AmazonのKindleストアで電子書籍をセルフ出版してます

AmazonのKindleストアで下記の電子書籍をセルフ出版しています。

(石見の文芸シリーズ)
石見の姫神伝説:乙子狭姫、胸鉏比売、天豊足柄姫命、櫛代賀姫命など
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石見の伝説:伝説の地を巡る
https://www.amazon.co.jp/dp/B09RJZVPQF/
神楽と文芸(総論): 石見神楽、芸北神楽、神代神楽、太々神楽など
https://www.amazon.co.jp/dp/B09MRFXFWS/
神楽と文芸(各論):神楽の重要演目・人気演目
https://www.amazon.co.jp/dp/B09PH6L1RG/
神楽と文芸(各論2):鬼退治
https://www.amazon.co.jp/dp/B09TK1GZ4R/
神楽と文芸(各論3):神話・歴史・エトセトラ
https://www.amazon.co.jp/dp/B09WW1R6N6/
昔話はなぜ面白いか(上)
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昔話はなぜ面白いか(下)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0BX5KC15V
(その他)
ブログから電子書籍までニッチ戦略の執筆術
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三泊四日の大腸ESD入院記
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2025年6月12日 (木)

芝居小屋の雰囲気がよく伝わってくる――仲野マリ『地方の芝居小屋を巡る』

仲野マリ『地方の芝居小屋を巡る』を読む。地芝居(農村歌舞伎)の舞台を取り上げた電子書籍。写真はカラーで芝居小屋の雰囲気がよく伝わってくる。岐阜県に地歌舞伎の芝居小屋が多く現存しているそうだが、最寄り駅から車で数十分といった具合で交通の便はよくないのだとか。

地芝居はテレビに押された等の理由で昭和40年代には衰退してしまったとのことだが、地方自治体の無形文化財保護行政が本格化したのはおそらく1970年代以降なので、タイミングが合わなかった側面もあるかもしれない。

歌舞伎も人気低迷していた時期があったとは知らなかった。

首都圏の神楽師は面芝居という芸能も演じていたと聞く。今はやらなくなっているようである。厚木市の垣澤社中の台本を収録した本を参照したが、タイトルから判断するに農村歌舞伎に近いものが多いと思われる。収録はされていなかったが「魚屋宗五郎」もやっていたらしい。酒癖の悪い宗五郎がとある事情でちょっとだけと飲み始めたら止まらなくなる様が面白い演目。映像が記録されているかは知らない。台本があるので復活上演は可能なはずだが、当時を知る人が少なくなって復活させるには相当なエネルギーが必要かもしれない。

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2025年6月11日 (水)

リズムに内包される予測誤差――千葉雅也『センスの哲学』

千葉雅也『センスの哲学』を読む。千葉氏の著書の中では美学に相当するか。「判断力批判」の判断力は感性のことと知る。翻訳は難しい。

リズムに内包される予測誤差を言い換えると「そう来たか!」といったところだろうか。漫画だと『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博氏がそういった展開を得意としているらしい。僕は氏の近年の作品を知らないが。

ジャンルからの逸脱、僕自身、たとえば芸北神楽とは上手く折り合いをつけることが現状できていない。元々は特に深く考えていなかったのだけど、次第に違和感が大きくなっていった。では感性が老化したのかというと、2.5次元舞台なんかは見たりしていて、それはそういうものとして受け入れている。

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読書の阻害要因はノートパソコンのファンの音だった

ノートパソコンのファンの音が読書の阻害要因ではないかと気づく。ファンレスのChromebookを買ってようやく気づいた次第。

前々から読書が進まなくなっているとは感じていたのだけど、それは引っ越しに伴う疲弊感が抜けていないからだろうと考えていた。で、たまたまノートパソコンの電源を落として読書したら思いの外進むのである。

元々は新品のスリムデスクトップパソコンを買っていたのだけど、それはTVチューナー付きだったので家族に回した。で、修理中の暫定措置で買った再生ノートパソコンを継続使用していた。スペック的には問題ないのだけど、かなり発熱するらしくファンが常時唸っている状態。対症療法的にスタンドを買ってみたりしたが、完全には抑制できない。

……とはいえ、今のタイミングでパソコンを買い替える訳にもいかないし、どうしたものか。Chromebookだとそこまで高価でもないのだけど、WinかMacでないと動作しないツールもあって、環境が分裂してしまうことになってしまう。

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2025年6月10日 (火)

型どおりには進まない――佐藤郁哉『リサーチ・クエスチョンとは何か?』

佐藤郁哉『リサーチ・クエスチョンとは何か?』を読む。論文には型があって、型に沿って記述していくことが求められるのだけど、実際の構想からリサーチ、執筆に至る段階では試行錯誤を繰り返し(循環)、問いを練り直し練り上げていくことになるとしている。

著者は質的研究に関する本を多く執筆されている。質的研究だと自然科学的な論文のスタイルと合わない側面があって、それが動機となっているらしい。

卒業論文の執筆を控えた人向けに書かれている。卒論だと短期間で書き上げなければならないため、それに見合ったクエスチョンをいかに設定できるかが課題となってくるとのこと。

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他流試合っぽさを感じる――山野弘樹『独学の思考法 地頭を鍛える「考える技術」』

山野弘樹『独学の思考法 地頭を鍛える「考える技術」』を読む。「探求」というキーワードが使用されているので、学校での探求学習が念頭にあるのかもしれない。

教員の私的な会合にご厚意で混ぜてもらったことがあるのだけど、今どきの普通の高校生は勉強せずに定期試験で平均点をとるのがコスパがいいといった思考なのだそうである。それではいずれAIに仕事を奪われてしまうだろうと懸念されていた。

ちなみに、世界史だと憶えることが多くて大変なのだけど(学習が進んである種の閾値に達すると)やがて個々の繋がりが見えてくるようになり、面白くなってきたという感想もあったとのこと。

ほんのちょっとだけど他流試合といった読後感だった。僕自身は民俗学徒ではないけれど、重出立証法である。要するに比較するという手法。比較することで違いに気づくといった当然のプロセスを重ねて認識を更新していく。これには批判があって、おそらく比べるという行為には共時性という横軸と通時性という縦軸とがあって、双方に留意せねばならないということではないか。

芸能だと系統の異なるものを見比べることが肝要だった。共通性に気づくこともあれば、自身が当然と思っていたことが地域性によるものであったことを認識するといった体験をした。

フィールドワーカーではないのだけど、神楽の研究者や家元のお話を伺っていて、「これは本には載っていないけど重要な情報だな」と感じたことが何度かあった。

……民俗学は美学とは相性が比較的よいと感じる。

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2025年6月 8日 (日)

芸能には批判的――鈴木忠志『ショベルカーとギリシア――鈴木忠志対話集』

鈴木忠志『ショベルカーとギリシア――鈴木忠志対話集』(ゲンロンセレクト003)を読む。

利賀村(南砺市)へ西日本から行くには名古屋駅で高山本線に乗り換えて向かうのが最短ルートのようだ。そうすると、アニメ「氷菓」の舞台のモデルである高山市でも観光したいし……となってしまうが。

インテリで世界的な名声も獲得した演出家。幼少期から芸能の世界に触れていて芸の何たるかを知悉しているようだが、なぜか批判的である。芸能は祝福する側面が強いし批評性ということで言うなら、芝居もワイドショーの再現ドラマのようなところからスタートしているだろうし。

芸能だと「ここから先はやらない」的な線引きをすることがあって、それはそれで守りの姿勢としては一つの見識なのだけど、そういう性向を拒否しているのかもしれない。

一方で、若い頃にコマ劇場に通いつめたりと俗なものにも理解ある人のようでもある。

早い時期に合掌造りの家屋に着目し、舞台として改装するといった環境づくりを進めていったようだ。そういう点では商才も感じられる。

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2025年6月 6日 (金)

熱量は感じるもののミクロ的な視点にやや偏っているか――おーちようこ『2・5次元舞台へようこそ ミュージカル『テニスの王子様』から『刀剣乱舞』へ』

おーちようこ『2・5次元舞台へようこそ ミュージカル『テニスの王子様』から『刀剣乱舞』へ』を読む。漫画・アニメを題材とした舞台劇は宝塚歌劇団の「ベルサイユのばら」を嚆矢として90年代には既に活発に上演されていたようだ。近年、演出技法がアップデートされミュージカル「テニスの王子様」辺りから2.5次元という風に表現されるようになっていったようだ。

取り上げられているタイトルから推察するに、女性の観客をターゲットとした舞台が多いようだ。僕自身は少年漫画の世界から離れて久しいけど、女性の読者も多いらしい。

かつて小劇場演劇ブームは若い女性層が支えたそうだが、小劇場をはるかに上回る動員力を誇るものと思われる。オリジナル台本の小劇場演劇と違い既に知名度の高いコンテンツの舞台化であり、若手俳優にとっては特定のキャラのイメージがつくリスクはあるものの、知名度を飛躍的に向上させるまたとないチャンスのはずだ。今の60代以下は漫画・アニメで育った世代で昔みたく「ジャリ番」といった偏見もないだろう。

僕自身の観劇経験はアリバイ程度にしかないけど、「リコリス・リコイル」後編を東京ドームシティで観劇したことならある。普段は戦隊ショーが催される会場だけど、立体的なステージングで目まぐるしく登場人物が出入りして楽しい舞台だった。

残念なのはIHIステージアラウンド東京という劇場。おそらく背景が全面的にデジタルサイネージ的な仕組みで構成されていたのではないか。「推しの子」で登場した会場のモデルらしいのだけど既に取り壊されてしまったのだとか。

発行年月日は2020年12月でタイミング的にコロナ禍には触れられていない。コロナ禍で首都圏のとある神楽社中は三年間神楽が奉納できなかったそうである。楽屋は密な環境となるそうで、観劇している観客だけでなく演者にも多大な影響を及ぼした。

本書の他『大衆演劇へようこそ』を読んだ。いずれも初心者向けの構成となっている。初心者向けだから「こんなのでいいんだよ」なのだけど、強いて言えば、ミクロ的な視点で書かれており、その熱量はともかくとして、記述がマクロ的な観点からは整理されていないのでは……といったところ。おそらくジャンルとしての統計がないのだろうけど、たとえば「テニスの王子様」の年ごとの上演回数や動員数、何代目の主役かといったことをグラフ化して図示すれば、2.5次元舞台の躍進ぶりが一目瞭然なのではないか。

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2025年6月 4日 (水)

アフォーダンスについてはまあ何とか――小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』

小島寛之『数学でつまずくのはなぜか』を読む。僕自身は高校数学でつまずいた口である。おそらく頑張れば式の展開くらいはできるようになるとは思うが、応用問題となると途端に設問の意味がとれなくなってしまう。参考書でたとえると黄チャートならなんとかだが、青赤チャートだと歯が立たない。そういう意味では高校でいわゆる「バカの壁」にぶつかったことになる。この「壁」はいったい何なのだろう?

アフォーダンスという概念についてはこの本でようやく得心がいったような気がした。埼玉県久喜市の鷲宮神社の神楽をみていた際、巫女さんの舞で、お祖父さんに抱かれた女児がよく見ようと字面通り舞台にかぶりつこうとした様を目撃したことがある。幼い子でおそらく年上のお姉さんがきれいな衣装を着て何かやっているくらいにしか認識できていないと想像されるのだけど、強い興味を覚え惹かれている訳である。「先天的な審美眼は確かにあるのだ」と感じた。その巫女舞には感性に訴えかける美学的なアフォーダンスがあるということなのだろう。

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ロールバック作業、三周目が確定

ロールバック作業、追記の必要が生じた。喜ばしいことではあるのだけど、三周目が確定してしまった。次は一日数件以上こなせるだろうから今のように終わりが見えてこなくてフラストレーションがたまることはなさそうだが。……でも、今年いっぱいくらいはかかるか。

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2025年5月30日 (金)

グラントワに行く 2025.05

益田市のグラントワ(石見美術館)に行き、企画展「石見の祈りと美―未来へつなぐ中世の宝―」を鑑賞する。石見に所縁の中世の仏像、戦国武将の肖像画、雪舟派の画人たち、益田家の家宝といった順で展示されていた。

駐車場から見たグラントワ
駐車場から見たグラントワ
グラントワ裏口

最後の益田家の家宝で刀剣が二本展示されていた。その内の一本は曽我兄弟の仇討ちに所縁の名刀であった。正確には仇討ちされた方だが、その子息(犬坊丸)に頼朝が下賜したものらしい。なので、この刀は弟の処刑の際に用いられた可能性も高い。そういった逸話を背負った名刀を実見することができるとは、と驚かされる。おそらく今回が最初で最後だろう。

刀文が美しいといった類のものではなかったが、鎌倉時代の刀が錆び一つない状態で現存していた。

益田氏はおそらく石見国に赴任した藤原氏の傍流がそのまま浜田市の下府川流域(伊甘郷)に定着して御神本(みかもと)氏を名乗り、その後、益田氏、周布氏、三隅氏、福屋氏と分派していった。三隅氏と福屋氏は滅んだが、益田氏と周布氏は毛利の重臣として存続している。石見は平野が少ない土地柄なのだけど、都に戻っても出世の見込みがないから地方に活路を見出したというところか。

雪舟の新筆とされる屏風も展示されていた。遠近法は用いられていないが、手前の松や岩は太い描線で大胆に描き、後方のものは描線が細く淡くなっている。全体にモノトーンに近い色合いで構成されていて、ワンポイント的に赤が配色されている。鳥は羽毛が細かに描画されておりしっかり観察された上で描かれていることが分かる。

高弟の描いた屏風も展示されていて、こちらは金箔も使っているのか鮮やかだけど、桜だろうか、花が咲いた樹木の描写はまるでノイズリダクションが強くかかった画像のようなタッチだった。それは画像を拡大して分かるもので「塗り絵みたい」と言われたりするのだけど、結果的に似たような効果となっている。

毛利元就の肖像画は画像では見たことがあるはずだけど、実物をみるのは初めて。

奉納された馬の絵画も展示されていた。白馬と黒馬か。日照りの際と長雨の際とで奉納される馬の種類が異なるのだそうだけど、どちらがどちらなのかは忘れた。

大麻山の絵巻も展示されていた。かつてあった尊勝寺の模様が描かれている。現在日本庭園が設けられているのはどの辺りだったのかは判別できなかった。

一旦、トイレ休憩で外に出る。チケットを提示すれば再入場可能とのこと。

それからコレクション展に回る。「石見人 森林太郎、美術ヲ好ム」では森鴎外と親交のあった画家たちの作品が展示されていた。当時はまだ洋画の地位が低く、鴎外は洋画の地位を向上させるべく活発な評論活動を行ったとのこと。

洋の東西の異なる画風を今回同時に鑑賞することができた。

年表をみて気づいたのだが、三十代前半で要職についている。明治の人は若くして出世したというが、鴎外はその典型例であった。

次に「技と美 石見根付の世界」を鑑賞する。素材としては猪の牙が多かった。猪の牙はこんなに大きいのか、これに刺されたら確かに動脈まで傷つけられてしまうと感じた。他にも素材はあって、鯨歯が用いられているものもあった。

細かい細工が施されている。昔、チョコエッグという食玩が流行ったことがあって、チョコレートでコーティングされた卵型のカプセルの中に海洋堂の動物のフィギュアが入っているというものだった。僕も何種類か集めたのだけれど、小さいことに価値を見出すというのか、それに近い趣味性を感じた。

現代根付で蛙の交尾の様を彫った作品の着眼点が面白いなと思った。

最後は「コレクションにみる女性」。石見美術館に収蔵されている女性作家の作品を集めたもの。入口付近に展示されていた作品、メモをとることができず名前は失念したが、デンマークの女性美術家だった。年頃の娘を描いた絵が展示されているのだけど、その顔立ちが少女漫画のそれと似ていると感じた。1914年の作品だけど、およそ50~60年くらい先行していたといった感じだろうか。アールヌーボーか、そういった画風も漫画のルーツの一つなのかもしれない。

この絵はポストカードにして土産物売り場で売ってもいいのではないかと思った。そう思うのは僕くらいかもしれないが。僕は姉がいるので子供の頃から少女漫画は読んでいて抵抗感がないのはある。

見終えて、レストランで休憩する。ランチは11時から14時まで。およそ2500円くらい。地方の小都市のレストランとしては本格的なメニューだった。和牛ステーキは予約が必要とあった。食欲がなかったのでケーキセットを注文する。

グラントワのレストランから見た外側

休憩を含めて三時間ほどの滞在時間であった。平日だったので来場客は少なくじっくり鑑賞できた。雪舟の屏風はちょうど手前に長椅子が置かれていたので、そこに座ってずっと見ていたくもあった(尿意で退場したが)。

益田までは往復80㎞ほど。去年の12月に安彦良和展で訪れた際は引っ越しの疲労感が抜けておらず、翌日以降も数日間何も手につかなかった。今回も帰宅後、ドッと疲れが出た。前回に比べたら回復傾向にはあるけれど、体力がかなり落ちていることは否めない。どこまで戻すことができるか分からないが、ロングドライブが厳しくなっている。

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