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2006年8月24日 (木)

乙子のちび姫さん――サヒメ

◆乙子狭姫

 島根県益田市を起点として、石見地方に広く伝承されている乙子狭姫(おとごさひめ)のお話。ちび姫の愛称もある女神。

 

 元々は三瓶山の旧名・佐比売山に由来するが、益田市の比礼振山(権現山)周辺の地名説話を取り込んで生まれ、そこから石見地方全域に広がった伝説のようだ。

 

 注意すべき点として、狭姫が益田までやって来る話と益田を出て三瓶山に向かう話とに大別され、それがテイストの違いから別の作者の手になるのではないか、また、狭姫伝説は古い文献には見当たらず、記紀神話の影響が濃いと認められることから、比較的新しい伝説なのではないかということを指摘したい。

 

◆あらすじ

 ちび姫さんは雁の背に乗るほど小さい。乙子狭姫(おとごさひめ)という名で、オホゲツヒメ(大宜都比売命)の娘である。この伝承では、曽茂利(そもり―朝鮮の古地名――正確にはソシモリか)の気の荒い神が、オホゲツヒメの体はいったいどんな仕組みになっているのか(オホゲツヒメの体をなでると作物の種が自由にでる)調べようと、ヒメを斬ってしまう。
 息も絶え絶えのオホゲツヒメだが、「幼い(いとけない)お前を残して逝くのは心残りでならない。お前に千年も万年も尽きぬ宝をやろう」と言い残す。
 悲しみにくれる狭姫だが、母神の遺骸から五穀の種が芽生えた。赤雁が舞い降り、旅立つことを促す。そこで乙子狭姫は雁に乗って旅立ち、途中、高島や須津の大島に降りようとしたところヤマツミ(山祇)の遣いである鷹や鷲に「我は肉を喰らう故、穀物の種なぞいらん」と断られてしまう。ようやく今の益田市赤雁町の天道山(もしくは比礼振山)に降り立ち、五穀の種を伝えたという話。

 

島根県益田市沖の高島
高島。唐音海岸から望む。現在は無人島。
(※クリックすると画像が拡大します)

 

浜田市三隅町須津の大島
三隅・須津漁港から見た大島。火力発電所の沖合。

 

益田市鎌手の亀島
益田市鎌手・亀島

 

益田市赤雁町の天道山
益田市赤雁町・天道山

 

益田市大草町から見た比礼振山
大草町から見た比礼振山(※奥のアンテナ塔が建っている方が比礼振山)

 

新羅・ソシモリ →日本海・高島 →須津・大島 →鎌手・亀島 →赤雁・天道山とジグザグに飛んでいることになる。

 

 これは正しくない目的地(高島・大島)に下りようとして何度も断られ、ようやく正しい目的地に辿り着くというモチーフを見てとることができるか。

 

 乙子狭姫の名は、乙子=末っ子で、狭姫は小さい姫を意味する。
 民話集によっては「ちび姫さん」「種姫」と題し、次頁の「狭姫と巨人」は収録していないものもある。
 オホゲツヒメ命の遺体から生えた種は三つあり、「三つ一つは故郷に残そう。三つ一つは雁にやろう。残りの三つ一つを自分が持とう」という語り口のバリエーションもある。

 

◆記紀の影響

 ソシモリという新羅の地名が出てくるが、これは日本書紀によるものだろう。一書に曰く、五十猛命を連れて新羅はソシモリに降り立ったスサノオ命は「この地にいたいと思わない」と言って埴土で船を作り、出雲へと渡る。

 

 ※この後、五十猛命は朝鮮半島へは木を植えず、日本列島に木々を植えたので、青々とした国土となったとされている。これは朝鮮半島と日本列島の気候風土の違いを解いた説話でもあるだろう。スサノオ命がなぜ「ここにいたくない」と言ったか(たとえば農作物が不作だったか?)、また新羅より更に東に日本列島があることを知っていたと受け止めることが可能だ。

 

 一方でオホゲツヒメ命が登場するのは古事記からであろう。スサノオ命をもてなしたオホゲツヒメは身体のあちこちから食べ物を出すので、汚らわしいとスサノオに斬り殺されてしまう。そしてその遺体から五穀の種が生じたとなっている。

 

 以上から狭姫とオホゲツヒメ命は新羅にいたことになるのである。

 

 この起源説話は日本書紀では保食神と月読命の話とされており、月読命と天照大神の日月離反の元となったとされている。

 

 日本書紀に依拠したのであれば保食神が登場するであろう。神楽の演目「五穀種元」ではスサノオ命と保食神が登場する。日本書紀のみならず、古事記の影響も受けているため、狭姫の母神として登場するのがオホゲツヒメ命なのだろう。

 

◆復讐

 狭姫伝説で冒頭に登場した心の悪しき神は罰せられることがない。登場後、オホゲツヒメを斬り殺した後は消えてしまうのだ。復讐はなされない。狭姫は新天地で幸せになる。これは心の悪しき神のモデルがスサノオ命ということもあるだろう。ただ、伝説の後半部分に当たる「ちび姫と巨人」では足長土と手長土をアシナヅチ、テナヅチと呼んでいることから、ヤマタノオロチ神話よりも昔の話だと位置づけようとしているようにも受け取れる。

 

◆サヒメは何者か

 サヒメの初出は出雲国風土記の国引き神話で、佐比売山が三瓶山の旧名である。そこから「佐比売」を大国主命の后神とする説もあるとのこと。
 三瓶山山麓に佐毘売山神社(三瓶山神社)が何社か鎮座する(八面大明神)他、物部神社の一瓶社の忌籠(いみこも)造酒神事が知られる。浮布池のほとりに鎮座する邇幣姫神社も「にべ=ニ瓶」にも通じるとのことで、佐比売山信仰と関わりが深いとのこと。

 

西の原から見た三瓶山

 

三瓶山
三瓶山
(※クリックすると画像が拡大します)

 

 サヒメはサ+ヒメもしくはサヒ+メと解釈できる。「サ」は例えばサンバイといった穀物霊とする説や「サビ」からの転訛で金属・製鉄などとする説がある。「サヒ」は鋭いものを意味する。農耕と製鉄は関わりが深く、両義的な意味合いかもしれない。「比売」は日(ヒ)の女(メ)、姫。

 

物部神社

 

物部神社・祭神・境内社一覧
物部神社

 

一瓶社
一瓶社

 

 別名「種姫」とも呼ばれるが、母神のオホゲツヒメ命(大宣都比売命)の遺骸から種が生じるというくだりは古事記、日本書紀にもみられ、それら農業の起源譚となる神話はハイヌウェレ型神話――死体化生型神話と分類される。

 

 また、高島や大島で休もうとしたところ鷹や鷲に断られたためそれらの島では今でも穀物がほとんど獲れないといった理由づけにもなっている。

 

 国引き神話では佐比売山(三瓶山)と大山に綱をかけて海の向こうの国の余りを引き寄せたことになっている。三~四千年前の三瓶山の噴火と神戸川水系を通じて堆積した土砂が出雲平野を形成する元となった。ちなみに狭姫伝説では三瓶山の噴火は巨人の放屁である(※次頁の狭姫と巨人伝説)。

 

◆地名説話

 狭姫伝説は地名説話としての一面も持つ。江戸時代の地誌「石見八重葎」に益田・比礼振山周辺の条に下記のような記述がある。

 

・佐毘賣山神社(乙子権現)
  祭神のコノハナサクヤヒメ命は大山祇神の乙子(末子)だから
・最後に分郷したから乙子
・高角の長者が乙子(末子)に分け与えたから乙子
・天下大神(大国主命)より稲の実を賜ったから種村
・神なのか年を経た古い雁がいた

 

益田上本郷之内
 乙兒(子)[オトコ]村
抑乙児(子)村と申以所ハ、段々と分郷をせる末に、分かたる所故名付ル。又高角の長者之娘、姉に讓る所姉ヶ原と云。
 妹に讓る所を、其名豊分といふ。其乙児に讓る所乙児(子)村と申よし聞傳へり。(中略)
「角鄣経石見八重葎」(編集・発行者 石見地方未刊行資料刊行会, 1999, 212-213P)

 

式内正四位
 佐毘賣山神社、祭神泣沢女(ナキサワメ)神一座[伊弉冉尊(イザナミノミコト)事也]
  宇多天皇御宇寛平五癸丑美濃南宮神社鎭座
  延喜ニ壬戌授位
比禮(※ねへんに豊)不留嶺 [乙児権現山ヲ云](以下略)
「角鄣経石見八重葎」(同, 213P)

 

※泣沢女命は、火の神カグツチを産んだイザナミ命が死んだ際、イザナギ命が流した涙から生まれた神。

 

都茂郷之内
 上種村
抑上種村と申ハ、昔ハ油菜種畠成故名とせり。一名天下大神ヨリ稲實ヲ賜フ故曰トモ有るル。(以下略)
都茂郷之内
 下種村
抑下種村と申ハ、前に同し。其下成里故名とす。(以下略)
(「角鄣経石見八重葎」同, 234P)

 

※天下大神は所造天下大神(天の下造らしし大神:あめのしたつくらししおほかみ)で大穴持命(大国主命)のこと。

 

都茂郷之内
 赤鴈村
 抑赤鴈村と申ハ、神霊共又ハ年経故なり共赤鴈(カリカネ)居たる故に名とせり、古老の傳に聞り。(以下略)
(「角鄣経石見八重葎」(同, 235P)
 益田の佐毘賣山神社では祭神の一柱コノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売命)が大山祇命の乙子(末子)だからと説明されている。なお、元はコノハナサクヤヒメ命、埴山姫命、金山姫命を祀っていたが、後に金山彦命を勧請し、現在の主祭神は金山彦命と金山姫命である。乙子権現に対する古くからの信仰も挙げられる。

 

 これらの言い伝えを取り込み、またサヒメに狭姫と当てたとき「ちび姫」としての狭姫伝説が生まれたのではないかと思う。神が鳥に乗って降臨するという伝承は大田市の物部神社や安来市の金屋子神社に見受けられる。石見地方でもたたら製鉄の盛んな地域では金屋子神が祀られていたようだ。

 

島根県益田市の佐毘賣山神社・鳥居から見た拝殿

 

島根県益田市の佐毘賣山神社・拝殿

 

島根県益田市の佐毘賣山神社・ご由緒
益田市比礼振山の佐毘賣山神社

 

比礼振峰の伝記

 

 三瓶山麓にも多根村や赤雁山などの地名がある。「石見八重葎」では大国主命より種を賜ったこと、また三瓶山を形見山(我が妻の形見)とも呼ぶことなどが記されている。「佐比売」を大国主命の后神とする解釈もある。

 

八面大明神
媛布池 [三瓶山ノ半腹ニ有り、菖蒲草多シ、昔此池ニ佐比賣神鎮座仕賜(給)フト諸昼(書)ニ有り]
此女神此所ニ御座候時、大穴持尊都へ登り賜(給)フ時、遠国ヨリ此山を望ミ見歸り、我妻ノ形見ト見返ルト被仰しより、此山を形見山ト申ス。又此姫へ雲州土師(ハシ)ノ宿祢の瓶三ツ調被献しより三瓶山ト申スヨシ。一ツハ浮沼の池に有、二ツメハ江戸(コウド)の後ロの渕にあり、三ツメハ一宮ニ酒作アリ、今三瓶(カメ)明神と諸人尊敬ス。

(「角鄣経石見八重葎」(同 37P-38P, 1999)

 

志学郷之内
 多根(タネ)村
抑多根村と号以所ハ、大穴持尊國を順行仕玉ふ時、稲の種を此里の民に被下置故に種村といふ、或抄見へたり。出雲風土記にも同國の田根村の説にも、左(右)之通此時の次手ならん。中古田根村、今多根村と申ス。
(以下略)

(同 37P-38P)

 

島根県大田市三瓶町多根の佐比賣山神社
大田市三瓶町多根の佐比賣山神社。※式内社に比定されているのは多根の神社とのこと。

 

大田市三瓶町小屋原の三瓶山神社

 

三瓶山神社・ご由緒
大田市三瓶町小屋原の三瓶山神社。

 

三瓶山神社・鳥居
周辺は棚田が広がる風景。種の里を思わせる。

 

◆浜田藩の国学

小篠東海の墓と浜田藩の国学についての解説
 浜田市真光町の観音寺にある小篠東海(医者・儒学者。本居宣長の高弟でもあった)の墓と浜田藩の国学についての解説。

 

 狭姫の母神がオホゲツヒメ命(大宣都比売命)となっているのは古事記の内容を受けてのものだろう。背景には石見地方で国学が盛んだったことがあるのではないか。

 

◆リアリティ――鎌手の亀島

 未来社の「石見の民話 第二集」など本によっては、高島、大島で断られた後、益田市鎌手大浜の亀島に降りて羽根を休めたとしている。

 

益田市鎌手の亀島

 

益田市鎌手の亀島
写真中央が亀島。赤瓦の屋根は大日霊神社(※クリックすると写真が拡大します)。

 

 亀島には大日霊神社があるが、古代、石見に移住した櫛代族――益田市久城町の櫛代賀姫命神社や浜田市久代町の櫛色天蘿箇彦命神社にその名をみることができる――は大浜から上陸したとされている。これらの言い伝えも狭姫伝説にリアリティを与えているかもしれない。狭姫伝説を語る際、鎌手・亀島も外してはならない要素なのだろう。

 

◆赤雁と天道山

 益田市赤雁町に行く。天道山と周辺は公園として整備され、周辺は農園が開かれている。のどかな光景だが、ここは赤雁益田氏の拠点で天道山も小さいながら、砦のような役割を果たしていたようだ。

 

益田市赤雁町の天道山

 

天道山頂上へ登る階段

 

天道山頂上

 

赤雁の里・案内図
階段を上ると頂上まで上がることができる。ここに狭姫は降臨した……ということでしょうか。

 

益田市赤雁町の中山八幡宮

 

天道山から見た中山八幡宮の解説
赤雁町・中山八幡宮。赤雁益田氏ゆかりの神社。右写真は天道山より見た中山八幡宮の解説。

 

◆額田部そでめ

 津田から赤雁に向かう途中の木部明神原に額田部蘇堤売(ぬかたべのそでめ)の屋敷跡がある。木部を開拓した賢女としてその名が「続日本紀」に記録されているとのこと。

 

額田部そでめ屋敷跡の記念碑付近

 

額田部そでめ屋敷跡・石碑

 

額田部そでめ屋敷跡・解説
直接の言及は無いのだが、狭姫像に投影されているかもしれない。

 

◆現代のサヒメ

 子どものためのミュージカル「ハロー! この町」(脚本・作詞:佐藤万理 作曲:川崎絵都夫)で取り上げられている。三瓶山麓の高原をサヒメの里としており、次項で登場する巨人の足長土と手長土の仲をとりもつ筋となっている。

 

 島根県立三瓶自然館サヒメルの「サヒメル」はサヒメ+メールからの造語。

 

島根県立三瓶自然館サヒメル

 

クイズ・サヒメルのサヒメってなぁんだ?

 

クイズの答え:サヒメ山のサヒメ

 

サヒメル入口・マスコットのテンピー
三瓶自然館サヒメルとマスコットのテンピー。クイズ、2番でもあながち間違いではないかもしれない。

 

 乙子権現は「女の神様」なので銃後を守る神として信仰を集めた(「島根県益田市民話集」島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)pp.107-108。これはコノハナサクヤヒメ命、金山姫命、埴山姫命への信仰だろう。

 

◆ちょっといい話

 「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」という本で下記のような記述があった。

 

(前略)またこの邊り(※尾山、岩淸水)に梅に似た草花があり、比禮振峰の一つ梅ともいひ、佐比賣山の梅草ともいふ。太古狹姫命の愛し給ひし花といふ。移植しても甞つて生育したことがない。
(「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)p.908

 

 種を広めるのが務めの狭姫にもこれだけは譲れないものがあるのだろうか。こういう言い伝えがあると親しみ易くなる。元は乙子の権現さんにまつわる言い伝えかもしれない。

 

◆対立関係~サヒメは反出雲か

 狭姫伝説は反出雲的なのかという印象を持つ人がひょっとするといるかもしれない。自分の紹介の仕方にも問題があるのだろう。
 無論、スサノオ命は石見でも英雄である。大田市の五十猛海岸から上陸したという伝説もある。
 狭姫の母神はオホゲツヒメ命としているので、古事記の農業起源譚を元にしているのは間違いない。
 「狭姫と巨人」の頁で書いたが、狭姫は山祇神(益田の佐毘売山神社の祭神の一柱がコノハナサクヤヒメ命――山祇神の乙子)の一族とも対立する。巨人の足長土、手長土をアシナヅチ、テナヅチと読んでいるものもあるので、狭姫の話を考えた人の中には出雲への対抗心みたいな何かがあったのかもしれない。

 

◆「ちび姫さん」と「狭姫と巨人」、テイストの違い

 「狭姫と巨人」のページで後述するが、乙子狭姫の伝説は狭姫が益田までやってくる「ちび姫さん」のパートと、益田を出て三瓶山に向かう「狭姫と巨人」のパートの二部構成になっている。狭姫伝説を収録した民話集では前半の「ちび姫さん」のみ収録しているものが多い。また、郷土史家の矢富熊一郎の狭姫に関する考察も狭姫が益田に来るまでの部分のみ扱っている。

 

 読めば分かるが「ちび姫さん」と「狭姫と巨人」はテイストが異なるのだ。「ちび姫さん」はしんみりとした悲しみに包まれた作風で狭姫も幼いのに対し、「狭姫と巨人」は成長した狭姫が三瓶を目指す明るくユーモラスなお話となっている。

 

 おそらくそれぞれのパートを考えた人が異なるのだろうと考える。成立時期も別々だろう。ます「ちび姫さん」があって、そこから「狭姫と巨人」が派生したものと考えられる。

 

 なのだが、狭姫伝説を確認できる文献で最も過去に遡れるのは雑誌「島根評論」に収録された大賀周太郎「郷土の誉れ」である(※出版年度でいえば木村晩翠「随筆 石見物語」の方が先だが、「狭姫と巨人」の一部しか収録されていない)。つまり、狭姫伝説が文献上に現れた時点、「郷土の誉れ」の段階で既に狭姫伝説は二部構成のものが一体化したものとなっているのだ。テイストの違うものを一つにまとめるからチグハグな印象になる。なので、民話集では前半の「ちび姫さん」に相当する部分しか収録しないのであろう。

 

◆狭姫伝説の成立時期
 益田市の郷土史家である矢冨熊一郎は「益田市誌」「石見鎌手郷土史」「石見高島の秘話」で狭姫伝説を櫛代族の石西、石央地方への移住と関連付けて、狭姫伝説を中世頃に成立したものと考察している。

 

 乙子の権現さんに対する信仰は中世からあったと考えられるが、狭姫伝説自体はどうだろう。石見八重葎(1817年成立)に狭姫伝説の原型となったと考え得る伝説が収録されていること、また石見八重葎には狭姫伝説そのものは収録されていないことから、少なくとも狭姫伝説は石見八重葎の成立より後の時代に成立したのではないかとも考えられる。また、記紀神話の影響を濃く受けていることから作者は国学に詳しい人物とも想定できる。浜田藩や津和野藩は国学が盛んだった土地で、特に古事記のオホゲツヒメが登場することから、本居宣長の「古事記伝」による古事記の再評価、つまり国学の隆盛以降と考えるのが妥当ではないか。

 

 石見地方に関する伝説で、江津市波子町の十羅刹女伝説や邑智郡の八色石の伝説などは石見八重葎に収録されていて、江戸時代には既に伝説が成立していたことが分かる。石見八重葎に収録されていないから、これより伝説の成立は後だとも言い切れない部分もあるが、狭姫伝説に関する限り、古い文献に見当たらないこと、始めて文献に現れるのが大賀周太郎「郷土の誉れ」木村晩翠「随筆 石見物語」等、昭和初期のものであることが指摘できる。狭姫伝説の成立は江戸時代後期から昭和初期と幅広く捉えることもできるか。

 

◆余談

 振り返ると、2006年の夏に島根の実家に帰省した際、日本標準の「島根の伝説」が残されていることに気づいたことがきっかけである。「島根の伝説」は小学校の課題図書として購入した伝説集だけど、暗くユニークな作風で今でも心に残っている。

 

 「〇〇の伝説」シリーズは各地方の図書館の郷土資料コーナーに行けば所蔵されている。だが、国立国会図書館でもほとんど蔵書されていない幻のシリーズでもある。

 

 その中で「ちび姫さん」という益田市の伝説が目に留まった。当時、三浦祐之「口語訳 古事記」を読んでいて、狭姫が古事記に登場するオオゲツヒメの娘であるということに、ああ、そういうことだったのかとなった。子供の頃は分からなかった繋がりが見えてきた。

 

 2007年1月には伝説の舞台である益田市の佐毘売山神社にお参りした。ところが、ご由緒を読むと、神社の祭神として金山姫命やコノハナサクヤヒメ命は挙げられているのだけど、狭姫の名はなかった。これはどういうことだろう? と思ったことがその後の動機となった。

 

 なお、狭姫伝説は佐毘売山神社の公式サイトで紹介されているので、お祀りしていない訳ではない。狭姫伝説は古い文献が見当たらないし、どうやら比較的時代の新しいものらしいのだ。

 

 それから図書館巡りが始まった。図書館の郷土資料コーナーに行って狭姫関連の情報、加えて島根県の伝説関連の情報がないか探しはじめた。横浜と島根を往復するので、盆暮れの帰省時がネタの仕入れ時だった。

 

 現時点でよく分からないのは大田市三瓶山麓の佐毘売山神社と益田市乙子の佐毘売山神社の関係。石見銀山の佐毘売山神社は益田から祭神を勧請した説があるそうだ。

 

大田市石見銀山の佐毘売山神社
石見銀山の佐毘売山神社

 

佐毘売山神社・ご由緒

 

山陰中央新報:特集・石見銀山:石見銀山の営み(4)地の恵み 都茂銅山の技術者採掘か 佐毘売山神社を分霊 益田から祭神と移動
 益田市乙子町からそれほど離れていない美都町都茂に銅山があり、佐毘売山神社が金山彦命・金山姫命を主祭神として祀っているのは都茂銅山との関係からだろう。

 

 朝山晧「石見國式社考」によると、下記のような考察がされている。

 

佐毘売山神社は美濃郡北仙道村大字乙子比礼振峰にある社で祭神は大山祇命、木花開耶姫命、金山彦命、金山姫命、埴山姫命、闇淤加美(もしくは龗)神、廣国押武金日天皇等十二社を祭ってゐるが、安濃郡の佐比売山神社とは符号せぬやうである。処が特撰神名牒に

注進状に宗雄云、佐毘売山神社は当村の比礼振嶺と云に鎮座した万治中に当社に合祀したるなり。佐比売と松浦の佐用媛と名の似たるより古く誤て比礼振嶺と云ひ、また訛りてひふる峰とも云ふ。此誤説の有るにて、佐比売山の此所なるを知るに足る云々

とあって、外に論社もないやうだから、乙子の社として宜しからうが、御由緒を確めるためには更に実地に調べねばなるまい。

而して佐比売山神社は佐比売山の所在地にあるべきを、何故に遙か西部なる美濃郡にまで祭ったのかは、考えねばならぬことで、此は氏族若しくは住民の移住または信仰の伝播が行はれた結果であらうと思われ、美濃郡のは安濃郡のより新しい神社たることは疑ひない。この名の社が出雲になくて石見にあり、而も国の東端から西端に移って勧請の社まで出来てゐるのはどうも後世的信仰の流伝したものかと思はれるのである。さうするとこの社の如きは明に、最も新しい社とすべきであらう。
朝山晧「石見國式社考」(二) 雑誌「神光」第九号所収 31p. 昭和三十二年

 

 高島の次に降り立とうとした須津の大島は、三隅火力発電所の西にあるようだ。多分、JRからは見えないか、見えても一瞬のことだろう。いつか行ってみよう。

 

 天道山は赤雁の里・交流館が目印。分からない(写真を載せている本もある)。グーグルアースで探してみるか。グーグルアース、山間部では粗い画像しかなく現状では不可だった。手元の島根県地図を見返してみると、赤雁町、沖田川が蛇行した箇所に開けた土地があるが、その中に小高い丘のようなものがあるようだ(等高線で判別)。そこかもしれない。
 で、意外と鎌手に近かったりする。高島 →須津の大島 →鎌手の亀島 →赤雁の天道山とジグザグのルートを辿っていることになる。
 ちなみに、JR石見津田駅からそう離れていないところに鵜ノ鼻古墳群がある。もちろん、それらの古墳や土地とダイレクトに繋がっている訳ではないけど(私個人は狭姫伝説の成立は江戸後期~明治くらいではないかと思う)、リアリティを感じさせるのかもしれない。

 

◆関連図書

 島根県(出雲・石見・隠岐)の伝説・民話を収録した本にそれぞれ収録されている。

 

 県外では「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一、荒木博之、福田晃、宮田登、渡邊昭互 みずうみ書房)が閲覧しやすいかもしれない。いくつかのバリエーションも収録されている。起源譚ということで「穀物の神・矮姫(サヒメ)」として一番初めに紹介されている。

 

 先人の業績として、大賀周太郎の「鎌手村史稿」「郷土の誉れ」(那賀郡井野村)などが挙げられる(「益田市誌」)。所蔵先は不明。

 

 島根県立図書館所蔵の「島根評論 第13巻中(第6号 通巻第141号 石中号)」(島根評論社, 1936)「石中遊記」(堀伏峰)という紀行文の中で上記「郷土の誉れ」が引用されている(77-80P)。また、「那賀郡史」(大島幾太郎/著, 大島韓太郎, 1970)にも「矮姫と巨人(ちびひめときょじん)」の題で収録されている(113-119P)。これらが辿った中で古い方に属するか。

 

・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録(かくろく)」
・栗田寛「神祇志料」
・藤井宗雄「石見国式内神社在所考」(「神祇全書 第5輯」所収, 思文閣, 1971)
など江戸~明治期の資料を参照。佐毘賣山神社の条を確認したが、狭姫に触れたものは無かった。いずれも一社につき数行程度なので口承伝承的なものは記録されなかったとも考えられる。

 

◆絵本

 「さくらさひめの大しごと」(古田足日/文, 福田岩緒/絵, 童心社, 2001)というタイトルで絵本化されている。

 

さくらさひめの大しごと・表紙
 参考文献として「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(みずうみ書房)が挙げられている。さくらさひめと独自の名称になっているのは商標か何かの関係だろうか。
 内容は基本的には狭姫伝説に沿ったもので、細かな違いとしては、さくらの花びらを子供の姿に変えて農業の仕方を伝えること、国譲り神話を思わせる展開が最後にあることだ。

 

◆正史狭姫伝説

 また、狭姫伝説は漫画化もされている。「正史狭姫伝説」は地元の人たちの手になる漫画で、地元に漫画が描ける人がいたのは幸運に恵まれているといってよいだろう。

 

正史狭姫伝説

 

 内容としては、決定版として、これまで描かれた伝説の最大公約数的なストーリーにまとめつつ、正史として譲れない一線を守ったものとなっている。
 たとえば、本作に登場する狭姫は等身大で、赤雁が巨大化している。元は佐姫のはずなのでちび姫ではなかったのかもしれない。また、地図によると、弥栄村や瑞穂町に立ち寄っていることになる。それらの地区でも狭姫伝説が語り継がれているのだろう。

 

正史狭姫伝説・狭姫の旅路
狭姫の旅路

 なお、「正史狭姫伝説」ではオホゲツヒメを殺したのはスサノオ命となっている。「正史狭姫伝説」は益田の佐毘売山神社の拝殿前で売っている。プラスチックケースに入れられているのがそれ。一冊600円。

◆参考文献(五〇音順)

 

・「出雲・石見の伝説 日本の伝説48」(酒井董美, 萩坂昇, 角川書店, 1980)pp.246-248
・「出雲国風土記 全訳注」(全訳注 荻原千鶴, 講談社学術文庫, 1999)
・「石見鎌手郷土史」(矢冨熊一郎, 1966)
・「石見高島の秘話」(矢富熊一郎, 益田史談会, 1960)pp.67-74
・「石見の民話 第二集」(大庭良美/編著, 未来社, 1978)pp.97-99
・「角川日本地名大辞典 32 島根県」(角川書店 1979)
・「郷土史家人名事典 地方史を掘りおこした人」(日外アソシエーツ, 2007)
・「<原本現代訳>日本書紀(上)」(山田宗睦訳, ニュートンプレス, 1992)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)
・「江津市の歴史」(山本熊太郎/編著, 1970)
・「校定石見神楽台本」(篠原實/編, 石見神楽振興会, 1954)
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)pp.161-165
・「さくらさひめの大しごと」(古田足日/文, 福田岩緒/絵, 童心社, 2001)
・「三瓶山 歴史と伝説」(石村禎久, 1984)
・「式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4」(式内社研究会/編, 皇学館大学出版部, 1983)pp.905-909
・「島根県益田市民話集」(島根大学教育学部国語研究室/編, 島根大学昔話研究会, 1991)pp.107-109
・「島根の神々」(島根県神社庁, 福間秀文堂, 1987)
・「島根の伝説」(島根県小・中学校国語教育研究会/編, 日本標準, 1981)pp.234-238, p.243
・「島根評論 第4巻上 第6号(通巻第33号)」(島根評論社, 1936)pp.2-13
・「島根評論 第13巻中 第6号(通巻第141号 石中号)」(島根評論社, 1936)pp.77-80
・「神祇全書 第5輯 ※藤井宗雄『石見国式内神社在所考』所収」(思文閣, 1971)
・「神話・伝説・史跡巡り・人物伝の一端 川平・松川地区および江津市内各地の歴史」(佐々木春季/編著, 1988)
・「随筆 石見物語(復刻版)」(木村晩翠, 白想社, 1993)pp.230-231
・「正史『狭姫伝説』 天地悠久のロマン 益田の神話」(堀江宗仁・田原三千男/編, 乙子観光協会, 2014)
・「角鄣経石見八重葎」(編集・発行者 石見地方未刊行資料刊行会, 1999)
・「伝承怪異譚――語りのなかの妖怪たち(三弥井民俗選書)」(田中瑩一, 三弥井書店, 2010)
・「那賀郡史」(大島幾太郎, 大島韓太郎, 1970)pp.113-119
・「日本神名辞典」(神社新報社, 2001)
・「日本伝説大系 第十一巻 山陰(鳥取・島根)」(野村純一他, みずうみ書房, 1984)pp.17-25
・「日本の神々―神社と聖地 第七巻 山陰」(谷川健一/編, 白水社, 1985)pp.155-166
・「畑作の民俗」(白石昭臣, 雄山閣出版, 1988)
・「三隅地方の神話と伝説」(寺井実郎/編, 三隅時報社, 1960)pp.13-18
・「益田市誌 上巻」(益田市誌編纂委員会/編, 1975)pp.356-361
・「夕日を招く長者 山陰民話語り部シリーズ1」(民話の会「石見」/編, ハーベスト出版, 2013)pp.138-140
・「歴史の落穂拾い 出雲・石見」(石村禎久[勝郎], 石村勝郎, 2000)など。

 

・朝山晧「石見國式社考」(二) 雑誌「神光」第九号所収 31p. 昭和三十二年
・長尾英明「佐比売山神社考―石見の渡来部族と鉱山信仰」「郷土石見」100号 創刊100号記念号(石見郷土研究懇話会, 2016)pp.23-45
・長尾英明「物部神社の古代史(上)」「郷土石見」104号(石見郷土研究懇話会, 2017)pp.2-19

 

国立国会図書館・近代デジタルライブラリーにて確認
・伴信友「神名帳考証」
・鈴鹿連胤「神社覈録」
・栗田寛「神祇志料」

 

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記事を転載 →「広小路」(※一部改変あり)

 

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コメント

洲浜さま、いらっしゃいませ。ブログのタイトルが「薄味」なのは元々このブログは雑記ブログだったからです。現在は島根に特化しております。
口伝えで伝わっていくのが一番だと思いますので、微力でもお役に立てたなら非常に幸いであります。
私、浜田の出でして、帰省した際に出かけたときの記録をまとめたものです。小学生時代の課題図書が実家に残されていたのを読み返したのがきっかけです。
赤雁と額田部そでめ屋敷跡がほとんど離れていないことは実際に訪ねてみてはじめて気づいたことでした。

投稿: daidaimusha | 2014年1月19日 (日) 19時23分

びっくりしています。
薄味どころではありません。濃味です。
こんなに詳しく調べてブログに紹介されるとは、一体どなたさまでしょうか。しかも多くの歴史上の資料を読んで紹介し、また鋭い推論をしておられます。島根のにんげんでもここまではできません。

実は2月2日に大田市で「三瓶の魅力を語りうたう」という文化イベントを計画しています。そのために「海を越えてサヒメの山へ」という朗読民話劇を書きました。(ただいま脱稿!)そのためにいろいろ本をよみましたが、このブログがとても参考になりました。有り難く、とても感謝しています。
ありがとうございました。

投稿: 洲浜昌三 | 2014年1月13日 (月) 02時12分

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