろしの運動を推進していくこととなった。それが王法に叶うこととしたのである。これは転倒したロジックと言えるかもしれない。

真宗は元々雑行雑修を排するという態度であり、余神・余仏を排除する姿勢が強化された。これが神棚降ろしを不敬であるとする広島藩の施政方針との食い違いの原因となったとしている。この点、幕府や朝廷に融和的な態度をとらざるを得なかった本願寺の抱える矛盾と指摘できなくもない。

本論文では安芸と備後の差、おそらく安芸の方が徹底していると推測されるが、なぜそうなるかまでは明らかとなっていないように思える。やはり芸轍の学僧という主導者が広島藩領で活発に活動していたとみられることが大きいのだろうか。

……で、感じるのだが、身近なところでは護符の類を否定する、つまり呪力の否定/呪術的思考の排除という姿勢が見受けられる。開祖親鸞の師である法然自身、祈祷による病の治療には否定的であったとされ(※雨乞いに関しては記述がなく不明)、当時としては(限界はあったものの)合理的な思考の持ち主であったとも考えられるが、時代が下って呪術的思考を排する傾向が強まっていったとも見ることができるように思われる。

余談。
論文中で引用された史料に関してはほとんど読み飛ばしてしまった。語彙自体は現代とさほど変わらないのだけど候文は読みづらく感じる。一度候文の読み方の本でも読むしかなさそうだ。

石見門徒という呼称もあったことを知る。浜田藩でも他宗に論争を仕掛けて最終的に幕府の裁決を仰ぐまでに至ったという事件があったそうだが、それが真宗の僧だったかまでは記憶していない。

◆参考文献
・市川訓敏「安芸門徒と「神棚降ろし」」『比較法史研究』3(比較法史学会/編, 1994)pp.85-112.

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2025年11月 4日 (火)

盆踊り、世界に広がる

「NHKスペシャル 新ジャポニズム 第5集 盆踊り 世界をつなぐ情熱の輪」をNHK ONEでみる。盆踊り、海外の人には物足りないのではないかと思ったら、振り付けが簡単であること、間違えてもいいといった緩さが受けているようだ。前の人を真似て適当にやっていればいいような感じだし。

マレーシアではイスラム教徒が6割を占めるとのことで、盆踊りは宗教行事か文化行事かの論争が定期的に起きるとのこと。まあ、元々お盆にやる踊りだし。しかし、祖先の霊を祀るというのはどちらかというと中国の道教由来だろうか。仏教だと本来は四十九日を過ぎたら輪廻転生してしまうという解釈のはずだから。いずれにせよ日本独特の緩さというか融通無碍さが幅広く受容されている要因のようだ。櫓を中心にグルグル巡る踊り、これは他国でも似たような事例があるのだろうか。番組中ではマレーシアのイスラム法学者が祖先の霊を招くと解釈していた。ブラジルのマツリダンスでは櫓はあるものの用いられず、皆ステージを向いて踊る形式だった。ちなみに、民俗学者の俵木悟教授のコメントもあった。

横浜時代、近所の小学校の校庭で盆踊りをやっていた。太鼓は叩く人がいるのだけど、唄はテープで東京音頭かアラレちゃん音頭だった。若い人はほとんど踊らず、おばちゃんばかりが踊っているのが現状だった。

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2025年11月 3日 (月)

雲伯地方(宍道湖中海圏)は案外IT技術者の集積地だった

山陰中央新報デジタルの購読を初めてしばらく、出雲地方はIT技術者の集積地であることが分かった。松江はRubyというプログラミング言語の開発拠点であったりするのだけど、出雲市にもIT技術者が多くいるそうだ。

海外からの人材も増えているとのこと。ウクライナ戦争のあおりで東欧からの技術者が訪日するケースもあるとか。雲伯地方ではインドとの交流を進めているそうで、その線もあるか。

石見地方に在住のIT技術者は少ないらしい。石見には大規模な事業所が少ないと思われるので情報システム化が遅れた、あるいは石見地方に本拠を置く会社が少ないという理由もあるだろう。

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ローカル線の場合、そもそも利益が出ないし――JR西日本・山陰沿線の主要データ

木次線・出雲横田-備後落合、収支率0.2ポイント悪化2.7% JR西22~24年度
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/886367

山陰地方と関連する路線の主要なデータの一覧表が掲載されている。輸送密度、鳥取―浜坂間は益田―出雲間より若干下回るものの結構人の移動はあるのだなという印象。赤字額では益田―出雲間が最も大きいのであるが。木次線は出雲横田―備後落合間の輸送密度が非常に低い。芸備線も庄原―新見間の輸送密度はかなり低い。山口線は宮野駅がどこか分からないがそこそこといった印象。山陰本線も益田以西の輸送密度はかなり低い。

鉄道の場合、利益を出すのは特急列車で、というビジネスモデルだそうで、ローカル線の収益はどうしても厳しくなる。

……若い頃、新見駅から芸備線に乗ったことがあるが、確か備後落合までは山間を走っていたような記憶がある。そもそも人がそんなにいないし中国道もあるし、といった状況で、免許を持たない若い世代とお年寄りくらいしか利用者がいないのだろう。

兵庫県でも以前、小野市沿線の私鉄の存廃が話題になった。神戸市に繋がる路線なのだけど、それでもそんな話になる訳だから山陰の路線が厳しい状況なのは当然といえば当然の話である。

<追記>
輸送密度の定義は1日1キロあたりの平均利用者数で、採算ラインは2000人ほどとのこと。益田―出雲市間が800人台、鳥取―浜坂間が700人台なので厳しい数字ではある。ただ、特急の走る幹線とローカル線とで条件が異なるので、そこら辺の詳細までは分からない。

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ここが開通すれば益田―出雲間はほぼ全通のはずだが――山陰道・福光浅利道路の進捗状況

福光・浅利道路 事業費200億円増 山陰道、追加工事も
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/885626

山陰道、江津市の未開通区間である福光・浅利道路に関する記事。2025年度末の進捗率は40%ほどとの見通し。開通時期はまだ明らかにされていないが、2030年前後くらいな感じだろうか。ここが開通すれば益田から出雲までほぼ全通という形にはなるか。浅利IC以西は現道活用の方針らしいが。

……ここは割と大きめのガソリンスタンドと道の駅が国道9号線沿いにあるけど、そこに下りて給油するといったことは可能なのであろうか?

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2025年11月 2日 (日)

保護貿易の長期的弊害――野口悠紀雄『アメリカが壊れる!』

野口悠紀雄『アメリカが壊れる!』を読む。主に米国の第二次トランプ政権の関税政策について解説した本。保護貿易は長期的には競争力を削いでしまう結果に終わるはずだが、一次政権の頃はまだブレーキ役がいたのだなという感想。

テクノロジーの力でイノベーションを起こしまくっている最中に、それ故に格差が拡大して中流層が崩壊、政治的には混迷期に突入……といった様相。生きている内に目の当たりにするとは思わなかった。

まあ、敵の敵は味方理論で自陣営に引き込もうとした結果が今なのだから、今更な感はある。

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2025年11月 1日 (土)

引っ越しから約一年経過

11月になった。去年の11月に横浜からUターンして約一年が経過した。引っ越しのあれこれで疲弊しきっていて、その疲れが抜けるのに一年近くかかったという印象である。栄養ドリンクや養命酒などを飲んでみたりクエン酸のタブレットを舐めてみたりしたけど効果は特に感じられなかった。未だ完全には復調していない。引っ越しを契機に体調を崩してしまった感がある。定期的に通院はしていて血液検査での数値には特に異常は認められないのだけど。近距離でも(寒かったり酷暑だったりで)車で移動していることあって以前にも増して運動不足となり疲れやすくなった。今年は執筆の下準備を進めていたこともあって遠出しづらい状況にあった。下準備は年内には終わるペースで進んでいるけど、来年はその記事化と積読本の消化に注力しようと考えていて、やはり遠出はあまりしないかもしれない。それでもグラントワや石央文化ホールには割と通った方だとは思う。

今後、再度引っ越しするとしても市内だろうし、廃棄すべきものはあらかた処分済で再度段ボールに積み直せばいいだけではあるので前回のようなことにはならないだろう。とはいえ、しばらくはご免である。

……この一年ほどで体調を二度崩して「ひょっとして残りの寿命、少ないかも」と思ったりもしたので(※実際にはそこまで深刻ではないはずですが)今進めていることは何としても形にしたいというのが正直なところである。

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