2018年12月15日 (土)

酒呑童子より前か後か――土蜘蛛(葛城山)

◆芸北神楽の新舞

 芸北神楽の新舞に「葛城山(土蜘蛛)」という演目がある。土蜘蛛というと、朝廷にまつろわぬ輩を土蜘蛛と呼んでいるが、ここでは蜘蛛の精魂という解釈である。

「葛城山(土蜘蛛)」あらすじ
 源頼光は重い病を得て伏せていた。そこに土蜘蛛の精魂が変化した胡蝶がこの機会に頼光をとり喰らおうとする。胡蝶は毒薬を薬と偽って頼光に飲ませる。苦しみはじめた頼光に胡蝶は土蜘蛛の正体を現し襲いかかる。が、頼光は膝丸の太刀を抜いて土蜘蛛に浴びせかかる。深手を受けた土蜘蛛は葛城山に逃れる。膝丸は蜘蛛切丸と名前を改める。
 頼光は配下の四天王である卜部季武(うらべのすえたけ)と坂田金時に命じて葛城山の土蜘蛛退治を命じる。二人は葛城山の土蜘蛛が籠もっている古塚に攻めいって土蜘蛛を退治した。

◆謡曲「土蜘蛛」

 謡曲「土蜘蛛」を直訳調であるが訳してみた。

「浮きたつ雲の行方を、浮きたつ雲の行方を、風の心地を尋ねん」
「これは頼光の邸内に仕える小蝶と申す女であります」
「さてさて頼光殿は病気でお悩みのため、典薬の頭(かみ)よりお薬を持ち、ただいま頼光殿の居所へ参りました。どうです、誰か入った者はいないか」
「誰ですか?」
「典薬の頭からお薬を持って、小蝶が来た次第を申してください」
「心得ました。ご機嫌を伺って申しあげましょう」
「こゝに消えかしこに結ぶ水の泡の、うき世にめぐる身にこそありけれ。本当にまあ人知れぬ、心は重い夜具の、恨む方もない袖を、独り寝のわびしい思いかな」
「どう申し上げましょう。典薬の頭よりお薬をもって、小蝶が来ました」
「こちらへ来いと申しなさい」
「かしこまって候。こちらへ来なされ」
「どう申し上げましょう。典薬の頭からお薬を持って来ました。気分はどうでしょう」
「昨日より心も弱り身も苦しんで、今は死期を待つばかりです」
「いやいや、それは差支えないでしょう。病は苦しいのが世の決まりですが、治療によって治る事の事例は世の中に多いものです」
「思いも捨てず様々に」
「手段を尽くして夜昼の、手段を尽くして夜昼の、境も知らない有様で、時の移るのをも、感じない程の心かな。実に心を転じず、そのままで思い沈む身の、胸を苦しめる心となるのが悲しい」
「月が清らかな夜半とも見えず雲と霧がかかれば曇る心だなあ」
「どうです、頼光殿、気分はどうでしょう」
「不思議かな、誰とも知れぬ僧形が夜更けに及んで我を訪ねた。その名はどのようにも覚束ない」
「愚かな仰せでございますぞ。お悩みになるのもあなたが来るべきささがに(蜘蛛)の」
「蜘蛛の振る舞いかねてから知らぬのになお近づく。姿は蜘蛛の如くなるが」
「千筋の糸すじに隠れるか」
「五体を短くして」
「身を苦しめる」
「化け物と見るよりも、枕にあった膝丸を、抜き開き、ちょうと切れば、背中を向けた所を続けざまに、足もためず薙ぎ伏せつつ、やったぞ、おうと騒がしい声で、形は消えて失せてしまった、失せてしまった」
「お声が高く聞こえましたので馳せ参じました。何という事でしょう」
「追いつくにしても早く来た者だなあ。近く来たまえ。語って聞かせよう。そもそも夜半ばかりの頃、誰とも知らぬ僧形の者が来て私の気分を問うた。何物かと尋ねたところ、我がせこが来べき宵なりさゝがに(蜘蛛)の、蜘蛛のふるまいかねてしるしもという古歌を連ね、ただちに七尺ばかりの蜘蛛となって私に千筋の糸を繰りかけたのを、枕にあった膝丸で切りふせたが、化け物でかき消す様に失せたのである。これと言うのも偏に剣の威徳と思ったので、今日より膝丸を蜘蛛切と名づけよう。いかに奇特な事ではないか」
「言語道断。今に始まったことではない君のご威光剣の威徳、いずれにしても目出度い事です。また御太刀で切りつけた跡を見たところ、甚だしく血が流れています。この血を探って化け物を退治しましょう」
「急いで来たまえ」
「かしこまって候」
「土も木も我が大君の国なので、どこに鬼が宿ろうか。その時一人武者進み出て、彼の塚にむかい大きな音をたてて言うには、これは音にも聞いたでしょう。頼光に従う武士でその名を得た一人武者。いかなる天魔鬼神であっても、命魂を断とうこの塚を、崩せや崩せ人々と、大声で叫ぶその声に力を得たばかりである」
「下知(命令)に従う武士の、下知に従う武士の、塚を崩し石を返せば、塚の内から火炎を放ち、水を出すといえども、大勢崩すや古塚の、あやしい岩間の陰からも、鬼神の形は現れた」
「お前は知らぬか、我は昔、葛城山で年を経た土蜘蛛の精魂である。なお君が世に障害をなそうと頼光に近づいたところ、却って命を断とうとや」
「その時一人武者進み出て」
「その時一人武者進み出でて、お前は天皇の治める土地に住みながら、君を悩ませるその天罰の、剣に当たって悩むだけか、命魂を断とうと、手に手を取って組みかかったので、蜘蛛の精霊が千筋の糸を繰りためて、投げかけ投げかけ白糸が手足にまとわり五体を縮めて、斃れ伏したと見えた」「そうであるとはいっても、神の国王地(天皇の治める土地)の恵みを頼み、彼の土蜘蛛を中に取り込め、大勢乱れかかったので、剣の光に少し恐れる様子を便りに、切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の、首を打ち落とし悦び勇み、都へと帰った」

 ……謡曲「土蜘蛛」が芸北神楽の新舞の出典のようだ。謡曲では名前が出ていなく単に武者とだけ記されているが、神楽では源頼光の四天王である卜部季武と坂田金時が登場する配役となっている。胡蝶は小蝶と表記されている。

◆土蜘蛛草紙

 角川書店「室町時代物語大成 第九」に収録された土蜘蛛草紙も読んでみたが、芸北神楽の新舞との直接の関連はなさそうである。源頼光が病を得ているという描写はないようだし、胡蝶と名のる女性も出てこない。蜘蛛を退治する点では同様の内容で、謡曲「土蜘蛛」に先行するもの、本説かもしれない。

◆大江山の酒呑童子退治より先か後か

 土蜘蛛は酒呑童子の精魂であるという解釈もある。

 やはり寛文三年の正本であるが、『しゆ天どうじ』(東洋文庫蔵)の最終段、六段目「どうじさいご幷くびそらへまいあがる事」の結びの部分にも土蜘蛛退治の結合を見る。
(中略)
 ここでは土蜘蛛が「童子が執心」の変化だと解されている。仮名草子『お伽物語』(全五巻、延宝六年刊)四ノ三「百物語して蛛(くも)の足をきる事」のなかに、「何とてか我が背子が来べきよい事には引かれずして、童子が霊となりては頼光にも近づきしぞや。いまはたちまちに殺されても、わらはべなどの一昨日来(おとゝひこ)よと呼ぶも、その性(しやう)、執心の深ければこそ」と述べられてある一文も、土蜘蛛を「童子が執心」の変化と伝えた俗説の存在を裏づけるもの、元禄四年刊『多田満仲五代記』(全十巻十冊)巻六「頼光朝臣瘧病付討捕山蜘蛛事」の章で、「是ホドノ虫類ニ侵サレヌルコソ奇怪ナレ、如何サマ大江山ノ童子ガ化生ト覚ヘタリ」と言った頼光のことばも同じ俗伝の記録である。
「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)85-86P
 金平本の浄瑠璃において特に注目を要することは、大江山酒呑童子退治と土蜘蛛退治との間に、さらにもう一つ、童子の怨霊が江州伊吹山に再び悪鬼の姿を現じたという事件を挿入した作品のあることである。
(中略)
 本書は延宝頃の刊と推測されているが、内題にこの鬼を「しゆてんどうじ二代目」と記してあるところがおもしろい。この二代目が、伊吹山で頼光に切られながらも、首は「虚空に舞いあがり、雲のうちに声あって、いかに頼光、かさねて本望とぐべしと、口より火炎を吹き出し、黒雲にまぎれ、行き方知らず失せ」去り(二段目)、五段目で、今度は「蜘蛛の鬼」と化して頼光を狙い、挙句の果に退治されてしまうのだ。
「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)86-88P

 ……この解釈によれば葛城山の事件は大江山の酒呑童子退治より後のエピソードという解釈となる。一方、前とする解釈もあるようだ。個人的には酒呑童子退治で頂点を極めた頼光がやがて年を経て病に倒れ伏すといった解釈の方が馴染みやすいのではないかと感じる。

◆動画

 YouTubeで横田神楽団の「葛城山」を視聴。桜江町とあるので江津市桜江町だろう。大元神楽のおひざ元で芸北神楽の新舞を演じているのは興味深い。登場人物は卜部季武と碓氷定光に差し替えられている。途中、鬼の面を一瞬で着け、拍手が起きる。葛城山に限った話ではないが、鬼が片足をあげ、もう片方の足をずらして横に移動、身体能力の高さをアピールする。真似してみたが全くできなかった。

◆参考文献

・「謡曲叢書 第二巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「土蜘蛛」pp.610-614
・「室町時代物語大成 第九」(横山重, 松本隆信/編, 角川書店, 1981)※「土蜘蛛草紙」pp.436-441
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)

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2018年12月12日 (水)

神祇ではない――ぬえと頼政

◆ぬえ退治の伝説

 石見神楽に「頼政」という演目がある。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎であるぬえという怪物を源頼政が退治したという伝説を神楽化したものである。現在は舞殿に手下の猿を多数登場させ、暴れまわらせるという舞手と観客が交流する要素の強い演目となっている。

◆平家物語

 出典である「平家物語」の「鵼(ぬえ)」の段を直訳調ではあるが訳してみた。

 そもそも源三位入道と申す人は、摂津守頼光に五代、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政の子である。保元の合戦の時、味方で先陣をかけたけれども、大した賞にも預からず、また平治の逆乱にも親類を捨てて参じたけれども、恩賞は劣っていた。大内(大内裏)守護で年久しくあったけれども、昇殿を許されず、年かさ齢傾いて後、述懐の和歌一首を詠んで昇殿を許された。

 人知れず大内山のやまもりは木(こ)がくれてのみ月をみるかな

この歌によって昇殿を許され、正下四位でしばらくあったが、三位を心にかけつつ

 のぼるべきたよりなき身は木(こ)のもとにしゐを拾ひて世をわたるかな

しゐと四位をかけている。思った通り三位はうまくいった。やがて出家して源三位入道といって、今年は七十五歳になられた。

 この人の生涯の功名と思えることは、近衛院ご在位の時、仁平(にんぺい)の頃、帝が夜な夜な怯えたまげる事があった。有験(祈祷の効果のある)の高僧貴僧に仰せになって大法(密教の修法のうち最も重んぜられるもの)秘法を修せられたけれども、その効果がなかった。ご病気はおおよそ丑の刻であったところ、東三条の森の方から黒雲が一村(むら)たち来たって御殿の上を覆ったので、必ず怯えなさった。これで公卿の評議が行われた。さる寛治の頃、堀河天皇ご在位のとき同じように帝が夜な夜な怯えたことがあった。その時の将軍源義家朝臣は南殿(紫宸殿)の大床に控えていたが、ご病気の時に及んで、弓の弦を三度鳴らしてそののち、高い声で「前(さきの)陸奥守源義家」と名のったところ、人々はみな身の毛もよだって、ご病気が直った。

 それゆえただちに先例に任せて、武士に仰せて警護あるべしといって、源平両家の兵(つわもの)どもの中をお選びなったところ、頼政を選びだされたと聞こえる。その時はまだ兵庫頭と言っていた。頼政が申すことには「昔から皇室に武士をおく事は、謀反の者を退け、勅命に違う者をほろぼす為である。目に見えぬ変化のものだけれども、仰せ下さること、未だ謹んで受けるには及ばない」と言いながら、勅命なので呼び出しに応じて参内する。頼政はどこまでも頼みにしている郎党、遠江の国の住人、井早太(ゐのはやた)にほろ羽の中の風切という羽で矧(は)いた(竹に羽をつけて矢を作る)矢を負わせて、ただ一人従えた。自分の身は二重の狩衣に山鳥の尾ではいた先の尖った矢を二筋、滋籐(しげどう:下地を黒塗りにして、その上を点々と白の引籐で巻いた弓)の弓にとり添えて、南殿の大床に謹んで奉仕した。頼政は矢を二つ手の下に挟んで持った事は雅頼(まさより)卿、その時はまだ左少弁でいらしたが、「変化の物を(退治)する者は頼政ぞ」と選び申されたから、一の矢に変化の物を射損じる物ならば、二の矢には雅頼という弁官のそいつの骨を射ようとなった。

 日頃、人々の言うことに違わず、ご病気の頃に及んで、東三条の森の方から、黒雲がひとむらたち来たって御殿の上にたなびいた。頼政がきっと見上げたところ、雲の中に怪しい物の姿があった。これを射損じるものならば、この世にいられまいと思った。そうでありながらも矢を取ってつがえ、「南無八幡大菩薩」と心の内で祈念して弓を十分に引き絞ってひょうと射た。手ごたえがしてはたと当たる。「うまくやったぞ、おう」と矢さけび(矢の当たったときに射手があげる歓声)をした。井の早太がつっと寄り、落ちたところを捕って押さえて続けざまに九つの刀で刺した。その時上下手々に火を灯してこれをご覧になったところ、頭は猿、体は狸、尾は蛇(くちなわ)、手足は虎の姿だった。鳴く声が鵼(ぬえ)に似ていた。恐ろしいと言っても言い尽くせない。帝は感じ入るあまりに、獅子王という御刀を下された。宇治の左大臣殿(藤原頼長)がこれを取り次いで、頼政にお与えになろうとして御前の階段をおよそ半分ほど降りたところに、頃は卯月(陰暦四月)十日あまりの事なので、雲のうえに郭公(カッコウ)が二声三声声をたてて通った。その時左大臣殿は、

 ほととぎす名をも雲井にあぐるかな

 とおっしゃったので、頼政は右の膝をついて、左の袖を広げ、月を少し横目で見ながら

 弓はり月のいるにまかせて

と詠んで、御剣を賜って、退出した。「弓矢をとって並びなきのみならず、歌道も優れている」と君も臣もお感じになった。さて、かの変化の物をうつほ舟(中を空洞にした丸木舟)に入れて流されたと聞こえた。

 さる応保の頃、二条院ご在位の時、鵼(ぬえ)という怪鳥が宮中に鳴いて、しばしば天皇のお心を悩ますことがあった。先例をもって、頼政を召された。頃は五月(さつき)二十日あまりのまだ日が暮れてから間もない時のことで、鵼はただ一声で訪れて二声とも鳴かなかった。狙おうにもどこにいるのか分からない闇ではあり、姿形も見えないので、矢の狙いどころをどことも定め難かった。頼政は仮に先ず大きな鏑の矢をとってつがえ、鵼の声のした内裏の上へと射上げた。鵼は鏑の音に驚いて、虚空にしばらくヒヒと声をたてて鳴いた。二の矢に鏑の小さな矢をとってつがえ、ひいふっと射きって、鵼と鏑を並べて前に落とした。宮中はざわざわと音を立て合い、感じ入ることは一通りでなく、御衣を被せてお与えになったところ、その時は大炊御門(おほひのみかど)(藤原公能)の右大臣公能(きんよし)公がこれを取り次いで頼政に被せたといって「昔の養由(養由基:射術の名人)は雲の外の雁を射た。今の頼政は雨の中で鵼を射た」と感じ入った。

 五月(さつき)闇名をあらはせるこよひかな

とおっしゃったので、頼政は

 たそかれ時も過ぎぬと思ふに

と返歌して、御衣を肩にかけて退出した。その後、伊豆の国を賜り、子息の仲綱を受領(国司)にして我が身は三位に上がって、丹波の五ケ庄(五ケ荘)、若狭の東宮河(とうみやがは)を治め、そうしているべきだった人の、由無い謀反を行って、(高倉)宮をも失って、我が身も滅んだことはどうしようもない人だ。

 ……頼政の伝説が記されている段である。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎という怪物を退治したエピソードと、鵼という怪鳥を退治したことが語られている。また、武人というだけでなく歌人としても優れていたことが返歌に表されている。冒頭の記述にあるように実際の頼政は中々出世できず昇殿できない日々を送っていたようだ。保元の乱で先陣を切っても、また、平治の乱でも平家方についたのにさしたる恩賞がなかったことが記されている。七十歳を過ぎて平家に反抗、自刃したことも記されている。小学館・少年少女世界の名作文学に平家物語も収録されているのだけど、鵺退治で活躍した頼政が年老いてから平家に反抗したことを記憶している。頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎というぬえの画が描かれた図鑑も持っていた。

◆神祇ではない

 校訂石見神楽台本の「頼政」の注に

 原據は平家物語、あるひは源平盛衰記で、源三位頼政のぬえ退治の伝説であるが、これは神祇とは直接関係のない神楽である。この点に異色がある。頼政が弓の名人であつたから、その背景に弓八幡の信仰が宿つてゐる、といへばいへよう。詞章も十分整ったものでなく、素人くさい感じであり、未だ成長途上にあるものゝごとくである。(141P)

とある。神祇ではないということは言わば神話でも縁起でもないというところだろうか。神楽といえば神話劇なのであるが、頼政ではそれを離れて怪物退治を鑑賞する演目となっている。頼政は校訂石見神楽台本に記されているから明治以前からあった演目と思われるが、やがて神話でも縁起でもない娯楽性の強い鬼退治の演目が増えてくる。特に源頼光にまつわる伝説群がそうである。広島県の芸北神楽の新舞は戦後の創作神楽であるが、GHQの統制を逃れるためもあって、なお一層その傾向が強いのである。

◆動画

 YouTubeで亀山社中の「頼政」を観る。頼政と猪早太が退場すると、ぬえの手下の猿たちがぞろぞろと登場する。チャリと思しき農夫が登場して猿たちと絡む。猿たちは観客席に乱入して大騒ぎする。子供たちに大うけしている。それから再び頼政と猪早太が登場して猿が退場、ぬえが登場する。ぬえが退治されて頼政は宝剣を賜り喜びの舞で締めくくりとなる。猿たちの乱入は校訂石見神楽台本には記されていないから、後に付け加えられた演出だろうか。

◆参考文献

・「完訳 日本の古典 43 平家物語 二」(市古貞次/校注・訳, 小学館, 1984)pp.79-85, 258-261
・「校訂石見神楽台本」(篠原實/編, 1982)pp.139-141

記事を転載 →「広小路

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2018年12月 8日 (土)

鷲宮神社の神楽を見学.2018.12

初酉の日(12月7日)、鷲宮神社で催された神楽を見物に行く。大西茶屋が開いていたので立ち寄っておけばよかった。

・天照国照太祝詞神詠之段
・天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
・天神地祇感応納受之段
・五穀最上国家経営之段
・祓除清浄杓大麻之段
・端神楽
・磐戸照開諸神大喜之段
・浦安四方之国固之段

天照国照太祝詞神詠之段
天照国照太祝詞神詠之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天心一貫本末神楽歌催馬楽之段
天神地祇感応納受之段
天神地祇感応納受之段
五穀最上国家経営之段
五穀最上国家経営之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
祓除清浄杓大麻之段
磐戸照開諸神大喜之段
磐戸照開諸神大喜之段
浦安四方之国固之段
浦安四方之国固之段
大西茶屋
大西茶屋

巫女さんは全員で9人いて、出番を割り振るのが大変だそうである。そういう意味で「祓除清浄杓大麻之段」と「磐戸照開諸神大喜之段」は毎回上演されている。

他、平成19年にスウェーデン国王王妃夫妻と天皇皇后両陛下が川口行幸の際、土師一流催馬楽神楽を披露したことなどを話された。

なお、鷲宮神社の神楽にストーリー性はなく、「神のしぐさ」を表したものだそうである。

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2018年12月 7日 (金)

万博と大蛇

少し前の話だが、2025年の大阪万博が正式に決定した。前の大阪万博のとき、僕はまだ赤ん坊で、母が兄姉四人を連れて万博を観にいった。僕は父と家で留守番だったが、「びぃびぃやんに行く!」と父を困らせたらしい。近所の魚屋さんに母がいると思ったのだろう。

俵木悟『八頭の大蛇が辿ってきた道―石見神楽「大蛇」の大阪万博出演とその影響―』という論文が「石見神楽の創造性に関する研究」に収録されている。大阪万博で地方の郷土芸能が紹介されて、島根県からは石見神楽が出展したのだが(元々はホーランエンヤを予定だったが諸事情で変更になったらしい)、そこで舞われた八頭の大蛇が登場する「大蛇」が非常にインパクトを残したらしい。他所の伝統芸能で「オロチに喰われた」と述懐する人もいたとのことである。大阪万博をきっかけにして大蛇の上演機会は増え、何頭もの大蛇が舞うスペクタクル化していったらしい。

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2018年12月 5日 (水)

二年連続「大蛇」

「斉藤裕子でごじゃるよ~」という広島県の神楽を取り上げたブログがある。広島でこの人を知らない人はモグリだと言われるのだそうだ(知らなかった)。その記事を読んでいて、2017年に加計高校芸北分校・神楽部が高校総文(全国高等学校総合文化祭)で「大蛇」を舞って文化庁長官賞を受賞したという記事があった。これを読んで思ったのは、確か今年の総文で浜田商業高校が「大蛇」で挑んだという知らせをFacebookで読んだのだった。さすがに同じ演目で二年連続受賞は厳しいかもしれない。石見神楽と芸北神楽は親戚のようなものだから痛しかゆしというところだろう。

http://yuuko.xii.jp/blognplus/index.php?e=2138

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学生のうちに読んでおくべきだった――祖父江孝男「文化人類学入門」

祖父江孝男「文化人類学入門」(中公新書)を読み終える。これも学生のうちに読んでおけばよかったという印象。交差イトコ婚で父系と母系の違いが今一つしっくりこない。自分で図を描いてみる等しなければ駄目だろうか。他、言語学の分野が難しく思えた。わずかなページ数で記述するからというのもあるだろうけれど。

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2018年12月 2日 (日)

編集部の方針次第だが

月刊ヤングキングアワーズ最新号を買う。「カグラ舞う!」のキャラ紹介、神楽の次が住吉君になっている。住吉君は神楽のことが好きなのだろう。今後、昴と住吉君のどちらを選ぶかの展開もあるかもしれない。今回、岩戸の衣装を実際につける場面となっている。作者の健康問題もあるらしく、ゆったりしたペースで作品は進んでいる。「鬼踊れ!!」みたいに適当なところで打ち切りとならなければいいのだけど。実際にそういう事例を目の当たりにしたばかりなので心配になってくる。雑誌での掲載順はまん中ほどで、人気順ではないかもしれないけれど、ほどほどのポジションにはいるのだろう。

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大江山と伊吹山――酒呑童子

◆かつての創作演目

 「大江山」は他サイトの表現を借りると、オールスターキャストで人気の演目であるが、古い神楽台本には見当たらないらしい。校訂石見神楽台本にも「大江山」は収録されていない。佐々木順三「かぐら台本集」によると、

「大江山」
「この一曲は、一応藩政期と明治期に時代区分をしたとき、藩政時代に脚本ができて、舞われていたものか、明治期にはいってかっらのものかはっきりしていない。古典石見神楽台本中にも見当らない。おそらく明治期になってからできたものと思われる。美土里町内に明治五年に購入した記録のある酒呑童子面が本郷地区河内にあったことから、当時大江山の一曲がこの地方で舞われていたことはたしかであると思う。してみると、この曲は明治期の初期につくられた、当時の新作曲目であって、今日では中古典の曲目ということができると思う。」(中略)「また語法も他の曲目とちがって、きわめて通俗的で、とうてい国学者や神道学者によって書かれた台本とはいいがたいものがある。おそらく、宮かぐらが神職管理から開放された後に、地方の物好きな通俗文士によって作られたものであろう。」
佐々木順三「かぐら台本集」(56P)

とある。牛尾三千夫「神楽と神がかり」では、

大江山という曲目は、明治初年に石州矢上村の諏訪神社視祠官静靭夫の創作したもので、石州から安芸山県郡地方へと伝授されて、次第に山県郡地方から佐伯郡地方へ波及し、更に小瀬川を渡って釜ヶ原地方へ伝来したものと思われる。
牛尾三千夫「神楽と神がかり」489P
とある。

 芸北神楽の旧舞の「大江山」は、

 伊勢の国、天照皇大神宮の参誓託(さんぜがたく)という神が源頼光らが現れるのを待っている。
 源頼光は丹波国大江山に鬼人が多数住んで民を悩ますので、これを退治せよとの勅命を被った。四天王が出てくるまでしばし休息をとる。
 渡辺綱と坂田金時が登場する。参誓託が現れ、鎧、兜、剣、銚子を授ける。銚子は左口からつぐときは向こうの力が千人減り、右口からつぐときは、こちらの力が千人増すというものである。
 栗木又次郎(くりきのまたじろう)が現れ、頼光たちに大江山の案内をする。 都から囚われの身となった紅葉姫は洗濯している際に頼光たちに会い、鬼の岩屋まで案内する。
 酒の肴として案内された頼光たちだったが、自ら山伏修験者であると名乗り、酒呑童子たちに酒をつぐ。
 酒呑童子は越後の国の生まれで、山寺にこもったが、才を妬まれて額に鬼という文字を書かれた。その無念さで鬼人となった。高野山に登り、住処としようとしたが、弘法大師によって追い出された。そこで京都は比叡山に登り、住処としようとしたが、伝教大師によって追い出された。その後、京都の羅生門に立てこもったが、渡辺綱が茨木童子の左腕を切り落としたので、綱の乳母の姿となって左腕を取り戻した。その後、大江山にとび移って住処となしたと述べる。
 正体を現した頼光たちは童子たちと対決する。たばかられたと知った童子たちだったが、茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。頼光と四天王を相手にした酒呑童子だったが、遂に討ち取られる。

という粗筋となっている。

◆芸北神楽の新舞

 佐々木順三「かぐら台本集」によると芸北神楽の新舞でも大江山の演目はあり、羅生門~戻り橋~大江山を約一時間程度にコンパクトにまとめた形となっている。

「大江山三段がえし」
[第一段]
 源頼光に仕える四天王の一人、渡辺綱は近頃羅生門に夜な夜な怪物が現れ、庶民を悩ましているため、これを退治すべく羅生門にやって来た。茨木童子(いばらぎどうじ)と対決した綱は童子の左腕を切り落とす。
 酒呑童子が現れ、渡辺綱の乳母に化けて、茨木童子の左腕を取り戻す。
[第二段]
 橘中納言忠家に仕える下僕喜藤太(しもべとうだ)は忠家の娘である紅葉姫について清水観音に詣でていた。そこに茨木童子が現れて、姫をさらってしまう。気絶していた喜藤太は忠家にことの次第を報告する。
[第三段]
 第十六代清和天皇三世の孫、満仲の嫡男である源頼光は渡辺綱、坂田金時を連れて丹波国大江山に向かった。山伏修験者に変装した頼光らは石清水弓矢八幡に詣でる。
 石清水の神霊が現れ、神変鬼毒酒(しんぺんきどくのさけ)を頼光らに授ける。この酒は善人がこれを飲むときは千人力となり、悪人がこれを飲むときは、たちどころにその魔力を失うものである。
 囚われの紅葉姫は谷の小川で洗濯をしていた。そこに頼光らが現れる。紅葉姫は鬼の岩屋に頼光らを案内する。
 山伏が一夜の宿を求めていると紅葉姫が酒呑童子たちの前に連れていく。酒呑童子は頼光らが刀を帯びていることを訝しく思ったが、神変鬼毒酒を飲む。茨木童子、唐熊童子(からくまどうじ)もこれを飲む。酒を飲んだことを見届けた頼光は名を名乗り、たばかられたと知った童子たちと戦いになる。茨木童子は渡辺綱に、唐熊童子は坂田金時に討ち取られる。酒呑童子は頼光、綱、金時の三人を相手に立ち回るが、討ち取られる。

 茨木童子の腕を取り返すのが酒呑童子であることが特徴だろうか。

◆御伽草子「酒呑童子」

 御伽草子「酒呑童子」をつたないながら訳してみた。

 昔、わが国のことであるが、天地が開けて以来、神の国といいながら、また仏法が盛んで、人代の天皇陛下の始め(神武天皇)から延喜の帝(醍醐天皇)に至るまで王たるものの道が備わり、政治は滞りなく、民をも憐れむこと中国の堯舜(ぎょうしゅん)の御代でも、これにはどうして勝るだろう。しかし、世の中に不思議なことが出て来た。丹波の国の大江山には鬼神が住んで、日が暮れれば近国や他国の者まで、数知れず取っていく。都の内で取る人は、見目うるわしい十七、八歳の女房を頭として、これをも沢山取っていく。いずれももっとも哀れだったのは、院にお仕えする池田の中納言くにたかといって、院の覚えがめでたく、宝は内に満ち満ちて富貴の家でありますが、姫が一人いる。仏教でいう三十ニ相の容貌を授かり、美人の姫君を見聞きする人で恩愛をかけない者はいない。二人の親の寵愛することは一通りではなく、これ程に優しい姫君を、ある日の暮れのことであるが、行方を知らず消えうせた。父くにたかをはじめとして奥方の嘆くこと、乳母やお守り役や女房たち、その他居合わせた人までの上を下へと騒ぎとなった。中納言はあまりの悲しさに左近衛府の者を召して、「どんなにか、左近、よ謹んで聞け、この程、都に隠れない村岡のまさときという評判の高い博士がいると聞く。連れて参れ」とおっしゃった。「承知しました」と答えて博士を連れて居所へ参った。気の毒だ、父くにたかも奥方も、恥も人目もはばからず、博士に対面しつつ、「どんなにか、まさときよ謹んで聞け。それは人の世の常で、五人十人ある子でさえいずれもおろそかにしない世の常で、自分はただ一人の姫を昨夜の暮れに行方知らずとなり見失った。今年十三歳の寅年で、生まれてからこの方は縁から下へ降りるのさえ乳母やお守り役が付き添って、荒い風も避けていたのを、人を迷わせる変化の仕業ならば自分をも共に、どうして連れて行かなかったのかと袂を顔に押し当てて、「占い給え、博士」といって代価として一万疋を博士の前に積ませながら、「姫の行方を知るならば、多数の宝を与えよう。よくよく占うべし」。もとから博士は名人であって、一つの巻物を取り出し、例の体(てい)を見渡し、両手をはたと打ち、「姫君の行方は丹波の国大江山の鬼神の仕業でしょう。お命には別状ない。なお、自分の得てきた手段で延命をお祈りしましょう。この占いの結果現れたかたちをよく見ると、観音に誓って、姫が誕生したその願がいまだ成就しないお咎めと見えています。よく誓ってくだされば姫君はすぐに都に帰りましょう」と見通すように占って、博士は自分の家に帰った。

 中納言も奥方もお聞きになって、これは夢か現実かと嘆く有様は何に譬えようもない。中納言殿は涙が落ちる隙(ひま)よりも急いで内裏へ奏上したところ、帝がご覧になって、公卿と大臣が集まっていろいろ評議したが意見がまちまちだった。その中で関白殿が進み出て、「嵯峨天皇の御代の時、これに似た事があって、弘法大師が封じ込め、国土を去って差しさわりありません。そうでありながら、今ここに源頼光を召されて鬼神を討てとおっしゃれば、貞光(さだみつ)、季武(すえたけ)、綱(つな)、公時(きんとき)、保昌(ほうしょう)を始めとして、この人々には鬼神も恐れおののいて、怖れをなすと聴いております。この者たちに仰せつけられよ」と答えた。帝はなるほどとお思いになり、頼光を召された。頼光は勅命を承って、急ぎ参内したところ、帝がご覧になって「どうだ頼光、謹んで聞け。丹波の国の大江山には鬼神が住んで害をなす。自分の国だから、国の果てまでも、どこに鬼神が住むことができような。ましてや都に間近で民を悩ます理由はない。平らげよ」との命令であった。頼光は勅命を謹んで受け、あっぱれ、重大なご命令だな。鬼神は化物なので、討手が向かうと知ったなら、塵や木の葉と身を変じて、我ら凡夫の眼で見つけることは難しいだろう。そうではあるけれど、勅命にどうして背くことができようか。急いで我が家へ帰りつつ、我らの力では叶わないだろう、仏神に祈りをかけ、神の力を頼むべし。もっとも適当であると言って、頼光と保昌は石清水八幡宮に参詣し、綱と公時は住吉神社へ、貞光と李武は熊野三社に参って籠り、様々なことを神に祈願した。もとから仏法のさかんな神国で、神も聞き入れて、いずれもあらたかなご利益があり、喜びはこれに勝ることはあるまいと言って、皆、我が家へ帰りつつ、一つ所に集まって、いろいろ評議したが、皆の意見はまちまちだった。

 頼光がおっしゃることには、「この度は、人が多くては叶うまい。以上六人が山伏に姿を変えて、山路に迷った様子で、丹波の国の鬼が城へ尋ねて行き、住家だけでも知れたならば、どうにかして軍略を巡らして討つことは容易いであろう。おのおの笈(修験者が背負う箱)を拵えて、具足や甲(かぶと)を入れよ。お前たち、どうだ?」とおっしゃったので、「謹んで受け入れます」と答えたと申して、各々が笈を拵えた。先ず頼光の笈にはらんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧、同じ緋色の毛の五枚甲に、獅子王という兜を、ちすいという二尺一寸の剣を笈の中に入れなさった。保昌は紫縅(むらさきおどし)の腹巻に、同じ毛の甲を添えて岩切といって二尺ある小長刀(こなぎなた)、二重に金を延べ金にして、三束あまりにねじ切って笈の中に入れる。綱は、萌黄縅(もえぎおどし)の腹巻に同じ色の甲を添え、鬼切という太刀を笈の中に入れる。貞光と李武、公時も、思い思いの腹巻に同じ色の毛の甲を添え、いずれも劣らぬ剣を笈の中に入れる。竹筒(ささえ)と名づけて酒を持ち、火打ち石、竹製の付木、雨除けに使う油紙を笈の上に取り付けて、思い思いの打太刀、頭巾(ときん:小さいずきん)、法螺貝、金剛杖をつき連れて、日本国の神仏に深く誓いを立てつつ、都を出て、丹波の国へ急ぎなさる。この人々の様子はいかなる天魔波旬(てんまはじゅん:第六天の魔王)も怖れをなすだろうと思わせる。

 急いだので程なく丹波の国の広く知られた大江山に着いた。柴を刈る人に行き会って、頼光がおっしゃることには「どうだ、山人、この国の千丈嶽はどこか。鬼の岩屋を詳細に教え給え」と仰せになった。山人はこの由を謹んで聞き、「この峰をかなたへ超えつつ、また谷と峰のかなたこそ鬼の住家といって、人間が決して行くことはありません」と語った。頼光はお聞きになって「ならば、この峰を超えよ」といって谷よ峰よと分け上り、とある岩穴を見たところ、柴でできた庵(いおり)のその中に三人の翁がいるのを頼光がご覧になって「どのような方ですか。気がかりだ」とおっしゃった。翁が答えておっしゃる。「我々は人を迷わす化物ではない。一人は津の国の闕郡(かけのこおり)の者であり、一人は紀伊国の音無の里の者である。もう一人は京に近い山城の者であり、この山のかなたにある酒呑童子という鬼に妻子を取られ、無念さに、その仇を討たんため、この頃ここに来た。客僧たちをよく見ると、普通の人ではなく、勅命を受けて酒呑童子を滅ぼせとのお使いと見える。この三人の翁こそ、妻子を取られたので、ぜひ案内者となりましょう。笈を降ろし、ほっとして、疲れを休むべし。客僧たち」と言った。頼光はこの由をお聞きになって、「おっしゃる通り、我々は山道に踏み込んで迷い、くたびれているので、ならば、疲れを休めよう」と笈を降ろして置いて、竹筒(ささえ)の酒を取り出して、三人の人々に「お酒を召し上がれ」といって進上した。翁がおおしゃるには、「どのようにしても、忍び入るべし。あの鬼は常に酒を飲む。その名をなぞらえて酒呑童子と名づけた。酒を盛って酔って臥した者なので、前後を知らない。この三人の翁こそ、ここに不思議な酒を盛っている。その名を神便鬼毒酒(じんぺんきどくしゅ)といい、神の手段、鬼の毒酒と読む字なのだ。この酒を鬼が飲むならば自在に飛ぶ神通力も失せ、切っても突いても分かるまい。あなたたちがこの酒を飲めば、却って薬となる。そうしてこそ、後の世まで神便鬼毒酒と申すのだろう。どうしても不思議な徴(しるし)を見せるだろう」と言って星甲(ほしかぶと)を取り出し、「あなたはこれを着て鬼神の首をお切りなさい。何の差支えもないだろう」と件の酒を合い添えて、頼光に下された。六人の人々は、この由をご覧になって、さては三社の神々がここまでご出現なさるかと深く感じて涙を流し、肝に銘じつつ、ありがたいとも中々言葉にいい難い。その時、翁は岩屋を立ち出て、なおその上、道案内しましょう」と千丈嶽を登りつつ、暗い岩穴を十丈ばかりくぐり抜けて小さい谷川に出た。翁がおっしゃるには「この川上を登ってご覧なさい。十七八歳の上臈がいるだろう。会って詳しく問いなさい。鬼神を討つべきそのときは、なおその上、我らも助けよう。住吉、八幡、熊野の神がここまで現じて来る」といってかき消す様に失せた。

 六人の人々はこの次第を見て、三社の神のお帰りになった跡を伏し拝みつつ、教えに任せて川上を上って見ると、教えの様に、十七八歳の上臈が、血の付いたのを洗って、涙と共に居たが、頼光はこの次第をご覧になって、「どのような人か」とお問いになったところ、姫君はこの次第をお聞きになって「さようでございます。自分は都の者ですが、ある夜、鬼神につかまれて、ここまでやって来ましたが、恋しい二人の父母や乳母やお守り役に会いもせず、このように情けない姿をば、哀れにお思いになってください」と言ってさめざめとお泣きになった。涙の落ちる隙(ひま)よりも(涙を流しながら)「あら、みじめかな、ここは鬼の岩屋といって人間が来ることは決してありません。客僧たちはどうしてここまで来なさったのか。どのようにしてでも、自分を都へ帰してください」とおっしゃるのも耐えられず、たださめざめとお泣きになる。頼光がこの由をお聞きになって「あなたは都の誰の子か」とお問いになったところ、「そうでございます。自分は花園の中納言の一人娘でしたが、自分だけに限らず、十数人います。この度、池田の中納言くにたかの姫君も取られてここにいますが、かわいがってその後は身体から血を絞って酒と名づけて血を呑み、肴と名づけて肉体を削いで食べられる悲しみを側で見るのも哀れです。堀河の中納言の姫君も今朝血を絞られました。その帷子(かたびら)を自分が洗うのは悲しいことです。実に気のすすまないことです」といってさめざめとお泣きになったので、鬼にひけを取らない人々も実に道理であるといって、ともにむせび泣いた。頼光が「鬼を易々と平らげ、あなたたちをことごとく都へ帰すために、ここまで尋ね参ったのです。鬼の住家を詳しく語り給え」とおっしゃったので、姫君はこの次第をお聞きになって「これは夢か現実か。それなら語りましょう」と、「この川上を上ってご覧なさい。鉄の築地(土塀)を築き、鉄の門を建て、門口には鬼が集まって番をしているでしょう。どのようにしても門から内へ忍び入ってご覧なさい。瑠璃の宮殿が玉を垂れ瓦を並べています。四つの時期を学びつつ、鉄の御所と名づけて、鉄で屋形を建て、夜になれば、その内で自分たちを集めて可愛がって、足や手をさすらせて寝起きしていますが、牢屋の入口には従者たちに、ほしくま童子、くま童子、とらくま童子、かね童子、四天王と名づけて番をさせて置いています。彼ら四人の力の程は、どれほどと例えることもできないと聞きます。酒呑童子のその姿は、色は薄赤く、背は高く、髪を結わないで乱れたままで、昼の間は人だけれども、夜にもなれば恐ろしい、その丈は一丈あまりで、喩えようもない。あの鬼は常に酒を飲んでいます。酔って臥していれば、我が身の失せる(殺される)のも分からないでしょう。どのようにしても忍び入って、酒呑童子に酒を盛り、酔って臥したら、思いのままに討ち給え。鬼神は天命が尽き果てて、遂には討たれるでしょう。どのようにでも工夫なさいませ、客僧たち」とおっしゃる。

 さて、六人の人々は姫君の教えのままに川上を上ったところ、すぐに鉄の門に着いた。番の鬼どもはこれを見て、「これは何者か、珍しい。この頃人を喰っていないので、喰いたいと思っていたちょうどその時に愚か者は飛んで火に入る夏の虫。今こそ思い知った。さあ、引き裂いて食おう」といって我も我もと勇んだ。その中で、鬼の一人が言うには「慌てて事を仕損ずるな。このように珍しい肴を私にするのは叶うまい。主君は断り、御意次第で引き裂いて食おう」と言った。実に尤もといって、それよりも奥を指して参り、この次第をこのように言ったので、酒呑童子はこの次第を聞くとすぐ「これは不思議な次第かな。何にせよ対面すべし。こちらへ招け」と言ったので、六人の人々を縁側の上に招いた。その後で、生臭い風が吹いて、雷と稲妻がしきりに起きて、前後を忘れるその中に、色薄赤く、髪は結わずに乱れたままで、大格子(おおごうし)の織物に紅色の袴を着て、鉄杖を突き、辺りを睨んで立ったその姿は身の毛もよだつばかりである。童子がいうには「自分が住む山は普通と違い岩石が峨々(がが)としてそびえ立ち、谷が深く道もない。天をかける翼、地を走る獣まで道が無いので来ることもない。ましてや各々がたは人として天を駈けて来たのかね。語れ、聞こうではないか」頼光はお聞きになって「我らの修行の習慣で、役の行者(えんのぎょうじゃ)という人は、道なき道を踏み分けて、五鬼(後鬼)、前鬼、悪鬼といって鬼神がいるのに行き会って呪文を授け餌食を与えて、今に絶えないよう年々に餌食を与えて憐れんでいた。この客僧も流れを汲む。生まれた本国は出羽の羽黒の者だが、大峰山に大晦日の夜から元日の朝まで籠り、しだいに春にもなったので、都見物のために、昨夜、夜になって出立したが、山陰道より道に迷い、道があるように心得てここまで来たのです。童子のお目にかかること、ひとえに役の行者のお引き合わせ、何よりも嬉しくございます。一本の木の陰に宿り、同じ川の水を汲むことも、皆これ他生の縁と聞く。お宿を少し貸してください。お酒を持たせているので、恐れながら童子へもお酒を一献差し上げよう。我らもここでお酒をいただき、夜通し酒盛りしましょう」とおっしゃった。

 童子はこの次第を聞くとすぐに、それでは差し支えない人かと、縁側より上へ呼び上げて、尚も本心を知るために、童子が「持参のお酒があると聞く。我らもまた、客僧たちにお酒を一献差し上げよう。それそれ」とおっしゃったので、「謹んで受けましょう」と申して、酒と名づけて血を絞り、銚子に入れて盃を添え、童子の前に置いた。童子は盃を取り上げて頼光に差し出した。頼光は盃を取り上げて、これをさらりと飲み干した。酒呑童子がこれを見て「その盃を次へ」と言う。「謹んで受けましょう」と綱に差す。綱も盃を一つ受け、さらりと飲み干した。童子が「肴は無いか」と言ったので、「承る」と申して、今切ったと思しい腕(かいな)と股(もも)を板に据え、童子が台に置いた。童子はこの次第を見るとすぐ、「それを料理せよ」といい、手下が「承知した」とて立つところを頼光はご覧になって「自分が料理しましょう」と腰の脇差をするりと抜き、肉のかたまりを四、五寸押し切って、舌鼓を打った。綱はこの次第を見るとすぐに、「お志の有難さを自分もいただきましょう」と、これも四、五寸押し切って、うまそうに食われる。童子はこの次第を見るとすぐに「客僧たちは、いかなる山に住み慣れて、このように珍しい酒肴をいただくのは不思議だ」。頼光はお聞きになって「ご不信はもっともです。我らが修行の習慣で、慈悲で給わるものがあれば、たとえ心で望まなくても、嫌ということは決してありません。殊にこのような酒肴を喰う(空)心に浮かべたり謂われがあります。討つも討たれるも夢のようなはかない世の中。この身が即ち仏でなる故に、喰うに二つの味はない。我らもともに成仏するのです。あら、ありがたいことだ」と礼をしたので、鬼神は正道に外れたことをしないとかいうが、童子も却って頼光に礼拝するのがうれしいことである。童子が「意にそまない酒肴を差し上げるのは悲しいことだ。他の客僧へは無益なり」とおっしゃって、安心したと見えた。その時、頼光は座席を立ち、件の酒を取り出し、「これはまた都からの持参の酒なので、恐れながら童子へも一献差し上げましょう。お試しのために」と言って、頼光は一献さらりと飲み干し、酒呑童子に差し上げる。童子は盃を受け取り、これもさらりと飲み干した。実に神の方便は有難いことだ。不思議の酒なので、その味は甘露の様で、心も言葉も言いようが無い。童子は一通りではなく喜んで「わが最愛の女がいる。呼び出して飲ませよう」と言って、くにたかの姫君と花園の姫君を呼び出して座敷に置く。頼光はこの次第をご覧になって、「これはまた、都からの上臈たちにも差し上げましょう」とお酌に立った。

 童子はあまりの嬉しさに酔ってうっとりして「自分の過去を語って聞かせよう。生国は越後の者で、山寺育ちの稚児だったが、法師に妬みがあったため、数多くの法師を刺し殺し、その夜に比叡山に着き、自分が住む山だと思ったところ、伝教という法師が、仏たちを語って「自分の入り立つ杣(そま)山」と言って追い出す。力及ばず山を出て、また、この峰(大江山)に住んだところ、弘法大師という馬鹿者が法力で閉じ込めて追い出したので、力の及ばないところに、今はそのような法師もいない。弘法大師は高野山で亡くなった。今またここに立ち帰り、何の差支えもない。都からも我が欲しい上臈たちを呼びよせて、思いのままに増し使っている。座敷の様子をご覧になれ。瑠璃の宮殿は玉を垂れ、瓦を並べて置き、様々な木や草の前に、春かと思えば夏もあり、秋かと思えば冬もある。このような座敷のその内に女房たちを集めて置き、足や手をさすられて起きたり臥したりしているが、いかなる諸天王の身であろうとも、これにはどうして勝ろうか。そうでありながら、気に掛けるのは、都に隠れもない頼光といって荒々しい強者である。力は日本で並ぶものがない。また、頼光の家来に、貞光、李武、公時、綱、保昌、いずれも学問と武芸に秀でた強者である。これら六人の者どもこそ、気にかかるのだ。それをどうしてと言うと、自分が召し使う茨木童子という鬼を、都へ使いに上らせたとき、七条の堀河で、あの綱と斬り合った。茨木童子はすぐに用心して女の姿に形を変え、綱の辺りに立ち寄って髻(もとどり)むんずと取って、掴んで来ようとしたところを、綱はこの次第を見るとすぐ三尺五寸するりと抜き、茨木が片腕をあざやかに打ち落とした。やっと軍略を巡らせて腕を取返し、今は差し支えない。あいつらが面倒なので、自分は都へ行くこともない」と言った。

 その後、酒呑童子は頼光のお姿を目も放さず眺めて「なんとまあ、不思議な人々だ。そなたの眼をよく見ると頼光である。さて、その次は、茨木の腕(かいな)を切った綱である。残る四人の人々は、貞光、李武、公時や保昌と思う。自分が見る目は違えないだろう。いとわしい。立ちなさい。ここに居合わせた鬼どもよ、心を許して怪我をするな。我らも退出するぞと」と顔色を変えて騒ぎ立てた。頼光はこの次第をご覧になって、ここでいい訳仕損ずるならば重大事とお思いになり、元から文武二道の人なので、少しも騒がぬ態度で、からからと笑い「なんとまあ、嬉しいことをおっしゃるかな。日本一の強者に山伏どもが似ているとは。その頼光も李武も名前を聞くのも初めてで、まして見た事もない。ただ今仰せをよく聞くと悪逆で道理に外れた人と聞く。ああ、もっての他だ。意外だ。そのような人には似るのも嫌だ。我らの修行の習慣として、ものの命を助けるため、山路を家とすることも、飢えた虎や狼に身を与え、全ての生物(情、心のあるもの)、情、心のないものを救うためです。古の釈迦牟尼如来の時代はしうふうと名づけて諸国を修行に出なさった。ある時、山路を通ったところ、深い谷の底から、何者かは知らないけれど、「諸行無情」と唱えたところ、谷に下りてご覧になったところ、九足八面(くそくはちめん)の鬼神といって頭は八つ足九本のさも恐ろしいは鬼神がいた。しうふう、彼に近づいて「ただ今唱えた半偈(はんげ)の呪文の残りを自分に授けよ」と言う。鬼神答えて言うには、「授けることは容易いけれど、飢えて力がない。人の身だけでも食するならば唱えよう」と言った。しうふう、この次第をお聞きになって、「それこそ容易いことである。残りの呪文を唱えるならば、お前の餌食に自分がなろう」とおっしゃったので、鬼神は一通りでなく喜んで残った呪文を唱えた。「是生滅法(ぜしょうめっぽう)、生滅滅己(しょうめつめつい)、寂滅為楽(じゃくめついらく)と唱えたところ、しうふう、これを授かって、あら有難いと礼をしつつ鬼神の口に入ったところ、ただちに菩薩となってあらわれ、鬼神は即ち毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、しうふうは釈迦仏(しゃかぶつ)である。またある時は、なんとまあ、鳩の秤に身を掛けたのも、みなこれ生けるものを助けるため、ここに居合わせた山伏も同じ修行をしているので、呪文を一つ授けて、早く命を召し上がるべきである。露や塵ほども惜しくない」と、さもありそうにおっしゃったので、童子はこれに謀られ、顔色を直しつつ(機嫌を直して)「おっしゃることを聞けば有難い、あやつらがここまでよもや来るまいとは思うけれども、常に心にかかる故、酔っても本性を忘れない」と言って「ご持参の酒に酔い、ただの繰り言とお思いなさい。赤いのは酒の所為だぞ。鬼とお思いになられるな。自分もそなたのお姿ちょっと見には恐ろしいけれど、慣れてしまえば可愛い山伏だ」と歌い奏でて、心も打ち解け、差し受け差し受け飲む程に、これぞ神便鬼毒の酒なので、五臓六腑に染みわたり、心も姿も内乱れ、「どうだ、居合わせた鬼どもよ、このように珍しいお酒を一献、お前たちに下して、客僧たちを慰めろ。ひとさし舞え」とおっしゃった。「謹んで聞きました」と立ったところ、頼光がこの次第をご覧になって、「まずお酒を一献さしあげましょう」と言って、並びいた鬼どもに件の酒を盛ったので、五臓六腑に染みわたり前後も全く弁えない。そうであるけれども、その中で、いくしま童子はさっと立ち上がって舞った。「都よりどのような人が迷い来て、酒や肴の飾り物となる、面白いことだ」と繰り返して二、三遍は楽曲を奏でた。この心をよく聞けば、ここにいた山伏どもを酒や肴になすべき歌の心と思えた。やがて、頼光はお酌にお立ちになった。童子が受けた盃を、綱はこの次第をみるとすぐ、さっと立って舞った。「年を経て鬼の岩屋に春が木て、風を誘って花を散らそう、面白いことだ」と、これもまた繰り返し、二、三遍舞った。この歌の気持ちは、ここに居合わせた鬼たちを嵐に花の散るごとくになすべしとの歌の心を、鬼は少しも聞き知らず。あら、面白いかなと感じつつ、次第次第に酔って放心した。童子は「どうだ、居合わせた鬼どもよ、客僧たちをよきにお慰めするべし。自分の代理には二人の姫を残しておく。そこでしばらくお休みあれ。明日また対面するべし」といって童子は奥に入った。残る鬼どもは童子が帰ったのを見て、ここあそこと臥した様子はさながら死人のようであった。

 頼光はこの次第をご覧になって、二人の姫君を近づけて「あなたたちは都では誰の姫にていらっしゃるか」「そうでございます。自分は池田の中納言くにたかの一人娘ですが、近頃取られて、恋しい二人の父母や乳母やお守り役にも会えずに、このようにみじめで情けない姿を哀れとお思いになってください」と言ってさめざめと泣く。「もう一人の姫君は」と問うと、「そうでございます。自分は吉田の宰相の末娘ですが、却って命が消えないで恨めしいことです」とくどくどしく述べ、二人の姫は諸共に声も惜しまず消え入るように泣きなさる。頼光、この次第をお聞きになて「もっともなことである。そうではあるけれど、鬼を今夜退治して、そなたたちを都へお供しつつ、恋しい二人の父母にお目にかけるべし。鬼の寝床まで我々を導き給え」と言ったので、姫君たちはお聞きになって「これは夢か現実か」と「そういう訳ならば、鬼の寝床を我々が手落ちなく案内いたしましょう。ご用意を」と言ったので、頼光は一通りでなくお思いになり、「そういう訳なので、各々がた、具足をつけなさい」といって、まず傍らに隠れる。頼光の出で立ちは、らんでん鎖といって、緋縅(ひおどし)の鎧を着け、三社の神の賜った星甲(かぶと)に、同じ毛の獅子王の甲を押し重ねて着用しつつ、ちすいという剣を持ち、南無八幡大菩薩と心の内に祈念しつつ進み出た。残る五人の人々も思い思いの鎧を着て、いずれも劣らぬ剣を持ち、女房たちを先に立て、心静かに忍び行く。広い座敷を過ぎて、石橋を打って渡り、内の様子を見たところ、みな酒に酔い臥して、誰かと咎める鬼もいない。乗り越え乗り越えて見たところ、広い座敷のその中に鉄で屋根を建て、同じ扉に鉄の太い閂(かんぬき)を差立てて、凡夫の力で却って内へ入れる様子はない。牢屋の隙間から見たところ、四方にともし火を高く立て、鉄の杖と逆鉾を立てて並べ、童子の姿を見たところ、宵の姿と変わり果てて、その丈は二丈あまりで、髪は赤く逆立ち、髪の間から角が生えて、髭も眉毛も生い茂り、足と手は熊の様で、四方へ足と手を投げて、臥した姿を見たときは、身の毛もよだつばかりである。有難いことに、三社の神が現れ、六人の者たちに「よくここまで来た。そうでありながら、心は安らかに思うべし。鬼の足と手を我々が鎖で繋ぎながら、四方の柱に結びつけて、動く様子はあるまいぞ。頼光は首を斬れ。残る五人の者どもは、後や先に立ち回ってずたずたに斬り捨てよ。差支えはあるまい」とおっしゃって、門の扉を開き、かき消すように失せた。また三社の神たちがここまで現れたかと感じ入って涙を流し肝に銘じつつ、教えに任せて、頼光は頭の方に立ち回って、ちすいをするりと抜いて「南無三社の神々、力を合わせ給え」と三度礼をして切ったところ、鬼神は眼を見開いて「情けないことよ。客僧たち、偽りは無いと聞いたのに、鬼に道に外れた行ないは無いものを」と起き上がろうとしたが、足と手は鎖につながれて、起き上がる様子がないので、おおという声を上げて叫ぶ声は雷電、雷(いかづち)か、天地も響くばかりであった。

 元から強者どもは、刀は鋭利にずんずん切ったので、首は天に舞い上がる。頼光を目にかけて、ただ一噛みでと狙ったが、星甲(かぶと)に恐れをなし、その身体に差支えはなかった。足と手、胴まで切り、大庭を指して出る。多くの鬼のその中に茨木童子と名乗って「主を討つ奴らに腕前の程を見せよう」といってわき目もふらないで襲い掛かる。綱は、この次第を見るとすぐさま、「腕前の程は知っている。目にもの見せてくれよう」と激しく追いまくり、しばし戦ったけれど、決して勝負は見えなかった。並んでむずと組打ちし、上を下へと乱れる。綱の力は三百人力、茨木童子は力は強かったのだろう、綱を取って押し伏せる。頼光、この次第をご覧になって、走りかかって茨木童子の細い首を宙に打ち落とせば、いくしま童子、かね童子、その他門を固めた十人あまりの鬼どもがこの次第を見るとすぐさま、今は酒呑童子もいらっしゃらず、どこを住家となすべきか、鬼の岩屋も崩れよと大声でわめきながら掛かってくる。六人の人々は、この次第を見て「神妙な奴らだ。腕前の程を見せよう」と言って習った武術を披露して、あちらこちらへと追い詰めて、数多くの鬼どもを悉く打ち負かし、しばらく息をついだ。頼光がおっしゃるには「どうした女房たち、早く出てき給え。今は差支えもあるまい」とおっしゃったので、この声を聞くとすぐさま、取られた女房たちは、牢屋の内から転んで落ち、頼光を目にして「これは夢か現か。自分も助けてください」と我も我もと手を合わせて嘆き悲しむ様子を、ものに譬えれば、罪深い罪人が獄卒の手に渡り、無限地獄に落とされたのを地蔵菩薩の錫杖で「をんかあかみせんさいそわか」と救われたのもかくやと思い知らされた。

 その時、六人の人々は姫君を先に立て、奥の様子を見たところ、宮殿楼閣玉を垂れ、四方の四季を学びつつ、瓦を並べ立てたのは心も言葉にも及ばない(表せない)。また側をを見たところ、死んだ骨や白骨、まだ死んでいない生身の人、あるいは人を鮨にして目も当てられないその中に十七八歳の上臈の片腕を落とされ股を削がれてはいるが、未だに命は消えやらず、泣き悲しんでいらっしゃるのを、頼光がこの次第をご覧になって、「あの姫君は都では誰の娘でいらっしゃるか」と言った。姫君たちはお聞きになって、「左様でございます。あれこそは堀河の中納言の姫君でいらっしゃいます」といって、急いで側に走り寄って、「どうしました、姫君、いたわしいことだ。自分たちは、客僧たちが鬼をことごとく打ち負かして、都へ連れ帰りますが、あなた一人を残しておき帰るべきか。悲しいかな、こうも恐ろしい地獄にも、そなたに気持ちがひかれて、後に心に残りましょう」と髪をかき撫でて「何事であっても、お心にお思いになさることがあれば、我々に語ってください。都へ上ったならば、父母によいように届けて参りましょう。姫君どうです?」と言ったので、この次第をお聞きになり、「うらやましい人々かな、このように情けない露と消える身で、早くも先に消えもせず、このような姿を人々にお見せした恥ずかしさよ。都に上ってそれから父母にこの事を知らせてくだされば、我が身のことを却って嘆くであろう悲しさよ。形見を残すのは、物思いの種となるが、姫の形見とおっしゃって、私の黒髪を切り給え。また、この小袖は自分が最期の時まで着ていた小袖とおっしゃって、その黒髪を押し包み、母上様へ参らせて後世の菩提と弔ってくださいと、手落ちなく届けてください。どうした、あの客僧たち、帰るその前に自分にとどめを刺してください」といって消え入るように泣きなさる。頼光はこの次第をお聞きになり、「実に尤もである。そうではあるけれど、都に上ったら、父母にこのことをよく案内しつつ、明日になれば迎えの人を下しましょう。お暇申して、さらば」といって、物憂い洞を立ち出て、谷峰を過ぎて急がせたところ、程なく大江山の麓にあるしもむらの鄕村につく。頼光がおっしゃるには「どうだ、この所の者ども、急いで伝馬を広く告げて女房たちを都へ送るべし。どうだどうだ」とおっしゃったので「謹んで聞きました」と申した時、その頃、丹波の国司を大宮の大臣殿というが、この次第をお聞きになって、なんとまあ目出度い次第だと言って、急いで酒や食べ物でもてなした。その間に、馬や乗り物で人々を都へ送った。

 都には、このことを聞くとすぐ、頼光の上洛を見物しようとして一面にざわざわと騒ぎながら控えていた。その中に姫を取られた池田の中納言夫婦がおいでになって、いつまでも会えるところまでと迎えに出したが、頼光を見つけながら、「それ、ここへ」とおっしゃったので、すぐに姫君もご覧になって「母上様」と泣きなさる。母上、この次第をご覧になって、するすると走り寄って、姫君に取りついて、これは夢か現実かと消え入る様に泣いたので、中納言もお聞きになって、一度分かれたわが姫に再び会ったのがうれしいと急いで屋敷にお帰りになった。頼光は参内し、帝がご覧になって感じ入ることは言いようもなくご褒美は限りなかった。それよりも国土安全長久に治まる御代となった。あの頼光のお手柄、先例の少ない武士だと言って天皇から下は万民に至るまで、心に感じない者はいなかったのである。


 ……読み終わって思ったのは、可哀想なのは堀河の中納言の姫君である。片腕を落とされ、股の肉をそがれてしまっている。先の場面で頼光たちが食べた人肉はもしかしたら堀河の中納言の姫君のものではないだろうか。本記事で参照した小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」では堀河の中納言の姫君の生死は曖昧になっているが、別のバージョンでは死んでしまうとのこと。

 御伽草子では藤原保昌が頼光の四天王プラスアルファ的な扱いである。実際には頼光と保昌のツートップだが、いずれにせよ保昌の扱いは良くない。

「戻り橋」では決着のつかなかった渡辺綱と茨城童子であるが、「酒呑童子」では組打ち、綱が形勢不利になったところを頼光によって首を飛ばされている。

 神便鬼毒酒は神には助けとなり、鬼には毒になる両義性のある酒だけれども、別の版ではただの毒酒としているものもあるとのこと。

 本記事では小学館「御伽草子集」に収録された「酒呑童子」を参照した。佐竹昭広「酒呑童子異聞」では渋川版と呼んでいるけれども、評価が低い。何でも、肝心な箇所を端折っているらしいのだ。

 高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」では酒呑童子の伝説を中国の小説「補江総白猿伝(略称白猿伝)や「陳巡検梅海嶺失妻記」の影響が見られるとしている。

◆伊吹童子

 「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」に収録された「伊吹童子」をつたないながらも訳してみた。ここでは酒呑童子の父として弥三郎という人物が登場するのが特筆される。

 昔、近江の国に伊吹の弥三郎という由々しい(忌まわしい)人がいた。その父は弥太郎殿といって古くより代々この伊吹山の主であった。また、同じ国に大野木殿といって名高い人がいた。その人には最愛の姫君がいた。見目かたちが美しかったので、そこでこの姫君を迎えて弥三郎の妻と定めて比翼連理のごとき仲睦まじい語らいをなした。

 この弥三郎と申す人は見目かたちは清らかで力量や人品はいかついが、幼い時から酒を好んで多量に飲んでいた。歳をとるにつれて次第に多量に飲んでは、常に酒に酔い浸って心は狂乱して、むやみなことばかり言い散らして、また、恐ろしいことをする。ああ、自分の腹に飽きる程酒を飲みたいなあと幾たびも願い事をされるが、近い辺りは北陸道へ上り下りする道路なので、商人の持って通う酒をどうしても奪い取って飲んでいた。

 また、日ごろの肴には、猪や鹿、猿、兎、狸などの類をそのままに引き裂き引き裂いては食べていたので、毎日三つ四つの獣が殺されていたので、後に山林を狩り求めても鳥も獣もいなくなった。こんな有様なので民の家々で養って飼う馬、牛を奪い取っては食べていた。恐ろしい有様である。

 昔、出雲の国の簸川上(ひのかわかみ)という所に八岐大蛇という大蛇がいたが、この大蛇は毎日生贄として生きた人を喰っていた。また、酒を飲む事もおびただしい。何度も繰り返して醸した八塩折(やしおり)の酒を八つの酒槽(さかぶね:木製の容器)で飲んだところ、飲み酔って素戔嗚尊に殺された。その大蛇が変じてまた神となる。今の伊吹大明神がこれである。なので、この弥三郎は伊吹大明神の御山を司る(祭祀を行う)人なので、酒を好み、生き物を好むのかと多くの人が怖れをなして旅人も道を行き通わず、村里も荒れ果てた。

 そうしている間に大野木殿はこの次第をお聞きになり、大いに驚き、きっと人間ではないだろう、鬼の類であろう、彼がもし年を経たら神通力の出て来て人間を滅ぼし世の災いをなすだろう、どのようにしても弥三郎を殺そうとお思いになって、弥三郎を呼んだところ、世の日常的な有様でないことを恥じて参らなかった。ならばと大野木殿は饗応のための色々な酒や食事をこしらえて、伊吹殿へ立ち言った。弥三郎はすぐさま出会い対面して色々なめずらしいものを用意して様々にもてなした。

 そのとき、大野木殿が持参した酒を出した。弥三郎は大いに喜んで、日ごろ所望するものなので、差し受けて多量に飲んだところ、大野木殿の用意された酒は馬七頭に負わせた大量のものだったのを悉く飲みつくしたと聞こえた。

 そうも大上戸だったが、ともかくおびただしい事なので正気を失うほど飲んで酔い、足許か枕許かの判断もつかず、そのまま座敷に倒れ臥した。運のつきはひどく痛わしいことで、大野木殿は謀りおおせたと勇み喜びつつ、すぐさま弥三郎の臥した枕に立ち寄り、脇の下に刀を突きたてて、あちらへ通れと突き刺して、自分の館に帰った。

 姫君は親子の仲だけれども、このような事はゆめゆめ知らなかったので、弥三郎殿はいつも酒に酔って臥していると思って、衣を被せておいた。

 三日が過ぎたが、酒の酔いが醒めつつ起き上がって脇の下に刀の突きたててあったのを探って大いに驚き、「さては大野木にたばかられたか、悔しい」とって踊り上がっては躍り上がったが、急所を突かれたために心も消えぎえとなって、遂に亡くなってしまった。弥三郎殿が死んだ次第が聞こえたので、田舎の人々は安堵して在々所々も繁昌した。

 そういうことで姫君は弥三郎殿と分かれて嘆くことは限りない。これはひとえに大野木殿の仕業だろう、情けのない事だと恨んだけれども、やるかたがなく過ごす間に、そのうち懐妊の月日が満ちて、安らかにお産の紐を解いた(出産した)。ことに美しく気高い男子だったので、父の忘れ形見に見るべしと言って、喜んで大事に世話をして育てている間に、いつしか弥三郎によく似ていると人々が言い合った。

 大野木殿はこの次第をお聞きになって、「父の形見といって世話をするのは道理ではあるが、弥三郎によく似ているならばきっと悪行をなすだろう。大人になる前にどのようにでも殺してしまえ」と申して命じたたので、姫君はこの次第をお聞きになって、「大野木殿は自分の父ではあるけれども、思いやりがなくてむごい人でいらっしゃる。弥三郎殿を謀ったことさえ情けなく恨めしく、忘れる暇もなかったところに、昨日今日生まれ出て偶々親子で喜んで、日ごろの悲しさをも慰めようと思えば、重ねて憂き目を見せようとしてこのようにおっしゃるのか」と耐え難いこととして恨み嘆いたところ、親子夫婦の間の愛情は誰でもそうであろう」と哀れにお思いになりつつ、その後はまた命じる事もなかった。

 かくてこの稚児は月日が重なるままにいつしか成人した。父によく似て酒をよく飲んだので、皆、酒呑童子と申した。

 常に酒に酔って心を乱し、魂は猛々しく罪もない人にむごく当たり、野山を走り歩いて馬や牛をうち叩くなど、幼い身にかなわぬ悪行ばかり事としたので、辺りの者はこれを見て、「思った通り弥三郎殿の分身よ。今度こそ世の人間は絶えてしまうだろう」といった。

 大野木殿はこの次第をお聞きになり、姫君の方へ使いを立てて「なぜ申したことを用いない。すぐさま世の災いを引き出すだろう」と大いに責め諫めたので、「父のおっしゃることも無視できない。その上、辺りの者たちも怖れ悲しむので、わが手元に抱えておくことはよくないであろう」といって日吉(ひえ)の山の北の谷に捨てられた。その時童子は七歳であった。

 このように親しむべき人々にも憎まれ、付き従える民百姓にも疎まれて、どことも知れぬ深い谷に住んだので、虎や狼、狐に害されて露の命たちどころに消えるだろうと思ったところ、一向に衰える気色もなく悲しむ有様もない。日にちを経て月を渡ってたくましくなってゆくほどに日ごろの形とは変わって恐ろしく凄まじい体(てい)である。普段は木の実などを採って食するが、後には鳥類、獣を食すると聞こえた。

 その後、小比叡(をびえ)の峰に移ってしばらく住んだ。ここには二宮権現(比叡山の地主神)が天下っていて、悪鬼邪神をこらしめるので、またその峰をも逃げ出た。ことに二宮権現と申される神はこの日本国の地主神でいらっしゃる。昔、天照大神が天の岩戸を押し開き、天の瓊矛(とぼこ)をもって青海原をかき探ったとき、鉾に当たった物があるのを「何か」とお問いになったところ、「我はこれ日本の地主なり」と答えた国常立の尊でいらっしゃる。本地を言えば、東方浄瑠璃世界の主、薬師如来である。第九滅劫人寿(にんじゅ)二万歳の始めからここの主である」と釈尊に語らせた。

 比叡(ひえ)の山の東に続いて峨々(がが)として険しい峰がある。この所、よい住処であるといって岩屋などを作って住んでいた。神妙不可思議な力などをも得たと見えて、どこから召してきたのか、様々に恐ろしい眷属などを使っていた。さて、ここは金石(こんせき:八王子社の傍らの金大巌)といって清くけがれのない霊地なので天照大神の御子たちが天下って垂迹した。「魍魎(もうりょう)、鬼神は汚らわしい、出ていけ」と責めるために、その所を逃げ去った。八王子という所がこれである。

 酒呑童子はそれから大比叡(おほびえ)に移った。ここは昔、拘留孫仏(くるそんぶつ:過去七仏の第四仏)の時代、広々とした大海の上に、一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじゃうしつうぶっしゃう)、如来常住無有変易(にょらいじゃうじゅうむうへんやく)と唱える波の声があり、釈尊、この波のとどまる行く末を見たところ一葉(いちえふ)の葦の葉に凝り固まって島となる。波止土農(はしどの)という所がこれである。釈尊が「この所に仏法を広め結界の地(修行の妨げとなるものの出入りを禁じた地)となすべし」とおっしゃったところ、薬師如来は「我はこの山の王となって、後(ご)五百歳(仏滅後の五期のうち、第五の五百年)の仏法を守るべし」と契約して、東西へ分かれた。薬師如来は早く二宮権現と顕れて小比叡(をびゑ)の岳に天下ったところ、釈尊はまた大宮権現と顕れて、大和の国磯城郡(しきのこほり)に天下ったが、それからすぐに老翁の姿となって、この大比叡(びえ)に移った。

 酒呑童子は怖れをなし、すぐに大比叡を逃げ出て西坂(雲母坂)に移った。ここは要害の地である。深い谷を切り回して大木を並べ、大盤石をえぐり取って数百丈の岩屋を作り、居所を占めて数多の眷属を従え、四方を駈け歩いて民の財宝を奪い取り、山の様に積み上げ、野山を飛び回って鳥、獣を獲り蓄えて朝夕の食い物とした。恐ろしいとも言うは際限ない。

 ここにまた、近江の国滋賀郡(しがのこほり)の住人に三津(みつ)の百枝(ももえ:最澄の父)という人に男子が一人いた。利発で賢い童だったが、十二歳で出家してその名を最澄法師と号した。数年来学問修行したが、なおも奥深い微妙(みめう)の玉を磨こうとお思いになり、遂に唐に入唐して顕教と密教の両宗、奥深いところを極め、奥義を伝えて帰朝した。伝教大師と申すのはこれである。

 その頃、柏原(かしはばら)の帝、奈良の都を山城の国愛宕郡(おたぎのこほり)に移した。今の京、平安城、四方の神に相応じた吉兆の地がこれである。ときに大師、奏上しておっしゃることには、「帝都の鬼門(東北の方角)にあたって仏法の力によって国家の鎮定と守護を祈る道場を建立して国土を守り皇位を祈りましょう」と。帝は感嘆なさって、すぐさま大師と心を一つにして「伽藍を起こすべし」となった。大師はすぐに日吉(ひえ)の山によじ登り、どこが清浄の霊地かと見巡ったところ、山中に法華経を読む声が聞こえたので、そこに尋ねて行き見たところ、大地の底にこの経の声はあった。この地だろう、伽藍建立の地であるべしとお思いになって定めた。しかるに酒呑童子はこの次第を見て「ここに伽藍が出て結界を張った地となれば、我らはこの山に住む事は叶うまい。なのでどのようにしてでも妨害しよう」といって、元から通力を得ていたので、一夜の程に数十囲(ゐ)の杉の木となって、あの所に生え蔓延れた。数多の木こりどもがこれを切り倒そうとしたけれども、遂にその功はならなかった。ときに大師、十方を礼しておっしゃるには「阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)の仏たちよ、自分が立つ木こりに神仏の加護あれ」と詠じたので、この杉の木は朝日に霜の解ける様に消えぎえとなって失せてしまった。

 そうしてこそその地に伽藍を建てて根本中堂(一乗止観院)と号し、医王善逝(いわうぜんぜ:薬師如来の別号)の尊像を据えて崇め、天台の教法を移した。比叡山延暦寺は戒定恵(かいぢゃうゑ:身口所作を慎み、心を澄まし真理を悟る三種の修行)の三学を表して三塔(止観院、宝幢院、楞巌院)を建て、人はまた一念の中に三千の法界を観ずる儀を表して三千もの僧を置いた。その後、伝教大師、小比叡の岳に閑居して「波母(はも)山や小比叡の杉のひとり居(ゐ)は嵐も寒しとふ人もなし」と詠じたところ、虚空に日月星の三つの光が現れ、或いは釈迦、薬師、弥陀(みだ)の尊像と変じ、或いは一体となり、種々の奇瑞(めでたさの前兆である不思議な現象)を示したので、大師はこの有様をつくづく観て、もとより非一非三(天台所説の三諦[真理]がそれぞれの意味実体を持ちながら同時に円融相即して一体でもあるとされること)、中道実相(万有の実相は有でもなく空でもない、その中道であるということ)の妙躰(すぐれた姿)であるといって、この山の神を山王(日吉山王社の神)と崇めた。帝は大師と心を比べた故に比叡山と申す。寺をは延暦寺と号し、天台大乗(天台宗がすべての衆生を救済しようとする大乗の教えであること)の法流を末世に栄えさせ、天皇の位が長く久しいことをとこしえに祈った。まことに目出度い事である。

 ところで、酒呑童子は三世(過去・現在・未来)の諸仏に嫌われ、日吉山王の七社の権現に憎まれたので、遂にこの岩屋にも住む事が叶わず、それから丹波の国に逃げ行き、大江山という所に一つの岩窟を求め得た。その様子はことに厳めしく物凄い。山岳が峨々(がが)とそびえ立つので鳥も飛ぶことができない。谷深く巡り巡りて通うべき道もない難所であるので、巌をうがち石を畳んで石壁を成し石門を建てて、眷属の鬼どもを日夜警護に据え置いた。その奥に広々と岩屋を作って酒呑童子は相住んだ。諸方に飛び巡ってあらゆる珍しい宝を請い取り、美人貴女をたぶらかし来て夫人官女のように召し従え、栄華を誇り、快楽を極める装いは前代未聞の不思議である。世にこれを鬼が城ということである。

 ……酒呑童子伝説は大きく分けて大江山系統と滋賀の伊吹山系統に分かれるとのことであるが、伊吹童子は酒呑童子が伊吹山で生まれて大江山に移り住むまでの橋渡し的な作品となっている。また、伊吹大明神を八岐大蛇の転生とし、その大明神を斎祭る者を酒呑童子の父・弥三郎としているところが目につく。弥三郎に関しては、

 よく知られているように、同話は歴とした史実を背景にしている。すなわち、鎌倉初め、醍醐寺領近江国坂田郡柏原荘の地頭柏原弥三郎が、かずかずの非法を働いたため、近江守護佐々木定綱に宣旨(せんじ)を下し、討伐を命じた。弥三郎はいずこともなく姿をくらまし、半年後の建仁元年(一二〇一)五月になって、ようやく定綱の四男信綱に誅罰された(『明月記』正治二年一一月二六日条、『吾妻鏡』正治二年一一月一日、一二月二七日、建仁元年五月一七日条)。
高橋昌明「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」196P

とのことである。

◆謡曲「大江山」

 「謡曲大観」第1巻に収録された「大江山」を読んだが、謡曲に登場する酒呑童子はあまり悪く思えないのである。川に血が流れている描写はあるし、「鬼神に横道なきものを」というセリフに対し「あら空言や」と嘘を言うなと返してはあるのだが。

◆動画

 YouTubeで後野神楽社中の大江山を観る。最後、首を飛ばされた酒呑童子が、天蓋の要領で首だけ宙に回す演出があった。これは現代的な演出だろうか。中川戸神楽団の「板蓋宮」が初出らしい。同じような演出で大きな蜘蛛も登場していたが、これは「土蜘蛛」への伏線だろうか。本当に山伏か酒呑童子に疑われた頼光が呪文を唱え、鬼たちが苦しみはじめ、それで確かに山伏だという展開となっている。これは元の御伽草子より良いアイデアかもしれない。

◆余談

 「伊吹童子」は茨城童子と勘違いしてコピーしたのだけれど、酒呑童子の生い立ちを語るストーリーだったので結果的には良かった。

 伊吹山には実際に登ったことがある。山腹に駐車場があって車で上れて、そこからは歩くのだけど、途中に花畑があって綺麗だった(立ち入り禁止)。

◆参考文献

・「御伽草子集」(大島建彦/校注・訳, 小学館, 1974)PP.444-474
・「室町物語集 上 新日本古典文学大系54」(市古貞次, 秋谷治, 沢井耐三, 田嶋一夫, 徳田和夫/校注, 岩波書店, 1989)pp.185-213
・「謡曲大観 第1巻」(佐成謙太郎, 明治書院, 1963)pp.553-571
・「神楽と神がかり」(牛尾三千夫, 名著出版, 1985)
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「考訂 芸北神楽台本Ⅱ 旧舞の里山県郡西部編」(佐々木浩, 加計印刷, 2011)pp.171-188
・「酒呑童子の誕生 もうひとつの日本文化」(高橋昌明, 中央公論新社, 2005)
・「酒呑童子異聞」(佐竹昭広, 岩波書店, 1992)
・「御伽草子の精神史」(島内景二, ぺりかん社, 1988)pp.103-163
・「お伽草子」(福永武彦, 永井龍男, 円地文子, 谷崎潤一郎/訳, 筑摩書房, 1991)※「酒呑童子」pp.176-202

記事を転載 →「広小路

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2018年12月 1日 (土)

鎮守の森と神社

連休中は滋賀県にいた。湖東平野は広く、鎮守の森が点在している。その多くに神社の鳥居が見えるのである。実際に綿向神社というところに連れて行ってもらった。記憶の限りでは平野部の少ない島根県石見地方には鎮守の森らしきところはなかったと記憶している。鎮守の森は民俗学的にも、また環境保全的にも重要な役割を果たしているので、実際に行けたことはよい経験になった。

滋賀県蒲生郡日野町の馬見岡綿向神社

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2018年11月11日 (日)

快童丸と金太郎――坂田金時と嫗山姥

◆芸北神楽

 芸北神楽の新舞に「山姥(やまんば)」という演目がある。山姥の子である怪童丸を源頼光の配下にして坂田金時の名を与え四天王が成立するという筋だが、元ネタは近松門左衛門の浄瑠璃「嫗山姥(こもちやまんば)」からだろう。

「山姥」
 源頼光は渡辺綱を連れて東国の凶賊を征伐するべく旅を続けていた。信州明山(あけやま)にさしかかったところで日が暮れ、一夜の宿を求める。
 宿の住人は女姿の山姥とその子である怪童丸であった。二人は頼光らが近づいてくることを察して待ち受ける。
 一夜の宿を求めたところ、「我らは北面の武士、坂田時行の妻子である」と怪童丸が不意打ちしてきた。頼光と綱は攻撃を防ぎ、怪童丸を打ち倒す。その様を見た山姥は降参、元は素性確かな者であるので、せめて怪童丸の助命を望む。頼光は山姥も助命し、怪童丸を家来に加える。かくして坂田金時が誕生した。

◆嫗山姥

「嫗山姥」の粗筋を以下に示す。頼光の許に四天王が集う筋となっている。謡曲「山姥」の影響を受けているとのことであるが、快童丸は謡曲「山姥」には登場しない。また、山姥が家を空ける際、奥の一間は見てはならぬ(結局、覗いてしまう)という件は謡曲「黒塚」を連想させる。坂田金時の幼少時代を山姥の子、快童丸としたのは「嫗山姥」に由来するとのこと。

(第一段)
 名剣を求める源頼光は小夜(さよ)の中山に宿をとる。清原高藤は今の天皇の外戚で右大将に成りあがっていた。頼光と高藤は泊まる宿で諍いを起こす。渡辺綱がいきり立つが、讒言を恐れた頼光が押しとどめる。今度は平正盛が邪魔をするが、渡辺綱が一喝する。正盛の家臣の物部の平太が坂田忠時という浪人侍と口論し討ち取った。敵持ちの平太を高藤が匿う。旅籠に奉公していた喜之介と小糸はそれを聞く。近づいた喜之介が抜き打ちに斬る。喜之介は小糸を抱え逃げる。喜之介は頼光が泊っている宿に駆け込む。頼光は喜之介の剣を髭切・膝丸を名づける。喜之介は髭切・膝丸を頼光に献上する、頼光は喜之介を碓氷定光と名乗らせ仕えさせる。正盛、高藤の配下と乱闘になる。頼光は綱と定光を従えて退場する。正盛、高藤は力なく逃げ去る。

(第二段)
 岩倉の大納言兼冬公の息女である澤潟(おもだか)姫は源頼光と結婚の定めであったが、頼光は高藤の讒言で行方をくらましていた。坂田時行は煙草売りの源七と名を変え、仇討の機会を狙っていた。源七を兼冬のお局が呼び姫の心を慰める。三味線の音を聞きつけたのが傾城の右筆・八重桐だった。坂田時行は父の仇を討つため八重桐と縁を切っていた。八重桐は時行の妹・糸萩が碓氷定光の助力を得て仇を討ったと知らせる。妹に先を越された時行であった。悟った時行は短刀を腹に刺して自害する。自分が死んで三日の内に八重桐の胎内に苦しみあれば我が魂が宿ったと心得よ。十月をもって神変稀代の勇力の男子となって今一度人間界に生まれ出よう。そなたの身も今日から常の女とは異なり飛行通力を得るだろう。深山深谷を住家として生まれる子を養育せよと言い残す。そこへ高藤の手の者が澤潟姫を奪おうと入ってくる。が、八重桐が怪力で防いだ。

(第三段)
 清原の右大将は平正盛に加担し、源頼光を讒訴する。頼光は美濃の国の能勢(のせ)の判官仲国の許に忍んでいた。小侍従の冠者丸という者がいた。渡辺綱と碓氷定光が頼光の前に進み出て、諸国の御家人を駆り集め咎なき旨を奏上するべしと述べる。頼光は二人は伊勢路と紀の路へ赴くべし、自分は北陸道の源氏の勢力を集めようと答える。能勢の判官が綱の武勇にあやかって冠者丸に盃を下されと申し出るが、母親が泣いて興ざめとなってしまう。母親は自分は頼光の父・満仲公に仕えていて源氏の種を授かったが、不興を買って判官殿に下されて妻となった。冠者丸は元は頼光の弟であると述べる。頼光、綱、定光共に袖を濡らす。頼光は悪い様にはしないと答える。判官はたとえここで頼光を助けても、右大将の目の届かないところに逃れさせられまいと考える。頼光の首を獲って冠者丸を源氏の大将となすべきか、否、冠者丸の首を討って頼光の御難を救うべし。冠者丸は遺書を残して討たれる。そこに右大将の使いの侍がやってくる。遺書を読んだ判官と母親は涙に暮れる。

(第四段)
 源頼光は判官夫婦の情けで命拾いをしたが、また落人となった。美濃の国と近江の国の境までやって来た。頼光を追いはぎの大将が待ち構える。が、頼光は不敵にも岩を枕として臥す。追いはぎは神武智勇の名将の威光に押されて身震いしてしまう。これまで一度もこんな不覚はとらなかった。そなたは何者だと問う。頼光は自ら名乗る。追いはぎは自分は卜部の熊竹という山賊の頭だと名乗った。今後、一命を投げ打ち君に仕えましょうと答えた。頼光は卜部の末竹の名を与えた。

 頼光一行は信濃路で道に迷う。末竹が柴を刈る女に道案内せよと言う。女はここは難所で泊っていきなされと答える。頼光は山姥の住家ではないかと思う。だが、奥の一間は覗くなと言いおいて山に入っていく。主従が奥の一間を覗き見たところ、五、六歳の童児がいて、身体の色は赤く、産毛は四方に乱れ、鹿や狼や猪を喰らっていた。これは知らずに羅刹の国に来たかと身の毛がよだつ。頼光は膝丸を抜いて打ったが、女はひらりと外した。女は鬼女の姿を現した。鬼女は身元を明かす。元は遊女の身で坂田の何某と契を結んだが、夫の父を物部という者に討たれ、仇を討つために別れた。夫は妹に先を越され、親の仇を討たずとなった。また、そのために源氏の大将が漂泊の身となった。この鬱憤は晴れない。腹をかき切ってその魂魄が鬼女の胎内に宿り、日本無双の大力一騎当千の男子と生まれた。鬼女は人里離れた山奥に住む内に角が生え、山姥となったと語る。どうか、父時行の一生の本懐を遂げさせ、頼光の配下として欲しいと願う。そこへ綱と定光がおし分けてきたので、頼光は経緯を詳しく語り、末武に引き合わせ、快童丸と主従の契約を結ぶ。快童丸は愛嬌があって凄まじい。山姥は快童丸の強力を頼光一行に披露する。快童丸は坂田金時の名を賜った。

(第五段)
 近江の国高懸山に悪鬼が住んで民を悩ませていた。頼光は一行を連れて険阻な高懸山に登る。二丈あまりの鬼が出るが、名剣髭切の前には通力も失せ、頼光一行に討ち取られてしまう。鬼の大将を金時が怪力でねじ伏せ捕らえる。上洛した頼光たちは佞臣の実否を正されるべく奏上する。金時が捕らえた鬼が怒りおめき、帝たちは恐れおののく。鬼退治の恩賞で頼光は出仕の許しを得たが、渡辺綱がまだ洛中に平正盛という鬼が讒訴していると訴えた。だが、聞き入れられそうにないので、鬼の綱を緩めようとしたところ、待てとなった。もう一人の清原の右大将高藤は大悪人の鬼神の棟梁もいただこうと、つけ加える。高藤は姻戚なので、いかに罪科があったとて叶うまいとなった。高藤が四天王を挑発する。中納言兼冬は頼光をともない参内し、帝の感じ入ること麗しく、源氏の本領は元通りで鎮守府の将軍に任ぜられた。右大将は鬼界が嶋へ流され、正盛は鬼神と共に誅すべしとなった。

◆第四段

 頼光と快童丸の出会いは「嫗山姥」第四段に描かれている。芸北神楽の新舞とは異なって、バトルは無い。つたないながら、関連する箇所を訳してみた。

一心に思いつめて生まれかわった鬼女というのか、人は陸奥の信夫(しのぶ)の山に有るかとすれば今日甲斐嶺(かひがね)木曽の山。昨日は浅間伊吹山。比良(ひら)や横川(よかわ)の花ぐもり。雪を担って木こりの通う花の陰。休む重荷に肩を貸し(自分も担いでやり)、月を伴う山路には、雪月花を弄ぶ。自分の風雅な心は卑しい人間には分からず目に見えぬ鬼と人が言うのだろう。そう言うなら言うがよい。かまいはしない。よし足ひきの山姥が山巡りするのが苦しい。暮れるのも早い山陰に頼光たちは行き暮れて、道なき方向に行き誤り、里はどこかと誰にも問うことができずお立ちになる。お供の末竹が当たりを見回し、あれに柴を刈る女が休んでいるから人里は最早遠くない。都合のよい案内者だ、これ女、この山は何と言う。麓の里へ下る者を導けと言ったところ、是は信州上路(あげろ)の山の頂上。ご覧のごとく道もなく麓の道とて、東北は五十余里、秋田の地、幾重の谷峰、縄を渡して橋となし、恐ろしや唐土(もろこし)の蜀川(しょくせん)天竺の流砂。葱嶺(そうれい:パミール高原)とやらの難所にも勝るとか。北は越後越中の境川。是も谷二つ超え、十里に余れば今日中には思いもよらず、我らの家に泊めたくございますが、いずれも若き殿たちこの柴を刈る住家はお嫌であろうという風情。つたない山人の薪に花とはこれだろう。頼光うち笑み(イヤ)それは逆である。あらあらしい若者共、そなたこそ大して爽やかにならないだろう。行き暮れた山道芝刈りはおろか山姥の住家でも心配ないとおっしゃれば、はっと驚く。さては自分が山姥と見えたか。山姥とは山に住む鬼女。鬼であろうとも人であろうとも山に住む女であればよい。私を山姥とご覧になるのも道理だ。そもそも山姥は生地も知らず宿もない。ただ雲と水を頼りにして山の奥に至り、人間ならずとも恐れると。ある時は山柴(やまがつ)を担いだ山路の疲れる肩を助け、里まで送る折もあり、またある時は織姫の多くの機を立てる窓の梅の枝の鶯が糸を繰るように枝を飛び回り、糸を引き出して巻き付けたり、綿花のさねを取り去ったり、つむいで糸を取る宿に身を置き人に雇われ手間仕事。櫛さえ取らない乱れ髪。女の鬼と言われるのはもっともで、世を言い起こす、世を憂く思うその蝉の抜け殻のごとき美しい着物。千声万声の砧の声にしっていしってい、しっていからころ槌の音。木魂に響く山彦も皆山姥の業(わざ)であると、思うも見るのも人の心。煩悩があれば菩提があり、仏があれば衆生あり。衆生あれば山姥もそう。どうして無いことがありましょうか。都に帰って夜話になさいませ。夜通し語り参らせましょうと庵に入る。小高い所を調え頼光をお招き申し上げたので、いやいや左様になさる者ではない。一夜の程は軒下にでも明かしましょう。と見て言ったところ、一人住みの女性、こちらへお構いなく。渡世の営みしなさいませと退出したので、いや紅は園生(庭園)に植えても隠れることはない(紅の花は花園に植えても目立つように高貴の人はそれと分かる)。大将軍の人品は区別がつかないということは無い。誠に源の摂津の守殿は清原の右大将の平正盛らの讒訴によって御身を疑いさすらいさ迷いになるとは。山の奥にも広く知れ渡っている。その人物と名乗りなされば、自分の身の上をも語りましょう。定めて旅疲れ、何をかおもてなししましょう。頃よく山々の木の実も皆落ちてしまった。実に思いついた、筑紫郡大宰府の山にいがぐりが一枝昨日まであった。是をとって来ましょうと表に出たが振り返り、必ずや奥の一間を覗き見てはならない、まもなく帰りましょうお待ちになってくださいと、岩根を踏むこと飛ぶ鳥のごとく山深く飛んで入った。末武が横手を打って、筑紫の大宰府までは五百余里。今の内に帰りましょう。あやつの仕方と言い分は初めから不可解だ。君の武功を抑えようと魔物や化物のなす所を追いかけて討ちとめようと駆け出したのを、やれ待て。変化と知ってたち騒げば心を奪われる。こちらは静まって却ってあやつを誑かし、さもあれかれの言葉に従ってなぶり殺しに退治しよう。奥の間を見ずにおくのも臆病だと主従が覗いたところ、あら凄まじいかな、五、六歳の童で全身の色は朱のようで、乱れ茂った産毛は四方に乱れて、餌食と思しい鹿、狼、猪を引き裂いて積み重ねて木の根を枕に臥した様は誠に鬼の子の様だ。知らずに我ら羅刹国に来たかと身の毛がよだつばかりである。時を移さず主の女が栗を手折って肩にかつぎ帰るところを頼光は膝丸を抜き放し、はたと打てばひらりと外し、ちょうど切ればはっと開きし去って顔つきが変わった。角は三日月、両眼は寒い夜の星と輝いた。怒れる面にはらはらとこぼれる涙に暮れながら、情けない恥ずかしいと恨みのない我が君に仇を成そうとも思わなかったけれど、太刀の光に驚いて本性を現した。この上は枯野のすすき穂に出て力ない身の上を懺悔すべし。自分は元は遊女の身でありました。坂田の何某と幾世をかけた契りの中で、夫の父を物部という者に討たれ、その仇を討つため梓弓の様に離れ離れの別れとなりました。夫の運が悪く、妹に先を越され、親の仇を討たないのみか、その事故に源氏の大将が漂泊の身となってしまった。この世のこの身でこの鬱憤は晴れ難い。腹かき切って魂魄がお前の胎内に宿り、日本無双の大力一騎当千の男子と生まれ敵の残党を滅ぼそうと天に訴え地に叫び、誓いの刃に伏した。それから我が身もただならぬ子を妊娠し、望月の影の深い、人里離れた山に籠ったところ、いつの間にか山を巡り一心に思いつめた結果、鬼となって角が突き出て、眼に光を帯び、邪と正とは別々のものではなくて、一つの心から出たものだから、もとは同一だと見る時は、鬼でもなく人でもなく名は山姥の山巡り。春は三吉野、初瀬山、高間(たかま)の山が白く見えるので、桜と見まがう霞も桜かと思って花を尋ねて山巡りした。秋は澄んだ空の色。どこも同じく照らす月光の影も更科の姥捨山の名を愛でて、月を見る方にと、山巡り、冬は冴えゆく比良(ひら)が嵩(たけ)。越の白山しぐれ行く雲を起こして雲に乗り、雪を誘って山巡り巡り巡りて我が君に巡り合ったのも我が夫の念力通力神力にて。渡辺綱、碓氷定光をただ今ここへ招くべし。ああなんとかして我が子をも譜代の家臣とお思いになって、敵征伐のお馬の口をも取るならば、父が一生の本懐を遂げ、母である鬼女の苦悩を逃れ、成仏して涅槃に至るのは疑いなし。この世とあの世の苦しみ助かるのも只、大将のお慈悲と角を傾け手を合わせひれ伏して泣いた。このような所は綱と定光が木と草を押し分けて(ヤア)我が君ここにいらっしゃいましたか。両者とも今夜は信濃路を通ったので。誰が言うともなく源頼光は、此の山のあそこに、あの谷のこちらにと手を取って引くように意識せず此処まで参ったと申し上げたので、頼光は鬼女の人知ではかり知ることのできない不思議な変化を詳しく語り、不思議の思いをなされた。さて両人を末武に引き合わせ、この上は女の望みに任せ、お前の子供に主従の契約をしよう。ここへ呼びよせよとおっしゃったので母は喜び、快童丸、快童丸と呼んだところ、あいと答えてつっと出てどっかと坐した顔の色。のう母(かか)様あれはどこのおじ様じゃ、土産を貰おう嬉しいと手を叩いて喜んで愛嬌あって凄まじい。あたかも愛染明王の笑い顔かと見間違える。母が立ち寄って(やい)ぶしつけもの、あの方は常々言い聞かせた源頼光様。今日よりそなたの殿様。ご奉公に精出しましょうと申せば去ろうと教えられ、はっと手をつき一礼した。随分奉公念入りにし、敵の首いくつでも引き抜いて上げましょうと将来が見えた大言壮語にお悦びは深い。母は重ねてあの岩窟に熊猪を追い入れ置きました。折節、力を試しみれば、ご覧になされ、あの様に引き裂いた。これお目見えの印に相撲を望むと言ったところ、ずんどと立って岩屋の口に立てた岩を軽々と取って投げのけて両手を広げてつっ立つ所に荒々しい熊が飛んで出たのをどっこいよしきたとばかりにしっかと抱く。熊をものともせず捩じつけようとするけれども、一向に動かない。絡みつけば無理やりに放し、組み付けば押し伏せ、うめいた喉笛を二つ三つ叩きつけ、ひるんだところを取って押さえ、片脚を掴んでくるくるくる、二、三間かっぱと投げて(ああ)くたびれた。乳が飲みたい母(かか)様と母の膝にもたれる。頼光は甚だしく喜び、世に例無い強力、さすがこの母の子だったよなと。即ちただ今元服させ坂田金時と名づけ、四王天の四天を表し定光、末武、綱、金時。頼光の家の四天王、四方八方の賊徒と切りなびかせよ。源氏の威光を四方の海に照らす印だぞと。

◆快童丸と金太郎

 鳥居フミ子「金太郎の誕生 遊学叢書21」(勉誠出版)を読み終える。

 坂田金時は源頼光の四天王として有名だが、その金時の幼少時を語る物語として金太郎の昔話がある。御伽草子の「酒呑童子」での鬼退治で坂田金時の名がクローズアップされる。

 酒呑童子は江戸時代における新興の芸能である浄瑠璃で盛んに上演されるようになった。しかし、この時点では、金時の幼少時のエピソードは全く語られていなかったという。中世の能「山姥」にも山姥の子であるという発想は無いとのことである。

 十七世紀に創作された「源氏のゆらひ」という演目に金時の父が登場する。そして十一歳の頼光と十五歳の金時という臣下の関係が誕生するとのことであるが、これはそれ以降発展することがなかったようである。

 それから金時の子、金平というキャラクターが生まれ、好評を博する。そして金平の父である金時の出自を語る際に、山姥の子であり、山中で暮らしているという設定が生まれる。

 「前太平記」では坂田金時は二十歳ばかり童形の姿であり、母の山姥が赤龍の子を孕んで誕生したとしている。それは「史記」で漢の高祖が龍の子であるとされている故事を援用したものとなっている。このとき金時を「くわいど」――つまり快童のことであろう――と呼んでいるのである。こうして金時の出生譚が広く民間に流布していくことになるのである。

 この金時出生譚が近松門左衛門の「嫗山姥」で更に発展する。八重桐という遊女が信州の山中で山姥となり、夫の魂魄を孕んで快童丸が誕生したとするのである。ここで金時の幼名として快童丸の名が登場することになる。童子は全身朱色で、鹿・狼・猪を食い散らかす野生児として描かれている。そして頼光の家臣として召し抱えられることになるのである。

 この快童丸が草双紙でイメージ化され流布することになる。そして同時に金時の幼名が快童丸から怪童丸へ、そして金太郎へと変遷していくのである。そこではマサカリを抱えた金太郎が熊に乗っているという図式で語られていくことになる。ここで、家来の獣たちを従えた足柄山の野生児である金太郎のイメージが確立される。

 また、草双紙のみならず、浮世絵でも金太郎と山姥のイメージが広がっていくのである。ここでは山姥は美人として描かれ、美人画を規制されたことによる反動が見られる。

 そしてこの金太郎のイメージは明治時代になっても引き継がれ、豆本という形式で児童の間に拡がっていく。そして厳谷小波が「金太郎」というタイトルの昔話で金時の幼少時のエピソードを再話することで、金太郎の昔話における地位は確固たるものとなっていく。折しも明治時代は富国強兵の時代であり、金太郎の持つ尚武のイメージが好感された。

 以上のような形で坂田金時の幼少時のイメージは金太郎という野生児のイメージとして確立されていく訳である。野生児である金太郎が成長して源氏の家臣となり、鬼退治、妖怪退治のスペシャリストとして名を馳せていくというイメージはかくのごとく、様々な芸能、媒体で展開されることによって成立していったのである。

◆国民伝説類聚

 「国民伝説類聚」に収録された伝説では、山姥が赤龍と交わって怪童が生まれたとしている。これは史記にある漢の高祖(劉邦)の誕生時の逸話を元にしたものである。それほど特異な生まれであることを強調しているのである。

◆動画

 YouTubeで大塚神楽団の「山姥」を視聴する。台詞が多く、農民歌舞伎の要素を感じさせるかと思わされた。

◆余談

 「嫗山姥」に登場する怪童丸は獣の肉を貪り食う恐ろしい姿として描かれているが、一方で「なう母様あれはどこのをぢ様ぢゃ。みやげもらはう嬉しいと」と可愛らしい一面も覗かせるのである。

◆参考文献

・「近松浄瑠璃集 下 日本古典文学大系50」(守随憲治, 大久保忠國/校注, 岩波書店, 1959)※「嫗山姥」pp.176-226, 379-385
・「国立劇場上演資料集<417> 歌舞伎十八番の内 鳴神・忍夜恋曲者・嫗山姥ー八重桐廓噺」(国立劇場調査養成部芸能調査室/編, 日本芸術文化振興会, 2000)pp.192-196
・「謡曲叢書 第三巻」(芳賀矢一、佐佐木信綱/編, 博文館, 1915)※「山姥」pp.502-509
・「かぐら台本集」(佐々木順三, 佐々木敬文, 2016)
・「説話文学研究叢書 第一巻 国民伝説類聚 前輯」(黒田彰, 湯谷祐三/編, クレス出版, 2004)pp.182-191

記事を転載 →「広小路

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