プロンプトを詰めていく問題に直面する
ホームページの英文記事をCopilotに評価してもらったところ、Google翻訳の癖が出ていて直訳調でネイティブには読みづらいとのこと。翻訳し直してもらうこと自体は可能だそうだが、プロンプトを詰めなければならないし、現状そこまで戦線を拡大できないと先送り。
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ホームページの英文記事をCopilotに評価してもらったところ、Google翻訳の癖が出ていて直訳調でネイティブには読みづらいとのこと。翻訳し直してもらうこと自体は可能だそうだが、プロンプトを詰めなければならないし、現状そこまで戦線を拡大できないと先送り。
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石見神楽伝承館(仮)に関する投稿をFacebookで見かける。これ、駅近くにワンストップで石見神楽を体験できる施設を建てて観光客を誘致したいという狙いは分かる。ただ、吉とでるか凶とでるか先が読めず、典型的な箱もの行政に陥りかねないリスクをはらんでいる。前市長の発言だと25億円くらいかかるとか。自治体の施設はよく分からないが、民間だと年間1億円くらいの減価償却費が20年に渡ってのしかかる。それは重い負担ともなる。また、駅前のあの立地を神楽のためだけにしてしまっていいのかという疑問もある。
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2026年2月22日(日)、大田市民会館・大ホールで『創作音楽劇 サヒメ』が上演されると知る。原作の洲浜昌三氏は以前当ブログにコメントを下さった。あのときは変なレスをしてしまいました。大変申し訳ありませんでした。
脚本・作詞の川崎万里さんは「ハロー!この町」でも作詞されていた方。作曲者の方は違う人のようだ。
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第23回江戸里神楽を観る会の日程が通知される。
・令和8年3月15日(日)
・開場:正午、開演:13:00-
・主催:間宮社中(共催:品川区教育委員会)
・六行会ホール
・入場無料
・全席自由席
【演目】
・笠沙桜狩
・敬神愛国
・品川神社太太神楽「花鎮の舞」
「桜狩」は岩長姫が主役の演目。「敬神愛国」は恵比寿さまと大黒さまが主役だけど、従者のもどき二人が大活躍する。
六行会ホールは品川図書館の向い側。ホールのエントランスは地下にある。
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◆はじめに
神楽甲子園がきっかけでつらつらと考えていたのだけど、芸北神楽の新舞は神楽の体裁をとりつつ芝居に傾倒しているように見える。ひょっとすると、地域で大衆演劇的な芸能に対するニーズが根強くあって、それが無意識的に反映されているのかもしれない。それ故に神楽研究者や他地域の神楽通たちとの齟齬をきたす原因となっているのかもしれない。
芸北地域は浄土真宗が強い地域で「雑事雑修」を排すると言われているそうで、そういった傾向は合理的な思考に繋がるかもしれないが(※阿弥陀仏への信仰を除くと唯物論に接近すらしているかもしれない)、反面、土着的/土俗的なものに対する関心が薄いのではないか、神楽甲子園の受賞傾向をみて思ったりもした。
以下は「こうすれば芸北神楽を上手く読み解くことができないか?」という試みである。補助線として国学/安芸門徒という対立構図を持ち込む。神楽研究者たちが何か察知したのか寄り付こうとしないのは、下記のような背景からかもしれないと考えたものである。
芸北神楽は学問上は石見神楽に分類される。石見と芸北は隣接した地域で気候風土は似通っているのだが、石見、石央から石西にかけて浜田藩と津和野藩では国学が盛んだったことが挙げられる。対して芸北は浄土真宗が強い地域で江戸時代の安芸国では芸轍(げいてつ)と呼ばれる学僧たちが盛んに活動し周囲に影響を及ぼしたことが特筆される。つまり、気候風土は似通っているのだけど、精神面でかなりの相違を見せるのである。
無意識的にで、意識的なものではなさそうだが、芸北神楽界隈の人たちは題材の選定などを含め神楽の合理化を推し進めているのではないか。芸北の神楽人たちがゴリゴリの安芸門徒とも思えない。つまり、当事者はやりたいことをやっているに過ぎないが、結果的に神楽に残存する呪術性を排除する方向性となっている。
呪術性、呪術的思考(※たとえば祈祷で病気が治るとか雨乞いで雨が降るとか考えること)は注意深く避けなければならない性質のものだが、神楽からそれらの名残を取り去ってしまったら神楽本来の魅力が大幅に失われてしまうことも確かなのだ。
芸北が合理的な思考の土壌となっているか説明するのは容易ではないが、神楽甲子園であれば毎年開催されるイベントであり、何らかの傾向は把握できるかもしれない。ここら辺は出雲の民俗学者であった石塚尊俊の問題意識を取り入れられないかといったところである。
反面、これは郷土芸能が現代性を回復しようとするムーブメントとポジティブに捉えることも可能である。「保存」のターンから「反転攻勢」のターンに達している兆候かもしれない。地域発の政治色の薄いカウンターカルチャーと積極的に解釈することも可能だ(※お互い歩み寄る姿勢も大事だと思うが)。
・お芝居への強い志向性
・神楽の合理化(呪術性の排除)
・芸能の現代性の回復を希求する地域発のムーブメント
といった風に三点列挙すれば収まりがよくなるか。
テレビや映画、ネットといったメディアだけではライブパフォーマンスの需要を完全に代替することはできず、それらの需要を神楽が受け持っているとも考えられる。また、中国自動車道の開通による沿線地域の緊密化、経済圏化も背景として挙げられるだろう。
生(ライブ)で鑑賞することでエピソード記憶として定着しやすくなる面も多々あるかと思われる。百聞は一見に如かずというが、メディアでの鑑賞では得られない体験(エクスペリエンス)がライブから得られることが今後再評価されていくだろう。
◆基本スタンス
まず筆者の立ち位置を説明しておくと、島根県浜田市出身である。つまり八調子石見神楽の発祥地の出である。なので、芸北神楽の新舞と八調子石見神楽でそれほど差はないと思っている。八調子石見神楽より演劇色が強まっているなとは思う。
筆者も大した神楽鑑賞経験がある訳ではない。舞の善し悪しが分かる訳でもない。以前は横浜に長く住んでいたので、関東の里神楽は集中的に見る機会があった。関東の里神楽も演劇化された神楽である。その点で石見神楽や芸北神楽との比較材料となり得る。
また、演劇化されていないが、埼玉県久喜市の鷲宮神社の催馬楽神楽を見た経験は大きいと思っている。関東の里神楽の源流である。2024年には横浜中華街で岩手の早池峰神楽(岳神楽)を鑑賞する機会に恵まれた。
◆安芸門徒
前提として広島県(安芸国と備後国)における浄土真宗の受容の過程を見ていきたい。
水原史雄『安芸門徒』(中国新聞社/編)を読む。帯に復刻版とある。前半は南北朝の争乱の頃、備後の沼隈半島(※現在の福山市。鞆の浦辺りか)に上陸した真宗の僧たちが教線を延ばしていったその後の歴史。後半は江戸時代に開花した芸轍と呼ばれる安芸出身の学僧たちの列伝といった構成となっている。巻末には歴史年表、歴代住職一覧、参考文献などが置かれている。
当初の布教は親鸞の直系ではなく下野国の弟子筋の僧侶による。絵系図といった親鸞の教えに背くような手段もとられたそうだ。現在は三次市内に立地しているが(※高田郡にあった時期もある)照林坊という真宗の寺院から出雲、石見、山口などへ教線を延ばしていき末寺を増やしていったとのこと。
芸轍と呼ばれる一派は基本的には教義を巡る解釈で活発に論争したそうだが、中には吉田松陰に影響を与えた人物もいたとのこと。
「神棚おろし」と称された学僧もいたとのこと。巻末のアンケートによると1970年代頃は仏壇と神棚の両方ある家が半数近くを占めていた。家単位での宗派をみると真宗が五割を超えている。その他の仏教諸派は合わせると三割近くあるが、勢力としては圧倒的である。
浄土真宗が神社の神宮寺だったことは教義上なく、明治初期の神仏分離令の際も混乱は生じなかったそうだ。その点、石見ではたとえば浜田市の大麻山にあった尊勝寺という大きな寺院は明治期の地震で倒壊したのだけど、廃仏毀釈の時勢下にあって遂に再建されなかったとされていることと対照的だ。
その後、藤井昭「書評 水原史雄『安芸門徒』」『芸備地方史研究』128号を読む。本書を宗教史と郷土史を結びつける成果と評価している。一方で、
著者が、安芸門徒は芸備門徒といいかえた方がよい(はしがき)とされ、本文でも安芸の真宗と備後の真宗とを区別して扱われていない点である。安芸では一村が真宗にぬりつぶされ、他宗派の入るを許さない厳しさがあったが、備後の真宗は村内で他宗派と共存し、数多くの小神の鎮座を許している。備後の真宗の在地のあり方は安芸よりも他国の真宗に共通した性格を多分に有していたのではあるまいか。むしろ安芸の真宗は備後の真宗との対比においてその本質が明確になると思うのである。(28P)
ともしている。備後では荒神信仰がみられるが、安芸ではおそらく見られないのではないか。
『安芸門徒』では広島の門徒を従順な存在として描いている。確かに原爆という巨大な暴力の前で個々人は無力である。が、専修念仏のラディカルさはどういう訳かGHQの検閲を奇貨としてオポジションとなる神楽――国粋主義を弱体化させざるを得なかった――にそのはけ口を求めたのかもしれない。
となれば、芸北神楽の新舞は無自覚の内にラディカルさを内包した神楽との見方も可能となる。
一向宗のラディカルさは信長に潰されて消え去った訳ではなく、形を変えて歴史上、何度か顔を覗かせているということだろうか。専修念仏は強力な抵抗の論理であり求心力ともなり得る。
抵抗の論理は隠し持ったナイフのようなものである。普段からちらつかせていたらチンピラ扱いされてしまうから、別の形をとっているのかもしれない。
権力に歯向かうだけが抵抗とは限らない。街の復興も文化の発信も立派な抵抗となり得る。
……こういった文脈で読めなくもないのだけど、誰も自覚してはおらず、皆、無意識的に行動しているだけではないか。
◆神棚降ろしについて
市川訓敏「安芸門徒と『神棚降ろし』」『比較法史研究』3号という論文を読む。江戸時代末期に起きた浄土真宗を巡る宗教運動である。
神棚降ろし、具体的に神棚を降ろした後どう処分するのかまでは分からないが、他に大麻(天照大神の護符)を家から取り除く、加えて位牌までも取り除く、更には墓所すら軽視するものであったという。遂には神棚が安置されているか町役が一軒一軒見廻りを行う事態にまで発展した。
この運動は真宗が組織した講における説法で広まっていったものと考えられる。
真宗の主な指揮系統は、
西本願寺――光照寺(現福山市)/仏護寺(現広島市)・十二坊――各末寺
といった感じか。光照寺はおそらく福山藩領なので広島藩では仏護寺とその十二坊と呼ばれる寺院が中心となったと思われる。芸北だと現在三次市にある照林坊の末寺が多いはずだが、照林坊が当時どこにあったかまでは分からない。
広島藩から咎を蒙った(処罰された)とする記録が残されているが、それに屈することなく神棚降ろしは継続していく。
これに対しては神道関係者からの反発もあったようだ(神道講談事件)。広島藩自体が厳島信仰を奨励していたことも背景にあるとのこと。
運動は広島にとどまらず真宗地帯に広がったと推測されているが、本論文では広島県に限った考察となっている。
広島で神棚降ろしを主導していたのは十二坊の一つ報専坊の慧雲という学僧とされる。慧雲は芸轍と呼ばれる安芸国が輩出した真宗の学僧の一派の祖とされる人物である。芸轍は本願寺の学林との論争に勝利する、つまり地方の学派が中央に勝利するといった華々しい実績も挙げている。
背景の一つとして大阪で大塩平八郎がキリシタンを摘発したが、実際には祈祷師でキリシタンではなかったことが判明したという事件が挙げられている。誤認捜査で本来なら幕府の失策であるが、振り上げた拳を降ろす訳にもいかず、関係者は断罪されたとのことである。加えて幕府は宗門改めを実施する寺院の怠慢と責任転嫁し、破戒僧の取り締まりも強化した(※真宗は肉食妻帯を許容している)。これは真宗にとって圧力となり本願寺は傘下の末寺に対する統制を強化していくことになったとしている。結果、備後国の光照寺では傘下の三百を超える末寺に対して神棚降ろしの運動を推進していくこととなった。それが王法に叶うこととしたのである。これは転倒したロジックと言えるかもしれない。
真宗は元々雑行雑修を排するという態度であり、余神・余仏を排除する姿勢が強化された。これが神棚降ろしを不敬であるとする広島藩の施政方針との食い違いの原因となったとしている。この点、幕府や朝廷に融和的な態度をとらざるを得なかった本願寺の抱える矛盾と指摘できなくもない。
本論文では安芸と備後の差、おそらく安芸の方が徹底していると推測されるが、なぜそうなるかまでは明らかとなっていないように思える。やはり芸轍の学僧という主導者が広島藩領で活発に活動していたとみられることが大きいのだろうか。
……で、感じるのだが、身近なところでは護符の類を否定する、つまり呪力の否定/呪術的思考の排除という姿勢が見受けられる。開祖親鸞の師である法然自身、祈祷による病の治療には否定的であったとされ(※雨乞いに関しては記述がなく不明)、当時としては(限界はあったものの)合理的な思考の持ち主であったとも考えられるが、時代が下って呪術的思考を排する傾向が強まっていったとも見ることができるように思われる。
なお、石州浜田藩でも真宗の僧侶による神棚降ろし運動があったことは確認がとれた。他宗の反発を招き、幕府に上訴する事態にまで至ったようだ。
◆石州浜田藩における神棚降ろし運動
『新編物語藩史』浜田藩「本多氏の入封」に「浜田宗門争い」という項がある。松平周防守から本多氏に領主が交替した時代、宝暦とあるが、蓮如の九世孫である仰誓(こうぜい)という真宗の僧侶が石見・安芸を訪れた。これは異安心という真宗への対抗説を糾弾するためだったとある。仰誓は請われて市木村の浄泉寺の住職となり芸石に専修念仏を広めた。信徒たちは他宗や神道への論難を加え始めた。神棚降ろしも行われ、あるいは在来の神祭を廃するよう弁難した。これに対し浜田藩の他宗から異論が起こり九ヶ寺の住職が連名で領主に訴えた。が、宗論に対しては藩も裁きを容易に下せなかった。しびれを切らした九ヶ寺側は幕府に直訴する動きを見せた。藩は直訴のための出府を禁じたが明和四年(1767)、幕府に直訴するに至った。幕府から九ヶ寺に対しては真宗を切支丹呼ばわりしないこと、真宗に対しては他宗他門を誹謗すべからずとの措置が下った。真宗側は寛大に処置されたと見なし却って傍若無人の振舞いとなった。後、再び松平周防守に領主が交替、詳細が報告され寺社奉行が真宗を処罰して浜田宗門争いはひと段落した……とある。
といった次第で浜田藩でも神棚降ろしの運動が行われていたことが確認できた。芸北と石見とで風土にそれほど違いがあるとも思えないのだけど、神楽ではルーツを同じくしつつかなりの違いをみせている。
市木村は現在の旧瑞穂町(邑南町)。浜田道瑞穂ICの近く。大元神信仰にも干渉しようとしたことになる。その試みは石見ではうまくいかなかったようだ。
NHK大河ドラマ「べらぼう」で松平康福(やすよし)が老中として登場したが、これは康福が幕府の要職にあったため、その留守居役的な立場で本多氏が入封したと説明されている。江戸で庶民の文化が開花しつつあった時期の事件ということになる。
◆国学と真宗
福間光超「近世末期の神仏関係―浜田藩における専修念仏の展開をめぐって―」『竜谷史壇』通号52を読む。浜田宗門争いに関する論文であった(※論文によると「浜田宗論」と呼称されているとのこと)。
『新編物語藩史』の補足となるが、浜田城下の真光寺(※西本願寺の末寺)が藩士から寄進された長沢村の大元社の森の樹を伐採し、庫裡を再建しようとしたところ、城下天満宮の社人や長沢村の庄屋から異論を申し立てられたのがきっかけのようだ。
読んでいて気づいたのだけど、石見と芸北とでは気候風土は似通っているのだけど、何か異なる点はなかっただろうかと考えていた。
浜田藩と津和野藩は国学が盛行していた土地柄だった。本居宣長の高弟がいた関係で今でも浜田市と松坂市との間に交流がある。安芸国だと現在の広島市といった都市部ではやはり盛行していただろうけれど、芸北ではどうだったのか。
長沢村や浅井村といった記述が見られる。つまり浜田市街地でも大元神の信仰があったことが窺える。ただ、大元神楽や藁蛇の儀式があったかまでは分からない。他、宝珠院や観音寺といった寺院名も記載されていた。
真宗――神祇――他宗といった構図で、階層間の対立も反映されている節もある。真宗は農民層を取り込んでいたようだ。(在地支配層と融和的な)他宗は神祇との折り合いを上手くつけていたが、専修念仏の真宗はそうではなかった。
本地垂迹の神は、礼拝の対象としないまでで一応認めるが俗神は一切否定する立場である。(32P)
神棚降ろし運動は天照大神の護符を否定しているので安芸にも伊勢神道の系譜が入っていたことは想像に難くない。ただ、安芸の場合、芸轍という有力な学僧集団がいたことが特筆され、精神面で石見と事情を異にしている。
浜田宗論は神祇――大元神といった俗神――が発端となった一件であり、後に神棚降ろし運動も見られたことから、石見と安芸の精神的土壌の違いを説明する好例となっている。
注意しなければならないのは、明治維新を境に真宗と神道とで力関係が逆転していること。神道は神仏分離令と国家神道化で勢力を著しく伸長させている。真宗は逆に守りの姿勢に入ったとも見える。
俗神を否定するのであれば、中国地方に広く分布している荒神信仰も入ってこない、もしくはあったものが排除されていったとみることができる。しかしながら、親鸞本人であれば天神地祇について知名度で差別するといった態度はとらないと容易に予測がつくが、なぜそうなったのか。荒神は祟る神として畏怖の対象ともなっており、また、大元神も藁蛇の儀式に示されるように呪的な側面が濃厚で、そういった点で排撃の対象となっていったのかもしれない。
明治期の神社合祀令で地域の小祠が大幅に整理されてしまって昔のことがよく分からなくなっているという事情もあるか。
「島根大学広報誌 広報しまだい vol.23」というPDFに法文学部社会文化学科教授・小林准士氏のインタビューが掲載されている。小林教授は「浜田宗論」を含む島根県の宗教史のエキスパートなので、近年の研究動向を追うには教授の研究を参照すればよさそうだ。
◆芸北の講中
新谷尚紀「葬儀の変化と集落運営の継承 「壬生の花田植」を伝えている安芸門徒の集落の事例から」『国立歴史民俗博物館研究報告』第234集を読む。広島県北広島町は壬生の花田植で知られるが、一方で住民たちは安芸門徒とも呼ばれ浄土真宗の影響が強い地域として知られている。
論文によると、現在でも講中と呼ばれる真宗系の講組織が維持されているとのこと。論文では葬祭における講中の繋がりの変遷を追っている。以前は講中で葬式を出しており、細かい取り決めがあったようだ。現在はJA虹のホールでの葬祭に移行し簡便化してきているとのこと。
ただ、講中の関与そのものは失われていないとのこと。また、フィールドワークを行った一帯では集落単位で農業法人化しており、やはり強い結びつきが現在も維持されているとのこと。
「化境」という見慣れない用語を目にする。同じ集落でも檀那寺は異なっているケースがままあり、地元の寺院が「化境寺」としてそれぞれの地区の家々を把握する仕組みらしい。図に旧千代田町の寺院の本末関係が示されていたが、三次市にある照林坊は記載されていなかった。広島の仏護寺とその十二坊が起点となっている。
滋賀の義兄のご尊父が真宗の住職だったそうで訊いてみたのだけど、近江では講は門徒の高齢化による減少で行われなくなっている。規模の大きな寺院ではまだやっているところはあるとのことだった。
◆気候風土
石塚尊俊の論文によると(※『山陰民俗』のはずだが、出典をメモし忘れたのか失念してしまった)、石見と芸北とは共に米の収穫高が高くないランク付けとのこと。これは地形的に平地が少ないことに起因するだろう。その分、他の何かで補わなければならないが、石見の場合は和紙やたたら製鉄といった特産品がそれに当たる(※石見地方でも大正時代辺りまでたたら製鉄が行われていた)。芸北の場合は林業や炭焼きだろうか。岩手県の早池峰神楽の場合だと炭焼きの他、煙草も特産品だったとのことで、そのような特産品は地元の人なら容易に挙げられるだろう。
気候については隣接しているのでやはり似通っている。石見地方でも沿岸部と山間部とでは異なるが、石見、芸北ともスキー場があることから分かるように積雪地帯でもある。真冬に高速バスで浜田道を通ったが、寒曳山の辺りから千代田の辺りは一度積雪するとなかなか溶けないようだ。最低気温はマイナスの日が続き、水道管の凍結・破裂を心配しなければならないレベルまで下がる。筆者の兄は広島県で勤務していたとき、4WD車に乗っていた。
石見でも沿岸部は出雲や鳥取よりも温暖な気候である。筆者が子供の頃は雪が積もった際に大きなつららが出来たり水道管が凍結しないよう水を垂らす程度に流したりはしていた記憶がある。現在は最低気温がマイナスになることは滅多にないようだ。
現在は廃線となっているJR三江線の車窓の動画を撮影したものを見返した際、三次盆地に近い幾つかの駅は安芸高田市に属することに気づいた。三江線は江川沿いに遡っていくのだけど、江川沿いに安芸と備後とが隣接している地区があった。安芸高田市からすれば市街地から外れた山間の地区だろうけれど、思った以上に近いのだなと思った。乗車した当時は芸北神楽についてほとんど知らなかった。
◆歎異抄
『歎異抄』の現代語訳付き版を読む。もちろん、一読しただけで理解できるはずもない。天神地祇に関する言及はわずかなのだが、後年、互いに排撃し合うこととなった。個人的には、書いた本人には思いもよらない読み方をする人はままいたりする。そういった積み重ねの結果なのかもしれない。
大前提として冒頭で専修念仏を唱えている。ここはラディカルであるが、以下の小前提ではかなり慎重な態度をとってみるように見受けられる。これは親鸞自身が法然とともに流罪に処せられた過去も背景にあるかもしれない。が、親鸞自身、元来穏健な人物だったのではないか。
後に呪物の類が強く否定されるようになっていく。これは遠国での布教の方便として護符の類が用いられがちだったことに起因するか。
地元の神社の祭神は遠い遠い先祖(のリーダー)を神格化したものだったりする。その点で自身との繋がりを感じさせる場合もある。専修念仏が先鋭化すればそれすら否定する。現世の権威や権力はいわずもがな。
専修念仏が大前提と読み得る構造を持つことで、唯円が想定していなかったラディカルな読みをする人が後を絶たないということか。専修念仏に埋め込まれた抵抗の論理は普段は表に顔を出さないが、読み継がれているということは形を変えて継承され続けているということだろう。もちろん誤読といえば誤読なのだけど、こうも読めるからこそ時の権力者たちに危険視されてきた一面はあるはずだ。
◆地芝居について
地芝居(農村歌舞伎)は昭和30年代には既に衰退していたそうだが、地方自治体における文化財保護行政が本格化したのは1970年代に入ってからと思われるので、タイミング的に間に合わなかった面もあるかもしれない。
各地にあった芝居小屋の多くは戦後、映画館などに転用されていったようだ。極端な場合、ストリップ小屋となった事例もあるらしい(※ストリップはストリップで今や絶滅危惧種だが)。今では古い芝居小屋はほとんど姿を消してしまっている。岐阜県には何軒か残っているそうだが、交通の便が悪い立地とのこと。また、香川県の金毘羅神社の近くに江戸時代の芝居小屋が保存されていて、現在でも歌舞伎が上演される催しが継続しているそうだ。
島根県だと出雲市でむらくも座という団体が活動しているとのこと。指導者を得て1975年に復活させたとのことで、意欲があって指導者を確保できれば復活自体は可能なのかもしれない。
大衆演劇も平成の時代を通じて縮小傾向にあったと考えられる。90年代以降は芸術関連の助成金が支給されるようになったようだ。
◆分類
芸北神楽は大きく分けて、旧舞/新舞と分類される。旧舞は石見神楽とほとんど変わらない。石見神楽が江戸時代の末期、天保年間に邑智郡から芸北地域に伝わったのが始まりだとされている。
浜田道の大朝ICから降りて国道261号を走ると、峠越えをすることなく平坦部を通って邑智郡邑南町(旧瑞穂町)に至る。なので、昔から交流は盛んだったということが体感できる。
阿須那は賀茂神社にお参りしたことがあるのだけど、山間の川沿いに小さな平地があるといった地理感覚だった。有名な牛馬市がどこで開かれていたかは知らない。神社周辺か。川沿いを道なりに進むとおそらく三次方面に出るものと思われる。
新舞は戦後の創作演目である。戦後、GHQの思想統制で神国思想が危険視され、広島では従来の神楽を舞うことが難しくなった。その統制を回避するために考えられたのが新舞と呼ばれる一群の創作演目である。残された台本集によると十七演目ある。
また、出征して亡くなった舞い手も少なからずいたため、芸の継承が危ぶまれたから神楽の再編が急務となったともされている。
これらを創作したのは佐々木順三という人で、地元の小学校か中学校の校長を務めた人であったらしい。言わば地方の教養人なのである。
新舞の多くは説話を元にしている。たとえば源頼光と四天王の鬼退治がそうである。一部、神武天皇やヤマトタケル命の神話も含まれるが、大半は説話ベースである。筆者は茶利が活躍する「悪狐伝」が好みである。
元々人気のある説話を題材にした演劇化された演目であること、そしてテンポの速い舞は一世を風靡した。戦後の一時の代用品だったはずが、いつの間にか定着し現在にまで及んでいる。なお、新舞の初期の作品は終戦前に創られているので、創作の意図がGHQの統制回避のみであったのかは考慮の余地がある。
筆者もこれらの出典を調べていくことで今まで知らなかった魅力的なお話に触れることができたので、別段悪く思っている訳ではない。
佐々木順三に関しては『かぐら台本集』の序文と『広島民俗』への寄稿文しか読んだことがない。子供時代の夜神楽の思い出について書き記していたのは記憶しているが、自身の宗教的バックボーンについては言及されていなかった。安芸門徒の可能性が高いが定かではない。いずれにせよ、どこかの時点で神楽に説話を大幅に取り入れる構想が膨らんでいったことは窺える。これは結果的に新舞から神祇を排除する方向性へと繋がっている。
そういえば旧舞には楠木正成を題材とした演目があるけれど、新舞にはそういった忠臣を題材としたものはない。戦後、排除されていったものの中に含まれるからだろう。近年の新作ではあるかもしれないが。
◆五行神楽
芸北では五行神楽(五郎王子)の演目が上演されていたのかといった疑問もある。旧舞の台本集にも収録されていないのである。五行神楽は石見神楽でもトリを務める最重要演目なのだが、それが見られないとしたら、それはどう解釈すればいいのか。
五行神楽は陰陽五行説を物語形式にした演目である。邑智郡なら「五龍王」という演目名で上演されていただろう。終盤の五兄弟での再分配が決着した後、余った日の配分のくだりの口上などは修験色が濃いとは指摘できる。浄土真宗の影響で安芸門徒と呼ばれる信徒たちは受容しなかったと考えたらどうだろう。ただ、天蓋を飾る紙垂は五色のはずなので完全に排除した訳ではなさそうだが、演目としては受容しなかったというところだろうか。ここら辺も芸北神楽について考察する上で有力な傍証となりそうだ。
ひょっとすると、安芸国に布教した人物の考えに親鸞や法然の教えとは異なる部分があったのかもしれない。それは全くの未検証である。
◆鬼
中国地方の鬼は悪鬼が多い。元を辿ると「荒平」「提婆」と呼ばれる鬼に行きつくようだ。これらは中国・四国・九州と広く分布している。現存する最古の台本は芸北のもので、これは出雲の佐陀神能より前まで遡れると指摘されている。現在は安芸十二神祇の演目で荒平が登場する。これは鬼が降参して祝福の杖を贈与するというモチーフを伴ったものだ。
一方、奥三河の花祭に登場する鬼、榊鬼や山見鬼はどちらかというと山の主的な側面を見せるようだ。これらは「反閇(へんばい)」と呼称される地を鎮める独特なステップで有名だ。石見神楽でも「禹歩(うほ)」について浜田商業高校の生徒が言及していたので筆者が知らないだけで存在するものと思われる。
大元神楽の「山の大王」は難解な山言葉で話す大王の要求をもてなし役の大夫が一々曲解するといった滑稽な内容となっている。また、石見地方の山間部ではこういった山言葉を用いる山の神にまつわる昔話も伝承されている。
大元神楽を名乗る団体でも「悪狐伝」を上演するご時勢である。「悪狐伝」は「悪狐伝」で珍斉和尚が面白いのだけど、「山の大王」もやって欲しいところである。
抵抗の論理という文脈で「滝夜叉姫」を読み解けば、これは平将門の娘である姫が敗北する滅びの物語として描かれているのだけど、なぜ関東ならぬ広島で人気があるのか理解しやすくなるかもしれない。
◆クロージング
横浜市の横越社中の奉納神楽を何度か鑑賞した。トリの演目は「天孫降臨」と決まっていて、その後、猿田彦がスライド登板して「山神の舞」でその日の神楽は締めくくられる。いわばクロージングの舞となっている。埼玉県坂戸市の大宮住吉神楽は「終祓」でその日の神楽を締めくくる。ちなみに大宮住吉神楽は神代神楽よりも鄙びた雰囲気を残している。
クロージングということは見方を変えればクールダウンするということになるか。石見神楽では近年「大蛇」がトリの演目となることが多いが、元々は五行神楽、五郎王子の説話を基にした「五神」「五龍王」がトリの演目となることが多かったものと考えられる。更に大元神楽まで遡ると「五龍王」を終えた辺りで夜明けとなって、その後、神社を出て藁蛇の儀式に移るものと想像される。
西洋の演劇では上演が終了した後、カーテンコールとなって高揚感を持ったまま幕が閉じられる。この点について西洋では演技後のクールダウンの手法の欠如を指摘する本があった。ここら辺も全体的によく分からないことである。
◆新舞の長所
それでは人気の理由から考察しよう。何と言っても演劇化されたストーリー性のある演目であることが大きい。ライブの一回性もあって繰り返しの鑑賞に耐えられるのである。儀式舞だと一度見ればいいかなと思ってしまうところだ。
筆者は儀式舞の鷲宮神社の神楽も不思議と飽きないと思っている。でも、そう思うのは少数派だろう。
ヒーローが鬼を退治する勧善懲悪のストーリーであることも安心感を与えるだろう。子供に勧善懲悪ものを見せるのは未知のものに対する恐怖心を克服する上で大きな効果がある。
八調子と呼ばれる速いテンポは8ビートにたとえられることもある。8ビートの音楽は二十世紀の音楽シーンを席巻したが、ノりやすい音楽なのである。
「どうして神楽が好きなのですか?」と訊かれて「血が騒ぐんです」と答えた演者がいたそうである。太鼓の激しい鼓動はプリミティブ(原始的)な身体感覚に訴えるものがあるのだろう。
早池峰神楽(岳神楽)の公演を見ていて思ったのだが、太鼓の激しい鼓動に身を浸すことには心身をリフレッシュさせる作用があるようだ。早池峰神楽は岳神楽と大償神楽とが交替で冬の農閑期にテリトリーを巡業していた。民家を舞台にして上演されたそうだが、観客たちは年に一度、そういった形で神楽に触れることによって心身をリフレッシュしていたのではないか。今よりもずっと音楽が身近に溢れていなかった時代の話である。ことによると、ヒトは年に一度くらいそうすることで十分生きていけたのかもしれない。
そういった点で系統の異なる神楽ではあるが、石見神楽や芸北神楽と通底するプリミティブな魅力があると感じた。
石見神楽の動画を見ていると、子供たちが舞台にかぶりつきで神楽を見ているシーンがしばしば見受けられる。芸北神楽の動画はステージで録画されたものしか見ていないのでそういったシーンは見たことがないが、奉納神楽ではそういう事はまま起こりうるだろう。つまり、幼い子供の先天的な感性に訴える魅力を持っていることになる。
神楽甲子園でも芸北石見の派手な神楽を見た他地域の生徒が影響を受けてしまうといった話は聞いたことがある。
新舞の身体パフォーマンスの高さは若い感性に魅力的に映ることは否めない。
新舞では神や姫は直面で化粧をする。仮面を着けて神になりきる要素は薄れるが、口上は聞き取りやすくなる。つまり、より観客寄りの演出がなされているのである。
「ショー」と揶揄されることもあるけれど、演出は時代によって変わる。現代はLEDによって青い光が出せるようになった。青い光で効果的に演出できるなら使っても別段問題なかろう。デジタルサイネージを見立てとして用いることも可能かもしれない。元は観光旅行が一般的でなかった時代にここは名所旧跡ですよという建前で見立てたものだとか。
横浜の加藤社中の公演を港北区菊名の港北公会堂で鑑賞したことがある。黒尉が両手に差した扇をひらひらさせるのだけど、金糸で刺繍された衣装と扇が照明に映え、後日神楽殿でみたときより美しく思えた。なので、ステージでの上演も一概に否定できないと思っている。ちなみに演者は女性だったと後で教えてもらった。
また、上記の様な特性からステージ上での上演、つまりフォークロリズムとも相性がよい。民俗学者はフォークロリズムに関心を示さないが、年に数十回もの公演をこなす団体もあるのだ。
加えて、芸北神楽の関係者は宣伝に熱心である。ここ数年でYouTubeでのライブ配信はすっかり定着した。ローカルな郷土芸能であるが、視聴者数は数千から一万にも達し、熱心に視聴されていることが分かる。
特に安芸高田市だろう、どこの部署か分からないが、切れ者がいると思われる。神楽甲子園や大阪公演といった大きなイベントも成功させている。
第十二回神楽甲子園では奥出雲の高校が新舞を舞って日芸選賞を受賞した。つまり、新舞は芸北という地域を越えて、奥出雲にまで進出しつつあるのだ。中国道を介した山間部の横の繋がり、広域の経済圏があると思われるが、保守的な出雲の人達が新舞を受け入れたというのは大きな変化と言える。
……というところである。ここまで見てきたように芸北神楽の新舞は順風満帆であるように見える。だが、それだからこそ、筆者は新舞の欠点を指摘したいのである。
◆新舞の欠点
中国地方では芸北神楽は一大勢力であるから気づきにくいが、そもそも新舞は神楽の中では異端なのである。
出雲の例を挙げたので、出雲神楽について触れよう。出雲神楽は江戸時代以前から続く400年以上の歴史のある神楽である。出雲流神楽という分類があったように、出雲神楽は神楽能(能舞)の発祥の地でもあると見なされてきた。言わば中国地方でも出雲神楽は正統な神楽なのである。
対する新舞は戦後八十年ほどの歴史しかない。それでも三世代分くらいの時間を経てはいるが。歴史の浅い、言わば新参者が勢力的にはのしている。それが現在の神楽界隈の状況なのである。
なので、前述した神楽甲子園で奥出雲の高校生が新舞を舞ったと知ったとき、筆者は一部とはいえ正統が異端に呑み込まれたような印象を覚えたのである。
また、前述したように、新舞は説話ベースで神話劇ではないのである。神話劇を神に奉納するなら分かるが、神楽の文脈的に源頼光の鬼退治を奉納したところで意味はあるだろうか。神様はそんなことは気にしないか。
源頼光とその四天王たちはヒーローとは言えるが信仰の対象ではない。
もちろん絶対だめという訳ではない。石見神楽にも「頼政」のような演目もあるし、関東の神代神楽でも「紅葉狩」や「神剣幽助」といった謡曲を出典とする演目がある。岩手の早池峰神楽では演目の中に狂言があるという。だから絶対ではないのだが、主菜にしてしまうのはどうかなというところである。副菜くらいのポジションがいいのではないか。
原則と例外があるとしたら、例外の方が肥大化していっている状況と指摘できる。これは広島の観客が無意識レベルで神祇の排除の方向性を支持したということかもしれない。
横浜の加藤社中の家元のお話を聴く機会があったが、(首都圏の神代神楽では)「紅葉狩」など一部の演目を除いて古事記に載っていないお話はやらないのだとのことであった。記紀神話に限るというのはおそらく明治期の神楽統制の名残と思われるが、それは一つの見識として尊重すべきものである。関東の場合は家元制度という血縁によって芸の継承を行っているが、こういった見識も代々受け継がれていっているとみることができる。
念のため申し添えておくと、神楽が現在のように神道一色となる以前は神仏習合的な神楽で今とは異なる演目が上演されていたことが記録されている。庄原の古台本には仏教色の濃い演目もある。それどころか安珍清姫すらやっていた。ただ、演目によっては死の臭いが感じ取られるものもある。
前述した早池峰神楽を鑑賞した際、牛頭天王の演目が上演され、「ラッキー」と思った。
関東の里神楽を見ていて気づいたのだが、新舞はほぼ全ての演目がバトルを中心に構成された舞である。バトルオリエンテッドと言える。元となる石見神楽にそういう傾向があるからだが。たとえば「八幡」などが典型的か。
が、しかし、神楽はバトル以外の展開も表現しうるのである(※たとえば男神と女神の連れ舞など)。同系統の石見神楽ですらバトル展開のない演目は実はそれなりにある。新舞はバトルに特化していて、ある一面で表現/題材の幅が狭いのである。だから佐々木順三はユーモラスな役どころを務める茶利にこだわったのだろう。笑いは緊張の緩和である。
ちなみに歌舞伎で八犬伝を見たのだけど、チャンバラのシーンはちょんちょんと合わせる感じだった。やられた方は派手に前転して床に着地する。痛そうだと思った。石見神楽系統の舞ではバトルは高速旋回で表現される。芸北では平舞と呼ぶそうだ。フィギュアスケートでスピンが見せ場となるのと同様の構図。旋回すると腰の垂れがふわりと舞い上がるのが美しい。
芸北神楽の大阪公演がYouTubeでライブ配信されたので見たことがある。新舞が三演目上演されたが、メインディッシュが三皿並べられたような印象を受けた。
石見神楽だったら「恵比須」を挟むなどして緩急がつけられるだろう。海釣りがモチーフの「恵比須」は山間部の芸北地域ではあまり上演されないようであるがお目出度い演目でもある。芸能には祝福するという面もあるので本来なら欠かせないはずだ。「岩戸」を保持していない神楽団もあるという話である。
この「祝福する要素が薄い」のも新舞の特徴である。関東の場合、神楽師たちは正月の獅子舞も演じる。また、三番叟が登場して舞台を清める演目があることも挙げられる。
「悪狐伝」の動画を見ていて、茶利の珍斉和尚が飴か餅を撒く場面があった。本来なら祝福の意味合いを持つ演目で撒かれるはずだが、新舞ではそれがないので「悪狐伝」で行っているのだろう。
関東の里神楽、中でも首都圏に分布する神代神楽は演劇性/ストーリー性のある神楽という点では石見系神楽とカテゴリーが同じである。だが、神代神楽は黙劇で「静」、石見系神楽は「動」といった対比が見られるのである。筆者も比較することで違いに気づくというある意味当然の過程を経た。
世阿弥の時代の能は現代よりも動きが速かったとされている。当時の番組表を確認すると、現代では一日では上演不可能な演目数が記載されているところからそう推測されているのだそうだ。神代神楽は口上がほとんどない黙劇であるが、動きの速い時代の能はこんな雰囲気だったのだろうかとも思う。また、もどきという滑稽な役割を務める登場人物が大きな役割を果たしている。見方によっては能と狂言とが一つの舞台で同居しているようにも受け止めることができる。
鷲宮神社の神楽を見学している際、隣の席の女性と会話したのだけど、その方は「お神楽」と呼んでいた。石見神楽については全く知らない様子だった。その方にとっては神楽は上品なもので、石見系統の神楽を実見したら「これが同じ神楽か?」と驚くことだろう。
芸北神楽の人たちは新しいことがやりたいという志向性が強いようである。しかし、現状を見るに、それは現在の舞を更に先鋭化させたもののようである。奇抜な演出が新しいと考えるなら、それは違うと言わざるを得ない。
また、神話劇をやり尽くしたから説話に進出したという訳でもない。石見神楽系統ではたとえば海幸山幸の神話は演目化されていない。潮満つ玉と潮干る玉とによる兄弟の争いの表現には石見の旋回を中心とした舞は向いていないからだろう。
本当に新しいことをやりたいなら、筆者自身実行できていないが、全国の神楽を見て回って自分たちの神楽と比較して熟考するプロセスを経ることが必要だと考える。また、新しいことを始めるには批判されるリスクも引き受ける姿勢が必要ともなってくる。
それこそ「鬼滅の刃」をやったっていいのかもしれない。ただ、版元の集英社は自社の漫画の権利料を高額に設定しているそうで、歌舞伎や能ができているのはその権利料を現実に払えるからという側面もあるようだ。
あるいは幼少期から股関節を柔らかくして脚を真っすぐ高く上げるという方向性もありかもしれない。六調子石見神楽では腰を低く落とす、これは農作業に由来する所作で、それに逆行するものではあるが、見栄えをよくするため敢えてそうするといった禁じ手に近い方法も取り得るかもしれない。でも、袴だから見えないか。
関東の里神楽はあまりアップロードされていないようなのだが、新舞関係者には一度見て違いを比較して欲しい。関東の里神楽は首都圏の芸能であることもあって能楽や日舞などとの交流もあり、中国地方の神楽とは異なる方向性で神楽を洗練させていっている。つまり、進化の方向性は一つではない。
ちなみに、横浜の加藤社中の家元によると、神楽は洗練させ過ぎてもいけないそうである。神楽殿での上演に見合わなくなってしまうからだ。土着的な要素も残さなければならないというお話であった。おそらく、洗練/土着の二項対立の間で摸索を続けていくのだろう。
また、筆者自身、鷲宮神社の神楽を見て気づかされたというところであるが、新舞には神楽の持つ呪術的思考の名残が消え去ってしまっているのである。神楽を神楽たらしめている要素が決定的に薄れてしまっているのだ。
鷲宮神社の催馬楽神楽に天岩戸神話を元にした演目がある。ストーリー性は全くないのだが、巫女さんが二人、鈴を同時に鳴らす。鈴の音色が重なると非常に神秘的な響きとなるのである。
石見神楽ですら「鍾馗」という演目が悪疫退散の演目として重視されているように、呪術的思考の名残がまだあるのだ。なお、芸北神楽の旧舞にも「鍾馗」はある。
呪術的思考自体は現代では否定/排除されるべき思考かもしれない(特に医学において)。が、科学全盛のこの時代に於いても全く消滅するといったようなことには至っていないのである。
新舞は戦後の創作演目ということもあり、この呪術的思考の名残が感じられないのである。「天香具山」という演目は、おそらく出雲神楽の演目をベースにしたものであり、呪術的思考の名残が見いだせるが、これはあまり演じられていないようである。
補足すると「天香具山」は天岩戸にこもった天照大神を復活させる儀式に必要な榊を天香具山から採ってこようとして山の神に見とがめられてしまうという粗筋である。要するに岩戸の裏ストーリーである。元の出雲神楽ではドタバタ劇である。最後に悪切という舞が舞われるのが重要なポイントである。だが、新舞の「天香具山」では最後に魔神とのバトルを付加してしまっているのだ。蛇足である。
また、スーパー神楽の「天香具山」ではストーリーが完全に改変され、神殺しのモチーフすら含むものとなっている。神楽殿や拝殿で上演する演目ではなさそうなのでそれはそれでいいとして、なぜそういう作風になってしまうのか? それが神をも否定しかねない芸北のラディカルなセンスであるとしか言いようがない。
筆者は前述したように八調子石見神楽寄りの人間である。中学生のときに「本物の神楽は大元神楽のようなものを言うんだ」と怒られたことがあり、それに反発した。その筆者ですら、ときに新舞は神楽であって神楽でない別の何かなのではないかという疑問を抱くことがある。
◆民俗学と芸北神楽
神楽を学問として研究しているのは民俗学である。民俗学者たちは古い神楽に価値を見いだしている。特に神仏習合的な要素を持つ神楽が重要視される(※広島県だと比婆荒神神楽)。それはそこに当時の死生観が見いだせるからだ。
なので、歴史の浅い新舞に関心が払われることはない。よく言えば最先端の神楽なのだから注目する研究者がいても良さそうなものだが、筆者自身、新舞に関する論文を読んだことはほとんどない。若手研究者が書いた論文を読んだことはあるが、それは「見世物である」という殺し文句に苦悩した内容であった。他、地理学といった周辺領域の研究者が新舞の人気に着目して書いた論文を読んだことはあるが、それくらいである。
観光的な側面ではアンケートが実施されていて、それらの結果はネット上で閲覧できる……が、筆者自身アドレスを思い出せない。
筆者は「ショー化した」とかそういった便利な殺し文句で一刀両断して事足れりとする安易な姿勢が嫌でこういった調べものを始めたのだけど(※具体的にどこがどう悪いと思われているのか分からないし、議論がそこで止まってしまうから)、2024年に銀座の歌舞伎座で歌舞伎を実見して、スーパー神楽を「歌舞伎化した」と評したコラムを思い出した。確かに言いえて妙だとは思った。芸北神楽の新舞は神楽の体裁はとりつつも、芝居に傾倒しつつあるように思える。
芝居だから駄目という訳ではない。神楽が演劇化しはじめて何百年も経っている。神楽/芝居といった二項対立の図式ではなく、グラデーションのような感じである。
首都圏の神楽師たちは神楽の他に面芝居と呼ばれる芸能も上演していた。現状では台本のタイトルしか確認できていないが、農村歌舞伎や地芝居といったものに近いと推測される。つまり、首都圏の神楽師たちは神楽と面芝居とは別枠として区別はしていたのである。
台本集には載っていないが「魚屋宗五郎」といった演目も上演されていたそうである。酒癖の悪い宗五郎がとある事情で飲んでいらずにはおれなくなり、差し入れされた酒をほんの少しだけ飲むつもりが止まらなくなってしまい……といった内容。歌舞伎座で実見することができたのだけど非常に面白い演目だった。そういう趣向のものも首都圏の神楽師たちはやっていた様だ。
面芝居は今では上演されなくなったようである。どうして衰退したのかは今のところ知らない。おそらくテレビの普及が主要因だろう。台本は残っているので復活上演は可能と思われるが、当時を知る人が少なくなっていると思われ、復活にはかなりのエネルギーを必要とするかもしれない。
また、備後神楽でも歌舞伎的な演目があるそうである。こちらもおそらく文化財保護行政が端緒についた頃と同時期に補助金の類が受けられずに衰退してしまったのではないかと推測される。
映画館でシネマ歌舞伎は何度か鑑賞したのだけど、実際に銀座まで出向いて歌舞伎座という巨大な劇場でライブ鑑賞したことは貴重な体験となった。一階席と三階席一回ずつとアリバイ程度だけど、理解度は段違いなのである。メディアでの鑑賞では劇場といった観客を取り巻く空間は捨象されており、エピソード記憶となり難いものと推測される。
実は神楽甲子園の審査員には神楽研究者(民俗学者)はいない。過去は分からないが、現在はそうである。芸北神楽と民俗学の繋がりは弱いため、伝手がないのかもしれない。広島には中国地方の神楽に詳しい研究者がいるが、そういった人材を現状確保できていない。もっとも、そういった人たちは芸北神楽や石見神楽を高評価したりしないであろうけど。
全国の神楽をくまなく見て回っている、言わば神楽通と呼びうる人たちが日本で何人いるか分からない。が、彼らの多くは新舞を神楽とは見なさないだろう。
日本の周縁部には古い神楽が残されているが、それらには呪術的思考の名残がある。戦後の創作演目である新舞にはその名残が欠如しているのである。面白ければいいという次元の問題ではないのである。
一般大衆と研究者/神楽通とで価値観が大きく乖離していると指摘することができる。本文を読んでいる人たちの中には「自分たちは楽しんで見ているのに、どうしてそう腐すのか」と思う方もいらっしゃるだろう。これは比較して初めて気づくことがあるということである。他所の地域の昔ながらの神楽、特に演劇化されていない神楽を見ていくようになれば見方が自ずと変化していくはずである。広島なら安芸十二神祇などが身近で見られるはずだ。
神楽甲子園でも実はそういった周縁部の神楽が上演されているのである。それらの神楽を面白いと思うかは別として、じっくり鑑賞して欲しい。
◆神楽甲子園
話を戻すと、第十二回神楽甲子園を見ていて、これまで水面下で進行していた事態が表面化したと感じたのがきっかけである。神楽甲子園は高校生の神楽の全国大会であるが、建前はともかく本音ベースでは、新舞の新舞による新舞のためのイベントと指摘せざるを得ない。「実のところ自分のところの神楽にしか興味がなく他所の神楽にはさしたる関心がないのでは?」とすら感じた。
第十二回神楽甲子園では奥出雲の高校が新舞で出場して日芸選賞(※その日の最優秀賞)を受賞した。これは見方によっては神楽甲子園主催者つまり安芸高田市が奥出雲の高校を受賞させ新舞を奨励したとも言える。神楽の全国大会を主催するなら、できるだけ中立であるのが本来ではないか。
個人的には奥出雲の生徒たちが出雲と石見という線引きをひょいと飛び越えてしまったことが気になった。出雲と石見の地域対立は根深く、時代が変わったからといって容易に解消されるとも思えないからである。
筆者は高校生のときに「君たちは出雲の生徒に比べて勉強していない」と怒られるというか発破をかけられたことがあった。出雲の方が人口が多いのだから、その分優秀な生徒も多いだろうと当時思った。教師には出雲出身の人も結構いた。意図的に人事ローテーションしていたのかもしれない。方言も異なる。そんな訳で石見と出雲とは別枠という認識だった。なので、出雲の生徒たちが石見由来の芸能を嬉々として演じていたら「大丈夫?」と問いかけたくなるのが正直なところだ。
審査員が恣意的な選考を行ったとは考えていないが(※日大芸術学部演劇科の教授は演劇界では権威のはずで敢えて恣意的な審査をする理由がない)演劇性が評価軸になっていて、儀式舞を舞う高校がその評価軸から漏れてしまっているように見える。
この回では岩手の権現舞が上演された。東北の山伏神楽の系統である。500年以上の歴史があり、新舞が束になっても敵わない権威性があるが、それらを差し置いて新舞が受賞したのである。もちろん神楽の格で勝負が決まるなら、それはプロレスと同じことになってしまうが。
また、高知県の神楽も披露された。見ていて「洗練されてはいないな」とは思った。ただ、それは裏を返せば昔ながらの神楽が現代に残されているということで、鄙びた雰囲気、土着性も神楽において一つの評価軸となり得るはずなのだが、それらの側面は等閑視されてしまったようだった。
神楽甲子園はネット配信された三回五日分しか見ていないが、新舞の受賞確率が突出して高いのである。生徒たちは地元として勝つ意識で取り組んでいるだろうが、どこが勝つか分からないから面白いのではないか。少なくとも能舞と儀式舞で部門を分けた方がいいのではないか。
神楽の全国大会をなぜ開催するのか、全国の神楽が一堂に結集することで自分たちの地域とは異なる神楽があるという気づきを得る機会となる。観客にとっても生徒にとってもそうだろう。神楽ドームに来場する観客のほとんどは普段から芸北神楽を浴びるほど見ている人たちだろうから、そういう人たちに芸北神楽を披露しても結局のところ自己満足の域を出ないものとなってしまう。
なお、当事者的には、日頃の稽古の成果を本場の観客に披露したい、そして達成度を測りたい(※それは日芸選賞受賞で達成された)。また、保守的な出雲の人たちが新舞を認めてくれて喜ばしいとwin-winな関係だろう。
◆新舞の二面性
新舞には二面性がある。大衆的な人気があり、広島市内の大ホールを埋める観客動員力があり、観光方面でも大いに期待されている一面と、反面、学問の研究対象とは見なされず、「ショーである」「見世物である」「歌舞伎化した」といった殺し文句で一刀両断されてしまうはかない一面とが。
要するに、人気はあるが権威はない。権威は望んで得られるものではない。
こういった二面性が新舞関係者のコンプレックスになっているものと想像する。だから彼らは人気をテコに勢力拡大を図る。神楽甲子園などその一環である。計画的にやっているとは評し得る。
権威性は喉から手が出るほど欲しいだろう。だから、神楽甲子園で奥出雲の高校生が新舞を舞ったとき彼らは喜んだだろう。保守的な出雲の人間が新舞を認めてくれたと。
新舞は極論すると、現代民俗音楽劇である。全部バトルである。格好よさだけが追求されて祝福する要素が欠けている。天蓋と神楽歌は残されているので、まだ神楽の範疇に収まってはいるだろう。人気はあるので、今後も大きく変わることはないものと思われる。筆者が指摘した通りに改善したら逆に人気が落ちることもあり得る。
◆島根の神楽団
なぜ奥出雲の生徒たちが新舞を舞ったのだろうと疑問だった。たまたまXで流れてきたポストを見て疑問が氷解した。島根県飯石郡飯南町に飯南神楽団という神楽団体があることを知ったのだ。神楽団という呼称はその団体が芸北神楽系の団体であることを示唆している(※大元神楽で名乗っているケースもあり絶対ではない)。公式サイトがあったので保持演目を確認してみると芸北神楽系の演目を保持していた。沿革を見ると、平成10年代には既に現在の名称で活動していたようである。
つまり、神楽甲子園で新舞を舞った奥出雲の生徒たちは子供の頃から新舞に触れて育っていたと考えられる。そうなると生徒たちにとっては新舞も地元の神楽ということになる。子供の頃から好きだったものを嫌いになることなどできはしない。
まあ、出雲神楽も身近にあるだろうから、新舞と出雲神楽とを比較してどこが違うのかじっくり考えればいいのではなかろうか。
ただ、神楽甲子園では上演前に代表者生徒による挨拶があるのだが、そこでは芸北神楽で出場する狙いは全く語られなかった。言わば観客に対しても説明する必要のない当然のこととしていたのである。おそらくルーチンでそうしてしまったのだろうが、彼らは新舞にシフトしてしまっている可能性が高い。どちらも舞えるマルチなクラブとなれば面白いのではと思う。
2024年の大会は見ていないし情報を遮断していたのだが、たまたまXで山陰中央新報のポストが流れてきた(※仕方ないのでキーワード指定でミュートした)。件の奥出雲の高校が二年連続で優勝したとのことである。劇的な勝利で関係者は溜飲を下げただろう。ただ、新聞で報道されたことで当該地域の神楽事情が県下に知れ渡ることにはなるだろう。本当の始まりはこれからである。
出雲の保守本流は出雲神楽と石見神楽とは別物と認識している。まして、新舞がラディカルさを内包した神楽だと知れば尚更好ましくは思わないだろう。
それはともかくネット配信も四回目となり、受賞校の傾向が浮き彫りになってきた。全ての回を見ていないのだが、芸北神楽の受賞確率はおそらく50%を超えている。一方で同様に参加校の多い石見神楽はそこまで受賞確率が高くない。また、それ以外の昔ながらの神楽を上演する高校の受賞確率も低い。更に指摘すると、芸北神楽の中でも特定の高校に偏りが見られる。神楽の多様性を表現する場であるはずの神楽甲子園で受賞校が明らかに偏っている。この偏りを主催者と審査委員はどう説明するのだろう。
なお、筆者も地元のホスト校は芸北神楽あるいは石見神楽という枠内であれば高レベルだろうとは思っている。
島根県内で活動する神楽団、筆者は飯南神楽団の他に邑智郡川本町の川本神楽団の存在を知っている。他にもあるかもしれないが、それは目に留まっていない。
筆者は飯南町には行ったことがない。手前の頓原町までは行ったことがある。あの道を道なりに行けば飯南町なのかと思った。飯南町は難所として知られる赤名峠に近い出雲街道沿いの町である。生活実感として、出雲市に出るより三次市に出た方が早いし何かと便利だろう。そういう県境の町として他県の神楽を受け入れる素地はあったということだろう。ただ、おそらくモータリゼーションが発達して以降のことと思われる(※赤名峠の道路状況はライブ配信されている)。
また、三次から出雲街道経由で出雲国に真宗の教線が延ばされていったことは想像に難くない。そういった観点からも受け入れの素地はあったということか。
出雲/石見/備後と国境の町ではあるのだけど、飯石郡は出雲風土記にも記載されたれっきとした出雲の土地ではある。自分たちのテリトリーは自分たちで守る意識がないと……とは思う。攻める方もそこら辺のセンシティブさに欠けているようにも見える。たとえば首都圏の社中も自分たちのテリトリーの神社は研究者にも教えないそうである。どこから漏れるか分からないからだろう。
神楽甲子園で残念なのは関東の高校の参加が見られないこと。あればよい比較対象となるはずなので。埼玉県久喜市の鷲宮神社の催馬楽神楽は地元の中学校ではクラブ活動の一環としてやっていて、浜田市で催された子ども神楽の大会に出場したことがあるそうだ。規定時間に収めるのが大変だったとか。
◆総括
……これらは難しい問題を孕んでいる。
・誰が何をしようがその人の勝手
・あれも神楽、これも神楽
とも言いうるからだ。ただ、それらの見解を推し進めると極端な価値相対主義に陥ってしまう。そうなると何を基準に立脚すればいいのか分からなくなってしまう。
広島県の場合、戦前は広島県神社庁が神楽を統制していたようだ。戦後はその統制が外れて現在に至っている。新舞やスーパー神楽が登場したことから良くも悪くもフリーダムな状態と言えるだろう。
筆者は芸能においては「ここから先はやらない」という見識/線引きも尊重すべきと考える。神楽殿で上演するのでなければ別に新しいことに挑戦しても問題ないのだけど(※厚木市の垣澤社中の次期家元は積極的に新しい試みを取り入れている)、内容によってはその人の見識が問われる……というところだろうか。
「誰が何をしようがその人の勝手」「あれも神楽、これも神楽」というのは見方を変えれば無定見ということになる。芸北神楽の神楽人たちは定見を持たないが故に却って固定観念、神楽=バトルという図式から離れられなくなってしまっているのではないか。
高名な物理学者のファインマンが似非科学を「研究のいちおうの法則と形式に完全に従ってはいるが南洋の孤島にかんじんの飛行機がやって来ないように、何か一番大事な本質がポカっと抜けている」と評して「カーゴカルト・サイエンス」と自身の著書で形容したそうだ。南洋メラネシアの孤島でみられたカーゴカルト(積み荷信仰)については長くなるので割愛するが、それを読んで芸北神楽の界隈がパッと思い浮かんだ。
※ただ、近代的教育をロクに施されていない人々は容易に呪術的思考に陥ってしまうように見受けられる。
本質を忘れているとまでは思わないが、神楽の体裁をとりつつ、芝居的な表現に傾倒しているようには見える。地域でお芝居に対するニーズが根強くあってそれを巧みに取り込んだ結果かもしれない。
「やりたいのは神楽なのか、それとも芝居なのか?」と感じている。芝居は芝居で楽しいのだけど、どうにも違和感がぬぐえないのである。安芸門徒の神楽なのだと考えればつじつまは合うか。
筆者も機会があれば大衆演劇も実見しておきたいと考えている。直面に化粧は大衆演劇の劇団と交流を持った神楽団があってそこから波及していったのではないか。
また、不思議なのだが、八調子石見神楽の発祥地は漁村ないしそれに隣接する村落だから派手好みになるのは理解できるのである。大漁旗を見れば一目瞭然だろう。だが、山間部の芸北がそれらをも上回る派手好みとなっているその背景がよく分からないのである。
神を楽しませると書いて「神楽」である。が、ある社中の代表によると石見神楽では「観客が楽しんでいるのを見て神さまはお喜びになる」と考えるそうである。だが、それは転倒したロジックにも思える。芸北神楽界隈は観客受け一辺倒になっているようには見える。
◆今後について
2024年11月に浜田市にUターンした。ネットが発達したご時世だから特に不便は感じていないのだが、こと観劇に関しては首都圏が圧倒的に有利な環境で、なぜもっと早くに気づかなかったのかと悔やんでいる。
で、大衆演劇も何度か見ておかないとと思っている。高尚なものばかりでなく俗なもの、庶民的な大衆芸能も体験しておかないと何かを見落としてしまう気がするからである。
最寄りの大衆演劇の常設劇場は広島市内のスーパー銭湯となる。芝居が上演されるのは土日祝日となるようだ。現在、別件がボトルネックとなっていて遠出しづらい状況で、2025年秋以降には何とか……と思っている。
Uターンして以降、石見神楽を鑑賞した回数はまだ多くはないのだけど、「塩祓い」や「神迎え」をみると「ああ、これが本来の神楽だよな」とホッとする。反面、まだ実現していないが「黒塚」や「八十神」といった田舎芝居的なやり取りが楽しい演目も見てみたくもある。
◆余談
民俗学者の斎藤修平先生にここら辺の話題に触れたメールを送ったところ、神道は神道で本居宣長と平田篤胤の影響が強く国粋主義的とご指摘だった。さすがに宣長や篤胤まで戦線を拡大する訳にもいかないのが難しいところだ。
八調子石見神楽の台本は明治期に国学者によって改訂されたものがベースだけど、江戸時代の神楽台本でも「五龍王」が「五神」化していると解釈可能な記述が見られるようで、既に国学の影響を受けていたことが窺える。
神道の国家神道化には津和野藩出身者の影響が大きいのだったか。
◆参考文献
・『安芸門徒 復刻版』(水原史雄, 中国新聞社, 1996)
・『新編物語藩史』第9巻(新人物往来社, 1976)pp.269-271.
※浜田藩の章の執筆者は矢富熊一郎。
・『地芝居と民俗』(郡司正勝, 岩崎美術社, 1985)
・『浄土真宗とは何か――親鸞の教えとその系譜』(小山聡子, 中央公論新社, 2019)
・『新版 歎異抄 現代語訳付き』(千葉乗隆/訳注, KADOKAWA, 2013)
・『パフォーマンス研究 : 演劇と文化人類学の出会うところ』(リチャード・シェクナー, 高橋雄一郎/訳, 人文書院, 1998)
・『千年王国と未開社会 メラネシアのカーゴ・カルト運動』(ピーター・ワーズレイ, 吉田正紀/訳, 紀伊國屋書店, 1981)
・藤井昭「書評 水原史雄『安芸門徒』」『芸備地方史研究』128(芸備地方史研究会/編, 1980)pp.26-28.
・市川訓敏「安芸門徒と「神棚降ろし」」『比較法史研究』3(比較法史学会/編, 1994)pp.85-112.
・福間光超「近世末期の神仏関係―浜田藩における専修念仏の展開をめぐって―」『竜谷史壇』通号52(龍谷史学会/編, 龍谷史学会, 1964)pp.27-44.・新谷尚紀「葬儀の変化と集落運営の継承 「壬生の花田植」を伝えている安芸門徒の集落の事例から」『国立歴史民俗博物館研究報告』第234集(国立歴史民俗博物館, 2022)pp.337-366.
・六郷寛「第二五回古代文化講座 芸北地域に「石見神楽」はいつ伝播したか? ―「伝統」と「創作」の視点から―」『しまねの古代文化:古代文化記録集』17号(島根県古代文化センター/編, 2010)pp.1-45.
・中上明「石見地方神楽舞の芸態分類に関する調査報告及び考察」「山陰民俗研究」第1号(山陰民俗学会, 1995)pp.39-52
・千家和比古「「国譲り神話」に垣間見る日本人の心的DNA」『第四回 楽しくて、わかりやすい江戸里神楽公演 解説プログラム』(江戸里神楽公演学生実行委員会/編, 江戸里神楽公演学生実行委員会, 2010)pp.20-22.
・Plilip B. Stark, Andrea Saltelli, 柴田卓也/訳「英国王立統計学会Significanceから カーゴカルト統計学、そして科学の危機」『統計』71(7)(「統計」編集委員会/編, 日本統計協会, 2020)pp.64-70.
==補足==
◆審査基準について
山陰中央新報に吹奏楽の強豪校の元指導者のインタビューが載っていたが、吹奏楽コンクールでは統一された審査基準はなく、審査員によって減点法だったり加点法だったりまちまちとのことであった。また審査員が専門とする楽器と選曲との相性もあり運の要素も大きいとしていた。
全国吹奏楽コンクール 強豪・精華女子高元顧問、藤重佳久さんが語る「金賞」の条件とは?【おといろ】
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/892147
ただ、吹奏楽にしても合唱にしても選曲や編成は異なるが、演奏スタイルそのものは同じ枠内で競いあっているとは言えるか。神楽の場合、ひと口に神楽と言っても内容はバラバラである。盆の上に皿を載せて落ちないように舞うのも神楽である。それは確か日芸選賞を受賞していたと記憶しているが。
そもそも神事に由来する芸を競い合わせること自体どう考えるべきなのか。芸北や隣接する邑智郡辺りでは競演大会が盛んに催されている。対して石見沿岸部では共演大会に留まっている。芸北では戦前から神楽ではない芸能で競演していたとのことで、その流れが戦後、神楽の競演大会に繋がっていったものと思われる。芸北では元々神事の余興として石見神楽が邑智郡から持ち込まれて定着したものらしい。元から余興として見られていたということかもしれない。そこら辺は石見沿岸部でも事情は変わらなさそうではあるのだけど。
X(旧twitter)で岩手の鹿子踊の方とリプを交わした際、こういった話題となり、その方が周囲に話したところ「どうやって審査するの?」といった反応だったそうだ。中国地方と東北では1000キロ以上離れているけれど、西日本と東日本といった地域性の違いも大きそうだ。
総文(高校生の文科系クラブの全国大会)の郷土芸能部門では順位をつけているけれど、全国レベルでの強豪校というのは存在するのだろうか?
総文・郷土芸能部門を取材したテレビ番組を視聴したことがある。どこかの踊りの稽古で指導者が熱心に指導していたのだが、そこに勝利至上主義的な印象を受けた。それが全てではないとも思うのだけど。
神楽といった郷土芸能だと、筆者は見る目がないが、ある程度鑑賞経験を積んだ人には所作が雑といった風に見えるらしい。そういった細かなところが審査基準となっているのかもしれない。ただ、郷土芸能が表現せんとするところはそれが主眼となっている訳ではなさそうだが。
◆カーゴカルトについて
カーゴカルトに関する本を読むと、メラネシアでは主食はタロイモやヤムイモで他、豚を飼っていた。豚は財産だったとのことである。栄養的には足りていたのではないか。貧しいながらも比較的安定していた社会が白人の手によってプランテーション化され、貨幣経済化する。国際経済に巻き込まれやがて商品作物の価格の騰落に巻き込まれ不安定な生活となる。加えて、教育は教会任せで最低限の読み書きしか教えていなかったという。原住民が疎外感を抱くのも当然で、外形的には馬鹿馬鹿しいとしか言いようがないけれども、これで笑いものにするのはさすがにお門違いと言う他ない。
◆呪術的思考について
呪術的思考は命題的には偽となる。偽にいくら真を掛け合わせても偽にしかならないのだから科学者が無関心なのは当然ともいえる。が、近代以前は呪術的思考に知識人層である貴族たちですら囚われていた。特に脳の異常という訳ではないのだろう。個人的にはむしろ創造性の源かもしれないと考えている。少なくともチャンク、チャンキングと呼ばれる脳神経レベルの学習では真偽は問題にならないようだ。
感染呪術(※呪う相手の髪の毛や爪を入手して利用する呪術。呪いの藁人形など)が典型だが、繋がりのないところに繋がりを見出してしまう、そういう能力がなければフレームやスキーマを書き換えてしまう程の創造性は発揮できないのではないか。
◆漫画
佐藤両々『カグラ舞う!』という四コマ漫画がある。ヒロインの神楽は両親に伴って北広島町と思われる地域にUターン的に引っ越してくる。母親のセリフに周囲は皆親戚だからといった内容のものがあった。開拓者の子孫がそのまま住み着いている古くからある土地柄ということだろう。名(みょう)といった概念に該当するのかは分からない。祖父は地元の神社の宮司である。高校に進学して神楽部に所属することになったヒロインだが、作中では岩戸や塵輪、土蜘蛛といった演目が紹介される。旧舞と新舞と両方やっていることになる。奉納神楽ではそうなのだろうけれど、ステージでは新舞が上演されることが多く、筆者の場合、奉納神楽までは実見できていないので、実際のところがよく分からない。
◆畑違い
ちょうど高校三年生のときだったか、母校のOBだった龍谷大学の先生が来校して講演したのを聴いた記憶がある。確か日本史の先生だった。福間論文は60年ほど前の論文で、もし同一人物なら若い頃に執筆しものとなるが、今となっては確かめようがない。
突飛な結論に思えるかもしれないけど、石塚尊俊の問題意識を突き詰めたらこうなるのではないか。石塚は出雲の人で、悪しざまに罵ったりはしていないけれど石見神楽や芸北神楽に好意的だった訳ではないだろう。
「浜田宗論」で論文を検索してもヒットしない。浜田市の公式サイトには市の重要な歴史として記述があるものの、それ以外にこれといったものは無さそうだ。なので、実のところ、ありもの――しかも実はうってつけの題材が身近にあった――を組み合わせただけなのだけど、既知の人でも畑違いで誰も神楽と結び付けようとしなかったといったところだろう。そこら辺は専門家でないお気楽さがある。まあ、うちは臨済宗なのだけど。
相互リンク→「広小路」
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千葉乗隆/訳注『新版 歎異抄 現代語訳付き』を読む。一読しただけで理解できるはずもないが、印象に残ったのは、縁があれば僕のような凡才でも千人も万人も殺せてしまえるかもしれないといったことである。まあ、僕には権力への志向性はないけれど、無能だけど権力欲が人一倍強い人が頂点に上り詰めてしまうことも歴史上なかった訳ではない。
大前提として冒頭で専修念仏を唱えている。ここはラディカルであるが、以下の小前提ではかなり慎重な態度をとってみるように見受けられる。これは親鸞自身が法然とともに流罪に処せられたことも背景にあるかもしれない。が、親鸞自身、元から穏健な人物だったのではないかという気がする。
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安藤昭子『才能をひらく編集工学 世界の見方を変える10 の思考法』を読む。編集工学の本を読むのは初めて。本書はその最新バージョンと言える。発想、着想にまつわるアレコレについて網羅的に取り上げられていると感じた。ただ、著者さんご自身のご興味は世界の見方/理解に傾いていて、発想や着想を渇望するタイプの人ではないような気がする。
人間の知識は穴だらけだが、人それぞれ異なるバックボーンがあり、AIはむしろ何が知識と知識とを繋げるミッシングリンクとなっているのか気づきを得る効能があるのかもしれないとチャットしていて感じた。
……会議というと、企画会議を連想する人と営業の進捗状況を報告する営業会議と連想する人とに分かれるのかもしれない。
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家族に第12世代(最新)のKindle(抹茶)を渡していたのだけど、使わないと返された。結局、自分で使うことになる。本の切替えが面倒なので複数あればあったで便利かもしれない。
自分で使ってみると、PaperWhiteより小ぶりで手に馴染むというか持ちやすい印象。画面サイズ的に漫画には向いていないが、文字中心のリフロー形式なら無印のスペックでも問題ないように感じる。
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カテゴリーに「地域総合」を加える。知識を「地域」寄りにシフトさせていこうと考えている。過疎化は進行したけれど、僕が高校生だった時期からすると質的には格段に向上していると思う。興味の方向性が拡散して既に収拾がつかなくなってきているが。戦線をむやみに拡大するのは愚策なのだけど。
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山下祐介『地域学入門』を読む。地域学を提唱する新書。歴史、地理、郷土史、民俗、社会学、生活史といった総合性を備えた概説書となっている。
兵庫県の播磨地方に6年ほど住んでいた時期があるのだけど、反省していることがある。購読していたのが(見栄を張って)日経新聞のみだったのである。地域欄も専門性が高く、地域の身近な情報を把握することができなかった。現在は山陰にUターンしているが、地方紙のデジタル版を購読している。生まれ育った土地で土地勘もあるので理解度は段違い。
人それぞれバックボーンが異なるのだけど、地域の文脈を読み解く力が必要と考える。たとえば、インフラは揃っているのに自動車専用道路で未整備区間があるため、そこがミッシングリンクとなって阻害要因となっているといったこと。個々の施策は既に打たれているケースが多いのである。地域にとって何がミッシングリンクあるいはボトルネックとなっているのか見抜くには人の持つバックボーンを活かした文脈を読解する能力が必要。
人の知識は穴だらけ。AIは何か投げかければそれに反応し知識の穴を埋めてはくれるけど、自発的には提案してくれない。
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