斎木雲州関連の記事はこちら

「出雲伝承 斎木雲州」のキーワードで何度か検索していらっしゃった方がいますが、関連記事はこちらです。

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2019年7月22日 (月)

異例の数値

Twitterアナリティクスを覗いてみると、先週の立教大学の公開セミナーのツイートが2300インプレッションを超えていた。僕のツイートはせいぜい2~300くらいなので異例の数値。伸びたのは伝統芸能の六掛け理論について触れた箇所。六割しか次世代に伝えられなかったら、二世代で三割六分まで下がるという論法。民俗学者の大石泰夫氏の八掛け理論がネタ元かもしれない。

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凄惨な事件だが

NHK「クローズアップ現代」の京都アニメーション特集を見る。アニメの聖地巡礼を研究している観光社会学者の岡本健氏のコメントがあったが、現在は近畿大学の准教授とのこと。

京アニ放火事件はコアな人材が一度に大量に失われた痛恨の事件だ。日本のサブカルチャーに大打撃を与えたテロ事件とみることも可能だろう。

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2019年7月21日 (日)

菩比の上使と天之返矢

 ◆国譲りの前段
 古事記には国譲りの前段として天穂日命と天若日子が出雲に天下ったが、大国主命に懐柔されて不発に終わるという神話が記されている。石見神楽ではこの部分は神楽化されていないのだが、関東の里神楽では「菩比(ほひ)の上使」と「天之返矢」という演目で神楽化されている。

◆横浜の神代神楽
 2019年6月に横浜市天王町の橘樹神社の例大祭で「菩比の上使」が演じられた。国譲りを命じられて天下った天菩比神(あめのほひのかみ)は大国主命の子供である建御名方命と対峙して国譲りを迫る。一方、建御名方命は酒宴を催して酒好きな天菩比神に酒を飲ませて、酔いつぶれさせて、酔いから醒めた天菩比神と斬り合いをして勝利、天菩比神を打倒するという内容となっている。また、劇中では建御名方命の従者のモドキが二名登場して、滑稽な動作を繰り広げる。

菩比の上使:建御名方命登場
菩比の上使:建御名方命登場
菩比の上使:建御名方命の配下のモドキ二名
菩比の上使:建御名方命の配下のモドキ二名
菩比の上使:天菩比神登場
菩比の上使:天菩比神登場
菩比の上使:建御名方命に国譲りを迫る天菩比神
菩比の上使:建御名方命に国譲りを迫る天菩比神
菩比の上使:建御名方命に酒を勧められる天菩比神
菩比の上使:建御名方命に酒を勧められる天菩比神
菩比の上使:酔いつぶれた天菩比神
菩比の上使:酔いつぶれた天菩比神
菩比の上使:モドキが様子を伺う
菩比の上使:モドキが様子を伺う
菩比の上使:酔いから覚めた天菩比神、建御名方命と斬り結ぶ
菩比の上使:酔いから覚めた天菩比神、建御名方命と斬り結ぶ
菩比の上使:敗れて命乞いする天菩比神
菩比の上使:敗れて命乞いする天菩比神
菩比の上使:呆然とした天菩比神
菩比の上使:呆然とした天菩比神
菩比の上使:ガッツポーズする建御名方命
菩比の上使:ガッツポーズする建御名方命
菩比の上使:モドキ、残りの酒を飲んで退場
菩比の上使:モドキ、残りの酒を飲んで退場

◆相模原市の神代神楽
 2018年9月に相模原市・亀ヶ池八幡宮の番田神代神楽で「天の返し矢」を見ることができた。高天原から遣わされた天若日子が大国主命に国譲りを迫るも、大国主命の娘である下照姫に一目ぼれしてしまって、様子を見にきた雉を弓矢で射て、自身も射返されて死んでしまうという筋。悲劇的内容で神楽を終わりにするのでなく、次にタリ(どういう漢字をあてるのか分からないが)というモドキがおかめと道で鉢合わせして、互いに譲らず滑稽な所作を繰り返すという明るい内容で締めた。関東の里神楽なので基本、黙劇なのだけど、マイクで解説しながらの上演となった。

天之返矢:大国主命登場
天之返矢:大国主命登場
天之返矢:下照姫
天之返矢:下照姫
天之返矢:天若日子
天之返矢:天若日子
天之返矢:大国主命と対面する天若日子
天之返矢:大国主命と対面する天若日子
天之返矢:下照姫と天若日子
天之返矢:下照姫と天若日子
天之返矢:高天原の使いの雉が登場
天之返矢:高天原の使いの雉が登場
天之返矢:雉を射たが射返される天若日子
天之返矢:雉を射たが射返される天若日子

◆古事記
 古事記の該当部分を直訳調だが現代語訳にしてみた。

 天照大神は「豊葦原千亜紀長五百秋水穂国(とよあしはらのちあきのながいほあきつみずほのくに)は我が御子の正勝吾勝々速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が統治する国だ」と命じて、天下らせた。ここで天忍穂耳命を天の浮橋に立たして「豊葦原千亜紀長五百秋水穂国は大層ざわめいています」と告げて、更に還り参上して天照大神に申した。そうして高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大神が天の安の河原に八百万の神を集めに集めて、思金神(おもいかねのかみ)に思考させて「この葦原の中つ国は我が御子が統治する国と命じて賜った国だ。そこで、この国にちはやぶる(勢いのある)荒ぶる国つ神どもが数多いるのを思うに、これ、何れかの神を遣わして言葉で説いて従わせよう」とおっしゃった。そうして思金神と八百万の神と協議して曰く「天菩比神(あめのほひのかみ)を遣わすべし」と申した。そこで天菩比神を遣わしたところ、ただちに大国主神に媚ひ付いて三年に至るまで帰って命令されたことの結果を報告しなかった。

 これで高御産巣日神と天照大神は再び諸々の神たちに「葦原の中つ国に遣わした天菩比神は久しく復命しない。またいずれかの神を遣わせれば良かろうか」と問うた。そうして思金神が答えて「天津国玉神(あまつくにたまのかみ:高天原の国魂の神)の天若日子(あめわかひこ)を遣わすべきです」と申した。そこでそうして、天のまかこ弓と天のはば矢を天若日子に賜って遣わした。ここで、天若日子はその国に降り到って、ただちに大国主神の娘の下照比売(したてるひめ)を娶って、またその国(出雲)を獲ようと思慮して、八年に至るまで復命しなかった。

 そこでそうして天照大神と高御産巣日神はまた諸々の神達に「天若日子は久しく復命しない。また何れかの神を遣わして天若日子が久しく留まっている理由を問おう」と問うた。ここに諸々の神と思金神は答えて「雉(きじ)で名は鳴女(なきめ)を遣わすべきです」と申したときに仰せになって「お前が行って、天若日子に『お前を葦原の中つ国に遣わせた理由は、その国の荒ぶる神達を言葉を以て従わせ和らげることである。なぜ八年に至るまで復命しないのか』と状況を問え」と仰せになった。

 そこでそうして、鳴女は天から下って到って、天若日子の門の神聖な桂の上にとまり、天つ神の仰せの通り、委細を伝えた。そうして、天佐具売(あまのさぐめ)はこの鳥の言葉を聞いて天若日子に語って曰く「この鳥はその鳴き声が甚だ悪いものです。そこで、射殺すべきです」と進言すると、ただちに天若日子は天つ神の賜った天のはじ弓と天のかく矢を持ってその雉を射殺した。そうして、その矢は雉の棟を貫通して逆さまに射上がって天の安の河の河原にいらっしゃる天照大神と高木神(たかぎのかみ)の許に到った。この高木の神は高御産巣日神の別名だ。そこで、高木神はその矢を取って見たところ、血がその矢の羽に付いていた。ここで高木神が告げて「この矢は天若日子に賜った矢だぞ」と宣言して、ただちに諸々の神達に示して「もし天若日子が命令を過たずに悪しき髪を射ようとした矢が至ったのであれば、天若日子には当たるな。もし邪心を抱いているなら天若日子はこの矢の災いを受けよ」と言って、その矢を取って、その矢の穴から突き返して下したところ、天若日子が朝方になってもまだ寝ているその高い胸先に当たって死んだ<これは還矢(かへりや)の本(もと)ぞ>。またその雉は還らなかった。そこで、今の諺(ことわざ)に「雉の頓使(ひたつかい:行ったきり帰ってこない使者)」と言う本(もと)はこれだ。

 そこで、天若日子の妻の下照比売が泣く声は風に響いて天まで到った。ここに、天にいる天若日子の父の天津国玉神とその妻子は聞いて、下って来て、泣き悲しんで、ただちにそこに喪屋を作って河の雁をきさり持ちとして、鷺(さぎ)を箒(ほうき)を持つ役として、カワセミを死者のための調理人として、雀(すずめ)を碓女(臼で米をつく女)として、雉を泣き女として、斯く行ないを定めて八日と八晩神遊び(歌舞音曲)をした。

◆余談
 天穂日命は国譲りには失敗するものの、その後、出雲国造家の祖先となって出雲大社を主宰する。現代でも出雲国造家は出雲地方に於いて大きな権威だ。数年前には出雲国造家と皇室が結ばれて千数百年ぶりに皇統が繋がったと話題になった。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「口語訳 古事記 完全版」(三浦佑之, 文芸春秋, 2002)

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神楽では茶利だけど――八十神

◆はじめに
 石見神楽に「八十神」という演目がある。出雲の大国主命の大勢の兄くらいの意味だけど、兄まあ、弟まあのコンビが茶利としてユーモラスな会話を繰り広げる内容である。

 「校訂石見神楽台本」によると、因幡の八上姫に求婚した武彦が断られて八上姫を滅ぼそうとするが逃げられる。乙彦が登場して兄弟で大国主命を滅ぼそうとするが、大国主命に返り討ちに遭う……といった粗筋である。

 神楽ではユーモラスな茶利なのだけど、原典の古事記では八十神は狡猾で残忍な存在として描かれている。

◆動画
 YouTubeで石見神楽宇野保存会の「八十神」を見る。宇野小学校の体育館で催されたお祭りに奉納されたものらしい。マイクで拡声していて、八十神の口上は却って聞き取りづらく、何か面白いことを言っているなくらいにしか分からなかった。

◆関東の里神楽
 2018年3月に東京の間宮社中が催した「江戸里神楽を観る会」に行く。「根之堅州国」が演じられる。根の国に赴いたオオナムジ命が須佐之男命から試練を課されるが、娘のスセリビメの援助で切り抜けるという粗筋である。

根之堅州国:須勢理毘売
根之堅州国:須勢理毘売
根之堅州国:大己貴命
根之堅州国:大己貴命
根之堅州国:須佐之男命
根之堅州国:須佐之男命
根之堅州国:須勢理毘売からヒレを受け取る大己貴命
根之堅州国:須勢理毘売からヒレを受け取る大己貴命
根之堅州国:炎にまかれる大己貴命
根之堅州国:炎にまかれる大己貴命
根之堅州国:抱き合う大己貴命と須勢理毘売
根之堅州国:抱き合う大己貴命と須勢理毘売

◆古事記の八十神
 因幡の八上比売に求婚した八十神だったが、(途中、因幡の白兎の神話を挟む)八上比売に大穴牟遅(オホナムジ)神と結婚すると断られる。大穴牟遅を憎んだ八十神は謀って、赤く焼いた石を猪だと偽って大穴牟遅神に狩らせて焼き殺してしまう。母神が高天原に参上して神産巣日(かみむすび)之命の知恵で命を救ったところ、今度は大樹に挟んで殺してしまう。再び蘇った大穴牟遅神は大屋毘古(おおやひこ)命の許に身を寄せるが、八十神が追いついて大穴牟遅神を引き渡せと要求する。そこで大穴牟遅神は根の国の須佐之男命の許に赴く。娘の須勢理毘売と結婚した大穴牟遅神は須佐之男命の課した試練を乗り越え、須佐之男命の許から弓矢を取り須勢理毘売を連れて逃げる。須佐之男命の力を手に入れた大穴牟遅神は八十神を討伐して大国主命となり出雲の国の王となった……という内容。

 直訳調だが、該当部分を訳してみた。

 そこで、この大国主神の兄弟には多数の神(八十神:やそがみ)がいた。そうであるけれど、皆国を大国主神に委ねた。委ねた理由は、その八十神は各々が稲羽(因幡)の八上比売と結婚したいと思う心があって、共に因幡に行ったときに大穴牟遅神(おほあなむじのかみ)に袋を負わせて従者として率いて行った。

 ここで、気多之前(けたのさき)に到った時に、赤裸の兎が伏せっていた。八十神はその兎に「お前はこの海水を浴び、風が吹くのに当たって高い山の尾根に伏せよ」と言った。そこで、その兎は八十神の教えに従って伏せていた。そうしたところ、その塩が乾くままに、その身の皮が悉く風に吹かれて避けた。そこで痛み苦しんで泣き伏したところ、最後に来た大穴牟遅神がその兎を見て「どうして泣き伏せているのか」と問うた。兎が答えて「自分は隠岐島(淤岐島)にいて、この地に渡ろうと欲したけれども、渡る術がありませんでした。そこで、海のワニを欺いて、自分とお前たちと比べて一族の多さ少なさを計ろうと思います。そこで、お前たちは一族のありのままに悉く率いて来て、この島から気多(けた)の前(さき)に至るまで皆列になって伏して渡りなさい、そうして自分がその上を踏んで走りつつ数えて渡りましょう。これで自分の一族といずれが多いか知りましょう」と言いました。このように言いましたので、欺かれて列になって伏すときに、自分はその上を踏んで数えて渡って、気多の地に下りようとしたときに、『お前は自分に欺かれたのだ』と言い終わると、たちまち最も端に伏せていたワニが自分を捕らえて、悉く自分の衣服(ころも)を剥いだ。これで泣いて憂えていたところ、先に来た八十神の命が教えて『海水を浴び風に当たって伏せよ』と告げました。自分は教えのとおりにしたら、身体が赤く裂けました」と言った。

 ここで大穴牟遅神はその兎に教えて「今速やかにこの河口に行って、水でお前の身を洗って、ただちにその河口の蒲(がま)の穂を取って敷き散らしてその上に横たわって転べば、お前の身は元の肌のように必ず癒えるだろう」と告げた。そこで、教えの様にしたところ、その身は元通りになった。これが因幡の白兎(素兎)だ。今は兎神(うさぎかみ)と謂う。そこで、その兎は大穴牟遅神に「この八十神はきっと八上比売を得ないでしょう。袋を負った低い身分だけれども、あなたが命を獲るでしょう」と申した。

 ここで、八上比売は八十神に答えて「私はあなた達の言葉を聞きません。大穴牟遅神と結婚しましょう」と言った。そこでこうして八十神は怒って大穴牟遅神を殺そうと思い、共に謀って伯耆国(ははきのくに:伯岐国)の手間(てま)の山の麓に至って「赤い猪がこの山にいる。そこで、我らが共に追い下るので、お前は待って獲れ。もし獲らなかったら必ずお前を殺そう」と言って火で猪に似た大きな石を焼いて転ばして落とした。そうして追い下り、獲るときにたちまちその石に焼き付けられて死んだ。そうして、命の母神が泣き憂いて天に参上して、神産巣日之命(かむむすひのみこと)に請うた時、ただちに?貝比売(ささかひひめ)と蛤貝比売(うむかひひめ)とを遣わして作り生かさせた。そうして、?貝比売は焼けた身をこそげ取って、蛤貝比売が待ち受けて母の母乳を塗ったところ、麗しい壮夫(おとこ)となって、出て遊び歩いた。

 ここで八十神が見て、また欺いて山に率いて入り、大きな樹を切り伏せて、氷目矢(木を割るとき割れ目に挟むくさび)をはめてその樹に打ち立てて、その中に入らせて、ただちにその氷目矢を打ち放って打ち殺した。そうしてまた命の母神が泣いて探し求めたところ、見つけることができて、ただちにその樹を割いて取り出して生かし、その子に告げて「お前はここにいたら、終いには八十神が滅ぼしてしまうでしょう」と告げて、ただちに木国(きのくに)の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所に(八十神に)会わせないようにして遣わした。そうして八十神が求め到って、弓に矢をつがえて(大穴牟遅命を引き渡すように)乞うた時に、木の股の隙間をくぐり抜けさせて逃がして「須佐之男命(すさのをのみこと)のいらっしゃる根堅州国(ねのかたすくに)に参向するべし。きっとその大神が謀ってくれるでしょう」と言った。

 そこで命令のままに須佐之男命の許に参って到着したところ、その娘の須勢理毘売(すせりびめ)が出て見て、目配せして結婚した。還り入りてその父に「とても麗しい神が来ました」と言った。そうして須佐之男命(大神)は出て見て「これは葦原色許男命(葦原中つ国を統治するのにふさわしい神)と謂うぞ」と告げて、ただちに召し入れて、蛇の室(むろ:出入り口だけあって窓がない)で寝させた。ここで、その須勢理毘売は蛇のひれをその夫に授けて「蛇が噛もうとしたら、そのひれで三度振って打ち払いなさい」と言った。そこで、教えの通りにしたところ、蛇は自ずと静まった。そこで無事に寝て出た。また来た日の夜は百足(ムカデ)と蜂の室(むろ)に入れた。また百足と蜂とのひれを授けて前の様に教えた。そこで無事に出てきた。

 また、鏑(かぶら)矢を広い野の中に射て、その矢を探させた。そこでその野に入った時に、ただちに火を放って、その野のぐるりを焼いた。ここで出る所が分からずいたところ、鼠が来て「内はほらほら、外はすぶすぶ」と言った。そこで、そこを踏んだところ、(穴に)落ちて籠っている間に火は燃え過ぎた。そうしてその鼠はその鏑を咥えて持って出て来て奉った。その矢の羽はその鼠の子らが皆食ってしまった。

 ここでその妻の須勢理毘売は喪(も)の道具を持って泣いて来たところ、その父の大神は既に死んでしまったと思って、その野に出で立った。そうしてその矢を持って奉ったときに家に率いて入って、八田間(やたま:多くの田)の広い大きな室に召し入れて、その頭の虱(しらみ)を取らさせた。そこでそうして、その頭を見たところ、百足が数多くいた。ここでその妻は椋(むく)の木の実と赤い土をとって、夫に授けた。そこで、その木の実を食い破って赤い土を含んで吐き出したところ、その大神は百足を食い破ったと思って心の中で愛しく思って寝た。そうして、須佐之男命の髪を取ってその室に椽(たるき:屋根を支える為に棟から軒に渡す材)ごとに結いつけて、五百引(いほびき:五百人がかりで引く)の岩でその室の戸口を塞いで、妻の須勢理毘売を背負って、ただちに大神の生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と天の沼琴(ぬこと)を取り持って逃げ出した時に、その天の沼琴が樹に触れて土がどよんで鳴った。そこで寝ていた大神は聞き驚いて、その室を引き倒した。けれども、椽(たるき)に結った髪を解く間に遠く逃げてしまった。

 そこでそうして、黄泉(よも)つひら坂に追い至って、遥かに望んで大穴牟遅神に呼んで曰く「そのお前が持った生太刀と生弓矢でお前の腹違いの兄弟を坂の裾に追い伏せて、河の瀬に追い払って、おのれ、大国主神(おほくにぬしのかみ)となり、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)となって、我が娘の須勢理毘売を正妻として、宇迦能山(うかのやま)の山の麓で底の岩の根元に宮柱を太く建て、高天原(たかあまのはらに)に千木を高く上げて住め。こ奴め」と言った。そこで、その太刀と弓で八十神を追いやった時に坂の裾ごとに追い伏せ、河の瀬ごとに追い払って、初めて国を作った。

 そこで、その八上比売は先の契りの様に寝所に通わせた(夫とした)。そこで、その八上比売は連れて来たけれども、正妻の須勢理毘売に遠慮して、産んだ子を木の股に差し挟んで帰った。そこでその子を名づけて木俣神(きまたのかみ)と云う。またの名は御井神(みゐのかみ)と謂う。

◆余談
 大国主命の神話は代々の出雲王の記憶が神話化されたものだろう。その中では後継者争いがあり、実際に殺された王子もいたかもしれない。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.50-59
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)pp.290-312

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2019年7月14日 (日)

神功皇后と「武内」

◆はじめに
 石見神楽の演目「武内」は神功皇后と武内宿祢が住吉の神から潮干る珠と潮満つ珠をを授かって新羅の賊を成敗する内容である。

 神功皇后は石見神楽の演目「塵輪」に登場する仲哀天皇の后で応神天皇の母である。仲哀天皇は宝の国を授けようという神託を信じず、それ故に神の怒りに触れて亡くなったとされている。一説には熊襲征伐中に流れ矢に当たって崩じたともいい、こちらの方が実情に近いのではないかと思わせる。

 仲哀天皇の死後、神功皇后は朝鮮半島への進出を決行する。当時の半島は「財(たから)の国」だったのですな。それで日本には叶わないと見た高句麗、百済、新羅の三国が日本に貢物を送ってくる様になったというのが「武の内」の粗筋である。実際、広開土王碑にあったように高句麗とは朝鮮半島の支配権を巡ってライバル関係にあったと思われる。後年、隋に圧迫された高句麗が日本に使者を送ってきたという話も日本書紀に記されている。

◆動画
 「塵輪」はしばしば上演されるが「武の内」は見たことないなと思ってYouTubeを検索したらヒットした。演じる団体もあるようだ。

 YouTubeで後野社中の「武の内」を視聴。海神楽とあるので国分海岸で催された神楽だろう。口上はよく聞き取れなかった。オープンエアだし、神楽はお酒を飲みながら、おしゃべりしながら観るものなので口上が聞き取れないのはやむを得ない。武内宿祢は老人として描かれていた。壮年だと神功皇后との関係を疑われるか。住吉の神から潮干る珠と潮満つ珠を授けられるのだけど、天蓋に吊るして効果を演出していた。

 出雲神楽・唐川神楽の「三韓」を視聴する。同じ題材でも石見神楽とは全く異なる内容だった。武内の臣は神功皇后の手を引いて舞台を巡る。神功皇后はどことなく挙動不審だ。武内の臣が三韓の王たちと押し合いへし合いして、最後に三韓の王がばたっと倒れ伏す。やられたと思ったら立ち上がるのが笑いどころ。それを何度か繰り返して降参する。

◆関東の里神楽
 2019年3月、東京の間宮社中の「八幡山黒尉(やわたやまこくじょう)」を見る。神功皇后が新羅に出兵するに当たり、河で魚を釣って戦況を占う。釣れたのが鮎だった。魚へんに占と書いて鮎である。いざ出陣しようとしたところに墨之江大神(すみのえのおおかみ:黒尉)が現れ、神功皇后はひれ伏す。産気づいたので身体に石を当てて出陣する……という内容。関東の里神楽は基本黙劇でセリフはない。またゆったりとした動作で写真に撮ると分かるが一つ一つのポーズが決まっている。

八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后と武内宿祢
八幡山黒尉:神功皇后と武内宿祢
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:神功皇后
八幡山黒尉:釣りで占いをする神功皇后
八幡山黒尉:釣りで占いをする神功皇后
八幡山黒尉:墨之江大神(黒尉)が登場
八幡山黒尉:墨之江大神(黒尉)が登場
八幡山黒尉:産気づく神功皇后
八幡山黒尉:産気づく神功皇后

◆日本書紀
 日本書紀では神功皇后の三韓征伐は下記の様に描かれている。直訳調であるが現代語訳してみた。

 九年の春二月に足仲彦天皇(仲哀天皇)は筑紫(つくし)の橿日宮(かしひのみや)でお亡くなりになった。その時皇后は天皇が神の教えに従わず早くお亡くなりになったことを嘆き悲しんで思うに、祟る神を知って財宝(たから)の国を求めようと欲した。これを以て群臣(まへつきみたち)と百寮(もものつかさ)に命じて罪を祓え過ちを改めて更に斎宮(いつきのみや)を小山田邑(むら)に作らせた。

 三月の壬申(じんしん)の朔(一日)に、皇后は吉日を選んで斎宮に入り、自ら神主となり、ただちに武内宿祢に命じて琴を弾かさせ、中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)を召して審判者(さには)とした。よって多くの幣を高く積み、琴の前後に置き、祈願して曰く「先日、天皇にお教えになったのは誰の神か。願わくばその名を知りたい」と申した。七日七夜が経って、たちまち答えて曰く「神風の伊勢国の百(もも)伝う度逢県(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)にいます神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきたかきいつのみたまあまざかるむかつひめのみこと)なり」とおっしゃった。また問うて「この神を除いて他にいらっしゃるか」と申した。答えて曰く「幡萩穂(はたすきほ:旗のように風になびくすすき)の様に出た我は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこおり)にいらっしゃる神があり」とおっしゃった。問うて「またありますか」と申した。答えて曰く「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代神(あめにことしろそらにことしろたまくしいりびこいつのことしろのかみ)がいる」とおっしゃった。問うて「またいらっしゃいますか」と申した。ここで審判者(さにわ)が申すに「ちょうど今答えず、また後でおっしゃることがありますか」と申した。ただちに答えて曰く「日向国(ひむかのくに)の橘小渡(たちばなのをど)の水底にいらして水草や海藻も若くに出でます神、名は表筒男(うはつつのを)・中筒男(なかつつのを)・底筒男(そこつつのお)の神がいる」とおっしゃった。問うて「また他にありますか」と申し、答えて曰く「あるともないとも知らず」とおっしゃり、遂にまた他に神ありとおっしゃられなかった。そうして神の言葉を得て教えのままに祭った。そうして後に吉備臣(きびおみ)が祖鴨別(おやかもわけ)を遣わして、熊襲国を討たせた。未だ浹辰(せふしん:12日)の経たずに、自ずから従った。また荷持田村(のとりたのふれ)、荷持、ここでは能登利(のとり)と云う。に羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいて、その人となりは強く猛々しく、また身に翼があって空を飛び翔ることができた。これを以て皇命に従わず、常に人民を略奪していた。

 戊子(ぼし:十七日)に皇后は熊鷲を討とうと欲して、橿日宮(かしひのみや)から松峡宮(まつをのみや)に遷(うつ)った。そのとき飄風(つむじかぜ)がたちまち起きて、御笠が吹き落とされた。そこで当時の人はそこを名づけて御笠(みかさ)と言う。

 辛卯(しんばう:二十日)に層増岐野(そそきの)に至って、ただちに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼした。側近の者に語って「熊鷲を取ることができて、我が心は安らかだ」とおっしゃった。そこで、そこを名づけて安(やす)と言う。

 丙申(へいしん:二十五日)に山門県(やまとのあがた)に移って、ただちに土蜘蛛の田油津媛(たぶらつひめ)を誅殺した。その時、田油津媛の兄の夏羽(なつは)、軍勢を興して迎えた。そうしたところ、妹(おと)が殺されたと聞いて逃げた。

 夏四月の壬寅(じんいん)の朔の甲辰(こうしん:三日)に北火前国(きたのかたひのみちのくちのくに:肥前国)の松浦県(まつらのあがた)に至って、玉島里(たましまのさと)の小川のほとりで食事を召された。ここで皇后は針を曲げて釣針を作って、米粒を取って餌にして、釣針を投げ祈って曰く「朕、西方の財(たから)の国を求めようと思う。もし事を成すことができるなら河の魚よ釣針を食え」とおっしゃった。よって竿を挙げて、たちまち鮎を獲た。その時皇后が「珍しい物だ」とおっしゃった。希見、ここでは梅豆邏志(めづらし)と言う。そこで当時の人はそこを名づけて梅豆羅国(めづらのくに)と言う。ちょうど今松浦を謂うのは訛ったのである。これを以てその国の女人(をみな)が四月の上旬毎に釣針を川の中に投げて鮎を捕ることが今に至るまで絶えない。ただし男夫(をのこ)だけは釣るといっても、魚を獲ることができない。

 既に皇后は神の教えの効験あることをお知りになって、また神祇を祀って、自ら西方を討とうと欲し、ここに神田(みとしろ)を定めて田を耕した。その時、儺河(なのかわ)の水を引き、神田を潤そうと欲し、溝を掘って迹驚岡(とどろきのおか)に至ったところ、巨岩が塞いで溝を掘ることができなかった。皇后は武内宿祢を召して、剣と鏡を捧げて祈祷して溝を通すことをお求めになった。たちまちその時落雷があってその岩を蹴り裂いて水を通させた。そこで、当時の人はその溝を名づけて裂田溝(さくたのうなて)と言う。皇后は還って橿日浦(かしひのうら)に至って、髪(みぐし)を解いて海に臨んで曰く「自分は神祇の教えを被り、皇祖の霊(みたまのふゆ)を頼り、蒼海を渡って自ら西方を討とうと思う。ここを以て、たった今、頭を海水で濯(すす)ぐ。もし効験があるなら、髪よ自ずから分かれて二つになれ」とおっしゃった。ただちに海に入れて洗(すす)ぐと、髪は自ずと分かれた。皇后はそこで髪を結い分けて鬟(みづら)になさった。よって群臣に語って曰く「それ戦を興して諸々の者を動かすのは国の大事である。安いのも危ういのも、勝つのも敗れるのも、必ずここにある。ちょうど今討つ所がある。事を群臣に授けた(付託した)。もし事が成就しなければ罪は群臣にはない。これは大層痛い。自分は手弱女(たおやめ)で、また未熟で愚かである。そうではあるけれども、暫く丈夫(ますらお)の姿を借りて、強引に雄大な計略(ををしきはかりこと)を興そう。上は神祇(あまつかみくにつかみ)の霊(みたまのふゆ)を被り、下は群臣(まえつきみたち)の助けによって兵士たちを振るい起こして高き浪を渡り、船を整えて財土(たからのくに)を求めよう。もし事が成就したなら群臣共に軍功があって、事が成就しなかったら、自分独りに罪があろう。既に心を決している。それ共に議論せよ」とおっしゃった。郡臣は皆「皇后は天(あめ)の下の為に宗廟社稷(国家)を安らかにさせる所以(ゆえ)を計っておられます。また、罪は臣下に至らずとおっしゃる。謹んで命令を承ります」と申した。

 秋九月の庚午(かうご)の朔の己卯(きぼう:十日)に諸々の国に命令して船舶を集め兵士を訓練した。その時兵士たちの集まりが悪かった。皇后曰く「きっと神の御心であろう」とおっしゃり。ただちに大三輪社(おほみわのやしろ)を立てて刀と鉾を奉ると、兵士たちは自ずと集まった。ここに吾瓮海人烏摩呂(あへのあまをまろ)に西の海に出て国があるかと視察させた。還って曰く「国は見えませんでした」と申した。また、磯鹿海人名草(しかのあまなぐさ)を遣わして観察させたところ、数日して還って曰く「西北に山がありました。雲が横たわっています。考えてみるに、国があるのでしょうか」と申した。ここに吉日を占って、出発しようとするにはまだ日があった。その時皇后は自ら斧と鉞(まさかり)を取って全軍に命令して曰く「金の鼓が節度を失い、旌旗(せいき:標識の軍旗)が錯乱すれば、士卒は整わず、財を貪り欲深くなって私心を抱き妻を思う心があれば、必ずや敵に捕らえられるだろう。その敵が少なくとも侮るな。敵が強くとも怖れるな。そこで犯し暴力を振るう物を許すな。自ら服従した者を殺すな。遂に戦に勝ったならば必ずや恩賞があろう。背いて逃げるならば自ずから罪があろう」とおっしゃった。既に神の教えることがあって曰く「和魂(にぎみたま)御身に従って御命を守り、荒魂(あらみたま)は先鋒として軍船を導こう」とおっしゃった。和魂、ここでは珥岐瀰多摩(ニキミタマ)と云う。荒魂はここでは阿邏瀰多摩(あらみたま)と云う。ただちに、神の教えを獲て拝礼して、よって依網吾彦男垂見(よさみのあびこをたるみ)を祝祭の神主とした。その時、たまたま皇后の臨月に当たっていた。皇后は石を取って腰に差しはさみ、祈って曰く「事を終えて還る日に、ここで産まれ給え」とおっしゃった。その石はちょうど今伊都県(いとのあがた)の道のほとりにある、さるほどに、たちまち荒魂を軍勢の先鋒として、和魂を請じて王の船の鎮守とした。

 冬十月の己亥(きがい)の朔の辛丑(しんちう:三日)に和珥津(わにつ)から出発した。その時神風を起こし、海神は浪を挙げ、海中の大魚(おふを)が悉く浮かんで船を助けた。たちまち大風が順風に吹き、帆船は波に従い、梶や楫(かい)を労せずして、たちまち新羅に至った。ただちに神祇が悉くお助けになったかということを知った。新羅王(しらきのこにしき)、ここに怖気づきわなないて成す術がなかった。そこで諸々の人を集めて曰く「新羅の建国以来、未だかつて海水が国に押しあがることを聞かない。考えてみるに、天運が尽きて国が海となろうとするか」と言った。この言葉が終わらない間に、軍船が海に満ちて軍標となる旗が日に輝き、鼓や笛が音を鳴らし、山と川は悉く震えた。新羅王、遥かに望んで、非常な兵士がまさに己(おの)が国を滅ぼそうとすると思い、怖気づいて心惑った。、ちょうど今醒めて曰く「自分が聞くに東に神の国がある。日本(やまと)と謂う。また聖王(ひじりのきみ)がいて天皇(すめらみこと)ということを。必ずやその神の国の軍隊だろう。どうして兵を挙げて防ぐことができようか(できない)」と言った。ただちに白旗を上げて自ら服従し、白い組紐で自らを縛り、地図と戸籍を封印して御船の前に降伏した。よって叩頭して曰く「今から後、長く乾坤(あめつち)と共に従って飼部(みまかい)となりましょう。それ船の梶を乾かすことなく、春と秋に馬の櫛と馬の鞭を献上しましょう。また海の遠いのを厭わず年毎に男女の調(みつき)を奉りましょう」と申した。ただちに重ねて曰く「東から出る日が更に西から出ない様に、また阿利那礼河(ありなれがわ)が逆流して逆さまに流れ、河の石が登って星辰(あまつほし)となるに至る場合を除いて、特に春秋の朝貢を欠き怠って馬の櫛と鞭の貢物を廃せば、天神地祇よ共に罪に処し給え」と申す。その時ある人が「新羅王を殺しましょう」と言った。ここで皇后の曰く「初めに神の教えを承って、金銀(くがねしろかね)の国を授けんとして、また全軍に号令して『自ら服従した者を殺すな』と言った。ただ今既に財国(たからのくに)を獲た。また人も自ずから降伏した。殺すのは性質の悪いことだ」とおっしゃった。ただちにその縛(ばく)を解いて飼部(みまかひ)とした。遂にその国の中に入って、重宝(たから)の府庫(くら)を封印し、地図と戸籍と文書を収めた。そこで皇后の突いた御矛を新羅王の門に立て、後の世の印とした。そこでその矛は今もなお新羅王の門に立っている。ここに新羅王の波沙寐錦(はさむきぬ)はただちに微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質として、これによって、金(くがね)、銀(しろかね)、彩色(うるわしきいろ:彩りの美しい宝物)と綾(あやきぬ)、羅(うすきぬ)、縑絹(かとりのきぬ)をもたらして、八十叟の船に載せて官軍に従わせた。これを以て新羅王は常に八十叟の船で調(みつき)を日本国(やまとのくに)に奉った。ここに高麗(こま)・百済(くだら)の二つの国の王(こにしき)は新羅が地図と戸籍を納めて日本国(やまとのくに)に降伏したと聞いて、密かに日本の軍勢を伺わせ、ただちに勝てまいと知って自ら営舎の外に来て、叩頭して誠意をもって曰く「今から後、長く西蕃(せいばん)と称して、朝貢することを断ちません」と申した。そこで、よって内官家(うちつみやけ:海外の貢納国)を定めた。これがいわゆる三韓(みつのからくに)である。皇后は新羅からご帰還しなさった。

 十二月の戊戌(ぼしゆつ)の朔の辛亥(十四日)に誉田天皇(ほむたのすめらみこと)を筑紫にお生みになった。そこで当時の人は、その産んだ所を名づけて宇瀰(うみ)と言う。

◆太平記
 「太平記」巻40に「神功皇后高麗を攻め給ふ事」という一節がある。神功皇后が潮干珠と潮満珠を使ったという記述はこれによるものと「校訂石見神楽台本」は指摘している。

 そもそも大元三百万騎の蒙古どもが一時に滅んだことは、全く我が国の武勇ではないのである。ただ日本の大小の天神地祇と宗廟(祖先のみたまや)の目に見えない助力によったのではないかと神威を尊ばない者はなかった。昔仲哀天皇は天子の文武の徳で高麗の三韓を攻めさせたが、戦いは有利ではなく帰ったのを神功皇后がこれは智略と武略の足らないところであるといって、唐朝へ戦の師への謝礼として砂金三千両を渡され、履道翁(りどうおう)が三巻の秘書を伝えられた。これは黄石公(くわうせきこう)が五日目の(鶏の鳴く)早朝に渭水(ゐすい)の橋の上で張良に授けた書物である。

 (朝鮮半島を攻める)ことが既に定まって後、軍議のために皇后が諸々の天神地祇を招請したところ、日本秋津洲(あきつしま)の大小の天神地祇と冥界にある仏とが皆、勅請に従って来た。そうだけれど、海底に跡を垂れる安曇弥(あとめ)の磯良(いそら)だけはお召しに応じなかった。これはどんな訳があるのかと、神を集めて庭で火を焚き、榊の枝に青和幣(あおにぎて:麻で作った青みがかった幣)と白和幣とを取り掛けて、風俗歌や催馬楽(さいばら:古代歌謡)などを歌った。梅枝(うめがえ)・桜人(さくらびと)・石川(いしかは)・葦垣(あしがき)・夏引(なつひき)の糸・飛鳥井(あすかゐ)の糸・貫川(ぬきかは)・真金吹(まがねふく)・差櫛(さしぐし)・浅水(あさうづ)の橋など、呂律(りよりつ)の音楽を奏で、本末(上の句と下の句)の順序を変えて数回歌わせたところ、磯良は感じ入り耐えかねて、神遊びの庭に参った。その姿かたちを御覧になると、石花(せっか:カキ)や細螺(したたみ:巻貝)・藻に棲む虫が幾つも手足五体に取り付いて人の形ではなかった。神たちは怪しんで「どうしてこのような姿になったのか」と尋ねられたところ、磯良は「自分は青海原の鱗(うろくづ:魚類)に利益を与えようしたために海中に久しく住んでいた内に、この姿かたちになりました。このような姿で恐れ多い神たちの御前へ参ることの余りの恥ずかしさに今まで参りかねていたのを感々融々(かんかんゆうゆう:ゆったりのびのびした)とした律雅(上品な律の調べ)の声に恥を忘れ身をも顧みず参ったのです」と答えた。すぐに磯良をお使いとして竜宮の宝である旱珠(かんじゅ:干珠)と満珠(まんじゅ)とを借り召されて、一巻の秘書を智謀として両顆の明珠(二つのすばらしい珠)を武備として敵国へお発ちになった。

 この時八幡(応神天皇)は母后の胎内にいて数か月だったので、后の腹は大きくなって。鎧の引き合わせ(鎧の胴の右脇で前後を引き締めて合わせるところ)が開いたので、高良明神(かうらのみやうじん)の計らいとして、鎧の脇立(鎧の胴の右脇の空洞に当ててふさぐもの)を初めてしたのだとか。諏訪明神と住吉明神とを副将軍と裨将軍(副将軍)として三韓に押し寄せ、二つの珠の威力で蒙古を退治されたので、新羅・百済・高麗等の王と臣は悉く降参したので、皇后の弓の上側の筈(はず)で「三韓の諸王は我が日本の犬である」岩の上に書きつけて、ご帰朝された。これから高麗も我が国に従って、長年貢物を奉った。古(いにしえ)に呉服(くれはとり)という綾織りで王仁(わうにん)という才人が我が国に来たのも、その貢物に伴っていた。大紋の高麗縁(こうらいべり:高麗錦の畳の縁)もその貢物の箱の縁だと聞く。

◆羽白熊鷲
 「塵輪」のバリエーションらしいが、神功皇后に退治されたとされている羽白熊鷲を題材にした演目が芸北神楽にあるとのこと。ブログ「斉藤裕子でごじゃるよ~」の情報。塵輪との連想は翼があり自在に空を飛ぶことができたという記述からだろうか。

◆余談
 おくり名に「タラシ」と付く天皇や后は後の世の創造であるという説があり、オキナガタラシヒメこと神功皇后も想像上の人物であるということになる。まあ、応神天皇の正統性を示すために創られた話なのかもしれない。

 武内宿祢は五代の天皇に仕えた長命の家臣ということになっている。これは武内一族の者が代々の天皇に仕えたのを一人の人格に集約したものだろう。ちなみに、蘇我氏は武内宿祢の子孫であるとされている。
 神功皇后が神意を占うのに武内宿祢に琴を弾かせている。ここでは武内宿祢が神がからせる者で神功皇后が神がかる者となっている。審判者(さには)は別にいる。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.149-157
・「神楽新考」(岩田勝, 名著出版, 1992)pp.284-293

記事を転載→「広小路

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ヤマトタケル命/四道将軍

◆はじめに
 古事記と日本書紀に登場するヤマトタケル命の神話は好んで神楽の神話劇として取り上げられている。

◆関東の里神楽
 2019年3月に催された江戸里神楽を観る会で「日高見蜘蛛(ひたかみのくも)」という演目が上演された。「目黒大神(めぐろのおおかみ)」という演目と「日高見蜘蛛」を合わせた内容となっているとのこと。

 粗筋は、景行天皇から東国平定を命じられた日本武尊が足柄山を越えて武蔵国の国常立尊(くにとこたちのみこと)を祀る社を訪れる。そこで武運長久を祈願し、北へと向かう。陸奥国の山中に入ると霧がかかり日本武尊は道にはぐれてしまう。すると大きな毒蜘蛛が現れ、日本武尊は毒牙にかかり倒れてしまう。しかし野狐(国常立尊の化身)が現れ、日本武尊は息を吹き返す。野狐は日本武尊に神鏡を渡し「ただちに日高見蜘蛛を打つべし」と命じる。国常立尊から授かった神鏡と草薙剣の徳によって日本武尊は無事に日高見蜘蛛を退治する……という内容。パンフレットの解説より。この内容はヤマトタケル命の神話には見られないストーリーであり創作色が濃いものと思われる。

日高見蜘蛛:巫女による榊の舞
日高見蜘蛛:巫女による榊の舞
日高見蜘蛛:日本武尊
日高見蜘蛛:日本武尊
日高見蜘蛛:毒牙にかかる日本武尊
日高見蜘蛛:毒牙にかかる日本武尊
日高見蜘蛛:野狐によって救出される日本武尊
日高見蜘蛛:野狐によって救出される日本武尊
日高見蜘蛛:野狐から神鏡を授かる日本武尊
日高見蜘蛛:野狐から神鏡を授かる日本武尊
日高見蜘蛛:毒蜘蛛
日高見蜘蛛:毒蜘蛛
日高見蜘蛛:毒蜘蛛とのバトル
日高見蜘蛛:毒蜘蛛とのバトル
日高見蜘蛛:毒蜘蛛の妖術
日高見蜘蛛:毒蜘蛛の妖術
日高見蜘蛛:毒蜘蛛を仕留める日本武尊
日高見蜘蛛:毒蜘蛛を仕留める日本武尊

◆石見神楽と芸北神楽
 神話の時系列順に紹介すると、石見神楽の演目に「熊襲」、芸北神楽の旧舞で「熊襲征伐」という演目がある。日本童男(おぐな)命が勅命を受け熊襲建(くまそたける)を討つことを宣言する。日本童男命は叔母の倭(やまと)姫命のお召し物を借り受け、少女の姿に扮して熊襲建の祝宴に紛れ込む。日本童男の姿を認めた熊襲建(くまそたける)が童男命を自分の傍に侍らせる。日本童男命は酒の酌をする振りをして熊襲建に斬りつける。倒された熊襲建から日本武尊の名を与えられた日本童男命は以後日本武尊と名乗る……という粗筋である。

次に芸北神楽の新舞「日本武尊(やまとたけるのみこと)」でヤマトタケル命の熊襲征伐が語られる。

「日本武尊」
 人皇十二代、景行天皇の御代、小碓命(おうすのみこと)は筑紫にいる熊襲の頭である川上帥(かわかみたける)を成敗する様命じられる。
 川上帥は手下の五十猛とともに勅命を奉ぜず朝貢をおこたり欲しいままにしていた。その日は館の新築の祝いで宴が催された日だった。小碓命は女装して宴に忍び込む。
 一夜の宿を求めた女を川上帥は受け入れる。宴が始まった。川上帥と五十猛は酒に酔って伏してしまった。女装していた小碓命は剣で切りつける。戦いとなった。五十猛は討たれた。川上帥も倒れたが、しばしの余裕をもらい、小碓命を海内(かいだい)一の勇者なので、日本武尊と名乗るべしと言い残す。小碓命はとどめを刺した。

◆熊襲征伐
 ヤマトタケル命の熊襲征伐は古事記では以下のように語られている

 天皇の女性を奪った兄を小碓命(をうすのみこと)は殺してしまう。その荒々しさを恐れた天皇は小碓命に熊襲征伐を命じる。

 ここに(景行)天皇はその御子の猛々しく荒い心を恐れておっしゃった。「西の方に熊曾(くまそ)建(たける)が二人いる。これは(朝廷に)従わず秩序から外れた者達だ。そこで、その人達を討ち取れ」と告げて遣わした。この時に当たって、その髪を額に結った。そうして小碓命はその叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)のお召し物を賜って剣を懐に入れ出発した。

 さて、熊曾建の家に至って見たところ、その家の周囲を軍勢が三重に囲み、室(むろ:家の奥に設けた寝室などとした所)を作っていた。ここに「お住まいが完成した宴をしよう」と大声で騒いで、食物を備えていた。そこで、その傍らを遊びながら行って、その宴の日を待った。

 そうして、その宴の日に臨んで、乙女の髪の如く、その結った髪をくし梳(けず)って垂れ、叔母(倭比売)のお召し物を着て、乙女の姿となって、女人の中に交わり立って、その室(むろ)の内に入って坐した。熊曾建の兄弟二人、その乙女を見て愛でて、自分の傍に侍らせて盛んに遊んだ。さて、宴がたけなわとなった時に臨んで、懐から剣を出して、熊曾の衣の首を取って剣をその胸から刺し通した時に、その弟の建(たける)は見て恐れて逃げ出た。ただちに、その室のはしごの元に追って、弟建の背を取って剣を尻から刺し通した。

 そうしてその熊曾建が申して「その刀を動かさないでください。私は申すことがあります」と言った。そうして暫く許して押し伏せた。ここに申して「あなたは誰か」と言った。そうして「自分は巻向の日代宮(ひしろのみや)にいて大八島国(おおやしまくに)をお治めになる大帯日子淤斯呂和気天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)の御子で名を倭男具那王(やまとをぐなのみこ)だ。おのれら熊曾建二人、(朝廷に)従わず秩序から外れているとお聞きになって、おのれらを取り殺せと御告げになって遣わせたのだ」とお告げになった。そうしてその熊曾建が「まことにその通りです。西の方に、我ら二人をおいて猛々しく強い人はいない。されども、大倭国(おほやまとのくに)に我ら二人に増して猛々しい男がいました。これを以て、自分はお名前を奉りましょう。今から後は倭建(やまとたける)の御子と称するべきです」と申した。この事を申し終わると、すなわち熟した瓜の如く振り割いて殺した。そこで、その時からお名前を称えて倭建命と謂う。こうして還り上るときに、山の神、河の神と穴戸神を言葉で説いて秩序に従わせ参り上った。

……ヤマトタケル命は少女の姿に扮して熊襲猛に近づくのだけど、そこには少女のようなたおやかな姿と裏腹の荒々しい性格が描かれていて、それ故に父の景行天皇に疎んじられて諸国征伐に赴くことになる。ちなみに日本書紀ではヤマトタケル命の身長を一丈としているから当時としては巨漢であったことになる。これと少女の姿に扮するという矛盾したような展開となるのである。

 ちなみに日本書紀では出雲建のエピソードは語られない。崇神天皇の時代に吉備津彦と武渟川別(たけぬなかわわけ)が出雲振根を誅殺したとあるからだろう。剣を偽物と取り換えて殺すエピソードなどが同一である。

◆東国平定
 さて、熊襲と出雲を平らげたヤマトタケル命だが、都に戻ると、すぐ父の景行天皇から東国征伐するように命じられる。父は自分に死ねと言っているのではないかと思ったヤマトタケル命は伊勢に参って叔母の倭比売に心情を漏らす。倭比売は草なぎ剣を与え、火急の際には袋を開けよと助言した。

 石見神楽の演目に「日本武尊」という演目がある。まず日本武尊が登場し、東国が乱れていること、そしてそれを平定しに行くことを宣言する。吉備武彦と大伴の武日の連を連れ、伊勢神宮に参り、叔母の倭比売から天村雲剣と火打ち石の入った袋を授かる(袋は火急の事態になったときに開けよと念を押される)。駿河の国では兄ぎしと弟ぎしが武力ではとても日本武尊に叶わない。謀(はかりごと)を以て日本武尊を討つべしと賊首(ひとこのかみ)に相談する。賊首は駿河の野に大鹿が現れ害をなしている。それを退治して欲しいと乞い、日本武尊が野に入ったところを八方から火をかけ焼き殺してしまう計略を立てる。果して、日本武尊が野に入ったところを四方から火をかけられるが、天村雲剣がひとりでに抜け、草を薙ぎ払い、倭比売から預かった袋に入っていた火打ち石で迎え火をつけて難を逃れることができた。これより後は天村雲剣を草薙の剣と名づけて熱田神宮に納めた……という様な粗筋である。

 日本武尊の口上は日本書紀の景行天皇の台詞に由来するが長いので多少省略する。

 秋七月の癸未(きび)の朔で戊戌(ぼしゅつ:十日)に天皇は居並ぶ卿(きみたち)に命じて「ちょうど今東国(あづまのくに)が平安でない、荒ぶる神が数多起こる。また蝦夷(えみし)が悉く叛逆してしばしば人民(おほみたから)から掠める。誰を遣わしてその乱れたのを平らげよう」とおっしゃった。(中略)ただちに天皇は斧鉞(ふえつ)を取って日本武尊に授けて「朕が聞くことには、その東夷(あづまのひな)は性暴強で凌犯を主となす。村に長(おさ)無く、邑(むら)に首長がいない。各々境を貪って並びに相掠める。また山に邪神(あしきかみ)がいて郊(の)に心がねじ曲がった者がいる。衢(ちまた:分かれ道)を遮り、道を塞ぎ、多く人を苦しめる。其の東夷(あづまのひな)の中で蝦夷は最も強い。男女の区別なく居て、父と子のけじめが無い。冬は穴に寝、夏は巣に住む。毛皮を着て、血を飲み兄弟で互いに疑っている。山に登ることは飛ぶ鳥の如くで敵を見ては必ず報復する。これを以て矢を髻(たぶさ:髪をたぐり上げて房のように束ねたところ)に隠して刀を衣の中に佩いて、あるいは郎党を集めて辺境を侵し、あるいは農耕と養蚕を伺って人民を掠める。討てば草に隠れ、追えば山に入るという。そこで古くからこの方、未だ王化に従わない。ちょうど今朕はお前の人となりを見るに、身体は高く大きく容姿は端正である。力はよく鼎(かなえ)を上げ、猛々しいことは稲光の如くである。向かうところ敵なく、攻めれば必ず勝つ。形は我が子であるが、まさしく神人(かみ)であることを知った。これはまことに天の朕が賢くなく、また国の乱れるを憐れんで天の日嗣(天皇の位)を治め宗廟(くにいへ)を絶えずあらしめる(絶えないようにする)か。またこの天下は即ち汝の天下である。自分の位は即ちお前の位である。願わくは、深く謀り遠慮して、心がねじ曲がっているのを探り背くのを伺い、威を以て示し、徳を以て手懐け、兵士たちを煩わさずに自ずから臣従させよ。すなわち言葉巧みに荒ぶる神を整え、武力を振るって心のねじ曲がった鬼を攘却せよ」とおっしゃった。

 日本書紀では下記の通りである(神楽は日本書紀を出典としている)。

 この年に、日本武尊は初めて駿河に至った。その所の賊が偽って従い欺いて「この野に大鹿が甚だ多いのです。息は朝霧の如くで足は茂った林のようです。お出でになって狩ってください」と言う。日本武尊、その言葉を信じ野に入って狩りをした。賊は王を殺そうという心があって(王とは日本武尊を謂う)火をつけて野を焼いた。王は欺かれたとお知りになって、忽ち火打ち石で火を着けて迎え火を着けて難を逃れることができた(一説に曰く、王の佩いた剣藂雲(もらくも)、自ずと抜けて王の傍らの草を薙ぎ払う。これによって免れることができた。その剣を名づけて草薙という。藂雲、此処には茂羅玖毛」(もらくも)と云う)王はすんでのところで欺かれるところだったおっしゃった。ただちに悉くその賊たちを焼き滅ぼした。そこで、その所を名づけて焼津(やきつ)という。

ちなみに古事記ではヤマトタケル命の単独行動であるが、日本書紀では吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)が連れ従っている。


◆伊吹山
 芸北神楽の「新編 伊吹山」では海を渡るヤマトタケル命と伊吹山で道に迷う姿が描かれる。

「新編 伊吹山」
 人皇十二代の景行天皇に仕える音丸(おとまる)は東日本の征伐を終えた日本武尊に、近江国伊吹山に鬼神がたち籠もったのでこれを成敗すべく由を申すべく、日本武尊を待つ。
 日本武尊は東国に向かう船が相模国走水(はしりみず)で海難に逢い、妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)が海神の犠牲となって入水したのを悲しく思っていた。
 東国からの帰り道で日本武尊は音丸に会う。音丸は伊吹山の鬼神(大蛇ともいう)を成敗すべしとの勅命を伝えた。
 伊吹山に入った日本武尊は鬼神と戦う。鬼神は大蛇となった。大蛇に巻き込まれ危機一髪のところを弟橘姫が救う。大蛇を退治した日本武尊だったが、大蛇の毒に当てられて余命幾ばくもなかった。日本武尊の魂は弟橘姫の神霊に導かれ、天津神、白鳥の宮めざして昇天した。
 日本書紀では下記の通りである。

 冬十月の壬子(じんし)の朔の癸丑(きちゅう:二日)に、日本武尊は出発した。

 戊午(ぼご:七日)に回り道をして伊勢神宮(いせのかむみや)を拝んだ。よって倭姫命に暇を乞うて曰く「たった今天皇の命を被って、東の方へ行って、諸々の叛逆する者どもを誅殺しようとしています。そこで暇乞いします」と申したところ、ここに倭姫命は草薙剣を取って日本武尊に授けて曰く「慎んで怠るな」とおっしゃった。

 古事記では倭比売がヤマトタケル命に火打ち石の入った袋を授ける場面が描かれている。

 (前略)、倭比売命、草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を賜い、また袋を賜って「もし火急の事があるならば、この袋の口を解きなさい」とおっしゃった。

 日本書紀に戻る。

 また相模(さがむ)に進んで、上総(かみつかさ)に行こうと思い、海を臨んで言上げ(言葉に出して特に言い立てる)して「これ小さい海だけだ。飛び越えて渡ることができよう」とおっしゃった。すぐに海中に至り、暴風がたちまち起こって、王の船は漂って渡るべくもなかった。時に王に従う妾(おみな)がいて弟橘媛(おとたちばなひめ)と言った。穂積氏忍山宿祢(ほづみのうじのおしやまのすくね)の娘である。王に申して「たった今風が起こり波が速く船が沈もうとしています。これは必ずや海神の心によるものです。願わくば賤しい我が身を以て王の命に代えて海に入りましょう」と入った。申すことが終わって、ただちに波を押し分けて入った。暴風はただちに止み、船岸に着くことができた。そこで時の人はその海を名づけて馳水(はしりみず)と言う。

 古事記では下記のような描写がされている。

 海に入ろうとする時に菅(すが)の畳八重、皮の畳八重、絁(きぬ)の畳八重で波の上に敷いて、その上に座った。

 日本書紀に戻る。

 ここに近江(あふみ)の胆吹山(いぶきのやま:伊吹山)に荒ぶる神がいるとお聞きになって、ただちに剣を抜いて宮生簀媛(みやずひめ)の家に置いて素手でお出でになった。胆吹山に至ると、山の神は大蛇に化けて道をさまたげた。ここに日本武尊、主神が蛇に化けたということを知らないで「この大蛇は荒ぶる神の使いであろう。もはや主神を殺すことができれば、その使いをどうして求めるに足ろうか」とおっしゃった。よって蛇を跨いで更にお出でになった。その時山の神は雲を起こし、雹を降らせた。峰に霧がかかり谷は暗く、行くべき道も無かった。そこで退くことも進むこともできなくなって、踏んでいく所も分からなかった。そうではあるが、霧をしのぎ強行し、確かに僅かに(かろうじて)出でることができた。なお、心は惑って酔った如くであった。よって麓の泉のほとりにおいでになって、ただちにその水を飲んで醒めた(判断を失っていたのが戻った)。そこでその泉を名づけて居醒泉(ゐさめがゐ)と言う。日本武尊、ここに初めて病んだ。そうしてようやく起って尾張に還った。

 時に(亡くなった)日本武尊は白鳥に変じて陵から出て大和国を指して飛んだ。

 ……古事記ではヤマトタケル命は旅の途中で亡くなるが、日本書紀では一旦都に帰ってから亡くなっているという違いもある。

◆四道将軍

 日本書紀には崇神天皇が天皇が四道将軍を各地に派遣したとの記述がある。四道将軍のエピソードはヤマトタケル命の神話の元の一つともなったと言われているとのこと。

 芸北神楽に「四道将軍」という演目がある。崇神天皇の腹違いの兄である武埴安彦王が謀反を起こし大和の国を乗っ取ろうとする。崇神天皇はようやく国内の災害を治めたが、遠国は教化していない。四方の国に将軍を遣わそうとする。崇神天皇は大彦命を越の国に派遣しようとする。そうしたところ山城の国で乙女が崇神天皇の危機を告げる歌を詠んだので大彦命は都に帰り、帝に奏上する。そこで崇神天皇は武埴安彦を討つことにする。彦国葺命も勅命を受ける。武埴安彦と対峙した大彦命は戦うが勝負がつかない。そこで矢合わせ(戦の勝敗を占う)をすることにする。武埴安彦の矢は外れ、彦国葺命の矢が武埴安彦に当たる。武埴安彦の手下も討ち取られる。

 日本書紀では下記の通り。

 十年の秋七月の丙戌(へいしゅつ)の朔の己酉(きゆう:二十四日)に群卿たちに仰せになった。曰く「民を導く本(もと)と教化するにあり。たった今既に神祇を敬って災いは皆尽きた。されども、遠い国の人々は未だなお臣従していない。これは未だ王化に習わないだけである。それ群卿と選んで四方に遣わし、朕の教化を知らしめよ」とおっしゃった。

 九月の丙戌の朔の甲午(九日)に大彦命(おほびとみころ)を北陸(くぬがのみち)に遣わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に遣わし、吉備津彦を西道(にしのみち)に遣わし、丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)を丹波(たには)に使わせた。よって仰せになって曰く「もし教えを受けない者があれば、兵を挙げて討て」とおっしゃった。既に共に印綬(いんじゅ)を授けて将軍(いくさのきみ)となした。

 壬子(じんし:二十七日)に大彦命は和珥坂(わにのさか)の上に到った。その時少女(をとめ)がいて歌を詠んで(一説に大彦命は山背(やましろ)の平坂(ひらさか)に到る。そのとき道端に童女(わらわめ)がいて歌を詠んで)

 御間城入彦(みまきいりひこ)はや 己が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊びすも(一説に 大き門(と)より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊びすも)

 御間城入彦は自分の命をこっそり奪おうとするのを知らずに女と戯れていることだ。

と言った。ここに大彦命は怪しんで童女に問うて曰く「お前が言ったのは何のことか}と言った。答えて曰く「何も言っていません。歌謡で諷刺したのです」と言った。ただちに重ねて先ほどの歌を詠み、たちまち見えなくなった。大彦はただちに返って現状を詳しく奏上した。ここに天皇の大叔母の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が聡明で賢く、未来のことを能く知ることができた。ただちに歌の前兆をお知りになって天皇に「これは武埴安彦(たけはにやすひこ)が帝を傾けようとする印だろう。自分が聞くに、武埴安彦の妻の吾田媛(あたひめ)、密かに来て倭(やまと)の香山(かぐやま)の土(はに)を取って領巾(ひれ)の端に包んで、呪って曰く『これは倭国の物実(ものしろ)』と申し、ただちに帰ったと(物実、此処には望能志呂(ものしろ)と言う)。これを以て有事が起きると知りました。すみやかに図らねば必ずや遅れをとりましょう」と申し上げた。

 ここに更に諸々の将軍(いくさのきみ)を留めて協議された。未だ幾ばくもなくて、武埴安彦は妻の吾田媛ともくろんで帝を傾けようとして兵を起こして忽ちに至った。各々道を分けて夫(せ)は山背(やましろ)から、婦(め)は大坂から共に入り、都(帝京)を襲おうとした。そのとき天皇は五十狭芹彦命(いさせりびこのみこと:吉備津彦命)を遣わして吾田媛の兵を討たせた。ただちに大坂にて遮り、皆大いに破って吾田媛を殺して悉くその兵卒を斬った。また大彦と和珥臣(わにのおみ)の遠祖彦国葺(ひこくにぶく)とを遣わして、山背に向かって埴安彦を討たせた。ここに忌瓮(いはひべ:神聖な瓶)で和珥(わに)の武すきの坂の上に据えて、ただちに精兵を率いて進んで那羅山(ならやま)に登って戦場に出発した。そのとき官軍は多く集まって草木を踏みならした。よってその山を名づけて那羅山と言う(蹢跙はここでは布瀰那羅須(フミナラス)と言う)。更に那羅山を避けて進み、輪韓河(わからがは)に到って埴安彦と河を挟んで集まり、各々互いに挑み合った。そこで当時の人は改めてその河を名づけて挑河(いどみがは)と言う。ちょうど今泉河(いづみがは)と言うのは訛ったのである。埴安彦は臨んで、彦国葺に問うて曰く{何のためにお前は兵を起こして来たのか」と言う。答えて曰く「お前は天に逆らって道に外れている。王室を傾けようとしている。そこで、正義の兵を挙げてお前が逆らうのを討とうとする。これは天皇の命令である」と言う。ここに各々先に射ることを争う。武埴安彦、先に彦国葺を射た。当てることはできなかった。その後で彦国葺が埴安彦を射た。胸に当てて殺した。その兵士たちは悉く怯えて退いた。ただちに追って河の北で破った。首を斬ることは半数を超えた。屍が多いに溢れた。そこでそこを名づけて羽振苑(はふりその)と言う。またその兵卒は怯えて逃げ、屎(くそ)が褌(はかま)から漏れた。そなわち鎧を脱ぎ捨てて逃げた。免れることができまいと知り、叩頭していった「我君(あぎ」と言った。そこで当時の人はその鎧を脱いだ処を名づけて伽和羅(かわら)と言い、褌から尿が垂れたところを屎褌(くそばかま)と言う。ちょうど今樟葉(くすば)と言うのは訛ったのである。また頭を叩きつけて助命を乞うた処を名づけて我君(あぎ)と言う(叩頭、ここでは廼務(のむ)と言う)。

◆動画
 琴庄神楽団の「熊襲」を見る。神が三人。鬼も三人という構成だった。上河内神楽団の「日本武尊」を見る。神は一人、川上梟帥(かわかみたける)は兄弟二人だった。

 左鐙社中の「日本武尊」を見る。草薙の剣の由来を語るエピソード。兄ぎしと弟ぎしは茶利でユーモラスなトークを繰り広げる。賊首(ひとこのかみ)が剣を二本持ってきて兄ぎしと弟ぎしに渡すが一本は傘だった。「今日は雨だけぇちょうどいい」と笑いを取る。火に巻かれる演出はドライアイスで行っていた。最後の場面で兄ぎしと弟ぎしは退治されるが、賊首は退治されない(登場しない)。

 上河内神楽団の「新編 伊吹山」を見る。荒れる海はドライアイスで表現されていた。弟橘姫の入水の場面では蛇胴を使った龍神が登場した。伊吹山の場面では猪や大蛇ではなく鬼神二体が登場し、それを成敗する粗筋となっていた。

◆余談
 横溢するパワーを秘めたヤマトタケル命は父である景行天皇に恐れられ、西国を平定すると息をつく間もなく東国平定に派遣される。古事記では父は自分に死ねと言っているのだと、ヤマトタケル命の心情が語られる。ゆえに日本書紀よりも命の悲劇性がクローズアップされる。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.95-107
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 2011)pp.128-135
・「古事記講義」(三浦佑之, 文藝春秋, 2007)

記事を転載→「広小路

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2019年7月12日 (金)

立教大学・公開セミナー「石見神楽 神と人のエンターテイメント」

立教大学・池袋キャンパスで催された公開セミナー「石見神楽 神と人のエンターテイメント」を受講する。まず初めにレジュメが配られ、細井尚子・異文化コミュニケーション学部教授の神楽に関する概略の説明があった。

全体として観光神楽的なお話かと予想していたが、神楽そのものに絞った話だった。講師は浜田市の西村神楽社中の日高均氏。東京社中のメンバーがサポートする。石見神楽はショーだと批判もあるが、それに対する回答は六掛け理論のようだ。

伝統芸能が100%継承されることはなくて、80%でよくできた。60%でまあようやったという水準だ。もし60%の出来が二世代続いたら、0.6×0.6=0.36と36%ほどの水準となってしまう。故に創意工夫が必要なのである(別に他所の伝統芸能批判ではない)。振り子の様に行き過ぎれば戻るのを繰り返すのだとのこと。

石見神楽台本の詞章は古事記よりむしろ日本書紀から取られたものが多いそうだ。

石見神楽では笛も改良されたとのこと。元々はフルートのように音を出すのが難しかったところ、リコーダーのように音が出るものに改良されたとか。

日高氏は65歳で、現在はたまにイカ釣り漁をしていらっしゃるとのこと。二十代で社中を結成し、月給が3~4万円だった時代に300万円農協から借金して衣装を揃えたとのこと。皆が連帯保証人になって、月5,000円ずつ返済したという。十周年には浜田市民ホールで上演して1700名の来客があったとのこと。

神楽には野次がつきものだが、演者も「ええぞ」とか野次は求めているのだとか。ただし、「へたくそ」とか悪意のある野次については、それを切り返せるようになって一人前なのだとか。神様はものを言わない。観客が喜んでいるのを見て、「私の子供たちが喜んでいる」とお喜びになるのだという。

他、記憶している中では、明治維新後、それまでお寺が戸籍管理をしていたのをお宮にさせようとしたが、短期間で頓挫して史料もあまり残っていないとのこと。

明治時代には神がかりが禁止されたのだが、理由の一つは神の声を聞けるのは宮城のやんごとないお方だけであること、そして上記の様な管理上の理由もあったのだとか。

木彫りの面に変わって、浜田では(筆者捕捉、多分:長浜人形の)ノウハウがあったので、粘土で面を作ることが試みられたが失敗、和紙を塗り重ねる張り子の面が完成したとのこと。

大蛇の実演もされたが、提灯型蛇胴が開発される前はウロコ模様の衣装を着て舞っていたとのこと。

講演の他に、面を姫とか神とか茶利とか色々付け替えて実演してくれた。面によって印象が変わるのである。仮面をつけるというのは役になりきるということだけれども、熟練の技が垣間見えた。

面を着けて顔を揺らすのは、面の視界が悪いからで、ああやって位置関係を把握するのだとのこと。

アンケートには、ちょっとズレた内容だが、「観光神楽で観光客を誘致する戦略は広島県の芸北神楽と被るがそこら辺どうお考えか」といった質問と「関東の里神楽も見たが、とにかく子供が見ない。神楽は子供に見せてナンボのものだと思うので、そこら辺も追及して欲しい」といった内容のことを書いた。

立教大学に行くのは初めてだったけど、レンガ造りの建物のイメージを新しい建物も継承していて、統一感のある美しいキャンパスだった。

立教大学
立教大学
公開セミナー「石見神楽 神と人のエンターテイメント」
公開セミナー「石見神楽 神と人のエンターテイメント」
大蛇(オロチ)の実演
大蛇(オロチ)の実演
姫の面を被って実演
姫の面をつけて実演
八十神の茶利の面を被って実演
八十神の茶利の面をつけて実演
神の面を被って実演
神の面をつけて実演
展示された面
展示された面
展示された面
展示された面
悪狐の面
悪狐の面

ちなみに、レジュメの内容は下記の通りである。パワーポイントで作成したものをテキストエディタで記述するので、そのままではないが。

日本の神楽①

「かぐら」←「かむくら」=神座:移動する神座
天鈿女命…子孫猿女君:凶悪なものを払い天皇の殯所を保護する→鎮魂
     6世紀後半~仏教(鎮護国家):宮中の鎮魂=御巫(男性)>猿女(巫女)

宮中…御神楽(みかぐら):神楽歌中心+採物歌(舞踊)・前張(さいばり)など
             →宮廷外の神事芸(男性による)の定着
民間…里神楽:石清水八幡など京都近辺の諸大社の御神楽
   神懸系(巫女神楽)・出雲系(採物神楽+神話物)・伊勢系(湯立神楽)
   獅子系(山伏神楽・伊勢太神楽)

神事芸能

神事+芸能:宗教的職能者による儀式+宗教的職能者による芸能
       福建省泉州の道士集団(棹頭城・土脚戯・打城戯)①②③
       四川省南充の端公(跳神・端公戯)

     :宗教的職能者による儀式+俗人による芸能
       四川省南充の端公…端公戯(灯戯)
       青海省同仁県チベット族集落のルロ④(上田信撮影)⑤⑥
          ↓
       俗人により演じられる儀式+俗人による芸能

日本:明治3-4(1870-71)年
 神職演舞禁止令・神懸り禁止令
 (いずれも通称)

式次第―儀式の式次第+芸能

   ―儀式の式次第の中に芸能が組み込まれる
        ↓
    宗教的職能者ではない者(俗人)が式次第も演じる

・民間で行われる
・提供者がそれを生業とする
・演じる時・演じる場・演じる目的

石見神楽
明治以前:神職が担う→氏神の例祭:5-6名…芸能=素面・採物舞
          →式年祭:5年、7年、13年などに1回・20名余り。=大元神楽
 ↓
明治以降:農民が担う=地域により氏神の例祭が伝承・出雲神楽系の神話物吸収など個性
<改革>
・台本 文化7(1810)年 三浦重賢「御神楽舞言立目録」(式年祭の神楽台本)
 →明治15年(1882)年頃 藤井宗雄による改訂→1964年 篠原実「校定石見神楽台本」
・囃子の調子を速くした「八調子」→石州和紙の神楽面:軽量化・肥大化
・出雲神楽系の神話物…植田菊市の提灯型蛇腹→「大蛇」
・細川衣装店の刺繍技術
※芸能部分の発展=「塵輪」など異国から襲来する神+神話「大蛇」など

視聴覚要素強化

(筆者注)
・①②③④⑤⑥は写真
・チベットの儀式+芸能が俗人によるものとされているのは中国が宗教的職能者によるものを認めていないため。
・「塵輪」の「異国から」というのは共同体の外から程度のニュアンス。

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2019年7月 7日 (日)

神武天皇と長髄彦、兄猾、弟猾

◆はじめに
 芸北神楽の旧舞に「神武」という演目がある。日向を発った神武天皇が大和の先住者で指導者である長髄彦(ながすねびこ)を退治する内容である。校訂石見神楽台本には収録されていないので、明治期以降の創作神楽ではないかと思われる。YouTubeを検索してみると石見神楽でも舞われているようだ。

 また、芸北神楽の新舞でも「神武」という演目がある。こちらは長髄彦ではなく、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)を成敗する内容である。

「神武」
 大和の国の長すね彦を征伐すべく日向の国を出た神倭磐余彦命(かんやまといわれひこのみこと)は熊野の川上に立ち至った。そこで熊野翁が現れ、神剣を奉じる。宇陀の里に兄猾(えうかし)、弟猾(おとうかし)がいて、謀をして磐余彦を館に迎える。兄猾が不意に槍で磐余彦を突いた。かわした磐余彦は兄弟と戦う。弟猾は降参したが、兄猾は従わず討ち取られた。

◆日本書紀
 生駒山を超え大和国に入ろうとした神武天皇は長髄彦に撃退される。

 夏四月の丙申(へいしん)の朔の甲辰(こうしん:九日)に皇軍は兵を整え、徒歩で竜田(たつた)に赴いた。そうしたところ、その道は狭く険しく、並んで通ることができなかった。ただちに引き返して更に東の方向、胆駒山(いこまのやま)を超えて大和国の内部に入ろうと思った。そのとき長髄彦(ながすねびこ)が聞いて曰く「それ天津神の御子達が来たる訳は、必ず我が国を奪おうとしたものだろう」と言ってただちに悉く兵を挙げて孔舎衛坂(くさえのさか)で遮って共に戦った。流れ矢があって五瀬命(いつせのみこと:神武天皇の兄)の肘に当たって、皇軍は進んで戦うことができなかった。天皇は憂えてただちに策を胸中で巡らせて「たった今、自分はこれ日神の子孫で、日に向かって敵を討った。これは天の道に逆らうことだ。退いて帰り弱いのを示して神祇を祀り、背中に日神の威勢を負いできる影のままに襲い踏むのがよかろう。こうすれば、全く刃を血で濡らさずに敵兵は必ず破れるだろう」とおっしゃった。皆「そうです」と申した。ここに兵士たちに命令して「しばし留まれ。再び進むな」とおっしゃり、ただちに兵を率いてお帰りになった。敵も敢えて攻めなかった。帰って草香津(くさかのつ)に至り盾を立てて雄たけびしなさった。雄誥(ここではヲタケビと云う)。よって改めてその津を名づけて盾津(たてつ)と言う。ちょうど今蓼津(たでつ)と言うのは訛ったのである。初めに孔舎衛(くさゑ)の戦いに、人がいて大樹に隠れて難を逃れることができた。よってその樹を指して曰く「恩は母の如し」と言う。当時の人はそれによってその処を名づけて母木邑(おもきのむら)と言う。今飫悶廼奇(オモノキ)と云うのは訛ったのである。

 ……この後、神武天皇の兄である五瀬命はこのとき受けた矢傷が元で亡くなってしまう。

 五月の丙寅(へいいん)の朔の癸酉(きいう:八日)に軍勢は茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に至る。またの名は山井水門(やまのゐみなと)。茅渟はここでは智怒(チヌ)と云う。時に五瀬命、矢傷が酷く痛んだ。たちまち剣の束を固く握り雄たけびして、撫剣、ここでは都盧者能多伽弥屠利辞魔屢(ツルギノタカミトリシバル)と云う。「いまいましい。丈夫(ますらお)で慨哉、ここでは宇黎多棄伽夜(ウレタキカヤ)と云う。敵兵に傷を負わされ、報いずに死のうとすること」とおっしゃった。当時の人は、よって其処を名づけて雄水門(をのみなと)と言う。進んで紀国(きのくに)の竈山(かまやま)に到って五瀬命は軍勢の中で崩じた。よって竈山に葬った。

 ……この後、神武天皇は紀伊国を経由し、吉野を通って大和国の菟田(うだ)に入る。そうして兄猾と弟猾に出会う。兄猾は神武天皇を謀殺しようとするが、弟猾の告げ口で難を逃れる。

 秋八月の甲午(かふご)の朔の乙未(いつび:二日)に天皇は兄猾(えうかし)と弟(おとうかし)という者を徴発した。猾、ここでは宇介志(ウカシ)と云う。この二人は菟田県(うだのあがた)の群れの長だった。魁帥、ここでは比鄧誤廼伽瀰(ヒトゴノカミ)と云う。その時兄猾は来ず、弟猾がただちに参った。よって帝を拝んで申すに「私の兄である兄猾は反逆を為さんとしていますが、天孫が(ここまで)到ったと承って、ただちに兵を挙げて襲おうとしています。皇軍の勢いを見渡して敢えて当たるまいと恐れ、そこで密かにその兵を隠し、仮に新宮(にいみや)を作って殿内に仕掛けを置いて、よって饗宴を奉ろうと請い、待って命を取ろうと思うのです。願わくば、この偽計を知らせ、十分に備えてください」と言った。天皇はただちに道臣命(みちのおみのみこと)を遣わして、その反逆の様を視察させた。その時、道臣命は害心があることを知って大いに怒って曰く「お前が作った屋敷には、お前自身で入れ」と言った。爾、ここでは飫例(オレ)と云う。よって剣の束を取り、弓を引き絞って、側まで寄って促して入れさせた。兄猾は罪を天に得て断ることもできず、すなわち自ら仕掛けを踏んで圧死した。その時その屍を仕掛けから引き出して晒して斬った。流れる血がくるぶしを流れた。そこで、その地を名づけて菟田の血原(ちはら)と云う。既に弟猾は牛の肉と酒を設けて皇軍をねぎらい饗宴した。天皇はその酒と肉で兵卒に分かち賜いて、すぐさま歌を作って曰く、謡、ここでは宇多預瀰(ウタヨミ)と云う。

 菟田(うだ)の 高城(たかき)に 鴫羂張(しぎわなは)る 我が待つや 鴫は障(さや)らず いすくはし くぢら障(さや)り 前妻(こなみ)が 肴乞(なこ)はさば 立柧棱(たちそば)の 実の無(な)けくを こきしひゑね 後妻(うはなり)が 肴乞(なこ)はさば 櫟(いちさかき) 実の多けくを こきだひゑね

とおっしゃった。これを来目歌(くめうた)と謂う。ちょうど今楽府(うたまひのつかさ)に此の歌を歌うには、なお手量(たはかり:舞の手の動く大小)の大きいのと小さいのと、声の太いのと細いのがある。これは古くから遺る式(のり)である。

……「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」によると兄弟の内、兄が狡猾な反逆者で弟が従順な内通者であるパターンが見られるとのこと。

 続いて大和国に入って長髄彦との再戦となる。長髄彦は物部氏の遠祖である饒速日命(にぎはやひみこと)に妹を嫁がせて君主と仰いでいたが、天孫が二人いる(しかも神武天皇が上位)という事実を突きつけられる。そして臣従しない長髄彦は心がねじ曲がっているとして饒速日命に殺されるのである。

 十二月の癸巳(きし)の朔の丙申(へいしん:四日)に皇軍が遂に長髄彦を討った。しきりに戦うが勝つことができなかった。その時、たちまち天が暗く氷雨(雹)が降った。ただちに金色の霊妙な鵄(とび)が出て、天皇の弓の筈(はず)に飛んで止まった。その鵄は照り輝き、形は稲光の如くだった。これで長髄彦の兵卒は皆迷って目が眩んで二度と戦おうとしなかった。長髄はこれ邑の元の名である。よってまたそれを以て人の名とした。皇軍は戦の鵄の威力を得、当時の人はこれによって鵄邑(とびのむら)と名づけた。ちょうど今鳥見と云うのは訛ったのである。昔孔舎衛(くさゑ)の戦いで、五瀬命が矢に当たって崩じた。天皇は常に憤り恨みを胸に抱いていた。この役に至って、徹底して誅殺しようと心に欲した。ただちに歌を詠んで曰く、

 みつみつし 来目(くめ)の子等(こら)が 垣本(かきもと)に 粟生(あはふ)には 韮一本(かみらひともと) 其のが本(もと) 其根芽(そねめ)繋ぎて 撃ちてし止(や)まむ

とおっしゃった。また歌を詠んで曰く、

 みつみつし 来目の子等が 垣本に 植ゑし山椒(はじかみ) 口疼(くちびひ)く 我は忘れず 撃ちてし止まむ

とおっしゃった。よって又、兵を放って速やかに攻めた。全て諸々の御歌は皆来目歌(くめうた)と謂う。これは歌う人を指して名づけたのである。その時長髄彦は使いを遣わして天皇に申して曰く「昔、天津神の子があって天磐船(あまのいはふね)に乗って天から降下しました。名づけて櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と言う。饒速日、ここでは儞芸波揶卑(ニギハヤヒ)と云う。これ(饒速日命)が自分(長髄彦)の妹の三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶(めと)り、またの名は長髄媛(ながすねびめ)またの名は鳥見屋媛(とりみやびめ)なり。遂に御子を産んだ。名づけて可美真手命(うましまでのみこと)と云う。可美真手、ここでは于魔詩莽耐(うましまで)と云う。そこで、自分は饒速日命を君主として仕えまつったのである。それ天津神の子がどうして二人いるでしょうか(いない)。どうしてまた天神の子と名乗って他人の土地を奪おうとするのか。自分は心に推し量るに、きっと正しくない」と申した。天皇は「天津神の御子も数多あるのだ。お前が君主とする所の者が、誠に天神の子ならば必ず目印になるものがあろう。互いに見せよ」とおっしゃった。長髄彦はただちに饒速日命の天羽羽矢(あめのはばや)一つと歩靫(かちゆき:矢を入れる道具)とを取って、天皇に見せ奉った。天皇はご覧になって「誠だ」とおっしゃり、また身に帯びておられる天羽羽矢一つと歩靫とを長髄彦に見せた。長髄彦はその天の印を益々怖れ畏まる様を心を抱いた。しかも武器を既に構え、その勢いは半ば休むことがなく、なお迷える謀(はかりごと)を守って、改める心は無かった。饒速日命は元から天津神が懇ろにただ天孫だけに与するということを知っていた。また、その長髄彦の人となりがもとって、教えても天と人のけじめをつけることができないのを見て、ただちに殺してその仲間を率いて帰順した。天皇は元から饒速日命は天より降下した者ということをお聞きになって、今果たして真心をしめしたので、褒めて恩恵を与えた。これが物部氏の遠祖である。

◆動画
 石見神楽・細谷社中の「神武」を見る。龍御前神社と垂れ幕にあるので、石見の夜神楽定期公演だろう。直面の者四人の舞であった。続いて広島県筒賀村の原神楽団の「神武」を見る。六調子の神楽であった。照明が赤から青へと変わる。次に広島県の才乙旭神楽団の「神武」を見る。これも長髄彦が退治されるパターンか。他、どこの神楽団か分からないが、広島の「神武」を見る。六調子で、八調子には無い膝を床につける所作があった。

◆余談
 神武天皇の東征神話は単なる神話だとされているが、神武天皇の兄が途中で亡くなったり、一度は長髄彦に撃退されて別ルートをとるなど記述が具体的で、単なる神話以上のものを感じる。

 神武天皇の后は日本書紀では事代主命の娘の媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)で、出雲が依然として無視できない存在であることが匂わされている。

◆参考文献
・「古事記 新編日本古典文学全集1」(山口佳紀, 神野志隆光/校注・訳, 小学館, 1997)
・「日本書紀1 新編日本古典文学全集2」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1994)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.98-104

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大化改新と板蓋宮

◆はじめに
 芸北神楽の新舞に「大化改新」という演目がある。大化改新、乙巳(いつし)の変を題材にした内容である。

「大化改新」
 蘇我入鹿が国政を欲しいままにし。悪逆無道の行いを行っていた。中大兄皇子は中臣鎌足と謀って、蘇我入鹿を打つべく計略を練る。
 韓の国から貢ぎ物を携えた使者が来る日、蘇我入鹿は大極殿に向かっていた。そこに現れた狂言師が入鹿の剣を預かるといって、入鹿も承諾する。
 一方では機屋姫(はたやひめ)が春日明神に武運を祈り、皇子と鎌足に神酒を給わる。
 大極伝では儀式がたけなわであった。皇子と鎌足はその場に踏み込んで、入鹿を成敗する。

……という粗筋である。神楽では律令制の導入は描かれない。蘇我入鹿を巡る事変に注目している。

◆動画
 YouTubeで中川戸神楽団の「大化改新」を視聴する。スーパーカグラとあるので娯楽に徹している。内容は標準的な台本からは改変されていた。

 冒頭、蘇我入鹿と石川麻呂が山背大兄王を殺す(神が殺される)。その後、中大兄皇子と中臣鎌足が互いに図って蘇我入鹿を誅殺することにする。石川麻呂を説得する。石川麻呂は味方につく。石川麻呂が韓の国の上表文を読むときに声が震えたのを蘇我入鹿は聞き咎めるが、そこに中大兄王子と中臣鎌足が入ってきて入鹿を捕縛する。捕縛された入鹿だったが、所縁の郎女(いらつめ)が救出する。鬼女となった郎女と中大兄皇子と中臣鎌足の戦いとなる。最後に鬼と化した入鹿と決戦を行う。首を取られた入鹿だが、首が天蓋を引く要領で宙に舞う。最後に大化改新を行い政治を刷新すると宣言する……といった粗筋。

◆日本書紀
 日本書紀では乙巳(いつし)の変では下記のような流れとなっている。物部氏が滅び、聖徳太子が亡くなった後で蘇我氏が専横を極めた時代の事件である。

 六月の丁酉(ていゆう)の朔(ついたち)の甲辰(八日)に中大兄(なかのおおえ)は密かに倉山田麻呂臣(くらのやまだのまろのおみ)に語って「三韓が調(みつき)を奉る日に、必ずあなたにその上表文を読み上げさせよう」と言い、遂に入鹿を斬る謀(はかりごと)を述べた。

 戊辰(ぼしん:十二日)に皇極天皇は大極殿にいらっしゃる。古人大兄(ふるひとのおおえ)が傍に仕えた。中臣鎌子臣(なかとみのかまこのむらじ)、蘇我入鹿臣(おみ)の人となりは疑い深く昼夜とも剣を佩(は)いていることを知って、俳優(わざおぎ)に教えて、ごまかして解かさせた。入鹿臣は笑って剣を解き、入って座に仕えた。倉山田麻呂臣が進んで三韓の上表文を読み上げた。

 ここに中大兄、衛門府(ゆげいのつかさ)に警戒させ、一斉に十二の通門(みかど)の門を堅く閉じさせ、往来できなくした。衛門府を一か所に集めて、扶持を授けようとした(ふりをした)。その時中大兄はただちに長槍(ながきほこ)を執って太極殿の傍らに隠れた。中臣鎌子連らは弓矢で護衛した。海犬養連勝麻呂(あまのいぬかいむらじかつまろ)に箱の中の二つの剣を佐伯連子麻呂(さえきむらじこまろ)と葛城稚犬養連網田(かずらきのわかいぬかいむらじあみた)とに授けて「ゆめゆめ、あからさまに(たちまち)斬るべし」と言った。子麻呂らは水で飯を流し込み、恐れて嘔吐した。中臣鎌子連は急き立てて励ました。倉山田麻呂は上表文を読み上げるのが尽きようとしているのに子麻呂らが来ないことを恐れて、汗が身に滴って、声は乱れ手はわなないた。鞍作臣(くらつくりのおみ:入鹿)は怪しんで「なぜ震えわななく」と問うた。山田麻呂は「天皇の近くに侍ることが恐れ多く、不覚にも汗が流れたのです」と答えた。

 中大兄は、子麻呂らが入鹿の勢いに恐れ周りを遠巻きにしてしりごみし進まないのを見て、「やあ」と言い、たちまち子麻呂らと共に入鹿の不意をついて、剣で入鹿の頭と肩を斬り割いた。入鹿は驚いて立った。子麻呂は手を巡らして剣を振り回して入鹿の足を斬った。入鹿は転んで玉座について、叩頭して「皇位に坐すべきは天の御子です。私は罪を知りません。詳しく取り調べてください」と申した。天皇は大いに驚いて、中大兄に「なぜこんなことをするか。何事があったのか」と仰せになった。中大兄は地に伏して「鞍作(入鹿)は天子の宗室を悉く滅ぼして皇位を傾けようとしています。どうして天孫を鞍作に代えられましょうか」と奏上した。天皇はただちに立って殿中にお入りになった。佐伯連子麻呂と稚犬養連網田は入鹿臣を斬った。この日、雨が降って水が庭に溢れた。蓆(むしろ)と蔀(しとみ)で鞍作の屍を覆った。

 古人大兄は見て私邸に走りいって、人に「韓人が鞍作臣を殺した(韓の国の政治によって誅せられたのを謂う)我が心は痛んだ」と言った。たちまち寝室に入って門を閉じて出てこなかった。中大兄はすぐさま法興寺に入り、城として備えた。全ての諸皇子、諸王、諸卿や大夫、臣(おみ)、連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、悉く皆共にそば近く仕えた。人をやって鞍作臣の屍を大臣蝦夷(おおおみえみし)に引き渡した。ここに漢直(あやのあたい)ら眷属を全て集め、鎧を着て武器を持ち、大臣(おおおみ)を助けて軍陣を張った。中大兄、将軍(いくさのきみ)巨勢徳陀臣(こせのとこだのおみ)に、天地が開けてから君臣の序列が始めからあることを以て賊党に説かさせ、君が起つところを知らしめた。ここに高向臣国押(たかむくのおみくにおし)は漢直らに語って「我ら、入鹿様のために殺されるだろう。大臣、また今日明日にたちどころにその誅殺されるだろうことは疑いない。されば誰の為に空しく戦ってことごとく刑に処せられようか」と言った。言い終わって剣を解き弓を投げ、これを捨てて去る」賊徒はまた従って逃げ散じた。

 己酉(きゆう:十三日)に蘇我臣蝦夷ら誅殺されるのに臨んで、天皇記・国記・宝物を悉く焼いた。船史恵尺(ふねのふびとえさか)はただちに速やかに焼かれようとしていた国記を取って中大兄に奉った。この日に蘇我蝦夷と鞍作の屍を墓に葬ることを許し、また哭泣(ねつかい:喪にあって泣いて傍らにいること)も許した。

 ここにある人は第一の謡歌(わざうた)を説いて曰く「その歌にいわゆる『遥々に 言(こと)そ聞ゆる 島の藪原』というのは、これ即ち宮殿を島の大臣(蘇我馬子)の家に接して建てて、中大兄と中臣鎌子連とが密かに大儀を図って、入鹿を誅殺しようとする兆しである」と言った。第二の謡歌を説いて曰く「その歌にいわゆる『遠方(をちかた)の 浅野の雉(きぎし) 響(とよも)さず 我は寝しかど 人ぞ響(とよも)す』というのは、これ即ち聖徳太子の御子たち温順な性格で、かつて罪もなく入鹿の為に殺された。自らは報いないとは言えども、天が人に誅殺せしめた兆しである」と言った。第三の謡歌を説いて曰く「その歌にいわゆる『小林に 我を引入れて 姧(せ)し人の 面も知らず 家もしらずも』というのは、これ即ち入鹿臣がたちまちに宮中で佐伯連子麻呂・稚犬養連網田の為に斬られた兆しである」と言った。

 庚戌(こうしゅつ:十四日)に天皇は位を軽皇子(かるのみこ)に譲り、中大兄を立てて皇太子(ひつぎのみこ)とされた。

◆板蓋宮
 千代田町の中川戸神楽団が大化改新を題材として「板蓋宮」という創作神楽(スーパーカグラ)を演じている。

 YouTubeで五団体合同の「板蓋宮」を視聴する。まず中大兄皇子と中臣鎌足と石川麻呂、勝麻呂が登場し、蘇我氏を打倒して大化改新を行わんことを宣言する。入鹿は捉えられ、繩で縛られている。入鹿は投獄される。中大兄皇子と中臣鎌足によって捕らえられた蘇我入鹿を郎女(いらつめ)たちが救出する(勝麻呂は殺される)。郎女は鬼女になる。鬼と変じた入鹿は中大兄皇子と中臣鎌足に対して決戦を挑むが春日大明神の神徳によって敗れ去る。取られた入鹿の首が天蓋引きの要領で火を噴きながら宙を舞うという演出あり。

 高度経済成長によって農村から都市へ若者が流出し、神楽の担い手が不足するようになった。が、中国道の開通で町に工場が出来、若者が戻ってきた。そして芸北神楽はスーパーカグラなるものをも生み出すのである。

 大衆演劇と神楽の間にコネクションが生じ、新たな神楽を創りたいという欲求が生じる。それは「大化改新」という古台本を元とした「板蓋宮」という演目だった。神楽の舞台に縄で縛られた罪人が登場する、そして神が鬼に殺される、「天蓋引き」の応用で切られた鬼の首が宙を舞うなど衝撃的な演出であった。

 が、この「板蓋宮」は神楽競演大会では全く評価されず、社中のメンバーたちは落胆した。そこに企画会社が声をかける。審査員に評価されないなら、観客に評価されればよい。賃借料や広告費などで500万円もかかる広島市内での大ホールでの興行を決行、結果的に大成功というサクセスストーリーのような展開を見せる。

 なお、スーパーカグラでは演出の都合上、天蓋を設けないとのこと。その点で神事性は損なわれており、娯楽に徹している。

◆余談
 30年も前の話だが、大学の教職課程の日本史で大化改新は無かったと教わった。詳しい内容は知らず、おそらく大化改新以前の木簡が見つかって、それ以前から律令制が導入されていたという説であろうと漠然と思っていた。ネットで検索したところ、そうではなく、政治の刷新は白村江の戦いでの敗戦を契機にしたもので、律令制の導入は大宝律令まで下るのを日本書紀編纂時に乙巳の変まで遡らせたとする説であった。

 蘇我氏の嫡流はここで絶えることになるが、蘇我氏一族自体はそれ以後も石川氏と名を変えて存続している。

◆参考文献
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「日本書紀3 新編日本古典文学全集4」(小島憲之, 直木孝次郎, 西宮一民, 蔵中進, 毛利正守/校注・訳, 小学館, 1998)pp.99-105
・新谷尚紀『映像民俗誌論ー「芸北神楽民俗誌」とその制作の現場から』『歴博大学院セミナー「民俗学の資料論」(国立歴史民俗博物館/編, 吉川弘文館, 1999)

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2019年7月 6日 (土)

大和と山戸

散髪に行き、待ち時間でビッグコミックオリジナルを手に取る。「卑弥呼」という漫画が掲載されていた。連載中の一話しか読んでないのだけれど、どうも邪馬台国九州説で描かれていると思われる。それはいいのだけど「山戸」と「大和」では同じヤマトでも発音が違うはずなのだが。

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